迷った時に

学びのうえで、人間性をどう見るのか。

人から何かを学ぶ場合、人と(学ぶ)技術・知識を区別するかどうかを自分に見ておくとよいでしょう。


それは、


学ぶ時はその教える人の人格や人間性も考慮する

人間性とは関係なく、純粋にその人の持つ技術・知識を学ぶ


これらをきちんと区別することができるかということです。


どちらがよいとか悪いの問題ではありません。自分の学びのスタイル・志向の問題であり、もっといえば自分の価値観によるものでもあると言えます。


自分は何をその学び・学習において大切にしているのか、ここをはっきりさせることが重要です。


意外に多くの人が誤解しているのは、人間性にすばらしい人がモノを教えるにふさわしいというものです。


もちろん人情としては、やはり人格的にも尊敬できる人に物事を教わりたいと思うものです。誰も極悪犯罪人に教わろうとは思いません。(反面教師とか別の意味で教わるという意味ではなく)


しかし自分の技術を高めるためには、教える人がどんな人かは関係ない、極端なことを言えば、それは人ではなく動物でもよいという立場・状況もあるのです。


さきほど犯罪人からは教わりたくないのが人情だと言いましたが、これが教わる側も犯罪に対して何の抵抗もない人物であり、むしろその技術(たとえば泥棒の技術)を高めたいと考えている者なら、相手が一般的にひどい人間だろうとそれは問題ではなくなります。


すなわち、自分の価値観(重要・大切だと思っていること・考え方)によって、どうとでも変わるものなのです。


ということは、学習の過程で、「この先生はいいこと言う、すばらしい」と自分が思えば、それは自分の価値観に添っているということになり、もっと分析すれば自分もそのように考えているところがある証明になりますし、反対に「どうもこの先生のここは嫌だな、違うな」と感じれば、それも自分の価値観とは異なっているということになります。


しかし、もうひとつ大切なことがあります。


人は自分の価値観に添っていないことは関心がないか、注意を向けようとはしないものですが、それだけに、まさに自分の価値観によって自分の世界が現状できあがっていることにもなるのです。


学びというものは、この自分の今の価値観による「自分の世界」を変えるチャンスでもあるのです。


今まで自分が価値をおいていたもの、あることに価値があるという考え方をしていたものが、学びにより、新しい価値観に変わったり、今までとは異なる価値の見いだし方が創造されたりします。


先生が語ることに違和感を最初は持っても、よくよく考えてみると、そういう価値の置き方・考え方もあるのだと自分で気が付く場合があります。先生の価値観に感応されると言ってもよいでしょう。


もちろん、価値観は人それぞれで、これに正しいも悪いもありませんし、やっぱり自分とは、どうしても相容れないことを言われる先生もいらっしゃるでしょう。


ただ覚えておいてほしいのは、人の価値観を見ることにより、自分の価値観をチェックできると同時に、別の見方と価値の発見にもつながるということなのです。


自分の価値観を変えるのも、そのままにしておくのも、その選択は自分次第ですが、世界は多様性でできるていることを知るきっかけになります。


さて最初に戻りますが、学びにおいて、教える側の人間性を入れるかどうかは、学びの目的と自分の価値によるということを繰り返しておきます。


そして人間性を入れて学ぶという立場を取る人も、心しておきたいのは、完璧な人はいないということです。(しかし人は誰でも深くには「完全」ではあります、このことは今回はあえて深くは言いません)


誰しも長所があれば欠点もあります。そうやってバランスが取られています。先生に過剰な期待感やあこがれを抱くのは、実は自分のバランスが崩れているのです。逆にある先生に過度にダメだしするような時も、自分の中でアンバランスなものが働いています。


あなたが授業で見せている部分が一部分であるように、先生や講師が講義で見せている「人間性」もその人の一側面です。


この先生はダメだと思っても、ほかによいところは必ずありますし、たとえある授業を受けて失敗したと思っていても、別のことでそれに匹敵するよいことがあります。その逆もまたしかりで、すばらしい講義だと思っても、あこがれすぎると、やはりそれに応じたマイナス面ももたらされています。


学ぶということは、その内容だけではなく、教える側と教えられる側の関係性なども含めて、本当にいろいろと勉強になることなのです。


そして、どちら(教える側・教えられる側)も謙虚さは忘れないようにしたいものです。


成長のために、苦労したほうがよいのか?

ちょっとお知らせです。


8/25からの東京でのマルセイユタロット講座のため、前日に上京する予定ですが、もしこのブログを読まれている方で、マルセイユタロットについて話を聞いてみたいという方や、リーディングを受けてみたいという方がいらっしゃれば、上の「お問い合せ」からご連絡ください。

ご要望があれば24日にやってみてもいいかなぁと思っています。ただ時間的にお一人くらいしかできないかもしれませんが。お話しだけの場合はご興味のあるお友達と一緒にとか複数の方でもOKです。一枚引きくらいのサービスはあるかも(^^;)です。


では今日の記事です。


最近は心の解放ブロックはずしなどか心理的・スピリチュアル的にもよく言われていて、「心を楽にすることがいいんだ」と思う人の傾向が増えているように感じます。


これは結構大切なことだと私は考えています。それと言うのも、私たちは何かと自分で自分を縛っていることが多く、そのことに気がつくと、とても生き方が楽になるからなのですね。マルセイユタロットは解放のツールとして有用です。


しかし、一方でこういう考えもあります。それは「人間、苦労しないと大成しない」「しんどい目にあって、なんぼや(関西弁)」「厳しさが自己を鍛える」・・・というようなものです。


これも本当の面があると思います。


そうすると、「楽にすること」と「人間的成長」は矛盾するのではないかと迷うことが出てきます。


ただ、いわゆる「甘え」と「自分を楽にする」ということは違いますので、この区別は比較的容易かもしれません。


問題は成長のためには、苦労や大変さを味わったほうがよいのかどうかです。


私はこの答えには、「本質を見ること」が重要だと思っています。つまり「そもそも論」に戻ってみるのです。


そもそもなぜ、苦労や試練が人を成長させるのかということです。


そうすると、何も苦労そのものが人を成長させるのではなく、何か圧力や負荷が自分にかかることによって、耐性やアイデアが引き出されることで、今までの自分とは違った、ある意味それまでの限界を超えた新しい自分が再生され、それが成長という言葉で表現されるのではないかと考えられます。


であるならば、負荷がかかる状況をただ待つのではなく、自分にあえて課せばよいのですが、それがいわゆる荒行などをする修行者と言えます。


では一般の人で圧力や負荷をかけて、これまでの限界を超越させるようなことが自主的にできるのかといえば、スポーツなどはできる可能性があるかもですが、普通のことではなかなか難しいものです。


従って、やはり仕事や環境から来るある程度の苦労のようなものを体験する機会を持つのが自然な成長につながることになり、やはりその意味では苦労はしたほうが成長はしやすいと言えるかもしれません。


けれども、もう一度そもそも論まで引き返しますと、成長とは自分の拡大発展、あるいは対応力の幅の拡がりだとも言えますので、苦労(圧力・負荷)なしで限界を突破する方法もないわけではないでしょう。


それは自分の次元やレベルを上げるということです。


極端な例で言えば、動物から人間に変われば、動物だった時の問題は一気に解消してしまうというようなものです。


もう少し現実的に言えば、レベルが変わればある仕事の苦労経験がなくても、問題(たとえば売り上げ問題)の本質がわかるので、きちんとした対応策と行動ができるというものです。


業種が変わっても同じトップとしてうまく関わることができる人は、もちろんそれまでの経験と努力も必要かもしれませんが、それよりも問題の本質と対応を学んで普遍的に適応できる能力を身につけていることが大きいと想像できます。ただし、学ぶうえではやはり苦労はいるものだと言えばそれまでではありますが・・・


いずれにしても、一般的にはいきなり次元を上げるのは困難を伴うことが多いです。


やはり土台として総合的に鍛えて行かないと(これは苦労することばかりではなく、無駄な苦労をせずに済む効率的に物事を成し遂げる知恵の獲得との両方を意味して総合的と言っています)、人間的に薄ペラになるのはどの分野にも当てはまるように感じます。


ということで、理想的には自分を壊してしまわない程度の負荷・圧力をかけながら(あるいはそういう環境に置きながら)、同時に自分の心の縛りも解放していく(それは時には楽を求める方向にもなります)という緩さ・柔らかさも適宜入れていくことがよいのではと思います。


まさに硬軟・剛柔・緩急みたいなことです。


気をつけなくてはいけないのは、負荷のかけすぎで自分を真に破壊してしまうことと、圧力をかけていること(かけられていること)自体を快楽にしてしまうことです。目的と手段の取り違えと言ってもよいかもしれません。


苦労していることがよいのではなく、苦労している圧力と負荷によって鍛えられ、成長することがよいのであって、手段(圧力をかけること)が正当化されたり、そのこと自体が快感や喜びとなっていたりするのは問題です。


また目的をもっての大変さは、苦労というより楽しみに変わることすらあります。


無駄な苦労、自分をつぶしてしまうような試練はしなくてもよいのです。


自分に変な思い込み(これは呪いに近いものです)や、何かを強制することで悦楽を生んでいるゆがんだ心理構造がないかチェックすることは大切です。それが心の解放につながるからです。


選択の自由のためには。

私たちの時代はかなり自由になり、多くの部分で自己選択ができるようになりました。

とはいえ、勝手に望むままに選択できないものもあります。まずは親とか幼い頃の生育環境や学校生活などが挙げられますし、社会に出てからも、いろいろな事情でそう簡単に選べないものもあります。

しかしながら、いわば人類の歴史は自由(選択)の獲得の歴史であったと言ってもよい部分があります。

奴隷制度からの解放、市民社会の成熟など見ていけばそれはわかります。(霊的には実は奴隷制度は続いていると見えるのですが、それはまた別の話にします)

人類全体として、自由に選択できる幅を増やしてきたわけですから、今いる私たち、あなた自身も、先人たちに敬意を払う意味でも、もっと自由に選択を考えてもよいのではと思います。

自由になるには、逆に自分の制限や枠、幅を知ることが必要です。囲いがなければ、もともと自由なのですから、自由という概念すらも想像がつきません。

おそらくタロットの「愚者」はこの「自由概念」すらない存在なのだと私は思いますが、それはさておきです。

人が選択の幅を広げられず、ひとつやいくつかのことでこだわってしまうのは、現状を超える考え方や見方ができないからです。

それは今の自分の枠の中(自分の想定している世界観の中)にいるからだとも言えます。

問題のない時、チョイスに悩んでいない時は、マルセイユタロットでいえば「世界」のカードは正立して安定しています。それは裏を返せば「吊るし」の正立でもあります。

つまり、現状の自分の世界観ですべて応対が可能な状態なのです。この世界の中で起こることに対しては、選択もこの世界においては自由であり、迷いなく可能となっています。

ところが、ある日、ある時を境にして、その世界観を超えた現象が起こります。これが問題や選択の迷いにつながります。

いわば、あなたのこれまでの常識では対応できない事態が生じたのです。それは言い方を変えれば、あなたの世界観を壊す出来事が生じたと言ってよいもので、あなたの今の世界では処理できない異分子・異端であり、反逆者が現れた(ように見える)のです。

その時、あなたは反逆者と争い、鎮めようと手を焼き苦しみます。こうしてあなたの世界観は、あなた自身を小さな「世界」に閉じこめる「枠」になります。これは「吊るし」の逆状態でもあるのです。

すなわち、これまでのあなたの考え方・見方では自分を縛るだけになり、狭い世界に閉じこめられ、非常につらい状態になるのです。

具体的な例でいうと、この仕事でしか生きられない、この人としか恋愛できない、この人と離れるとすべてが終わる、この場所が唯一の私の居場所、ここにいるのは仕方ない・・・このように思っている限り、狭い世界からの脱出は難しいのです。

また脱出しようにも、「どうしようもない」「考えが思いつかない」「しがらみでがんじがらめ」ということもあります。

結局のところ、あなたのこれまでの常識を破る必要があるのです。「常識」を破るといえば、「非常識」を採用するということになります。それはかなり勇気のいることであり、さらには自分一人の思いつきでは難しいかもしれません。

だからこそ、私たちはこのように多くの価値観を持つ人々の間で暮らしているのです。この広い世界では、あなたが現状で「非常識」と思う世界観で「常識」と思っている人もいるのです。

狭い世界と牢獄から抜け出すのは、自身の考え方の変化・変容にあるのは間違いないのですが、ただ一人で変革ができるほど簡単なものではないこともあります。

ゆえにマルセイユタロットでは「変革」をもっとも象徴する「13」のカードの次に、救済を意味する「節制」の天使のカードが来ており、吊るし「12」の次は「13」にもなっているのです。

つまりは人に救いを求めるか、人によって救われるかということになります。

人ではない場合は、自身の世界観・価値観を壊す衝撃によってそれ(救済)は起こります。それが試練と呼ばれるつらいことになるケースがあります。

いずれにしろ、先に自分の枠に気がついていれば、もっと楽に解放や次の自由選択の意識を獲得することができます。

そのことは、幸せを感じることの拡大にもつながるのです。これについては、さらに次回で書いてみたいと思います。


時は金なり

タロットカードの図柄の中には刃物的なものが描かれている場合があります。


もちろんこれはそのままの意味ではなく、象徴としてとらえるべきで、それはほかの図柄でも同様です。


象徴というものは、全体性と細分性の意味を区分して考えねばなりません。


たとえば上記の「剣」にしても、こういった「鋭い何かを切るもの」というイメージ全体からの象徴性と、刀であったり、ナイフであったり、まっすぐな剣であったり、曲がった刀であったりと、図柄の違いによって出る細かな象徴(の相違)があるのです。


しかしやはり全体としてはひとつです。ここにも宇宙や神秘の哲学的たとえとも言える「全は一、一は全」という発想が内包されているのです。


そして今日、その剣的なタロットの絵柄から浮かんできたメッセージがあります。


それは「時は金なり」でした。


それも決断のスピードという意味合いを強く感じました。


私たちの人生は、大なり小なり、毎日毎時、常に選択の連続によって成されていると言ってもよいものです。


今日着るものから食べるものに至るまで、些細なことを含めて何かを決断し、選択しています。


ところが、時折、非常に選択や決断に迷って悩んでしまうことがあります。


重要なテーマや案件ならば迷うのも仕方ありませんし、むしろ簡単に決めてしまうことのほうが問題の場合もあります。


ところが、意外に私たちは、どうでもよいこと、取るに足らないことにまで選択に時間をかけていることがあります。


その他、その時は結構自分にとっては大事だと感じているのですが、選択後であったり、モノの見方を変えたりした時には、「どうしてあれほどまで迷ってしまったのか」と思うこともあります


人間は長生きしてもせいぜい100年足らず、その中で肉体的・精神的に自分の思った通りに活動できる時間はそんなに多くありません。


年を取れば精神的に充実していても肉体的には衰えていますし、反対に若い頃はお金や資格の制約があるなどして、自由にできないこともあるでしょう。


そう考えますと、大人になって、特に中年以降の年代になってきますと、自分が現実活動に有効に使える時間というものはかなり少ないということがわかります。


ですから、できるだけ些細なことや、自分の成長発展にとって重要ではないことは、選択と決断のスピードを速めるか、誰かにゆだねる(任せる)かしたほうがよいのです。


今日青い服を着るのがよいのか、赤い服を着るのがよいのかで長時間悩むよりも、どちらでもいいのでさっさと決めて出発し、時間を有効活用したほうが人生全体では効率的です。


ただし服を決めることが自分のその日の人生に大きな影響を及ぼしたり、重要なテーマであったりする場合には、時間をかけて吟味することは無駄ではありません。


女性の多くの方や、ファションを大切にしている男性ならば、服の選択に時間をかけるべき価値があると思うのはむしろ当然でしょう。


逆にいえば、自分がいつも時間をかけてしまうことというのは、自分の価値観(重要視していること)を表していると言ってもよいのです。


その価値観が自分にとって有意義な人生をもたらせてくれるというものであるならば、時間をかけてもよいでしょうが、そうでないならば何らかの変革が必要かもしれません。


それは今の自分の状況、結果を見れば自ずと明らかです。


先の服の例で言うならば、それほどの選択の時間をかけている結果、相手からよく思われたとか、仕事でよい影響があったとかならばいいのですが、何もよい成果が得られていないのならば、服に時間をかけることは検討が必要(人にコーディネートしてもらうという手もあります)になります。


もっとも、服を自分でじっくり選ぶのことが何より感情が満足するのだという人や、ファションが趣味や職業だという人はこれは次元の違う話になりすので、決断の問題とは別になります。


とにかく、自分が時間をかけなくていいものまで時間をかけていないか、特に選択の際に自分の価値観とともに見直してみるとよいでしょう。


現実・真実を直視する

人間は変わることを嫌がる動物でありながら、同時に退屈を嫌って変化も望むという面白くも矛盾した側面を持っています。


これは人間の恒常性(生きるための継続・常態化)機能によるところと、宇宙の創造のサイクル(創造されたものはやがて破壊に向かい、また新しく創造されていく循環)との狭間で、若干のタイムラグや齟齬が生じるからだと感じます。


マルセイユタロットで言えば、「星」のリズムと「運命の輪」の回転の違いと言ったところでしょうか。


人間性が強く出た場合、恒常性の機能も強く働き、このままでよい、変わりたくない、地上に留まったままでいいという感情が過剰になる気がします。


そのバランスを図るには、自分が人間でありすぎない(動物でありずきない)ということです。


つまりは精神や心、もっといえば霊性の向上を意図し、行動していくということです。言い換えれば神視点を持つ、神や宇宙に近づく努力をするということでもあります。


そうすれば肉体的・動物的・人間的縛りや牢獄から解放に向かい、恒常性のわなにはまらず、現状維持・妥協・変化を嫌うということから抜け出せるようになります。


しかしながら、何事にもよい面と悪い面があります。


この恒常性の機能も、いわば自分の身を守るためのものであり、無謀さや危険さから自身を保護していると考えられるのです。


ですから知性なき宇宙への暴走・単なるあこがれは逃避や危険を生むことになるのです。


また大いなるものへ近づくという思想と行為は、結果として楽になってはきますが、その途上では自分を直視しないといけない面が多々出てきます


その意味では決して楽や楽しさだけではないのです。


たとえば、自分のことであれ、パートナーや友人・知人のことであれ、現実をきっちり認識してもらうためには、時には耳が痛いことも言わなければならないこともありますし、ずっと逃げていることを止める勇気、怖さや不安をそのままにせず、その恐怖の原因を白日のもとにさらけ出さねばならないこともあるのです。


たとえばギャンブルなどで借金をしてしまい、家族にばれるのを恐れ、隠し立てしてまたその穴埋めにギャンブルで取り戻そうとしたり、借金したりしてますます泥沼にはまっている・・・というような人がいたとします。


この場合は、本人はもちろんのことですが、その家族も厳しさ(心の受容は必要です)が求められます。


当人に安易にお金の手助けをしたり、なあなあで済ましたりせず、きちんと法律相談や精算のための努力、当人との話し合い、公にするという、とても「痛い」こともしないと、根本的な解決にならないのです。


これは家族にとっても恐怖かもしれませんが、実はそれこそがずっと続く怖さからの脱却の一番の近道なのです。


ギャンブルでの借金を例に取りましたが、ほかの悪癖や悪習慣、または一般的に悪いことでなくても、当人がずっと直面することを避けてきた問題、隠し事など、それがあるためにかえって不安が続いているというようなことは、この際、勇気を出して表に出す、本当の解決を図る決意をすることが大切です。


それは「自分が壊れてしまう」「すべてを失ってしまう」と思えるほど恐怖のことかもしれませんが、本当の恐怖はあなたがそうした不安や恐れをずっと心にしまい込んでいることなのです。


なぜならば、ずっとあなたはそのことで悩み、エネルギーを使い続けているため、創造の力を半減もしくはほとんど失い、ただでさえ牢獄の人生がさらに二重の牢獄になってしまい、なかなか抜け出せなくなるからなのです。


これはすなわち、その問題の奴隷の人生と言ってもよいものなのです。


マルセイユタロットでは、真実や現実に直面しなくてはならない時、「正義」や「神の家」「13」」が出ることがあります。


また意外にも「節制」が出ることもあります。「節制」は救済のカードですが、そのための努力や効率性も要求され、ある面厳しい救済者の時もあるのです。


ともあれ、現実を直視し、勇気ある行動を取ることで、それからの人生が楽に、クリエイティブなものへと変化して行きます。


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