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天使

今日はたぶん一番短いタイトルです。(笑) なぜか一言、「天使」というのがびったりだと思ったからです。

 
ということで、テーマは「天使」です。
 
天使が好きなスピリチュアル系の人は多いですよね。一般の人でも、天使の存在を信じている人はいると思います。
 
今回は、その天使の実在性を問うものではありません。マルセイユタロットのブログですので、マルセイユタロットにおいての天使を見たいと思います。
 
ずばり、マルセイユタロットに「天使」はいるのかと言えば、これはいると答えるしかありません。
 
正しくは、カードに「描かれている」ということです。大アルカナで見た場合、具体的に天使だと明らかに見える絵柄が描写されているのは、「恋人」「節制」「審判」「世界」の4枚です。
 
それぞれ天使とは言っても、大きさや色、雰囲気など、カードによって「天使」は異なって描かれています。これはマルセイユタロットでは当然の描き方で、天使に限らず、まったく同じ形式で描かれた象徴は、ひとつとしてありません。
 
また、「天使」に限定すれば、天使の中にも種類(違い)があるということですし、逆に「天使」に見えるということでは、4枚はすべて共通しているわけです。(「天使」の存在性を主張している)
 
では、マルセイユタロットでの「天使」とは何の象徴でしょうか? 細かく言えばいくらでも考えることはできるのですが、まずは四大元素で言えば、「」の象徴性があてはめられます。
 
ただ、もっと広い意味も含めると、私個人的には、サポートや救済(助け)、援助、結びという言葉が浮かび、一言で言えば、「(大きな)愛の中の(様々な)愛」「愛を表現するもの」を象徴していると感じられます。
 
愛をテーマにすると、いわば神(全)=愛ということも考えられますから、何も天使がすべての愛を象徴するとは言えないのですが、それでも、愛を色濃く感じさせる存在が天使だと見ることができます。
 
一般的に思う「天使」は、普通の人間には見えず、別世界・別次元の存在として私たちを見守っているというイメージが出ます。
 
確かに、マルセイユタロットにおいても、物質・通常(常識・現実)次元に出てくる「天使」は、「恋人」のキューピッド(クピドー)のみで、しかも厳密には、「恋人」のキューピッドは、天使の種類には入らない可能性もあります。
 
従って、やはり、「天使」とは、通常の意識ではとらえがたい何者か(またはエネルギー的な何か)である、ということは、マルセイユタロットからもうかがえるわけです。
 
しかしながら、ここでは詳しく言いませんが、大アルカナ全体の見方は多数ありますので、それらのひとつから見ると、実は現実世界での普通の人間でも「天使」となりうることがあると言えるのです。
 
どういうことかと言いますと、結局、「天使」が、先述したように、愛を表現するエネルギーや形のようなものであるならば、愛をもって仕事をしたり、人々と関わったりしている方は、「天使」だと想定できるわけです。
 
もう少し詳しく言うと、人の中にある「天使性(愛)」を表現している人ということになります。
 
人間は、悪魔性や、肉体的・感情的欲求に突き動かされる、まさに泥臭い人間性(動物性にも近い)も持っています。そして対極に、神性や天使性もあるのです。
 
それが対立する様は、「恋人」カードなどでも顕著に描かれています。ただ、単純な善悪で考えない方がいいです。「悪魔」にも良さがあります。数の順番では、「節制」の天使の次に「悪魔」がいるくらいですから。
 
それはともかく、私たちはいわば、愛を忘れない限り、「天使」であるとも言えます。
 
ただ、意識的に天使業をしている人、または結果的(無意識)に天使業になっている人、さらには、回り回って、言ってみれば天使の連繋によって、誰かを救済することになっていたり、誰かに愛が贈られたり(贈られたり)していることが、現実世界ではあるということです。
 
例えば、医師とか看護師とか、消防士とか警察官とか、まさに直接人を助けたり、守ったりしている人がいるわけですが、それは職業でもあり、人を助ける意識は当たり前で、無意識に近いものでしょう。
 
一方で、自分はヒーラーになるとか、カウンセラーになるとか、上記の職業(医師など)に就いている人でも、人を助けたいという志をもってそれになった人は、意識的な救済者・愛の実践者、天使だといえるかもしれません。
 
また、自分の行った何気ない行動とか、別に意識して言ったわけではない言葉、特段意図をもって書いたわけでもない文章が、実は間接的に誰かの為になっていた、誰かの励みや救いになっていたということは、この世の中結構あるものです。(反対に、意図をもって、人を助けたいと思って述べた言葉、文章などもありますし、それが意図とは別の意味に受け取られることもあるわけですが)
 
これは本とか絵画とか創作物とか、商品とか、普通の仕事とかでも、あらゆる人の活動において言えることです。
 
こういった現実の生きている人間だけではなく、亡くなった両親や祖父母、伴侶、友人、知人、昔の偉人、戦争などで誰かや国のために命を捧げた方々、犠牲になった方々も含め、すでにこの世にいない人間からでも、私たちは示唆を受けたり、愛を感じたりすることがあります。
 
それらの人もまた、「天使」だと言えるかもしれません。
 
こう考えると、マルセイユタロット的には、「天使」とは、目に見える見えないに関係なく、愛を感じさせる人や物事すべてであると言え、それを反転すれば、すなわち、愛を実感できる自分自身(の内なる天使性)だと言うことができるでしょう。
 
冬の寒さに人や物事の温かさをかえって感じることがあるように、試練や厳しい状態にいる時、世の中には悪魔や獣しかいないのではないかと感じる状態の時こそ、実はそばに天使や神がいることを認識するチャンスでもあるのです。
 
その天使は、いわゆる絵に描いたような天使とは限らず、その意志を受けた(当人たちは無自覚でも)普通の人たちであったり、エネルギーとして、別の表現(モノや事件)であったりすることも考慮に入れると、確実に天使の実在を思うことができるでしょう。

あやふやで不透明なカードたち。

マルセイユタロットの大アルカナ22枚は、あらゆるもののモデルや元型として見ることが可能です。(小アルカナと呼ばれるパートも、それはそれで重要な象徴です)

これらの22枚のカードは、いろいろなコンセプトで分類していくことができますが、その分類法、それそのものがまた、この世界や宇宙、エネルギー(質的なもの)を観察する要素となります。

さて、私たち人間は、一般的に、物事や心の状態を「はっきり」させたほうが「すっきり」する傾向を持ちます。(しゃれでありませんが・・・笑)

逆に言えば、中途半端な状態、物事が白黒はっきりしていない時は、モヤモヤしたり、不安になったり、心配になったり、イライラしたりするわけです。

そのことをふまえ、改めて、最初に述べた「大アルカナ22枚」を見ていくと、カードには、「はっきり・すっきりの」状態を示す(そのような雰囲気の絵柄の)カードと、反対に何とも言えない、不透明、どちらとも取れるような状態のカードがあります。

代表的なものでは、前者が「正義」とか「13」とか「戦車」とか「皇帝」のようなカードであり、後者は「恋人」「運命の輪」「月」などで示されるでしょう。

まあ、これにも個人差がありますので、自分にとっては、はっきりしていると感じていても、人にとっては不鮮明であったり、あやふやだと感じるカードもあります。そしてまた、その個人差というものが、自身のカードへの投影として、自らを知る鍵ともなります。

ただ、個人的なもの(感じ方の差)はあっても、やはり普遍的とも言える、ほぼ誰が見ても同じように感じる絵柄の象徴性があるわけで、それによる区分けであると、この場合は考えていただいたほうがよいです。

それで、はっきり・すっきりと感じるカードたちは、まあ「はっきり」ですからよいとしまして、逆のはっきりしないほうのカードたちについて注目します。

全体22枚のうちで、そのカードたちが数の位置(順)としても、どこに置かれるようになるかを見ることで、大きな気づきや重大な事柄が見えてくるでしょう。そのことは、詳しくは講座で説明しています。

ここで言いたいのは、はっきりしないカードたちが、大アルカナの絵柄として存在していることは、一種の型・モデルとして考察すると、このはっきりしない状態も私たちの生活や成長の中で必ず起こってくること(言わば必然性の状態)だと推測できます。

 

当たり前と言えば当たり前なのですが、私たちはいつもいつも透明性・明白性をもって生きている(過ごしている)わけではありません。

当然、知的(知識的)にわからない・知らないこともありますし、感情的にモヤモヤしたり、葛藤したりすることもあれば、何かわからない衝動や、どうしてもそこに向かいたくなる情熱・パッションに身を任せてしまったりすることもあります。

そしてだいたいは、損得や好き嫌いだけでは決められないこと、さらにはこれまで身につけてきた知識・常識・経験で推し量れない(選択できない、迷う)ことが、ある段階では、誰しもに起こって来ます

いわば、目に見えない、はっきりとしない状態や状況に翻弄されたり、常識とは異なる、直感のようなものが動かされたりする(動かす必要のある)感覚を得ることがあるわけです。

それは自分にとっては危機とも言えますし、変容(言い方を換えれば新しい自分に生まれ変わること)に向かっているとも言えます。

自分にとっての古い殻を脱ぎ捨てようとした時、今までの古い殻は、ちょうどなじんた古着・衣服のように心地よくもあり、またなかなか脱げず、まとわりつくような気持ち悪さも醸します。

夜明け前が一番暗いといわれるように、先行きがわからず不透明な時は、まさに手探りで、闇を彷徨う苦しさ・息苦しさ・閉塞感があります。

しかし、大アルカナ全体の構成から見れば、それは成長や拡大、自他の救済の道の過程(プロセス)であり、必然をもって生じてくるものなのです。

あやふやではっきりしないカードたちには、必ず、次の段階や、新しいもの、異質な存在や別次元の働きかけが絵柄としても示唆されています。

カードの象徴で、そのことを知識的にも感情的にも把握することができ、それがために、はっきりしない状態への恩恵と啓示を受け取ることができます。

逆に言えば、はっきりしたものへの厳しさ・畏れも見ることができるのです。

また、それらのカードと、ほかのカードたちを比較検討することによって、不透明な時期の苦しみからの脱出、救済の示唆・順序・道筋を象徴的に得ることも可能です。

あなたにとって、混迷や不透明な時期は、自らに眠る可能性と新しい自分(実はすでにもともと存在していた部分でもあります)の開花の準備として現れており、苦しみは確かにあれど、次には、そこで練られた純粋なもの、高度なものが収穫として、あなた自身にもたらされてくるのです。


「やるかやらないのか」の間にあるもの。

タロットリーディングの問いの中でも、「なになにをするのはどうか?」というものがあります。

具体的になってきますと、仕事を辞める、転職する、独立するとか、好きな仕事をするとか、恋愛で気持ちを伝えるとか、結婚する、離婚するとか、あるセミナーに出る、ある技術や知識を学ぶとか、そのようなことを行うのはどうか?という質問ですね。

これは言ってしまえば、身も蓋もない話になりますが、結局、つきつめてしまえば、「やるかやらないか」というだけなのです。

しかし、そこには、機械ではない人間の悩みがあります。

やるかやらないかの間に、様々なグラデーションにも似た迷いがあるわけです。

しかし、これも整理すれば、感情(気持ち)の葛藤か、自分の価値観とて世間一般での価値観のズレ、さらには、失敗か成功かによる、特に失敗の恐怖を味わいたくないという恐れ、逆に言うと、結果としてショックを受けない選択をしたいというものなどがあると考えられます。

普通は、成功するか失敗するか(の先行きの判断)で躊躇するわけですが、その成功や失敗が、何をもって成功とし、何をもって(どんな状態をもって)失敗と言えるのかを考えると、つまるところ、自分の感情・思いによる自己の(状態)評価のジャッジ(判断・裁判)だと言うことができます。

成功や失敗という概念が、今の社会や世間一般のものと自分のそれが、一致すればするほど(同調・同意させればさせるほど)、杓子定規な(いわゆる現実的観点での)選択と迷いの理由になります。

反対に、世間の概念(価値観)と自分のものが離れれば離れるほど、世間で言うところの成功や失敗の範疇とははずれ、その境界線もあいまいなものになってきます。

言い換えれば、自分中心で、誰とも比べることのない天上天下唯我独尊のような世界観であれば、自分がいいと思えばよく、自分が成功と思えば成功という世界が現出します。

この意味では、精神が現実を創るというものに近く、何よりも自己の確立と自尊が重要になってくるわけです。

ですから、自分に自信がないという人は、何の選択においても、葛藤が多くなり、その葛藤や迷いは、ほかの人と比べること、ほかの価値観と自分のものとを照らし合わせ、両者が揺れることで、ますます決めることが難しくなってくるわけです。

ましてや起業や独立、好きなことで生きていきたいというようなことを目指すのには、強い自尊心、もしくは、自分への自信がないと、踏み出せなくなるのは当然だと言えます。

迷いには失敗のおそれもありますが、先述したように、その失敗という概念(実は観念)自体が、世間での迎合や世間一般の思うそれなので、言わば人の評価による成功・失敗のうちの失敗になることを恐れているのです。

最近は、心理的・スピリチュアル的に人を援助する技術を習い、それを仕事にして行きたいと思う人が、ネット社会になって簡単に起業自体はできることから増えてきました。

しかし、あまりに自分に自身がなく、他人との普通のコミュニケーションすら恐怖や問題がある状態では、仕事以前に、まず自分自身を、ある程度回復しておくことが必要です。

少なくとも、自分の選択の結果が、人のせいや、環境・運のせいにするなどして、責任を転嫁しているうちは、自分の力を他人に預けている状態であり、それでは、一時的な癒しや、なれ合い的な安心感を与えることはできても、仕事として、よい・悪いの両面を受け入れ、やっていくのには力不足のところがあります。

ところで、「私は成功できますか?」「私はこれを仕事をしていくことがてきますか?」という質問は、ちょくちょく受けることがあります。

その気持ち・心情・不安はよくわかります。最初から何もかも自信満々な人はいませんし、心配や不安・葛藤があるからこそ、相談したいと、人は思うものです。

けれども、たとえば、「あなたは成功できますよ」「あなたはそれを仕事として、やっていくことができますよ」というようなメッセージを受けることがあっても、その後、実際にはうまく行かないようなことがあれば、そのメッセージをくれた人のせいにして、自らの行いを省みることをしない人もいるでしょう。

また、反対に、メッセージを受けたことで背中を押され、勇気をもらって実行し、(自分の思う)成功を成し遂げて行けたという人もいらしゃるでしょう。

何かのお墨付きをもらう心理的安心感・目に見えない世界からの後押しを実感すること自体はよくても、お墨付きが免罪符となって、その免罪符がほしいがために、占いや人への相談をするというのでは、メッセージの内容にかかわらず、本当の意味で進展するのは難しいと言えます。

結局後者の人は、他者からの評価・断定(保証)を拠り所としているのであり、あくまで自己の選択と責任のためのひとつの指針や情報、勇気づけとして見ているのではないのです。

それは言い換えれば、他者(運や環境も含む)のための選択であり、他者の人生・世界に自分を預け、沿わせているようなものです。従って、いつまで経っても、自分自身を生きる実感がなく、迷いや閉塞感・外側を気にする状態で、苛まされることになります。

マルセイユタロットでいえば、「運命の輪」の中に自らをあてはめ(押し込め)、その回転に翻弄される人生と、その輪の上に立ち、自らを他者の運や評価から脱却させた人との違いと言えるでしょう。

ただ、そうは言っても、すぐに自分に力を取り戻したり、自信を回復させたりできないのも人間です。

ある程度の他者(環境・運)依存も認めて、それを利用しつつ、少しずつ(「節制」のカードが暗示します)、自己の力と自尊を回復していくことです。

そのため、対人援助についても、いきなりプロを目指すことではなく、できる範囲(経済的なものも含む)で、「戦車」の両輪のようにして、あるいは「節制」の壷の水のようにして、ふたつを混ぜ合わせたり、動かしたりしていくとよいのです。


「皇帝」と「13」の関係性

マルセイユタロットの「皇帝」と「13」のカードには。深い繋がりがあると考えられます。

アルカナ・口伝があるために、ここでは詳しくは明かせませんが、絵柄のうえでもその秘密の一端をうかがい知ることができます。

「13(番)」のカードは、一般的に見て、とても恐れられているカードであり、何よりも、西洋での「死神」をイメージするような大鎌と骸骨の絵柄自体に、「死」や抑圧的な恐怖を感じさせます。

しかし、マルセイユ版のそれには名前がありません。ただローマ数字で「13」と数が書いてあるだけです。

このカードがいったい、いかにも王様然として、豊かさとも取れる安定感を醸す「皇帝」と、どう関係しているのか疑問に思うところもあるでしょう。

まず単純なことですが、「皇帝」は「」という数を持ち、「13」は単数(数字根)化すると、1+3=4となり、「4」という数が共通して見えてきます。

それが何を意味するのかはあえて言いませんし、タロットではあくまで絵柄がメインであり、数の象徴性とは異なる可能性もあり、むしろ無理矢理なこじつけかもしれません。

それよりも明確に、先述したように、絵柄の象徴性から共通する部分は出てきます。意味合い的にいえば、収穫や刈り取りといったことに関連します。

おそらく、「13」のモチーフのひとつには、サトルヌゥス(サートゥルヌス)という神があるとイメージされます。このサトルヌゥスは、種まきや収穫(刈り取り)を象徴する農耕神であり、ただ収穫するだけでなく、解放も意味していると考えられていました。

時期的には冬至と関係し、つまりは農耕をモチーフとした(農耕は暦が重要であり、太陽の運行と関係してきます)「死と再生」のシンボルであったと思われます。

一方「皇帝」は、いわば、現実・実際の王様(人間の王)であり、国を治め、(支配する)民と国の繁栄を築こうとする人物です。そこには精神的な理想も重要ではありますが、実質的なもの、国や民を滅ぼさない現実性・安定性が重要となります。

人間個人レベルで言えば、夢や理想だけではない、経済的なこと、現実的なこと、目に見える成果・結果、常識に従う正しさ、大人としてのふるまいのようなものが求められると言えます。

また、自分自身を支配する強い自立性・コントロール・自制心・決断力というものも、付け加えることができるでしょぅ。

しかし逆に言えば、「皇帝」の支配が強まれば強まるほど、国は安定はするものの、中には窮屈に思い、その支配の影響から逃れたいと願う者も出てきます。

国のルールに従わない者は、国外追放か、投獄される場合もありますし、奴隷としてその国で働かされている人がいるとすれば、支配が続く限り、自由は得られないことになります。

個人レベルでいえば、一応の安定は見たものの、さらなる発展や、時流への対応など、自身の変化・成長のためには、一度安定したものを壊さないといけなくなる時がやってきます。いつまでも同じことに執着したり、過去の栄光にすがっていては、ますます取り残されるばかりです。

ところで農耕は、ひとつのサイクルになっています。季節の春夏秋冬に応じるように、種を蒔き、目が出て、生長するまで面倒を見、やがて最盛期を迎え、実がなり、それを収穫し、実から取り出した種を納めて、また種まきの準備に向かいます。

形として見ても、ひとつとして同じ時・状態はありません。植物・作物は日々生長し、人手を加えていくにしても、土を耕したり、雑草を刈り取ったり、水を与えたり、作業もまったく同じというわけではないでしょう。

もし、「同じ」と言えるものがあるとするのなら、生育と収穫のサイクル自体と、大地をもとに植物が生育していくという点です。しかし、その大地さえ、詳細に見ると微生物の働き、天候による変化(乾きや湿り)など、様々です。

このことを考えると、「13」の黒い土や、刈り取る「鎌」、「骨」のようになっている体などからも、一連の変化に対応しようとしていること、新たな変容のための準備をしていること、実際に何かを刈り取っていることなどが見えてきます。

また「種」の中に、その後、開花して実がなるすべての要素が入っているとすると、「13」は究極まで削ぎ落とそうとしている「種子化」だと言えます。

そして、その「13」と「皇帝」とを比べると、両者の力が、まさに対比となっていることに気がつきます。「皇帝」は人であり、安定や生育(保護)、実際、成熟化を象徴し、「13」は神(精霊・聖霊)であり、変化や刈り取り、解放、種子化を象徴していることがわかるのです。

私たちが実際に成長するためには、「皇帝」の力と、「13」の力、両方が必要です。

それは現実の成果と、精神・霊的な成果(収穫)のふたつを、ともに意識して取り組む必要があることを、ふたつのカードが物語っているからです。

また、常に自分が現実(物質的観点で見た場合)の王(支配できたと思う「皇帝」の心)となっていても、裏では「13」の闇の王が君臨しており、それが鎌をもたげて、現実の王(皇帝)を刈り取ろうと狙っています。

この闇の王は、実は「悪魔」ともつながっているのですが、一方では神性でもあり、つまりは私たちの中に眠る、常識や現実を超えた強い影響力と言えます。

「皇帝」となる過程と意味は、成熟した大人への進展、現実・良識・常識になじむという点で、非常に大事なものですが、一方で、さらなる飛躍と霊的な成長のためには、「13」の力も必要とされます。

象徴的な言い方では、「皇帝」となった自分を殺す「13」の力という表現になります。

自分の中にある「13」を認め、受容して行かないと、言いようのない不安につきまとわれ、何をしても満足することができなくなってきます。その中には「死」というテーマもあるのです。

しかし、「13」は大きな解放の力でもあり、常識的な枠を壊して、自らを異次元の領域にまで進ませます。

とは言え、最初から「13」ばかりを目指していては何も生えず、消耗してしまうばかりです。そこには「皇帝」の力もいるのです。

自分の中の「皇帝」と「13」をバランスさせ(4+4はマルセイユタロットの「正義」の数「8」)、調和させると、真の豊穣の女神(4+13=17 「星」の女神)の恩恵を受けることになるのです。


自分本位の貢献感が自分を救うこともある。

自分に自信がない、自分に生きている実感がないという人は少なくないような気がします。

人は何のために生きているのか、なぜ生きているのかということに、宗教や哲学も含めて、ずっと考察がなされてきましたし、今もって明確な回答が得られていないと言えましょう。

その秘密や理由は、矛盾のような、禅問答のような話になりますが、おそらく私たちが生きている限り、明かされることはないのでしょう。それがすなちわ、「生」というものの回答ではないかという気もします。

とはいえ、実際に生きていますと、様々な矛盾や苦悩、理不尽さを感じますし、冒頭にも示したように、生きづらさを感じていたり、生きている実感が希薄であったりする場合があるわけです。

私はこの理由のひとつに、マルセイユタロットの奥底に流れるある思想に見出すことができると思っているのですが、それはともかく、そうした生きる意味や、生きづらさのわけを考えることより、それを軽減し、現実生活の中で生きづらさや希薄感の解消を実践していくことのほうが大切になる場合があります。(理由を考えることが悪いわけではなく、人によっては、その考察が重要になるケースもあります)

その対処として、私は貢献感を持つことと、自分がなにがしかの貢献をするという(自覚的)実践と行動をすることにあると見ています。。

表現を変えれば、「自分が生きていることで役に立っていると思うストーリー」を自分で構築するということです。

これは思い込みと言えば思い込みなのですが、私たちの現実は、実際に客観的に誰しもに起こっている事実(客観・全体の現実)と、自分がその事実(事象・出来事)を受け、解釈し直して見ている自分自身の思う現実(固有の現実)とがあり、結局、後者が一人一人には重要で、つまるところ、自分の思い込む現実が、まさに自分に影響するわけです。

だからこそ、自分の作る自分への物語・ストーリーが重要なのです。

生きづらさを感じる人、生きる実感が希薄な人は、あまりに自分が空虚になっているため、悪い意味で自分が世界と一体になっていて、個性・個別・自分というものが感じられなくなっています。

これとは逆に、人と比べて自分が劣ったり、何も特徴がないと卑下したりすることによる劣等感のような希薄もあります。

どちらにおいても、世界(現実と認識する世の中・社会)に対しての無力感となり、貢献感がなく、言わば、自分が役立たず、存在してもしなくても同じみたいな感覚があるのです。

言わば、「自分がステルス状態になっているのが、ストレス状態になっている」わけです。(笑)

ということで、人から認められるとか評価されるとかではなく、とにかく、自分主体(自分本位)で、何か小さなことでもよいので、社会や人、世の中の役に立っていると自分が思うことを行うことから始めます。

これは本当に何でもよく、ちょっとでも自分(の行動が)役に立っていると考えられることをすればよいのです。

お金を使うのもありですし、健康づくりをしながら、空気を吸って二酸化炭素を吐いて、その循環が植物などに貢献していると考えるのもよいでしょう。

行動の前には、意識(思い)だけでもOKです。

「このこと(自分の日常での行動)は何かの役に立つ」と、無理矢理でも、こじつけでも結びつけるのです。

例えば働いていれば、会社や他人、組織に、とにかく役立っているわけで(給料分とかと計算で思わず、ある仕事をしているだけで一応は何かの作業がなされて、職場の役に立っているというように思います)、考え方さえ少し変えれば、役立ちの部分は、たとえほんのわずかであっても、貢献感情として出てきます。

もちろん、寄付したり、実際に何か人や社会のサポートをしていくボランティアや作業をするのはよいのですが、そんな大げさな貢献をしなくても、他人からの評価は思わずに、自分本位で役立つ、役立っているというストーリーを作る、思うことが一番重要です。

恋愛でも、たとえ片思いであっても、相手を想うことによって、相手を心配したり、相手の為に何かをしたい、相手が幸せであることを望む自分がいれば、それを自覚するだけで、相手への見えない貢献になっていることもあると考えることができるのです。(ただし、エゴが中心となって、相手はこうあるへきとか、自分にこうすべきとか、過剰にストーカーのようになって、相手の気持ちにお構いなしに勝手なことをするの問題で、違うことです)

マルセイユタロットを持っている人は、「」のカードを見ているだけで、そうした貢献感、役立つ自分の姿・部分を、心の中で見つけることができるでしょう。

そして何をしても貢献感がわかない、見つからないという人は、究極の宇宙や大きなもの、神という存在を置き、私は神(大宇宙・大きなもの)の表現の一部として、人生を経験していると考えるとよいでしょう。

あまりに大きな存在は、具体的で個人的なベースで表現することができません。空気は形として味わうことができないみたいなものです。

ですから、私たち一人一人、肉体と個人的感情・思考・経験をもって、神様(大いなるもの・全体)の代わりに、体験しているわけです。

それを思えば、私たちは誰もが、生きているだけで、(神に)貢献しているのです。

それがあなた個人的にはひどい人生とか、何の役にも立っていないとか思っていてもです。それは次元が実際ベース・見に見えるものだけで見ているからで、もっと次元を拡大し、上昇させてみると、あなたがこの世にいること、自分を自分として自覚できていること自体が、ものすごく、全体から見ての貢献になっているのです。

「こんな空しい(と感じる)人生、つらくて悲惨な(と感じる)人生も、神様からしたら、味わいたいひとつなんでしょう? じゃ、そのデータ送りますんで、よろしく。私の人生劇場、空虚感、スリル、サスペンス、味わっておくんなまし」

こんな感じでしょうか。(笑)

まあ、これもストーリー(データ)として変えることもできるわけですし、変化があったほうが、(全体として)見ているほうでは楽しいですから、空しい、悲惨だと思う人生から脱却したほうが、またさらなる全体への貢献にはなるかもしれませんね。

要するに、他人評価で決める貢献感ではなく、思い込みでもいいので、自分が貢献していると思えることをすればよく、そうした貢献ストーリー(役立っていると自分が感じる物語・理由・理屈)を構築すれば、自分本位(自分中心)から、自分の存在が濃くなってくるというわけなのです。

その結果、空虚感がたとえあっても、生きる理由が、自分なりに見つかってくるのです。


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