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レベルの上昇 「1」のカードから
マルセイユタロットの大アルカナで、数の「1」を持つカードは、「手品師」「力」「世界」です。
それぞれ、1,11,21という具合に10単位で数が上がっています。
ちなみに、10という単位は、小アルカナの数カードの単位(ひと組)になっており、それが4つあることで、合計40枚になっています。
大アルカナは22枚なので、10の数を基本とはしない(10で割り切れない)のですが、あえて10とのシンクロを見るとすれば、こうした「1」をベースにした分け方もひとつの方法となります。
さて、その1の「手品師」、11の「力」、21の「世界」について、今日は10よりも、1の象徴とも言える「始まり」というものをポイントとして、ひとつの見方、話をしたいと思います。
マルセイユタロットでは、上記、三つのカードは、数の共通性だけではなく、図においても共通のシンボルが描かれています。それは秘伝的なものになりますので、その意味も含めて、ここでは指摘しません。(ひとつだけではなく、複数あります)
ですが、このことから、三枚が数の1を元にしながら、共通したものを持っているという証拠になります。
マルセイユタロットには、数が上がる度に、上昇や発展、完成に向かっていく(大アルカナにおいてはで、小アルカナでは逆の発想もできます)という考えがあり、従って、この三枚では、「手品師」→「力」→「世界」と、レベルが上がって行くと見られます。
まず、絵柄的に見まして、「手品師」はその名の通り、テーブルの上に道具を並べ、手品を披露している姿になっています。おそらく、手品を見ている観客たちはいると想像されますが、それは描かれておらず、もっぱら手品師一人が強調された図像になっています。
次に、「力」ですが、「手品師」が男性的な人物であるのに対し、「力」では女性がメインとなり、しかも、ライオンという動物も描かれています。人間とモノだけだった「手品師」と違い、人間と動物という図像になっているわけです。
しかも、よく見ると、「力」の女性は、たてがみのある雄ライオンをいなしており、大人のライオンから想像すると、女性はかなり大きな人であると考えられます。
私たちマルセイユタロットを学ぶ者からすれば、この女性は人間ではないという説が話されており、そのことは実は深い意味を持ちます。今日はそれが本題ではないので、ふれませんが。
さらに、最後の「世界」になりますと、真ん中の人の周囲に動物たちが囲み、また人間と動物だけではなく、天使のような超越した存在も出てきています。
これも、秘伝的には、中央の人物は人間ではない(たとえ人間であっても、通常の人間レベルではない)と言われており、男性とも女性とも取れる両性具有的な人物になっていて、「世界」全体からすると、その特徴的な絵柄から、一種の天国のような、かなり現実離れした雰囲気を漂わせています。
つまり、簡単に言えば、ただの人間レベルから、次第にそれを超え、最後は神レベルまで到達していく流れが、この三枚からだけでもうかがえるのです。
もしこの世が地獄とまでいかなくても、なかなか悩み多き世界だとすれば、天国というものは、そういったものがなくなる、最高の世界だと言えるでしょう。
「手品師」の段階では、いわば、この世て生きる普通の人間としての困難さを表し、やがて成長した者が「力」の状態となって、まさに、ある種の“力”とコントロールの術を得て、雄ライオンさえ簡単に操れる能力を手にし、それはもう通常の人間を超えた者と言え、最後は「世界」として、さらなる究極の成長(完成)を得て、天国入り(悟り化)するという感じでしょうか。
この成長段階は、よく考えると、宗教的には、死を経て、さらに別の生を受けて繰り返される、言わば、輪廻転生システムにおける魂の成長過程とも取れます。
すると、もしかすると、タロットのストーリーは、生の期間だけはなく、死後も含めて、トータルな人の成長と完成を表しているのかもしれません。
たとえ生きている間のことのみを示唆するにしても、普通の人間が死後にようやく気付くものを、生きているうちに想像して思考体験していくような代物かもしれないのです。
三枚には、こうした壮大な物語も見えてくるのですが、一方、現実的レベルの話にしますと、また別の見方もできます。
「手品師」「力」「世界」、その進みによって、初心からベテランになり、また初心に戻るも、そのレベルは、当然、初心は超えていて、別の新たなレベルへの挑戦に進み、それを受け入れ、最終的にはその道の高度な完成に至るという、いろいろな学びや技術の習得というものに共通する「過程」を考えることができます。
「力」がちょうど中間で、この地点から、また新しい段階を迎え、再スタートとなりますが、その時点で「手品師」レベルは凌駕しているので、次の上の段階(レベル)にいる状態となっています。
そこでまた10の段階を経て、レベルがさらに上がり、「世界」としての完成を迎えるという流れです。
わかりやすく言うと、アマチュアレベルからセミプロレベル、そして本当のプロレベルへという成長過程です。
また、人間の交流過程と見ることもでき、ただの一人から、動物も含めて、周囲のものと交流し、最後は目に見える存在以外のものとさえ交流可能になるレベルになっていると考えることも可能です。
どの三枚も「1」という数があるのですから、いつも始まりですし、加えて「力」と「世界」においては、10の段階を経る(経た)ことにより、ひとつのシリーズは終わり(完成)にもなります。
言ってみれば、1から始まったものが10で終わって、11で新たなレベル・次元のスタートとなり、これがまた20になって終了し、21になって完成と、さらなる高次元のスタートということにもなるわけです。
このことは、実は「世界」であっても「手品師」であると言え、逆に「手品師」であっても「世界」でもあり、それらの鍵となるものは「力」にあるという話になってきます。
謎かけみたいな文章ですが、これが理解できた時、マルセイユタロットのすごさに改めて気づくことでしょう。
あなたの中には、神も天使も人間も悪魔もおり、それらがレベルや次元を変えて、縦(垂直)にも横(並列)にも存在し、関係・呼応し合っている世界と言えるのですが、それをわかりやすく伝えてくれるのが、マルセイユタロットなのです。
お墓の問題
父が死去したこともあり、いろいろと人間の死や、死後の(残されたほうと、亡くなったほうの両方)のことなど、再び考えることが多くなりました。
もともと父はお寺の出であり、僧侶にはなりませんでしたが、昔から何かと仏縁というものを私自身も感じておりましたので、普通の人より、生と死というものを考える環境にあったのかもしれません。
というより、私自身の性格もあったでしょう。タロットを習うことになったのも、今で言うスピリチュアルへの関心が、普通の男性よりかはあったからと言えます。
さて、人の死を考えた場合、実はすべての分野で言えることではありますが、物質と精神、平たく言えば、モノと心、目に見える面と見えない面、現実とファンタジーなど、ふたつの側面から見る必要があると思えます。
実は、意外にこのふたつは混交してしまい、整理がつかなくなっていることもあると考えます。
また、どちらか極端になって、死んだら終わりと見てしまうか、逆に、やたら死んだ人の気持ちや思いに囚われ過ぎてしまったり、ということも場合によっては結構あるでしょう。
ここはまず、物質的なことと精神的ことを分けて考えつつ、最終的にはそれらを統合していく(本質的には実は同じと見る)境地に導かれればいいのではないかと思います。
そこで、物質と精神の意味でも、人の死(後)で、顕著に出て来るのが、お墓の問題ではないでしょうか。
日本では、仏教式のお墓が多いですが、もちろんお釈迦様が説いた本当の仏教とは違って、そこには日本独特の、先祖信仰が入っており、さらには中国からの陰陽思想などの影響もあると考えられます。
唯物主義的に言えば、人は死ねば、ただの骨や肉となるだけで、放置すれば、自然の循環に入るものでしょうから、お墓はいらないことになります。
それでもお墓が必要とされるのには、やはり、死後も何らかの意思とか魂のようなものが残っていると見るか、たとえそういうものがなかったとしても、残された生きている者が、故人を振りかえってコンタクトしたり、偲んだりするための施設として建てるか、ということになるでしょう。
また常識的に、お墓がないと周囲の人たちからおかしく思われるかも、という世間体もあるかもしれませんが、これも突き詰めてしまえば、精神的な話となります。
そうすると、ほぼ、お墓を建てる(持つ)理由は精神(気持ち・心)から出ていると言えます。
しかし、現実面では、死体をそのまま放っておくと衛生的にも問題があり、勝手に自由にお墓を作ってよいとするわけにも行きません。
そして、お墓自体も物質であり、現代では、そこそこのお墓を建てるための、土地と建築の費用を合わせると、なかなかの値段となりますので、「お金」という極めて物質的・現実的な要素とも関係します。
となりますと、お墓は結構、現実的なものとも考えられます。
言わば、精神(裏・本質)を核としながらも、表現(表)は物質的なものとなるのがお墓です。
そのため、三次元的(現実的、物質的表現)に問題が起きるのが厄介でもあり、人を悩ますことにもなります。
ですが、本質的には精神、気持ちの問題なので、墓などいらない、あるいはあっても質素でいいとか、精神を自由にすれば、その物質的表現ももっと広く軽やかになると言えます。
そこで、最近は、お墓の保守ができなくなる人が多くなってきた理由もありますが、海に散骨とか、樹木葬などの、自然に骨を返す方法も取られるようになり、そうした選択をする人も増えてきていると聞きます。
精神(心)を自由にすれば、そういう自然葬もありだと思えますが、一方で、陰陽思想的な、別の精神世界の考えを入れると、そのようなやり方は、納得行かない(不安がある)人もいます。
陰陽思想的には、お墓は陰の家であり、生きている者の住む陽の家とセットになる代物です。
つまりは、見えない世界(陰)においても家とか基盤がないと、対となるべき陽の家(生きている者の生活)も不安定になるという考えです。
その陰の基盤となるものが、骨だという説があります。すると、いきなり散骨して自然葬にしてしまうと、帰る(陰として安定する)拠り所がなくなり、陽のほうもおかしくなるというように見てしまうわけです。
よって、骨が安置される、きちんとした墓は重要だということでしょう。
中国の影響のある沖縄などは、確かお墓は大きく立派に作られていたと記憶しています。
まあしかし、これもあくまで“思想”で、精神世界であり、ファンタジーといえばファンタジーです。
死んだら終わりで、骨も肉体もただのモノだと見れば、それをどうしようが、別に何の問題もない(衛生的とか場所的問題とかは別にして)と言えます。
すべては宇宙であり、宇宙の中で循環しているものだと考えれば、死んだ人のお墓も、生きている者の生活も、まったく宇宙というものの中のひとつの表現とか、ポイントに過ぎないわけで、埋葬の仕方とか宗教のこだわりとか、供養法など、どうでもいいことなのかもしれません。
ただし、それは次元を思いきり上にした時の話で、人は想念や思い、感情というものを持ちますから、たとえ、本当に死後、ただの物質になるだけだとしても、そうは思えない気持ちがあるがために、サイキック(精神エネルギー)的世界が構築されて、その世界の影響を、生きている者(考えている者)自体が受けるということになると想像できます。
結局、魂があろうがなかろうが、生きている者が思う世界により、ほかならぬ、(生きている)自分たち自身が影響を受けるという話なのです。
ですから、やはり、お墓の問題も、究極的には、個人の意識とか感情の問題であり、自分が気にするものが、まさに「気(氣)」として影響してくるわけで、自分の思い次第だと言えます。
こう書くと、「では、お墓なんかいらないんだ」とか、「自由にお墓は作ればいいんだ」とか、思う人もあるかもしれませんが、真にそう思える人はその通りでいいですが、おそらく、ほとんどの人は、自分の家の宗教とかしきたりとか、世間体とか、個人の思いとか、何かしら、自分以外のことから精神(心・気持ち)に影響を受けていて、それが思考・感情に出て来る(よぎる)ことは普通かと思います。
その限りにおいては、サイキック的には影響が必ずあると考えられ、だから、なかなか自由にも行かないところがあるのが、お墓とか死んだ人への扱いの問題となるのだと予想します。
ともあれ、現実(物質)面を踏まえながらも、あまりガチガチに因縁や因習に縛られずに、かと言って、自分が気にしていることは無視せず、うまく折り合いをつけた視点で、お墓の問題に当たるとよいのではと、個人的には思います。
ところで、マルセイユタロットでは、死の象徴が「13」として特徴的ですが、お墓と関連させると、建物のあるカードが出てきて、例えば、「神の家」「月」「太陽」などがあげられますし、「星」とか「審判」「世界」も結構関係します。
言ってみれば、終活カードというような感じのものが、見ようによってはあるわけです(苦笑)。
なお、西洋魔法とタロットカードも関連するものですが、西洋的なサイキック観点からは、死後の準備としてタロットカードを使う方法があり、タロットは生きている間に、死への準備をするため(特に霊的な意味で)のカードと言える部分もあるのです。
また「死」への準備ですから、逆に「生」に対しても考察が及ぶのです。
カードの使い方、数の順と図像
タロットは占い(吉凶、状況判断)や何かの決め事、選択するために使うツールだと一般的には思われています。
確かにそれはその通りの側面もあるのですが、こと、マルセイユタロットに関しては、それは本来的な使い方ではないだろうなというのが、長年やってきている私の個人的な感想です。
では、何のために使うのか?と言えば、これまた難しいのですが、一言でいえば霊的な成長、言い換えれば全人(まったき人)へと成長していくための象徴絵図・指針だと言えます。
従って、実は私は、今やほとんど、何かの選択のためとか、決定のために、タロットを使うということがほとんどありません。
また、自分のためにカードを引いたり、展開したりすることも少ないです。
言ってみればエアータロット状態(笑)で、すでに心の中に図像と象徴性が組み込まれていて、あらゆることの整理道具、理解促進や補助の道具として、自動的に機能してくるような感覚にあります。
慣れてくれば、タロットを引かなくても、その人(の問題や課題に)に応じたカードも浮かぶようなことにもなってきます。(とは言え、人の心はぶれやすいので、自分が思い浮かんだタロットではなく、きちんとカードを引いて、実際に出すことで、中立性・客観性を保つことのほうがよい場合もあります)
タロット種によっては、なかなか手に入らないカードがありますが、究極的なことを言えば、一度現物としてのカードを入手し、そのタロットになじみ、図像を自分の印象に刻み込むことができれば、タロットがなくても機能させることは、一部においては可能かもしれません。
さきほど、言ったように、霊的な成長指針や気づきのために使うということであれば、カードを引く必要が実はあまりないので、カード図像を記憶したり、象徴を理解することのほうが重要となってきます。
ところで、マルセイユタロットの大アルカナの数順が、何らかの成長や発展を示していることは、今やよく知られています。
これがウェイト版だと、「正義」と「力」の数が入れ変わっていますので、別のルール(象徴性)によるものはあるにしても、やはり、「正義」が8で「力」が11という順序での見方が、タロット的に見た人の成長・発展にはふさわしいと個人的には思います。
このような、ある種の段階・プロセスのようなタロットの図像(の並び)があって、私たちは自らの位置や心・霊的な状態を知ることができます。ただし、絵を見たから、数の順を意識したから、と言って、すぐに活用できるわけではありません。
そこには、一枚一枚のタロット図像・象徴への深い理解と探求が必要になってきます。
そこが単純な数字を並べたような成長段階の見方と、タロットの図像による成長段階の違いなのです。
例えば、ここに、1から7までの数(算用数字で)を並べたとしましょう。
1 2 3 4 5 6 7
わかりやすく、またあえて順番を強調するため、間間に→も入れます。
1→2→3→4→5→6→7
こうすると、7に向かってぐんぐん進んでいるような、まっすぐな進歩、増加というものがイメージされるのではないでしょうか。
しかし、それ以外のことを想像するとなると、ちょっと難しいです。
では、同じ数と順番で、マルセイユタロットの大アルカナを並べてみましょう。
1の「手品師」から7の「戦車」までを見て、ただの番号の並びと比べると、明らかに感じ方は異なると思います。
よく見れば、人物の視線の方向もカードによっては違いますし、単独の人が多いとはいえ、5の「法皇」以降は、ほかの人物や、天使のような存在、動物も見受けられます。
少し観察を詳細にすれば、全体の流れの中でも、6の「恋人」が異質だと感じるかもしれません。
それは6の「恋人」が三人の人物たちだけではなく、先述したように上空に、天使(キューピッド)も描かれており、一枚の絵柄の構成的に、ほかの図像と違っていることが大きいからです。
ですから、人物だけ追っていると、6に来て、急に谷間に落ち込むような印象にもなってきます。
数順に成長や発展を示していると言われているのに、谷間で落ち込むような状況とはいかなる事態でしょうか?
しかも、そのカードには「恋人」という名前もつき、どうやら恋愛にも関係しそうですし、天使とかキューピッドとか、現実離れしたメルヘンチックな絵にもなっているわけで、これまた不思議なところでもあります。
というように、絵がつけば、単純な数字の進みだけの印象とは異なって来て、何らかの物語や、個人的な印象・思い、投影なども出現してくるわけです。
言わば、数字だけの羅列は機械的な成長で骨組みと言えますが、タロットの絵(図像)があることで、そこに肉付けがなされ、全体性(普遍性)だけではなく、個別(個人)性も付与されてくることになります。
だからこそ、同じ1から7と言っても、人それぞれ、あなたにとっての「手品師」から「戦車」があり、また途中の「斎王」「女帝」「皇帝」「法皇」「恋人」にも、それぞれ個人としての物語や意味があるのです。
同じ道を通りながら、千差万別の物語があるようなものです。それは一人一人の人生にも例えられるでしょう。
同時に、個人しての生き方があったうえで、全体としての流れ、共通点、統合などにも思いを馳せることができます。
カードでは、1から7にストレートに進むのではなく、行きつ戻りつ、人によっては「皇帝」(実績)にこだわる期間があったり、それこそ「恋人」カードのように、恋愛に悩む時期もあるわけです。
それが6の恋が先になる人もいれば、「手品師」としての仕事・社会経験がまずは重要という場合もあります。また、それら(1から7)が一緒に巻き起こることもあるでしょう。
タロットの象徴というのはそういうものです。だから、あるレベルとか状態に固定されたり、ひとつだけの正答があったりするわけではないのです。
しかしながら、数順に成長していくという普遍的規則を思い、高いレベルで、その順序とともにタロットカードを考察していけば、個人的なブレ・誤謬を修正するばかりではなく、大きなことを言えば、人類全体の進むべき道のようなものがわかってくるのです。
その「わかってくるもの」こそが、霊性の方向性、光明だと言えます。
タロットカードで個人的な悩みとか現実的選択を見るのもよいのですが、こうした使い方・見方があることは、特にマルセイユタロットを志す方は、知っておくとよいかと思います。
自分はネガティブか?ポジティブか?
人は誰でも、ポジティブな面とネガティブな面の両方を持つものです。
ただ、人によって癖や性格のようなものがあり、ネガティブ寄り、ポジティブ寄り、という具合に、どちらかに傾きがちで、それも個性と言えるでしょう。
さらに、たとえネガティブな人でも、その対象や興味の程度によっては、ポジティブになることもあり、その逆も言え、もともとポジティブな人でも、苦手な分野、嫌なことはネガティブになる場合もあるでしょう。
スピリチュアルな観点からすれば、人は本来、完全性を有し、ネガでもポジでもどちらでもない状態なのでしょうが、肉体を持って限定的な命で、いろいろな現象に反応・経験していく中で、傾きとしての個性(言い換えれば癖)が形成されてくると思えます。
「生まれ持った星」という表現があるように、占星術ではありませんが、もともと性質(の傾き、散らばり)としての個性があるとも考えられますから、この世に生を受ければ、ネガティブ・ポジティブの波や回転(現実)の中で、誰もが泳いで行かざるを得ないのだと思われます。
まさに、マルセイユタロットで言えば、「運命の輪」が思い浮かぶところです。
その「運命の輪」の絵柄を見ますと、三匹の動物と回転する輪が特徴的な図柄として観察できます。
輪が自分の人生だとすると、輪にしがみついているような二匹の動物は、言ってみれば「ポジティブ」や「ネガティブ」な傾向の象徴とも言えます。
この二匹の動物は、うさぎのように見えますが、実は上に向いているのが「犬」で、逆の下に向かっているのが「猿」だと言われます。
奇しくも、日本では犬と猿は「犬猿の仲」と言われるように、相反する関係性となっていますね。
さて、あなたの反応は、犬(ポジティブ寄り)、それとも猿(ネガティブ寄り)の、どちらのパターン(が強い)でしょうか?
※ちなみに、ここでは犬と猿を、話の都合上、ポジティブとネガティブに表現していますが、本当はもっと深い意味があり、それは講座で解説しているところで、単純なふたつの違いのことではないのです。今回は、わかりやすさを出すために、あえてポジティブとネガティブという例えにしています。よって、今回の記事を読んで、「運命の輪」の(動物の)意味を理解したとは思わないでください。(それでも、大いなるヒントはあります)
成人くらいになりますと、いや、すでに学生時代には、人はたいてい、自らの傾向とか性質を知るでしょう。
どうも自分は心配性だなあ、ネガティブシンキングだなあとか、その反対に、細かいことは気にならない性格、快活・いつも明るい、悩みがないのでは?とよく人から言われるなど、およそ、どちら寄りかは自分でもわかると思います。
では、タロットを持っている人(できればマルセイユタロットがいいのですが、それ以外でもOK)は、タロットで試してみましょう。
まず、数カード(数札)を用意ください。
組は何でもいいですが、とりあえずは、「杯」(カップ)の組でよいでしょう。
それを数順に、表向きに、並列で並べてください。(横に並べて行く)
つまり、1から10までの数カードを横に並べるわけです。
そして、その数が年を表すとします。1は2021年、2は2022年、3は2023年・・・という感じで、10は2030年になります。
次に大アルカナをシャッフルし、数カードの上に、その年であることを意識して、裏向きに一枚ずつ、重ねるように置いていってください。
10枚引き終わると、大アルカナは表に返して、どのカードであるか確認します。
1の位置は2021年で、すでに終わっていますが、その他は現在か、未来の年になりますので、その出た大アルカナに象徴されるような年だと想像してみます。
また、昨年2021年はどんな年であったか、今年2022年も、まだ終わっていないとはいえ、あと一か月ちょっとですから、どんな年だったかという風に見てもいいでしょう。それも、出た大アルカナに照らし合わせてとなります。
すると、特に未来位置のカードについては、カードの内容にもよりますが、全体的にネガティブに見て(読んで)しまうか、ポジティブに見るかは、人によって違ってくるでしょう。
さらに言えば、ネガティブ傾向の人は、悪いとか、よくないとか思うカード(本来、吉凶はカードにはないのですが)に注目が行き、ほかのカードが比較的よくても、そこに意識が向かいがちになるでしょう。
反対にポジティブな人は、あまりカード自体気にならない上に、自分のよいことが起こる年を、カードから強引に解釈してしまうかもしれません。
すでに終わった昨年、また今年についても、自分はどう思うのかが、カードだけに左右されるのではなく、自分の性質、感情、思考によって支配されていることに気づくでしょう。
そして、出たカードを他人に見てもらうことで、もっと、自分の傾向がよくわかります。
他人が見た場合と自分が見た場合で、同じように見えているのであれば、それはカードの象徴性がなせる技で、確かに、カードから読んだような年となる(というより、そういうテーマがあると見るほうがよいのですが)のかもしれません。
同じカードを見ても、人と自分とは、感じるニュアンスが違っているとなりますと、それは個性による捉え方の違いが大きいと考えられます。
このほかにも、大アルカナだけを使っても、カードの中立性を思い、ネガティブに見えるカードは、あえてポジティブ面の意味を見出すようにし、逆にポジティブな側面が強いと思う場合は、ネガティブさを取り出すということもチャレンジしてみるとよいでしょぅ。
ほかのカード種では「死神」「悪魔」「塔」と呼ばれるカードたちを、通常状態でよいカードとして見るのは、なかなか難しいことになっていると思います。
この点、マルセイユタロットでは、「13」「悪魔」「神の家」と、「悪魔」以外は名前も変わり(「13」は名前がないのですが)、そこからでも、偏りから少しは逃れられます。
いずれにしろ、本来、私たちは両性、中立、完全性であると考えれば、この現実世界での偏りは、その経験によって、両極の幅を拡大させ、より大きな統合性の存在へとならしめるための世界であると思うこともできます。
ですが、いくら経験が大事とはいえ、「運命の輪」の犬と猿のように、ただ反応して振り回されている(グルグル回っている)状態では奴隷みたいで、エネルギーが使われている(浪費させられている)だけのようにも見えます。
やはり、意識的に両面を見て、気づきを増やし、自分を整え、解放して行くことは重要でしょう。
マルセイユタロットは、その装置、絵地図でもあるのです。
グノーシスと陰謀論について
いろいろな考え方はありますが、私自身は、マルセイユタロットはグノーシス書の一環ではないかと考えているところがあります。
グノーシスを定義するのは難しいのですが、一言で言えば、自身の神(神性)を認識するという言葉になるでしょうか。
ただ、一口にグノーシス思想と言っても、原理的で過激なものから、比喩的、象徴的で穏やかなものまで様々です。
グノーシスの神話には、一般的に言われる(西洋的な)神が、実は悪魔であり、本当の神は隠されている、という話があります。
実はこれ(グノーシス神話の構造)が、最近では、やっかいなことになっていると聞きました。
それは陰謀論(者)に、どうやらグノーシス思想が使われているようで、あたかもグノーシス主義者は陰謀論者のように思われている節もあるようです。
つまり、グノーシス(神話)では、キリスト教など、世界で信仰されている教えと神が、実は悪魔なので、この世界がおかしい(間違っている)のも、本当の神ではなく悪魔が世界を創り、支配しているからだという理屈になって、「ある勢力が世界を牛耳っている」と唱える陰謀論者にとっては、都合のいい話になってしまうからです。
グノーシスの、「本当は皆が思っている神は悪魔であり、その悪魔によって世界が創られた」という思想は、この世界(のルール)に悲惨さや理不尽さ感じる人にとっては、救いになる面もあります。
それは、自分が間違っているのではなく、世界そのものが間違っていたんだと思うことで、自分(の人生がよくないこと)には責任がないという気持ちで楽になれますし、何かそれに気づくと、自分は救世主とか世界の秘密を握った選ばれた戦士のような気分になって、自分に価値を見出すこともあるからです。
この世が生きづらく、そのために自分を必要以上に貶めている人には、そのような考えも、時に救いになるかもしれません。
しかし、私が考える、そしてマルセイユタロットが伝えるグノーシスとは、そういう責任転嫁の思想ではありません。
そもそも、グノーシスは、最初にも言ったように、自分自身が神であることを知るものであり、言い換えれば、深い自己洞察と改革の作業なのです。
まず、自分(だけではなく、様々なこと)を知ろうとしなければ、自分の中にあると言われる深い叡智に目覚めることもないからです。
本当のグノーシス的態度とは、問題を誰かや世界のせいにするのではなく、自分自身も含めて、私たち人類全体が陥っている誤謬や偏りに気づいていくものだと思っています。
グノーシス神話の言う、「神は悪魔である」というのは、私たち自身が悪魔を生み出していること、そして自ら悪魔の視点に陥ってしまって、その観点から世界を扱おうとしていること(すなわち、自分や人類全体としての創造意思が、その(悪魔的)観点になっていること)を象徴的に示しているものと思っています。
換言すれば、次元の劣化、逆シフトのようなことが、おそらくかつて人類に起こったのではないかと考えられますが、そのことは、決して悪いことではなく、人類進化のための、あえての措置とか変化だったと思われます。
それが物質中心次元への下降(シフト)であり、それがあってこそ、私ちは自我に目覚め、個人の権利とか所有などの概念と、それらによる制限の障壁、逆の快楽も同時に味わってきたものと推測されます。
個々の自我なしで、一挙に一体化を迎えてしまうと、おそらくそれは脆弱な洗脳集団状態と変わらず、真の意味では人類の進化とは言えないものとなるでしょう。
そう考えると、大きな流れで言えば、極めて合理的に人類は進展してきているのでしょう。
グノーシスも、反グノーシス(グノーシス側から見た一般的な一神教的世界観や思想のこと)とともにあることで、言ってしまえば、反グノーシス的な、外的な神を置く思想によって、一時的に自他分離を経験し、個我や物質性を強めたものと思えます。
ただもう、時代は、それらの統合(グノーシスと反グノーシス)に移行しようとしていて、言わば、次元の上昇へと向かっており、それが新たな人類の進化の期になるものと予想されます。
マルセイユタロットで例えれば、「吊るし」状態を作って、「13」で壊し、変容していき、「節制」の天使へと変わる過程です。
話を陰謀論とグノーシスのことに戻しますが、私からすれば、安易にグノーシス思想、グノーシス主義者を陰謀論者として誤解しないように願いたいと思います。
陰謀論が全く悪で、間違いだという凝り固まった考えもどうかと思いますが(陰謀論自体にも気づきになるところはあると思えます)、陰謀論の問題は、下手に救世主を希望したり、選民思想的に、自らの立場を過度に持ち上げたり、自己責任を放棄してしまったりすることにあると言えます。
仮に陰謀論者の言うような、世界を支配している層が存在したとして、その支配理由が単純にお金のことだとか、権力のことだとか、支配層の私利私欲みたいな形の、まるで勧善懲悪、幼稚な善悪二元論で見てしまうのは、もっとも低レベルな話だと思います。
また、よく、心理系やスピリチュアル系の方が言うような、世界は自分が作っているとか、自分が幸せになれば世界も幸せになるとか、そういう話も、陰謀論者に本質的には似ているように感じます。
要は、レベルとか次元をすべて同じもの(段階・オーダー)で見ているから問題であって、上記のことでも、確かに、あるレベルでは自分がすべて、自分によって世界が救われるということもあるでしょうが、その他のレベル、一般認識のレベルでは、他人や外の世界があるわけで、それらとの交流、相互作用によって、世の中は成り立っており、自分だけでどうにかなるものでありません。(自分だけで変わる次元と、そうでない次元との区別が必要であるという話)
対岸の火事と言う言葉があるように、しょせん他人事として、たとえ自分は幸福な生活を送っていても、実際、ほかの国、地域、世界では、戦争ほか様々な問題が日々起きているわけです。それが幻想であると言うのならば、それはまた別の話になってきますが。
グノーシスは英語ではknowの言葉に関係しますから、知るということが大事になります。ですから、自分だけの小さな世界に閉じこもって、何も知ろうとしない態度も問題でしょう。
かと言って、情報を採り入れすぎ、ガセネタや洗脳情報に踊らされるのも、これまた問題です。
結局、グノーシスは、内と外、自分と他人、精神と物質、感性と論理、主観と客観、これら両方をきちんと考察し、認識していく作業になるのだと考えます。
それが、神が悪魔となっていることからの脱却、解放となり、(それまで信じていた)神と悪魔が統合された次元へと、導かれる(導く)ことになるのでしょう。
ということで、グノーシス=陰謀論ではないということを、今回は、改めて強調しておきたいと思います。