迷った時に

現実の肯定

マルセイユタロットの大アルカナで、現実的なことをもっとも象徴するのは、おそらく「皇帝」かもしれません。

もちろん、ほかのカードでも言えますし、そもそも、22枚(細かく言えば78枚)による完全性の象徴だと取ると、あらゆることは22枚に分かれ、表現されることになります。

ですからその意味においては、「現実」についても、言わば、「月」の現実もあれば、「13」の現実もあるのです。

と書いてみて、ちょっと面白いので、その続きを書きます。

さきほど「月」の現実と言いましたが、皆さんはこの表現で何を思い浮かべるでしょうか? 月のような現実をイメージすれば、はかない現実、淡い幻のような現実、夢としての現実・・・こんな印象が出るかもしれません。

とすると、それは現実と言うより、幻想に近いものとなりますが(苦笑)、人によっては、他人が幻想だと思うものでも、その人にとっては現実と認識しているかもしれないのです。

ある人にとっては、とても現実的な重要事項であっても、他の方から見れば、夢・幻、幻想を追っているようなことは意外にあるものです。

たとえば、最近の話題では、自粛中にパチンコに行ってしまうような人と、それを見ている一般人という構図にもあてはまるかもしれません。

パチンコに行く人にとっては、それは現実であり、彼らの現実においては大切なことだと本人は思っているわけですが、他の人には幻か夢を見ている人のように映るわけです。

というように、現実ひとつ取っても、22枚で検証すると、いろいろな見方ができます。

今日の話題はそれではありません。(前置き長くてすみません(笑))

だしゃれ(苦笑)ではないですが、「皇帝」と「肯定」、そして「現実」(の生活)のお話です。

私たちが、現実の生活をしていく中で、イキイキとして、楽しく暮らしている人と、いつも悩んだり、辛かったりの気分で過ごしている人との二種類があると思います。

いや、多くの人は、そのはざまに位置するのかもしれませんが、まあ、言ってみれば、明るくポジティブに生きる傾向の人と、物事を深刻にとらえ、ネガティブ気味に生きる傾向の人と、大分されるところはあるのではないかと思うわけです。

それは、実際に自分の状況が現実的によいとか、順調であるとか、恵まれているとか、先天的・後天的環境要因に左右されることがあるのも確かです。

しかし、やはり持って生まれた性格と言いますか、思考・感情のスタイルによるところのほうが大きい気もします。

そういう性質の違いのほかに、もうひとつ、現実をどれくらい肯定できるかによって、運や生き方、ひいては人生の楽しさも変わってくるのではないかと思います。

逆に言えば、現実を否定すればするほど、現実の神から見放されるかのごとく、自分が追い込まれ、苦しい状況になっていくところもあると考えられます。

これは、実は当たり前のような話で、この世、現実が否定されるのであれば、当然その中で生きるのもつらくなり、幸福や満足度、充実感を味わうことは少なく、難しくなるでしょう。

現実が肯定できれば、何よりも、自分の存在も肯定でき、この中で精いっぱい生きること、表現することもいとわず、それが楽しくもなるはずです。

最初にマルセイユタロットでは、現実をもっとも象徴するのは「皇帝」のカードだと言いました。ならば、「皇帝」を自分のものにすれば、現実はもっとしっかりとしたものとして、自分の中に立ち上がり、「皇帝」による肯定が行われるでしょう。

言い換えれば、自分を認め、自分自身を治める自立でもあります。

現実否定は、奥底には自己否定と心理的には関わっている部分もあり、自分を認め、確立することで自分が「皇帝」となり、現実を治める存在として自信が持てるようになって、現実(自分を取り巻くもの)は肯定されてきます。

自分が否定されると、その自分のいる現実の世界も否定され、居場所がいなくなり、現実は空虚なものとなります。それでは、現実が充実することはなかなか困難です。

自己批判、自己否定だけではなく、反対方向の、他人批判、他人否定も、現実否定につながり、つまりは現実肯定から遠ざかりますから、幸せ感も少なくなります。

現実肯定には、実際的なモノやお金の充実、自分の地位や名誉の向上などで、肯定感を増すことが考えられますが、それはある意味、危険であり、常に他人や量での比較に悩まされる代償も伴います(際限がない)。

しかし、それが一時的には効果的な人もいるので、方法論としては、人によってはありかもしれません。

心理的には、先にも述べたように、自己肯定感が持てるように自己の内面をクリアーにしていくことが求められますが、自分(の内的)方向以外にも、外方向に、少しずつ、愛するものを増やしていくということも考えられます。言い換えれば、自分がその存在を肯定できるものを増やすということでもあります。

愛の低次には、「好き」という感情のものもありますから、好きなものを増やすという方法でもよいですし、もっと狭めたやり方で、嫌いなものは多くても、ひとつでもよいので、とことんあるものを好きになるということを極めていくのも方法だと思います。

また、嫌いなものをフラットな感覚(好きでも嫌いでもない)に戻すということも一方法でしょう。

とにかく、「このために生きている」というモノ・対象・人、何かを見つけると、少なくとも、現実はそれがある世界ですから、肯定感が出ます。

それでも、もともと現実は否定されるような思想、考えを持ってしまう人はいます。

原理グノーシスなどでは、そういう、根本的な現実否定の思想と言えます。

そこで、これは私自身がそうなのですが、あるレベルの現実を肯定することは無理でも、この現実の中にある、ほかの現実を見出すという意識を持てば、あながち、この世界も捨てたものではないという肯定感が出ます。

この現実世界に隠された本当の現実世界を発見する目を持つとでもいいましょうか。(こうなると、一般に思う通常の現実は現実ではなく、むしろ幻想であるという考えになってきます) ゲームのクエストような感覚にも近いです。

現実を否定しながらも現実を肯定する、いや、新たな現実を見出す、創造すると言ったほうが正しいかもしれません。

いずれにしても、実際の人生を幸せにするためには、現実の肯定感というのは、とても大切なのではないかと思います。

それが純粋に持てる人は、世の中の状況や環境がどうあれ、いつも希望を持ち、明るく活き活きとして、そのために、実は現実のほうがそれに引き寄せられ(作り変えられ)、幸せな状態(環境も)になりやすいという仕組みもあるように思います。

言ってみれば、世界はよいもの良い方向に進んでいると素直に信じるような人と、そが実現する現実との関係です。

ですが、人にもいろいろなタイプがいて、性格も違います。

ひねくれ者や、天邪鬼な者、自分や現実がなかなか素直に肯定できない者、地球の長い支配的な歴史・状況の様相にどうしても合わない者もいると思います。私なども、こちらの部類が多分に性質としてあります。(苦笑)

それも役割と言いますか、選んだ個性であり、必ずしも悪いものではないでしょう。

それでも、現実にいる理由、肯定感が少しはあったほうが、自身の生きる意味も肯定されるはずです。

あなた自身が否定しても、親が、子供が、友人が、動植物が、自然が、地球が、果ては宇宙や神が、とにかく何者かがあなたを肯定しているのです。

なぜならあなたが現実(と人々が思っているこの世界)に存在するからです。


厳しい世界と優しい世界

皆さんの中で、自分は心が弱いと自覚している方がおられると思います。

かくいう私も、断然(苦笑)弱いほうだと思います。そんな私だからこそよくわかるのですが、「弱き」ほうへ向かう時、しゃれではありませんが、それは「弱気」になっているからだと言えます。

そこには心理的には自己防衛のようなものが働いていることも見えてきます。逆を言えば、そのため、強く成長するための課題が与えられているのだと考え直すこともできます。

ただ...この現実の世界は、あまりにも厳しいところがあるという思いも出ます。

スピリチュアル的なことで言いますと、もっと皆が幸せや楽を感じられる、生きやすい世界(星や次元)があるのではないかと、まるでそこが心のふるさとであるかのように、想起されることがあります。

そんなものは逃避だと言えばそれまでですが、もっと優しき世界、幸せな世界が、現実を超えたところで存在しているのではないかという憧憬のような感覚です。

確かにそんなことを思い過ぎると、現実逃避になり、それこそ、引きこもりや無気力な生活をしてしまいがちになります。

マルセイユタロットの教義にもあると考えられる「グノーシス」にも、実は、そんな理想のどこか、天国や桃源郷のような神の世界と、現実のシビアで、生きるのに必死な世界との対比を見て、後者は悪魔によって作り出された偽物の世界であり、本当の世界は前者で、私たちの魂が本来あるべき故郷、住むべき場所だと、神話的に象徴されているところがあります。

従って、グノーシス思想を原理主義的にとらえてしまうと、現実逃避の考え方にもなりやすいところがあるので、ある面、危険なのです。

心の弱い人の中には、現実というものが、普通の人以上に厳しくとらえてしまうところがあり、たとえ自分はよくても、他人や外の世界まで気遣い、悲嘆にくれてしまう面があります。その気持ちは私にはよくわかります。

しかし、ここであえて、スピリチュアルやグノーシス思想を逆手に取るような感じで、別の見方を導入してみましょう。

それは、「霊的な問いかけ」という意味では普通にあるような言える形式ですが、「何のためにこれを経験しているのか?」とか「何のためにそれがあるのか?」みたいな深い意味を見るやり方です。

これらの答えは、言ってみれば、すべて「学び」のためとしてしまえばそれまでなのですが、学びというと、何か修行めいた苦しみを生み出しかねませんので、単に学びのためという答えだけではなく、さらに「では、何のために学びをするのか?」と、何度か質問を繰り返していくことに、救いが見えてくる気がします。

今、個人的に思うのは、心弱き人がシビアなこの現実次元に生きているのは、個別の意味もそれぞれあるとは思いますが、スピリチュアル的に考えれば、宇宙全体の(進化・深化)のためと言えるかもしれません。

個我と全体というのは対比されるものですが、さらにそれさえも循環するものであるのが宇宙の仕組みのようにも思います。

私たちには、個我としての自立を、あるレベルにおいて完全に確立しなければ、全体へと復帰(還元)できない宿命やシステムのようなものがあると見られます。(そして全体はまた個別へと分かれていく道の繰り返し)

それはいわば、宇宙全体の呼吸のようなふたつのサイクル・動きと言えるかもしれません。

個別(一人一人)においても、その大きな動きは凝縮された形で表現され、つまりは、一人一人の自立が促される問題・課題が常に起きてくることになります。

心弱き人には、特に自立心より依存心が先行します。それは保護と挑戦、いわば陰陽、能動と受動、保守と革新みたいな二元表現の偏りでもあります。

一見、責任を強く感じるくらいのまじめさを持っていても、その実、完璧でないと、あるいは、安心と思えるサポートがされていないとできない、責任が持てないという心の構造になっている人がいます。

極端に言えば、チャレンジや改革に対する逃げであり、責任からの逃避、言い訳みたいなものです。

もちろん、チャレンジばかりがいいわけではありませんが、何事も、挑戦し、改革しないことには、現状を変えていくことはできません。

チャレンジして、自信を深めていくことができれば、すなわち、自立した自分がどんどん確立していくことになります。なぜなら、自立すること(真の意味で)と責任を持つことは同意義のところがあるからです。

ですから、自立ためにはチャレンジしていくことは不可欠と言えます。

おそらく、スピリチュアル的に言えば、人は誰しも完全性を持ち、心弱き人も強き人も、本当はいないのだと思います。

ある環境や条件、次元下のもとで、そうした性格や特徴を持つよう、付与されてきたものであり、表現方法のひとつだと考えられます。言い換えれば役割です。

もし自分が心弱き人だと思う場合は、それはそういう役割を自分が受け持っていると考え、弱さからくる逃げではなく、少しずつでもチャレンジし、責任と自信が持てるようにし、自立を促していくことにあり、結局それは全体としての寄与になるのです。一人一人の使命と言ってもいいかもしれません。

この現実世界では、例えば経済的自立などとして、自立の形(目に見える形・結果)が明確ですが、本当はエネルギーのようなものが大事で、自分はもう大丈夫!みたいなゆるぎない心的エネルギーが、宇宙にとっては重要なのではないかと推測します。ただ、現実次元においては、形も大切だということでしょう。

グノーシス的に言うならば、心弱き人が持つ理想の心優しき世界・天国に帰るためには、自分の役割を思い出し、それを果たしていくことがその道になるのではないかということです。

あなたは心弱き人ではなく、そうした役割を持ってここに来た、いわば挑戦者、チャレンジャーなのです。あえてシビアな(と感じるセンサーを持って)この世界に降りてきたのでしょう。

理想世界と現実世界が反転した関係にあるとすれば、弱い人ほど強い人になります。(笑)

この現実世界では、今より上のレベルでの平和や安楽の実現のためには、難しいことにチャレンジする仕組みになっています。これはマルセイユタロットでは「悪魔」と「神の家」の選択対比でも例えられます。

苦労しなければ、努力しなければ手に入らないと言っているのではありません。それぞれにおいて、自立を意識し、それに伴う責任を持つ道の選択をしていくチャレンジが重要だと言っているのです。特に心弱き人については、です。(でも、無理をするのではなく、少しずつでいいのです)

この世界は厳しいだけではありません。表裏一体、必ずバランスが働いています。ですから、サポートや支援、救い、癒しもセットで存在します。

厳しいと思っても、見渡せば同時に、あなたにとって優しい世界・人、物事は確かに存在しています。それは天上と地上という垂直な関係(神と人、祈りの関係)だけではなく、平行世界、同じ世界(人と人、実際の関係)の中にも厳しさとや優しさがあります。

つまるところ、それはすべて宇宙の愛の表現であると言えるのではないでしょうか。

厳しき世界の中の優しき戦士さん、あなたは宮廷(コート)カードの小姓(ペイジ)かもしれませんが、実は騎士(ナイト)でもあるのです。あの16人はあなた全員であり、それぞれの世界においての選択する(表現する)人間像でもあるのです。


変人化のススメ

人間は強い人ばかりではありませんし、いつもいつもクリエイティブで前向きというわけではないでしょう。

他人と自分を比べてしまうと、つい人のよいところばかり目につき、自分はダメだ、何をやっているんだろう・・・と悩んでしまうことがあります。

そのため、メンタル系の話では、人と比べないこと、自分基準でできることを推奨しています。

さらにスピリチュアル系にでもなりますと、すでに自分自身は完全であるので、何も不足も傾きもなく、そのままの自分でよいことを知るべしと言われます。

それは心理であり真理なのかもしれませんが、現実的には、いろいろな違う人たちと暮らす世の中です。

人と比べるなと言っても、比べないようにするほうが難しいです。むしろ、人生は比較の時空と例えてもいいかもしれません。

現実・実際においては、すべては違いというもので表されます。「同じ」という概念・考え方でさえも、違いがあるからこそわかるのです。

時間や距離も長さなどで違いが出ますし、自然や天気も毎日変わります。人の見かけや内面さえも違うことが普通です。厳密に言えば、まったく同じモノなど存在しないでしょう。

ところが、原子や素粒子レベルまでミクロ化すれば、同じ構造を見ることができ、ある意味、すべて同じであると言えます。逆のマクロ方向にしても、超巨大なものは「ひとつ」ということになって、同じに行きつきます。

つまりは、私たちの思う「違うという現実世界」でさえも、ある種のレベルや次元、範囲でしかないということになります。

とは言っても、通常認識において、違いの世界がノーマルなところに、何の因果か(苦笑)、放り込まれているわけです。

スピリチュアルでは、違いよりも同じを見る世界と言えますが、何度も言うように、現実世界では違いのある世界です。

よって、現実世界をうまく泳いでいく(渡り歩く)には、違いを意識することが、逆に現実と調和する(なじむ、過ごしやすくなる)ことになるのではないかと考えられます。

例えば、ビジネスや商売の世界では、ほかとは違うウリとかアピールするものがあればよいと言われます。どこでも手に入る、特に目立たないものを売っていても、そこから買う必要性が少なくなるからです。

そして、今から述べることは、あまり聞かない話だと思いますが、マルセイユタロットで言えば「愚者」と「吊るし」に象徴されるものです。

この二枚は、いわば変わり者を表しています。

「愚者」は定住して(定職を持って)、きちんと暮らしている人たちとは違い、ずっと旅をし、その土地や人に縛られることから逃れています。しかしながら、一般人から見れば不安定で異質な人間で、実際、絵柄的にも、ズボンが破れていたり、奇抜なスタイルであったりと、一般の人とは違うニュアンスを醸し出しています。

また、「吊るし」の人物も、逆さで、二本の木の間でぶらさがっており、これまた不思議で変わった雰囲気があります。

言ってみれば二人とも変人なわけです。(笑)

しかし、この二枚に見る変人スタイルが、現実世界での生活に変化をもたらせ、生きにくい、暮らしにくいと思っていた自分を、現実に調整し直させることになります。アジャスト・再適応・再調整と言ってもいいです。

変人というのは、普通とは違うから変人なのです。しかし、普通人である「あなた」が、もし現実が生きにくい、暮らしにくいと感じているのなら、それは普通人であるから、あるいは、普通人(常識人)であろうとするから、ということも言えるのです。

よく、世界を変えたいのなら自分を変えろと言われますが(外の世界を変えることはなかなか大変なので)、それと似たようなことで、普通人であるあなたが、今の世界に適合していないのなら、変人になると、逆に適合しやすくなるかもしれないということなのです。

それは、先述したように、現実世界が違いの世界であるからで、違いを生み出すと、この世界はあなたを認めるという妙な構造というか、システムになっているからなのです。

統合しての「同じ」を極めていくと、それはそれで生きやすくなる(神の次元に近づくため)のですが、浮世離れした感覚が必要となります。

それとは反対に、自分のエッジを立てることで、世界に自分を認めさせるという方法で、生きやすくする方法もあるのです。

こういうと、自分の個性とかブランディングを進めていくみたいな、ビジネス的な話のように思いますが、今回言っているのは、「愚者」とか「吊るし」のように、変わった方法、イレギュラーで、一見ネガティブのようなやり方でもOKという話なのです。

もっと具体的に言えば、「愚者」は普通や常識から逃げることであり、「吊るし」は常識を拒否して籠ることだったり、逆張りをするようなことだったりします。

まさに逃げやブロックという、世間ではネガティブなことと言われている方法を取ることで、自分を変人化し、それでもって、自分の身を守ると同時に、変わり者として認知されることで、逆に生活の自由度を上げていこうというものです。

私など、典型的と言えます。その昔は公務員をやっており、世間一般的には安定したよい仕事、常識人、普通人と見られていましたし、自分もそれでいい思っていたところがありました。

しかし、うつ病などをきっかけに、公務員の仕事も難しくなり、結局、タロットの世界(仕事)で生きていくように変えました。

まあ、今も、普通人的に見れば、まともに生活しているとは言い難いですが、気持ち的にはずいぶん楽になってますし、公務員人間、まじめ人間だったらできなかったこともできるようになったと思っています。つまり、自分の自由度が上がったわけですね。

現実世界は(時間の流れこそあれ)、何も変わっていなくても、私自身が変人を選択したことで(笑)、かえって世界に適合しやすくなった(生きやすくなった)というわけです。

ですから、いいことをしようとか、まともでいようとか思わなくても、変人化するだけで、意外に現実はあなたにやさしくなることがあるのです。

変人化でも、すでに述べたように、自分の特技をウリにするとか、個性的なビジネスするとか、そういうものがいいとは限りません。

この世界はネガティブにしろ(犯罪とか反社会的なものはダメですが)、ポジティブにしろ、違いや個性が出てくれば、世界があなたを活かし(生かし)やすくする仕組みがあるようなのです。(ただし、霊的には一時しのぎみたいな効果ですが)

ということで、皆と同じ、普通、まじめでは苦しかった人、生きにくかった人は、「愚者」や「吊るし」を見習い、変人(笑)になってみましょう。


あれかこれかで悩むこと

タロットでの相談や悩みを聞いていますと、たいてい、こういうケースに当たります。

それは、あれかこれかの選択で悩んでいること、です。

意外にも人は、たくさんの選択肢で悩むことは少ないものです。むしろ、選択肢が多いというのはうれしい悲鳴というか、贅沢な悩みなのかもしれません。(その場合は、価値観に従い、優先順位をつけるとよいです)

たったひとつのもの(人)を失うようなこと、あるいは、それを得られないこと、そして、今述べたように、ふたつの選択肢の間で悩んでしまうこと、これが、分析すると、当てはまるパターンとして多いのです。

そうしますと、悩みの解決法は、実はシンプルになってきます。

構造的なアプローチと言いますか、そういう視点で見た場合、ひとつのことにこだわるか、ふたつのものの間で選択に悩むかというケースが浮かび上がります。

前者は、自分と対象(得たいと思うもの)の関係で、結局、得られるか得られないかのことになり、後者はそのまま、ふたつのうち、どちらを選ぶか(選べばいいか)のことで、それはどちらも、二者葛藤の構造にあると考えられます。

単純な白黒の図で書きますと

〇得られる ●得られない

〇を選ぶか  ●を選ぶか

というものです。

 

そして、ここが大事なところですが、〇と●は並列の横並びの位置にあります。

もし、ここで、違う位置、つまり縦位置に「ある図」描くとしましょう。

    ※

 〇 ●

※印の位置です。

 

※印の位置は、〇と●とは異なり、別の空間と言いますか、縦位置にあります。

ここにも実は隠れた選択肢があるということです。しかしながら、ふたつの構造の悩みに陥っている人には、それが見えません。

→ 〇 ● ←

ここでの矢印は、たとえ、別の方向であったとしても、〇と●と同じ並列の位置から見ているので、この人には、〇か●(逆方向だと●か〇、どちらにしても同じこと)しか選択肢が見えないのです。

けれども、※印の視点になれば、〇か●は、質として、同じ選択に見えてきます。言ってみれば、どちらも同じ、あるいは、どちらでもないみたいな感覚です。

右の人(道)がよいのか左の人(道)がよいのかとずっと悩んできて、ある日、ふと、どちらの人でもないんだとか、自分一人でもできる(一人でもいい)んじゃないかと気づくようなことです。

道の例えをしましたので、それをさらに使わせてもらうと、ある人が、道を進んで行くと、やがて左と右に分かれている分岐点に来たとします。

そして、自分の道は左に行けばよいのか? 右に行けばよいのか? と悩んでしまいます。目的地に行くためには、どちらかの道しかこの人には見えないので、悩むわけです。

ここに立体次元を導入します。そうですね、ヘリコプターでも登場させましょうか。(笑)

ヘリコプターがやってきて、びっくりしている間に乗れと言われて乗り込むと、ヘリは空に舞い上がりました。その人が上空から下を見ますと、右の道も左の道も、最終的には同じ場所につながっているのが見えました。

あるいは、右と左の道が、それぞれ別々の方向に進むのが見えても、広大な範囲で言えば、遠回りになっても、ほかの道にも続いていて、やがて目的地には必ず着くというのがわかります。(巨大な地図で見るようなもの)

もちろん、有限な時間(と場所)の中では、効率よく選択しなければならないという制約はあります。すると、右(あるいは左)でなければならなかったという理由も出ます。

しかしそれとても、そもそも論までになりますと、あなたがなぜその目的地に行かねばならないと思っているのか?ということに行き着き、ここにも二者構造の問題が出てきて、違う視点(可能性)に導かれるきっかけが出ます。

さて、ヘリコプターも、ある意味ではです。上空の道とでも言いましょうか。

これは、先ほど述べた「同じ並列の間(世界)」では、絶対出て来ない(見えてこない)道です。

つまり、次元やレベルが同じ位置にあると、悩みからはなかなか出られないということです。出られるにしても、結局、同じ次元の選択肢を無理矢理選ぶか、限定された時空間での効率選択になる場合がほとんどです。(そしてそれは錯覚の出口でもあります)

限定された時空間の効率選択とは、言い換えれば、お金とかモノのあるなし、三次元的(物質)損得、あるいは感情・欲求(低次人間性)をただ満たすような選択基準になるということてす。

現実・三次元感覚で多くの人が生きている限り、実際に仕事などの納期、効率性などにおいて、同じレベルの間で、限定された時空間の効率選択をしなければならないシーンは確かにあります。それはそれでいいと思います。

しかし、すごく悩んでしまうものについては、その効率性や損得的な見方をしていると、同じレベルでの選択肢しか見えて来ないので、次元やレベルを超えた選択肢・方法の視点を獲得することができにくくなります。

新しい視点を獲得するということは、つまりは次元の上昇を意味しますから、あなた自身が新たにシフトを起こし、まったく問題や解決の意味合い・視点も変わり、今まで気づけなかった資源、選択肢が多数出現し、生き方は今までより、とても楽になるはずなのです。

こうした縦の新たな次元・視点をもたらす構造は、マルセイユタロットで頻繁に描かれていることであり、特に、「恋人」や「運命の輪」には顕著です。

このような視点の必要性は、個人だけではなく、今、世界で起きている問題についても言えます。

今までの経験や知識に頼れば頼るほど、同じレベルの間での選択肢しか見えません。脱出や解決法が皆目わからないみたいなものです。

本当に買い物に今走らねばならないのか?、買うにしても、思っているもの以外で、代用したり、生きる糧にしたりできるものはないだろうか?

これまでと同じ生活、生き方をトレース・イメージすればするほど、不足におびえ、恐怖と不安は増します。

生き方をシフトしていく勇気と気概、そして月並みに聞こえかもしれませんが、本当に「」(他人愛だけではなく、まずは、エゴではない本当の意味の自己への愛)が試されてくるでしょう。


講座・セミナー受講の選択・心構え

自己啓発とか成功を目指す的な講座に出る人は、その講師の人、先輩方から「こんな風にすばらしい私になれるんです」とか、「こんなすばらしい世界があなたを待っています」など、聞かされることもあるかと思います。

自己啓発系・成功系だけではなく、たとえば、私の業界とも言えるタロット関連の講座でも、「タロットができて、自分も他人も変わります」とか、「以前の私(講師・受講生)はこうでしたが、今は講座を受けて、経済的にも精神的にもすごく充実してます」みたいな触れ込みを見る人もいるでしょう。

当然の話ながら、何のために自分がセミナーや講座を受けるのかを考えれば、受ける自分が今よりも向上したい、よくなりたい、知識や技術をさらに身に着けたいという思いからなので、講座を提供する側も、どんなメリットが、この講座を受けるとあるのかを明確にしたほうがよいわけです。

もし数値で効果やメリットを表すことができるものならば、そうしたほうが明確で、成果保証みたいなことも提供側からつけることも可能になります。

例えば、コンサル講座的なものであれば、あなたの売り上げ何パーセント上げますとか、月収〇〇万にしてみせます!みたいなものです。

けれども、全員が全員、講座のキャッチコピーみたいな効果や成果が得られるとは限りません。どんな講座やセミナーも、参加者に100%の効果・保証を約束できるものはないでしょう。

それだけ、人には個性があるからで、言ってみれば、完全なる普遍的な法則はないと言えます。

ただ、それでも物理法則とか、どんな人にも適用される普遍的なものはこの世にはあることはあります。しかしながら、いわゆる教える系での、全員が必ず同じになるような完全法則はないと言えるでしょう。

これは結局、教える内容よりも、教えられる人の気持ちやメンタルに左右されるからだと言えます。

行動ももちろん、目的達成や効果が出る出ないに関しての大きな要因ではありますが、結局、行動を規定しているのも、その多くは個人のメンタルや精神性にあると思えますから、つまるところ、個人個人の心によって、ほぼほぼどんな法則も変わってしまうところがあるわけです。

ここに教える系の講座やセミナーの難しさがあります。

それから、誤解している人もいると思いますが、教える講師や、そのセミナーの卒業生たちが、全員言われているような効果を出したり、目的を完全達成していたりするわけではないということです。もちろん教えられている内容には自信や効果は、それなりにあるからやっていることで、効果がないというのではありません。

ここで言っているのは、人間性とか、そういう面も含めて、トータル的に成長しているかどうかはわからないということです。(技術と人間性は別のところもあります)

わかっている人はいいのですが、セミナーとか講座は、ある目的とかある技術を教えているだけであり、すべてがうまくい行くとか、総合的に人間性が向上するという教育をしているのは(あるにはありますが)少ないのですから、特定の分野については上がっても(よくなっても)、全体・すべてがうまく行くようになるとは限らないのは当然です。

よい講師はそのことはきちんと伝えていると思いますが、悪徳なセミナー・講師の人は、「この講座のこれさえ学べばすべての問題は解決し、あなたはあらゆる望みが叶えられ、幸せになれる」と豪語しているところもあります。こういうものは、洗脳に近い形式を取っているところもありますので、注意が必要です。

ですから、セミナー・講座を受ける側も、自分は何のためにそれを受けるのかを今一度明確にするとよいです。

経済問題を改善するためとか、仕事のある技術を学ぶためとか、この職業に就くためのある資格を取るためとか、人間関係をよくするためとか、生き方とか創造性についてアイデアを得たいとか、第二の人生のための趣味や生き甲斐を持ちたいとか・・・まったくの無目的、漠然とするより、少しでも何のために受講するのかの目的を自覚させておくことです。

実際には、受講する講座が必ずしも、当初の目的に適う(叶う)ものではないかもしれませんが、目的をはっきりしておけば、自分にとって重要な部分とそうでない部分もわかりますし、最悪、途中キャンセルして学び直すこともできます。

逆に、目的が受講中に変わって(その目的よりもっと大きなものとか大事なものが見つかるなどして)、新たな自分を発見することもあるかもしれません。どちらにしても、やはり目的を意識していたほうがいいわけです。

あなたが選ぶ講座やセミナーの講師の方は、その(教えられている)道ではすばらしいと思いますが、講師も人間ですから、完璧ではありません。

講師に尊敬はあっても、幻想を抱きすぎたり、その方に何とかしてもらおうと、依存性を持ちすぎたりするのは危険です。

自己成長どころか、マルセイユタロットで言うところの「悪魔」につながれた人物のように、成長が止まってしまうおそれもありますし、次々とその方の別の講座を受講するようになり、気がつけば、大金を失っているという事態もあります。

ここでも自分をしっかり持つことが大切で、誘われるがままに次の段階の講座や、その組織や講師がやる別セミナーを受けることには注意し、何の目的でそれを受けるのか、どういう自分になりたいために、それを受講するのかということを自己に問いかけ、精査することがいります。

よい講師の人は、おそらく、依存性が高くなっている人には、注意を促してくれて、自分が受けたいと言っても、「あなたはその段階にまだいませんよ」とか、やんわり断るか、時期を待つように指示してくれるでしょう。

講師から自分は避けられていると思って悩んでいる人は、講師や講座自体にあまり傾倒し過ぎて、自分自身や本来の目的を見失い、依存が高くなっていないか、自分で振り返ってみるとよいでしょう。講師の人はそれに気づいていて、あえてあなたから距離を取っていることもあるのです。

逆のパターンとして、何も行動しなかったり、講師から言われたことをやらずに、文句ばかり言っていたりする人、「効果が出ません、内容が悪いのでは・・・」と批判するような人(ただし、正当な要求とか批評はよいもので、それが言える雰囲気も大事です)も、講師から見ると、困った人になるますから、避けられているところもあるかもしれません。

カリスマ的で、強い自分を持ち、絶対の効果を謳っているような講師とかセミナー、そういう人・講座こそ、それだけ強烈な輝きを発しているので、魅かれてあこがれて入る人も少なくなく、受講生の中に、依存や虜になってしまう人もいます。

漫画・アニメの言葉で恐縮ですが、ブリーチ(BLEACH)という作品で悪役ではあるのですが、なかなかの言葉を吐く人物がおり、この者が、「あこがれは理解からもっとも遠い感情だよ」と言い放つ場面があります。そういうことなのです。(しかしあこがれが必ずしも悪いものではなく、それがあるからこそ、向上したり、努力ができたり、モチベーションを保ったりすることもできます)

それでも、すごい講師の人は、やはりその分、技術や知識もすごいので、望む結果をあなたにもたらす確率も高まることでしょう。人気になるのも、それだけの理由があるのです。(ご本人の努力、意識の高さも常人を超えているはずです)

ちなみに・・・私はまったくそのようなタイプの講師ではありません。(苦笑)

講師として、日々、向上はもちろん思っておりますが、私自身が完璧な人間どころか、どちらかというと体力も精神も弱い部類の人間で、不安神経症とかパニックとかうつとかも起こした人物です。

形式的には、私がタロットを教えるという形にはなりますが、精神・本質としては、むしろタロット自体が教えているという感覚です。

もっと言えば、マルセイユタロットにある智慧とか精神とか、示唆する神性(完全性)が教えているのであり、そはれ受講される皆さんの中にあるものです。

私は人としては自己浄化も自尊もままならない、物質的にも精神的にもまだまだ弱い人間ですが、マルセイユタロットの象徴性を借りて、自分と受講性とのあいだに宿る神性の力によって、気づきと自己の成長の道、象徴的にいえば光をもたらすことをしています。

タロットを習ったからと言って、すぐに経済やメンタルが豊かになるわけではなく、引き寄せや願望が叶うテクニックを教えているのでもありません。

何度もいうように、私自身にカリスマ性や特別な力はありません。普通の人より、むしろ脆弱性を持つ人間です。

そんな私だからこそ、下から目線ではないですが、人の気持ちがわかるところもあります。意識高い系や成功系の人たちのように、ひたすら自分を磨き、弱音や愚痴は吐かず、使う言葉、行動に注意して、すばらしい生活と人間であろうとするタイプてにもなれませんし、そのようなことを押し付ける気持ちもありません。

例えば、今の世の中の状態でも、ピンチはチャンスだ!と切り替えられるような強さはなく、やはりこの先の不安とか、いろいろと人としての当たり前の気持ちが出てきます。

それでも、マルセイユタロットの(教えの)おかげで、こんな私でも、気持ちを少しでも安定させたり、人様に、タロット通して成長していくこと伝えることが、なんとかできるのです。

言ってみれば、私は、自分自身が光となって輝き導くタイプではなく、皆さま自身にある光源を在りかを、一緒になって探して、灯をともす作業を地道にしていくというようなタイプです。まるで地味な作業員みたいな者かもしれません。(笑)

「そのことについては・・・えーと、ちょっと待ってください・・・(とマルセイユタロットを出して調べ)・・・こんな風に考えてみてはいかがですか?こういうやり方もありますね」

と皆さんを、指導と言うより、示唆をマルセイユタロットを通して提供していくような感じです。こんな講座で、講師なのです。(苦笑)

それでも私は思うのです。あなた自身の中に、そして私の中にも、すばらしいものがあります。

これからの世の中、確かに今はネガティブなものの想像も多いかもしれませんが、マルセイユタロットを通してあなたの中にある完全性を少しずつ開花していくことにより、ネガもポジもない状況へと導いていくことになると思います。

世の中が変わるのではなく、あなた自身が変わるのです。いや変わってきたからこそ、世の中に変化が大きく出て来たのです。

すごいものを確実にあなたにお見せするような能力は私にはありませんが、一作業員として、一緒にあなたとともに、この世とあなたの自身に光を復活させたいと思っています、それがあなたの強さ、ひいては私の強さにもなっていくのです。


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