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人間の選択、マルセイユタロットの指針
マルセイユタロットと言いますか、伝統的タロットでは、78枚を一組にし、大アルカナ22枚、小アルカナ56枚という構成になっています。
二部構成のアルカナは、その数から、大アルカナは3と7、小アルカナは4と10の原理によって解釈可能です。
特に、3と4の違いが、大アルカナと小アルカナにはあると考えられます。
大アルカナと小アルカナは、いわば次元が違うので、同じように見ては理解ができなかったり、うまく使いこなせなかったりします。
さきほど、3と4の違いがあると言いましたが、大アルカナの3は縦に見て、小アルカナの4は横に見ると適切になってくると思います。
ところで、人は何かを選ぶことで人生を過ごしているとも言えます。人生において、選択がないことはめったにありません。一日単位でも、一年単位でも、常に選択の連続と言えます。
ゆえに、人は選択に迷い、悩むことが多くなります。そして、タロットを使う者、あるいはタロットリーダー、タロット占い師に相談する者も、やはり、自分の何かの選択についてが主題になることがよくあります。
そこで、さきほどの大アルカナの3と、小アルカナの4を、選択のテーマで見ます。
すると、選択には7つ(3+4)の方法(区分)があって(考え方によっては3×4の12)、大アルカナ縦の3と、小アルカナ横の4に分けられます。
これを別の言葉で表しますと、大アルカナには3レベルの選択があり、小アルカナは同レベルながら4つの性質があるわけです。
大アルカナの三つのレベルとは、言わば低・中・高の選択段階があるとも表現できます。ただし、ここでいうレベルの違いは、縦階層ではあっても、低いものが悪くて、高いものがよいというわけではありません。
三つのレベルは、あえて宗教的に言えば、神から見た選択と人間的な選択、その中間的な選択があるというものです。神の選択はもっとも高次ではあるものの、それが必ずしも、普通の人間にとってよい選択であるとは限りません。
なぜなら、高いレベルになればなるほど、一人の人間の良し悪しなど、どうでもよくなってくるからです。多数決ではありませんが、宇宙全体の進化のために、ただ一人の人間への忖度はないみたいなことです。
※(別に人の犠牲を肯定しているわけではありませんし、小宇宙大宇宙の法則からすれば、一人の人間と全体とはリンクしていると考えられ、おそらく全と個が切り離されて進化するものではないとは想像できますが)
神の思し召しという言葉があるように、神様の考えるレベルとか規準は、我々人間にはわからないものです。でも、人は自分の人生を普通に生きているわけですから、通常レベルでの選択における良し悪しを無視するわけにもいかなくなります。
ワタクシの事情というものに神は考慮してくれなくても、ほかならぬ、ワタクシ自身はワタクシのためによい選択をしなくてはと思うわけです。
しかし、一方で、神次元からすれば、一人の人間の本当の成長のためには、その人にはわからないレベルで善きことがあり、その選択を勧めることもあるでしょう。人間レベルだと欲望や私情に囚われて、目が曇ってしまうこともあるからです。
もし天使という存在がいるのなら、天使は、そうした高い神の次元と、普通の人間との間に介入して、相互理解と、人の本当の成長(霊的進展)のために働きかけることになるのではないかと想像します。そういう意味では、天使の選択もあるということです。
マルセイユタロットの大アルカナは、この三つの階層の選択を示唆しているものと考えられます。
ただ先述したように、どれ(どの階層の選択)がよくてどれが悪いというのではありませんし、このカードが出れば特定の階層の選択をすべしというものでもないと考えます。
大切なのは、三つの階層を総合的に判断し、なぜそのカードが今回出たのかの意味をよく見極め、結局、自身自身の成長に役立てることではないかと思います。
一方、小アルカナの世界は、人間レベルの選択における4つの性質を表し、すなわち、四大元素の風・水・火・地で、物質的には剣(ソード)・杯(カップ)・杖(ワンド)・玉(コイン)になります。
簡単に言えば、四つの視点・見方みたいなものです。
人間世界は、損得や、快不快・好き嫌いなどの感情、時間や投資の効率性、やりがい・生きがい、面白い面白くない、関心無関心などの判断の規準があります。(人によって異なる規準にもなっています)
これを分析するのに、4つの性質は役立ちます。自分は何を重視して選択するのか、また、足りない性質、考慮すべき性質は何なのかなど、こうしたことに小アルカナは使えます。
個性を特化していく、悪く言えばわがままを突き通すみたいな選択の使用法もあれば、バランスを見る、統合的な自己成長のための選択に使うという道もあります。後者は結局、大アルカナに通じる道であり、やはり、マルセイユタロット的には、人間が神に戻る方向性(霊的成長)を示唆しているのではないかと考えます。(使い方にもよりますが)
マルセイユタロットを使っていくと、現に私自身がそうですが、現実的なことにおいて、タロットを使って何かを選択するというようなことは、ほとんどなくなってきます。そして、タロットで何かを決めるという使い方に、空しささえ覚えるようになります。
ですが、それがよいと述べたいのでもありません。
タロットで物事を決めることも別に悪いわけではありませんし、タロットの使い方ではメジャーな方法でしょう。従って、それもまた自分の選択であり、どのような使い方をするのかは自分次第で、それにタロットは応じてくれるというわけなのです。
タロットリーダーが役に立つ理由
タロットで自分のことを見るのは難しい
という話がよくされます。
長年マルセイユタロットをやってきている私から見ましても、それはその通りのところがあると思います。
ただ、世間で言われるそのことは、だいたい、タロットを占いとして扱う場合のことに当てはまると言えます。
とはいえ、占いでない使い方をしたとしても、例えば、タロットリーディングにおいて自己判断のみでは、少々難しいところがあるのも確かです。
私は最初の頃は、タロットリーディングの方法を統一して行っておりました。統一していたというのは、具体的に、他人を見る場合と、自分一人で行う場合との展開方法や読み方(リーディング)を同じにしていたということです。
しかし、前述したように、自分で自分を見るのは難しい部分があるので、やがて他人向けと自分向けで方法を変えることにしました。(同じ方法を使うケースもあります)
その方がわかりやすいからですし、そもそも、他人リーディングと自己リーディングというのは、同じ「リーディング」という呼び方にはなっていますが、根本的に異なるものであることを理解してきたという理由もあります。
このことについては、またいずれふれたいと思います。
さて、自己リーディングの難しさの最大の理由は、客観的になれないことがあげられます。文字通り、客観ではなく主観なのですから当然です。
そこに感情的なものが加わると、「こうなってほしい」という希望や、逆に「このようなことは嫌だ」という思いが、リーディングにどうしても反映されがちです。
タロットカードでは、結構幅のある読み、あるいは、相反するような意味が出ることもあります。
それはタロットが象徴のカードだからで、オラクルカードのように、決まった意味とか言葉があるわけではないからです。(何を象徴しているのかの根本はあります)
その「幅」こそが、自己の感情と相まって主観が作用し、読みの客観性をなくさせて、判断を迷わせることにもなります。
このことからも、他人向けに行うリーディングスタイルと同じにしては、自己へのタロットリーディングとか活用は難しいことがわかります。
極端なことを言えば、自己占い的なものや、自分に対して何か現実的に決断するようなことに、タロットは使わないほうがよい(この場合のタロットを使うというのは、タロットを引くという意味)とさえ思っています。
ですが、主観でありながらも客観性をあげるための工夫をすることで、上記の問題も多少は改善される場合があります。
それはそれとして、今日言いたいのは実は別のことなのです。
それは、なぜ他人に対してタロットリーディングを行うのかの問いに、ひとつの答えになるものかと思います。
要するに、客観性の効果がアドバイスや助けになるケースが、この世だからこそあるというものです。
私たちのこの(現実)世界は、個別や分離の世界です。一人一人個性を持ち、数多のモノがあふれかえる世界で、自分と他人が区別されるのが普通です。
「他人と比べてはならない」とよく言われますが、それはこの世界の構造からして無理な話です。むしろ、比べるためにできているのではないかとえ思えるものです。
ただし、あまり他人を気にしないという選択はできるでしょう。その辺りの自由性があるのもこの世界の特徴です。
何が言いたいのかと言いますと、他人と自分がいての世界だから、それを利用しない手はないということです。
これをタロットリーディングに当てはめると、自分で自分のことを読むことが難しくなるのは当たり前の世界で、だったら、他人に見てもらうほうがわかりやすいですし、受け入れやすい側面があるということです。
皆さんも迷った時、判断に困った時、最初は一人で考える人は多いかもしれませんが、結局、誰かに相談しますよね?(しない人もいるでしょうが)
たとえ解決策が出なくても、人に話をするだけでも気持ちは楽になることがあります。特に困っている状況をわかってもらえたという時は、その効果も高いです。
また、自分以外の者からのアドバイス、助言、さらには客観的データも、受け入れやすく、冷静になれる場合があります。頑固な人でも、信頼する人とか、特別な人から言われれば説得されるケースもよく聞きます。
やはり、客観的なアドバイスは、自分の枠をはずして物事を見ることに、とても役立ちます。
マルセイユタロットで言えば、「運命の輪」の輪の中にいる状態で、そこから脱する視点が与えられるわけです。
このこと(他人の言)により、人は助けられたり、成長したりします。(もっとも、反対に他人から騙されたり、洗脳されたりもしますが)
そう、この世界は、自分以外のものが自分を助け、または貶めることになっている構造の世界なのです。まさに独りよがりでは、その状態で固まったままであり、なかなかその小さな世界から抜け出せないことになります。
視点を変えてみれば、この世界全体で完全性があると見て、だからこそ、自分以外のものがそれを補完することになっているのだと考えることもできます。
タロット自体を客観のためのツールにすることで、何も他人によってリーディングしてもらう必要もないかもしれませんが、他人にタロットを使って見てもらうことで、二重(タロットとタロットリーダー)の客観性が出て、さきほど言った、自分に対する(自分以外のものからの)補完が強くなります。
タロットが当たる当たらないとか、タロットが真実を告げているのか告げていないのかということは、この観点からすると問題ではありません。
タロットリーダーとして、人の客観性のために役立つこと自体が大きな意味を持つのです。
予言、2025年問題などについて。
2024年のスタートが、あまりにも大きな災難から始まったこと、ほかにも悪い出来事が連続したために、これからの先行きを不安に思う人も多いようです。
また、スピリチュアル界隈とか予言の世界では、少し前から2025年問題というのがささやかれています。これは2025年に日本にすごいことが起きるというものです。
このすごいことというのが厄介で、たいてい悪いことや災害という類で言われています。予言によっては、(あえて書きませんが)月日まで指定されています。
予言的なものは、ネットでも結構昔から人気です。これから先、どうなるのか知りたいというのは、人情の面もあるからでしょう。特に世情が不安定であると、余計に未来がどうなるのか知りたくなる人も増えるのだと思います。
ただ、これも古くからよくあるパターンですが、自分(とか特定の組織)に注目を集めたいがために、わざと大げさに不安を煽るような予言をする者がいます。
目的は集金であったり、宗教などの組織に入会させたりするものが多いでしょう。現代では、承認欲求を満たしたり、動画などの再生数稼ぎや、セミナーなどの集客目的だったりなどの場合もあると思います。
ここで、ちょっと前を思い出してください。
コロナ禍のケースでは、果たして、コロナ前にコロナウィルスの病が世界的に流行って、自由がかなり制限される状況を予言した人がいたでしょうか? 病気の流行くらいの予言はあったかもしれませんが、コロナのことを正確に言い当てたような人は見受けられなかったと思います。
そして、コロナ禍になって、当時、いろいろな人が今後のことを語り出しましたが、その多くはやはり不安を煽り、悲惨な未来をイメージさせて、集客のネタにしたり、欲望的な意味で、自分になにがしかの注目を集めようとしたり人が少なくなかったように思います。
結構、化けの皮がはがれたと言いますか、コロナ禍という非日常的なことが起こって、その人の本性が見えたという場合もありました。
もちろん、皆さんのためを思って危機を訴えたとか、災難に備えさせようという気持ちの人もいたと思います。今の予言も、親切心から出ているケースもあるでしょう。
それでも、怖い予言をしてどうするのかという疑問が、個人的にはあります。
確かに何の備えもせず、能天気に生きるのがよいというわけではありません。実際、地震や台風など、日本では自然災害も多いのは周知の事実です。
私は阪神大震災を経験しましたが、当時、関西圏では地震の危機感は皆無に近く、神戸あたりでも、大地震など来るはずもないという一般的な雰囲気がありました。(実際は何度も大地震が過去に起きていたのですが)
しかし阪神大震災が起こって、その後からこの地域だけではなく、全国的にも地震に対する防災意識、対策が高まりました。そういった意味では、先に備えや引き締めの気持ちを抱かせるために、危機の予言もありかもしれません。
とはいえ、やはり怖い予言はあまり有意義ではないと思います。それは先述したように、そうしたことを利用して、利己的なものに誘導する力が働きやすいからです。
また、ただでさえネガティブな人が多くなっている時代に、希望をやる気を失わせることにもなりかねませんし、よい社会に変えていくにはどうすればよいかという思考や動きが停止し、受け身にただ運命を待つとか、怖いことが起きるのなら、今享楽的に生きればよいというような意識に囚われる人も出るでしょう。
一言で言えば、創造性が失われるわけです。
もしスピリチュアル傾向の人が言うように、人々の意識が現実を作るのなら、不安と恐怖の予言によって、多くの人の想念がそれになり、本当に未来は暗いものになりかねません。(逆に、たくさんの人が予想すると、その通りにならないという逆張り現実説もあるようですが)
タロットも占いだと思われていますので、先行き・未来についてどうなるのかタロットで見てほしい、見てみたいという人が結構います。むしろそれがタロットの使い方ではないの?と誤解している人もいるくらいです。
エンターテイメント・遊びの意味で、「今後どうなる?」と、タロットで見てみるのもありかもしれません。
しかし、私としては、特にマルセイユタロットでは、そういった使い方はあまりお勧めしないものです。
(マルセイユ)タロット使いは、魔法使いではありません。未来のことを当てたり、自我(エゴ)の思い通りに環境を変えたりするようなツール(と人)ではないのです。
恐ろしい未来がタロットで示されたとして、いったいそれが何の役に立つのでしょうか?
それこそ、「こんな恐怖の未来がタロットからわかった!! 動画を見た人だけがわかる衝撃の未来!!!」という、おどろおどろしいサムネイル・タイトルで人を惹きつけ、動画再生数を稼ぐくらいです。(笑)
タロットを使う者は、タロットの奴隷(タロットの言いなりになること)でもありませんし、反対に、自分のエゴのためにタロットを都合よく扱うのも問題です。
予言のことに戻しますが、2025年にたとえ何かあるにしても、反省や備えをすることを忘れずにしつつも、何が起きるかなどはどうでもよいとし、今の自分を悔いなきように生きていくことだと思います。(不安になることを否定することでもないですし、ダメな一日、悔いのある日々もあるのが普通で、それも含めて人生を旅していると考えます)
ところで、マルセイユタロットは13番のカード以外は、見た目は特に恐怖を感じないものです。(16「神の家」も、ウェイト版ほど破壊の絵柄ではありません)
従って、どうせ先行きをタロットで見るのなら、「どうなる?」としてカードを引くよりも、「どうすれば(よい)未来を築けるか?」として引いたほうが建設的です。(ちなみに先述した「神の家」には、建設していく意味もあります。神への建設、すなわち神性の自分に適った選択と行動が意味されるのです)
そして、できれば、明るい未来を想像し、実際に皆さんで創造していきたいものです。
年初に当たり、マルセイユタロットから。
明けましておめでとうございます。
と言ってもいられない、元旦からの災害、事件の数々に日本は見舞われています。災害や事故に遭われました方々にお見舞いと、犠牲になられた方々のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。
このような状況では、タロットをする者にとって、あるいはタロットに関心がある方は、やはり、どうしても、「今年はどうなのか?」とタロットを引き(展開し)たくなると思います。
そうでなくても、年始にはタロットを引くのが恒例という方もいらっしゃるでしょう。
私も状況とは関係なく、毎年、全体と個別(自分)について、マルセイユタロットを引いております。
ただ、昨年末の記事にも書きましたが、このように「年をテーマにタロットを引くこと」には、占い的な見方と、そうではない見方の二つがあると思えます。
前者は、主に「どうなるか(どんな年なるのか)」という見方であり、後者はそれ以外で、代表的なものには、「(今年は)どうすればよいか」とか、「(今年には)どんな課題や意味があるのか(を見て、その対処方法も考える)」というようなものです。
言い方を換えれば、受動か能動かの違いと言えましょう。
別にどちらかがよくて、どちらかが悪いと言いたいのでありません。「どうなる?」ということに関心があるのも人情ですし、かと言って、受け身だけの姿勢では、マルセイユタロットで言えば「運命の輪」に翻弄される、輪の中の二匹の動物のようになるばかりです。
物事の変革には、自分から打って出る、自分が変えていくという能動的態度も必要でしょう。それでも、意識高い系(笑)ではないですが、そうした積極的な姿勢ばかりが強調されるのも、人間、苦しいものです。
一人の力では、できないことも多いですし、(自己の)無価値観にとらわれる人も多くなっているからです。
特に今の日本人の多くは、自分に価値が認められないという方が増えていると思います。
昨年には、ラノベ・アニメに、「異世界転生もの」が増えている理由を書きましたが、そこからさらに付け加えると、自分に価値があるのか(いや、ない)、何かの役に立てるのか(いや、役立たずだ)という無価値感を多くの人が感じているからこそ、異世界で自分の価値が認められる環境に転生したいという物語が描かれるのだと感じます。
無価値感は、つまるところ、生きる価値につながります。“自分は生きていていい(存在な)のか”という究極のテーマです。
スピリチュアリストや心理系の方々は、自己尊重、自分に価値を自身で認められる大切さを言います。
ですが、現代社会の中でそれを獲得・回復するのは容易なことではないでしょう。たとえ一時的にそれができても、これだけ多くの人と比較される情報過多の時代にあっては、自分に自信や価値を持つことはなかなか困難だと思えます。
私たちの現実は、一人一人違った個性をもった人と共存してる世界です。ゆえに比較はつきものであり、資本主義自由経済のもとでは、価値を決める中心は競争になります。
当然ながら、どの分野においても勝ち負けが出て、少数の勝者とたくさんの敗者という構図になります。そうなりますと、たとえどこかで勝っていても、どこかでは負けるという仕組みにもなってきます。
言わば、誰もが敗者の感覚を持つことになります。それが自己の無価値感にも関係してきます。
結局、この個性の世界を、比較と競争だけに価値を決めていくシステムにすると、逆に没個性となり、自分に対しての無価値感が増大していくことになると考えられます。
ですから、それを逆手に取り、一人一人違うということは、比較ではなく、加不足・得意不得意など、アンバランス性を助け合うことによって補い合い、完全性を全員で作り出し、共有し合うという観点が大切になるのではと思います。
実は、今年について、全体向けに引いたマルセイユタロットカードは「正義」でした。「正義」は公平なバランスを象徴するカードでもあります。
マルセイユタロットの大アルカナは(目指すべき)時代性も表すと私は考えており、その思想では、「正義」から「節制」までの時代へのシフトというものを見ています。ですから「正義」に始まり、「節制」へ至るというのが、ある意味、近年においての目指すべき完成型だと言えるわけです。
「節制」は、救済の天使を象徴します。この天使は、ふたつの壺を混ぜ併せていることから考えても、助け合いの精神と行動が示唆されていると見ていいでしょう。
自分はなになにができないということで、無価値感に襲われても、誰かを助ける、誰かの役に少しでも立つという実感で、自己の価値は高まります。
誰かの欠点は誰かの長所でカバーでき、個々として不完全でも、全体として見れば、実は完全なる世界であるという自覚が、皆にできる次元です。
それは生きていて当然と思える世界であり、生きているから助けられ、助けることができるのだということが当たり前の感覚の社会でもあるでしょう。
「正義」が出たということは、表面的には厳しい状況、自律(自立)性、現実を直視することなどが表され、決断力、規則やルールが必要であることがうかがえるものですが、その奥底には、本当の価値を取り戻すための宇宙的(本来の霊的な普遍の)バランス復活のための、各々の気づきが示されているではないかと思えます。
これを「そうなっていく」という、受動的なメッセージとして受け止めるのもよいのですが、「そうしていく」という能動的で強い意志を持つほうが、実現力は高まるように思います。
今年は不穏なスタートではあるのですが、だからこそ、私たちが忘れていた本質の部分、隠されていたよい面がクローズアップされて、現実にも表現されていくものだと推測されます。
2024年は、まだ始まったばかりなのです。
異世界転生ものの背景
私はアニメをよく見ます。
このところ、作品で目立って増えてきたのが、ライトノベルなどが原作の、異世界転生ものです。
たいてい、こちらの世界で不遇な身の上とか、ぱっとしない人生の者が異世界に転生し、無双するというパターンが多いです。
転生する時、転生者は以前の世界で暮らしていた内容を記憶し、さらに、その転生を司る神様のような存在が、転生者に特殊な能力を授けることも、お決まりです。
そして転生先は、なぜか中世ヨーロッパぽい文化(レベル)が多く、そこで現代人の知識がモノを言う(結局、主人公無双状態になる)ということもお約束みたいになっています。(笑)
このように、転生した主人公が苦労もなく、強すぎ、恵まれた人生を送ることがほとんどなので、転生ものは、現代人の現実逃避的感情が反映されたものとの批判も少なくないです。
確かに、このジャンルに限らずですが、アニメ全体が昔からよく言われるように、現実逃避的な傾向を持つのは否めないと感じます。
しかし、一概に転生ものの流行りが、現実逃避だという批判もどうかと思います。
作品は世相や時代を反映するものですし、もっというと、スピリチュアル的な目線では、大きな進化のうねり、宇宙的成長過程の一環ようなものも影響しているように思うからです。
漫画やアニメーションの分野は、イマジネーションの世界であり、そこには現実を超えたものも存在します。
時間的には、はるか古代から近未来、はては超未来まで表しているのがあるでしょうし、空間的にも、日本だけではなく、世界、そして宇宙、さらには多次元的な世界(宇宙)も表現されます。
言い換えれば、私たちの常識だと思っている現実の時空が超越された情報空間に接触しているのが漫画やアニメの表現だと、考えられるのです。
この意味では、非常にタロットと似ています。タロットも絵であり、イメージの世界と関係するからです。
私はたまたまアニメ好きな上に、(マルセイユ)タロットと深く関わってきましたので、超越的な情報がアニメにあふれていることに気づきました。
さて、話を異世界転生ものに戻します。
一見、安易な異世界転生ものですが、ここまで、テンプレ的な形で作品が数多生み出されている背景には、ずばり、今の社会の限界が投影されていると見ます。
異世界に転生して無双したいほど夢想(しゃれではありませんが)してしまうのは、それだけ現実生活・社会に希望が持てないからでもあるでしょう。
はっきり言えば、今の社会は楽しくない、苦しい、生きがいも感じられないのです。特に若者たち(年配の方もですが)が、どうしていいいのかわからず、混乱しているようにも感じます。
異世界転生もので、転生先に中世ヨーロッパぽいものが多いのは、もちろん、それがこうした作品のお約束(もとはゲーム世界からの引用と思われます)ではあるのですが、日本的な舞台だと日本人目線では異世界感がないのと、日本人は、中世ヨーロッパ(実際には近世に近いですが)の街並みとかお城が、(絵本などで)メルヘンチックにイメージとして刷り込まれているからだと想像されます。
当然ですが、いわゆる創作もので「異世界」ですから、実際の中近世ヨーロッパの文化とは別もので、都合よく、清潔化されていたり、魔法が当たり前のように存在していたりと、異世界転生ものならではのお約束、ご都合主義(苦笑)があります。
ただ、うがった見方ではありますが、深い観点からすれば、まず、近世からのヨーロッパが、大きく世界としての時代が変わってきた時点であり、現代社会の基礎となっている部分が色々と多いのも確かです。
となりますと、中世ヨーロッパという舞台が異世界転生もので選ばれるのも、単にイメージの刷り込みとかメルヘン的な意味だけではなく、現代につながる部分の変革前の時代であるからこそ、その時代に戻って、今の社会にならないように、変化のやり直しを行いたいという集合的心理が働いているようにも感じます。
転生ものには、イデアや理想が描かれる場合が結構あります。こちらの世界では不遇であった主人公が、転生先で力を得たがために、成し遂げたい、あるいはそいう社会で暮らしたいと思っていた理想社会のイメージを、少しずつ実現していくというパターンです。
それは人々の心や関係性に関わることで描かれ、本質的には文化レベルとか技術革新だけで生活が豊かになったり、人々が幸せになったりするわけではないことも表現されています。
転生する主人公は、一見、神様から特別な力を与えてもらったから、転生先ですごい人物になっていると思われがちですが、実際は、その人物本来の性格や行動力が発揮されて、尊敬を得たり、愛されたりしています。
こうした転生ものに、批判として多くあるのは、「環境が悪いから私は不幸なのだ」(言い換えれば、適切な環境・能力が与えてもらえれば自分は活躍できる、幸福になれる)という考え方を助長するというのがあります。
それは一理あると思います。自分自身を問題視せず、悪いことは他人や周りの責任にしてしまうという態度です。
ですが、たいていの転生ものは、お気楽なように見えつつも、先述したように、無条件で主人公たちが評価されているわけではなく、それなりの努力やアイデアの実行、本人の真っ当な思いも見受けられるものです。
責任転嫁の態度は自分の成長を阻害しますが、環境や社会自体が、自分自身を生きづらくさせるものであるのなら、自分のせいだけにするのもおかしな(苦しい)話です。
実際、私たちのいるこちらの世界、こちらの現実は、最初から理不尽なものと言えます。生まれた時から能力とか体力、家庭環境等、もしパラメーターで示されるのならば、一人一人本当にバラバラで、不平等極まりない世界です。
その中で、いわゆる普通の生活が過ごせ、幸せを感じるように生きるというのは、(便利さや技術は向上しても)時代が進化するほど難しくなっているように思います。
そうした中で、すべて自己責任の世界だと苦しいばかりですし、社会が変わる可能性が低くなります。また、時の為政者たちに騙され、奴隷扱いされていることにも気づきにくくなります。
私たちに今必要なのは、むしろ外(社会やそれを普通に思わる環境・システム)がおかしいことに気づくことではないでしょうか。
究極的には、すべてを自分に帰せるという考えもスピリチュアル的にはできますが、それは相当深い次元での話だと思います。
異世界転生もの(の流行)は、現代の社会システムによる生き方が限界に来ていること、もはや、それでは、ほとんどの人が幸せと感じることが難しくなっていることを示唆していると考えます。
想像できるものには、創造の元型があります。
もし、アニメで想像した世界が、よいものを示しているのなら、それは私たちの心の中に元が存在していることになります。
それに幸せや心地よさを感じるのであれば、私たちはどのようなものがよいのか、すでに知っているわけです。
マルセイユタロットで言えば、「愚者」が「世界」(のカードの境地)を目指しているかのごとく、異世界転生ものを表現することで、現実を超えた、言わば天上世界的な理想を思い出そうとしているのです。
マルセイユタロットでは、21「世界」のカードと1「手品師」のカード、最後と最初のカードが細かくリンクしあうようにに描かれています。
まさに天上から地上へ、その本質が降ろされているようにも見えます。
現状(現実世界)は「手品師」として、こうした実際の社会の表現がなされていますが、同じもの(それはタロット的に言うと四大元素)を使いながら、もっと変えることができるとタロットは語っているようでもあります。
異世界転生ものは、私たちに、魂の故郷を思い出させ、今の社会には問題があって、それを変容させるべき時に来ていることを、軽いタッチで表現している作品だと感じます。
ですから逃避的ではあっても、癒され、希望や勇気、愛をも不思議と想起させる作品が結構あるように思うのです。
