迷った時に

何が起こるかわからない学びの選択

2月というのは厳寒期で、人の動きも少ない時期と言われています。

しかし、旧暦的に見れば、年が新たに始まり、皆さんが1/1の年賀で目にする「新春」という雰囲気が、すでに出てきている時です。

むしろ新暦の一月、特に中盤から後半は、少し停滞しているようなところもあるかもしれません。それでも、その時期はその時期で、タロットでいえば、「吊るし」のようなもので、次の変化に向かって、準備している時なのかもしれません。

私が2月になって、思い出すのは、マルセイユタロットを初めて習ったのがこの時期だったということです。それも年や日にちまでばかりで、横に並べてみれば、、宇宙的な神秘の数(21+1)、タロットの大アルカナの数の「22」が見えてきて、それと関係しているのは、偶然なのか、はたまた必然なのか、面白い符合(笑)です。

何度かこのブログでも書いたことがありますが、生徒さんから、「どうしてタロットを習ったのですか?」とよく聞かれることがあります。

このどうして?には、「タロットを習ったのはなぜなのか?」という意味と、「どのような経緯で習うことになったのか?」という、いわばその時の状況を知りたいというふたつのニュアンスが込められているのを感じます。

そこには、教えている人のルーツが知りたいという好奇心とともに、実は、自分自身と重ね合わせているところもあるからではないかと想像しています。このタロットを学習してどうなるのか、自分の学びたいという気持ちを、他人と比較してみたいというのもあるでしょう。

ここで、私の「タロット事初め」を語ることはしませんが(探してもらえば、過去記事のどこかにあるでしょう(笑))、タロットを習うということに限らず、もっと一般化しまして、人が何かを学びたい、習いたいという時に起こることを、(タロット学習の契機を事例にして)少し書いてみたいと思います。

今は、学びや学習の機会は至るところに転がっていると言えます。リアルで人から学ぶ場合もあれば、昔は、本で、今はネットで勉強するという人も多いでしょう。

そして、セミナー・講座と称するものは、本当に山のようにたくさんあります。それこそ、心理や内面のこともあれば、成功やお金の投資術など物質的なことを教えるセミナー、昔からある、趣味やカルチャー的なものの講座まで、その種類も数も、今はものすごいことになっていると思います。

ネットのおかげで、わざわざ出かけなくても、自宅で指導を受けながら、手軽に学べるのも普通になってきました。

それほど、たくさんの学び事の種類がある中で、あなたはどうして、ある学びに興味を持ったのでしょうか?

これには、明確な理由がある人ももちろんいます。

会社からこの資格を取るように言われたとか、仕事で必要性があるからとか、人づきあいで、どうしても必要だったとか、もともと趣味で好きだったから・・・など、はっきりした目的と意志があるような場合です。

しかし、反対に、だだなんとなくとか、ネットを検索していたら偶然にとか、人に勧められて・・・とか、最初からそれに特に強い関心を抱いていたわけではないのに、学ぶことになったというケースがあります。

また、最初は「これ」を学びたいと決めていたのに、いろいろと調べているうちに、別のものに興味が出てしまい、それを学ぶことになったということもあるかもしれません。

例えば、タロットで言いますと、最初は皆がよく使っているウェイト版(ライダー版)のタロットを習おうと思っていたのに、いつのまにかマルセイユタロットに興味が出てきて、結局、マルセイユ版を学習することになったというような場合です。

また、タロットの種類をもともと知らずに、偶然、選択した講座で扱っていたのが、今自分が使うようになったタロットだったということもあります。

何が言いたいのかと言いますと、人の学びには、目的意識がきちんとあって学ぶ種類のものと、偶然のような導き、縁によって学ぶようなものがあるということです。しかも、前者でありながら、途中で、後者のように縁を感じて、別のものに切り替わることさえあります。

ということは、学びも、人や場の縁と同じように、自分の意志だけではなく、何らかの別次元の働きかけによって学ぶ場合もあると考えられるわけです。

自分の意志以外のものとなりますと、それは自分の無意識かもしれませんし、他人の影響や、悪く言えば洗脳かもしれず、さらに現実を超越したネットワークや高次存在からのサポート、介入ということも考えられます。

こういうことがあるため、結構、学びの選択に迷うようなことも出てきます。

それは、合理的な思考や論理だけで、学びを選べないこともあるからです。

先述したように、何か偶然で必然のようなこと(縁)、ほかから学べと言われているような気がするというような、シンクロ性とか直感性とか、心の声とか、そういうものが何となく感じられる場合もあるのです。

マンガ・アニメの「攻殻機動隊」ではありませんが、「私のゴーストがささやくのよ」みたいなものです。(笑)

こうした直感や心の声、自分のある気持ちに従って、結果的に学んでよかったという場合もあれば、失敗だったということも、当然あるでしょう。(よき直観性、本当の心の声をとらえたものは、たいていは、あとでも良かったと思えるはずです)

そして、意外にも、合理的・論理的に考え(選択し)ても、その学びの良し悪しは、終わってみないとわからないところもあります。自分の計算の予想外ということも実際にはあるからです。

それから、他人からの学び・学習の選択時に、よく問題となるのは、タイミング(時間)とお金です。

今を逃すともう学べないからと、お金に余裕はないけれども、セミナーや講座に申し込むというパターン、受講するチャンスはまた来るとはわかっていても、今とにかく学びたいから、お金やタイミングうんぬんを超えて申し込むというパターン、単純にお金がないので申し込めないというパターン、お金はあっても開講時期や日程が合わず、見送るパータンなど、いろいろ時間とお金に関係しての話はあります。

どれが自分にとっていいのか悪いのか、受講を決断したり、見送ったりするのはどちらがよい選択なのか、悩ましいところです。

はっきり言えば、これに正解はないと思います。まさにケースバイケース(個人で異なる)と言えましょう。

論理的な一般論としてのものは確かにあるかもしれませんが(費用対効果など)、やってみないと、何が自分に起きるかわからないこともあります。

私の場合でも、タロットを学ぶつもりは、当時全然はありませんでした。何か占い技術は学びたいとは思っていましたが、東洋系の占術のほうにひかれており、タロットはまったく選択肢にはありませんでした。

このようなことですから、私のタロット学習の契機は、計画的でもなければ、合理的でもなく、ただ何か占い関係の技術を身に着けたいと思っていたところと、当時の状況と悩みがあったので、むしろ、頭でじっくり考えている余裕はく、感覚的に選んだといえば聞こえはいいですが、わけわからず、問い合わせに出ていただきました、先生のススメに導かれるまま、あせって申し込んだところもありました。(笑)

とても冷静な判断だったとは言えないわけです。

しかし、面白いもので、こうして、私は今、タロットリーダーやタロット講師をメインにして生活しております。

ただふりかえって、自分のケースで見てみれば、またクライアントや生徒さんのことも見てきて思うのは、いわゆる「流れ」のようなもの、偶然のように見えて必然のようなものが、客観的に感じられることがあるということです。

これは「運命」というのとはちょっと違うのですが、どこかそれにも似ていて、自分の中のある部分が、縁ある選択を拾い上げる、くみ取る、流れに向かわせているという感覚が、客観的(あと)になればわかるところがあるのです。

またそれこそ、現実を超えたとろこからの介入が、自分の自意識の中ではわからない範囲で来ていたということもあるかもしれません。まさに、マルセイユタロットの「恋人」カードに描かれているようなことです。

あと、どんな学びを選択したとしても、それはやはり自分が決めたことなので、結果がどうあれ、自分の責任(自分を責めるという意味ではなく)として、きちんと受け取ることだと思います。

費用と効果・得た知識の乖離とか、教えの内容の問題とか、最初思っていたこととは違うものもあるかもしれませんが、どんな学びにしろ、まったく学びにならないものはないと言えます。

たとえ損しかならなかったと思ったとしても、その苦い経験は学びでもあります。(まあ、なるべくなら、そんな学びはしたくないというのが人情ですが)

それと、もし学びの選択でアドバイスがあるとすれば、今まで頭ガチガチで計算ずくで学びを選んできた人は、たまには非合理、直感で選択してもいいと思います。

反対に、直感や(ライトな)スピリチュアル(それは好き嫌いで選んでいるのが実態のことがあります)感覚で選ぶのが常になっていて、しかも問題が解決していなかったり(セミナー巡回になって、堂々巡りの状態の人とか)、成長した実感(精神や実際に自分の現実が変化した実感)がなかったりするような人は、もっと論理的(現実的)に、お金と時間を有効に使う選択をしたほうがよいかもしれません。

それでも、どんなことが自分にとって変わるきっかけや、一生のよい学び(ライフワーク)、仲間を得るきっかけとなるかわかりませんので、無理し過ぎない程度に、気になるもの、興味のあるものの学習は、どんどんやってみてもいいと思います。

せっかくの人生、いろいろと学び、それを活かして楽しんでみましょう。


回り道の中の抜け道

記事タイトルから、「運命の輪」のカードを想像した人もいるかもしれません。

確かに、今回は「運命の輪」(マルセイユタロット)に関係する話ですが、おそらく普通に教えられるそのカードの話とは、また少し違ったものになると思います。

ところで、あなたは、悩んたり、迷ったりしている時、どんな状態になりますか?

言ってみれば、多くの人は、輪の中でグルグル回っているような感じになっているのではないでしょうか。

あれでもないこれでもないと選択肢の多くを想像したり、反対に、何をどうすればよいのかわからなくなったりして、右往左往してしまう・・・こんな状況です。

もちろん、考えているだけではなく、行動に移す人もいるでしょうが、それでも、あちらへ行ったり、こちらで聞いたりと、迷っている時は、文字通り「迷っている」のですから、なかなか答えや突破口、進むべき道が見えてこないものです。

その意味では、マルセイユタロットで言えば、「運命の輪」の中に閉じ込められているとも言えますし、「吊るし」のように、吊るされ(本来は自分から吊るすのですが、吊るされていると感じること自体が問題状態と言えます)ペンドしている状況とも取れます。

「運命の輪」で言えば、輪の中の動物、犬と猿と言われますが、その二匹が入れ替わって、輪の中で回りながらでもがいている様子でもあり、その入れ替わりは、要するに対立要素や別々の選択肢、性質、エネルギーなどを象徴しますが、結局、直線でいえば、左右どちらへ行っても逃れられない、堂々巡りの罠にはまっているようなものと言えます。

ここから脱出するには、輪の上にいる動物、スフィンクスとされますが、その動物になることが鍵だと、このカードでは伝えています。

このスフィンクスになる状態とはどういうことかについては、これも人によって解釈がまちまちなので、言い換えれば、それだけのたくさんの方法があるとも言えるわけです。

今回は、あまり(「運命の輪」の解釈としては)一般的ではないけれども、おそらく皆さんも経験があるようなことで指摘したいと思います。

何かに悩み、迷う時、私たちは先述したように、いろいろな考え(自分と他人の考え、情報など)を思い浮かべ、条件や、損得、感情の満足・不満足など、様々な要素を混合し、時には誰かに相談したり、アドバイスを受けたりして、自分でいいと思う選択肢を実行したりします。

それでも、悩みの解決にならず、その巡りを、内面(思考と感情、つまり心の内)と、外面(相談したり、考えを実行したりする外部への働きかけ)にわたって繰り返すことになります。

ということは、「運命の輪」で言えば、この輪の中を、何回も何回も回り続けることをしているようなものと言えます。

何度も犬になり猿になり、回転を続けていくわけです。

すると、デジャヴのような、また同じことをしているなあとか、以前も似たようなことをやったなとか、私、いったい、何をしてるのだろうとか、ふと、不思議な感覚にとらわれる瞬間がやってきます。

犬でもなく猿でもなく、まさに我(自分自身)に返る瞬間とでもいいましょうか。

その時、ゆっくりと周囲を見渡すと、今まで見ていた景色が変わっているのに気づくことがあります。

もっと言うと、今まであせったり、悩みに集中し過ぎたりしていて、何も見ていなかったことに気づくわけです。言い方を換えれば、悩みや迷いという、ある種の想像空間に自分が閉じ込められていた、いや、自分を閉じ込めていたことに気がつく時がやってくるのです。

それは、例えば、「あれ、こんなところにこんな花が咲いていたんだ」とか、「ここにこんな店ができていたんだ」とか、鏡に映した自分の顔が「こんなだったんだ」と驚くこととか、ちょっとした気づきとか驚きの瞬間です。

輪を回り続け、いろいろなことを考え、試しているうちに、ついにはどれでもない、何もわからないという混乱のピークに来て、足を止める時がやってきます。

そして、回転していたのは周囲ではなく、自分であったことに気づきます。あるいは逆も言え、自分は何も動いていないというか、同じ場所にいるのに、周囲が回っているように思えていたから、混乱していたのだとわかる場合もあります。(これは相対的なもので、どちらも究極的には一緒のことです)

逆説的でわかりづらいかもしれませんが、つまり、回転し続けたことによって、自分の中心が、それこそ輪の軸の中心に集約してくるかのように定まってきたとも考えられるのです。

回転するものの中心はであり、中心点です。ここはいわゆるゼロポイントとなり、周囲の回転とは別の無の状態(中立の状態)にあります。言わば、台風の目のようなものです。

だからこそ、今まで回り続けていた輪の中とは違う感覚が現れ、出口のようなものに出会えるのです。

それが、今述べた「我に返る」ような現象であり、動くものが静止する瞬間(今まで見えていなかった景色に気づく時)です。

同じところを何度もループして通っているのは、怖いことでもあり、不安も増します。

それでも、もがき苦しみながらも、いろいろなことを考え、試し、万策尽きたかのように見えた時でも、そのあなたの努力、彷徨いは無駄ではなく、このように、輪の中心軸に導かれることがあり、その瞬間、ループからの出口が開きます。

まるで、回り道を何度も通ったからこそ出会える出口、正解の扉のようなものです。

ダイレクトに無駄なく、回答や正解を求めたい、落ち着きたい、解決したいという気持ちはわかります。また、そういうストレートに答えの出る方法や、効率のよい生き方もあるでしょうし、そのほうが時間的にも無駄がないかもしれません。

それでも、人は迷い、悩み、わざわざ遠回りのような形で、ある輪の中をループするかのごとく、回転し続けます。

しかし、それは永遠にループし続けることではないのです。回転しながら、自分を軸のほうに寄せていてくプロセスを自然にやっているとも言えるのです。

また回ってきたルート中に経験したことも、自分の糧や学びになっているものもあるでしょう。

そうやって考えてみると、迷っているようで、導きやナビゲートは(その時は自覚はないものの)実はあり、それはあらかじめ私たちに用意されているのだと思えます。

マルセイユタロットの大アルカナの数で見れば、「運命の輪」の前には「隠者」がいて、二枚を並べると、彼(「隠者」)がちゃんと指導しながら(見守りながら)、輪の中に招き入れているかのようにも見えます。

漫画やアニメ風に言うならば、とぼけた師匠によって、弟子を修行で鍛えさせるために、わざとループの輪の中に放り込むみたいな感じです。(笑)

今、輪の中でグルグルしている人も、必ず、出口はありますので、ピークまでやってみるか、ちょっと足を止めて、周囲を見渡してみるとよいでしょう。

混乱の中にある人でも、マルセイユタロットでいえば、「節制」の天使が、この階層(「運命の輪」を含む)には入り込めますので、救いの道も示されることでしょう。

ストーリーとしてそう信じることが、意外に大切でもあるのです。


タロットの仕事で

タロットの生徒さんや、リーディングを受けていただく方に、

タロットを始められて、長いのですか? 何年になるのですか?

と聞かれることがあります。

私自身は、いつも「そんなに年数経っていませんよ、むしろ短いほうじゃないですかね」と言いつつ、実際の経過年数を答えていましたが、最近、またこれを聞かれることがあり、ふと、数えてみますと、まあまあの年数になってきていることに、自分でもびっくりしたことがあります。(笑)

いつの間にか、最初にマルセイユタロットに出会ってから、15年以上の月日が経ち、20年近くにも迫ってきていました。

私は占い師ではありませんが、タロットといえば占いの世界だと一般にも思われていますし、実際、占い界では、タロットに限らず、ほかの占術でも、10年、20年は当たり前、中には50年くらい研究・実践を続けられている方もいらっしゃいます。

もう、こうなりますと、人生の大半は、それに賭けているというか、その人の人生はそれそのものと言っていいかもしれません。

そういう占い界のすごい方々と比べると、まだまだ私など若輩者に過ぎず、タロット経験者としては、むしろ少ない年数のほうなのかもしれません。

そんな私でも、何度か、これまでタロット活動をやめてしまおうかと思ったことがあります。

その理由は、大きくわけると、環境や経済的なこと、いわば外部的な要因がひとつ。そして、もうひとつは自分の中の問題、内部的な理由になります。

しかし、よく考えてみれば、内と外はつながっていて、精神や心を重視する方から見れば、内的な問題が主で、それが投影されて外的な問題となって現れると考えるでしょうし、あくまで物質的に、現実に起こっているそのもので物事を判断する人は、その逆(実際に問題があり、それで心が悩むの)だと言うかもしれません。

皆さんの中にも、占いや、セラピー、ヒーリングなどをされ、仕事として起業された方もいらっしゃると思います。

趣味でそれらをやっていくのは楽しいことですが、仕事・ビジネスとなると、経済活動が必然になってきますので、自分の思いだけでは続けられなかったり、葛藤することも多くなってきたりします。

結局、仕事として活動する場合は、ある種の覚悟と、逆に思い込み過ぎない柔軟さ両方が必要になってくるのではないかと、経験からも感じます。

プロや仕事としてやっていく覚悟が足りなければ、アマチュアレベルとして扱われ、料金も低くなったり、そもそもお客様が来なかったり(それらは自身の経済に影響し、生活や活動もできなくします)という事態も考えられます。

そして、ここがまた重要なところですが、その覚悟は、自分の(プロ活動としての)ピンチや危機として、また天や世から試されるというか、新しい覚悟へのリニューアル・チェンジを要求されるような事態が起こってきます。

一応、それなりの覚悟はできていて、仕事もまあまやれていたとしても、それはそのレベルでの話(覚悟)なのです。自分のレベルを上げようとする時、また向上したり、さらなる発展が起きようとしたりする時、今までの覚悟や決意では足りないことがあるのです。

実は私にとって今年は、タロット活動をやめてしまおうかと思ったほどの、危機的な大きな年でした。

まあ、私一人、タロットをやめても、世に優れたタロット講師やタロットリーダーはたくさんいらっしゃいますので、何の影響もないのですが(苦笑)、理由はいろいろとありますが、廃業も想定するような事態ではありました。

これほどのことは、かつて一度あり、その時は本当に数か月から半年はやめてしまっていた(税務署に廃業届も出しました)のですが、いろいろとあって、結局タロット活動に舞い戻るといいますか、タロットに呼び戻された感じで、再開することになりました。

その後も、小さな「やめ時」を思うことは何度かはあったのですが、その大きなものに匹敵することとしては、今年がそうと言えました。

その以前の、タロット(のビジネス的)活動をやめてしまった時、タロットを再びやろうと決意させられる事件がいくつか、偶然のような必然として起こったのですが、スピリチュアルに関心の強い人は、そのような偶然(の必然性)に強い意味を見出すでしょうが、確かにそれを感じたとはいえ、結局、大事だったことは、自らの新たな覚悟でした。

いくらシンクロや天意みたいなことが示されたとしても(そう人から言われたり、勧められたりしたとしても)、自分の人生を決めるのは自分です。

やるかやらないか、続けるか続けないか、そしてやる(続ける)からにはどうしていくのか、これらの決意と覚悟を最終的に自分が決めなければ、前には進めないのです。

以前の危機のあとの覚悟は、その当時はかなり強いものであり、今までの自分のやり方も変えるものでしたが、今年のピンチも、やはり新たな覚悟が試されるものとしてやってきたように思います。もう、新しいものに替えていく段階が来ていたわけです。

一方で、強い覚悟や決意さえあればいいというものでもありません。前述したように、柔軟性もいるのです。

強い信念は、時に固執や膠着を生み出してしまうことがあります。自分の根本のあり方は変えないようにしながらも、時代や人の流れは変転していきますから、それに合わせた柔軟性も、特にビジネス・市場での活動となると必要となるのも当然なところがあります。

まあ、とても強いオリジナリティや世界観をもっている場合、周囲のことは気にせず、自分の世界をそのまま、お客様やクライアントの世界にしてしまうという、マルセイユタロットでいえば「悪魔」(カリスマ)的な方法でやれる人もいないわけではありませんが、これはやはり特別な人に限られると言えましょう。

長く続けたからといって、そのまま来年も再来年もやっていくのがよいとは限りません。時には、突然、まったく自分にも人にも合わなくなてしまうことがあったり、興味も失ってしまったりすることもあるでしょう。

やりたいことをしていると思っていたら実は違っていて妥協や惰性で続けていたことに急に気づいたという人もいるかもしれません。

人間、死ぬまでは、何が自分にとって本当に良かったのかはわからないものです。「自分を生きる」という実感を持つタイミングと可能性は、いくつにもなっても、またいつでも開かれていると言えます。(逆に言えば、なかなかそのような気持ちが持てないのも、普通にあるということです)

それ(充実したこと)が生活の収入を得る仕事でなくてもよく、好きなことや、やりたいことで生活するというのも、確かに聞こえよくて、楽しそうですが、本当は誰かや世間の洗脳めいたことかもしれないのです。

それよりも、自分の今の仕事を好きにしていく、あるいは転職して、どうにか、前の職場や仕事よりも、自分にとって働きやすくするという方法を取るほうがいい場合もあります。

生き方も、世間体や常識をどんどん少なくして、枠をはずしていけば、かなりモノも心もシンプルな状態になるはずで、最低限の暮らしができれば、タロットのような隠者生活(苦笑)が、思いのほか、自分にとって満足だったということもあるかもしれません。

成功ということでも、、常識や一般的なものとしての概念と、自分の心が思う(心の)状態のものと、両者を妥協させたもの、そしてどちらでもない霊的なものがあると言えます。

また、どうしても、ビジネス活動で自分の好きなことをやるのに、葛藤が続き、うまく調整や折り合いをつけにくい人もいらっしゃると思います。

その場合は、好きなこととビジネスは別と割り切って見直す冷静な目で見てみるとよいでしょう。(あくまで「好きなことビジネス」という一種のビジネス形態のひとつの種類として見て、それが自分には向いていない、合っていないと考える)

昨今、起業ブームで、自分の好きなことでやっていくみたいな煽りにも似た宣伝手法も多かったですが、ほとんど努力や作業もせずに、ビジネスがうまく行くということは、特別な幸運や恵まれた資金力でもない限り、ないと言っていいでしょう。

ただ、それなりの手順と準備を踏み、危機が訪れても、新たな覚悟と柔軟性をもって、努力し(苦しい努力とは言いません、好きなことをする必要な努力や作業です)、自分を売りだし、表現していく勇気を楽しくやっていけることができたら、ビジネスとしての可能性も、大きく展開していくことになると思います。

いずれにしても、自分を知るというのは大切なことで、それには、具体的なことや条件などを、どんどんはずして自分をの思いを見つめていくことが必要となります。

つまり、本質に帰る作業です。

本質は言ってみれば、抽象的なものなのですが、そこまで来ると、自分のやりたいこととか、表現・生き方というのが、やり方や具体性ではないというのが見えてきます。

自分の好きなこととか、ワクワクすること、逆にやりたくないこととか嫌いなことを見ていると、実は誤解してしまうこともあるのです。

そうやって調べようとすると、どうしても、具体的な仕事や何かの趣味、行動、モノ、実際に世の中にあるような事を想像してしまうからです。(あるいは好き嫌いの感情で判断してしまう)

例えば、私の場合でも、タロットをやりたいというのは、どうしてなのか?ということで、少しずつ具体性をそぎ落としていくと、途中で、やり方にこだわっていたことに気がついてきます。

本当にやりたいこととか、伝えたいことはあるにしても(それが本質)、そのやり方や表現方法は、もっと柔軟に考えてみてもいいわけです。極端なことを言えば、タロットを使わない伝え方も、私の場合でも考えられるのです。

タロットを使って本質まで探っていくことが可能ですが、最後はそのタロットも打ち捨てて(笑)みたいなこともあるのです。タロットは、あなたの本質に連れて行ってくれる乗り物のようなものです。

目的地に到着すれば、乗り物から降りるように、タロットはその時、もう必要がなくなっています。ても、また具体的(現実)世界に戻る時は、再び乗って帰る必要があるかもしれませんが。

さて、今年のブログはこれが最終となります。

来年は、時期は未定ですが、こちらのブログは継続しつつ、新しいブログも立ち上げようかと考えています。新しいものは、もう少しライトにタロットのことを書くつもりでいます。

そして、体験会やショートなリーディング会的なものを、去年よりは回数を増やそうと思っています。早速ですが、リーディングつきの体験会は来年一月末(1/26)に京都市内で開催予定です。

年始早々(来年初めのブログ)に募集をかけるかもしれませんので、参加ご希望の方は、このブログをご覧いただければと思います。

今年もブログをお読みいただき、ありがとうございました。

皆さま、どうぞ、よいお年を迎えくださいませ。


焦り、そして危機という変容に対して。

本来スピーディーな印象のカードや、逆にゆっくりすることが求められるカードが、警告として出てくる場合、その多くは、焦りすぎ、急ぎすぎという内容て解釈するとよい場合があります。

たとえば、前者では「戦車」のカード、後者では「節制」などが、あげられるでしょうか。

カードの読み方の技法はいろいろとありますが、単純なものには、吉凶、いい・悪いに分けて読むもの、そしていいも悪いもカード自体にはないものの、そのポジションの出方(正逆など)や、直感的な印象によって、カードの表すノーマルな状態に、アンバランスな力やエネルギーが働いている(自分がそうしている)と読む方法もあります。

最初に述べた、警告的な見方は、カードそのものにいい・悪いを見るのではなく、カードの象徴性のノーマルさが崩れたものとして、自分の問題をとらえるやり方です。

さて、今回の趣旨は、カードの読み方の技法をとりあげるのではなく、人の焦りについてのことです。

なぜ、人は焦ってしまうのかと言えば、予測がつかないことが起こった、今までの経験やデータではわからないことが起きている、早く結果を出さないといけない差し迫った状況にある・・・など様々ですが、逆に言えば、落ち着けない、安心できないからで、一言でいえば、「自分を見失っている」からだと言い換えることができるでしょう。

焦らないためには、どんなことが起こっても、大方の予想ができる自分の経験値や能力を高めておくことがまず考えられます。これは状況に対応できる力を養うという意味で、物質的というか、現実的な対策と言えましょう。

しかし、いくら経験や能力を高めても、わからないことはあり、突発的に焦ってしまうことはあるでしょう。そうすると、今度は、メンタル・精神を鍛えたり、何が起きても動じない精神の状態をキープできたりする、内面や心のほうからの対処も考えられます。

極端なことを言えば、悟った人になれば、おそらく焦るなんてことはないのでしょう。ここまで来ると、もはやメンタル次元を超えたところに自分がいて、いわば、すべてがわかるような状態になっているので、焦ることはないのだと思います。

ということは、「大悟する(大きく真に悟る)」というのと同じですが、そこまで行かないにしても、精神的・メンタル的には、具体について悩むのではなく、もっと次元を上げたところに問題を置くと、今悩んで焦っていることのレベルが消え、焦りそのものが消失するということもありえます。

例えば、「これを明日までにやらなくてはならないが、時間がない」と焦っている時に、その作業を明日まで仕上げられるかどうかという時間的作業的問題(具体的問題)に対して、焦っているわけです。

その問題観点(次元)を別にしてしまうと、まず、明日までという制限は絶対なのか?伸ばすことは可能ではないのか? 明日までというのはもともと無理ある話だったのではないか? というような、小さな次元移行でもって考察することができます。

さらに大きな次元移行になりますと、そもそもこの作業をやらなくても生きていけるのではないか? できないと非難や損害は被るかもれないが、自分自身の本質は何も傷つかないのではないか?みたいな話にもなってきます。

もちろん、社会でのルール、責任というものもありますので、なんでも次元や大元を変えればよいというわけではなく、当然、自分が超越した状態に移行するには、その分の責任も取る覚悟、本当の自由を選択するそれ相応の責任も生じます。

さて、焦りについて、ちょっと違う話もしたいと思います。

人はずっと同じ状態が続くわけではないのは、皆さんも気づいておられると思います。肉体的にもそうですし、スピリチュアル的にも、(魂の)成長のために、いろいろな事件や変化が自分に起きてきます。

見方を変えれば、(高次の)自分が起こしていると言ってもいいのですが、このような時、たいていはピンチや危機、試練のようなものとして本人には感じられます。要は大変だと実際に感じることなのです。(こじつければ、大きな変化なのて「大変」とも言えます)

大きな意味(魂的な目)で見れば、それは成長や今までの殻を破るための変容ステップだと言えるのですが、当人には何が起きているのかよくわからず、肉体的・環境的など、いろいろな実際の試練・苦しさなどとして経験します。

予測のつかないこと、わからないことは焦りの原因でもあることは、先述した通りです。

そのため、自分でいろいろ調べたり、誰かに相談したり、見てもらったりと、いろいろと駆けずり回る人もいます。

試練は、ただその人にその状態で放置されているだけのものではなく、タロット的に言えば、救いの天使(現実ではあなたを援助する人ということになります)のサポートや、気づきを与えるインスピレーションが与えられやすい状況になっていったりと、何らかの「神性」からの手助けがセットで施されています。

よく言われるように、当人に越えられない試練はないみたいなことです。(援助とセットになっている)

ところが、人間である私たちは、これまで経験したことのないようなこと、理由がわからないようなこと、まったくの混乱状態に陥ったりしている時などは、どうしても焦ってしまい、ただでさえ、物事の見方が偏っているのに、もっと狭い偏見に近いほどのモノの見方になり、思考や感情を冷静に保っていられず、いわゆるパニックのような状態になることがあります。

普段は隠れていた自分の弱さが、拡大されて出てくるようなものです。

この状態では正確な判断ができにくいことは、普通に考えてもわかることです。まさに、自分を見失っている状態なのです。

焦りでもっとも危険なのは、こうした正常で冷静な判断力が失われ、別の人に依存的であったり、攻撃的であったりする、自分の影の人格のような自分が憑依することです。(それが現れてしまうこと)

この場合、象徴的な言い方になりますが、天使より先に悪魔が入り込みやすくなり、ますます焦りが増幅され、誰かに極端に依存したり、ひとつの答えしか見えなくなったりして、それでしか自分は救われないと意固地になります。

さきほど、試練は救済とセットになっていると述べたように、象徴的には天使も見守っているのですが、天使的な守護を得るためには、自分(の中にあると言ってもいい、天、神性、宇宙など大いなるもの)を本当の意味で信頼し、辛抱強くあることが必要です。

そして、自分の判断やエゴ的(欲求解消、快を求めたり、苦をすぐになくすためが中心の)感覚だけに頼らず、現実的でまともに相談できる家族や専門家の意見も求めることです。もっというと、奇跡(奇異というものに近い奇跡)やとんでもを求めすぎないということです。

そうすると、直感ではなく直観として、あなたの中に安心できるコアのようなものが見つかっていくでしょう。

苦しいことはとてもわかりますし、すぐさま何とかそこから助けてほしいという気持ちになるのはもっともですが、それだけに、あなたの焦りによって、変容を遅らせたり、ますます泥沼にはまらせる存在を引き寄せてしまうこともあるのです。

ですが、もうひとつ、私の経験から言いますと、迷いに迷って、焦りに焦って、いわば迷い焦り切ってしまうことも、必ずしも悪いばかりではないと思います。

助けを求めて、いろいろなところへ出かけたり、人に会ったりしていくことで、結局、何をやっても誰によっても、自分自身が本当のことに気が付いていなければ、自分は変わらないのだと、やがて何か、憑き物が落ちたかのようにわかる時がやってきます。

それに気が付き始めた頃に出会う人や、仕事、技術は、(当人への救いとして)本物であることが多いような気がします。

しかし、これは諸刃の剣で、あなたが弱り、焦りのエネルギーを食らおうとする(それは肉体的エネルギーのこともあれば、あなたのお金の場合のこともあります)存在もいますので、危険といえば危険なところもあります。

どんなに落ち込んでも、必ず救いはどこかにあるのだと信じる(自分の中に持っておく)ことで、救いの道は、時間差はあっても訪れます。

この現実世界は、時空を感じられる空間のため、時間差や空間的距離などの差があり、それが直接ですぐの救済がもたらされにくい要因ともなっています。

自暴自棄になって、自分など生きる価値がないと思ってしまうことも、人によってはあるでしょう。私にもそんな時はあります。

それでも、試練と救いはセットになっており、時間差や距離感はあっても、救いと成長のシステムがあるのだということを信じる(つまりは自分の中にその物語をセッティングする)ことで、道は開かれると思います。

宗教的に神に祈るという行為も、祈るという行為そのものが、救済の装置(仕掛け)をあなたの内面にセッティングしているのです。本気で祈りを繰り返すことで、自身の神性的な力も発動することでしょう。ですから、祈りも無駄ではないのです。


選択を「手品師」と「恋人」で見る

人生は選択の連続と言ってもいいものです。

毎日、何を着るか、何を食べるかに始まり、どう仕事を片付けようか、どう人と相手しようか、何をして楽しもうか、何を学ぼうか・・・それこそ山のように選択事項はあります。

ただ、毎回毎回それを意識のうえに上らせていたら、たまったものではありませんので、たいてい、ささいなこと・ルーチンなことは、無意識のうちに(無意識に近く)自動選択するようになります。(深く考えずに選ぶ)

しかし、それでも、選択にとても悩むシーンは出ます。それはたいてい、どちらかを選らねばならないと思っているような、二者択一的な場面です。

ところで、マルセイユタロットの大アルカナで、「選択」を象徴するカードといえば、真っ先に、「恋人」が挙げられるかもしれません。

本当はいつもほかの記事でも述べているように、あるテーマそれ自体に、カードそれぞれで象徴させることができるので、「選択」ひとつとっても、もちろん、「恋人」カードだけで表せるものではありません。それでも、テーマに関係性の深いカードというものは出ます。

選択では、「恋人」がまずそうなのですが、ほかにも、今回は「手品師」も取り上げてみます。そして、この両者を見る(比べる)ことで、選択に関わる重要なこと(段階)もわかってきます。

では、最初に「手品師」の絵柄を見てみます。

「手品師」は、テーブルの上に、その名の通り、手品道具を並べて、ある手品をして、大道芸人として観客を楽しませています。

彼の手の持ち物やテーブルの手品道具は、タロットの全体構成で言うと、小アルカナと関係し、彼自体が大アルカナになろうとしている表現だと述べることもできます。

それはともかく、小アルカナと大アルカナの関係は、一言でいえば、現実性と超越性の違いともいえ、簡単に言えば、現実のフィールドを中心として見るか、心や精神、霊的フィールドまで含むかの認識レベルの差です。(いろいろな考え方があるので、これはあくまで見方のひとつです)

となれば、「手品師」は小アルカナの世界を扱おうとしていると見ることができ、それは選択の意味においては、現実フィールドで重要視したり、価値を持たれたりする基準によって選ぶ意味になります。

講座の中では詳細な説明をしていますが、「手品師」のテーブルと彼が持つものには、いろいろな象徴性があり、それらひとつひとつには、現実における選択肢の本質を表していると考えることができます。

さて元に戻りますと、私たちが悩むシーンでは、どちらかを選ばなければならない状況でのことが多いと言いました。それは、結局、現実生活における良し悪しを、なかなかその条件と選択の時点では甲乙つけがたく、判断できないことになっているからと考えられます。

詳しく要素を見れば、お金などの経済的効率・損得、自分の気持ちが満足するかどうか、やりがいや見返り(人からの評価、達成感・貢献感など自己満足も含む)があるかどうか、自己の学びや成長・拡大につながるか、確実性がある(目的のための成果や効果がある)のはどちらか、などで条件が拮抗しあい、迷っているわけです。

どちらかを選択した場合の未来が読めない、わからない、予想が今の時点ではつかないからというのもあるでしょう。

そして、今書いたこれらの現実的諸条件(悩んでいる要素)が、「手品師」で言えば、テーブルの上の小道具であったり、持ち物であったりするのです。

一方、「恋人」カードを見ます。

「恋人」では、手品師のように、道具・モノではなく、人が3人いて、真ん中の人が、両端の女性のどちらを選ぼうか迷っているようにも、すでに心が決まっているかのようにも見える描かれ方をしています。

そして、人間たちだけではなく、上空には、天使あるいはキューピッドのような、人間ではない異次元の存在も現れています。

「手品師」では、一人でモノを選択しようとしていたのですが、「恋人」になると、モノではなく、人そのものの選択が入り、それは逆に、人から教えられたり、示唆されたりして、選択を支援されているようにも見えます。

さらには、「恋人」カードに天使が現れたことで、通常の次元、現実や常識の選択レベルを超えた何かが、この実際の世界にも関与するのだということ、常識を超越した選択の方法や見方があるのではないかということが、わずかですが、示されてきたとも言えるでしょう。

つまり、私たちは、選択に迷い、悩むことで、次第にステップアップし、肉体・現実次元だけではない自分や世界に気づいていくことになるのです。

それは目に見えない部分も含む、統合的・霊的成長と言えましょう。もし霊的なことというのがうさんくさい、なじまないというのであれば、心理的成長と言い換えてもよいです。

心の中は目に見えない次元でありますから、そうしたものまで開いて(受け入れて)自分を見ていくことで、選択の見方・仕方も変わってくるのです。

「手品師」のところでも述べたように、「手品師」レベルの選択は、現実での常識的な損得とか、一般感情レベルの満足、具体的(他人から見ての)評価が得られる条件のもとでの視点(選択基準)でした。

「手品師」が大道芸人であるだけに、人からの評価は、自分の人気、ひいては食い扶持にも影響しますし、対人的に敏感で重要なものになるのもやむを得ないところがあるでしょう。(生活の基盤のため、快楽や喜びのための選択基準)

しかし、他人の目線や常識的価値観ばかりで自己の選択を行っていると、本当の自分を抑圧する選択の方法が習慣になり、自分自身の成長が止まってしまうおそれもあります。

そこで、他人との相談、コミュニケーションを取りつつ、自分と人の違いを認識し、自らが真に望むものの選択を見極めていくようにします。

ここで大事なのは、自分自身を発見したいからと言って、殻に閉じこもっていては(孤独ばかりを選択してしまっては)、結局、自分の個性がわからなくなってしまうので、他人と関わることで、他人に依存したり、流されたりせず、自他の違いを認識しつつ、自分をきちんと持つという過程が望まれるということです。

それが「恋人」カードの三人の話し合いのようにも見えます。

そうした中で、やがて、選択の条件やレベルというものが、現実世界で言われている「よいものを選ぶ」という観点だけが正しいのではないとわかってくる時があります。

自分の心は本当はどう言ってるのか? なぜこの選択で迷っているのか? ふたつの選択のどちらでもない選択というのもあるのではないか? そのこだわっているものに、本当の価値が自分にあるのか? ・・・

カードで言えば、新たな視点は、「恋人」の天使目線で生じてくるとも言えます。いわばそれは内的な声とも言えますし、神性的な発動による気づきの選択でもあり、また、魂の求め(ここにはギリシア的にいう「ダイモーン」のような、善性と悪性の両方の神的悪魔的存在からの介入、誘惑も含みます)によるものもあります。

これらのことから、迷って決められない時は、正解を求めようとしないのが正解という、面白い考えをしてみるとよいでしょう。

どちらかに決められないのは、まさに決められないものだからであり、あなたの視点を今の価値と条件から、はずすか(違う視点と条件で見てみる)、もう、どちらもやってみる、あるいはどちらも選ばないという両極端のような発想の転換を図るか、さきほど述べたように、大変に迷う段階で、すでにその選択肢のどれかを選ぶという意味での正解はないのだと認識し、こだわりを捨てたほうが楽になるでしょう。

神・天使的な目線に立てば、現実界での結果よりも、すべてのプロセスに意味があり、おそらく、どちらの、どの選択肢を選ぼうとも、そこに優劣はないと見えるはずです。優劣があると考えるのは、現実視点での条件・価値で判断しているからに過ぎません。

「手品師」で言えば、テーブルにあれだけ色々と道具が用意されているのが現実世界です。その道具をどう選び、どんな手品をするのか、それはあなた次第で、神目線では、手品そのものの評価より、たとえどんな道具であっても、手品をしたこと自体が評価されるのではないでしょうか。

また、あまたの手品(道具)を選んでやってみる、そして観客からそれなりの(いい・悪いの)評価を得るというも、現実世界に生きる人生の面白さとも言え、選択で悩むということは、それだけワンダーランドな(道具がたくさん用意されている楽しい)世界(に生きていること)でもあると考えられます。

ということは、悩むことは贅沢で豊かなことなのです。


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