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願望実現の次元と世界
マルセイユタロットの「運命の輪」と次の数を持つ「力」のカードを見るにつけ、いわゆる引き寄せや、各種(占い・スピリチュアル・心理系等)の願望達成法には、限界や矛盾があることを感じます。
願望達成(法)への現時点での私の見解はこうです。
「願ったこと、希望したものはすべて叶いますが、次元別・世界別のブロックや限界があります」
そう、実は願いは何らかの形で、すべて叶える(すべて叶う)ことができます。
ただ、それが私たちが意識する現実の世界、リアリティをもって過ごしている次元においては、様々なブロック・障害、逆にいえば危険や混乱のために守護やストップがかかる状態があるということです。
例えば、心の内では、自分が願えば何にでも、どんな状態にでもなることは可能です。簡単に言えば、イメージの世界での実現です。
イメージの世界は現実(次元)からすればないと言えますが、実際には形はなくても、イメージはされているのですから、別の様式で確かに存在していると述べることもできます。
しかし、現実次元では、「あの人が憎たらしいから、今すぐ死んでほしい」と願ったところで、いきなりその人が死んでしまうわけではありません。
これと同じように、ポジティブな願いであれ、ネガティブなものであれ、現実ではそうそう易々とすべてが思い通りに叶うわけではないのは、皆さん、当たり前に実感していることでしょう。
それはなぜなのかを考えますと、要するに、そういう仕組みになっていると答えるしかありません。
全員の望みがそのまま叶ってしまえば、ルールも秩序もあったものではなく、ただ混乱を来すだけです。
どの世界や次元にもそれなりのルールや法則があり、それがあるからこそ、次元・世界として特色を持つ、分けることができるのだと考えられます。
イメージの世界・次元では、夢想であっても叶いますが、現実次元においては、時間や距離、物理的障害、自分と他人の違いなど、その他もろもろの障壁・ガードがあり、簡単には願いは叶いません。
しかし、そうした障壁やルールを守ったうえでならば叶うこともあるわけです。
残念ながら、この現実次元においての障壁やルールは、見た目でわかるものだけではない(他人の心の部分や自分が見えてない他人の行動のこともあれば、カルマなどの影響もあるかもしれません)ので、それでおまじないとか、スピリチュアル的な願望実現などに望みを託す人も出るわけです。
もっと科学の進歩したり、人々の意識(認識)が向上したりして、この現実世界の読解が進めば、いわゆる波動などとスピリチュアル界の人がいう概念も、論理的に解き明かしていくことができ、思いや願いの実現が、どこまでが可能で、どこまでが不可能なのかということがわかってくるでしょう。
その中で、自助努力の部分と、他の要素による影響とブロックの部分も明確になり、無駄なところや怪しいところは少なくなってくるのではないかと想像しています。
一方で、現実的な今の対策として、願望実現のシステム(の障壁・ブロック等)が完全にわからなくても、ある方法で対応していくことが可能です。
ひとつは、とにかくシステム(メカニズム)や論理を考えずに、意志と情熱で願望実現を目指して、いろいろと実行していくやり方、もうひとつは、自分の願望を整理し、そぎ落として、現実次元で無理のない、それでいて本当に望むものにフォーカスしていくやり方です。
前者は、自分の願望に忠実に、目的(願望の実現)こそがすべてであり、極端なことを言えば、過程はどうでもよいのだという姿勢です。
目的達成こそが目標なのですから、その叶え方自体はどれでもよく、要するに叶えることができるものに出会うことが重要となります。その意味では、がむしゃらに願望実現法を試してみるのもよいでしょう。
現実次元の願望達成における障壁システムなど、結局、解き明かすことは難しいわけですから、つべこべ言わず、自分の望みに向かって、今、現実にあるあらゆる資源・ネタを使って叶えさせればいいのだとするのも、自分の人生はこの一代限りだと見た場合、ポジティブでよい姿勢と言えるかもしれません。
もうひとつは、(願望実現の)メカニズムにも配慮しつつ、結局、現実次元では叶えられない欲求・願望はあるものと冷静に見つつ、そもそも自己の願望は、全部叶えたいものなのかどうか、今一度整理して、真に叶えたいものを優先的に選択していくやり方です。
願望を整理する中で、これだけば譲れないとか、これは現実的に、運や狭義のスピリチュアル的な願望達成法だけに頼らず、自分のアプローチと努力で可能だろうと考えられるものに、意識と行動を集中させるというやり方になります。
あと、これとは少し似ていて、ちょっと違うスタイルのものとしては、自分の願望自体をどんどんそぎ落としていき、いわゆるエゴからの欲求を中和・消失させ、自分の願いは、本当に自分にとって(この現実次元において)必要なものだけ叶うと見ていく態度もあります。
これは少し宗教的・仏教的態度に近いかもしれません。良きにつけ。悪しきにつけ、自分に必要なものだけ起きているのであり、願望実現も、そういったルールで実現するものと実現しないものがあると見る考えです。
ただ、自分の中で、自覚していない自らが作ったブロック・障壁・ルール(幼少期から形成されたものなど)というものもあり、これは普遍的な意味での現実次元の障壁・ルールとは別(個別的なブロック)でもあるので、これ自体を自覚・浄化することで、自分の中のブロック(制限)は消え、今まで叶わなかった願望が叶うというケースはあります。
その場合でも、普遍的な現実次元での制限・ルールを超えることはまずできません(できるのは、マルセイユタロットでいう、「運命の輪」を超えて、「力」の状態になった時だと言えます)ので、その線引きは理解したほうがいいでしょう。
そうでないと、自分の潜在的なブロックさえはずせば、何でも叶うという傲慢な態度になったり(これはエゴの肥大を呼びます)、ブロックを消したのに、思うようにならないと余計混乱したりすることになります。
マルセイユタロットの大と小の世界。
私の開いているタロット講座にはいくつかの種類がありますが、最初と基礎は、やはり、大アルカナと呼ばれるパートの解説、それを中心としたリーデイングテクニックの習得ということがメインとなります。
これは大アルカナにタロット(マルセイユタロット)の基本があるからです。
一方、タロットには大アルカナだけではなく、小アルカナというパートがあります。最初に学習する「基礎講座」でも小アルカナについて学びますが、さらにアドバンス的なコースでは、もっと小アルカナの論理と技術にふれていくことになります。
マルセイユタロットの小アルカナ、中でもトランプのような記号的な絵柄になっている数カードは、カードの絵柄のイメージからリーディングしていくことは難しく、ある種のテクニックと術(方法)がいります。
それも何種類かあるのですが、残念ながらのこの明確な区別があまり意識されておらず、独学でされたり、ほかで学習されたりしてきたことで、小アルカナの読み方(リーディング)に混乱を起こしている人もいらっしゃいます。
それは、やはり絵柄の違いから来る、大と小(特に数カード)のリーデイングアプローチに異なる部分があるからなのです。
ウェイト版(ライダー版)などのカードでは、小アルカナも含めてすべてに絵画的な絵がついていますので、大と小を同様のアプローチで解読することも可能です。しかし、マルセイユタロットはそれでは無理があるのです。
マルセイユタロットには意図があって計画的に絵柄や象徴が配置されており、そのデザインにも無造作なところはありません。従って、大アルカナ、宮廷カード・数カード(小アルカナ)の違いは、わざとそうされていると見ることができますし、リーディングにも違いをもたせるのは当たり前となってくるのです。
その大きな違いは、一言でいえば、抽象性と具体性、夢と現実性、イデアとリアルみたいなものとなります。前者が大アルカナで、後者が小アルカナとなってきます。
大アルカナは魂の解放を目指し、小アルカナは現実世界での安定や確実性を表現させます。
実はこのふたつは相反するものであり、いわば天と地の逆方向の指向性を持ちます。※(あくまでマルセイユタロットにおいてであり、そして私の考えです)
大アルカナを使ってリーディングしたり、自己成長のためのツールとして使ったりすることは、現実や常識の囚われから解放し、全体的なものに自己(あるいはリーデイングする相手)を融合させる方向性にあります。
ですから、スピリチュアル的なもの(スピリチュアル的な思考と感性)には相性がよく、現実に飽き飽きしていたり、実生活で閉塞的な苦しい状況にある人は、大アルカナのエネルギーと示唆によって、特に精神的安らぎや解放を得ることができます。
しかし、一方で、逃避的にもなり、夢の世界に逃げ込み、現実を見ないようになるおそれ(まさに現実逃避になること)もあります。
これに対して、小アルカナの世界は現実性とリンクしていきますので、よりはっきりとした判断に使うことができます。
特に数カードは、数を象徴していますので、数で表せる世界は、現実のほとんどすべてのものを象徴させることができ、いわゆる時空として、時間・場所の指定も顕著になります。また数で表せない人間そのものは宮廷(コート)カードによって象徴させることが可能です。
つまりは、いつ・とこで・誰と・どのように、というものがはっきりと特定できるような世界観なのです。
その世界はいわば生身の人間が悩み苦しみ、翻弄される実生活の世界であり、だからこそ、はっきりと、「これだ」というものを示して欲しいと人は願うのです。それに応える(答える)のが小アルカナの世界です。
成功するのはどっち? 失敗を避けられるのはどの分野? いつ恋人や結婚相手に出会えるの? お金を増やすにはどうすればいいの? 仕事を辞めたほうがいいか続けたほうがいいか? 旅行はどこに行けば楽しめるのか? どの人とつきあうのがいい?・・・こういうようなものがリアルな生身の人間の問いとなってくるのです。
それに答えようとするのが市井の相談者であり、占い師はこの世界で求められ、人々の相談に乗り、人々の成功、幸せをサポートして行きます。(現実の生々しい相談に対応しなければならない「占い師」という仕事は、本当に大変で、すばらしい仕事をされていると思います)
だから、言ってみれば、小アルカナは占いの世界と相性がよいのです。
小アルカナは現実の生々しい問題に、「これ」「あれ」「それ」と言った具体的回答を示します。
それは明確で嬉しいことのように思えるかもしれませんが、現実性を示すことで、はっきりとしたものが出て、実はシビアなことでもあるのです。
小アルカナを使う時、逃避できない(あるいは自分が逃げている現実部分のような)シビアなことが、如実にタロットから出ることがあります。
それと、小アルカナの世界ばかりで対応していると、自分のレベル・次元を上昇させる(言い換えれば意識を拡大させる)ことが難しくなり、現状の価値観と意識レベルでの選択によって、自分の思う良い方向、成功する道を獲得しようとします。
しかしそれは、ある線引きによる右か左かの選択の連続であり、常に焦燥感のようなあせり、得たものを失うのではないか、失敗を選ぶのではないかという恐れが伴います。
またどうしても、モノ(お金など)の多寡や、能力・環境の違い、物事の出来・不出来、友人・知人の数や地位・評判など、他人と比べる傾向が強くなり、人から承認されたい(認められたい・評価されたい・抜きん出たい)欲求も刺激されます。
そのため、そういう世界から魂が飛翔していく(魂を解放していく)象徴として、大アルカナの世界があるのです。
しかし、大アルカナだけでは、精神やスピリチュアルに過度に傾いて現実逃避になり、小アルカナだけでは、分離された現実世界での、いい・悪いの価値基準の中でグルグル回り続けることになります。
マルセイユタロットは見事に、大と小、その絵柄などの違いと構成によって、まさに天と地、夢と現実の調整・バランス・統合を図られるように設計されているのです。
ということで、マルセイユタロットにおいては、大も小もどちらも必要なものであり、特に、占いや実際の現場で相談に当たる人にとっては、小アルカナを使いこなしつつ、大アルカナの世界につなげていくことが重要になってくるのです。
自分の中にある「太陽」と「二人」
ほかのタロットでもそうですが、マルセイユタロットでも、「太陽」から「審判」「世界」という一種の流れのようにも見えるこの三枚のカードは、比較的よいカードとみなされています。
実際に、カードの絵柄を見ても、明るい感じが三枚とも伝ってくる気がします。
マルセイユタロットの秘伝では、この三枚の段階になりますと、霊的な完成ともいえる状況になっていますので、見た目以上に高次のエネルギー状態と言えるかもしれません。
そして、この三枚の中でも、最初にあたる「太陽」のカードについて、今日は注目してみたいと思います。
マルセイユタロットにおける「太陽」は、その絵柄からしても、とてもエネルギーを感じるカードです。私自身、うつ病からの回復時には、「太陽」のカードを見ることで、パワーをもらえた実感もありました。(状況によっては強すぎることもあるので、回復時のほうがいいかと思います)
この「太陽」のカードに描かれている、まさに太陽自体が、実は象徴であり、私たちの見ている実際の太陽とは異なることは、カードの解説をされなくても、たいていの人は感じるのではないかと思います。
普段絵画をよく見ている人は、太陽を描いた絵の中に、このマルセイユタロットのような光芒の形とよく似たものを記憶している人もいらっしゃるかもしれません。また太陽に顔があることも重要です。
占星術でもそうですが、タロットにおいても、天体を、今の私たち現代人が思うような、ただの物質的観点から見ると、本質がわからなくなります。
「太陽」カードの太陽も、太陽であって太陽ではなく、古代の人が象徴的に観じた、太陽の奧にある根源、神性(の太陽的表現)を見ていたのです。いわば、太陽を通して現れる神(全体・完全性)の霊魂のようなものです。
これが象徴的に見るということのひとつの特徴であり、タロットをやっている人でも、また占星術をやっている人でも、いまだ象徴の意味を理解せず、物資的・機能的な見方(モノとして見ている、見た目を中心の判断にしている、何か特別なことを与えたり、支配したりできるものとして見ていること)に偏っている人がいます。
もっと象徴的に見る必要があります。
こうした「太陽」の魂、霊が、私たちの中にも宿っています。
しかし、通常の生活の中で、それを見失っている状態なのです。
いわば、いつも昼間に現実の太陽を見ていながら、自分の中にある太陽を認識できず、暗闇の中で過ごしているようなものです。
太陽は月と星とも当然関連しますが、暗闇にあっては、現実的に私たちは月や星がよく見え、明るい昼間にあっては、太陽がよく見えます。
けれども、内的には暗闇の中では「太陽」はよく光り、明るさの中では「月」や「星」を意識することがあるのです。
これも象徴的な例えであり、わかりやすく言えば、暗闇は苦悩や試練とも言え、そうした状況にあった時こそ、自分の中の内的な「太陽」が輝き出すわけです。
それから、「太陽」のカードの絵柄のもうひとつの特徴としては、二人の人物が手を取り合っていることです。
これも象徴的に考えると、いろいろな読み方(すなわち、次元別の読み方)がありますが、私が今回、特に強調したいのは、この二人は結局自分であるということであり、自分自身を受け入れること、自分自身と仲良くなるということが示唆されていると見ます。
そして、自分を自分の中でさらけ出す覚悟も必要です。
と言っても、他人に自分をさらけ出しましょうと言っているのではありません。
そうできれば楽かもしれませんが、なかなか普通は難しいものです。
ここで発想の転換を図り、あくまで自分の中の世界で、自分に嘘をついたり、自分を隠したりしないように持っていきましょうと述べているのです。
スピリチュアルな話でいうと、おそらく、私たちは、死ぬと肉体という鎧や覆いがなくなりますので、隠し事が、現実次元で生きていた時よりも、できなくなるはずです。
心が素になると言いますか、嘘や隠し事が効かない次元に移ると推測されます。(これは「正義」のカードとも関係します)
となりますと、もちろん他人との関係についても考えることができますが、その前に自分自身との関係で見ますと、自分に嘘をついてきたこと、自分を騙してきたことについては、死ぬと露わになるわけです。
言い換えれば、真実の自分(本当の気持ちの自分)と、偽りの自分(肉体・現実次元で体裁をつくってきた自分)が対決すると言えます。
これは相当大変なことになると想像できます。自分がふたつに分かれて争うような感じでしょう。
まあ、それでも、真実の自分はまさに「真実」を知っていますので、どうして偽りの自分にならざるをえなかったのかも理解していることだとは思います。ただ、それを受け入れ、整理・融合していく時間は、偽りの人生が多ければ多いほど、しばらくかかるかもしれません。
ですから、前もって、今生きている現実の次元において、あらかじめ、二人の自分の融和を図っておくとよいわけです。
少なくとも、本当の気持ちの自分と、まやかしをしなくてはならなかった自分との対話を、自己の中で試みておくことだと思います。
そうする中で、「仕方なかったんだ」ということもあるかもれませんし、やはり、「嘘をついていたこと・隠していたことは悪かった」となるかもしれませんし、それは対話次第です。
タロットリーディングにおいても、「太陽」のカードが出る時、他人とのコミュニケーションや繋がりが意識されることもありますが、もうひとつ、自分の中の二人との対話・融和がテーマとして起こっていると読む場合があります。
誤解なきように言っておきますが、何も真実の自分を必ず表現しなくてはならないということではありません。
この現実次元では、様々なしがらみ、状況が予想され、ありのまま・素のままで押し通せるほど、純粋無垢なものではないからです。
だからこそ、偽りとも言える自分が生み出されます。
ただそれでも、真の自分と偽り・仮の自分とが、まったく対話することなく、偽りの自分が真の自分を無視仕切っている状態になっていれば、その人は「太陽」を隠すことになり、葛藤が深くなります。
従って、自分の中の「太陽」を隠している状態の人には、それを意識させられるように事件・試練が起こるのです。
あなたの中の「太陽」は、いつも輝き、燃えており、あなたにパワーを送り続けています。その「太陽」にいつか気づくことがあることを祈っています。
セカンドオピニオンを持つ。
かかりつけ医や、普段信頼している医者でも、人間である限り、診察の目の波もあると思います。
ただ、優秀な医者は、その波も自己の研鑽や経験、知識、さらには機器などによって、波の振幅を、結果的にごく小さいものにしているでしょうから、診察自体にブレが少なくなると考えられます。
それでも、様々なタイミング・状況によっては、見誤ることもあるでしょう。
だからこそ、セカンドオピニオンとかサードオピニオンが必要だと言われるところがあります。
私自身、あまり体が強いほうではないので、医者に診てもらったり、病院に行ったりすることも普通の人よりかはあるのですが、何度か、最初の医師の診断が誤っていた、ある大事なことを見逃していたという経験はあります。
そして、ほかの病院や医者に診てもらうことで、本当の原因や病気がわかったということもあったわけです。
病院・医者ですら、こういうことがあるのですから、ましてや、スピリチュアルなセッションとかヒーリングとか、占いなどの分野では、それを行う人の、ブレの幅は結構あるのではないかと想像できます。
もちろんそうならないように、波の幅を少なくするよう、各人が努力され、プロとして鍛錬されているのもわかります。しかし、やはりこれも人間の行うことですから、波はあるでしょう。
そして、その波は、ただ単に上下の振幅だけではなく、波自体のレベル(振幅の中心線の高低)、さらには質も変わってくることがあります。
こういうことから見ても、あるヒーラーや相談者が、自分の問題の解決や浄化に合う人もいれば、合わない人もいるのは当然で、しかも一度合ったからと言って、波の状態の変化によっては、今日は今一と感じられる事態になることもありうるわけです。
ですから、相談においても、一回や一人の人に頼り切るのではなく、違和感を覚えたり、納得できないことがあったりしたのなら、セカンドオピニオン、サードオピニオンとして、別の人や別の技術を持つ人に見てもらうことも考え、柔軟な姿勢を持つとよいでしょう。
ただし、よく占い依存の人にはありがちですが、自分の欲求や願望が求める答えを出してくれる人が現れるまで、何人もの占い師に同じことを見てもらおうとする人がいますが、それはまずいです。
よく考えてみてください。
自分の求める答えを言ってくれる人が現れるまで彷徨うということは、もうすでに答えが出ているのと同じなのです。
つまり、あなたが望むことは、その自分が思う答えが実現すること、あるいはそのことについて、保証を述べてくれたり、後押しをしてくれたりすることなのです。
しかし、現実的には(願望を叶えるのは)難しいから悩んでいるということですよね。それも人として、よくわかります。
しかし、自分も、そして多くの人が難しいと思う望みが、叶うことを保証してくれる人は、逆に怪しいものです。
だから、ここで自分の望みを改めて自覚し、その望みを叶えてくれることの保証を求めるのではなく、どうすれば望みに近づけるか? あるいは、その望みを持つことは自分にとってどんな意味があり、本当に実現することが自分のためになるのか?ということをテーマとして、見てもらうとよいでしょう。
例えば、好きな人がいるけれど、その人の気持ちは自分に向いているのだろうか? その人と結婚できない(不倫のような)関係だけれど、何とかならないか? というようなことを聞くのではなく、どうすればその人と交際することができるのか?とか、なぜ自分は結婚できない人と深い関係を持ち、そしてこのような関係性が自分にとってどんな意味があり、どうすれば心穏やかに過ごせることがでるのか(自分にとっては本当の幸せとは何か)?というようなことをテーマとするわけです。
言わば、相手は自分のことを好きか嫌いかとか、あの人とつきあえるのか、つきあえないのかとか、別れたほうがいいのか、このままがいいのか、とかいうよな二者択一的な問いの答えを求めるのではないということです。
結局、本当は自分が望む答え(言ってほしい答え)はあるのに、それがOK、絶対として出ないものだから、それがいいと言ってくれる人を求めて彷徨うというようになっているのです。
望む答えが難しいとわかっているのなら、少しずつでもその難しさを解決しようと考えたり、なぜ難しいのか、すでに自分でもわかっていることをさらけ出したりして、その苦しみについて、相談するとよいのです。
逆に言えば、ただ(一般的に)正しい答えを出したり、どちらかがいいかだけを示したりするのではなく、その苦しみや葛藤をわかってあげるのも、相談者を受ける側の態度と言えます。
話がセカンドオピニオンのことからずれてきましたが、安易にセカンドオピニオンを求める前に、クライアント側自身にもできることはあるのだということです。
その上で、第二・第三の方にも見てもらうと、皆さんに共通して言ってもらえたり、指摘されたりする部分があります。おそらく本質的には、誰に見てもらっても(プロ的な人ならば)、答えはほぼ同じでしょう。
その本質を理解することが大切ですが、その現実的な表現と選択は、またアドバイスする者たちによってバラエティある(異なっている)ものになります。それが個性というものです。
セカンドオピニオンを求めることは、本質が何かを自分が理解することに役立ちますが、その本質をどう表現するかは、アドバイザーによっては異なることが多いのですから、結局、現実的な部分は自分(クライアント)が選び、行動するということが重要になってくるのです。
波動について。
スピリチュアルな世界では、波動という概念がよく取り上げられます。
私自身はあまりしませんが、タロットをするの人の間でも話題にする言葉のひとつですね。
「周波数」という人もいれば、何か「氣」のようなものとたとえる人もいますが、現代の科学的な定義の同じ言葉とは、また違うニュアンスでスピリチュアル系統の人が言っていることは、何となくわかるでしょう。
まあ、普通の人や、厳密な観点で言えば、「波動」というのも、うさんくさい表現(笑)、科学を無視しているかのような表現、迷信みたいなものということになるのですが、ここはちょっとしたファンタジー気分で思っていただいて、あえて波動について見ていくことにましょう。
波動の定義は、スピリチュアルの世界でもまちまちだと感じますので、結局、先述したようなファンタジーとして見るしかないのですが(苦笑)、いわゆる「気分の良し悪し」みたいな感覚で見ると、なんとなくスピリチュアルの人がいう波動の世界観もわかってきます。
気分が悪くて、その結果、状態も悪くなってきているというのが悪い波動(低次の波動)で、よい気持ちになって、明るく、ワクワクした感じになると、状態も自然によい方向になるのがよい波動(高次の波動)、という考えが代表的です。
これも、常識的に見れば当たり前で、極端なことを言えば、体か心を痛めて病気になっていたら、当然仕事にも私生活にも影響が出て、順調には行かなくなりますので、自分の現実の状態も悪くなります。
そもそも気分が悪いと余裕もなくなり、「よい状況にある」なんて言えないのが当たり前です。
反対に、気分が最高によいのなら、何でもポジティブにとらえられ、いつもなら気になること、腹の立つことがあっても、「いいよ、いいよ」みたいに流すこともできるでしょう。
両思いの楽しい恋をしていたら、世の中はバラ色に見えるでしょうし、好きな人にふられたり、いじめを受けたりしていたら、死にたいと思うほど、暗い世として映るでしょう。
結局のところ、体の状況にしても、環境にしても、自分の心のあり方・状態が、自分の内と外を見る状態にリンクしてくるということで、それが機械ではない感情を持つ人間だからだと言えそうです。
ということは、あえてレベルの低い見方と言いますか、シンプルな見方をすれば、スピリチュアル系の人のいう「波動」とは、感情の浮き沈みに近いものということになります。
ただ、個人としての感情の浮き沈みだけではなく、全体レベル(普遍的・俯瞰的レベル)の浮き沈みもあると考えますと、いわゆる波動のレベル・次元という考えも出てきます。
例えば、Aさんの感情の浮き沈みレベル(波の振幅の中心点、その位置)は、Bさんのそれより、かなり上であるとするならば、Aさんの波動(波)の下(振幅の最低点)は、Bさんの波動振幅の最高点ということもありえるわけです。
これはAさんの落ち込みが、Bさんのグッドフィーリング・チョーいい気持ちと感じるものと、同じレベルであるという面白いことになります。(あくまで数値的に見た場合ですが)
ということは、波動の中心ポイントがかなり高度になっている人は、もはや、常人からは、神のような状態に見えるということでしょう。(笑)
マルセイユタロットでいえば、「手品師」レベルと「世界」レベルの違いのようなものです。
しかし、一方で、あまりに上に行きすぎると、下の波動とは接することがないという事態になってしまいます。
見える世界と見えない世界という区別をするとすれば、私たちに見えるレベルの波動があり、見えない波動レベルまで行くと、現実離れしてしまうことになります。
そこで階段のように、上り下りする波動転換が必要となるのがわかるのですが、その詳しいことはまた別の時にお話します。
話を波動と感情の関係ということに戻しますと、要は、自分の感情(気持ち)をアップさせていくこと、感情の浮き沈みの幅を少なくしていくことが重要になってくるわけで、しかもアップさせたものを持続させていく(波の荒さを少なくし、波の幅の中心点を上に持っていく)ことも大切になります。
しかし、実際には、問題や葛藤を抱えている時、何か悩み事がある時というのは、現実的な状況にも困っているわけですから、気分がよいわけはありません。つまり、感情が大きく揺らいだり、波(波動)が下のほうに向かっていたりするわけです。
これを無理矢理上げようとしても、土台、無理な話です。とても悲しい時に、心から楽しく笑えというようなものです。(笑)
ですが、スピリチュアルな世界では、気持ち・波動が現実を決めるというのですから、これまた酷でキツイお話です。
しかし、スピリチュアル世界でのお話に、あえて準拠するのなら、外側の環境を変えるより、気持ち・波動を変えるほうが先ということになります。
ただ、同じ状況で悶々とし、じっと考えて続けていても、埒があきません。「私の気分、よくなれ!」と祈ったところで、またすぐに抱えている問題によって、気分が落ち込みます。
そこで、現実的に考えられる、気分の切り替え方法を探ります。
要は、ネックとなっている問題が気分を悪くしているのですから、結局、その問題に真剣に取り組むことが、結果的に気分も変えていくことにつながります。
問題から逃げたり、放置したり、何か宝くじでも当たるかのような奇跡的なことを願ったりしていても、不安や心配、葛藤は続くものです。気分も変わりません。そして、ますます、その気分に応じた状態を、スピ系の方の言う、「引き寄せる」と表現する事態になります。
従って、とにかく何か問題解決に向けた行動を起こすことが、気持ちの変換、気分の転換には効果的です。
調べられることがあれば調べてみる、探せる方法があるのなら試してみる、相談できる場所があるなら行ってみる、苦しい状態を家族や友人・知り合いに伝えてみる、すっきりさせるために勇気をもって告白してみる、休息が必要なら休んでみる、お金が必要なら働いてみる・・・当たり前で、一歩、行動に移せることは、意外に多くあるものです。
気分の固定は、タロットの四大元素で言えば、「水」の中の「土」と関係し、それらはを解放したり、変化させたりするのには、ほかの元素の「風」や「火」が必要となります。これらが固まった感情に変化を起こします。
そうして、不安や心配で固まっていた状態から、何らかの変化を経て、波動の変化・転換が起きます。劇的な変化ではなくても、少なくとも、以前より変わっているのは確かです。
私たちは、スピリチュアルなことをいつも最重視して生きられるわけでもありませんし、感情を無視した機械のような肉体だけの塊でもありません。
たとえ波動の変化が現実を決めるとしても、実際への働きかけ(行動)が、気持ちやエネルギーに変化にもたらせます。
瞑想して気分を変えるよりも、瞑想できる状態・環境づくりへ、まずは作業することが求められる場合もあるのです。
波動変化・上昇は、時にスピリチュアルな方法よりも、現実世界の常識的なことにある(の方が効果的なことがある)のも、何とも皮肉な話なのですが、だからこそ、本当にスピリチュアル(奥底にspiritが息づいていること)に気づくこともできるのです。