占い

マルセイユタロットへの占い関連の質問で

マルセイユタロットは日本でマイナーなのか、検索すると同じような記事とか、人の名前とか出てきます。

私もブログをまあまあ続けているほうですので、マルセイユタロット関連での検索ではヒットすることがあるようです。

そのため、時々、マルセイユタロットについてメールで質問を受けることがあるのですが、その中に、とても変だなと思ってしまう質問があります。

それは例えば、「マルセイユタロットは、ほかのタロットより、とてもよく当たるのは本当ですか?」というものや、「マルセイユタロットをやると霊感が出るらしいと聞いたのですが・・」などというものです。

思うに、これらはやはり、マルセイユタロットがあまり一般に知られていないということがあり、変な神秘性とか、特別感で誤解されているのではないかと感じます。

何か、普段はなかなか表に出ない秘宝、それを扱えれば、とてつもない力を得ることができるとでもいうようなイメージでもあるのでしょうか。(笑)

面白いことに、このイメージは、いわゆる聖杯伝説や失われたアーク(聖棺)伝説に近く、実はそういったことは、マルセイユタロットとも関連するものです。

とはいえ、マルセイユタロットを手にすれば、誰でも特別な力が得られるというわけではもちろんありません。

ましてや、占いが必ず上手なるとか、これでしか占えないというようなことはく、ほかのウェイト版(ライダー版)など、いわゆる一般的にはメジャーなタロットのほうが、むしろ「タロット占い」では適していると私は思っています。

その大きな理由は、「占い」で使っている人が多いタロットのほうが、その分「占い」分野での蓄積があるということです。

これには常識的理由と、目に見えない霊的な理由があります。

まず常識的に言えば、占いで使う人が多かったり、時間(歴史)が長ければ長かったりするほど、その技術・知識・経験は積み重ねられ、本やテキストでまとめられたり、講師や先生として多くの人を輩出していったりすることになり、それだけ世界の奥行きと広さが出るからです。

そしてもうひとつの霊的なほうは、目に見えない世界においても、ある種のデータベースが出来上がっていき、そのタロットを同じような目的(つまりここでは「占い」)で使うようになると、そのデータベースに無意識にアクセスしやすくなるという側面があります。

簡単に言えば、占いの直感力がさえ、見えない占いデータベースを利用しやすくなるみたいなことです。

マルセイユタロットの場合、占いというより、ゲームであったり、ほかの目的で使われることがあったので、マルセイユタロットで「占い」となると、皆さんが普通にイメージしている「占い」の方法や答えとは、かけ離れたものになりやすく、この意味では、私はマルセイユタロットは一般的な占いには向いていないものだと思っています。

ということで、マルセイユタロットを習えば、占いが上達するとか、占い的霊感が増すとかはありませんので、その点はご注意いただきたいと思います。

ただ、上記のことも、意味は異なりますが、まったく関係ない話ではありません。

それを説明します。

占いが上達すると言っても、これも一般的な意味での「占い」ではなく、普通の占いを超えた、あるいは別のアプローチによる相談技術・ツールとしてマルセイユタロットは使うと、総合的な意味で、「占い相談技術」がアップする可能性があることを言っています。

「これこれはどうなる?」とか、「相手の気持ちは?」とか、「どちらを選択すればよい?」とか、吉凶選択判断次元のものから脱した見方ができるようになり、表面的な良し悪しではない、心理的・個の魂的レベルでの向上性、方向性を指針として考察できるようになると言ってもいいでしょう。

いわば、占い現場では、ほかの占い師とは違う観点になり、占い師というより、変わったスタイルでの相談援助者ということになるかもしれません。ただ、それで人気や売上が出るかといえば、それはその人自身の考え、お店の方針や営業、お客様の層次第と言えます。

そして霊感の面ですが、これは霊が見えるとか、何か特別な能力でもって別存在の力を借りてチャネリングするような心霊系の霊感という意味ではなく、自身にある霊的な力、神性、直観力を磨く、回復させていくということでの「霊感(霊的な力)」が上げられると表現されるものです。

ここでいう「霊」の使い方の意味が異なることに注意してください。後者の霊は、「物質と精神の統合」「高次のエネルギー」「神性・完全性を表す形」みたいなことです。

それを認識していく、感応していくということを言っているのです。

マルセイユタロットはシンプルな絵柄であり、見た目の神秘性とか不可思議性は、ほかのタロットに比べてありません。

しかし、単純なようでいて、一枚一枚の構図、そして全体の構成、どれをとっても相当複雑に組み上げられており、統一した意図とデザインのもとに仕上げられています。一人の人が思いつきで自由に描いたというものではないのです。

このことは、知れば知るほど驚異的なものとわかり、マルセイユタロットのすごさに思い至ります。まさに宇宙的シンボルとでもいうべきものが描写されています。

よって、マルセイユタロットは、個人の運勢の吉凶とか、狭い範囲での現実的な利益・幸福のために利用するというより、まさに内外・次元の統合、霊的な成長、心理的調和や個性の確立と全体への貢献などのために使っていくものだということがわかります。

占いの目的と方法にもよりますが、低次な占いに関心持ちすぎ、それを実践していくと、どんどん外向きになります。

外向きと聞くと、いいように感じるかもしれませんが、そうではありません。

ここの「外向き」の意味は、自分の運勢や人生にフォーカスし過ぎるあまり、内(自分)向きでありながら、外の運命・運勢・状況・結果に目がいくことを言っています。

これは周りのものに自分を没入させてしまう(外のものが自分を支配し、評価する)ということであり、究極的には依存で、自分を見失うことになります。

今の占い(の一部)には、占い法則でできているある世界観があり、その世界観に自分を当てはめていくようにすることで、さも、占いによって運勢がよくなったかのように錯覚していることがあるのです。

ゲームで例えるとわかりやすいでしょう。あるルールの、あるゲーム世界があり、そこでのルール・法則をマスターしていくこと(言い換えれば、自分をゲーム世界に適用させていくこと)で、そのゲーム世界では得点を上げていくことができるようになります。

しかし、それはその世界だけに通じるもので、ゲームにいる自分も自分本体ではなく、やればやるほど、ゲームにのめり込み、仮象の自分としてゲームでしか生きられない身体になってしまいます。

「ゲーム」は、別の表現をすれば「牢獄」です。

本当はそのゲーム(占いで構築され、そのルールで見ることのできる世界観)を学び実践することで、この世の仕組みとか、宇宙を知るヒントにするわけです。

それにはまりこんではまずいのです。ゲームはあくまでモデルであり、全部や世界そのものではないのです。

このことに気づかないと、自分を真の意味で回復させていくことが難しくなります。

ゲームの世界で遊ぶことが楽しいことはよくわかります。別に遊ぶことは悪いことではなく、まさに娯楽のひとつとして見てもいいでしょう。

ゲームに翻弄されているか、楽しみや成長としてうまく使っているかについては、ひとのつ目安として、感情を麻痺させられていないか、知性を使ったり、増幅させたりすることができているかで判断する方法があります。

つまりあなたが「占い」をするようになって、あまり思索したり、知的に考察したりすることがなくなったとか、欲望を感情的を満足させる(それは中毒や麻痺と同じ)ために、何度も些細なことも含めて「占い」を利用してしまうとか、それ(占い)が毎日気になって仕方ないとかの状態であれば、それはおかしい使い方になっているということです。

マルセイユタロットであっても、ほかのタロットであっても、はたまた、どんな占いツール技術であっても、上記のような症状では、自分が使われている状態であったり、「ある世界観」に囚われたりしています。

自分を閉じこめる方向ではなく、解放や自由に向かって(それは責任と段階もあります)飛翔して行きましょう。


運・運気を強く意識する「運命の輪」

私はタロットで、遊びや特別な理由の時以外は占いはしませんが(占いを否定しているのではなく、占いツールとしてタロットを見ていないということです)、占いは現実的に見て、実は人生をよくする可能性があります。

この現実的に見て、という言い方は、普通の意味で使う「現実的」というのではなくて(それもありますが)、どちらかといえば、本人の感じるリアリティ(現実感)の世界においてという意味のほうが正しいでしょう。

占いは、過去や未来の情報を読んだり、当てたりするものですが、つまるところ、個人の運や運気を見るものでもあります。

これはマルセイユタロットのカードで言えば、「運命の輪」と関係します。

いわゆる「運」とか、「運勢」とかいうものは、私たちは普段はあまり意識していないものです。

意識するといえば、まさに「運」が極端に傾いたと感じる時です。

つまりは、「ついている」「運がいい」と思うような時か、逆に「ついていない」「運が悪い」というような時のどちらかに、「運」や「運気」を意識することが多いということです。

「運」の傾きによって「運」が意識されるとは皮肉なものですが、このことは結構重要な示唆があります。

ところで、私たちの現実の世界は、ふたつのもの、ふたつの違い、二元のもので実体を感じる世界となっています。このことはこのブログで、何度も述べて来ていますね。

要するに、違いがあるからこそ、私たちは人して、現実として生活を味わうことができる仕組みになっているのです。

さて、そこで、さきほどの「運」です。

運は傾きによって意識されることはすでに述べましたが、傾きというのはどちらかの極端であり、これも二元表現と言えます。

私たちが「運」や「運気」というものを強く意識すればするほど、それは二元のものとして、実体化してくる(現実のものとして感じやすくなる)のです。

実体としての「運」が見えてくれば、その運気を「形」のようにとらえ、よい運気・悪い運気という区分のもとでそれを読み、よい運気を選択したり、よい運気の流れに乗ったり、いい運の方向に、仕事・恋愛・経済・生活面全般を整えて行ったりすること(選んでいくこと)がやりやすくなります。

いわば、運気の二元(良し・悪し)で、自分の世界を構築し直すようなものです。

言い換えれば、自分が認めるいい・悪いという運気の目によって、自分の世界を眺めることであり、世界は自分の知る「運気」によって、色分けされて見えるようになるのです。

従って、あなたが運・運気を知れば知るほど、あなたの世界はその運気で判断できる世界に変化し、極端に言えば、あなたの世界フィールドにいる人・物事は、すべては、あなた(の判断する)運気に従うようになってきます。

これは、運気(の判断)によって自分の人生をいいように変えていくことができることと同じです。

またもし、あなたがその状態で占い師になっていたのなら、あなたのもとに相談に来るクライアントを、あなたの信じる運気と世界のもとで、的確なアドバイスをすることもできます。

あなたが運気を絶対だと信じる力が強いほど、あなたのアドバイスが効果的になります。

もっと言えば、あなたの運気の判断に沿わない人は、あなたのもとにはやって来なくもなるでしょう。

一般の人は、運の良し悪しを、何かのことで(傾きを意識する事件の発生で)意識することはあっても、その時だけのもので、のど元過ぎれば、よほど悪いことが続くなどしない限り、やがて運のことなど忘れてしまいます。(意識しないようになる)

だから、多くの人は、運気は安定せず、運は文字通り運任せみたいになります。

しかし、運気をつかみ、その活用で現実の人生をよくしようと思えば、運・運気を意識して、実体化するくらいに「形」として感じる(見る)必要があります。

これがマルセイユタロットでいえば、「運命の輪」を強化する(輪・自分の運気の世界を濃密に感じる)ことでもあります。

運・運気を知るためには、やはり占い技法・技術(の学習)が役に立ちます。

その意味において、占いの勉強、あるいは非常に強力に自分の占術を信頼している占い師の鑑定を受けることは、役に立つものと言えましょう。

とはいえ、これは諸刃の剣のようなもので、輪・自分の信じる世界を強固にして、自分の運気・人生(輪で表現されるもの)をよくすることに使える一方、逆説的ですが、その輪自体が囚われとなることもあるのです。

なぜなら、運命の実体化・現実化は、つまるところ二元の強い分離であり、霊的な意味での統合とは逆方向にあるからです。

結局は、自分の価値観や興味の方向、趣味志向性によって、運の扱いをどうするかは決まってくると言えるでしょう。

「運命の輪」で言えば、輪の回転力を上げる方向、あるいは輪の推進力を強める方向(輪の中の二匹の動物の入れ替わり)か、輪を意識せず、上の動物(スフィンクス)のように泰然とし、別のことを意識するかとなります。

どちらがいいとか悪いとかではなく、まさに自分自身の選択の問題・テーマ次第となります。


タロットと占いの「鑑定」について

私はタロットを「鑑定」という風に、占い的にしませんし、そのような表現もしません。

それは何度もこのブログでも書いていることです。

「鑑定」という言葉の意味は、「定」という文字があるように、何かを定めるというものが出てきます。

もっとも、「鑑」という文字は「鏡」であり、一説には、古代中国の水を入れる道具ということであり、それが鏡になったわけで、物事を映し出すということでは、占い的に考えることもできます。

その意味では、象徴的にカードにいろいろなことを映し出すタロットでは、「鑑定」という言葉を使っても当てはまると言えば当てはまるかもしれません。

しかし「きちんと見定める」「評価する」「決める」いうことでは、ちょっとニュアンスが違ってきます。

タロットは、結構、占いの世界では、バカにされることもあります。(ホントですよ)

それは、勉強しなくても、誰でもすぐに使える、占えると思われているところがあるからです。

特に「命占」種などでは、学問として、体系的に深く学んでいく必要があり、そうした知識をもとに、計算したり、思考と感性を駆使したりして、やっと、相手の運勢と改善方法を定めていくことができると考えられているわけです。

実際、占い界では、その鑑定士の免状みたいなもの(プロ資格)を取得するのに、なかなかの時間と、相当な金額がかかるものとされています。

しかし、タロットでは本を読んだだけとか、実占経験が少しあるだけですぐ先生になった人に教わるなどして、プロタロット占い師になる人がいるというケースもあり、そういうことでも軽く見られている場合もあるわけです。

まあ、実際、タロットを特段の知識もなく、感じたままに言っても当たっていることはあるので、そしてそれがまた人気を呼ぶこともあるので、ほかの占い技術をコツコツまじめに勉強し、莫大な投資をしてきた人には、腹の立つようなこともあると思います。

タロットは理論で構築されているものではないとされ、そこから占いの世界でも、「鑑定」というものとは異なる、違う物だと目されているところがあります。

しかし逆に、タロットを、物事の良し悪しを見定める、決めるという意味で使う「鑑定」としてしまうと、一般的価値観で見る結果や、吉運の選択を示すみたいなことになり、その人を支配している囚われ、さらには、物質や常識を超える成長・解放を示唆する観点は得られないことになります。

たとえ、現実的・吉凶的なことでの鑑定(評価)であっても、「こちらの選択はよい」とわかったところで、真の問題の解決になっていないこともあるのです。

例えば、その人にとって(命占などの根拠となる運勢判断での)占い鑑定で、明らかにこの人はこちらの選択のほうがよいと出て、それを指示したとしても、その人は選ばないこともありうるわけです。

それはその人の選択の問題なので、鑑定士がとやかく言う範囲ではないと言えば、その通りです。

鑑定士・占い師としては、やれることはやった、運勢がよくなる方向は話したということで、選ばなかったその人の責任です。

ところが、その人はなぜ、悪いと思われる選択肢を選んだり、あるいは、よいと示された選択肢を選べなかったのかという問題がそこにはあります。

確かに、それは相談をした人(クライアント)の責任ですが、本人にもよくわからず、運勢的に見ても、どうしてもまずいと思う方向が気になるとか、良いと言われたことにひっかかりがあるとか、何か心に残っていることが往々にしてあります。

まあ、優れた鑑定士は、その理由もつきとめることはできるかもしれませんが、「鑑定」という場合、普通は、本人のよい方向、運勢の良し悪しを鑑定(判断)するのみで、選択過程の理由や、その人がそうなっている状態とかを見て、本人自身の気づきを促すというようなことはあまりしません。

また、相談する人、その人にとって、一般的価値観での幸せや満足というものを実現することが、意外にも真の満足ではないこともあるのです。そんなことは考えられないというのは、常識に囚われてしまっています。

つまり、重要なのは、鑑定であっても、その鑑定の基準となるモノサシ、幸せや、よいと言われている選択の元になっているものが何かを、鑑定する側は理解しておくということです。

もしかすると、その鑑定の拠り所となっている価値基準も、古い時代の、戦争に勝って国が栄えるための国王的な立場での判断が主体となっているかもしれないのです。

国の繁栄のための選択と、一人の個人、庶民の幸せ・充足のための選択とでは、抽象的・象徴的には同根でも、具体的な解釈では、著しく異なってくる場合もあります。

しかも時代はかなり変わっています。要するに象徴を現実適用させるためには、段階的な次元操作の技術が必要となるのです。それは一言でいえば、抽象と具体の適切な扱いです。

占い知識は統計だと思っている占い師の人も多いですが、統計の部分は後付であり、本質的には大元・根本の象徴が、のちに統計的に蓄積されたに過ぎません。

統計によって生み出されたのとは逆の発想となります。

始めに「大元」「象徴」「イデア」があって、その裏付け、実用として統計的に検証されてきたということなのです

自分のやっている占い鑑定の、基準となっているものを象徴的に把握し、それが現代の相談してくるクライアントにとって、どのように適用されるのか、そしてまた、クラインアントがどんな価値基準や自分の思考・感情、レベルと次元にいるのかを見ておかないと、まったく的はずれなアドバイスとなります。

鑑定士・占い師自身は、「よい方向を示せた」「いいアドバイスができた」「この人の運勢は分析できた」「結果や選択すべき事はきちんと呈示した」となっていても、相手は一時的、表面的、常識的にはその通りで満足したかもしれませんが、結局、堂々巡りを維持したり、心理的・精神的・霊的レベルでの解放、充足にはほど遠いことになったりと、同じ問題を繰り返して、アドバイスが役に立たなかったというケースがありうるわけです。

人は感情の生き物でもあります。常識的判断での良し悪し、鑑定士の思う運勢や幸せの方向が(それが理論的・学問的だと鑑定士が思っているものも含む)、占い理論と頭で考えて明らかであったとしても、納得しない気持ち、葛藤してしまう心というものはあります。

それを受容せず、あるいは無視し、ただ冷徹に鑑定のまま告げたところで、それは正論ではあっても、感情的には受け入れてもらえないどころか、相手から非難を受けることすらあります。

きちんとした鑑定は当たり前ですが、人々の心の機微、見えない縛りや思い込みで、同じレベルで物事を見てしまう囚われから解放する視点も取り入れるとよいのです。

タロットはそういうこと(後者)に役立つのです。

最後に、私自身は、タロットは勉強しないとまともには使えないと思いますよ。(笑) 


恋愛占い

明日はバレンタインデーですね。

ということで、恋愛に悩んでいる人に、今日はあえて占い的にカードからアドバイスしてみます。

そのほうが、深刻になりすぎませんし、希望が持てる場合もあるからです。

方法ですが、以前にもやりましたが、今回は図形の直感を利用します。

使う図形は、■▲◆▼の4つです。

直感的に、この4つからどれかひとつの図形を選んでみてください。

時間をかける必要はありません。ぱっと「これ」と思ったものでいいです。直感とは言いましたが、もし迷って時間がかかってしまった人でも、最終的に選んだものでOKです。それに意味があると見ます。

次に、選んだ図形別に、カードから見た今のあなたへの恋愛アドバイスを簡単に記しますので、それを参考にするもよし、ヒントにするもよし、反抗するもよし(笑)です。

では、どうぞ。

◆を選んだ人
相手に近づき過ぎたり、干渉的になりすぎたりしないようにしてください。一緒にいる時間も大切ですが、むしろ将来設計のほうが今は重要です。二人がどうしたいのか、それを話し合う機会、あるいはあなた自身が考えていく時期でもあります。関係がうまくいっていない人は、時間が解決しますので、逆にいえば、少し間をおくことです。二人の負担するもののバランスも修正しましょう。相手がいない人は、同じ情熱や思いを共有できる人との縁に鍵があります。

▼を選んだ人
今は二人の時間を楽しむと同時に、マンネリを防ぐ、ちょっと変わった企画をしてもよいでしょう。どちらかと言えば、男性側の成長がポイントです。彼が幼かったり、未熟だったりすると、彼女側のイライラや不満も多くなります。成長が見込めないと感じれば、関係の終了という選択もあり得ます。相手のいない人は職場やアルバイト先、その関連で出会いのチャンスがありそうです。とにかく、始まりの予感はあり、あなたも自分に心をときめかせることを許しましょう。

▲を選んだ人
より深い関係、内面を開示し合う関係へと変わっていく段階にいます。勇気をもって相手を受け入れ、自分も開いていくことです。人によっては、断ち切ろうとしても、断ち切れない絆も感じるかもしれません。相手のいない人は、今までとは違ったタイプの人、正反対のものを持つ人と縁がある可能性があります。また、これまで自分が異性として意識していなかった人が、急に異性としての存在感を増し、自分にとって重要な人であったことに気づく可能性もあります。

■を選んだ人
恋がうまく行くかどうか、瀬戸際に立っていると言えます。今できることは後悔しないよう、行動を起こすか、相手に迷惑のかからない範囲で、とことん自分の思いを表現するかということになります。それでダメならあなたもあきらめがつくはずです。もちろん結果的に大成功する可能性もあります。相手のいない人は、恋愛に関係しなくても、自分の中のチャレンジ精神を大切にし、何事も恐れず、冒険してみることです。そこから恋の可能性も切り開かれます。


2016年を数秘とタロットで見る。

新しい年になりました。

本年もどうぞ、よろしくお願いいたします。

ところで「2016年」という年号、これもなかなか興味深い数字です。

タロットをやっていますと、数秘術とは別に、数字や数をタロットと関連させてしまうことが増えます。

簡単に言えば、数を見たとき、その数を持つタロットカード(の絵)が浮かんでくるというものです。

言わば、タロティストの癖のようなものです。(笑)

しかし、これが意外にあることとシンクロしていたり、自分や人へのメッセージに気づいたりすることもあるから不思議です。

それもタロットにある(ついている)数が、無意味にふられているわけではないということが、ひとつの理由としてあげられるでしょう。

すなわち、これも象徴なのです。

さて、2016年ですが、まず私が目に着いたのが、後半の「16」という数です。

16というのは、マルセイユタロットでは「神の家」というカード(大アルカナ)になります。

このカードは、マルセイユタロットにおいては、相当強いインパクトと大いなる力、高い見地からの祝福、果たすべき使命のようなものを感じさせます。

文字通り、「神」と、その神が住まう「家」というイメージで、崇高で偉大なものか伝わってくるのです。(ほかのカードの絵柄では破壊的なイメージが強くなりますが、マルセイユタロットでは、むしろ積み上げてしっかりしていく印象になります)

一方で、その強力なものを受けきる備えというものも想起させ、安易に喜びだけではない、それに至るための厳しい試練のようなものも受け取れます。

一方、「2016」の数の前半部分は「20」です。

この数を持つカードは、マルセイユタロットでは「審判」となります。

これまた大きな広がりをイメージさせるカードで、絵柄的には巨大な天使がラッパを鳴らして、それを見上げている三人の人物というもので示されています。

いわゆるお告げのようなものを受けているとも見えますし、天使が、生まれ出でた者に、祝福の音楽を奏でているともとれます。

いずれにしても、(情報・言葉・波動・周波数等)が重要だと考えられます。それも小さな規模ではなく、高次で広域なものをイメージさせます。

さて、マルセイユタロットを持っている人は、「審判」と「神の家」のカードを並べてみてください。

ここからどんなイメージやメッセージを読み取ることができるか、それがあなたの2016年の示唆になるかもしれませんし、世界的・全体的傾向という場合もあるかもしれません。

一方、数秘の世界ではポピュラーな方法ですが、数字を単数化(根にする)ために、大きな数を一桁になるまでばらして足し続けるというメソッドがあります。

すると、2016年の場合、2+0+1+6ということで、合計がであり、これが一桁ですので、すなわち、数秘的に、今年は9のシンボル・象徴とて表れると考えることができます。(あくまで、たくさんある数秘的技術・考え方のひとつです)

タロットと数秘は結びつくようで、実は違う分野になりますので、あまり当てはめすぎると本質からずれていきますが、一応、象徴的に関連させてみることも可能ですので、そうしますと、「9」の数を持つ「隠者」というカードが浮かんでくることになります。

ただ、数秘で出したものですので、「9」という「数」をメインとしたほうがいいと考えますと、大アルカナよりも、むしろ小アルカナ・数カードをリンクさせたほうがいいかもしれません。

すると、数カードのそれぞれ4組の「9」が、今年は象徴的に表現されると見ることができます。

9は10の一歩手前であり、意識的・イメージ的・理想的世界での頂上・ピークと言えますが、現実的・実際的・形的には、まだ次の次元「10」に移行しなければならない状態でもあります。

ということは、2017年に向けて、あなたの計画はより実現性を増していく(蓄積と詳細な練り込みをしていく)ことが必要とされ、すでに後半では実行に入っていることが望ましいと予想されます。

あることを実現したいのなら、計画書と手はず(実行に移す様々な準備・手配)は今年のうちに完成していなくてはならないということです。

世界的には、次代の変革の種が蒔かれ、激動もあれば、胎動として不気味な、あるいは冷静な静寂と観察状況もあるかもしれません。

今はまだ未来的で奇抜だと思えているもの、またはアイデアの段階でしかないと思っていたもの、非常識やありえないと思っていた変化等、すなわち、次の段階の世界では実は当たり前となっていくモノや状態が、今年、少しずつ現実に見えてくることになると、「9」の象徴からイメージされます。

個人としてのあなた自身は、ますます自己の統合(相反する部分、いろいろな自分の統合)を進め、本質と外の表現とが一致するよう、心かげていくとよいと思います。


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