恋愛 結婚

片思いにある愛

タロットの大アルカナで、一般的にもっとも恋愛を象徴しているカードといえば、通常6の数を持つ「恋人」(「恋人たち」など、言い方はいろいろありますが)カードでしょう。

マルセイユタロットにおいても、私の考えでは、やはり恋愛というものを非常に的確に図で表していると思います。

あまりにもその象徴性がすばらしすぎて、かつてはこのカード一枚に触発され、「恋愛講座」なるものも行ったくらいです。(笑) 

その恋愛講座は、恋愛がいかに人間にとって変容体験できる、神・高次からのすばらしいプレゼントであるかを、タロットを中心にして様々な側面から解説したもので、まあ、機会があれば、「恋人カードが示す恋愛の本質」というテーマで、また形を変えてやってもいいかなとは思っています。

要するに、恋(とそれに付随する愛)は、色々な意味で人を変えるということです。

恋愛は、人に天国を経験させもしますし、反対に地獄も心境的には体験することがあります。

恋愛のその意識は通常とは異なるために、言ってみれば異次元世界へ、現実世界にいながら飛翔できたり、もしくは彷徨ったりすることになるからです。

さてマルセイユタロットの「恋人」カードを見ていますと、恋愛における相手と自分の感情(気持ち)、そして関係性が移行した場合の意味を思い起こすことができます。

恋愛はシンプルに言えば、両思いか片思いの状況(における心理)になります。

恋をする(またはされる)と、相手との関係で、気持ちは次のどちらかになるわけです。

1.両思いの状態
2.片思いの状態

1ならばハッピーではありますが、なかなかそれが双方確認できないところと、確認できてもつき合う関係にすぐ移行できるかどうか、また自分と相手との現実的問題や外部的な環境によっては、つき合えないこともありえます。

ここが、一口に「両思い」と言っても、人の場合は手放しでは喜べない部分です。

つまり感情(内)と実際(外)が、どの状況でも関係してくるので、気持ちだけで完全とは言えないのです、

しかしながら、気持ち(好きという感情)がないことには、そもそも恋愛は始まりません。

ですから、恋愛は物質とか現実とか、常識ばかりの世界とも違い、そこからの解放も促すパワーを秘めています。

同時に、前述したように気持ちだけではどうにもならないことがあり、物質・現実面との融合や調整も意識しないとならず、ここに恋愛が二元統合の格好の素材となることが示唆されています。

さて2の(片思い)の場合は、自分が相手に片思いしているケースと、自分は好きではなくても、相手から思われているケースがあります。

前者は恋特有のトキメキやドキドキ感はあるにしても、相手に気持ちが通じなかったり、相手が好きになってくれなかったりすると、非常に苦しい状態が続きます。

後者は後者で、最悪なのがストーカー行為やその被害に遭うということも考えられ、例え相手がまともな人でも、自分が好ましく思えないと、これまたつらく、苦しいものと言えます。

両思いと片思いでは、どちらが苦しく、つらいかと言えば、やはり一方的な分、片思いのほうがつらいと言えるでしょう。両思いは、少なくとも、両者の気持ちが一致しているという安心感や喜びがあります。

ということで、片思いが、いわば恋愛における地獄体験とも言えます。(ほかにももちろん、恋愛にはいろいろな地獄ケースがありますが・・・)

ところが、なんでもそうですが、苦しく大変だと思うことにも、必ずよいことがあります。

片思いは非常につらく苦しいものですが、それだけに大きな自己変容を達成したり、高次の愛に接触できたりする可能性は高まります。

錬金術的な言い方をすれば、卑金属を金に錬磨するために与えられる試練のようなもので、厳しいものに磨かれたおかげて、純粋なものが奧から浮上してきます。

何よりも、片思いの人が忘れてはならないのが、相手に一生懸命気持ちを注いだ事実とともに、実は、自分に対しても努力していたという、そのことです。

片思いというものは、叶わない恋がほとんどですから、その叶わない事に対して、ある意味、空しいとも思える情熱や愛を向けているように見えます。

しかし、よく考えてみますと、自分が誰かを好きになったから「恋や愛の思い」が自覚できたのであり、それは言ってみれば、自分の気持ちへの(自分からの)愛です。

何を言っているのかわからないかもしれません。

もう少し説明しましょう。

自分が誰かをを好きになったということは、その自分の「好き」という気持ちを自分が認めているから、片思いとして苦しい状態がやがて現れてくるわけです。

自分の「好き」「愛している」という気持ちに対して、自分から自分に対する(気持ちへの)尊重と努力を、自らが払っているということになるのです。

「そんな気持ち、どうでもいい」「こんな気持ち、無視してもいい」というものなら、それほどまで強い(片思いの)気持ちにはなりません。

もちろん恋は無意識的に陥ることが多いですし、恋をすると、とにかく気持ちが相手に自動的に向き、それは理屈では述べられないものです。

ですが、片思いでの苦しみが強い人は、たとえ自分の気持ちが外側に向けて正直になっていなくても、内側ではどうにも認めざるを得なくなっており、その自分の気持ちに注目したり関心を向けたりしているということは確かなのです。

それは自分に対する、広い意味では愛です。なぜなら、愛は関心と結びつき、無関心は愛から離れていくと言えるからです。

片思いで報われない、つらい、苦しい、なんでこんな恋したんだろう、と嘆き、後悔している人もいるかもしれませんが、ほかならぬ、あなた自身は、そんなあなたの気持ちを尊重して、愛しているのです。

そのことに気がつけば、気持ちが通じない相手に対しても、また自分に対しても、ありがとうという感謝の念が出てくるでしょう。

そうは言っても、片思いが苦しいこともわかりますし、無理に感謝しなさいなどと言ってはいません。

ただ、どんな苦しみや悲しみの中にも、美しいもの、尊重すべきもの、救い、広く言えば愛の表現があります。

数の順に7枚ごとに並べたマルセイユロットの大アルカナの図において、「恋人」カードの周囲には、天使がたくさん登場してくることに気づくでしょう。

どんな恋愛であっても、あなたのその恋は、天使たちに見守られており、魂の救済の道が用意されているのです。

むしろ、片思いであっても、恋をしたあなたはすでに成功者なのです。「恋人」カードの次は「戦車」のカードが位置しているのですから。


恋愛でありのままになれない人へ

クリスマスシーズンということで、恋愛ネタの記事を書こうと思います。

まあ、本来のクリスマスの意味では恋愛とは結びつかない(高次では結びつきます)のですが、日本ではいろいろな商業的な思惑もあって、結局、クリスマスは恋愛の記念日みたいにされていますよね。でも最近は、かなり違ってきているようにも思いますが。

それはともかく、話を戻します。

恋愛をすると、誰でもそうですが、相手のことを知りたい、または自分をもっと知ってもらいたいという気持ち(欲求)が起こると思います。

また、若い人(若い頃の恋愛)には特に多いかもしれませんが、相手に自分をよく見てもらいたいという思いも生じます。

綺麗に見てもらいたい、かっこよく見てもらいたい、優しく思われたい、できる人間と思われたい・・・そんなような気持ちです。

ところが、これが問題になることがあります。

前述したように、恋愛気分になってきますと、自分をもっと知ってもらいたいという思いがあるのに、一方で、自分を「より魅力的に見せたい(魅せたい)」という気持ちも働きます。

それはいわゆる「ありのままの自分」や「普段の自分」とは「異なる自分」を演出しようというものになる場合があるので、自分を知ってもらいたいと思う気持ちに対して、実はブレーキになったり、抵抗力が働いたりするのです。

言わば、矛盾や葛藤を抱えたまま、相手に対することになります。

恋愛はある意味非日常であり、常態に対して異常なシーンとシチュエーションだとも言えます。(これはマルセイユタロットの「恋人」カードが象徴しています)

これは悪い意味での「異常」と言っているのではありませんので、注意してください。ただ「常なる状態」に対して、それとは「異なる状態」という対比で述べているに過ぎません。

ですから、日常の、まさに常なる自分から離れて、過剰に演出気味の「非日常」の自分、異常な自分が現れやすいのです。

この乖離(日常の自分と非日常の自分)とが激しければ激しい(大きければ大きい)ほど、葛藤も当然深まりますし、たとえ自分の表面意識が気がついていなくても、矛盾や葛藤を抑えるためのエネルギーが潜在的に働きますから、それだけ疲れやすかったり、あとでぐったりしたりすることになります。

また、抑圧された潜在的な葛藤の力が爆発的になり、おつきあいをしている期間に、一人になった時など、暴飲暴食をしたり、人に当たったり、おかし行動をしてしまったりすることがあります。さらには、ひどい孤独感に苛まされることもあります。

恋愛で楽しいはずなのに、なぜ?と思うわけです。

それは、今述べたように自分の内に葛藤状態を作り、自分に無理をしていることが一因です。

もちろん、ここで本来の自分と言いますか、日常の自分を相手に出していき、本当の意味で、「自分をもっと知ってもらう」という恋愛欲求にもかなうことをすれば葛藤も解消され、スムースな交際にもなっていくでしょうが、なかなか自分をさらけ出すというのも、恋愛ならでの難しさがあります。

それは、さきほども述べたように、恋愛シーン自体に非日常性を含むからです。つまり日常とは相容れない性質を持つので、日常に戻させない力も働くわけです。

日常に戻った時、それは別の次元に移行したことでもあり、恋愛モード(私たち一般が「恋愛」と言っている状態)とは言えない場合があるからです。

ではどうすればよいのでしょうか?

一つの解決策は、あえて恋愛モードの楽しさやドキドキを離れ、正直に自分の日常を出していくことです。

ただこの場合、さっきも言ったように、恋愛からの脱出、次元の移行を意味しますので、恋愛(モード)が終わる危険性があります。

しかしながらまったくの元の日常世界へ戻るわけではなく、恋愛をしていたという経験も合わさっていますので、元とは違う世界へ行くのです。

だから次元移行なのです。

恋愛が終わるということは悪いこととは限りません。

具体的に言えば、結婚する間柄とか、家族的な感じでの安心感を持つ関係性に移行することになるかもしれないのです。

確かに以前のドキドキはないかもしれませんが、この人といると安心できる、何でも話せる、ともに助け合って行ける、無理しなくていいというおつきあいに変化し、面白いことに、このことで日常が非日常になって、恋愛交際時が日常的になることもあるのです。

例えば、日常は仕事などで戦いモード、偽装モードになっている人が、恋愛においては素の自分を出せることになって、安らぐという具合です。

もうひとつの方法は、自分を内的に高め、自らの統合にチャレンジするような方法です。簡単に言えば、「すべてを受け入れる方法」と言ってもよいでしょう。

つまり、恋愛モードによって「自分を演出をしている自分」というものも自分だと受け入れるやり方です。

一方で日常の自分も当然自分です。それも認めます。そこに葛藤を思うのではなく、いったん分離して融合させる方法になります。

自分の中にはいろいろな自分(モード・世界)が存在します。恋愛には恋愛モードになる演出気味の自分がいて当然なのです。

それは悪いことではなく、恋愛の神・天使としてタロットに描かれているエロースやクピドー(キューピッド)に殉ずる正当な行為なのです。

恋愛は、恋愛することすべてが学びであり、自分にとっての変容過程(相手にも)です。自己の統合や発展において、また人生の潤いや華やかな演出においても、とてもすばらしいエピソードと言えます。

片思いや失恋という悲しいこともあるかもしれませんが、それでさえ、大局的には「華やかなエピソード」であり、自己を成長させるチャンスでもあります。

ですから、まずは演出していいんだ(日常や普段と違う自分を持っていいんだ)と思い、恋愛という現象が自分にやってきた喜びを味わうことです。

日常の自分と恋愛の時の自分とのギャップに驚き、悩むかもしれませんが、どちらも自分なのだと受け入れます。

そうしていると、不思議なことなのですが、相手に対して、日常の自分を見せることが怖くなくなってきます。

それは長いつきあいとかなれあいで、もう何を見せてもドキドキもない相手だから・・・という意味での暴露感(笑)や安心感ではありません。

相手に恋愛的な魅力を感じながら、それでいて、自分を見せていく快感のようなものと言ってもよいでしょう。

相手も同様に、自分を受け入れ、そして相手も演出モードではない自分を見せてくるようになります。

スピリチュアルな世界で言われる「鏡作用」です。

もし自分が統合や納得を果たしてきているのに、相手との関係がうまく行かない時は、何か相手側に課題や隠された問題がある場合も考えられます。

そしてまた、人間は実は奥深い生き物であり、相手のすべてを知ることはなかなかできないのです。

もうこの人のことは全部わかった・・と言ってもそうではない未知の部分は必ずあります。それが非日常感を生むのです。

言い換えれば、恋愛モードの非日常感は、相手や自分の未知なるものがあると感じる時に現れると考えてよく、そのためには自分自身を深めること、世界の探求をしていくことで多角的な視点が得られ、終わったと思った相手に対しても、新たな魅力を発見することもできます。

すると、相手に新しい未知なることを見たあなたは、ドキドキやワクワク、あるいはそうではなくても、不思議な非日常感覚を持っていくことになるでしょう。

いろいろとやっても、考えても、やっぱり恋モードで悩んでしまう、自分らしさが出せない・・・と言う人は、もうそれ自体(そうなっている自分自体)を受け入れるしかありません。

バカボンパパ(笑)ではないですが、「これでいいのだ」という感じで、この苦しみやモヤモヤ、不安・・そういうあらゆるものを経験すること自体に意味があるんだ、と思ってみましょう。

大丈夫です。必ず、その苦しみのあとに、結果はどうあれ、体験した喜びやありがたさに気づく時がきます。

今恋愛をしている人も、これから恋愛をする人も、過去に恋愛をしてきた人も、すべての経験のありがたさを思えば、とても大きな啓示があなたに与えられるでしょう。これはマルセイユタロットでは「審判」に象徴される出来事なのです。

どうぞ、よいクリスマスをお過ごしください。


思い込みも恋のうち。

私が伝えるタロットの、特にリーディングの場合、重要なのは「その人の信じるストーリーが何なのか」ということです。

世の中は客観的でいて、実はほぼそれぞれの主観で出来上がっているものだと思います。

自分の見ている世界、信じている世界は人と共通する部分もあるにはありますが、まったく同一ということはありえないでしょう。

ということは、一人一人、別の世界で生きているという表現にもなりますし、もっといえば、自分の思いが自分の世界であるという、結局、精神世界でよく言われているような結論になってきます。

これが正しいかどうかを探究していくのもありでしょうし、また現実は現実で、皆感じ方は違うとはいえ、同じ世界に生きていることは変わりないので、人の感じ方や思いはそう影響はないのだと思うこともできます。

ですが、自分が楽になったり、幸せになったりする観点でいえば、やはり自分の「思い方・信じ方」と、そこから生み出されるストーリーは重要な意味を持ちます。

例えば同じ気温でも、もっと暑い所から来た人がそこに入れば涼しいと感じるでしょうし、かなり寒い所から来た人は逆に温かいと感じるように、数値で計ることのできる客観要素があったとしても、個人の思い方・感じ方によって変わるわけですから、思いと感情、信念というものは人生に影響すると考えるほうが実は合理的です。

さて、そのようなことは今までも多くの人や書籍でよく言われていますので、今更言われても・・みたいなところはあると思います。

そこで、今回はこの「自分の思いが世界を作る」ということを、恋愛をテーマに、ちょっと皆さんに考えてほしいことを書きます。

なぜ恋愛なのかと言いますと、恋愛がなかなかに「信じ込み」の世界であるからです。

結婚詐欺とまで言いませんが(笑)、相手に恋心を抱かせるテクニックというのは、古今東西、いろいろと工夫がさなれてきました。それをいい意味で教え、使う人たちもいます。

これは理屈ではなく、感情や思い込みの操作で恋愛をしていると錯覚できることを物語っています。

一方、恋愛は自分がしたいと思ってもできるものではないですし、気がつけば恋に落ちている、好きになっていたというように、自然に感情がわき起こり、恋愛が生まれていたという場合が人によって多く語られます。

つまり、恋愛には自主的な意図とか意志があまりはさまれにくく、そこに運命のようなものを感じる人が出てくるということになります。

しかし、果たしてそうなのでしょうか?

もしすかると、あらかじめ、自分には「そういう恋愛をしたい」「そのような相手と関係を持ちたい」というストーリーがもともとあり、その実現のために自分が近い相手を選び、その相手を勝手に自分の思い描いていた恋のストーリーの登場人物にさせ、無理矢理物語を演じようと自分自身にも課しているのではないかということもあるかもしれないのです。

簡単に言えば、「この人こそ運命の人だ」「この人がソウルメイトなんだ」と思い込むことで、ストーリーを現実化しようとしているということです。

もちろん恋愛は相手がいることですから、自分がそう思っても、相手が自分のストーリーとの融合(相手にもストーリーがあります)を果たしにくい、難しいと感じた場合は双方に齟齬が起き、どちらか、あるいは両方苦しむことになります。

今述べていることは、恋愛は出会う相手と何らかの交流やコミュニケーション、経験を経て恋に落ちる、恋愛モードに入ると一般的には思われていますが、そうではなく、逆に考えて、もともと自分がしたい恋愛があって、それにたまたま近くにいた人、出会った人などを当てはめて、自分自身が相手との恋愛モードとスートリーを意図的に創り上げているのだという考えです。

言わば自然の流れから来る因果・結果というより、もともとの目的や目標・望みのために、自分が生み出す世界に恋愛があるということです。

そしてここが重要なのですが、自分の望む恋愛ストーリーと言っても、表面的な意識・願望が本当のシナリオではなく、真の台本は自分でも気がつかない潜在意識のような部分にあるのだと推測できることです。

極論すれば、あなたが誰かを好きになるのも、パートナーを選ぶのも、すべては真の台本にあてはめようとする、あなた自身の映画や舞台作り、表現と言えます。

あなたが恋愛する相手は、あなたの映画や舞台に出演するために無意識にオーディションに来た人だといえるでしょう。

あなたは図らずもその人を選別し、「この人ならば自分のストーリーを現実的にうまく演じてくれそうだ(表現してくれそうだ)」と思う人に合格サインを出し、相手も自分の物語を創っている最中ですから、相手自身の雇われる条件にも合えば、めでたく恋愛物語が始まっていくことになります。

ですから誰でもいいわけではなく、やはり両方(自分と相手という意味の両方と、自分の顕在・潜在意識との両方)での選択があるのです。

しかし、恋は偶然や自然発生的に一緒にいたから始まったとか、一目惚れで突如発生したというものではなく、そこには自分が気がついていないことや、目に見えない仕組みのような働きがあり、結局はあなたのストーリーの世界観に当てはまる人を選んでいるということができます。

このことはマルセイユタロットの「恋人」カード、その他を見ているとよくわかります。

従って、恋愛においても、いや恋愛たがらこそ、あなたの奥底で信じている物語、ストーリー、世界観が極めて重要なのです。

それ(自分の信じているストーリー)によって、大げさにいえば、パートナーも変わってしまうくらいの「力」を持ちます。

さらには、ストーリー自体、人生そのものを変えてしまうパワーも秘められています。自分の中でストーリーが納得いくものであるならば、書き換えも可能ですし、実際の力も持ちます。

※ちなみにマルセイユタロットには「力」というカードもあります。

逆に自分が信じられないストーリー、納得できないストーリー、感情と理屈が整理できないストーリーは葛藤を呼び、現実の状態が混乱した世界にあるかのように、あなたは感じていくことになります。

タロットリーディングでストーリーを重視するのには、こうした理由があるのです。


その恋には意味があります。

人の悩み事にはいいろな種類があり、キリもないくらいかもしれませんが、やはり恋愛のことは感情的には一番割り切りにくい類のものかもしれません。

マルセイユタロットには「恋人」というカードがあり、いわば、一番恋愛を象徴しているカードと言えますが、この図柄を見れば、それもよくわかります。

以前タロットをもとにした「恋愛」セミナーというものを開催したことがあるのですが、形を変えてまたやってみてもいいかなと思っています。

これは別に恋愛テクニックとかを教えるものではありません。(それはもっと得意な方がいらっしゃるでしょう)

恋愛の本質を見ることで、恋愛を通した自己成長を表現したり、自己を認識したりするためのセミナーです。

パートナーシップについても含まれるので、結婚されている人や、恋愛の相談を受ける方にも参考になる部分はあるでしょう。希望者があるようでしたら、本当に考えてみたいと思います。

さて、話を戻しますが、恋愛の悩み・相談は、このように「感情」がメインですので、論理や理屈でアドバイスしても始まらないことがあります。

究極的にいえば、恋している人は聞く耳を持たないと思ってもいいかもしれません。

ですから、相談を受ける者としては、「どうこうしなさい」ということはあまり意味がなく、話を聴く、感情に寄り添うということがポイントになってきます。

それと、恋愛自体はどのようなものであれ、いいも悪いもありません。そこに人間世界のルールや規則、常識・価値観が入ることによって、その恋愛の良し悪しが決まってきます。

もちろんだからと言っても、ストーカーとか犯罪的なものまで行き過ぎる恋心は問題ではありますが、恋の本質自体は善悪はないと言えるでしょう。

このように恋愛の本質では「いい・悪い」はないのですが、マルセイユタロット的にいえば、霊的成長の観点では恋愛は「善きもの」と見ることもできます。(その理由はマルセイユタロットの秘伝と、「恋人」カートに隠された意味にあります)

ですから、恋愛をすればどんな結果に終わっても、あなたにとっては善いものです。

恋愛の最中は冷静な判断や観察はしにくいものなので、ある意味翻弄されたり、喜怒哀楽の劇場に放り投げられたりしても仕方のないところがあります。

「冷静になれ」「よく見極めろ」というほうが無理なのです。

従って恋愛は感情を経験する装置と機会であり、平たく言えば、楽しむもの、または苦しむものと言えます。

もし冷静にすることがあると言えば、恋愛とは激しい波の中にいるようなもの、感情が動くもの、それが恋愛だと割り切る視点くらいのものです。

「感情にふり回されないようにしなさい」とか、「相手の○○をよく見て恋愛しなさい」とかいう人は、メチャクチャ相手のことを好きになったり、嫌いになったりするような境地までの経験がないか、その時のことを忘れているのです。

スピリチュアルな勉強をしていても、また社会的に立派な仕事や立場にいても、恋愛は人を変えたり迷わせたり、別の感覚や判断をもたらそうとするものです。(このことはマルセイユタロットでの「恋人」の位置を見れば明白です)

前にも書きましたが、私から言えることは、恋愛の苦しみにある人は、あなたが恋愛できていること(相手に届かなくても、好きになるという感情が抱けていること)、恋という炎を燃やせるすばらしい能力をもっていること、どんな状況であれ、愛せている(大きな愛ではなくても)自分がいるのを思うことです。

これは一見、恋に恋するような感じといえますが、恋している自分をほめる、すばらしいと思うことというのは、やはり違います。恋の現実(嬉しくなったり、悩んだり苦しんだりする実際の感覚)を知りながら、恋をした自分を認めてあげるという感じです。

恋が成就するしないに関わらず、その恋が何だったのかはあとで必ずわかります。今無理に回答を求めなくてもよいです。

それでも、あなたを見守る天使的な存在はあり、その恋をもたらせたのは、実はその天使的存在からのプレゼントであったことは、あとで気がつくことになります。

恋から逃げず、とこんとつきあうのもひとつの方法ですし、苦しさを共有してくれる相談者を持つのもよいです。

その恋には、あなたの成長させるが蒔かれています。それを発見できるかは、経験後のあなたの態度と取り組みにかかってきます。

そう、実は大切なのは、恋の最中より、その前と、特に後のことなのです。


目に見えない子供たち

今日書くことは、かなり感覚的なもので、客観性や論理性には欠けることではあります。(まあ、そもそもタロットがテーマとなれば、ほとんどそうなりますが・・・)

しかし、タロットリーディングを通じて、あるいはタロットによって物事を見ていると、伝わってくるものもありましたので、あえて書くことにいたします。

さて、人はカップル・ペアとなり、結婚して子供を誕生させます

その行いは、ある意味 「生命を創造する」神の所業と言え、とても尊い行為です。ですが、そこにはとともに肉体の(合一・創造という)側面があり、それがその行為の混乱のもとにもなっていると考えられます。

肉体を生み出すには、男女の肉体が必要であり、肉体的(身体的)・物理的・機能的制約をどうしても受けます。

具体的に言えば、年を取ったり、生理的な何かのアクシデント・欠如があれば、うまく子供を作ることができまないということです。たとえ一方に問題がなくても、パートナーに何か問題があればうまくいきません。

もちろん肉体的なことだけではなく、心理的・精神的要素も大きなものがあります。とは言っても、いくら両方の心が合っていても、肉体的・生理的に機能不全であれば子供を産み出すことはできないわけです。

そのため、不妊で悩まれているご夫婦は多いのです。タロットの相談でも、子供を持ちたいけれどもできにくい不妊の問題は少なくありませんでした。

結局、努力はするとしても、死ぬまで続けられるものではなく、どこかであきらめざるを得ない時点が生理的にやってきます。それは年齢だと言えるかもしれません。

しかしながら、そう簡単にあきらめられないのも心情であり、お子さんを誕生させたいご夫婦の悲痛な叫びでもあります。

ですから、安易なことは決して言えませんし、当事者でなければ、わからないこともあることを承知の上で、これからある考えを書きます。不妊で悩むカップルには、気休めに過ぎないかもしれませんが・・・

先程、肉体を生み出すには肉体(機能の充実・完全性、協同性)が必要だとお話ししました。しかし、果たして、私たち人間は肉体だけの生き物でしょうか?

やはりとかと呼ばれるものがある(ように感じる)のは、スピリチュアルなことに特別に関心がない人でも思うでしょう。

もしそうであるのなら、私たちは肉体の合一による肉体の創造だけではなく、魂や心の合一(協同・共同・ふれあい)によって、やはり新たな魂や心も生み出しているのではないでしょうか。

すると、年齢が上がってもう肉体を創造することができないペアであっても、そしてまた、何らかのことで子供を作ることのできないご夫婦であっても、二人の協同・合同作業によって、目に見えない魂を誕生させているのでないかということが想像できます。

それは肉体ではないので、実際にはふれることや見ることはできないかもしれませんが、何らかのエネルギーとして存在している(創造された)可能性があります。

肉体では一度に一人とか二人、どんなに多くても5人や6人程度(5つ子とか6つ子とかのことです)しか、人は産めません。けれども心や魂であるならば、形がないだけに制限も少なく、かなりたくさんの数を生み出すこともできるかもしれません。

子供のことを、俗に「二人の愛の結晶」と表現する場合があります。

これと同様に、まさに二人での愛の結晶(エネルギー)を形ではなく、魂や心のような状態で、「愛」を生み出していると見てはいかがでしょうか。

むしろ、子供を肉体的に出現させることのできないという意味は、別の創造表現の能力が二人にはあり、それによる貢献が宇宙に求められている可能性もあります。

今生はそういった役割なのかもしれず、それは自分たち両者の魂間では、合意してのシナリオであったということも考えられます。

高齢になって、もはや肉体的創造が必要ではない場合も、エネルギーの創造は可能かもしれません。それはいわゆるセックス行為を通さなくても生み出せると推測されます。

逆に言えば、子作りができない年齢というのは、「心(エネルギー)を創造しなさい」「すばらしい心を生み出す力が今のあなたたちにはありますよ」という印なのかもしれません。言わば「身体」ではなく「心体」を生み出す時期なのです。

肉体をもった二人の現実の子供としては生み出せない状況ではあっても、二人の信頼と愛をもって融合されたエネルギーは創造されているのです。

それが社会や宇宙に、大きく貢献していると思うこともできます。つまり、あなたたちのお子さんは、目に見えない形で多く誕生し、活躍しているのです。

ですから、ペア・カップル・パートナー間において、愛をもって二人が接することがとても重要なのです。

なぜなら、それに比例して、二人が合一(肉体的なことだけを言っているのではありません)し、調和や平和の時空にお互いがなることも増え、その分、二人の「目に見えない子供」としての、愛の「エネルギー」をたくさん生み出すことができるからです。それはもしかすると、羽を持った「天使」なのかもしれません。

これはマルセイユタロットの「恋人」カードを中心に、ほかのカードとともに受け取った示唆です。


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