迷った時に

学びの本の探し方

私の講座を受講された方には、以後も継続的な学びをしていただくために、様々なアフターフォローを提供しています。

その中のひとつに、受講者用メルマガというものがあります。

このメルマガは、まさにタロットを学習した者だからこそわかる内容のもので、特別な知識と気づき、学習方法などを記載しております。

そして、そのメルマガでは、時折、本や動画などをご紹介し、課題として取り上げ、皆さんなりに学んでいただく企画もしております。(一冊の本並みの解説書を、取り組んでいただいた方にはお送りしております)

こうした時にも思うのは、課題とする題材を選ぶ難しさです。

よく、タロットの学びに当たっても、生徒さんから、「読むといい本を紹介してください」と言われますが、これは、紹介するほうとしては、案外、難しいことなのです。

いや、世の中に、タロットの本はたくさんあり、選択には困らないと思われるかもしれません。

しかし、占いとしての本は確かに多く存在するのですが、私の伝えたいこと、学んでいただきたいことは、占いに使われる意味でのタロットではないのです。

占いではないタロットの本は、実は非常に少ないです。ですから、むしろ、タロットそのものの本よりも、スピリチュアルや自己啓発、心理関係の本などのほうが、当を得ていたり、学習として効果的な場合もあったりするのです。

時には、映画とかアニメネットで配信されているフリーの動画などのほうが、示唆に富むこともあります。

こうした学びのための題材選びは、あまりマニアック過ぎないことが大事で、それでいて、ライト(軽薄)ではないもの、つまりは新たな視点や知識として、学びとなるものが必要とされます。いわば、普遍的でいながら、それぞれ学習者個人個人に対応する気づきも与えられるようなものがいいのです。

全員に共通するような学びがありつつ、個性(個人)的にも有用である、という一見矛盾した条件があるため、選別は難しいわけです。

さて、タロットに限らず、何かスピリチュアルなことに関心があり、そうしたもの(スピリチュアルや霊的な向上)について学びたい、あるいは何か自己啓発して自分を成長させていきたいと思っている人は、やはり人から学ぶか、そうした関係の書籍に当たって学習するでしょう。

まあ、最近は、ネット教材も無料で探せばいくらでもある時代ですから、ネットの文章や動画で学ぶという方法もあります。

とはいえ、まだまだ本・書籍の重要性は大きいかと思います。

いずれにしても問題は、本や動画など、自分の学びのための教材はどう探せばいいのかということです。

今は、気になる言葉や対象について検索すれば、関連本のタイトルや一部内容とか、紹介している人のブログとか、簡単に探せる時代ですので、当然、ネット検索を使うということはありです。

それに、自分が学ぶ分野の、先輩や先生が紹介してくれる本を読んてみるのも、王道といえば王道です。

現在は電子本が普及してきたとはいえ、まだ実際の本もたくさん出版されていますし、リアルの大きな書店に行けば、手に取って見ることもできます。

例えば、スピリチュアルなコーナーに行って、気になるタイトルがあれば、それをパラパラとめくってみると、自分の学びたい、知りたいことの一部が書いている本に出会うというようなことがあります。

これは、リアルな書店は、紙の本であるがゆえに、タイトルや本の雰囲気そのものが一望できることと、質感も伴っているので、ネットで検索して眺めるのとでは、また違う感覚があり、自分の心(顕在・潜在の意識)が引き寄せるかのような仕組みが、より働きやすいのだと想像できます。

ですから、実際に本屋に行くというのも、探求する本、自分に必要な本に出会うためには、よい行為だと考えられます。

あと、目的を変に絞り過ぎないということも、意外とポイントです。

また、ついでに・・・とか、気になってしまった・・・いう感覚も受け入れるとよいです。

例えば、ある(決めている)本を買いに行こうと足を運んでみると、そばにあった別の本が妙に気になり、手にして中を見ると、予想以上に面白そうだ・・・と思ったら、ちょっとお金はかかるかもしれませんが、思い切って最初に買いたいと思った本と一緒に購入してみることで、新たな知識を得たり、道が開かれたりすることもあります。

私自身の経験でも、こうした目的外の本のほうが、その後のために、案外、役に立ったということはよくあります。

いつもはこのコーナーに行くけれども、ちょっと隣や裏に回ってみようとか、そういうことからでも、新しい本と出会う可能性はあります。その時は買わなかったとしても、メモをしていて、あとで検索して調べて、よければネット購入するという方法もあります。

ほかに、仕事の出張や旅行の際に、訪れた地方や別の都市の本屋に立ち寄ってみるというのも、いい本と出会う可能性があります。

おそらく、いつもと、気持ち、土地の雰囲気も違うので、普段、気づかなかったり、無視していたりする本でも、別の地域の場合だと、意識が異なっているので、見つかりやすくなっている(心にひっかかりやすい状態になっている)のだと推測されます。

それから、学びのためには、乱読と集中というふたつのパターンが、その時々によって、効果的になります。

乱読は、ご存じのように、とにかくなんでも気になったものは片っ端から読んでみるというやり方です。

積読になっても構いません。とりあえずストックしておき、読めるものから読んでいきます。最近は場所を取らない電子本の購入、紙の本を電子化することもできますから、データにしてとりあえず置いておくというのもいいでしょう。

乱読は、とにかく広く浅く知識をつけたり、刺激をいろいろな方向から当てて、自分を磨く(学びをする)という効果があります。また、自分が何を欲しているのか、どうしたいのか、どういう方向に関心があるのかというのも、最初はわかっていないことが多いいので、乱読して、ぴったり、しっくりする分野を見つけるという目的もあります。

一方、集中法は、特定分野の本、同系統の本、あるいは同じ著者の本を集中して読んでいく方法です。

これは深く専門的に知識を得たい場合にはよく、好きな人の思想や考え方を、とことん学びたいという時にも向いています。一人を追いかけることで、その人になりきりつつ、また自分流の道を発見することもできます。

同じ分野でも、いろいろなアプローチ・見方があったり、多くの著者がいたりしますので、集中型といえど、乱読に近い形を取ることもあります。

それでも、一時、ある特定のものにどっぷり浸かってみるという経験も必要で、一通りのことが過ぎれば、自然に次の関心に向かうことができます。逆に言えば、人によっては、中途半端に済ませていると、なかなか先に進めない、足踏み状態が長く続いてしまうということがあります。

知識というものは、入れることを目的としまってはダメです。それは単なるエゴの知識自慢に陥りますし、逆に自分を偏狭なる世界に閉じ込めます。

本を読むにしても、必ず一冊全部読まなくてはならないとか、頭に入れてしまわないといけないとか、縛りをかけなくてもよいでしょう。(あえてルールを決めることで、学びを進める方法もありますが)

さきほども言ったように、知識を入れることが目的ではなく、その知識を使って、さらなる気づきや覚醒、成長を促していくのが本当の目的です。

知識を使うことは、何も入れた知識を肯定的に扱うことだけではありません。むしろ、アンチテーゼや、反対側の意見を自分に出させることもあり得ます。そこで葛藤になるわけですが、その葛藤がまた、統合や自分の進化に寄与していくことになるのです。

思考や知識を嫌う人もいますが、ハートのセンサーを磨いたり、本当の自己の中にある叡智を覚醒させていったりするためには、まずは知識を土台(踏み台)にしていく方法もあるのです。入れた知識、学んだ知識を、最終的には捨てるようなことになっても、捨てるためにはまず拾って確かめておく必要があります。

最後に、本などの学びによる選択は、個人ペース、個人ベースであることを言っておきます。

それは、自分の本棚が、誰か他人とまったく同じ本で埋められている、置かれているというようなことはあり得ないということからもわかると思います。

人には、自分なりの価値観や学びの方法があるのです。

人から紹介されることや、ネットで評判だからというきっかけはあってもいいですし、それから始まることも多いですが、学びの内容、方法は、人と違って当たり前だと意識しておくと、回り道をしているような気分でいても、あせらず、すべては自分のよき成長のために起こっていること、選んでいることだと理解できるようになるでしょう。

そうして、まさに、その時の自分にふさわしい本や知識と出会うことになるのです。


初心と思い出話

人間、慣れてきたり、上の立場に立ったりすると、初心を忘れ、ちょっと独りよがりや、傲慢になることがあります。

特に先生と呼ばれるような状況になりますと、自分は謙虚にいようと思っていても、知らず知らず、上から目線になり、学びの気持ちが薄れていくこともあります。

私もタロットを教え、指導することをしていますが、そういうことにならないよう、自分が下になることを意識しています。

自分が下になるようなことと言えば、いろいろと方法はあると思いますが、やはり、自らが学ぶ立場になること、そういう機会を作ることです。

もちろん、何かの先生や指導者になっても、その専門分野においてさえ、まだまだ学びは続ていくものです。

これで完成と思った時点で、技も知識も成長を止めてしまうことにもなりかねません。(段階別に完成を意識することは悪いことではありませんが)

しかし、専門以外のことで、新たに学びの徒、生徒になることのほうが、初心の気持ちに戻る機会が実際にありますから、有意義でもあるでしょう。

ということで、趣味でも何でもいいので、新たに別分野の初心の生徒になってみるのが、下の立場の気持ちになるひとつの方法です。

また、たとえ専門のことであっても、今までとは別の、ほかのアプローチで技術なり知識なりが研鑽できないかと試行錯誤してみたり、専門分野において実践活動するものがあれば、それを実際にやっていったりすることを絶やさないことも重要かと思います。

例えば、タロットでいえば、タロットの指導者であっても、タロットリーディングを、先生的な立場で行うのではなく、一介の名もなきタロットリーダーであるかのようにして、タロットをほかの人に役立てるようなことをします。

また、セラピストやヒーラーなら、自分自身が、ほかの(友人とか知人ではない)人の施術を受けてみるというのもありでしょう。

たとえその結果(受けた内容)がよくなかったとしても、自分の気持ちを新たにするという意味では、得られるものは小さくはないはずです。

ほかに、初心を思い出すため、その時、活動や学びをしていた頃の場所やイベントなどに足を運んでみるというのもいいかもしれません。

私の場合、メールや出張にてのタロットリーディング、タロット占いが実践活動としての最初でしたが、たくさんの人を一気にリーディングしたという初めての経験では、イベントでのものがありました。

それは、今も各地のホールなどでよくやっています、スピリチュアル関係のイベント、マーケットみたいなものです。

申込者にテーブル仕様のブースが割り当てられ、たくさんの出店者たちの人とともに、お客様をお出迎えします。フリーマーケット会場をイメージしていただければ、雰囲気はつかめると思います。

私は地元の神戸のイベントで、同じタロットの学びをしていた友人と一緒にブースを借りて出ました。

友人は、頭を剃っていましたので(修行者ではなく、友人の単なるスタイルです)、あえて着物を着ることで、お坊さんやえらい東洋占術関係の人に見えました。(笑)

で、私のほうはと言えば、これまた、わざとスーツを着て、まるで銀行員のようなスタイル(笑)で出たわけです。

同じブースに一人は着物姿のお師匠さん・お坊さん風、もう一人はお堅い公務員か銀行員みたいな雰囲気で、なぜか二人とも、同じタロットをしているというおかしな組み合わせでした。(苦笑)

これが良かったのか、両方ともお客さんは結構来られました。

面白いことに、友人のほうには、男性客がほとんど、私のほうはほぼ女性客でした。こういうイベントは、女性がほとんどなので、むしろ数少ない男性を集める友人はさすがと言ったところです。やはり恰好が男性をひきつけたのでしょう。

余談として、この時、友人のほうに来られた男性のお客様の一人が、何度か個別にリーディングしてほしいと、友人に依頼があったとのことです。恰好だけではなく、中身と技術も信頼されたのだと思います。

私も占いの館に出た経験があるのでわかりますが、男性はあまり、占いとかスピリチュアル関係には関心がないことが多いですが、一度信用する人を見つけると、口コミはあまりしませんが、すごいリピーターになってくれることがあります。人によっては、中小企業の会社の社長さんなんかが、一年契約で見てくれ、と依頼することもあるほどです。

一方、女性は気軽に占いには来られますし、口コミも流していただけますが、意外とあっさりされているところもあるように思います。

それはさておき、こうして初イベントは、一応の成功を収め、それから何度かイベントには出ました。

リーディング内容はつたないものだったと思いますが、何よりも、たくさんの人の悩みや問題をリーディングし、喜ばれた経験インパクト大で、タロットを以後もやっていこうというモチベーションになったのは確かです。

タロットの生徒さんにも、学びは続けていても、他人へのリーディングは勇気がないとか、自信がないと言って、やりたい気持ちはあっても、長いこと躊躇される方がいます。

しかし、どこまで行っても完璧と言う感覚を得られることはありません。

というのは、理想は、その都度、自分のレベルに応じて変わっていくからです。つまり、技量が上がっても、また次の理想が出てきてしまうので、「これで完璧だ」という気持ちは現れにくいのです。

であるならば、基礎技術・知識が得られた時点で、実践をスタートしていくほうが、慣れにもなって、自信をつける意味でもよいわけです。

もちろん、うまく行かない時はあるでしょう。それでも、何事もやってみないと始まらないのです。

今日は初心をテーマにしていますが、逆に、初心を早く脱するためには、実践をする、自分から行動を起こす、勇気をもって飛び込んでみることも大切だということです。

わかったと思うことと、実際にやるということとは違います。この世の中は実の世界です。わざわざここに来ているのは、たとえ自分でなくても、何(何者)かが望んでいるからでしょう。

ということは、実の世界を経験することが、ひとつの重要課題なのだと推測できます。結果ではなく、ただ経験をしたがっている何かがあるのだと感じます。

それが、もしかすると、カルマの解消や霊的な自己成長につながっているかもしれないのです。


あえて、足掻き、もがいてみる。

よく言わるように、水鳥は、水面上では穏やかに泳いているように見えて、水面下では、もがくように、バタバタと足掻ていると言われます。

見えないところでは努力しているとか、平気な顔をしているようで、実は頑張っているのだというたとえにも使われます。

ただ、私たち人間は、だいたい水鳥で言うと、水面下と水面上の区別がなく、必死でやっていることは、ほかの人にもわかることが多いですね。(笑)

ただ、この「水面」というのを、また別のたとえでしますと、人間にとっての「意識」と「無意識」の境界線みたいなことでも表現できそうです。

自己啓発では、もはや常識のように、無意識や潜在意識のことが取り上げられ、私たちには自覚できない意識層があり、そこにあるデータを書き換えたり、消したりすると、(自覚)意識にも影響し、行動とともに現実も変わると言われています。

そのことは、もっともだと思うところもある反面、無意識や潜在意識というのは、自覚できないからわからないのであって、いったいどういう構造になっているのか、どこにどのような情報が存在しているのかなど、詳細な地図などのようなものは明らかにされていません。

人間として、全員同じ構造は持つと予想されますが、一人ひとり、中身は違うことは容易に考えられ、それは遺伝子構造は同じでも、配列や情報の働き(スイッチが入る、入らないなど)が異なるのと同様なのかもしれません。

ということは、無意識や潜在意識と言っても、万人に共通するような確かな書き換え方式などというのは、あるようでない(個別、オーダーメイドである)、逆に構造的には、ないようである(全体としては通じることもある)とも言えそうです。

だから、自己啓発で、講師から、この方法でうまく行くと伝えられても、それは講師の方と周辺が成功した事例であって、すべての人が適応できるとは言えず、たまたま合う人もいれば、そうではない人もいると思います。

とにかく、まだまだ私たちは無意識のところは、一般的には、よくわかっていないのが実状でしょう。(古代や現代のすごい人では、わかっている人も個別ではいらっしゃるでしょうが、一般化の意味ではまだまだかと)

しかしながら、何となくでも、自分の自覚している意識(自覚する思考や感情パターン)だけでは、自分というものは形成されていないだろうとか、自分の預かり知らないところで、自分の意識や行動というものが影響されているのだろうということは、多くの人には、理解(想像)されているのではないかと思います。

少なくとも、自分ひとりで生きてきた人は誰もいないのですから、親や、これまで生きてきた中で関係した人たちの影響が知らず知らずあることは、普通に予想がつくことです。

マルセイユタロットのを心理的に扱う場合は、こうし影響をタロットの図面の象徴として浮上させ、無意識を意識化することで、心の整理と浄化を果たしていきます。

ただ、先述したように、無意識層というのは、自覚できない層であり、その構造やデータのありか、在り様などをはっきり確認できるわけではありません。

いろいろな技術で、確かに無意識にあったものの一部が意識の表面に上がってくることや、それを上げていくことはできますが、すべてとは言い難いでしょう。

また、「これが無意識や潜在意識に刻み込まれた問題だった」と、たとえ確定したとしても、それが今の問題の全部の根であったという保証はありません。

それがわかるのは、結局、自意識が問題だと思っていたことが実際に消失したり、自分の自覚する思考・感情の中で気にならなくなった時でしょう。

言ってみれば、未来によって、過去の要因がはっきりするようなものです。(この話をしていくと、ちょっと時系列を超えた不思議な話になってきますので、それはまた別の時にでも記事にしたいと思います)

今日言いたいことは、タイトルにもあるように、無意識や潜在意識の構造はなかなかわかりづらいことろがあるので、その中にあるデータが問題の原因だとしても、それを確認したり、本当に問題の原因なのかを特定したりすることは、「今」の時点ではわからないので(わかるのは未来)、とにかく、思いつくものは色々やってみると、奏功することがありますよ(あるかもしれませんよ)、ということです。

まあ、反対に、あまりジタバタするのも、余計混乱を生み出す元になるので、マルセイユタロット的に言えば、「吊るし」のような態度も重要なのですが、何が原因なのか、いろいろと調べてもわからないような問題の場合は、原因追求していくより、行動やプロセスを重視、やれることを、すべてと言いませんが、とにかくひとつとひとつやってみることが打開策になる場合があります。

まさに、水鳥の足ではありませんが、足掻いてみるのです。

ところで、マルセイユタロットの「恋人」カードには、三人のやり取りしているような人間たちと、上空のキューピッドや天使と思われる、異次元存在が描写されています。

この三人は、人間の知るうる情報と方法で、様々なことをやり取りしている、行動しているとも考えられます。

つまりは、目に見える世界のことであり、意識と無意識で言いますと、自覚する意識の部分と言えましょう。

一方、上空の天使は、目に見えない世界(の存在)であり、無意識も象徴していると考えられます。

この天使(キューピッド)は、通常ではなかなか見えないものとされているわけで、だから、私たち人間では、自分たちのわかる(自覚する)世界での選択や行動をしていくわけです。

そこでは、おそらく、間違いをしてしまうこともあるでしょう。(正しくは間違いや失敗だと、自分の価値で認識する事象の経験)

三人での図像を見て、悪く考えると、誰かに言いくるめられたり、お金や時間を無駄にするような情報も入れられたりするかもしれません。

しかし、逆によいこともあり、それこそ、問題を解決に導いたり、クリアにする情報というものを教えてくれたりする場合もあります。

そういう、ひとつひとつは、天使側から見ると、低い次元の話や方法だったり、無意識や潜在意識の層には、何ら効果のないものもあったするかもしれません。

それでも、コツコツと、あるいはバタバタと(笑)足掻いて、必死でいろいろなことを試したり、行動したりして行けば、この「恋人」カードの図像にもあるように、上空の天使(キューピッド)の背後の光のようなものと接触し、天使(キューピッド)に伝わり、矢が放たれるかもしれないのです。

矢が当たると、それは、実際や現実の効果として、確実に変化が生じます。

私たちの目の前には、もしかすると、空からたくさんのお試しのような、あみだくじ的なロープが垂れ下がっているのかもしれません。

そのほとんどは、はずれくじでしょうが(笑)、数当たるうちに、当たりを引くこともあるのではないでしょうか。あるいは、ひとつだけ輝いているもの、正解としてのものが、引っ張るくじでわかるようになるのかもしれません。

また、失敗くじも、チャレンジしただけ、ご褒美とか、再チャレンジ券とかが配られる可能性もあります。(笑)

ともかく、失敗・はずれも、上空の天使次元から見ると、無駄ではないはずなのです。

もがき、足掻ているうちに、いつか、ふっと、気づく瞬間がやってきます。

それは、「なんでこんなことしているのだろう」というおかしさに気づくことだったり、やっているうちに、「これだ!」とひらめいたりすることで、現れることもあります。

現実的にも、問題の原因は、抽象的にはひとつであっても、具体的には、複合的にからみあって生じていることが多いものです。

カルマ的なことも入れると、それは、もう、一人の人間の浅知恵では、なかなか判明のつかないことです。

ならば、原因を突き止めようとするより、改善しようという行動やプロセス自体が重要であり、それを神や天使が(自分の魂)が、促しているということもあるのではないかと想像します。

今、問題状況にある人は、あせり過ぎず、でも足掻くように、ひとつひとつ可能性のあるものを試して行くと、やがて何らかのよい状況を招くことができるのではないかと思います。


何が起こるかわからない学びの選択

2月というのは厳寒期で、人の動きも少ない時期と言われています。

しかし、旧暦的に見れば、年が新たに始まり、皆さんが1/1の年賀で目にする「新春」という雰囲気が、すでに出てきている時です。

むしろ新暦の一月、特に中盤から後半は、少し停滞しているようなところもあるかもしれません。それでも、その時期はその時期で、タロットでいえば、「吊るし」のようなもので、次の変化に向かって、準備している時なのかもしれません。

私が2月になって、思い出すのは、マルセイユタロットを初めて習ったのがこの時期だったということです。それも年や日にちまでばかりで、横に並べてみれば、、宇宙的な神秘の数(21+1)、タロットの大アルカナの数の「22」が見えてきて、それと関係しているのは、偶然なのか、はたまた必然なのか、面白い符合(笑)です。

何度かこのブログでも書いたことがありますが、生徒さんから、「どうしてタロットを習ったのですか?」とよく聞かれることがあります。

このどうして?には、「タロットを習ったのはなぜなのか?」という意味と、「どのような経緯で習うことになったのか?」という、いわばその時の状況を知りたいというふたつのニュアンスが込められているのを感じます。

そこには、教えている人のルーツが知りたいという好奇心とともに、実は、自分自身と重ね合わせているところもあるからではないかと想像しています。このタロットを学習してどうなるのか、自分の学びたいという気持ちを、他人と比較してみたいというのもあるでしょう。

ここで、私の「タロット事初め」を語ることはしませんが(探してもらえば、過去記事のどこかにあるでしょう(笑))、タロットを習うということに限らず、もっと一般化しまして、人が何かを学びたい、習いたいという時に起こることを、(タロット学習の契機を事例にして)少し書いてみたいと思います。

今は、学びや学習の機会は至るところに転がっていると言えます。リアルで人から学ぶ場合もあれば、昔は、本で、今はネットで勉強するという人も多いでしょう。

そして、セミナー・講座と称するものは、本当に山のようにたくさんあります。それこそ、心理や内面のこともあれば、成功やお金の投資術など物質的なことを教えるセミナー、昔からある、趣味やカルチャー的なものの講座まで、その種類も数も、今はものすごいことになっていると思います。

ネットのおかげで、わざわざ出かけなくても、自宅で指導を受けながら、手軽に学べるのも普通になってきました。

それほど、たくさんの学び事の種類がある中で、あなたはどうして、ある学びに興味を持ったのでしょうか?

これには、明確な理由がある人ももちろんいます。

会社からこの資格を取るように言われたとか、仕事で必要性があるからとか、人づきあいで、どうしても必要だったとか、もともと趣味で好きだったから・・・など、はっきりした目的と意志があるような場合です。

しかし、反対に、だだなんとなくとか、ネットを検索していたら偶然にとか、人に勧められて・・・とか、最初からそれに特に強い関心を抱いていたわけではないのに、学ぶことになったというケースがあります。

また、最初は「これ」を学びたいと決めていたのに、いろいろと調べているうちに、別のものに興味が出てしまい、それを学ぶことになったということもあるかもしれません。

例えば、タロットで言いますと、最初は皆がよく使っているウェイト版(ライダー版)のタロットを習おうと思っていたのに、いつのまにかマルセイユタロットに興味が出てきて、結局、マルセイユ版を学習することになったというような場合です。

また、タロットの種類をもともと知らずに、偶然、選択した講座で扱っていたのが、今自分が使うようになったタロットだったということもあります。

何が言いたいのかと言いますと、人の学びには、目的意識がきちんとあって学ぶ種類のものと、偶然のような導き、縁によって学ぶようなものがあるということです。しかも、前者でありながら、途中で、後者のように縁を感じて、別のものに切り替わることさえあります。

ということは、学びも、人や場の縁と同じように、自分の意志だけではなく、何らかの別次元の働きかけによって学ぶ場合もあると考えられるわけです。

自分の意志以外のものとなりますと、それは自分の無意識かもしれませんし、他人の影響や、悪く言えば洗脳かもしれず、さらに現実を超越したネットワークや高次存在からのサポート、介入ということも考えられます。

こういうことがあるため、結構、学びの選択に迷うようなことも出てきます。

それは、合理的な思考や論理だけで、学びを選べないこともあるからです。

先述したように、何か偶然で必然のようなこと(縁)、ほかから学べと言われているような気がするというような、シンクロ性とか直感性とか、心の声とか、そういうものが何となく感じられる場合もあるのです。

マンガ・アニメの「攻殻機動隊」ではありませんが、「私のゴーストがささやくのよ」みたいなものです。(笑)

こうした直感や心の声、自分のある気持ちに従って、結果的に学んでよかったという場合もあれば、失敗だったということも、当然あるでしょう。(よき直観性、本当の心の声をとらえたものは、たいていは、あとでも良かったと思えるはずです)

そして、意外にも、合理的・論理的に考え(選択し)ても、その学びの良し悪しは、終わってみないとわからないところもあります。自分の計算の予想外ということも実際にはあるからです。

それから、他人からの学び・学習の選択時に、よく問題となるのは、タイミング(時間)とお金です。

今を逃すともう学べないからと、お金に余裕はないけれども、セミナーや講座に申し込むというパターン、受講するチャンスはまた来るとはわかっていても、今とにかく学びたいから、お金やタイミングうんぬんを超えて申し込むというパターン、単純にお金がないので申し込めないというパターン、お金はあっても開講時期や日程が合わず、見送るパータンなど、いろいろ時間とお金に関係しての話はあります。

どれが自分にとっていいのか悪いのか、受講を決断したり、見送ったりするのはどちらがよい選択なのか、悩ましいところです。

はっきり言えば、これに正解はないと思います。まさにケースバイケース(個人で異なる)と言えましょう。

論理的な一般論としてのものは確かにあるかもしれませんが(費用対効果など)、やってみないと、何が自分に起きるかわからないこともあります。

私の場合でも、タロットを学ぶつもりは、当時全然はありませんでした。何か占い技術は学びたいとは思っていましたが、東洋系の占術のほうにひかれており、タロットはまったく選択肢にはありませんでした。

このようなことですから、私のタロット学習の契機は、計画的でもなければ、合理的でもなく、ただ何か占い関係の技術を身に着けたいと思っていたところと、当時の状況と悩みがあったので、むしろ、頭でじっくり考えている余裕はく、感覚的に選んだといえば聞こえはいいですが、わけわからず、問い合わせに出ていただきました、先生のススメに導かれるまま、あせって申し込んだところもありました。(笑)

とても冷静な判断だったとは言えないわけです。

しかし、面白いもので、こうして、私は今、タロットリーダーやタロット講師をメインにして生活しております。

ただふりかえって、自分のケースで見てみれば、またクライアントや生徒さんのことも見てきて思うのは、いわゆる「流れ」のようなもの、偶然のように見えて必然のようなものが、客観的に感じられることがあるということです。

これは「運命」というのとはちょっと違うのですが、どこかそれにも似ていて、自分の中のある部分が、縁ある選択を拾い上げる、くみ取る、流れに向かわせているという感覚が、客観的(あと)になればわかるところがあるのです。

またそれこそ、現実を超えたとろこからの介入が、自分の自意識の中ではわからない範囲で来ていたということもあるかもしれません。まさに、マルセイユタロットの「恋人」カードに描かれているようなことです。

あと、どんな学びを選択したとしても、それはやはり自分が決めたことなので、結果がどうあれ、自分の責任(自分を責めるという意味ではなく)として、きちんと受け取ることだと思います。

費用と効果・得た知識の乖離とか、教えの内容の問題とか、最初思っていたこととは違うものもあるかもしれませんが、どんな学びにしろ、まったく学びにならないものはないと言えます。

たとえ損しかならなかったと思ったとしても、その苦い経験は学びでもあります。(まあ、なるべくなら、そんな学びはしたくないというのが人情ですが)

それと、もし学びの選択でアドバイスがあるとすれば、今まで頭ガチガチで計算ずくで学びを選んできた人は、たまには非合理、直感で選択してもいいと思います。

反対に、直感や(ライトな)スピリチュアル(それは好き嫌いで選んでいるのが実態のことがあります)感覚で選ぶのが常になっていて、しかも問題が解決していなかったり(セミナー巡回になって、堂々巡りの状態の人とか)、成長した実感(精神や実際に自分の現実が変化した実感)がなかったりするような人は、もっと論理的(現実的)に、お金と時間を有効に使う選択をしたほうがよいかもしれません。

それでも、どんなことが自分にとって変わるきっかけや、一生のよい学び(ライフワーク)、仲間を得るきっかけとなるかわかりませんので、無理し過ぎない程度に、気になるもの、興味のあるものの学習は、どんどんやってみてもいいと思います。

せっかくの人生、いろいろと学び、それを活かして楽しんでみましょう。


回り道の中の抜け道

記事タイトルから、「運命の輪」のカードを想像した人もいるかもしれません。

確かに、今回は「運命の輪」(マルセイユタロット)に関係する話ですが、おそらく普通に教えられるそのカードの話とは、また少し違ったものになると思います。

ところで、あなたは、悩んたり、迷ったりしている時、どんな状態になりますか?

言ってみれば、多くの人は、輪の中でグルグル回っているような感じになっているのではないでしょうか。

あれでもないこれでもないと選択肢の多くを想像したり、反対に、何をどうすればよいのかわからなくなったりして、右往左往してしまう・・・こんな状況です。

もちろん、考えているだけではなく、行動に移す人もいるでしょうが、それでも、あちらへ行ったり、こちらで聞いたりと、迷っている時は、文字通り「迷っている」のですから、なかなか答えや突破口、進むべき道が見えてこないものです。

その意味では、マルセイユタロットで言えば、「運命の輪」の中に閉じ込められているとも言えますし、「吊るし」のように、吊るされ(本来は自分から吊るすのですが、吊るされていると感じること自体が問題状態と言えます)ペンドしている状況とも取れます。

「運命の輪」で言えば、輪の中の動物、犬と猿と言われますが、その二匹が入れ替わって、輪の中で回りながらでもがいている様子でもあり、その入れ替わりは、要するに対立要素や別々の選択肢、性質、エネルギーなどを象徴しますが、結局、直線でいえば、左右どちらへ行っても逃れられない、堂々巡りの罠にはまっているようなものと言えます。

ここから脱出するには、輪の上にいる動物、スフィンクスとされますが、その動物になることが鍵だと、このカードでは伝えています。

このスフィンクスになる状態とはどういうことかについては、これも人によって解釈がまちまちなので、言い換えれば、それだけのたくさんの方法があるとも言えるわけです。

今回は、あまり(「運命の輪」の解釈としては)一般的ではないけれども、おそらく皆さんも経験があるようなことで指摘したいと思います。

何かに悩み、迷う時、私たちは先述したように、いろいろな考え(自分と他人の考え、情報など)を思い浮かべ、条件や、損得、感情の満足・不満足など、様々な要素を混合し、時には誰かに相談したり、アドバイスを受けたりして、自分でいいと思う選択肢を実行したりします。

それでも、悩みの解決にならず、その巡りを、内面(思考と感情、つまり心の内)と、外面(相談したり、考えを実行したりする外部への働きかけ)にわたって繰り返すことになります。

ということは、「運命の輪」で言えば、この輪の中を、何回も何回も回り続けることをしているようなものと言えます。

何度も犬になり猿になり、回転を続けていくわけです。

すると、デジャヴのような、また同じことをしているなあとか、以前も似たようなことをやったなとか、私、いったい、何をしてるのだろうとか、ふと、不思議な感覚にとらわれる瞬間がやってきます。

犬でもなく猿でもなく、まさに我(自分自身)に返る瞬間とでもいいましょうか。

その時、ゆっくりと周囲を見渡すと、今まで見ていた景色が変わっているのに気づくことがあります。

もっと言うと、今まであせったり、悩みに集中し過ぎたりしていて、何も見ていなかったことに気づくわけです。言い方を換えれば、悩みや迷いという、ある種の想像空間に自分が閉じ込められていた、いや、自分を閉じ込めていたことに気がつく時がやってくるのです。

それは、例えば、「あれ、こんなところにこんな花が咲いていたんだ」とか、「ここにこんな店ができていたんだ」とか、鏡に映した自分の顔が「こんなだったんだ」と驚くこととか、ちょっとした気づきとか驚きの瞬間です。

輪を回り続け、いろいろなことを考え、試しているうちに、ついにはどれでもない、何もわからないという混乱のピークに来て、足を止める時がやってきます。

そして、回転していたのは周囲ではなく、自分であったことに気づきます。あるいは逆も言え、自分は何も動いていないというか、同じ場所にいるのに、周囲が回っているように思えていたから、混乱していたのだとわかる場合もあります。(これは相対的なもので、どちらも究極的には一緒のことです)

逆説的でわかりづらいかもしれませんが、つまり、回転し続けたことによって、自分の中心が、それこそ輪の軸の中心に集約してくるかのように定まってきたとも考えられるのです。

回転するものの中心はであり、中心点です。ここはいわゆるゼロポイントとなり、周囲の回転とは別の無の状態(中立の状態)にあります。言わば、台風の目のようなものです。

だからこそ、今まで回り続けていた輪の中とは違う感覚が現れ、出口のようなものに出会えるのです。

それが、今述べた「我に返る」ような現象であり、動くものが静止する瞬間(今まで見えていなかった景色に気づく時)です。

同じところを何度もループして通っているのは、怖いことでもあり、不安も増します。

それでも、もがき苦しみながらも、いろいろなことを考え、試し、万策尽きたかのように見えた時でも、そのあなたの努力、彷徨いは無駄ではなく、このように、輪の中心軸に導かれることがあり、その瞬間、ループからの出口が開きます。

まるで、回り道を何度も通ったからこそ出会える出口、正解の扉のようなものです。

ダイレクトに無駄なく、回答や正解を求めたい、落ち着きたい、解決したいという気持ちはわかります。また、そういうストレートに答えの出る方法や、効率のよい生き方もあるでしょうし、そのほうが時間的にも無駄がないかもしれません。

それでも、人は迷い、悩み、わざわざ遠回りのような形で、ある輪の中をループするかのごとく、回転し続けます。

しかし、それは永遠にループし続けることではないのです。回転しながら、自分を軸のほうに寄せていてくプロセスを自然にやっているとも言えるのです。

また回ってきたルート中に経験したことも、自分の糧や学びになっているものもあるでしょう。

そうやって考えてみると、迷っているようで、導きやナビゲートは(その時は自覚はないものの)実はあり、それはあらかじめ私たちに用意されているのだと思えます。

マルセイユタロットの大アルカナの数で見れば、「運命の輪」の前には「隠者」がいて、二枚を並べると、彼(「隠者」)がちゃんと指導しながら(見守りながら)、輪の中に招き入れているかのようにも見えます。

漫画やアニメ風に言うならば、とぼけた師匠によって、弟子を修行で鍛えさせるために、わざとループの輪の中に放り込むみたいな感じです。(笑)

今、輪の中でグルグルしている人も、必ず、出口はありますので、ピークまでやってみるか、ちょっと足を止めて、周囲を見渡してみるとよいでしょう。

混乱の中にある人でも、マルセイユタロットでいえば、「節制」の天使が、この階層(「運命の輪」を含む)には入り込めますので、救いの道も示されることでしょう。

ストーリーとしてそう信じることが、意外に大切でもあるのです。


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