迷った時に
タロットにおける選択、決断
タロットは、よく状況判断や決断の機において使われることがあります。
タロット占いともなれば、それが顕著かもしれません。あと、タロット占いの場合は、カードに相手の気持ちなどが出る可能性があるので、気になる人との関係を占う場合において、有用と言えます。
気持ちなどというものは、自分でさえはっきりわからないことがあるくらい、あやふやなもので、態度とか顔に出ているようで、心裏腹という言葉があるように、実は表に現れているものとは逆という場合もあります。
それゆえに、他人の気持ちを知るというのは至難の業で、直接聞いて確認するのが確実ですが、それでも嘘をついているケースがあったり、なかなか面と向かって気持ち確認しづらい状態であったりということもあるので、それができれば苦労はないというところです。
ということで、タロットカードなどで、それを知りたいということになるわけです。
また、何かを決めたいという時は、自分ですでに決めてはいるものの、その確認や念押しをしたいという場合もあれば、純粋に、どれがよいのか、カードに決めてほしいということもあるでしょう。
いずれにしても、人は自分一人ではなかなか決められないもので、なぜかカードのようなものに頼る(苦笑)ことがあるわけです。
では、決めることができるのらば、(タロット)カードではなくても、何でもいいじゃないか、てなことになりそうなものですが、確かにそれはその通りなのですが、人によって、あるいは普遍的に、意外に頼るもの・ツールは決まってくるもので、どれでもよいわけではないのです。
ここにタロットカードが、長年占いや決断に用いられた理由があります。
その詳細は、またの機会に譲るとし、とりあえず、皆さん、なぜ迷った時にタロットカードなのか考えてみるのもよいでしょう。
ヒントとしては精神的・感情的理由と、見えない分野での理由といいますか、それなりの論理があるということです。
私は基本的にタロットカードには吉凶や優劣を見ないほうがよいという立場ですが、こと何かを決める場合においては、案外、カードの吉凶性や優劣性を設定しておいたほうが判断しやすいというところがあります。
下手に高尚ぶって、カードを平等に扱い過ぎると、実用的ではなくなるおそれもあります。ただし、逆に言えば、実用的ではないということは、抽象的的世界、精神や霊性の拡大に使えることにもなりますので、それは目的次第と言えます。
カードに吉凶や優劣を設定しておくと、説明しなくてもわかると思いますが、よい・悪いで見ることになりますので、当然、よいカードが出れば、その選択はよし、悪いカードが出ればダメということで単純に判断することができます。
ここで重要なのは、吉凶・優劣設定と、心理状態を表すようなこととして、カードに優劣のない平等なる設定をすることと、技法的にも区別をつけておくことです。
特にスピリチュアルや心理的にカードを使う人に多いのですが、カード扱いの設定基準があいまいになっているので、時に心理的に判断したり、時に吉凶占い的に見てみたりと、混同したカードの読み方になり、結局、どっちつかず、決断ができない(どちらてもありとか、どちらでもないような。。。みたいな感じになる)状態になるわけです。
最初から、「この展開(技法)は、吉凶設定ありでやります、読みます」と決めておくなどの措置がいるのです。
タロティストとしても有名なカルト映画の巨匠、アレハンドロ・ホドロフスキー氏も、タロットリーディンクは一種のゲーム(の設定をする技術)であると述べています。
同じカードを使うにしても、そのリーディングにおけるルール、世界観というものが設定され、それによっては、別のゲームになるかのように、別種の解釈となることもあるのです。
この、ゲームにおけるルールこそが、タロットリーディングの大元を決めていると言っても過言ではないです。
ですから、ルール設定によっては、「神の家」や「13」が悪いことを示すカードになることもあれば、まったくそうでないことを表すこともあるのです。
タロットリーディングの間違いというものも、この設定やルールをごちゃごちゃにして、すべて同一のフィールドに置き換えているからそう思えるだけで、間違いなどはタロット(とは限りませんが)にはないと言ってもいいのです。
間違いや正解だと決めるのは、タロットを扱う人間側のルールや設定、価値観、解釈になります。
これはよく考えると、一人一人の人間と同じです。
誰しも自分ルールを持っていますし、そのルールや価値観も、どこから来ているかと言えば、自分を囲む環境・人間・社会からのものと言えます。
だから、世間の共通ルールもあれば、一人一人の世界観によって違うルールも出てきます。これらをまたすべて同じ線上に置いてしまうと、ゲームルールがバラバラの中に自分がいるみたいなもので、どれが正しくて、どれが間違いであるかが余計わからなくなってしまいます。
これに時系列も入ってくると、昔ではよかったが、今は許されないみたいなことがあり(その逆もあるでしょう)、ますます(良し悪しの判断が)難しく、複雑になってきます。
従って、選択や決断において、何を基準とし、どんなルール・世界観・価値観のもとの設定でやるのかを、完全に決められなくても、ある程度明確にしておくと、選びやすい、判断しやすいということになります。逆に言えば、それが曖昧模糊とした状態では、明確な回答も得にくく、何かをきちんと決められないことにもなります。
タロットで言えば、吉凶カードをあらかじめ決めておくみたいなことです。(その吉凶を決める基準・ルールもわかっていることが前提)
例えば、人生で言えば、長期的に見るのか、短期的に見るのかによっても違ってきます。
吉凶を超えるようなことは、たいてい、長期的視野か、今の価値観を超越・統合した視点でかのものによります。
ですから、吉凶設定ではない読み方や判断をすることは、自分を成長・拡大させるきっかけとなりますが、その分、判断や読みが今の自分を超えるので、難しいことにもなります。(そのため、より客観的判断が必要になり、他人に見てもらったり、人間的感情を超えた論理・真理的なもので見たりするということが求められます)
確率の話でも、例えばサイコロを10回程度振ってみると、人によっては、ある目に偏ることはあるかもしれません。しかし、回数をどんどん重ねて行けば、結局、確率論の数値に収まるようになることが知られています。
自分ルール過ぎる視野で短期的に見ていると、自分は不幸だとか、ダメとか、この選択こそが正解、あれを選んだのは失敗だった・・・となるかしもれませんが、神のルール、長期的視野といいますか、霊的な視点からでは、平均・平等化する(まさにそれが人生、良くも悪くもずべて同じ愛のもとのような感じの)話になるかもしれません。
とはいえ、自分という肉体と今の自我を持って今生の人生を送る期間は限定的で、一度しかないものでしょう。となると、自分ルールや短期的視点での選択も必要な時が出てきます。
タロットの場合で言うと、吉凶的ルールのもとに、判断する機会もあってよい、そうせざるを得ない時もある、というところでしょうか。
というようなことで、皆さん、タロットを使いながら、人生のいろいろなことを選択・決断してみるのも、ひとつの生き方です。(笑)
それはタロットに依存するのではなく、タロットというツールを使って、選択を楽しむという、ひとつのゲームをしていると考えましょう。
タロットを使うという選択を、あなた自身がしているということを自覚するのが大事なのです。(使われるのではなく、また使ってやるのでもなく、タロットのある人生で彩りを見ているような感覚です)
ゲームの達人になるには、ゲームのルール知り、ゲームとツールを愛し、何よりも、自分が主人公であるべきなのです。
「吊るし」の必要性
「吊るし」
マルセイユタロットのこのカードは、大アカナの中でも、特殊なカードと言えます
ちなみに、特殊な大アルカナカードは、数がないという「愚者」、そして名前のない「13」というカードが、ほかにも挙げられますが、「吊るし」は、逆さまに見えながら、それが正立という特別さを持ちます。(もっとも、逆さの人物や動物は、細かく言えばほかのカードにも存在はしますが)
大アルカナのナンバー順は、ある種の成長性を示すことは、すでに結構知られているところですが、「吊るし」のナンバーは12であり、その次は、さきほど紹介した名前のない「13」となります。
「13」のカードは、骨格状の人物が大きな鎌を持って、何かを刈り取っている、削ぎ落しているかのような図像です。このことから、変革や改革、大変な作業ということが想像されます。
しかしながら、その前の「吊るし」は、逆さまのスタイルではありますが、ぶらーんと宙づり状態になり、ほとんど動いていない様子に見えます。
しかも、逆さ吊りの姿勢ともなると、苦しそうであったり、何か拷問を受けていたりするように思えるのですが、このマルセイユタロットの「吊るし」の人物は、むしろ笑みを浮かべているようにさえ見えることもあり、つらさは感じさせません。
一般的には、「吊るされた男」「吊るされ人」など名づけられているこの12番のカードを、私たちは「吊るし」と呼んでいます。
それは能動的にこの姿勢を取っていると見て、あえてこのスタイルの必要性をカードから感じているからです。一般的名称では、受動的に、何かの刑罰を受けているかのようにとられてしまいます。
前にも書いたことがありますが、カードの名前をどう訳すか、どう覚えるかによって、印象・意味合いもまったく異なってくるので、名前は重要です。
私たちは「吊るし」と呼ぶことで、このカードの受動的でいながら能動的である側面やポジティブさを自然に見ることができるのです。
ところで、このカードの解釈は、様々ににできるのですが、霊的な意味では非常に深いものがあり、通常、それは教えられてはいませんし、気づく人も少ないです。
私自身もそれは教わることはなく、あとで、様々なスピリチュアルな情報に接したり、学んだりしたことで、この「吊るし」の霊的な意味をインスピレーションとして得たというところがあります。
ひとつヒントとして言えば、グノーシス思想を探求しないとわからないというものです。従って、タロットの中にグノーシス思想を見出せない教義・姿勢の場合は、「吊るし」の秘密に迫ることはできないと言えましょう。
まあしかし、それもあくまで「ひとつの説」ですから、別に知る必要のない人にはそれはそれでよいことです。
さて、今日は「吊るし」の意味でも、一般的な意味合いの部分で、今年に特に関係すると思えるので、指摘したいと思います。
「吊るし」は、吊るし姿勢のまま動いていないと見ることができ、つまりは、現実的な解釈では、動かないこと、休むこと、エネルギー補充、見直し、停滞・・・というような意味合いとして取れます。
もちろん、ほかの意味もあります。例えば、「吊るし」の人物は「ひも」でつながれているので、結んでいる支点を中心に、右や左、あるいは前後と揺れている(振り子運動をしている)と見ることもできます。
だから位置が安定しないとか、どちらともつかずとか、そういう意味にもなりますし、これをよい風に見ますと、どれにもつかない、中立、うまく自分というものを保った立ち位置を守り通していると考えることができます。
とすると、最初の動かないという意味合いと、振り子のように動く意味合いとは矛盾するようですが、あえて、このふたつを融合させると、「自分を守る意識で動く」、あるいは、「自分の内面の守りたいもの、大切なものは動かさず、外向きは臨機応変にする」ということが出てきます。
もっと本質的に言えば、自分自身を確立すること、どんな時にも自分を保つこと(自分自身を簡単に売り渡さない)ことと言えるでしょうか。
もしも、あなたが、環境や時代の変化などに翻弄され、どうしていいいのかわからなくなった時、だからこそ、あえて立ち止まる必要もあるのかもしれないのです。
新型コロナウィルスの影響もあり、変化を叫ばれる昨今ですが、中心軸のようなのが固められずに、支点も動かして右往左往してしまえば、そのうち、綱も切れて落ちてしまいます。
また、他人や強い影響力を持つムーブメントにいいように動かされ、あなた自身がその者たちの電池のように使われてしまうこともあります。
すでにあるもの(得ているもの・持っているもの)の中で待機し、見ようによっては引きこもりのような熟成期間も大事です。
自分を見失ってしまい、あせって、ただエネルギーを消費し、疲れてしまって、かえってわけがわからなくなる、どうすればよいのか迷ってしまうという人も多いです。
うつ病などでも、エネルギー切れによる不調ということが発端になることがあります。
「吊るし」のように、一度立ち止まり、自分を吊るし(ペンドし)て、今までのポジションから見て、まるで逆さになるかのように、違う見方をしてみるのは、特に今年は必要なのではないでしょうか。
精一杯、走り続けている、努力している人、成果やよい道が現れず悩んでいる人も、できる範囲でゆっくりする、何もしない、一度そのことを考えずに心身を休めてみるという時期を作ってはいかがでしょうか。空白期間もまたそれはそれで重要なのです。
自分が手を出せないようにしていると、過剰なエネルギーがそれまで働いていた場合(つまり、あなたが必要以上にやり過ぎていた場合)、修正が働き、他人があなたのしていたことをやらなければならなくなってきます。
でも、それはそれでよいのです。
あなたが無理して、自分を犠牲にしてまでやり過ぎていたことがあるのですから、自然のバランスで、ほかの人が本来やるべきことが回復してきただけです。そのほうが、あなたのためにも、また他人のためにもなるのです。
あなたがやり過ぎていたことで、他人の成長、物事の動きを止めていたこともあるからです。つらく、大変な思いをして、ますます周囲を停滞させていたとは、皮肉なことです。
「吊るし」は停滞のように見えて、むしろ停滞させているバランスの悪さを見させてくれるところもあります。「吊るし」が出る時、止まるべきはあなた自身であることがほとんどです。それが逆に停滞を解除し、次の「13」の変革に進ませるのです。
やたらと前進あるのみがよいわけではありません。
物事には陰陽があります。時には止まってもいいではないですか。いや、止まらなければならないことがあるのも自然の摂理と言えます。止まることで、本来のあなた自身や見失っていた自分を思い出し、真の自立や必要な変化を促進させることもあるのです。
変わりたくても変われない問題
人間の生活は選択の連続だと言います。
毎日、朝から晩まで、食べるものから着るものまで、人はあらゆることを選択し続けます。
それが習慣的になっていて、選択の意識はないのかもしれませんが、たとえ毎日同じことの繰り返しであっても、同じことを“選んでいる”ことには違いないのです。
ここに、選択による人生の違いを生み出すヒントがあります。
現状に何か不満があって、向上や違い・変化を求めている場合、それは昨日(今まで)と同じ選択ではいけないわけです。
当たり前のような話ですが、同じ選択をするということは、同じことを起こすことや、同じような状態を保ちたいからであり、それが無意識であれ、自分は同じ毎日を繰り返したい(変化したくない)と、心のどこか、あるいは自分の中のもうひとりの自分が望んでいるためだと考えられます。
例えば、命の危険など、本当に自分に危機が訪れた場合、このままでマズイぞと、何らかの違う対処や行動をするでしょう。
ということで、変わりたいと思っても同じことを繰り返している場合、変わりたい意識<同じでいたい意識と、右側が勝っている状態だと推測されます。
なぜ同じ状態の継続のほうが意識的に上回っているのか、これを分析すれば、意外と自分の変われない要因というものが明らかになるかもしれません。
まあたいていは、今、本当には困っていないから、改革するのは面倒でエネルギーを消耗したくないからというのが、結構、理由としてあります。
パートナーを持ちたい、結婚したいけどできない、別れたいけど別れられない、売上を上げたいけど上げられない、仕事を変わりたいけど変われない、独立したいけどできない、親と離れたいけれど離れられない・・・こういう悩みは実際に多いですし、タロットの相談でもよくあるものです。
これらには、現実的・実際的な理由とは別に、心理的・無意識的な理由があります。
しかし現実的な理由も、結局は心理的な理由に行きつくことが多いです。
要は不安との戦い、あるいは何かしらのメリットを得続けるため、保身のための弁解・理屈づけということがあるのです。
たとえ話をしますが、深い峡谷にかかっている、向こう岸に渡るための橋があるとします。こちら側は森になっていて、そこからあなたは来たのですが、向こうに渡る目的は、森の中に猛獣がいて、いつあなたを襲うかわからないため、向こうの土地に渡りたいと思っています。
ただ橋はボロボロで、今にも崩れ堕ちそうです。ぼやぼやしていると渡ることができなくなるかもしれません。
かと言って、このままま渡らずにいれば、いつか猛獣が襲って来る危険性もあります。どうしたものか、足が震え、結局、立ち止まったままです。
ここで、もしかすると猛獣はもう誰かの手によって倒されたかもしれないとか、そんなに猛獣は数としては少ないのたから、ここまで来ないかもしれないとか、何とか橋を渡らずとも逃げられるかしれないとか、そもそも猛獣がいるというのは思い込み(笑)だとか、今自分がピンチにいるからこそ(か弱い者だからこそ)、王子様とか戦士が現れて助けてくれるかもしれないとか・・・いろいろと自分の都合のよいことを考え、橋を渡る恐怖から逃れようとします。
森や猛獣はあなたが実際に見てきた、経験してきたことなので、たとえ恐怖であっても、まだなじみというか、理解ができますが、橋を渡ることは未知で、まだ経験していないわけですから、想像の域でしかありません。
すると、怖いこと、マズイ状況であったとしても、橋を渡るイメージ上の恐怖と比べればましだと考えて、渡らない選択のままに固定されることもあるわけです。
ここで、橋をきちんと冷静になって調べて、重さに耐えられそうだと判断できたり、橋ほ補強する何かの方法とかツールが発見できたりすれば、渡ることの現実性・リアリティも出てきます。また他人の助け(たとえば、向こう側の人が現れるなど)があれば、なおさら可能性は高まります。
新しい世界に移行することは、マルセイユタロットでは、「愚者「と「世界」でもっとも象徴されますが、総じて人物が右側に視線を持つカードが関係してきます。
それらのカードは、新しい次元や世界を拓くための象徴的意味合い、示唆が図像にこめられています。しかし、それら単体だけではなく、いわば、「愚者」と「世界」のセットのように、人物の視線も右と左のものが相まって、移行の確実さを表現します。
それはそれとして、結局、望みたい方向に行くためには、自分におけるメリットの天秤が入れ替わる必要性があるわけです。
簡単に言えば、現状以上のメリットが、選択する将来のものとして、特に心理的に見えてくるかどうかにかかっていると言えます。
逆に言えば、(望む)新しい方向や世界に行きたいのであれば、そちら側に行った時の具体的メリットが、現状を超える形、あるいは今受けているメリットを捨ててもいいと思える替わりになるものがあればよいことになります。
現状を超えるメリットは、たいてい変わりたい方向性には明確に見えているわけですが、それを実現するには努力とか恐怖とか不安、茨の道も想像できるので、橋のたとえ話のように、向こう岸(新しい世界)へ渡れなくなるわけです。
今の状態は不満で嫌だけれども、怖いことになるのなら、苦しいことになるのなら、まだ今のほうがましだとなって、踏み出させない選択をしてしまいます。
ですから、選択したい将来像への恐怖や不安を軽減していく、移行ステップ、アドバイスがあればよいことになります。「こうしていけば、そんなに怖さを感じなくても進めるよ」みたいなことです。
これは自分一人ではできないことが多いので、向こうの世界(自分の望む世界)にいる人、向こうを経験した人、向こうの常識を知っている人などに、助けてもらうとよいです。(手を引いてもらう、実は「愚者のカードにも犬がいて、一人ではないことが示されています)
もうひとつは、時間・スパンを長期にして選択を見直す、あるいは、地上意識(実際的な損得、非難賞賛から来る不安・恐れ)ではなく、天上意識から見直すという方法があります。
前者は、言ってみれば長い目で見る、一生から見るようなことで、後者は、神とか天からの目線で見るみたいなことです。
すると、どちらでもないとか、何を選んでも結局同じ(何を選んでも選ばなくてもよい)ではないかというインスピレーションが起きてきます。
タロットでいえば、四大元素・4組に分かれている小アルカナの世界から、それらを統合した大アルカナの世界に上昇するような視点です。(大アルカナにもレベルの区別はありますが)
結果に固執するか、経験を楽しむかみたいなものと言い換えてもいいかもしれません。
究極的には、一人一人の人生ですから、他人や世間のことより、自分が何がしたいのか、何を大切にするのかで、選択も決まってくるでしょうし、たとえ迷いに迷って決められなくても、天上的視点から見れば、その迷いこそがすでに選択であるという話もあるのです。それは「恋人」カードにも描かれている通りです。
選択には直感を信じるとか、本当の自分と会話するとか、いろいろとスピリチュアル的に、よい選択のやり方が言われますが、それらの方法は、実はなかなか漠然としてわかりづらいこともあります。
現実生活の場面、仕事や営利的なことでは、確かに選択の正解、間違いというレベルはあります。
ただし、それも天上的な意味では、間違いも正解もなく、また、エゴに従ったから悪いとか、直感や本当の自分の選択だったからよいとか、これさえも、別の視点からすると、そうとも言えないかもしれないのです。
ですから、いろいろと迷い、悩みつつ、自分なりに努力したり、情報を集めたり、学んだりしつつ、それでもわからなければ、まさ神にお任せでははないですが、なるようになる、迷いや間違いも「経験としての選択をしている」という感じで、選んだことに後悔しないようにだけすれば、案外と人生、うまく行く(そんなに悩まない)のでないかと思います。
本当に変わらなければならない人は、自分の意識にも変化が出てきますし、変化の必要性があるのに無理に留まっている場合は、環境的・肉体的に、強制的変化が要請されて実際に起きることが多いので、宇宙の調和・調整機能は普遍的なのだと気づかされます。
そして、変わらない選択をするのも、またあなたの選択のひとつで、それはそれでいいも悪いもないのかもしれません。
人は変われたようでも、実は何一つ変わっていない、本当の意味では変われないのだという説もあるくらいですから、変わることへの思いも強すぎると執着になるので、自然に任せるのもありでしょう。
現実の肯定
マルセイユタロットの大アルカナで、現実的なことをもっとも象徴するのは、おそらく「皇帝」かもしれません。
もちろん、ほかのカードでも言えますし、そもそも、22枚(細かく言えば78枚)による完全性の象徴だと取ると、あらゆることは22枚に分かれ、表現されることになります。
ですからその意味においては、「現実」についても、言わば、「月」の現実もあれば、「13」の現実もあるのです。
と書いてみて、ちょっと面白いので、その続きを書きます。
さきほど「月」の現実と言いましたが、皆さんはこの表現で何を思い浮かべるでしょうか? 月のような現実をイメージすれば、はかない現実、淡い幻のような現実、夢としての現実・・・こんな印象が出るかもしれません。
とすると、それは現実と言うより、幻想に近いものとなりますが(苦笑)、人によっては、他人が幻想だと思うものでも、その人にとっては現実と認識しているかもしれないのです。
ある人にとっては、とても現実的な重要事項であっても、他の方から見れば、夢・幻、幻想を追っているようなことは意外にあるものです。
たとえば、最近の話題では、自粛中にパチンコに行ってしまうような人と、それを見ている一般人という構図にもあてはまるかもしれません。
パチンコに行く人にとっては、それは現実であり、彼らの現実においては大切なことだと本人は思っているわけですが、他の人には幻か夢を見ている人のように映るわけです。
というように、現実ひとつ取っても、22枚で検証すると、いろいろな見方ができます。
今日の話題はそれではありません。(前置き長くてすみません(笑))
だしゃれ(苦笑)ではないですが、「皇帝」と「肯定」、そして「現実」(の生活)のお話です。
私たちが、現実の生活をしていく中で、イキイキとして、楽しく暮らしている人と、いつも悩んだり、辛かったりの気分で過ごしている人との二種類があると思います。
いや、多くの人は、そのはざまに位置するのかもしれませんが、まあ、言ってみれば、明るくポジティブに生きる傾向の人と、物事を深刻にとらえ、ネガティブ気味に生きる傾向の人と、大分されるところはあるのではないかと思うわけです。
それは、実際に自分の状況が現実的によいとか、順調であるとか、恵まれているとか、先天的・後天的環境要因に左右されることがあるのも確かです。
しかし、やはり持って生まれた性格と言いますか、思考・感情のスタイルによるところのほうが大きい気もします。
そういう性質の違いのほかに、もうひとつ、現実をどれくらい肯定できるかによって、運や生き方、ひいては人生の楽しさも変わってくるのではないかと思います。
逆に言えば、現実を否定すればするほど、現実の神から見放されるかのごとく、自分が追い込まれ、苦しい状況になっていくところもあると考えられます。
これは、実は当たり前のような話で、この世、現実が否定されるのであれば、当然その中で生きるのもつらくなり、幸福や満足度、充実感を味わうことは少なく、難しくなるでしょう。
現実が肯定できれば、何よりも、自分の存在も肯定でき、この中で精いっぱい生きること、表現することもいとわず、それが楽しくもなるはずです。
最初にマルセイユタロットでは、現実をもっとも象徴するのは「皇帝」のカードだと言いました。ならば、「皇帝」を自分のものにすれば、現実はもっとしっかりとしたものとして、自分の中に立ち上がり、「皇帝」による肯定が行われるでしょう。
言い換えれば、自分を認め、自分自身を治める自立でもあります。
現実否定は、奥底には自己否定と心理的には関わっている部分もあり、自分を認め、確立することで自分が「皇帝」となり、現実を治める存在として自信が持てるようになって、現実(自分を取り巻くもの)は肯定されてきます。
自分が否定されると、その自分のいる現実の世界も否定され、居場所がいなくなり、現実は空虚なものとなります。それでは、現実が充実することはなかなか困難です。
自己批判、自己否定だけではなく、反対方向の、他人批判、他人否定も、現実否定につながり、つまりは現実肯定から遠ざかりますから、幸せ感も少なくなります。
現実肯定には、実際的なモノやお金の充実、自分の地位や名誉の向上などで、肯定感を増すことが考えられますが、それはある意味、危険であり、常に他人や量での比較に悩まされる代償も伴います(際限がない)。
しかし、それが一時的には効果的な人もいるので、方法論としては、人によってはありかもしれません。
心理的には、先にも述べたように、自己肯定感が持てるように自己の内面をクリアーにしていくことが求められますが、自分(の内的)方向以外にも、外方向に、少しずつ、愛するものを増やしていくということも考えられます。言い換えれば、自分がその存在を肯定できるものを増やすということでもあります。
愛の低次には、「好き」という感情のものもありますから、好きなものを増やすという方法でもよいですし、もっと狭めたやり方で、嫌いなものは多くても、ひとつでもよいので、とことんあるものを好きになるということを極めていくのも方法だと思います。
また、嫌いなものをフラットな感覚(好きでも嫌いでもない)に戻すということも一方法でしょう。
とにかく、「このために生きている」というモノ・対象・人、何かを見つけると、少なくとも、現実はそれがある世界ですから、肯定感が出ます。
それでも、もともと現実は否定されるような思想、考えを持ってしまう人はいます。
原理グノーシスなどでは、そういう、根本的な現実否定の思想と言えます。
そこで、これは私自身がそうなのですが、あるレベルの現実を肯定することは無理でも、この現実の中にある、ほかの現実を見出すという意識を持てば、あながち、この世界も捨てたものではないという肯定感が出ます。
この現実世界に隠された本当の現実世界を発見する目を持つとでもいいましょうか。(こうなると、一般に思う通常の現実は現実ではなく、むしろ幻想であるという考えになってきます) ゲームのクエストような感覚にも近いです。
現実を否定しながらも現実を肯定する、いや、新たな現実を見出す、創造すると言ったほうが正しいかもしれません。
いずれにしても、実際の人生を幸せにするためには、現実の肯定感というのは、とても大切なのではないかと思います。
それが純粋に持てる人は、世の中の状況や環境がどうあれ、いつも希望を持ち、明るく活き活きとして、そのために、実は現実のほうがそれに引き寄せられ(作り変えられ)、幸せな状態(環境も)になりやすいという仕組みもあるように思います。
言ってみれば、世界はよいもの良い方向に進んでいると素直に信じるような人と、そが実現する現実との関係です。
ですが、人にもいろいろなタイプがいて、性格も違います。
ひねくれ者や、天邪鬼な者、自分や現実がなかなか素直に肯定できない者、地球の長い支配的な歴史・状況の様相にどうしても合わない者もいると思います。私なども、こちらの部類が多分に性質としてあります。(苦笑)
それも役割と言いますか、選んだ個性であり、必ずしも悪いものではないでしょう。
それでも、現実にいる理由、肯定感が少しはあったほうが、自身の生きる意味も肯定されるはずです。
あなた自身が否定しても、親が、子供が、友人が、動植物が、自然が、地球が、果ては宇宙や神が、とにかく何者かがあなたを肯定しているのです。
なぜならあなたが現実(と人々が思っているこの世界)に存在するからです。
厳しい世界と優しい世界
皆さんの中で、自分は心が弱いと自覚している方がおられると思います。
かくいう私も、断然(苦笑)弱いほうだと思います。そんな私だからこそよくわかるのですが、「弱き」ほうへ向かう時、しゃれではありませんが、それは「弱気」になっているからだと言えます。
そこには心理的には自己防衛のようなものが働いていることも見えてきます。逆を言えば、そのため、強く成長するための課題が与えられているのだと考え直すこともできます。
ただ...この現実の世界は、あまりにも厳しいところがあるという思いも出ます。
スピリチュアル的なことで言いますと、もっと皆が幸せや楽を感じられる、生きやすい世界(星や次元)があるのではないかと、まるでそこが心のふるさとであるかのように、想起されることがあります。
そんなものは逃避だと言えばそれまでですが、もっと優しき世界、幸せな世界が、現実を超えたところで存在しているのではないかという憧憬のような感覚です。
確かにそんなことを思い過ぎると、現実逃避になり、それこそ、引きこもりや無気力な生活をしてしまいがちになります。
マルセイユタロットの教義にもあると考えられる「グノーシス」にも、実は、そんな理想のどこか、天国や桃源郷のような神の世界と、現実のシビアで、生きるのに必死な世界との対比を見て、後者は悪魔によって作り出された偽物の世界であり、本当の世界は前者で、私たちの魂が本来あるべき故郷、住むべき場所だと、神話的に象徴されているところがあります。
従って、グノーシス思想を原理主義的にとらえてしまうと、現実逃避の考え方にもなりやすいところがあるので、ある面、危険なのです。
心の弱い人の中には、現実というものが、普通の人以上に厳しくとらえてしまうところがあり、たとえ自分はよくても、他人や外の世界まで気遣い、悲嘆にくれてしまう面があります。その気持ちは私にはよくわかります。
しかし、ここであえて、スピリチュアルやグノーシス思想を逆手に取るような感じで、別の見方を導入してみましょう。
それは、「霊的な問いかけ」という意味では普通にあるような言える形式ですが、「何のためにこれを経験しているのか?」とか「何のためにそれがあるのか?」みたいな深い意味を見るやり方です。
これらの答えは、言ってみれば、すべて「学び」のためとしてしまえばそれまでなのですが、学びというと、何か修行めいた苦しみを生み出しかねませんので、単に学びのためという答えだけではなく、さらに「では、何のために学びをするのか?」と、何度か質問を繰り返していくことに、救いが見えてくる気がします。
今、個人的に思うのは、心弱き人がシビアなこの現実次元に生きているのは、個別の意味もそれぞれあるとは思いますが、スピリチュアル的に考えれば、宇宙全体の(進化・深化)のためと言えるかもしれません。
個我と全体というのは対比されるものですが、さらにそれさえも循環するものであるのが宇宙の仕組みのようにも思います。
私たちには、個我としての自立を、あるレベルにおいて完全に確立しなければ、全体へと復帰(還元)できない宿命やシステムのようなものがあると見られます。(そして全体はまた個別へと分かれていく道の繰り返し)
それはいわば、宇宙全体の呼吸のようなふたつのサイクル・動きと言えるかもしれません。
個別(一人一人)においても、その大きな動きは凝縮された形で表現され、つまりは、一人一人の自立が促される問題・課題が常に起きてくることになります。
心弱き人には、特に自立心より依存心が先行します。それは保護と挑戦、いわば陰陽、能動と受動、保守と革新みたいな二元表現の偏りでもあります。
一見、責任を強く感じるくらいのまじめさを持っていても、その実、完璧でないと、あるいは、安心と思えるサポートがされていないとできない、責任が持てないという心の構造になっている人がいます。
極端に言えば、チャレンジや改革に対する逃げであり、責任からの逃避、言い訳みたいなものです。
もちろん、チャレンジばかりがいいわけではありませんが、何事も、挑戦し、改革しないことには、現状を変えていくことはできません。
チャレンジして、自信を深めていくことができれば、すなわち、自立した自分がどんどん確立していくことになります。なぜなら、自立すること(真の意味で)と責任を持つことは同意義のところがあるからです。
ですから、自立ためにはチャレンジしていくことは不可欠と言えます。
おそらく、スピリチュアル的に言えば、人は誰しも完全性を持ち、心弱き人も強き人も、本当はいないのだと思います。
ある環境や条件、次元下のもとで、そうした性格や特徴を持つよう、付与されてきたものであり、表現方法のひとつだと考えられます。言い換えれば役割です。
もし自分が心弱き人だと思う場合は、それはそういう役割を自分が受け持っていると考え、弱さからくる逃げではなく、少しずつでもチャレンジし、責任と自信が持てるようにし、自立を促していくことにあり、結局それは全体としての寄与になるのです。一人一人の使命と言ってもいいかもしれません。
この現実世界では、例えば経済的自立などとして、自立の形(目に見える形・結果)が明確ですが、本当はエネルギーのようなものが大事で、自分はもう大丈夫!みたいなゆるぎない心的エネルギーが、宇宙にとっては重要なのではないかと推測します。ただ、現実次元においては、形も大切だということでしょう。
グノーシス的に言うならば、心弱き人が持つ理想の心優しき世界・天国に帰るためには、自分の役割を思い出し、それを果たしていくことがその道になるのではないかということです。
あなたは心弱き人ではなく、そうした役割を持ってここに来た、いわば挑戦者、チャレンジャーなのです。あえてシビアな(と感じるセンサーを持って)この世界に降りてきたのでしょう。
理想世界と現実世界が反転した関係にあるとすれば、弱い人ほど強い人になります。(笑)
この現実世界では、今より上のレベルでの平和や安楽の実現のためには、難しいことにチャレンジする仕組みになっています。これはマルセイユタロットでは「悪魔」と「神の家」の選択対比でも例えられます。
苦労しなければ、努力しなければ手に入らないと言っているのではありません。それぞれにおいて、自立を意識し、それに伴う責任を持つ道の選択をしていくチャレンジが重要だと言っているのです。特に心弱き人については、です。(でも、無理をするのではなく、少しずつでいいのです)
この世界は厳しいだけではありません。表裏一体、必ずバランスが働いています。ですから、サポートや支援、救い、癒しもセットで存在します。
厳しいと思っても、見渡せば同時に、あなたにとって優しい世界・人、物事は確かに存在しています。それは天上と地上という垂直な関係(神と人、祈りの関係)だけではなく、平行世界、同じ世界(人と人、実際の関係)の中にも厳しさとや優しさがあります。
つまるところ、それはすべて宇宙の愛の表現であると言えるのではないでしょうか。
厳しき世界の中の優しき戦士さん、あなたは宮廷(コート)カードの小姓(ペイジ)かもしれませんが、実は騎士(ナイト)でもあるのです。あの16人はあなた全員であり、それぞれの世界においての選択する(表現する)人間像でもあるのです。
