迷った時に
理想と現実の狭間で悩む人に。
このところ、いや、以前からもでしたが、自分らしく生きたい、好きなことを仕事にしてみたいという方のご相談や、そう考えている方との出会いが結構あります。
そうした場合、まず問題となってくるのは自分の精神的な理想と経済的な実状との葛藤です。
端的に言えば、「こう生きたいけど、そう暮らしていくお金が心配」
というものですね。
このことについては「簡単なことよ」とか、「好きなように、楽しく生きるのが人生じゃない?」「お金は何とでもなる」というように言ってのける方もいますが、それは自分がその段階に達していたり、ある「悟り」や「境地」にいるために語られるものです。
しかしほとんどの方にとって、よく考えると難しい問題であることがわかります。だからこそ葛藤し、悩むわけです。
まあ、上記のようなアドバイスをされる方も、実現できる具体的方法論まで提示できる人ならば、それは真の意味で親切(適切)だと言えましょう。
それに反し、ただ精神論だけで語られても、納得できないことがあるのは確かです。
とはいえ、精神世界を学び、探究するものにとっては、実は精神から入るというのが基本です。
まずは考え方や思い方を変えなくては、現状を変化させたり、自分の思うような生き方をすることができないからです。
ここでさらに考察しなければならないことがあります。
それは精神世界にも具体があり、具体の中にも精神があるという二重構造のしくみです。
つまり、心(思考)を変えるためには、やはり具体的な方法論・やり方が必要となってくるのであり、現実の働きかけ・行動・結果にも精神や心のあり方が大きく作用するのだということです。
前者は何となくわかるかもしれませんが、後者は多くの人が忘れていることです。
わかりやすく言いますと、何かを行う時の気持ちを自分自身がよく知ることであり、何のためにそれを行うのかの検証と検討を常に意識しておくということです。
また出た結果(現実)について、ただそれを受け止めるだけではなく、結果という形を見て、心や魂をそこに見いだす・感じるようにすることでもあります。
いわば、結果の良し悪しや評価に関わらず、そのことに対して感謝の気持ちを持つというようなものに近いでしょうか。
それから、非常に大切なことは、あなたが生きたい、したいと思うイメージ、好きな仕事で生きていくイメージを強く持つと同時に、その選択をした時は、そのことに対して完全なる責任を持ち、以前と同じ、いやそれ以上の情熱とエネルギーを傾けることです。
「今が嫌だから」あるいは「今が何となく不満なので」と、逃げ腰や逃避の姿勢で別の生き方を望むのなら、新しい選択に対して情熱とエネルギーが注げませんから、必然として結果も出にくくなります。
ただし、せっぱ詰まって、何が何でも・・・状態(これはあまり望ましくはありませんが)の場合は、情熱とエネルギーは別の意味で注入できますので、実現も大いにあり得ます。
要はまさにすべてをエネルギーとして見た場合、何事もその量を換算したり、質を見たりして、それを自分が出せるかどうかによって現実の度合いも変わってくるということです。
現状であれ、未来であれ、何かにものすごく引っかかりのある時はエネルギーの方向性にねじれや葛藤、ブロックがあるため、現実もそのようになりがちです。
かといって、望む方向に全力を注げばいいのかというとそうでもありません。その方向性に向かうあなたの表現が、望む状態のエネルギーと質的に合致しているかが重要なのです。
それはつまりは、場違いになっていたり、アンバランス状態にあったりして、効率が悪いということでもあります。
そしてエネルギーで見れば、お金も精神も同じであるので、経済と精神という対立が次第になくなってきます。
ただある人にその課題が多い場合は、この葛藤に遭遇する機会は、本人が気付きだけではなく、応用できるようになるまでつきまといます。
こういった人生の選択の責任とエネルギーについては、とても大事なことですので、また別項目でいつかお話してみたいと思います。
二元思考は実は現実的ではない。
タロットをしていると、解決方法に、何もしなくてよいとか、様子を見守るとかの意味で解釈できる展開が出ることがあります。
時には「中途半端のままでよい」というように読めることすらあります。
何事も「はっきりさせること」「白黒つけることをよし」としてきた(教育されてきた)人にとっては、そもそも解決方法として、「何もしないこと」「グレーゾーンでいる」ことの選択肢が存在することが信じられないという方もいます。
これは実は何もしないわけではなく、「何もしない」「しばらく様子見する」という選択と行動をしているわけです。また、「タイミングを計る」という意味のこともあります。
カラーの表をみればわかることですが、両極端に白と黒を置き、その間の色を観察すると、グラデーションになっています。
白よりか黒よりかの違いはありますが、極点に行かない限り、そのどちらでもないのです。
この、両極間のグラデーションの色数は、それこそ無限にあるでしょう。色は波動や周波数とも考えることができますから、言ってみれば、それだけたくさんの状態があるということです。
ということは、私たちの世界も、白と黒というはっきりしたものは少なく、この無数のグラデーション状態が普通なのだと思うことができます。
ですから、むしろはっきりさせるというよりは、「どのグラデーション状態の色(あり方・波動)にするのが今の自分にとってふさわしいのか」という選択の問題であると、解決については見ることも可能です。
ここで重要なのは、白と黒という二極そのものを除いて、グラデーションの色は、そのどちらの色も入っているということです。
白よりの黒であれ、黒よりの白であれ、それは明暗の灰色として、白と黒の両方の色が含まれている状態なのです。
従って、どんな状況であっても、ほとんどはどちらの両極要素が存在していることになり、反対の方向や性質のものが、どの選択状態にあっても潜在していると見ることができます。
それは今は白であっても逆の黒に転じ、その反対の黒であっても白になる可能性をいつも秘めている
ということであり、また両方の微妙なバランスによってその状態が現れているとも言えます。
よいと思っていたものが、実は悪いと感じるものの要素であったり、その逆の悪いと考えていたものが、実はすごくよいことをもたらすものであったというこはよくあることです。
いや、むしろそれが宇宙的な原理であると言えるでしょう。
よいと悪いと決めているのは、あくまで私たち一人一人の人間の思いで、本来はひとつのエネルギーが両極に分かれた、質の異なるエネルギー表現の違いでしかなく、その移行と循環の波によって私たちも動いている(動かされている)と言えましょう。
マルセイユタロットでいえば、「正義」という基準と選択を見ながらも、同時に「運命の輪」も考慮するという感じでしょうか。
私たちの選択は、自分にとってよい状況になるために基本的には行われるわけですが、それはともすれば、現実世界の目に見える情報と状態(の基準・価値)によって行われています。
その場合、いいか悪いかの白黒的に二元の基準で見ることが多くなり、三元・四元・五元的な見方、つまり目に見えないものを含む見方、白黒以外の見方などが入りにくくなります。
先述したたように、実は白と黒の極端な色の世界というのはまさにふたつだけですから、必然、グラデーションの数だけある世界、つまり自然や実際とは相反することになりがちで、そのことが、人に苦しみをもたらす原因のひとつになっているのではないかと思われます。
成功者・失敗者(成功していない者)、勝ち組・負け組などいう表現が如実にそのことを示しており、これらの二元範疇に入らないことのほうが普通なのに、二元でとらえようとするので葛藤と相克が生じるわけです。
ただ二元で考えるのは単純でとても楽なこともあり、複雑な段階や次元を見たり、考えずに済みますので、洗脳としても、また自分が価値を置くことにしても、非常に甘美な思考方法になるのです。
人を支配したい人、洗脳したい側の者は、よくこのことは理解しており、わざと人を二元の価値に置くように、私たちをし向けているところがあるので注意しましょう。
「自分のためになる選択」のわな
人生を創造的に生きることを学び、そのように進んでいくことを決意すると、実際に現実も変わってきます。
それにはいろいろな理由がありますが、やはり意思に伴う選択がこれまでとは違ってくるからということが大きいと言えます。
そして、自分の人生の「時」の有限さに気づき、無駄なこと、好ましくないことは選ばないという姿勢になってきます。
たとえば、「自分の思いや志の違う人と関わっていても時間の無駄なので、自分のためになる人や物事だけを選んでいきたい」という具合です。
そうしますと、自ずと人の交際範囲もセレクトされてきます。
さて、ここまで書いてきて、何か気がつかなかったでしょうか? どこか違和感を覚えた人もいるかもしれません。
確かに、今まで人に気遣いすぎて自分を大切にして来なかった人、あるいは他人の評価を気にして、自分がいい子ちゃんであろうとしたいがために、いろいろと人に構ってしまっていた人などは、自分自身を取り戻す意味でも、時間の有効活用の意味でも、きちんと線引きと選択をしたほうがよいでしょう。
しかし、実は自分が思うほど、人は物事や人の、よい選択はできていないものです。
「自分のためになることだけを選ぶ」という態度を取っている人は、逆に自分の見たくないもの・好ましく思わない人と関わらされることが、ほとんど必ずと言っていいほど生じます。
それは、「自分の成長や発展のため」と言っても、結局のところ、「今の時点での」知識や思い込みによっての、「成長のためと自分が考えている選択」を行っているからなのです。見落としている分、バランス回復のためにも逆のことを体験させられます。
あなたはすべてがわかっているほど、神目線で物事や人の選択ができますか?
おそらくそうではないでしょう。
マルセイユタロットカードには、「恋人」というカードがあります。このカードがまさに、今日書いている記事内容を象徴しています。
人は自分の意思や思いで良かれと思って選択をしていても、その裏では通常の人智を超えた目に見えない存在や縁の働きかけがあるのです。
あなたがどう選択しようと、天の意思ともいえる調整が働き、最終的にはいつも大きな意味での「善い選択」が行えるよう、事件や人との遭遇が起こるのです。
その時点であなたがどのように選択するのかは、またそれはあなた自身によります。
ここで述べていることは、自分の意思による選択は無意味だと言っているのではありません。
有限な人生の中で、自分の発展や成長のためは、よい選択を自らしていくことは大切なことです。
ただその基準は、あなたのその時点の人間としての基準なので、必ずしも大きな意味でのよい選択とは言えないことも含まれていることを知っておいたほうがいいということです。
自分を苦しめたり、傷つけたりする人や物事と関わらない選択は重要です。
また必要以上に気遣い過ぎて、ほかに明らかに創造性を生むものがあることがわかっているのに、自分の足を取られる選択を自らがするのも愚かで問題です。
しかしながら、いつもいつもあなたの考えと選択が、ベストな状態、自らの発展のための最高の選び方をしているとは限らないのです。
自分の片方だけの見方による極端な選択は、いずれ修正を自然にもたらせますので、自分が望むものとはまったく逆や別の性質を引き寄せる(遭遇する)ことになります。
それが起こらない場合は、善い選択ができているということでしょう。
特に「私に幸運だけをもたらせてくれる」というような視点と基準で物事や人を選んでいると、落とし穴にはまることになりますので、注意してください。
要は自分が成している選択の基準の、自らの価値観を知ることが大切で、「このために私はこれを選んでいるのだ」という自覚がポイントなのです。
そして、あくまで自分の価値に沿った選択なので、それはよいとか悪いというものではなく(自分の価値に当てはめて、よい・悪いとなります)、どんな場合も宇宙はバランスや学びのために、自分の意思による選択以外の選択肢も用意してくれているという認識が重要だと言っているのです。
なぜならば、その思いでいる限り、いつも謙虚さに立ち戻ることができ、大いなるものへの感謝の念も生じるからです。
学びのうえで、人間性をどう見るのか。
人から何かを学ぶ場合、人と(学ぶ)技術・知識を区別するかどうかを自分に見ておくとよいでしょう。
それは、
●学ぶ時はその教える人の人格や人間性も考慮する
●人間性とは関係なく、純粋にその人の持つ技術・知識を学ぶ
これらをきちんと区別することができるかということです。
どちらがよいとか悪いの問題ではありません。自分の学びのスタイル・志向の問題であり、もっといえば自分の価値観によるものでもあると言えます。
自分は何をその学び・学習において大切にしているのか、ここをはっきりさせることが重要です。
意外に多くの人が誤解しているのは、人間性にすばらしい人がモノを教えるにふさわしいというものです。
もちろん人情としては、やはり人格的にも尊敬できる人に物事を教わりたいと思うものです。誰も極悪犯罪人に教わろうとは思いません。(反面教師とか別の意味で教わるという意味ではなく)
しかし自分の技術を高めるためには、教える人がどんな人かは関係ない、極端なことを言えば、それは人ではなく動物でもよいという立場・状況もあるのです。
さきほど犯罪人からは教わりたくないのが人情だと言いましたが、これが教わる側も犯罪に対して何の抵抗もない人物であり、むしろその技術(たとえば泥棒の技術)を高めたいと考えている者なら、相手が一般的にひどい人間だろうとそれは問題ではなくなります。
すなわち、自分の価値観(重要・大切だと思っていること・考え方)によって、どうとでも変わるものなのです。
ということは、学習の過程で、「この先生はいいこと言う、すばらしい」と自分が思えば、それは自分の価値観に添っているということになり、もっと分析すれば自分もそのように考えているところがある証明になりますし、反対に「どうもこの先生のここは嫌だな、違うな」と感じれば、それも自分の価値観とは異なっているということになります。
しかし、もうひとつ大切なことがあります。
人は自分の価値観に添っていないことは関心がないか、注意を向けようとはしないものですが、それだけに、まさに自分の価値観によって自分の世界が現状できあがっていることにもなるのです。
学びというものは、この自分の今の価値観による「自分の世界」を変えるチャンスでもあるのです。
今まで自分が価値をおいていたもの、あることに価値があるという考え方をしていたものが、学びにより、新しい価値観に変わったり、今までとは異なる価値の見いだし方が創造されたりします。
先生が語ることに違和感を最初は持っても、よくよく考えてみると、そういう価値の置き方・考え方もあるのだと自分で気が付く場合があります。先生の価値観に感応されると言ってもよいでしょう。
もちろん、価値観は人それぞれで、これに正しいも悪いもありませんし、やっぱり自分とは、どうしても相容れないことを言われる先生もいらっしゃるでしょう。
ただ覚えておいてほしいのは、人の価値観を見ることにより、自分の価値観をチェックできると同時に、別の見方と価値の発見にもつながるということなのです。
自分の価値観を変えるのも、そのままにしておくのも、その選択は自分次第ですが、世界は多様性でできるていることを知るきっかけになります。
さて最初に戻りますが、学びにおいて、教える側の人間性を入れるかどうかは、学びの目的と自分の価値によるということを繰り返しておきます。
そして人間性を入れて学ぶという立場を取る人も、心しておきたいのは、完璧な人はいないということです。(しかし人は誰でも深くには「完全」ではあります、このことは今回はあえて深くは言いません)
誰しも長所があれば欠点もあります。そうやってバランスが取られています。先生に過剰な期待感やあこがれを抱くのは、実は自分のバランスが崩れているのです。逆にある先生に過度にダメだしするような時も、自分の中でアンバランスなものが働いています。
あなたが授業で見せている部分が一部分であるように、先生や講師が講義で見せている「人間性」もその人の一側面です。
この先生はダメだと思っても、ほかによいところは必ずありますし、たとえある授業を受けて失敗したと思っていても、別のことでそれに匹敵するよいことがあります。その逆もまたしかりで、すばらしい講義だと思っても、あこがれすぎると、やはりそれに応じたマイナス面ももたらされています。
学ぶということは、その内容だけではなく、教える側と教えられる側の関係性なども含めて、本当にいろいろと勉強になることなのです。
そして、どちら(教える側・教えられる側)も謙虚さは忘れないようにしたいものです。
成長のために、苦労したほうがよいのか?
ちょっとお知らせです。
8/25からの東京でのマルセイユタロット講座のため、前日に上京する予定ですが、もしこのブログを読まれている方で、マルセイユタロットについて話を聞いてみたいという方や、リーディングを受けてみたいという方がいらっしゃれば、上の「お問い合せ」からご連絡ください。
ご要望があれば24日にやってみてもいいかなぁと思っています。ただ時間的にお一人くらいしかできないかもしれませんが。お話しだけの場合はご興味のあるお友達と一緒にとか複数の方でもOKです。一枚引きくらいのサービスはあるかも(^^;)です。
では今日の記事です。
最近は心の解放やブロックはずしなどか心理的・スピリチュアル的にもよく言われていて、「心を楽にすることがいいんだ」と思う人の傾向が増えているように感じます。
これは結構大切なことだと私は考えています。それと言うのも、私たちは何かと自分で自分を縛っていることが多く、そのことに気がつくと、とても生き方が楽になるからなのですね。マルセイユタロットは解放のツールとして有用です。
しかし、一方でこういう考えもあります。それは「人間、苦労しないと大成しない」「しんどい目にあって、なんぼや(関西弁)」「厳しさが自己を鍛える」・・・というようなものです。
これも本当の面があると思います。
そうすると、「楽にすること」と「人間的成長」は矛盾するのではないかと迷うことが出てきます。
ただ、いわゆる「甘え」と「自分を楽にする」ということは違いますので、この区別は比較的容易かもしれません。
問題は成長のためには、苦労や大変さを味わったほうがよいのかどうかです。
私はこの答えには、「本質を見ること」が重要だと思っています。つまり「そもそも論」に戻ってみるのです。
そもそもなぜ、苦労や試練が人を成長させるのかということです。
そうすると、何も苦労そのものが人を成長させるのではなく、何か圧力や負荷が自分にかかることによって、耐性やアイデアが引き出されることで、今までの自分とは違った、ある意味それまでの限界を超えた新しい自分が再生され、それが成長という言葉で表現されるのではないかと考えられます。
であるならば、負荷がかかる状況をただ待つのではなく、自分にあえて課せばよいのですが、それがいわゆる荒行などをする修行者と言えます。
では一般の人で圧力や負荷をかけて、これまでの限界を超越させるようなことが自主的にできるのかといえば、スポーツなどはできる可能性があるかもですが、普通のことではなかなか難しいものです。
従って、やはり仕事や環境から来るある程度の苦労のようなものを体験する機会を持つのが自然な成長につながることになり、やはりその意味では苦労はしたほうが成長はしやすいと言えるかもしれません。
けれども、もう一度そもそも論まで引き返しますと、成長とは自分の拡大発展、あるいは対応力の幅の拡がりだとも言えますので、苦労(圧力・負荷)なしで限界を突破する方法もないわけではないでしょう。
それは自分の次元やレベルを上げるということです。
極端な例で言えば、動物から人間に変われば、動物だった時の問題は一気に解消してしまうというようなものです。
もう少し現実的に言えば、レベルが変わればある仕事の苦労経験がなくても、問題(たとえば売り上げ問題)の本質がわかるので、きちんとした対応策と行動ができるというものです。
業種が変わっても同じトップとしてうまく関わることができる人は、もちろんそれまでの経験と努力も必要かもしれませんが、それよりも問題の本質と対応を学んで普遍的に適応できる能力を身につけていることが大きいと想像できます。ただし、学ぶうえではやはり苦労はいるものだと言えばそれまでではありますが・・・
いずれにしても、一般的にはいきなり次元を上げるのは困難を伴うことが多いです。
やはり土台として総合的に鍛えて行かないと(これは苦労することばかりではなく、無駄な苦労をせずに済む効率的に物事を成し遂げる知恵の獲得との両方を意味して総合的と言っています)、人間的に薄ペラになるのはどの分野にも当てはまるように感じます。
ということで、理想的には自分を壊してしまわない程度の負荷・圧力をかけながら(あるいはそういう環境に置きながら)、同時に自分の心の縛りも解放していく(それは時には楽を求める方向にもなります)という緩さ・柔らかさも適宜入れていくことがよいのではと思います。
まさに硬軟・剛柔・緩急みたいなことです。
気をつけなくてはいけないのは、負荷のかけすぎで自分を真に破壊してしまうことと、圧力をかけていること(かけられていること)自体を快楽にしてしまうことです。目的と手段の取り違えと言ってもよいかもしれません。
苦労していることがよいのではなく、苦労している圧力と負荷によって鍛えられ、成長することがよいのであって、手段(圧力をかけること)が正当化されたり、そのこと自体が快感や喜びとなっていたりするのは問題です。
また目的をもっての大変さは、苦労というより楽しみに変わることすらあります。
無駄な苦労、自分をつぶしてしまうような試練はしなくてもよいのです。
自分に変な思い込み(これは呪いに近いものです)や、何かを強制することで悦楽を生んでいるゆがんだ心理構造がないかチェックすることは大切です。それが心の解放につながるからです。
