ブログ
マルセイユタロットの独学
マルセイユタロットを独学で学びたいという人もいらっしゃるかもしれません。
そこで、改めて日本で、独学でマルセイユタロットを学ぶという条件では、どのような勉強方法があるのか考えてみたいと思います。
最初に言っておきますが、これは、「結局、独学なんて難しいということで、自分のところに来てください」というような集客の意味で書いているわけではありません。(苦笑)
まあ、多少はそんなところもないわけではないですが(^_^;)、どちらかというと、純粋に日本のマルセイユタロット学習環境を考えたいという趣旨がメインです。
まず、独学となると、書籍が中心となるのが何事もセオリーになりますね。
では、マルセイユタロットの本はあるのかのかといえば、残念ながら、日本では非常に少ないと言わざるを得ません。昔あったものでも、今は絶版になっているなどのこともあります。
日本でよく使われる、メジャーなタロットは、ウェイト版、通称ライダー版といわれるタロットであり、そのタロットでのテキスト・解説本の類はとてもたくさんあります。
しかし現状、マルセイユタロットの本はほとんど見かけません。
「マルセイユタロット」というからには、フランスやヨーロッパでは書籍もあると思いますが、語学ができないと、たとえ入手しても厳しいと言えます。ですが、英語やフランス語ができる人は、独学で学ぶのなら、洋書は得たほうがよいでしょう。
さて、めぼしいところで、日本でのマルセイユタロットの本といえば、
●「マルセイユ版 タロットのABC」
●「秘伝カモワン・タロット」(※絶版)
●「リーディング・ザ・タロット 大アルカナの実践とマルセイユ・タロットのイコノグラフィ」
●「新釈マルセイユタロット詳解―運勢好転への羅針盤」
●「タロットの宇宙」
くらいが検索して上がってきます。
ほかに、占星術でも有名な松村潔氏や鏡リュウジ氏の書いたタロット本などで、マルセイユタロットの絵柄があったり、説明されていたりすることもあります。個人的には松村潔氏の本のいくつかはおすすめできます。(マルセイユタロットを勉強するという意味より、タロットという象徴ツールが何であるのかとか、活用をどうするのかという意味においてです)
上記で挙げた伊泉氏の「リーディング・ザ・タロット」も、実はタロット(の成り立ち・歴史)紹介の意味合いが強く、マルセイユタロットを学習するという目的では、ちょっと異なると思います。
上記の本のうち、マルセイユタロット学習の意味で、もっとも高度で、強くおすすめしたいのは、やはりアレハンドロ・ホドロフスキー氏著の「タロットの宇宙」になると思います。(ホドロフスキー氏はタロット研究家・心理治療家であるとともに、本職は著名な映画監督でもあります)
この本を読みこなしていけば、十分にマルセイユタロットを独学すること(特に象徴の理解として)は可能かと思います。
しかしこの本で紹介されているリーディングの実践については、相当なセンスも要求されますので、誰にも聞けないような、孤高の道的な難しさもあるでしょう。
「秘伝カモワン・タロット」も、いわゆるカモワン版マルセイユタロットの解説本としては唯一といえるもので、すでに絶版にはなっていますが、大変優れた本と言えます。
ただし、一見平易に書かれているように見えて、カモワンタロットやマルセイユタロットの講座を受けないと理解に苦労する、実は深い本とも言えます。
逆に、ある程度、西洋の秘教や象徴を学んだ人ならば、むしろわかりやすい本として、独学でカモワン版マルセイユタロットを学ぶことは可能かもしれません。
「マルセイユ版 タロットのABC」や「新釈マルセイユタロット詳解―運勢好転への羅針盤」は、タロット占いとして学ぶ場合には、よいのではないでしょうか。(占い的な)基本理解の独学の第一歩として、適切な本と言えます。
いずれにしても、本というものは知識や基本を理解するのには、はずせませんが、実践(リーディングや活用)ということでは、本だけ読んでも習熟できないのはどの分野でも同じです。
とはいえ、いきなり本を読んだ後、他人に向けてリーディングするというのも無謀ですので、少しずつ練習する機会を増やしていくことになります。
それでも、自分の読みがどうだったのかを誰かに検証してもらったり、指摘したもらったりすることが独学ではできにくいです。
ゆえに、完全な独学ということとは違いますが、一人で学ぶという点では、通信教育というものの利用が考えられます。
通信教育となると、どうしても添削・指導を受けることになり、純粋な独学とは言えませんが、それでも、単独で自宅で学習することは可能です。
学校に通ったり、師匠や先生のもとで学んだりするのが困難な時は、こうした通信教育やオンライン教育システムを利用するとよいかと思います。
それで、マルセイユタロットの通信教育があるのかですが、これは検索してみると、幾つか出てきますから、自分の目的や予算、指導者との適性・相性等を考慮して、チャレンジしてみるのもよいでしょう。
あと、これはマルセイユタロットに限らず、いわゆるタロットを霊感ツールのようなものとして扱う(ことを目指す)人は、人に習ったり、本を読んだりすることなく、ただ直感・感性でもって、ひたすらタロットを読んでいくという独自のトレーニングと学習方法があります。
言ってみれば、カードは既成のものではあっても、意味やツールとしては、自分用に特化させてしまうという感じになります。
ですから、こうしたやり方では、テキストに載っていたり、先生が説明したりする解釈とはまるで違ってOKであり、要するに、タロットをツールとして、大切なことがわかればよいのです。この場合はタロットの象徴性の正しさとか、伝統的解釈などとは無縁です。
独学の難しさは、質疑応答ができない(自分の疑問や質問に答えてくれる人がいない)ということと、実践の客観的指導・チェックがない、学びのセルフコントロールが難しい(計画的にできにくい、挫折しやすい)ということでしょう。
そういう意味では、先生について学ぶ、学校で学ぶなどのほうがやりやすいのは確かです。
でも、人に学ぶと、まずお金がかかりますし、その人(教える機関)のカラーに染まって、先生や学校のやり方が絶対視されたり、先生に依存してしまったり、いろいろなしがらみなどで自由にできなかったりする面もあります。
前にも言いましたが、レベルや内容とは関係なく、人から学ぶ場合、最初に教えを受ける人(先生)にかなりの影響を受けますので、それは覚えておいたほうがいいです。あとで複数の先生に習っても、それは言えることなのです。
そういうのが面倒だなあ、と思う人は、難しい道ではありますが、独学や、せめて基礎だけとか、通信教育だけで学ぶということもありでしょう。
女性・男性、学び方の違い
タロットの大アルカナカードを見ていましても、明らかに女性と男性の性別の違いがわかるカードと、どちらとも取れないカード(あるいは両性具有的カード)というものがあります。
タロット(マルセイユタロット)がわかってくるようになりますと、性差というより両性の象徴する、性質の差(分離)とその統合に重要な鍵があるのではないかと気づいてきます。
ということは、タロットでの絵柄による性別(と、その区別がつかないような)の描き方は、意図的なものがあると考えられます。
中でも、「悪魔」と「世界」のカードは、見た目にも両性具有が見て取れ、性の象徴性の統合について、大きな示唆を与えてくれます。
さて、そうは言っても、現実に戻りますと(現実的に考えますと)、私たちはその感情(内面)は別にしても、外面として性差を持って生まれてきます。
世にあらゆる二元(ふたつのもの)の区別があるように、女性と男性は同じ人間ではありますが、違いも明らかです。
私は男性ですが、タロットを習う生徒さんには男性もいますが、女性がほとんどです。
タロットの講師(先生)も、どちらかと言えば女性が多いようです。
最初の頃は、タロットを教える人が男性であることを不思議がられたこともあります。(笑)
そうして、女性の方が男性にタロットを教わる場合と、女性の方が女性の先生に習うのとでは、おそらく違いがあるのではと想像しています。
つまりは同性間で習うのと、異性間とでは違いがあるのかどうかというテーマです。
これも、女性も男性も同じ「人」であり、「タロット」に興味を持つ者なので、それほど本質的な違いはないと言えばその通りだと思います。
むしろ、性別より、その人の持つ個性とか経歴のほうが「違い」として出ることが多いかもしれません。
ただ、それでも性質として言えるのは、男性は論理的で分析的傾向を持ち、女性は直感・感性的で包括的な傾向を持つと言えるかもしれません。
従って、教え・教えられる時でも、その違いはある程度は出ると考えられます。
同性間では、性質・傾向として当然同じものがありますから、コミュニケーションや学習伝達の度合いについては、スムースなところがあるのではないかと思います。
私も、まれですが、生徒さんが男性ばかりの教室(講義)の時があり、この時はいつもとは異なる質での、伝わり方を実感しました。
おそらく基本は同性同士のほうが、伝わりやすいとは思いますが、逆に化学反応のような、異質なものの刺激による飛躍というものも、同性の場合は少なくなる気がします。
私のタロット講義も、女性の生徒さんに対しての説明は、女性からするとわかりづらいところがあるのではないかと推測しています。
どうしても男性として知識的なもの、論理的なものへ偏るところはあるからです。たとえ感性・感覚的なものであっても、両性の違いはあるでしょう。
これまでの経験と考察により、女性と男性の知性の開き方、受け取り方、活かし方は異なっていると考えています。
なお、ここでいう「知性」とは、暗記したり、覚えたりして増やす知識ではなく、智慧という表現に近いものです。
女性は本質的にすべてを知っており、それが真の知性として自分の中に内在しています。しかし、そのことに気づいてない(忘却状態になっている)人が多いのも特徴です。
女性は知識的な正しさよりも、自らの持つセンサーに合うかどうかが重要になってきます。(そのため、センサーが真の知性とつながっている必要があります)
一方、男性は知性を持ちません。(本当はありますが、女性のような、気づきでの知性発動が少ないのです)
男性は、自分の中に知性を育てる必要があると言ってよいでしょう。そのため、知性のために知識を入れたがるのが男性であり、知識的正しさ・正解を追い求めます。
えらそーに知識をひけらかす(知識にこだわる)者に男性が多いのも、そうしたことが理由のひとつと考えられます。(笑)
ここからタロット学習(タロットに限らずですが)と性差について考えると、それぞれの学び方がわかってきます。
女性は知識を入れることにより、自分の中の知性を思い出す刺激・触媒とします。
本当は学ばなくても女性はすべてを直感的に知っているのですが、知識によって知性を蘇らせるきっかけとします。
言い方を換えれば、逆側に振り子を揺らすことで、元に戻ろうとする力と統合され、結局、自分を含む大きな振幅を思い出すことになります。
反対に男性はひたすら知識を入れ、分析し、比較検討し、普遍化の道を探る必要があります。そののち、知識が爆発し(フルにチャージされ)、感性に目覚め、今までの知識を超えたところ、つまり真の知性に覚醒します。
とはいえ、極端(両端)に女性・男性を置くと(色でいうと白黒)、その間の数だけグラデーションの色がありますから、女性性よりの男性、男性性よりの女性もその分だけ存在します。
ですから、必ずしも、男性だから・・・女性だから・・・と上記であげた学び方になるとは限りません。その間や差もあるのが「人」として個性でもあります。
ということで、男性としての私から学ぶ女性の生徒さんたちは、当初は女性性側からの違和感が出て、感性的に混乱したり、逆に自身の中にある男性性的な知識欲を満たしたりすることもあるかもしれませんが、自身にある女性性と真の知性の発動(復活)、という点では、女性の講師に学ぶのとはまた違った、興味深い道を辿ることになるでしょう。
反対に、女性の講師に学ぶことで、スムースに自身を開花したり、タロットを読むセンスが開かれたりすることもありますから、性別で決められるものでは、やはりないと言えます。
ただ、性別を意識した学び方も知っておくと、下手に苦労したり、困惑したりすることは少なくなるでしょう。
「手品師」「力」「世界」の3視点
マルセイユタロットの大アルカナで「1」をその数に持つカード、具体的には「手品師」「力」「世界」の3つを並べると、面白いことが浮かんできます。
タロットと数の関係は、もちろん無意味にふられているわけではないのですが、タロットはあくまで絵としての象徴性がメインであって、数秘術的なタロットの解釈を中心にしてしまうと、問題や誤解を生じることもあります。
しかし、先述したように数との関係もありますから、数でもって見てみるのも一面ではありです。
「1」の数の意味は、特別に意識したり学んだりしなくても、およそ皆さん、ニュアンスで感じられている通り、始まり、新規、フレッシュというような意味合いが出てきます。同時に、数秘的に、全体や完全性を表したり、私たちの思う「ゼロ」の概念も含まれたりすることもあります。
わかりやすく「始まり」的な意味で見ていくにしても、「手品師」と「力」と「世界」には、それぞれの「始まり」があると考えられます。
それについての詳細は講義でお話してはいますが、簡単に言えば、レベルの違いであり、少なくとも私たちは、マルセイユタロットが示すことからすれば、3つのスタート・始まりの段階を持つということになります。
「1」は完全性を象徴するということも書きました。
よって、始まりと同時に完全・完成でもあると考えられ、すなわち、終わり(完成)においても、3つの段階があることがわかります。
3で象徴されるクォリティ(質・状態)と言えば、創造・維持・破壊という3つの自然・森羅万象の流れがあります。これはインドの神々(ブラフマー・ヴィシュヌ・シヴァ)でも象徴されており、占星術その他においても、3つに分けられる性質(状態)があります。
このうち、創造と破壊は表裏一体のものであり、直線で表すと、3つの状態は山型になりますが、創造と破壊を結んでしまえば円形として見ることもできます。
つまりは循環や永遠性の形と言えましょう。そのことは、「手品師」「力」「世界」の中の細かな象徴図形としても描かれていることです。
さて、ほかの面からも、3つ、三枚について見ていきます。
ほかに考えられる3つの局面とは、時間(経過)の状態としても表せます。つまりは、「過去」「現在」「未来」の3つです。
マルセイユタロットの「手品師」「力」「世界」は、同じ「1」という数を持ちますが、厳密には、それぞれ「1」「11」「21」という数になります。(※ウェイト版とは「力」の数が違いますので、注意です)
もし数の順番に従い、成長していくものとしてとらえると、「世界」に進めば進むほど未来に行くことになります。
人生で例えるとすれば、「21」の「世界」がゴール(死・昇天)となり、「11」の力」は中間でピーク(大人・壮年)、「1」「の「手品師」は若年で人生の始まり(誕生)を象徴すると見ることができます。
「力」を中心として現在と見て、過去に「手品師」、未来に「世界」として見てもいいでしょう。
すると、人生を完成・終わりから見る方向と、始まり・誕生から見る方向、そして今・現在をポイント・中心とする観点があるのがわかります。
完成・終わり、つまり「世界」から見る視点では、人生全体を見通す(振り返る)ような視点であり、人生のあり方、生き甲斐、終わってみてから気づくような人生の意味のようなものが浮かんできます。
要するに、あまりその時その時の細かなことは考えず、終わりに際し「よく生きた」と思えた人生ならばOKということになるでしょう。
この視点が問題として現れれば、後悔やあきらめのような境地になり、進取の気勢や、創造性を失うということも考えられます。
逆に、進んでいく若さの「手品師」からの視点では、拡大・成長・発展という観点が中心になり、具体的に目標を立てたり、物質的にも充実させていこうという視点になったりすると思います。
問題として出る場合は、先行きの不安や、人と比べたり、社会(仕事など)での自分の役割・貢献・地位などに悩んだりすることになるかもしれません。いわゆる将来性・成長性の問題というわけです。
一方、現在にフォーカスする「力」の視点では、未来や過去を気にすることなく、まさに「力」を余計なことに注がずにすみ、今に集中させていくことができるでしょう。
とはいえ、問題として見れば、今しか見ないことになり、刹那的な生き方、今さえよければいい、昔のことや先のことなどどうでもいいという自己中心的な生き方にもなりかねません。
しかし今に集中する生き方は、多くの人ができていないもので、何かしら私たちは、悪い意味で、過去に囚われたり、未来に過剰に心配したりして、人生を過ごしていることが多いものです。
結局、今をないがしろに、どんどん今という「時」「瞬間」を空虚なものにしていると言えます。ということは、私たちは今現在にほとんど存在しておらず、過去と未来の多元な時間の中に、自分を分散してしまっている(埋没させている)とも言えましょう。
そのため、「力」のカード象徴が示すように、ライオン(これが何なのかは、皆さんでお考えください)をうまく操れず、四苦八苦している状態になっているのだと言えます。
数のうえでは、力は「1」に「10」が加わっています。
「10」はマルセイユタロットでは「運命の輪」の数であり、すなわち「力」のカードは、「運命」を乗り越えた(コントロールした)始まりの段階なのだという解釈もできます。
それが、過去と未来へ分散した自分への統合でも示されます。ちなみに「運命の輪」にも「3つ」のものの象徴が描かれています。
それでも、分散する視点も悪いわけではありません。
先述したように、これからの成長性・計画性・創造性・夢を持つ始まりの視点の自分と、人は皆同じで、誰もが死を迎えて、築き上げた物質を捨て、関わった人たちとも別れなければならないという終わりの視点の自分があります。
この両方でもって、今・現在その時々において切り替えて思うことで、うまく人生を乗り切っていく(波に乗るように楽しんでいく)ことができるのではないかと思います。
そして、あの世とこの世という二つの世界を想定すれば、この世の終わり(死)はあの世の誕生(始まり)であり、あの世の終わり(死)はこの世の始まり(誕生)となります。
その繰り返しに、私たちは何らかの「力」を内在させつつ、様々な経験をしているのかもしれません。
問題を解決したくない人
タロットリーディングでは、様々な問題を持った方が現れます。
皆さん、当たり前ですが、何かの悩みや葛藤、問題を解決したり、よくなりたいと思われたりしてリーディングを受けられるわけです。
ところが、おかしな話になるのですが、(医療的な)病気と治療で例えるとするのならば、病気に罹っているのに、治りたくないという人がいるのです。
タロットリーディングで言いますと、本当は問題を解決したくはない、ということです。
ただし、ここがまた不思議と言いますか、奇妙なことになるのですが、本人の自覚している意識(表面意識)では、治したい、癒したい、解決したいと思っているのです。
さきほどの医学的な病気と治療の例えを使いますと、医者に診てもらったり、病院へ行ったりして治療を受ける意志は当然にあるのです。
現に、本人は病気で痛かったり、つらかったりしているわけですから、その苦から逃れたい、楽になりたい、正常に戻したいとは思っているのです。
しかし、奥底の意識、別の自分としては、治りたくない、「この野郎、治すのなら恨んでやる!」みたいな(笑)ありえない心(自分)が存在しています。
この理由として考えられるのは、一種の不幸自慢というか、不幸にいること、苦しいことが本人にとっては得になっているということがあげられます。
幼い子どものように、病気でいればお母さんが気にかけてくれる、周囲の人が労ってくれるというような感じで、問題のある自分というものが、その人の何らかのメリットになっているわけです。
メリットとしては、気にかけてくれるというだけではなく、時には経済的なこと(お金が問題状態にあったほうが得られるなど)であったり、何かの責任から逃れられる状態だったりします。
例えば責任逃れだとすると、「私はこんなに不幸で問題を抱えている弱い人間なので、大したことはできません、働けません、一人前のことはできないんです・・・助けてください・・・」みたいな同情をひくような形を無意識に演じているわけです。厳しくいえば、一種の逃避です。
それから、意外な部分では、「癒しを味わいたい病」というようなものもあります。言い換えれば、癒しやヒーリングの中毒症状です。
これはまた逃避よりも厄介です。(実は本質的には逃避と同じですが)
自分の根本的な問題を相談したり、浄化したりしようとせず、その一部や、別の問題に置き換えて、それが癒されることで心地よくなり、自分が変わったり、良くなったりしたほうに錯覚するものです。
根本的な問題について、一挙には解決されないので、少しずつ癒していく、浄化していくという過程では、似たようなことは起きます。
しかし、癒しの中毒症状では、本質・根本の問題に行き着く前に逃げ、別の問題、当たり障りのない、でも本人の意識のうえでは重要な本当の問題と錯覚するようなものを作り上げ、それをヒーラーや相談を受ける者に示すことで、癒され、快楽を得るというパターンになっている人がいるのです。
優れた相談者(相談を受ける者)・ヒーラー・カウンセラーなどは、そのことに気づいていますが、あえて本人の(自分での気づきの)ために見守ることもありますし、中毒を断つために、人によっては厳しい言葉を言うこともあるでしょう。
特に厳しい言葉を受ける場合は、当人とっては、気分よい夢を覚まされるような怖いことにもなりますので、中毒者は無意識のうちに避けようとして、相談に行かなかったり、そういうことを言いそうな人のところを選んだりしません。
時には、厳しいことを言われた時は、その人を非難したり、愛がないと誤解したりすることもあります。(ただし、言う方も言葉やタイミングを選ぶことは大切です)
気をつけてほしいのは、「癒された」「自分の問題が何かわかった!」という気づきの場合でも、一時的な快楽として現れることもあるのだということです。
そして、怖いのは、いつしか、問題の解決や浄化ではなく、癒されることが快楽、癖、中毒のようになって、目的が気持ち良さを味わうことにすり替えられる場合です。(実際にドーパミンなどの脳内物質が出ていることも考えられます)
今の世の中には、たくさんの相談技法や癒し・ヒーリング・治療・浄化のテクニックがあり、それを実施しているカウンセラー、相談者も多いです。
それをいいことに、まるで渡り鳥のように、あれもこれも試し、その度に涙を流し、癒された、自分の問題がわかった、と快楽を得て、また麻薬の効果が切れてくれば、新しい快楽と薬を求めて、自分で問題を無意識のうちに作り、相談者のもとを訪れようとします。
問題と癒しの快楽的ループ(の内にある)と言ってもいいでしょう。
このループ状態には誰しも陥る危険性があります。
それは、先述したように、少しずつの問題解決・浄化のプロセスに似ている部分もあるからです。
ひとつの目安としては、同じような問題を、何度も繰り返し相談していないだろうかと点検してみること、逆に、ひとつ解決すればまた別の問題が次々と現れ相談していないかと振り返ってみることです。
また相談前と後の、あまりにも気分の大きすぎる落差にも注意が必要です。
マルセイユタロットならば、特に「正義」「13」「運命の輪」「神の家」といったカードがこの問題には特徴的に現れますし、また一見すばらしいカードのように見える「世界」も、見せかけの楽園にいること、麻薬の悦楽に浸りたいことを示唆している場合があります。
とはいえ、中毒のようになって逃げることも、守りたい強烈な何かがあるのです。
今、それに向き合うことは自分の存在そのものを失ってしまうかのような、(無意識にあっても)本人とってはとてもつらくて怖いことなのです。
本当の麻薬でなくても、私たちは何かに中毒になっていることはよくあります。
そしてその中毒症状にある時、やはり毒を快楽として味わうことをしないと、やり切れないほどの何か大きな問題を抱えているわけです。
中毒者を非難するのではなく、その悲しみ、つらさ、空虚感も考慮すべきです。
本当の麻薬は別としても、何かの中毒が、必ずしもすべて悪いとは言えません。本人の大切な何かを保護していることもあるのです。
しかしながら、やはり中毒は中毒なのですから、最終的には決意し、これを断つ覚悟が必要でしょう。
ですが、ループを繰り返している内に、ちょうど外堀が埋まられて本丸に近づけるように、一時的には中毒であった表面的癒しの繰り返しも、やがて満期を迎える(フルチャージされる)と、本質的な問題に向き合う覚悟もできることがあります。
案外と怖いと思っていたことでも、外堀が埋められたことで、そうでもなくなってくるものなのです。
こう見ると、よい中毒というものもあり、本当の目的のために、まずは外側にヒビが入るよう、表面的な癒し・浄化作業に邁進させる方向に、あえて舵を取らせているということも考えられます。
世間にはいろいろな愛の形があります。その愛は、すべてが自分に心地よいものばかりとは限りません。各レベルでの愛の表現があります。
また自覚的な愛もあれば、無自覚な愛(自分や人にとっては悪とも感じられるもの)もあります。
こうしたことも、言わば、自分の次元が上がった時、それまでの下の次元のからくりを理解することができるものなのです。
マルセイユタロット グノーシスの道
10月になりましたので、最初に今後のお知らせなど少しいたします。
まず、秋に毎年やっておりますマルセイユタロット講座(基礎ハイクラスコース)は、少し遅めのスタートで、今年は11月からを予定しています。全6回のコースで、来年にまたがることになりそうです。
今なら講座受講を検討されている方のスケジュール相談に応じられますので、お問い合せいただければと思います。
それから、今年後半は、講座修了者のアフターフォローにも力を入れており、すでに修了者用メルマガではお知らせしましたが、修了者への個人面談(相談)など、希望していただければ実施いたします。だいぶん前に受講された方でもOKですから、一度ご連絡ください。スカイプでの面談も可です。
さて私自身、マルセイユタロットを通して皆さんと一緒に考え、開発していきたい思っているのが、グノーシスです。
グノーシスとは何か?については、ここで語るとなれば大変ですので、今はいたしませんが、簡単に言えば自身の内にある神性の認識・覚醒ということになります。別の表現でいえば、私たち自身を閉じこめているものからの自己の真の解放です。
ただ、単なる昔の思想を追うとか、スピリチュアル的な抽象性の逃避に終わらないよう、現代性・現実性・具体性を考慮して、グノーシスを目指したいと思っています。
そのため、タロット修了者の間で、グノーシス(勉強)会を開催し(希望者のみ)、マルセイユタロットの象徴と教義にふれ、学んでいる方と一緒に、私たちの実生活の中で、いかに自分を目覚めさせ、解放し、また現実との折り合いをつけていくかを検討したいと考えています。
この世の中はすばらしいものでもありますが、生きている中で矛盾や生きづらさ、理不尽さを感じる人も少なくありません。
私自身、幼い頃から、生きること、生について疑問に思うことがありました。生を否定するのではなく、それどころか、それは先述したように、すばらしいもの、ワンダフルなものであるのも確かです。
しかし、多くの人が真に幸せとは言えない状況であるのも否定できず、お釈迦様が指摘したように、生・老・病・死の苦悩を中心に、私たちは悩み苦しむことも多く、そもそも今の世の中のシステム自体にも万人に幸せとなるようにはできていない部分があるのではないかと感じられます。(それが意図的かどうかは別としても)
今、個人の生き方が問われ、自分らしくあること、個として個性的に生きることがよく言われます。
またスピリチュアル的には、自分が世界を創造しているものなので、自分の世界に(つまり自分自身が)平安と幸せを実現させないと、いくら外側の世界に働きかけても意味はないと言われます。
このことから、まずは自分が大切、自分自身が「個」として幸せであり、充実することで、周囲も自然に調和、平安へど向かうと考える人も少なくありません。むしろ、ブログとかSNSなどで取り上げられる今のトレンドと言ってもいいくらいです。
それは一理あると私も考えますが、一方でどこか作為的で独善的な匂いもしますし、現実に、私たちは外の世界を無視することができないばかりか、内と外(自分と他人)の世界を実感し、影響しあって生きています。
もしすべてが自分だけの世界だとしても、それを認識する力と方法が必要です。
マルセイユタロットを見ていて思うのは、この内と外の問題も含めて、結局、認識の力が問題になっている(認識の未熟、偏り、不足状態になっている)のではないかと想像しています。
本当の意味での知性(いわゆる記憶力とか、学力とか、一般に言われる頭の良さとかは異なります)の力といいますか、それが不十分なのが私たちの今の状態ではないかと思うのです。
内と外、自分と他人に実感性があるのも、実は認識の問題であり、本当は統合できる観点があり、それに至れば、スピリチュアルの方のいう、世界は自分が創っているというのと、現実感覚の自分と他人がいるという感覚との隔たりがなくなっていく(本質的に同じものであり、見方の違いのようなものとしてわかってくる)のだと考えられます。言ってみれば、自分と人が真に共有できるわけです。
例えば、「愛」という概念がありますが、情緒・感情的な愛と、客観性を伴う、数学的ともいえる愛の質は、同じ部分もありますが、やはり次元が異なるものと思えます。
タロットの4組でいえば、風・水・火・地の愛の概念があり、水的な愛と風的な愛では違うのです。
どれが正しいとか間違いとかではなく、そのどれもが愛なのですが、ひとつの水とか火とかにこだわっていれば、そこはひとつだけの世界で狭く、最終的には4つを統合した観点で見ないと、本当の愛(高次の愛)はわからないと言えます。
私たちは恋愛で燃えている時、相手とひとつになりたい、ずっとこの愛は続くもの、続いてほしいと願いますが、一方で、肉体は衰え、経済や現実生活という側面で、時に愛の炎も揺らぐことがあります。
別れてしまうことは悲しいことではあっても、愛が消えたわけではなく、形を変えて愛は存在し、また情愛的には冷たいように思えること(選択)も、大変高いレベルでの愛から見れば、自他ともに愛に満ちた行為(選択)かもしれないのです。
いわば、神目線と人間のエゴ的な感情レベルとでは、本質(作られる素材)は同じものであっても、次元は大きく異なって、その選択に自ずと違いが生じるのです。
話を戻しますが、結局、グノーシスに目覚めれば(進めば)、人はよいもの、正しいもの、理想への認識も変わって、選択と行動も違ってくるようになり、それは今までの常識レベル、社会とも異なってくるわけです。
ひいては、それが世界全体への変容にもつながっていくと考えられるのです。
マルセイユタロットはそのことを思い出し、私たちに神性なる選択と次元のエネルギーを降ろしていく象徴ツールなのだということです。
>
そして、つまるところ、グノーシスは自己と世界の救済論になるのです。
マルセイユタロットでは、戦車、節制、世界の三枚がつながるような印象になります。