迷った時に
あと少し、もう少し
タロットで相談をしていたり、講座で課題をリーディングする実践練習を見たりしていますと、人はわずかのタイミングでまさにチャンスや機会を失っているような気がします。
そしてそのタイミング・間というものが、「もう少し、あと少し」というもので表されることが多いことにも気がついてきました。
「もう少し、あと少し」とは具体的にはこういうことです。
たとえば「仕事を辞めようか」という時、あるいは、「この人とのおきつあいを続けるかどうか」で迷っているような時、たいてい人はなぜか、「もう少し、あと少し」のところでタイミングを誤っています。
それは、もう少し続けたほうがよいのに早まって辞めてしまって後悔したり、逆に、このあたりで止めたほうがよいのに、あと少し・・と続けてしまい、ズルズルと止め時を失ったりすることです。
株とかギャンブルなんかでは後者が多いかもしれません。(前者もありますが)
いずれにしても、言ってみれば人生の決断の際、多くの人は「あと少し、もう少し」のところでタイミングをずらしてしまいがちだということです。
それは本当に、ほんのわずかな時間の差なのです。
ですから、何かを決断する時、特に止め(辞め)時には、
「もう少ししたい、やり続けたい、一緒にいたい」というような場合は思い切ってその時に止め(辞め)、反対に「もう止め(辞め)たい、今すぐ離れたい、今逃げたい」というような時は、あと少しだけ様子を見たり、続けたりしたほうがよいのではないかと思います。
もちろんきちんと今までもタイミングが合っていた人は、まさに自分の思うタイミングが真のタイミングと合致しているのですから、あえてずらす必要はありません。
これ(タイミングのズレ)は深くには直観と現象認識(現実認識)のズレ、カルマによるタイミングのズレ、自然リズムと自分リズムのズレ、自我意識と潜在意識の葛藤などによって、大いなる宇宙的な(調和)のタイミングとシンクロしなくなって生じると考えられます。
そのため自分の運がいいという人は、自分の思うタイミングも宇宙のサイクルと合致してジャストフィットしており、スムースに事が運ぶようになるのです。
間(タイミング)に合わせると、まさに物事は自然に「間に合う」ようにできてきます。
ここまで述べたことは、マルセイユタロットをご存じの方は、言うまでもなく「運命の輪」のことを述べているのに気がついているはずです。
あわせて「星」を「運命の輪」の上に縦に並べると、さらに面白いことがわかってきます。これは大アルカナを数の順で並べた絵図の構造の一部になるのです。
調子の悪い時は、ある種のチャンス。
人間はいつもいつも調子がいい、好調ということではないのが普通です。(たぶんほかの生物もそうだとは思いますが)
また有り難いことに、生き物には恒常性・ホメオスタシス機能があり、それによって私たち人間も健康に保たれたり、問題のない状態に修復されたりします。
人の回復機能とはすごいことで、ふだんあまり意識はしませんが、傷ついたり病気になったりする体が自然に元にもどる(場合によっては薬や処置は必要ですが)ことは、本当に神業ともいえるすばらしいものです。
これが単なる意識のない生物機能だとはとても思えません。そこには人の全体を統括する優れた「何か」があると想定したほうがつじつまがあいそうな気さえします。
さて、それはともかくとして、このように大変有り難い機能を有する私たちではあるのですが、それでも程度の差こそあれ、何か心身に変調を来すことはよくあります。
考えてみると、自分のいわゆるノーマル・普通状態というのはどんな感じなのかというのはわかりにくいものです。
こういうことは逆に考えてみるとわかりやすく、つまりは自分が「何かおかしいな」「普通ではないな」と思う状態がノーマルではない時ということになります。
ただ厳密には自分が普通だと思っていても、体の内部では異常事態が生じている、進行しているということもあります。しかしとりあえずは、今は自分の「感じ」を基準とすることにしましょう。
それで、いきなり結論になりますが、自分がノーマルではない時の「感覚」や「思い方」にも、それなりに(よい)意味があるのだということを知ってほしいと思います。
「何か調子がおかしい時」というのは「普通」ではない状態なので、当然あなたのいつものノーマル的な思考にならず、普通からはずれた思い方や考え方になりがちです。
そのことをネガティブなことだととらえてしまうと、まさに「ノーマル」な思考になってしまいます。
体や心の調子がおかしい時の思考こそ、普段とは異なるものですので、ある意味、多様なものの見方を獲得するチャンスなのです。
ここで重要なのは、調子の悪い時の思考にも調子のいい時の思考に対しても、「いい・悪い」と評価や審判を差し挟まないということです。
もちろん普通に考えれば、調子の悪い時の思いというのは、だいたいにおいて「あせり」があり、正常な判断は下しにくいのが常ですが、それは何か「判断」をしないといけない場合のことです。
思考をそのような判断材料にするのではなく、「ああ、今の自分はこういう風に考えているのだなあ」とか、「こんなことを思うんだ、私」という具合に思考している自分を感じ、見つめるのです。
これは病気になって気分が滅入っているような時や、報われない恋愛をして、とてもつらい状態にある時などには、いい意味で心のバランスを回復したり、複雑な心境を燃焼させたりする効果があります。
また意外なことに、変調状態にある自分の思考によって斬新なアイデアも出ることがあります。特に創造の裏側である破壊系・合理化系のアイデアは出現しやすいでしょう。
こうしてみると、不調と思える時でもいいことはたくさんあるとわかりますし、同じ「自分」という人間の中に、多くの存在がいることも確認できるでしょう。
それでも混乱してわかりにくい時は、マルセイユタロットを使って、自分の状態や心を確認することもできます。
三日坊主、頭でっかち。
数年前から書店に、「○○の法則」「○○でやれば、うまく行く」などといったタイトルものが並ぶようになりました。
これはビジネス的にもそうですし、精神世界系でもそうですね。
それでこうした本を含めて、新しく出たノウハウ・ハウツー的な本を読み、そこに書いてあることを身につけようと私たちはします。
しかしたいていの人はある本に書かれてあることを、ずっと今でも行っているという方は少ないのではないでしょうか。
確かに知識や情報としては入れていると思います。ただ、その方法なりを継続して実行しているかと問われるとどうでしょうか?
一回、あるいは数回やってみたけれど効果があるのかどうかわからず、そのままやめてしまった、いいとは思ったものの、面倒くさくなっていつしか止めてしまった・・・などなど、こういうパターンの人は多いのではないかと思います。
そうしてまた新たに出た法則本や情報に飛びつき、「これは良さそう」と試してみる。けれども再び飽きて止めてしまう、そしてまた・・・という繰り返しにたくさんの人がなっているかもしれません。
「今度こそ自分に合った方法が見つかる」「簡単で楽にできそうなものはないかな・・」などと思って探求している人もいるでしょう。そうした人は毎度毎度「ハズレ気分」を味わっているのではないかと想像します。
こういうことを続けていると、一生そのままということもありえます。本や情報ばかり買い続けて「実(じつ)を得ない」となれば、出版側・提供側から見ればいいカモとなります。
個人的な感想ですが、今まで出た本、現在出されている情報などでも十分に自分を変えたり、成長を実際にもたらせたりすることが可能だと思います。
今後はいろいろな情報を入れていくよりも、むしろ少数の技法や情報に絞り、それを信じてコツコツ継続的にやり続けることが大事ではないかと思います。
問題は絞るものをどれにするかということですが、実のところ、ほとんど同じ事を別の表現でしているに過ぎないということに気がつくことが大切で、どれでもよいとさえ言えます。
自分が気に入ったもの、縁があったものを選べばよいのです。
たとえば私がやっているタロットがありますが、その真理的な内実は、占星術でもカバラーでも根本は同じだと言えます。
これら全部学ぶ必要は必ずしもなく、どれかひとつを深く極めていくと目指すべきものにたどり着けるようになっています。それは頂上が同じだからです。ただ登る道が違うのです。
あと、これまでのようにあえて新しい本を読み続けたり、情報を入れ続けたりする方法もあります。これでは言っていることと矛盾するのではないかと思われるかもしれませんが、そうではありません。
こちらの方法は様々な情報や知識を仕入れることで、それらを比較検討し、結局のところ本質を別の表現で示している事を確認することができるのです。
たくさんの人が違う形で同じことを言っているのなら、そこから浮かび上がる「同じ事」というのが真実に近いだろうという判断になるからです。
とはいえ実行すること、継続することはどんな場合でも大切だと思います。「知ったかでいること」は一番危険です。
あなたは単に知的好奇心を満たそうとしているのか、本当に自分の成長や拡大を現実として可能にさせたいのかを今一度見極め、目的意識をはっきりさせて情報を入れ、学習することです。
人生での効率と無駄の視点
人生には大きな意味で無駄はないとよく言われます。
その一方で、この世での命と時間は有限なのだから、価値ある人生にするためには、無駄なく・効率よく生きていったほうがよいという考え方もあります。
私自身はどちらも真であり、またどちらでもないと思っています。
局所的に見れば効率が重視されることが多くなりますが、全体的に見れば果たして無駄をなくすことがいいのかどうか、難しいところとなってきます。
結局、無駄(自分にとって役に立たないもの)の概念・定義が明確ではないところが問題であり、効率か無駄かを選択するのを困難にしていると言えましょう。
たとえば、「お金を増やす」といテーマにひかれて、そのセミナーに出たとします。
ところが内容は思っていたよりも抽象的で、精神論やお金に対する自分の思い、心理的なことばかり解説されて、自分はもっと利回りのよい投資商品や株のポイントなど知りたかったのになんだか失敗した、時間を無駄にしたと感じます。
とはいえ、お金と心が関係しているなんて思ってもみなかったため、それから物事と自分の心について考えるようになり、ついには長年の問題であった親との関係を改善することにも成功したということであれば、そのセミナーの時間は無駄ではなかったと言えます。
いやむしろ、スピリチュアル的にいえばセミナーは恩恵であり、魂の選択であったとも考えられます。
つまりですね、現実的に、あるいはその時点やレベルでは無駄だと思っていたものでも、別の視点を得たり自分のレベルが上がったりすれば、無駄ではなく意味をもってくる場合もあるということです。
目的地を目指してまっしぐらに走ることは確かに一番効率よく速いのかもしれませんが、それはただ「走りきった」というだけに終わるかもしれません。
時にはゆっくり歩いて、道横の草むらに入り、花や虫を観察して驚いたり楽しんだりすることは、目的地に到達するという意味ではまったくの無駄ですが、到着時間は遅くなってはいるものの、楽しかった道のりを思い起こすことができ、思い出はたくさんできます。
同じ道を通ってきたのに、ただの道になるか、まさに「色々な」カラーを持つ道になるのか、本人次第です。
ここで問題なのは、「目的地に到着する」ということが本当の目的ならば、効率が求められるということです。道草を食っている暇はないのです。
反対に、「目的地に到達すること」が建前というか、一応目的ではあっても表向きのもので、真の目的は「道程を楽しむ」ということであるならば、ゆっくり見物しつつ目的地に着くほうが「目的に適っている」ということになります。この場合は真の目的に気付くかどうかが大切になります。
しかしこのように真偽や多重の目的が存在しているようなケースでは、(表の)目的達成の効率を考えない方がよいですが、裏も表もなく、ただひとつの目的があるという場合も普通にあります。
その場合は目的に対して無駄(なもの・行為・思考)という概念は発生することになります。
言ってみれば局所的、場面的にはやはり無駄はあるのだと考えられます。
そしてもうひとつ、先述したように、無駄を無駄としないため、あるいは、無駄を意味あるものへ・有効なものへと変化させるためには、自分のモノの見方自体が今より変わる必要があるのです。
それは横と縦の方法があり、横は幅広い考え方、立場の異なるモノの見方を獲得することであり、人との交流、いろいろな場所へ出かけること、知識と経験を増やすことなどによって可能です。
縦の方法とは自分のレベルを上昇させることで、横の方法をしていくうちに自然に縦にもつながっていくことが多いです。もしくは象徴やシンボルを通じて物事を把握したり、統合化したりしていくことで少しずつ上がっていくと考えられます。
制約ある人生の中で、あなたはどうするか。
人は亡くなる前に大きく後悔することが三つあると統計的に言われています。
ひとつは「伝えたいことが伝えられなかったこと」、そしてもうひとつは「行きたいところに行けなかったこと」で、最後は「やりたいことができなかったこと」です。
ということは、「伝えたいことは伝え」「行きたいところは行き」「やりたいことはやれば」よいわけです。(笑)
ところが、私たちは一人で自由に何でもしてよい環境に生きているわけではありません。
前述の後悔が亡くなる前に出るのも、生きている間にはいろいろなしがらみ、思い込み、制約、条件などがあり、行いたくても行えない事情があったからでしょう。
人生をただ起こるがままに任せていたら、生きている時に発生する、もしくは囲まれている諸条件によって、自分の欲求や願いをかなえさせることに自然にセーブがかかります。
極端なことを言えば、「人生は思うようにならないことが当たり前だ」と何事もあきらめの心境で過ごします。
しかしながら、人生や世界をひとつのゲームだとたとえれば、そういった制約や条件の中で、いかに自分の願いや欲求を叶えさせていくかが試されているフィールドだと考えることもできます。
ですから起こるがままに任せる(事柄・事件に反応するだけの)人生ではなく、知恵・情報を獲得しつつ、うまく立ち回って自分(の思い)を出したり、実現させたりするほうが賢明で楽しいとさえ言えます。
愚直にまじめに生きるといえば聞こえはいいですが、それはある面、せっかくの楽しみを自ら捨てているのと同じだといえます。ちなみに誠実に生きることと、すべてをうのみに信じてまじめに生きることとは違いますので注意してください。
さてこうした考え(賢く楽しく生きるとするもの)に立てば、たとえばどこかに旅行したり、出かけたりすることを計画する場合でも、ただ行きたいところへ行くというのでは人生ゲームを楽しんでいるとは言えません。
もちろん行きたいところへ行ける条件が整っている(予算・日程・体力など)場合はそれでOKです。
しかし、一例でいえばもうすぐGWですが、行きたいところがあったとしてもこの時期にわざわざ行くのはお金も余分にかかりますし、混雑も予想され、いろいろと効率が悪いと言えます。
そこで知恵や情報を使い、この時期でも効率よく行きたいところへ行って楽しめる方法はないかとか、GWでも混雑を避けられる「別の行きたいところ」はなかったかと検討し直すこともできるでしょう。
また、やはりこの時期をずらしたほうがより楽しめるとなって、それならば休暇を取る計画と仕事を調整しようと試みることもできます。
ほかにも、お金を増やすということをテーマにすれば、ただひとつの仕事を、雇われるだけでまじめにこなして給料をいただくという行動だけでは、なかなか増えないのは明白です。だからといって犯罪をすればこの世界のルールで逆に損です。負けなのです。
そこでまた知恵と情報を駆使して、負けではない別の方法を考えるわけです。
自分の欲求に従って、そのまま無計画・無自覚に衝動的に行動するのと、何も考えず、起こるに任せてコントロールされた意志のないロボット・奴隷のように生きるのは、もっとも人生で避けたい生き方です。
与えられたもの、条件・制約の中でも自分の欲求と意志をどうコントロールし、実現させていくかを考え行動していくことに、人生のひとつの楽しみがあると言えましょう。