占い

占いコーナーはいらない?

マツコ・デラックスさんが、「もう、そろそろいらないもの」というテーマで、「朝の占いコーナー」を、そのひとつにあげられていたということです。

テレビだけではなく、最近ではブログとかSNSでも、毎日のように占いをして、掲載されている方がたくさんいらっしゃいます。

その目的は、毎日占いをして、純粋に皆さんに何かの参考にしてもらいたいと思っている人もいれば、自分が占い師であったり、占いサロンなど経営されたりしていて、占いビジネスに関わっていることで、その集客や宣伝のためという場合もあるでしょう。

また、自分の占い技術を高めるために、修行的な意味でやっていらっしゃる方もあるかもしれません。

そして、見ているほうも、テレビや雑誌等で、たまたま流れていたり、書かれていたりするため、なんとなく目に入ってしまうという人、いつの間にか習慣のようになってしまって見るようになった人、占い好きで、自ら好きな占い師さんや、興味のある占い技術のページを積極的に見て参考にしているという人など、受ける(占いを見る)側にも理由は様々です。

占いを提供する方・される方、どちらにもいろいろな目的や理由があるので、いわゆる「世界のバラエティさ」として、材料や情報はたくさんあったほうが選択の幅とか、文化の多様性とか、そういう観点でも面白いと思いますから、占いを提供する・見ることが日常的にあってもいいとは思います。

しかし、中には、科学的に見て、何の根拠もない占いを垂れ流しているのはどうか(特に放送では)、という意見があるのもうなずけます。

まあ、占術を勉強していくと、それは今の見方では非科学的ではあっても、象徴システム別の体系と論理では合理性があることがわかってくるのですが、それは今の時代のノーマルでは理解できない話なので、一般的にはうさんくさいものと思われるのも仕方ないところがあります。

それでも、テレビなど、メディアがやるということは、単純に言えば、それだけ需要がある、つまり一般でも見たいと思う人がたくさんいるからだと推測されます。

巷でも、占いサロン・占いの館は、まだまだビジネスとしても成り立っており、それだけ消費者、占いに行く人、占いで自分のこと(悩み)を見てもらいたい人は多いということです。

これに個人でやっている占い師趣味で占いを勉強したり、実践したりしている人も含めると、占いフィールドというものはなかなか広く、市場としても無視できないところがあるのだと言えます。

どんなものでもそうですが、占い(それ)そのものより、占いを提供する側の姿勢や思い、使い方によって、受け取る側、提供される側の影響も変わってきますし、反対に受け取る側の思いと活かし方によっても、占いの意味が変化します。

今のように、エンターテイメントや視聴率稼ぎ、または枠埋め、つなぎのために、占いが利用されているのなら、マツコ・デラックスさんが言われるように、もうやめてもよいのではないかと個人的には思います。

なぜなら、テレビで提供される朝の占いなどの「占い」の質は、精度としも一般化しているために薄まっていますし、ランキングみたいに、運の良し悪しが強調される方法が取られることが多く、運に左右される人生という側面を無意識的に強化してしまうことがあるからです。(また、占いでさえも常に勝ち組・負け組のようにランキングされる、視覚的提供の問題性があります)

占いは、確かに占術によっては、運の流れを見ますが、良し悪しを判定するのが目的ではありません。

良し悪しに見えるのは、波のような「流れ」や「(宇宙の)法則」であり、それを良く取るのか、悪く取るのかは、置かれている状況、何を人生のその局面において重視し、達成したいかによって変わってきます。つまり、人間が自分の価値や生活状況によって、運というものの良し悪しを決めているのです。

運そのものにいいも悪いもなく、先述したように、それは、ひとつの法則であり、よいか悪いかは、繰り返しますが、社会の状況や個人が決めるようなものなのです。

最初はあまり気にしなくても、日常、習慣的にテレビをつけているうちに、占いコーナーを見るようになり、いつしか、とても気になるようになっていくと、それは、その人の中でリアリティを持ってきます。

テレビなどの占いコーナーは、すでに述べたように、運の良し悪しを際立たせる傾向が強いので(これもエンターテイメントとの兼ね合いがあります)、例えば、西洋星占いで、今日の自分の星座は最低の運でランクされていたとなると、気分的にも悪く、実際に自分で一日を悪くしてしまうことになるのです。

これが占いを見ていない時、あるいは、占いを信じていない時、または占いを見ていても、ただの番組の一コーナーとしてしか意識がない時は、運の良し悪しも気にせず、ニュートラルに、その日を過ごすことができます。

今の占いコーナーは、少なくとも、運勢的にネガティブな要素を必ず放送しますから(要するに、今日、運勢の悪い人というものがあるということ)、それに属するかなりの多くの視聴者が、気分を悪くして出かけたり、一日を過ごしたりすることになるわけです。

逆に言えば、運が良い人の分も放送されるので、そういう人たちは、ハッピーで過ごせるかもしれませんが、その人たちでも、明日になると、運勢は悪い部類に入れられるかもしれないのです。

結局、朝の占いを信じれば信ずるほど、毎日それに振り回されていくことになります。悪い言い方をすれば、洗脳であり、自分の行動や気分は、朝の占いが決めていることになります。

ここで当たり前のことを問いますが、皆さんそれぞれの、人生の「主人公」は誰で、人生は誰のものですか?

そう、自分自身ですよね。

それならば、たかが朝の占いコーナーで、自分の人生が決められるというのは、どうなのでしょうか?

いやいや、そんな大げさなことではなく、占いなんてちょっと参考にするだけで、影響はほとんどない(気にしていない)ですよ、という人が大半だと思います。

しかし、知らず知らず、毎日見ている中で、一部の人は、気にするようになり、それがリアリティを持つようになるのです。正しくは、自分が現実感を持たせるのです。

そうなると、文字通り、その人の「現実」に影響してきます。

一部の人と書きましたが、テレビなどのマスメディアになってきますと、そもそも見る人の数自体巨大です。一部であっても、無名の個人が書くブログなどの読者の比ではありません。

ライトなエンターテイメント、ただの番組のつなぎと提供側は思っているかもしれませんが、実は、意外に影響大なのが「占いコーナー」だと言えるかもしれません。

ポジ・ネガ(占い運勢情報)で、クルクル回されるよりも、朝からニュートラルな気持ちで、よいことも悪いことも最初から判断せずに、経験していくほうが、霊的・統合的な成長観点からもよいと、私自身は思います。

もし、占いコーナーをやるにしても、むしろ、ポジティブなことだけを放送する内容にしてみてはどうでしょうか。

例えば、月生まれ占いでも、一月生まれの今日のよいことはこれですとか、こういう見方をするとよいですとか、何かアドバイスになったり、発展的・創造的になったりするようなものを放送されるほうが、同じ洗脳されるにしても(笑)よいかと思います。

確かに人生はよいことばかりではなく、悪いと思うこと、ネガティブなこともありますし、注意や備えをしていたりしたほうがよい場合もあります。

だからネガティブな内容の占いも、注意喚起や修正の意味で、まずいわけではありません。

しかし、人類は全体的には、あまりにも今までネガティブなことをやったり、思ったりし過ぎたように思います。

だから、せめて占いにおいても、明るいこと、ポジティブなこと、良い方向になることを記したほうがいいのではないでしょうか。

あるいは、もういっそのこと、マツコ氏が言われるように、占いコーナーなどなくしてしまったほうが、本質的・全体的にはよいことになるのではないかと思います。

それは占いのフィールドとか、業界においても、長い目で見ればよいことだと感じます。


占いの世界で頑張る人に

私は、純粋な占いとしての技術のタロットは、ほとんど教えていませんが、場合によっては、必要なこともありますので、特にプロリーダー養成コースの中では、伝授している技法もあります。(求められればお伝えもします)

と申しますのは、やはり、タロットを対人援助的に使う場所としては、現実的には占いのフィールドが多いからです。

ここ(占いの現場)は、占いという、一見、非現実的なことを扱う場所ながらも、実は、いろいろな意味で、とても現実的なところです。

まず、占いの館などの場合、オーナーは人助けの意思でされている人もおられるでしょうが、営業・お店の部分もありますから、当然営利としてのお金が関係します。

占い師は雇われる立場になり、場所によっては、それこそ、営業セールスマンのように、毎月・毎週の売り上げ(人気)ランキングが貼り出されて、競争を意識させられることもあるでしょう。

また、占い師同士の激しい競争意識とか、売れている人への嫉妬の念のぶつかりあいとか、そういう激しい情念が渦巻くところもあります。

ともあれ、店内の争いはともかくして、お店側としては、厳しい言い方をすれば、どの道、お店の利益に貢献しない占い師には用はないというわけです。しかし、普通の仕事でも、仕事ができない人は、辞めさせられたり、厳しく扱われたりするものです。

逆に、人気の占い師は、いろいろとお店が便宜を図ったり、特別ボーナスの支給や扱いをよくしてくれたりします。まあ、これも私企業に勤める普通の社会の人と似たところがあるわけです。

ということで、経済的なことでの雇用の現実性が、占いの世界でも当然存在するので、現実的だと言っているわけです。

もうひとつは、占い師のほうではなく、相談に来られるクライアント側にも言えることです。

それは、巷の占い現場の相談内容は、まさに生々しく、現実めいた問題だということです。

もっと言えば、具体的なことが多く、人間の典型的な悩みといえる。仕事・お金、恋愛・結婚、人間関係、健康、運勢などの問題が如実に、あるいは赤裸々に語られるわけです。

たとえクライアントの言い方が抽象的であったり、柔らかな感じがあったりしても、悩んでいる相談者の心はかなり苦しく、どろどろしたものがあると言えましょう。そう、人間社会の(悩みごとの)縮図のようなもの(世界)があるのです。

日本には、ムラ社会の時代では、江戸時代に整えられた檀家制度もあって、お寺さんに悩みごとを相談できたり、そもそも近所づきあい、家族づきあいが色濃いものであったりしたので、悩みを打ち明ける機会は、今よりも気安くあったのではないかと想像します。

また、かつてのムラには、いわゆる年齢階梯制度による一人前になる仕組みがあり、年齢グループによって、男女別に集まり、夜に話し合ったり、泊まったりして、いろいろとムラの掟を学ぶと同時に、仲間意識を醸成し、悩みも共有したり、相談し合ええたりする雰囲気があったと言われます。

さらに言えば、仏様や神様と交流する霊的な機会が、祭ごと(祀りごと)として、季節のポイントの折々にあったので、霊的浄化やエネルギーの開放と充填もできていたところがあったのでないかと推測されます。

それで、話を占い師に戻します。

今、身近に、現実的・精神的なことを相談てきる場所が、意外に多いようで少ないのが現状です。

確かにスピリチュアルリーダーとか、セラピスト、カウンセラーとかいう人は増えてきましたが、そういう、いわば横文字的なものになってきますと、敷居が高くて敬遠される人もいます。(継続回数が必要なことがあるのと、料金が高額というのもあります)

しかし、「占い」となれば、相談としては、特に女性の場合は気軽に行ける人も多いでしょう。料金も予約制の自宅サロンでされている人とか、有名占い師さんは別として、最初はそれほど高額には設定されていません。

タロットを学習し、タロットを人に活かしたいとなれば、このような占いの現場で活動するという方法もあります。

ただ、先述したように、生の現場では、まさに市井の人の本当の悩み、現実的な悩みごとを相手にしなければなりません。そこには、空虚な理論や、いきなりのスピリチュアル的観点、精神論は受け付けられない場合もあります。

言い方は悪いのですが、占いの相談に来られる方は、自分の状況を実際によくしたいと飢えている、よい選択肢を強く求めているのであり、フワフワした抽象的な物言いでは済まないこともあるわけです。

タロットでいえば、講座やセミナーで学習する基本的なパターンの読み、教科書的な読みとか、展開法、リーディングが通じないことも多々あります。

私など、昔、占いの館に出ていた時、タロットを展開しても、タロットそのものを無視する(見ようとしない)人もいて、こうなると、タロットを自分の中に組み込んで、絵柄ではなく、タロットの教えとか象徴性を自分の言葉に変えて伝えるしかありませんでした。まるでエアータロットみたいなものです。(笑)

でも占いの現場は、悪いことばかりではありません。誰にも相談できず、偶然仕方なく、占いブースに飛び込まれてきた方が、救われたという話はよくあります。占い師側も、きちんと結果を出して評価されれば、お金として得ることもできます。

現実的なところだからこそ、現実の場所で救う(おこがましい言い方ですが)ことができるのです。とても大げさで、あえて美しい表現をすれば、後方の病院でなく、戦場に出て看護するナイチンゲールのようなものです。

占いは、具体的で現実的な救いの言葉、サポートが必要と言いましたが、しかしこれだけでは、占いの悪い部分として、クライアントに依存や運命論信者(あるいは、幸運・開運ばかりを異常に望み、選択しようとするアンバランス性)を生み出してしまいます。

喉が渇いた人にはお水を、お腹が空いた人には食べ物を、というのが占いの最初かもしれませんが、そこでひとまず落ち着いてもらってから、本当の要因や改善の方法に入っていくことも、占い師としては求められるかもしれません。

つまりは、それは精神・心理レベルの話であったり、サイキックとは別の、霊的な成長の話であったりします。

おそらく、かつてはそういうシステムでお寺とか神社、時には地域の霊的能力者・拝み屋さんのような人(悪意のない場合の人)が、市井の人の悩みに応え、やがて、その悩みを超えて、仏や神の道、霊性の向上へと導かれるように、説いていたのでははないかと思います。それは今でいうと、終活も兼ねていたのかもしれません。

占い師さん(それを志す人も含めて)は、なかなか厳しい世界だと思いますが、皆さんの志次第で、今の現実的問題の解決を示唆しながらも、もっと高いレベルへと相談者の方々を導き、志向させることもできるのではないかと思います。言ってみれば、現代の遊行僧、市井に降りた巫女的な者なのです。

どうぞ、占い師の皆さん、頑張ってくださいませ。


タロットの能動的・受動的活用

「する」と「される」と言わるように、行動的にも認識的にも、能動と受動、積極と消極があります。

感じとしては、能動・積極のほうがいい気はしますが、これも宇宙の二元原理としてみれば、どちらも必要なもので、元はひとつだったものが、表現を変えただけに過ぎないとも言え、まさに、見方次第で、どちらともいい・悪いになるものです。

ところで、タロットの場合も、タロットをする、タロットをされる(してもらう)という言い方ができます。

例えば、自分でタロットを使ってリーディングしたり、自己活用していくのは、能動的で、タロットをする、タロット使うと言えます。反対に、誰かタロット占い師やタロットリーダーに見てもらう、助言してもらうというのは、受動的なものかもしれません。

それでも、このどらちの側にも、やはり能動と受動はあるのです。

タロットを自分に使う場合でも、出たタロットを運命的なものと見て、今から必ず起こることと考えたり、タロットで示されたことは絶対に従わねばならないと思ったりしていると、それはタロットに対して過度の受動・受容、いや、もっと言うと盲目的になっていると言えます。

そして、タロットを受けに行く側でも、ただ運命を聞きに行く、占い師の言う通りに依存的に従うみたいな態度では、これも受動の中の受動過ぎで、逆に、あくまでタロットリーダー・占い師の助言を参考にして、情報のひとつとして扱い、自分を向上させたり、癒したりするうえで効果的に活用するということであれば、積極的・能動的と言えます。

ということで、一口にタロットを活用すると言っても、その態度や考え方によっては、能動にも受容にも、さらには解放的にも束縛的にも使えることになるのです。

さて、どちらかといえば、いわゆる「タロット占い」は相談する者からすると受動的で、タロットリーディングは能動的なものと考えられます。

ひとつの例で言いましょう。

あなたは恋人やパートナーがほしいと思っています。それで、具体的にそういう出会いのチャンスがある時期と、どんな人が自分に合っているのか、また出会う可能性のある人なのか、タロットで見てほしいと考えてもいます。

そこで、タロットができるという人に実際に見てもらうことにしました。

一人はタロット占い師で、結構当たるという評判の人、もう一人は占いとは少し違うタロットリーディングを行っている人の二人に見てもらうことになったとします。

占い師さんのほうは、さすがにバシバシとタロットを展開させ、チャンスは今年の10月、それを逃すと来年の春、特に4月くらいにまたやってくると言い、出会う人は、新しい仕事関係で知り合った人の紹介してくれる方となるでしょうと占ってくれました。

かなり具体的で、チャンスも二回くらいありそうだと、希望も持てそうになります。

そして、もう一人のタロットリーダーにも見てもらうと、この方は、確かにタロットは展開するのですが、タロットリーダーがカードを選ぶのではなく、相談者側の自分が選ぶ(引く)ように促され、しかも、出たカードが出会いの時期とか出会う人を示すのではないことも告げられました。

「ええー、どういうこと? もしかして、この人当てられないの、読めない素人さん?」とちょっと疑いの目を向けます。

すると、タロットリーダーの人は、「あなたが選び、決めるのです」と言い、あるカードで示された時期の出会いの可能性を、自分でセッティングするよう、心に刻み込むことが必要と説明するわけです。

このタロットリーダーは、さらにカードを引くように促し、今定めた目標に向かってできることを、出したカードの象徴性をもとに、一緒に考えていくように指示してきます。

こうして、気が付けば、どうすればパートナーに会えるのかの設計図、計画図ができあがっていたという次第です。

つまり、自分で出したカードによる、具体的な時期と人について、目標設定・プランニングを行う作業をするということでした。一種のイメージコーチングみたいなものです。

人情的には、タロット占い師がやってくれたように、相談する側に時期や人を予言してくれたほうがいい気はしますが、これは見方を変えれば、受動的で依存的、出会いの運命をただ見てもらうというのに等しいです。

一方のタロットリーダー側の行った方法は、占ってもらってはいませんが、自分の意思と力で、未来を創造していくという積極性、能動性があります。ただ、人によってはあまりワクワクしないかもですし、ロマンチックでもないです。(笑) しかもその計画をきちんと実行するかは、まさに自分にかかっているので、何だか自分が試されているようで厳しい気もします。

人は未来を告げられたい、運命というものに翻弄されたいという意外な欲望・願望もあるのです。(このことは、案外知られていません、マゾ的願望と言ってもいい部分です(苦笑)) 自分で何かを作り上げるということは、面倒で手間でもあるのですね。

ということで、ここでも、別にどちらかがいいか・悪いかを述べているのではなく、自分にとって、あるいはその時その時によって、能動・受動どちらの選択がいいか、合っているのかということです。

また、タロットをする側にとっても同じことが言え、自分は相手にどのようなタロット表現をしていくのか、するのかを選択していくことができます。タロットはこうあらねばならない、こういう使い方をしなければならないというものではなく、本来は自由なものだと思います。

そのうえで、自分の目的や意思を明確にし、その技法や扱いの選択への理由が必要だとも言えます。(特に「する側」のほう)

そういえば、夏至を迎えました。夏至は一年のうえでも、時のポイントとして重要なものです。

このあたりにタロットを引いて、創造的に未来を創ることの指針にするのか、占い的にどういうことが起こるのかとか、今後、冬至までの運勢の流れや傾向を見てみるとか、自分の興味の方向に従い、タロットを活用していくのもありですね。

 


占い師の人でタロットを習いたい人に。

タロットと言えば、占い(のツール)だと一般には思われているうえに、占い界でもタロットはよく使われる道具と技術なので、占い師になる方は、ある意味、必須の習得技術・ツールのようになっています。

占いには、命(めい)・卜(ぼく)・相(そう)という有名な種類分け(区分)があり、占い師は、この3つを習得すべしと言われています。

相占はちょっと特殊なので(と言っても、相占のひとつ、手相をやる人は多いうえに人気ですが)、ポピュラーなのは、命占と卜占のふたつを(習得し)組み合わて行う占いです。

例えば、東洋系では四柱推命と易、西洋系では西洋占星術とタロットです。そう、タロットは卜占に当てられています。

タロットは易とは違って、絵のついたカードを使うので(イーチンタロットという易的なタロットがあったり、易の卦をタロット化した使い方をする人もいたりしますが)、なじみやすく、人気で、相手に伝えやすいとも思われていることもあって、易は知っていても、タロットをまた習う人も少なくないようです。

しかし、占いの世界では、お客様や相談者から求められるのは、当たるということ、または、よいほうの選択など、具体的な答えということもあって、意外に象徴的に考えるより、具体的・記号的な物事の思考(決めつけ)をする人がいらっしゃるわけです。

タロットで言えば、正しい答えを欲する傾向にあり、「この展開では、また、このタロットカードが出れば、どう読めば正解なのか?」ということを求める人になります。

このような、ひとつのことにひとつの答え、カードの読み方に正答があるという思考は「記号的」なものであり、タロットが象徴でできていること、象徴の体系・システムにあることが理解できていないことを意味します。

もちろん答えがないわけではないのですが、その答えは象徴的なものなので、いくつもの次元や層の異なった答えがあり、その選択と導きを考えないといけないものなのです。

そもそも、ほかの占い技術(理論)も象徴が基本のはずですから、根本的には同じだと考えられるのですが、先述したように、実際の占い現場では現実的な正答的回答(アテモノ的ともいえるもの)を求められることが多いので、そう(記号的な思考に)なってしまうのです。

それが一概には悪いとは言えませんが、結局、そうした当たる当たらないの世界の価値観でしか物事をとらえることができなくなり、現在生じている問題を、今より高いレベルや深い観点で見極める(理解する、悟る)ことができにくくなります。

言い換えれば、より大きな成長性・自由性・解放性を阻害すると言ってもいいかもしれません。

しかし占い界(現場)での現実問題、実際のところというのも、私も現場にいたことがあるのでわからなくもないです。

そこで私から提案したいことがあります。

タロット一本、タロットをメインとした占いをする方は別として、タロット以外の、特に命占を中心に学び、実践されてきた占い師さんは、タロットを本格的に勉強(タロット占いを)しなくても、タロットを活用する方法があるということです。

私はタロットが専門なので、その私が言いますが、タロットもほかの占い技術・ツールと同様、簡単なように見えても、使える(きちんと占えるよう)になるには、それ相応の学習と実践の時間、蓄積がいります。

しかし占い師さんの中には、タロットをバカにしている人、あるいはそこまでではなくても、タロットは理論的ではない(学ばなくても)感覚的に読む(読める)ものと思っている(から簡単で平易なものと誤解している)人もいます。

そいういう人は、タロットをわざわざ学ばなくても、今の自分の占い理論・技術でやっていけばよいのですが、どうも、占い師の雇い主さんとか、お客さんの人気や好みなどで、やむを得ず、タロットを習いたいという占い師さんもいるわけです。

ですから、そういう人に特にうってつけの方法なのです。

まず、命占を中心にした自分の確固たる理論的(実践してきた)占いをベースにします。お客様に提供する占いの基本がそれだということです。

それでひととおり、運気の流れとか、チャンス、注意事項など、これまで通り、お客様の質問に応じて回答していきます。

ただ、命占の場合、流れはわかっても、今、この時の状況そのものとか、恋愛などで相手の気持ちはどうか?というようなもの、短期的な選択事項、さらにはお客様の心の中の模様(気持ちや関心、本音と建前など)がわかりづらいかと思います。

また卜占の易であっても、確かに明確に正しい選択とも言える方向性を示してくれるでしょうが、「あるルール」に正確過ぎて、人間的な感情の揺れ動きや気持ちの所在などがわかりにくいところがあります。

つまり、運勢的に正しくはあっても、人間的な感情・気持ちについては、無視されるようなところもあるのです。

いや、結果が正しければいいではないかと思うかもしれませんが、人間は機械ではなく、気持ちがあります。思考(論理)と感情(気持ち)の両方が腑に落ちて、本当の意味で納得するのです。頭だけでも、心だけでも、どこかしっくり来ないものです。

タロットは人間などが描かれた絵柄であるので、そういった「人の気持ち」「心模様」を投影させることができます。簡単に言えば、映像として確認することができるのです。

マルセイユタロットは占い向きではないのですが、反対に、占い向きの部分もあり、それは人物がはっきり描かれていて、その視線も鋭いことです。ということは、人間の関心の方向性を視線などで読み解くことができるわけです。

ちょっと説明が長くなりましたが、要する、相談者や、質問に関係する人物の気持ちや現況を、絵として確認するために使えばよいということです。

タロットを詳しく読もうというのではなく、また詳しくタロット占いをしてあげようというのでもなく、単純に、今の気持ちはどうかとか、今の悩みの状況を占い師とお客様とで、絵として確認するためのツールとして使用するというものです。

占いの確かな部分とか質問に対する回答やアドバイスは、自分の今までやってきた占いの技術と方法でやればよいのです。

ただ、お客様の心を安心させたり、気持ちの有り様を絵で確認してもらったりすることに、タロットを使うということです。

まあ、そういう使い方だけであっても、一応の基本の見方を学ぶ必要はありますが、それでも本格的なリーディングとか、タロット占いをするわけではありませんから、一日、二日あれば、その程度のものならばできるでしょう。

もしご希望があれば、(タロットを知らない)占い師のための、簡単なタロットの使い方講座(本格的なタロットリーディングやタロット占いを教えるのではなく、タロットを今の自分の占いとどう組み合わせて使えばいいかということを中心に解説・実践するもの)をやってもいいかなと思います。


タロットの示す未来

私自身は、今はほとんどタロットを占いとして行うことはありませんが、タロット占いを否定しているわけではありません。

占いは占いで、エンターテイメント性もありつつ、本来は深淵なものであり、また、人々の現実的な知りたい欲求を満たすにも有効な方法です。

問題は何事もそうですが、それが絶対であるとか、占い鑑定の判断に頼りすぎる(依存する)ことに問題があります。

つまり、シンプルに言えば、「人生は自分が選択権と決定権を持つ」という自覚(と責任)があれば、占いもよい指針になるということです。

ところで、タロットを占い的に見る場合、過去(を意味する部分のカード)よりも、どうしても未来(を示すカード)に目が行きがちです。

逆に、タロットを展開して、カウンセリングや自己洞察に使う時は、過去に重きが置かれます。

とはいえ、どちらにしても、もっとも重要なのは「現在」です。

しかし、それでも気になるのは「未来」の部分(と決めた設定)のカードでしょう。

そもそも、未来とは何なのでしょうか? ここであれこれ説を提示しても、長くなるだけですので書きませんが、ともかくも、ここでは、「まだ到来していない出来事」としておきましょう。

そうなりますと、未来はひとつとは限らないのかもしれません。よくSFなどでは、未来は無数に分かれた「世界線」のようなものがあると言われます。

今を分岐点にして、様々に未来像があるというわけで、言い方を換えれば、同時に存在する様々な世界が、未来に無数に存在しているとなります。いわゆる並行世界というやつです。

この考え方を取り入れると、結局、未来の多数の並行世界の中から、実際自分が経験する、ひとつの現実を選択していることになります。ただ、「選択している」のか、運命のように「与えられている」かの議論はあるとは思います。

いずれにしても、多数ある中からひとつになってしまうわけです。

ひとつにしてしまうのには、いったい何の力が働いているのでしょうか? 因縁なのか、強い意志なのか、運命や超越的な存在が選ばせているのか・・・それは私にもわかりません。

でも、もし、自分が選んでいると仮定するのなら、「現在」の自分が選ぶと考えるのが妥当で、ここからも、実は「現在」の自分の意識が重要だと推定されます。

まさに、未来を創るのは、今の自分だということであり、もしその、今の自分が過去からの影響を強く受けているのなら、最終的には、過去が未来を創っているとさえ言うことができます。

それゆえ、今に影響を(特に悪影響を及ぼしている)過去の思考や感情、データをクリアーにしておくこと、昇華しておくことは、未来にとっても大切だということがわかります。

ところが、タロットで未来カードを展開し、検証をしていくと、ほかのこともわかってきます。

それは、今起こっていること、経験していることは、未来になって初めてわかるのだということです。

いや、これは当たり前といえば当たり前のことなのですが、もう少し違った言い方をすれば、未来に起こることのために、今の出来事が用意されているという場合もあるのではないかということです。

例えば、ある勉強をしたくて(資格を得たくて)、とある講座で学び始めた人がいたとします。

そして、その人の(実際の)未来には、パートナーと結婚している自分がいます。

勉強を始めた動機、その当時の思いは、パートナーを得るためにしたわけではありません。仕事のためが主だったとします。

ところが、そこの同じ学習チームにいた人の知り合いと親しくなり、やがてはパートナーになったということであれば、結果的には、勉強とパートナー獲得とはつながりがあったことになります。

表面意識や現実意識(利害や計算を意識する通常意識)は、確かに、その資格取得の学習が目的でした。

けれども、別の自分(未来を予想できる自分と言ってもいいです)は、パートナーとの出会いを意識・目的としていたということも考えられるわけです。

もうひとつ、事例を紹介すると、ある人が、人生で初めてと言えるくらい、とても幸福な時間を過ごす時がありました。

ただ、それは長く続かず、その後、その人の生活環境が激変し、一般的には極めて不幸と言える状態になってしまいました

でも、この人は、その前にすばらしい幸福な時間を経験していたために、それを糧に、苦境を耐えていく決意ができました。

もし、仮に、前の幸福な時間がなければ、今の状況は耐えられず、死を選んでいたり、自暴自棄になっていたりしたかもしれません。

これを未来から逆に見れば、将来起こる困難な状況のため、用意された特別な時だったと言うこともできます。

また、自分の無意識は、将来を起こりうることを予想し、今の選択(経験)を促したと表現することも可能です。

ほかにも言えるのが、時系列的には幸不幸を別々に体験していますが、時間を超越した中では、幸不幸が同時体験であり、そのどちらの(一般的な)価値観でもない、自分の人生の「味わい」「奥深さ」ともいえるものを実感できた(統合できた)のかもしれないのです。

未来は自分の手でつかむものと言われますが、そうとも限らず、やはり縁であったり、運命であったりするような、自覚する強い意志だけで選ばれるものだけではない、何かのつながり、用意(未来から贈られる物語)があるとも考えられます。

そしてまた、単純に過去・現在・未来と時系列で3つに分けた「時間」ではなく、すべてつながっており、過去から未来へ一方向に流れている認識だけでは、説明のつかないこともある(反対に、時系列はない)と考えると、タロットの展開ですら、興味深いものへと解釈も変わってくるのです。

とにかく、未来はたとえ決まっていたとしても、選んだり、運んだりする現実の思いと行動は必要であり、役者や舞台は用意されないと「像」は「現実」にはならないと思います。


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