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内に聞く。外に聞く。

辻占い(辻占・つじうら)という占い形式があります。
 
これは、四つ角とか橋のかかる通り(異世界や異次元、非日常との境界空間も意味します)とかで、質問の回答を偶然に発見する(託宣として受け取る)という方法です。
 
例えば、何かのことで、もっと学びを進めていくべきか、しばらく様子見しておくべきかで悩んでいるとして、通りに立って最初に目にした看板が答えだと設定し、そして飛び込んで来たのが、学習塾の「進学」の文字看板だったとすれば、答えは「学びを進めるべきだ」と判断できるというものです。
 
いわば、託宣を偶然の外部の出来事に任せるという方法ですね。
 
何も辻や通りに出なくても、偶然を利用する託宣では、いろいろとやり方は可能です。しかも、意識していなくても、たまたま託宣やシンクロ、辻占状態になっていることもあります。
 
留学のことを考えていたら、カフェで座った隣の人たちが旅行話をしていて、しかもそれが自分の行きたいと思っていた国のことだった・・・というようなこともあるでしょう。
 
このような時でも、隣の人はおそらく旅行の話だけではなく、いろいろと雑談をしていたはずですが、自分の耳に入ってきたのが、たまたま旅行の話の部分だったというケースがあります。
 
そこに偶然の必然性、シンクロニシティを感じさせます。
 
とはいえ、人の情報処理システムや心理的機能から見れば、自分が関心を抱いているものに注目し、無意識的にもフォーカスしているのは当然で、自分に関心のある部分だけ都合よく視覚・聴覚などからの情報を入れている(ほかの情報はそぎ落とされている)という考え方もできます。
 
そうすると、不思議というものではなく、むしろ当然の結果ともいえます。
 
しかし、自分の心の内(無意識的になっているものも含む)外のもので確認していると見れば、いずれにしても、それは、自分へのひとつの答えや解決策として、自分が見ようとしていると考えることができます。
 
結局、神が見せていようが、自分の心や意識(無意識部分・情報処理傾向も入れて)が見せていようが、どちらにしても、自分自身の悩みを、何らかの形で整理しようとしていることには変わりないわけです。
 
スピリチュアル的にいえば、内(精神・魂)も外(環境・物質)も次元と表現が違うだけで、本質的に同じであると考えることもできますから、自分の思いが外に現れている、その逆に、外のものは自分の内面を象徴していると見ることも可能です。
 
自分が悩みに悩んでいる時、心の中では堂々巡りしていたり、自分一人で考えていてもなかなか結論が出なかったりする場合があり、それは反対に、外側の現実的環境、物質(モノ)、他人の言葉、もっといえば、自分(の問題や悩みそのもの)とは無関係なもので、その判断を仰ぐことが考えられます。
 
これは、独りよがりな世界で行き詰まっている状態を、客観的な(自分とは一見無関係なものや人)によって、一度狭い世界を破壊し、凝り固まって偏った主観的な判断の見方から切り離して、迷いを断ち切らせる機能になるわけです。
 
無関係な他人、さらには悩みとは無関係(自分の悩みなど知らない状態)な言葉、物事をもって、自分への回答とすることで、それだからこそ、信じられる気がしてきます。
 
このことは、実は、「神」のような、この世界を内も外もすべて意味あるもの(つながりがあるもの、関連しているもの、どこにあっても、何おいても全体を透徹した超意識のようなものの存在)として見ているからこそ、できることなのです。
 
自分とほかのものは無関係という(顕在的な)意識のもとで、無意識層、または超越的な意識のほうは、自分も外のもの(人)も、実は無関係ではないこと(繋がっていること)を知っているのです。
 
辻占いのような、外側のことに、自分の心の内の判断を委ねるのは、結局、自分の内側に、違う形で問うていることと同じと言えます。
 
外に問いつつ、内に問う、内に問いつつ、外に問う、これは本質的に同じなのです。
 
自分の知りたい答えが内にない場合もあります。(多様な内なる自分が入り乱れていて、どれがこの場合適切かが判断できない状態)
 
そんな時は、偶然を装った、「外に」答えを見出してもよいでしょう。
 
それは視点(ベクトル)の違いなだけで、内でも外でも、神、もしくは自分に問うて、自分(神)で答えているのと同じだと、究極的には考えられるのです。
 
ですから、外のもので自分の悩みや問題の答えが見つかった場合、一方では、「外から見させられた(お告げがあった)」と言ってもいいし、もう一方では「自分が(外から答えを)選択した(引き寄せた」)」と言ってもいいのです。

夢の力と「月」の関係

今日の話は、「」の話です。
 
と言っても、「将来の夢を語る」というような、希望や理想の「夢」のことではなく、私たちが寝ている時に見る「夢」のほうの話です。

「夢」というのは不思議なもので、まったく見ないという人もいれば、極めて鮮明で、まるで現実であるかのような夢を見る人もいます。
 
マルセイユタロットの描く「月」のカードと「夢」の関係性には、かなりの秘密が隠されていると感じます。それは私の考えでは、相当重大なものだと思っています。
 
その「月」のカードと、ほかのカードたちを観察していますと、非現実の最たるものであるともいえる「」には、逆に「現実」とつながっていると想像させるものが多くあります。
 
いわば、夢を見ることで現実が創られると言え、またその反対に、現実が夢を壊す、または消費する(しかし、反面創造にもなっている)と言ってもいいものがあるのです。
 
前者は、想像力が創造力(日本語の妙味)と関係すると考えると、何となくわかってくると思います。
 
夢を見るエネルギー、夢そのものを作り出すエネルギー(私たちに夢を見させたり、映し出させたりするエネルギーの本質)は、つまりはイメージの源泉と同じものであり、だからこそ、イメージする力や働きが、自分の中でうまくできないと、夢見はたとえあっても、その内容はランダムで不可解なものに終始すると考えられます。
 
また現実も同様(夢ほどではないにしても)に、ただランダムに起き、それに反応する毎日となります。
 
つまり、夢を見ることに何らかの意図を込めること(夢の中での自分の自立を目指すこと)で、夢のエネルギーの本質を扱う術が見えてくる可能性があるのです。
 
そして、その本質のエネルギーは、もっと言うと、現実世界を映し出すための投影機のエネルギー源のようなものにもなっており、それがために、夢の扱い如何によっては、現実にも変化や影響が及びことになると想定できます。
 
さらに、夢(を作り出すもの)のエネルギーは、おそらく私たちの感情のそれと繋がっており、しかも、マルセイユタロットの「月」にあるように、月や天体(宇宙)ともリンクしていることがうかがえます。
 
一般に西洋占星術においても、「月」と感情の深い関係が言われているところです。
 
ただ、普通、夢を意識しないままでいると、夢は主に、現実生活(日中活動)における私たちの感情のや受けた印象の整理・浄化に働いているだけで(しかしこれは、スムースに日中の活動をするためには、とても重要なことです)、特段、夢と現実のつながりについて考えることはありません。
 
せいぜい、夢占いや夢判断で分析するくらいでしょうか。(夢分析も、心理的には意味ががあると考えられます)
 
ここで、マルセイユタロットの「月」のカードから、「夢」のことを意識してみると、夢のコントロール(夢への秘儀的理解)というものが、本当の意味での覚醒には重要だということがわかってきます。
 
実は私たちは、普通の現実生活(日中の活動)の中では、むしろ夜とは違う別の夢を見て寝ている状態であり、逆に、夜寝ている時は、本質の部分にふれている(覚醒の扉に近づいている、しかし完全には扉はオープンしていない)のではないかと推測されます。
 
言ってみれば、起きている時も寝ている時も「夢」を見ていることは同じなのです。つまりはずっと寝ているわけですが(笑)、その夢見の仕方が異なり、寝ている時のほうが、実は覚醒に近いほうになっているということです。
 
寝ている時の夢のほうは、現実の時より、不可能なことが可能になりますが、それは言い換えれば、夜に私たちは覚醒しつつあると言えますから、何でもできる状態に近くなっていると言えるのです。
 
その可能なる意識を寝ている時に持っておき、夢にふりまわされるのではなく、夢の中で自分の意志が反映されるよう、コントロール(夢の改変)に努力すると、その力は、現実へも影響されることになるとイメージできます。
 
これは、夢の訓練によって、現実もある程度、変えることができるということです。
 
ただ、これは願望実現の方法を言っているのではなく、私たちが奴隷のように自分の思う現実の中で「睡眠」させられているを自覚し、一種の牢獄状態から抜け出すための力を強化する目的で述べています。
 
簡単にいえば、真の主体性を取り戻すための夢見ということです。
 
なお、最初のほうに書きました、現実が夢を消費する、壊すということは、どういうことかと言いますと、せっかく「夢を見る」いうイメージの源泉との繋がり(内なる創造性と関係)が、日中起きている時の現実のビジョン(これも一種の夢)に振り回される(現実の生活に追い立てられる)ことによって混乱し、そのために(夢の)エネルギーを消費することで、イメージと創造の力(とのつながり)を失うことにあるからです。
 
夜、貯めていたエネルギーが、日中のビジョン整理のために消費されるようなものです。
 
ところが、これまた逆転の発想になりますが、私たちの日中の活動も夢を見ているとするならば、現実もある程度作り出していることにもなりますから(一人だけではなく、関わる皆で生み出している)、ある意味、現実生活も夢の反映や投影、創造でもあるわけです。
 
しかし自覚なき場合は、ほとんど無意識で映画を見ているようなものに過ぎず、映画が作り出されていることのすごさ、エネルギーに気づくことができません。
 
そして、日中に私たちが体験し、活動してきた現実生活の印象は、夜寝ている時に「月」によって吸収され、天体のエネルギーとして利用されることになることが考えられます。
 
これを書いていいのか、悩むところですが・・・ここまで来ると書かざるを得ませんが、結局、私たちが無意識(無自覚)のまま、ただ流されて生きることは、様々な現実生活のビジョン(見ていること、体験していること)によって受容した印象が、エネルギーとなって一時的に保存され、夜になって、月による回収が行われ、その時、私たちは逆に月からあるイメージ(夢)を付与されているのではないかということです。
 
前にも書きましたが、「月に願いを・・・」という願望実現法は、これを自分のほうから積極的に月の奴隷として行う方法になりますから、それこそ現実としての夢見の強化(願いは叶うと見させられること)にはなっても、真の覚醒とはかけ離れた方向性になるのがわかります。
 
こう書くと、月にネガティブなイメージを抱くかもしれませんが、何事も二元の意味はありますから、実は、月はただそういう機能と役割であり、大きな観点からすれば、やはり私たちにとって恩恵を与えてくれる天体だと言えます。
 
太陽と月と地球、それぞれの距離はまったく違うのに、地球から見える太陽と月が、例えば皆既日食現象が起きるように、ほぼ同じ大きさになるようになっていることを見ても、神(何か大いなるもの)の意志を感じますし、やはり太陽と月が、地球(私たち人類)にとって、まずはもっとも重要な天体であることがわかるものです。

タロットリーデイングの目的・スタイル各種

2017年も早一ヶ月が経過しました。節分の時期にもなり、いろいろな方面から見ても、本格的に新たな一年はスタートしたと言えるでしょう。
 
さて、だいぶん先のことではありますが、関東の方にお知らせしておきたいと思います。
 
5月から7月第一週の土日を使い、延べ6回で、マルセイユタロット講座(内容の濃い、基礎講座ハイクラス)を神奈川県藤沢市で開催する予定です。具体的な募集はもう少し先になりますが、マルセイユタロットを学びたい関東圏の方は、ご検討いただければと存じます。
 
場所も、以前体験会をした藤沢駅近くの便利なところであり、東京からでも十分参加が可能ですし、横浜など神奈川県にお住まいの方ならば、なおさら通いやすいでしょう。
 
関西に行くことが難しく、スカイプでしか受講の選択がなかった人にも、直接学べるよい機会になると思いますので、是非、ご検討くださいませ。
 
さて、今回の記事です。
 
マルセイユタロットを学び、タロットリーディングをやっていきたいと思われる方は多くいらっしゃいます。
 
タロットリーディングは、自分に対しての対象もありますが、どちらかといえば、他人に対して提供していくものが中心でしょう。
 
なぜかと言いますと、当たり前ですが、他人は他人ですから、より客観的にタロットを読むことができるからです。
 
これが自分に対して(自分リーディング)となりますと、主観が強すぎるため、うまく読むことができなくなるおそれがあります。そのため、実は自己使いのタロット活用(自己タロットリーディングも含めて)は、他人に対してのものとは、技術的にも別にすることが求められます。
 
私の考えるマルセイユタロットは、本来、自己使い、自己の(成長や解放、問題解決、発展、完成の)ためにあると見ていますが、優れた象徴ツールであるため、もちろん他人に対してのリーデイングによって、他人への援助に活用することができます。
 
一般的にタロットといえば、「タロット占い」が主で、当然他人に提供するものと考えられがちですが、本来は逆であり、先述したように、マルセイユタロットの場合は、自分に使うのがメインだと私自身は思っています。
 
ですが、一般的には占いを中心としながらも、すでにタロットは他人への相談ツール(他人へ使うもの)となっていることが、多くの人の実践で証明されており、マルセイユタロットでは、占い次元以上のものを、他人に提供していくこともできます。
 
ということで、タロットを学び、タロットリーディングの技術を習得すると、他人への相談援助に活かしていくことができるわけですが、ここでよく問題になることがあります。
 
それは、プロでやるかアマチュアでやるかということです。これは、タロットリーディングで、お金をいただくかいただかないかという観点にもなることがあります。
 
プロ、つまりタロットリーディングを仕事にするとした場合、現実的にはそれ一本で生活していくというのは、なかなか困難なことだと思います。
 
本人にカリスマ性があったり、よほどの特徴や宣伝告知のうまさなどがあったりすれば別でしょうが、通常は集客技術を学び、実践しようしても、タロットリーディングだけでやっていく(生活基盤の収入とする)のは難しいと言えます。
 
また、何とかかろうじてできたとしても、お金のプレッシャーから、なかなか純粋な状態でのリーディングが続かないおそれもあります。
 
経済的なことや集客的なことで悩み、次第に自分のやっていることがわからなくなり、最初の頃に抱いていた志や夢など、人の役に立ちたいという思いも薄まったり、混乱したりしてきます。
 
ですから、タロットリーディングをプロ(仕事)として行いたい場合は、すでに確立している何かの(お金となる)サービス、別の仕事があって、その補助やサブとして、または仕事の多種化・多業化の一環として、タロットリーディング業を位置づけておくとよいと思います。
 
そちらのほうがあせらず進めることができ、、たとえ将来一本化を目指すにしても、結果的にはよい選択となるでしょう。
 
あと、最初からプロや仕事というものではなく、ボランティア的に行う、あるいはサービスの対価が少額だったり、リーディングする人数がそれほど多くなかったりして、プロというより、セミプロかアマチュアの延長みたいな形で行う形式があります。
 
リーディングの対価も、自分の学習や研鑽のための費用(の補助)に充てるくらいで、生活ベースのもの(経済)とは別にします。逆にいえば、自分の学びのために必要なお金や活動費を、タロットリーディングで稼ぐ(補充する)ということになります。
 
これだとあまりプレッシャーもかからず、またモチベーションも保てます。
 
配偶者の稼ぎで生活はできるものの、自分の学びにかける費用まで配偶者に全部出してもらうのは忍びない、自立とは言い難い・・・と感じる方は、このスタイルでリーディングと対価を考るのもよいでしょう。
 
そのほか、これとは違いますが、アマチュア的にタロットリーディングをすること自体が、実は自分の成長や学びのためという目的で行うスタイル(考え)もあります。
 
つまり、他人の相談ごとに関わるからこそ、いろいろな話も聞けますし、それについて一生懸命タロットとともに取り組む機会を持つことで、マルセイユタロットでいえば「節制業」を自分に課していることになるのです。
 
それは一面では、人様の救いや援助にもなりますが、それ以上に、本当は自分自身を救っていることにもなるのです。
 
たとえ拙いリーディングであったとしても、誰かのためになりたいという思いと実践が、自分の中の神性・慈悲・観音心を開かせることになります。この場合は、お金にこだわる必要はありません。(ただ、エネルギー交換の観点では、いくらかの対価を得るほうがバランスはよいでしょう)
 
そもそも、対人リーディングは、プロであろうが、アマチュアであろうが、相談に来られた人には真摯に応えていく必要があります。
 
そのためには、あまりにいい加減な技術では相手に失礼です。もちろん友人やよく知る相手で、あくまで遊び感覚、ライトな占い感覚で行うものなら、別にそこまでは考えなくていいものです。
 
お金をいただく・いただかない、プロかアマかということもありますが、やはりそれ以前に、自分が他人に行うタロットリーディングは、この場合、遊びや楽しみでするものなのか、真剣に相手の悩み事の相談をタロットで受けるものなのかどうか、線引きをしていくことが必要です。
 
今、自分のしようとしているリーデイングが何の目的のものなのか、きちんと線引きして考えることができていれば、ライトに楽しむのもよし、シリアスに人の相談に応じるのもよしなのです。
 
それから、プロでやっている方でも、例えば、タロットでは、どうしても活躍の場が「占い業の現場」ということが、雇われる場合は多くあります。
 
そこでは、いくら占い次元でのリーディングは避けたいと思っていても、現場の要求や指導で、「占い」をやらなければならないことがあります。
 
理想と現実はどの世界であるように、タロットの世界でもあります。ただ、そこで妥協したり、「現実はこうだから」とか「みんな仕方なくこうしている」とかであきらめたりしないことも重要です。
 
同時に、現実や周囲の環境、ほかの人に配慮せず、まったくのワガママで、「自分はやりたくないからしない」と突っぱねたり、無責任に人に迷惑かけるかのように、簡単に辞めてしまったりするのも問題です。
 
ですから、実際には占い現場と、自分の理想的なものとの狭間で葛藤することも多いでしょうが、そこをどう融和させるか、あるいは自分の成長過程としてとらえるか考え、経験の「本質」(このような経験は自分にとってどのような意味があるのかなど)を見ることが大切です。
 
例えば、自分のしたいタロットリーディングというものが、占い現場でやっているからこそ、逆にはっきりと浮かび上がってきたということもあるでしょうし、最初はシンプルな占いを求められても、人の悩み(の深さ・葛藤)ということに関しては、誰しも同じ部分があり、真剣に相談に応えているうちに、占い技法を駆使しながらも、さらに超越したタロットリーディングの次元を、占い現場においても提供していくことができる可能性も出てきます。
 
また、占い現場(占いで出ている名前とか人物像)とは別に、自分の成長のために、別枠や、まったく違う名前とか、場所・スタイルで、時にはボランティア的にタロットリーディングしてみるのもよいかもしれません。
 

タロットリーディングにも、目的や方法に様々なものがあります。自分に適したものを選択するとよいでしょう。

変化のタイミング

人生、まったく新しい展開になることもありますが、考えてみれば、同じことの繰り返しを続けている時間が多いものです。仕事しかり、日常の生活しかりです。

しかし、そういうルーチンな毎日の中でも、誰でも転機といったものがやってきます。
 
特にこの現実世界では、違うこと、別々なこと、常ならず、つまり「無常」を体験することが強い世界ですから、同じ安定した状態(変わらない状態)がずっと続くなどということないと考えられます。
 
不思議なもので、変わらない日々が多いのに、変わることは宿命づけられているという、まことに奇妙な世界に私たちは生きているわけです。
 
ただ、この「変化」(転機)というものは、潜在的なものと、明らかにドカーンといった形で、衝撃をもって来る場合とがあります。前者は深く潜行してい潜水艦ような動きであり、後者は海上や地上でのわかりやすい進行とインパクトと言えましょう。
 
また、特定の(個人特有の)周期的なパターンで変化する場合と、周期が読めない突発的、イレギュラー的なものもあります。
 
周期パターンは、よく観察すると(データを見ると)、比較的、誰の目にも見えやいものとなりますから、従って、ある程度の予測も可能になります。
 
こういった「周期」は、個人のパターンとしてあるものですが、大きく考えれば、天体やその他、もっと長大なものの流れとリンクしていることもあります。ただ、人によって5年ごととか7年ごととかの違いはあります。
 
一方の突然来るものは予測が難しく、国や地球規模でいえば天災のようなもので読みづらいですし、その人にとっては急なものですから、対応もできず、ショックも大なるものがあります。けれども、それだけに、回復や修復させることがてきれば、自分(の能力・キャパシティ)を急成長させる可能性もあります。
 
おそらく潜在的なものであれ、また突発的なものであれ、実はそれを把握する方法がなかったり、何かの気づき(兆候)を見逃したりしたために、蓄積されたものが爆発したという事態が考えられます。つまり、どの事件・変化にも因果関係や理由があるのだと想像できるのです。
 
しかし残念ながら、私たちは科学と情報収集力が発達した現在でさえ、そうした事件や変化に至った因果関係・原因を全部解き明かすことができません。因果関係というのも、一代限りとか、目に見えるものだけでの範囲ではないこともあり得ます。
 
そのため、どうしても「占い」のようなものを利用したり、何らかの方法で、目に見えない世界から(常識外から)の情報を集めようとしたりするわけです。
 
そうした、ある別分野や別次元からの情報を読み解いたり、受け取ったりする専門家も、この世の仕組みとしては存在していてよいものだと、個人的には思っています。
 
その人たちは全部の情報を知っているわけではありませんが、例えば、ロールプレイングゲームの世界においても、占いやお告げをくれるキャラクターたちが登場し、その人たちが意外にゲームを進めるうえでの、重要な鍵やアイテムのありかのヒントを与えてくれることがあります。同時に、ガセ情報・偽情報で、プレイヤーを迷わす(惑わす)役割としても現れます。
 
映画「マトリックス」の世界でも、預言者とも予言者とも取れるオラクル(託宣)をするおばさんが登場しましたが、あの人も全部知っていたというより、「その時における真実(その時のレベルの認識)」を主人公のネオに告げることで、彼の覚醒への、きっかけを与えた人ということになっています。
 
現実でわかる情報以外のものをもたらせる人も、当然ですが全知全能ではなく、「人間」として個人のフィルターを通したり、現実次元の規制を受けたりしつつ、天上といいますか、神(や悪魔)次元の情報の一部をもたらせて、人間自身の変化を促している存在になっているといえましょう。
 
そういう人は天(神・悪魔と、象徴的言ってもよい者)から選ばれるか、ほかの仕事をしていたり、興味がなかったりしたとしても、自然とそういう役割についていく、演じていくことなる場合が見られます。
 
それから、マルセイユタロットで言えば、大アルカナで「」の数を持つカードには、あるシンボル(象徴)が共通して描かれています。
 
そのシンボルからは多種の意味が想起されますが、「事件の発生」「変化の周期」という視点から見れば、「同じようなことが繰り返されながらも、そこには別次元への変移があり、その転移が発生すると、まったく違う世界になる」という秘密が隠されています。
 
現実的には、例えば、「前にもこんなことがあったよな」とか、「やっていることや悩んでいることは違うけれども、状況は似たようなことがまた起こっている」という気づきで、その気づきを深めると、自分にとっての大きなターニングポイントを自覚することができ、積極的に変化の波に乗ることができます。
 
それは言わば、自分の運命の切り替えの発生と言ってもいいでしょう。別の言い方では、次元(レベル・階層の)転移です。
 
人によっては、それが「明確さ」をもって現実的に発生することがあり、例えば、昔の(何か自分に大きく影響していた時の)関係者に遭遇したり、再会したりするとか、なくなったモノが出てくるとか、同じ土地や場所を違う形で訪問することになったとか、そういう事態です。
 
変化の波は連動していることが多く、例えて言えば、新年度の4月の時期のように、仕事も変ったことで、交流していた人も変わり、恋愛も古いのが終わって新しい恋がやってきた・・・みたいになるわけです。
 
まさに雪崩現象のように、変化の波が各分野に波及することを実感するでしょう。それはシンクロニシティとして感じることもあります。変化の波の規模が大きければ大きいほど、次元転移の幅も大きかったということになります。
 
しかし一方で、よくよく見れば、変化はあっても、人は同じようなパターンの中で、やはり生きているのです。
 
次元転移で、何が実はもっとも変化したのかといえば、それは「」だといえます。ですから、住むところや働くところがたとえ同じであっても、質が変わっていれば、文字通り、「あなたの世界(の質)」は変わっていると言えるのです。

「手品師」からの視点と「世界」からの視点

これは以前にも書いたことがありますが、マルセイユタロット的に見れば、人生は数の上では「1」の「手品師」から見る方向と、逆の「21」の「世界」から見る方向とがあります。(あるいは、見方によっては、数のない「愚者」を「手品師」の代わりとして見る向きもあります)

 
実はこの両方向は、人生というより、根源的な深い、ふたつの方向性を示すのですが、それは講座で説明していますので、今回は省きます。
 
いずれにしても、タロットのアルカナ(口伝・秘密)を知れば、この二枚が絵柄の象徴として繋がり、関連していることは明白です。
 
しかし、ここではそうしたアルカナや暗号を除き、誰でもわかるもので、表現します。
 
さきほど、「手品師」からと「世界」からのふたつの人生の方向(見方)があると言いました。
 
これは簡単にいえば、「始まりから見るか」「終わりから見るか」の違いです。
 
まだ未完成、終わっていない、成長途上、過程やプロセスにあるという先行きを見る方向性と、反対に、もう終わった、完成した、結果が出たという、結末から見た方向性と言えます。
 
私たちは、このどちらかの視点で人生を見ることが多いわけです。
 
何かの夢や目標を持って進んでいる時は、当然「手品師」からの方向性になります。
 
この状態では、まだ自分の思う目標や目的が達成されていませんから、「まだまだだ」という思い、ネガティブに言えば、「あせり」のようなものも見える状態です。
 
他人や一般的価値観・常識と、自分の状態とを比べてしまいがちになるのも、この方向性にある時です。
 
それはまだ(目標・思い描くことが)達成されていないことで、自身の未熟性、欠如を思い、それがうまく行っている(達成されていると思う)人に目を向けさせ、比較してしまうことで、不足する自分との違いがさらに際立ってしまい、いらだちやあせりを生むという構造です。
 
しかし反面、まだ未到達なのですから、可能性の途上にあると言え、当初の目標を超えて完成したり、成長したりすることもあるわけで、言わば、夢のある(夢を見てもいい)状態でもあります。
 
実際の年齢層では、少年少女、青年時代、いわゆる若い世代の時と言えます。ただ、象徴的・精神的になりますと、年齢には関係なくなります。
 
一方、逆の「世界」側から見る方向とは、もう達成された地点から、これまでの過程を振り返る視点になりますので、すべてのことは結果のために起こった必然と見ることが可能になります。
 
まさに、「終わり良ければすべて良し」ではありませんが、結果オーライとして、幸せと安心感に包まれることもできます。
 
けれども、終わってしまったことなので、その終わったこと自体を変えることはできません。変えることができるのは、終わったことへの見方、考え方、とらえ方となります。
 
ここが「世界」からの視点では難しいところで、なかなかこれまでの過程の解釈を変えることができない場合は、後悔となって、「あの時の選択は間違っていた・・・」「あの時、ああすれば良かった・・・」「なぜ私はあれをしなかったのだろう・・・」という堂々巡りの思いに囚われてしまうのです。
 
また、終わったこと、結果、過程のうえで行き着いた今の状態に満足できていない人は、人生そのもの(今までの取り組み、すべて)が失敗だったと極端に思ってしまうこともあります。
 
こちら側から見る視点は、実際の年齢層としては、年老いた時、中高年、人生の終盤を迎えた方ということになりますが、これも象徴としては、年齢は無関係となります。
 
このように、どちらにしても、良いところと悪いところがあります。
 
結局のところ、その使い分けで自分を納得させるというのが、一番よいのかもしれません。
 
もちろん、年齢によるものの影響はあるでしょう。
 
年を取れば現実の人生時間も少ないのは確かですし、どうしても結果的方向から見がちで、反対に若い人は、まだまだ人生の時間があると思って、これからの過程、可能性を見ていくことが多くなるでしょう。
 
とはいえ、あくまで自分の状況を中心として考えると、年齢を超えた、ふたつの見方の方向性の取捨選択が可能です。
 
だいたいにおいて、先行きが不安とか、考えすぎの傾向にある時は、結果から見る「世界」の視点をもったほうがよく、反対に今それなりに満足感があったり、安定していたり、目標が達成していたりする人は、「手品師」からの、もっと成長していく方向性と過程を見るのがよいです。
 
これが心理的に見て、どうしても逆になってしまうことが多いのです。
 
不安だからこそ、先を見ようとしすぎたり、安定しているから、今の結果から振り返って、成功法則・理論(その人にとってはそうであっても、万人に共通とは限らない、たまたま結果オーライだった可能性もある)のように、自分をえらく見せたり、自分の考えを固めてしまったりすることがあるわけです。
 
現状が不安な人は予想や予測を必要以上にせず(いわば取り越し苦労をせず)、結果そのもの、起きたことそれ自体を中心にして、結果の中に自分がいることを思うと楽になります。(何かをしなければ・・・というあせりが少なくなり、自然に身を任せる気持ちとなる)
 
さらには今は悪くても、最終的な結果さえ良ければ、今のことはよい結果のための試練、チャンスだととらえることができるわけです。極端にいえは、人生が終わる瞬間、死ぬ直前で「良かった」と思える人生であれば、まだまだ今の悪いと思う状況でも逆転は可能だということです。
 
逆に、現状が満足、うまく行っていると思っている人でも、まだまだ成長過程にあること、新たな目標や夢をもって進めることを思い、謙虚さと未熟性(つまりは成長の可能性)を感じるとよいでしょう。それにより、執着や囚われの罠にはまることが少なくなります。
 
ほか(「手品師」と「世界」以外)にも、このふたつの方向性と見方を示唆するカードたちがあり、タロットで展開してみることで、今はどちらの視点がいいのかということを、タロットから出してもらうこともできます。

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