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春分の日を例にして
先日、春分の日を迎え、多くの方が、ここに意識を集中していたように思います。
SNSからの情報の広がりなどの影響もあって、この日を宇宙元年という呼称にしている方も見られ、変化や新しさを強調している雰囲気が伝わってきました。スピ的な世界では、次元上昇やアセンションが行われる日という人もいるようです。
確かに春分の日を境に、新たな意識と行動でリフレッシュしたり、リセットしたりしていくのも、大きな流れと個人の動きをリンクさせ、調和させていくことでも、その一助となるのではないかと推測されます。
ただ一方で、こういった太陽と地球の関係性における、ある種のポイントを見るというのは、実は当たり前のことであり、そもそも暦はそうしてできているものです。
しかし現代では、占星術的ともいえる起点と終点、あるいはその流れ・循環というものがあまり意識されず、現在の起点ポイント・1/1を基に、どちらかといえば、季節や自然の流れにそぐわない暦になっていることで、多くの人がどこか違和感を覚えたり、心と体と時期・季節の巡りに、ギクシャクとしたものを感じたりしている状態と言えます。
ですから、機械的な時期の動きではなく、再び、古代では当たり前に意識されていた性質的な時の流れを感じていくのを取り戻す意味では、春分の日を起点として見ていくのもよいかと感じます。
一方で、それは本当に自分にとってそういうことになるのか? 果たして春分の日はどういうものなのか?など、探求したり、自身で内と外の動きを精査したりすることも求められます。
人がそういうから、そういう時期だから、そういうエネルギーが流れるようになるから・・・とか、情報として仕入れるのはよいにしても、そのまま鵜呑みにして、ほかの人へも、何も考えずに流し伝播させていくというのは、危険なところもあるのです。
これでは、迷信の広がり、災害時のデマの流れとあまり変わらないからです。
宇宙には大きな流れ・循環があるものと想像されます。
それらの究極的な流れ(もともとは動きも何もないひとつのものと考えられます)から、各レベル・次元・世界によって、同じような型・パターンが踏襲されつつも、表現を変えて顕現していきます。
そのうちのレベルのひとつが地球から見た太陽周期であり、その関係性において4のつ重要なポイント(春分・夏至・秋分・冬至)が生まれます。
それは二次元的には、円と直線(交わり・交点)で表されるもので、三次元的には球とその交点で示されます。
これが私たちに機械的に影響するという見方もあるでしょうが、大切なのは、こういった関係性(形・比)が象徴や型・モデルであり、次元と世界が異なれば、別の表現として、とらえられてくるということです。
例えば、4つのポイントは、地球と太陽の関係性の重要なポイントですが、先述したように、図形的には水平と垂直性という直線のうえに、太陽が回転している軌道(天動説的に見ます)との交点、つまり円との交接によって生まれるポイントなわけであり、地球が私たち自身、あるいは常識的な思考性ということであるならば、太陽は自分との関係性の相手だったり、自分の中の高次の自分という「他人や別の自分」として示すことができます。
ということは、自分と他人、あるいは自分自身との関係性において交わるポイントであると見ることができ、その意味で、変化や新規、回帰・リセット、上昇・下降、別離や出会いという実際の現象として現れてくる(こともある)と考えられます。
もちろん象徴的な四季としての流れ、つまり春・夏・秋・冬の循環とも関係し、それらも季節ではそうですが、別の表現・レベルでは違う現れ方をしますし、同時に、本質的には同じ性質を持っているということになります。
マルセイユタロットでは「太陽」というカードがありますが、ほかのカードとの関連性を見れば、こうした季節や時期の流れが、壮大な宇宙周期とも合致しながら、個別にも働いていることがわかります。
そして、それは単純に同期しているのではなく、私たち個人個人の意識と大いなるものはつながっているとはいえ、そのレベルの違いによって、個人としてはまったく違ったように感じられたり、現れたりするということも理解しておく必要があるのです。
要するに、簡単にいえば、「皆が言うからそうなんだ」ではなく、自分にとってはどうなのか?という視点が、実は全体の本質につながる視点にもなるのだという、一見矛盾していますが、そういう考え方も入れるとよいですよ、ということなのです。
信じることは統合の意味でも大切なことではありますが、まずは分離して考えることも重要なのです。鵜呑みにすることと、本当の意味で信じられるかの違いは、精査や検証、実感など「過程を経ているかどうか」(たとえ自分の直感を入れるにしても)によります。
知性ということでそれらを考察していくのもよいですし、感性を深め、自らの感覚と、その奧に流れている全体性のもの、これらを「感じる・観る」というのでもよいでしょう。
いずれにせよ、情報はあくまでまだ情報の段階であり、それはあなた自身では精査されていない(落とし込まれていない)ことなのです。
気持ちのいい言葉に踊らされたり、高揚してしまったりするのには、注意も必要です。
自然の流れとして当たり前にそうなる(傾向)というのがあるわけですし、また、一人一人個性をもっている存在ですから、皆が皆、同じようになる(ならなければならないという)わけでもないのです。
春分の日のあたり、別に何もなかった、感じなかったという人があってもそれはそれでいいですし、人に言われたからとか、雰囲気に流されたからではなく、確かに何か自分は感じた、新しい感じになった、そうのように考察することができたというものならば、それはそれでもいいわけです。
これは春分の日だけに限らないことです。
冷静に観てください。一年のうち、どれほど多くの「変化の日」や、「ここから何か始まる」とか、「これで○○は終わり」とか、多くの人が述べているかを。
すべては記念日、すべては特別な日みたいになっている状態です。(笑)
自分の中に、自分は特別でありたい、自分は進んでいたい、自分は何か目に見えない力で成功したい、自分は取り残されたくない・・・このような思いはないですか?
結局、多くの人が、ある時期のポイントを特別視する背景には、自分の劣等感や優越感のようなものがあり、ことさら心理的な問題が、ある日を特別視しているのです。
言い換えれば、ある「日」「ポイント」を利用して、自分を特別視したい、癒したい、承認されたい、愛されたいという思いの投影になっています。
もちろん、これがすべてではなく、時期的(時間的)なポイントに特別なものがあるのは、場所(空間的)にそのようなところがあるのと同じで、心理的な影響のものではなく、むしろ逆で、そのような特別な時空だからこそ、心理・感情に関係してくるのだということもできます。
ここで言っているのは、春分の日などを無視せよというのではなく、洗脳や迷信に流されるような、退行ともとれる状態にならないよう、自身の知性と崇高な感覚を働かせる見方をしていきましょうと述べているのです。
私たちの故郷はどこか。
落ち着く音楽を聴いたり、ほっとするような映像作品や絵画を見たりすると、心が温かく、穏やかな気分に満たされる時があると思います。
そのほとんどは、私たちにある、生まれてから今に至る何らかの記憶と、それに付随する感情が、その際に再生されていると見ることができ、そう言ってしまえば、脳内ホルモンの分泌(記憶の再生ととも促されるリラックスへの指令等)などと関連して、身も蓋もないことになってしまいます。
しかしながら、一方で、個人的には、そういった記憶の再生機能とは違って、私たちの中に別の意味での記憶が蘇ってくるからではないかという思いもあります。
これはマルセイユタロットにおいての、例えば、「太陽」とか」「星」、あるいは「世界」のような、数のうえでも上位にあるもので、絵柄的にも明るかったり、融和(友愛)的だったりするカードを見ていて感じることでもあるのです。
それは一言でいえば、我々人類の、「ユートピアの記憶」とでも表現すべきものです。
この世の中は世知辛く、自分がたとえ幸せだとしても、世界規模で見渡せば、貧困や深刻な病気で苦しむ人々、戦争や争いで文字通り、戦々恐々と日々を暮らしている人、また日本においても、物質的には困ることのない環境かもしれませんが、学校や職場においても、多くの人は精神的には決して毎日が楽しいわけではなく、中にはひどく追いつめられたり、厳しく、つらい状況で過ごしたりしている人もいます。
スピリチュアルな人の中には、それは自分が創造しているから、自分が不幸や苦しいと思っているから世界もそう見えてくるのだという人もいます。
ただ、根源的にはそういうことも言えるかもしれませんが、冷静に見れば、全員とは言わないまでも、あまりにもこの世界は矛盾や苦しみで満ちているのも事実でしょう。
まあ、それは“事実”ではなく、自分の思い込み・認識力の低さ、つまりは幻想であると、スピリチュアル的には言えてしまうところもあるので、こういった話は堂々巡りにもなりがちです。
ですので、今はそれは置いておきたいと思います。
話を戻しますと、私たちの中には、平和的状態を思い出す何らかの記憶があり、それはもしかすると、一概に生育史から生まれたものではなく、別次元や、別の時代の記憶であるかもしれないということです。
ロマンチックな話でメルヘンのような設定ですが(笑)、実はこのことはとても重要だと思っています。
マルセイユタロットの教えには、私たちの中には高次の認識、あるいは神性・完全性を保持しているという考えがあります。
私たちがなぜ、平和的・友愛的なものにほっとし、時には涙を流すかのような懐かしさ・郷愁を覚えることがあるのか?と言えば、それは、そういう状態の実現性(状態の存在)を知っているからにほかならないのではないでしょぅか。
宇宙人的な話が好きな人は、私たちの今の状態から見れば、より高度でユートピア的な星系にいた魂の記憶と言ってもいいかもしれません。
私自身は、タロッティストなので、タロットによる象徴的な考えが好きで、宇宙人的なことも、あくまで象徴的に見るようにしていますが、要するに表現の違いであり、象徴的にはユートピア世界のように表せる次元があるということです。
それをある人は、なになにの星という人もいれば、太古の平和的地球とか、理想郷としてのシャンバラとか地底世界とか、桃源郷のように言う人もいるということだと思います。
また修行系では、悟り世界の住人たち、(死者の世界という意味ではなく)彼岸の世界ということなのかもしれません。
こういった記憶と遭遇するには、具体的なものよりも抽象的、あるいは言葉とか文字ではなく、絵(色彩含む)・図形・音・波動などのシンボル・象徴が必要なのです。
だからこそ、人は音楽・映像・絵画など、芸術とその作品によって、ユートピアである元郷を想起することができるのだと思います。
プラトン的にいえば「イデア」への観照であり、イデアであるからこそ現実とは別の世界にあるのです。
しかしそれは夢物語や、単にあこがれるだけのものではなく、私たちの高次の記憶に確かに存在するもので、私たちの囚われている現実的な時間と空間という概念を超えれば、そこにまさしく現出してくるものと想定できます。
つまり、本当の私たちが住む世界はそこにあり、それは故郷・ふるさとと言えるところなのです。
そして、今は何らかの原因で、次元を下降した状態で、現実という苦しみと矛盾の世界に生きており、本当の故郷を思い出せるもの、懐かしめるものに出会うと、魂が反応してしまうのだと想像できます。
通常では現実逃避の発想だと一笑に付されるでしょうが、マルセイユタロットの絵柄を見ていると、私はそう感じるのです。
あなたと相手は合っている。
マルセイユタロットには、ペアやカップルの概念で組み合わせられるカード(同士)があります。
講座においても、まずはその基本形からお伝えしていますが、これは知識や認識が深まれば、自ずと多くのペアを生じさせることができるようになります。
言わば、小アルカナも含めて、すべてのカードはペアを形成すると述べてもいいかもしれません。
ただ、ペアは確かに多く組み合わせることができるのですが、それをグルーピングしたり、大別・抽象化していくと、結局、大本はひとつの組合せとなることがわかります。
と言っても、ある特定のカード同士が大本というわけでありません。それはあくまで「象徴」においてとらえられる、カード全体を貫く二元のテーマ(一元を意識するための)、二種のエネルギー・状態というニュアンスになるでしょう。
その、原理と言ってもよいものに到達するため、わざわざカップル・ペアとしての組合せ学ぶと言い換えてもよいです。
ところで、現実的な意味で、カップル・ペアといえば、ますば夫婦とか恋人同士という組合せを想像します。
さらには、二人の組合せということまで広げると、人間関係における二人(の関係性・役割)となります。
例えば、マルセイユタロットでは、「女帝」と「皇帝」という組合せ、「斎王」と「法皇」という組合せが、割とわかりやすいペアとして表されています。
それらの意味(カップルの意味)は講座などで詳しくお伝えするとしても、ここでは、とにかくも、二人の組合せ、人間関係において注目すると、面白いことがわかると指摘しておきます。
カップル・ペアは大きな概念まで拡大すれば、男女だけではなく、同性・友人同士でも成り立ちますし、年齢差はあっても、親子的、上下的組合せの意味ではペアと言えます。
私たち一人一人は独立しているように見えて、その実、すべては関係性によって、自分・他人というものが決められていきます。(自分という認識は、相手との関係性による)
そして、関係性であるならば、人の関係性においての最小単位は、二人組となりますから、ペアやカップルでの関係性が、自分(や他人)を規定することにもなります。
そして、二人において、とぢらかが能動的であれば、どちらかは受動的になり、どちらかが攻撃的・指導的であれば、どちらかが受容的・保護的となってきます。
たとえ同じような性格、似たもの同士の結束や組合せではあっても、それでいて、細かく見れば、相反するものを持ち合わせ、二人の世界と関係性においては、別々の表現をその時々でするのです。
ある組合せにおいては、一方がプランを提示し、もう一方が行動に移すということが多いにしても、状況によっては入れ替わることもあるわけです。
男女ペアであっても、男性が必ずしも、社会でいうところの男らしい人物ではなく、また女性も女性らしいふるまいをすることは少ないかもしれません。しかし、この二人(の世界)においてはバランスが取られており、心地よく感じたり、物事がスムースに進んだりするでしょう。
魂的な見地に立てば、ソウルグループのような大きな目的を共有したり、霊的・精神的に近しいものを持つ間柄で引き合ったりすることは、ままあることですが、そのグループの間においても、関係性、特に二人ともなってきますと、具体的な表現が違ってくるようにもなります。
つまり、大きな目的の成就のためには、役割分担することにもなるということです。(抽象的には同じで、具体的には違う)
例えば、精神的なものを求めるグループや関係にあっても、その中で自分は物質や現実を重んじたり、仲立ちをしたりする立場になることもあるのです。
ネガティブな意味で関係性を見ると、暴力をふるう側とふるわれる側、支配する側とされる側のような関係性があります。
しかし、これも「関係性」という、そぎ落とした括り・枠組で見ますと、両方の役割があってこその組合せ(状態)です。
従って、される側に甘んじていれば、いつまで経ってもそれは変わらない(バランス・安定性の意味で)ことになります。
変化を起こすには、されるという精神、受動、被る、被害、与えられるという意識ではなく、能動、する、行う、与えるという自立した意識を構築することが求められます。
「ドラえもん」で言えば、のび太くんはジャイアンとの関係性において、する側・される側になっていますが、ここにドラえもんの道具や示唆によって、自立性を(ドラえもんという反則技のような(笑)、与えられた仮の自立性ですが)持てば、ジャイアンとの関係性を変えることが、可能になります。
当時者同士の関係性ではしばらく固定していても、自分がほかの部分で能動的になれば、トレーニングの末、能動性・自立性を思い出し、する・されるという関係性のループから脱出する(関係性の変化として)きっかけを得ることもできます。
まあ、ドラえもんの場合は、渋々道具を出しつつも、本当はそんなものがなくても自立できるのび太くんまで、トレーニングしたいという思いがありそうですね。(機械なので、そういうプログラミングがあるのかもしれません。それをしたのはセワシくんかもしれませんが・・・(笑))
自分と相手がどのような力学と関係性で安定(この「安定」は、いい意味と悪い意味、両方含みます)を図っているのか、また固定を保持しようとしているのかを見れば、おのおのの役割を冷静に見ることができ、相手の特性・自分の特性を活かして、よいペア・カップル性を築くこともできれば、反対に、悪い関係性においては、逃れたり、変えたりすることもできるのです。
よくよく見れば、例えば恋人同士・夫婦同士の仲がよくても悪くても、自分にふさわしいペアとして、自分の表現が相手にも叶っているように(相反しつつもはまっているように)、相手を選んでいることがわかります。
タロットリーディングと言葉
タロットリーディングを行うには、カードの意味を覚えなければならないと思っているかもしれません。
確かに、カードの意味を知らなければ、形や形式としてのリーディングは難しいと言えるでしょう。
しかし、必ずしも、カードの意味を覚えなくてもリーディングは可能なのです。
逆に言えば、リーディングには様々なものがあり、意味としての言葉に頼るものと、そうでない種類があると表現できます。
また、対外的(対人的)に、人に対してリーディングを行う場合は、伝達・コミュニケーションが必要ですから、言語、あるいは文字は重要となります。
一方、自分に対してリーディングする場合、こちらは自分との対話のようになりますから、コミュニケーションの方法として明確な言葉でなくてもよく、感覚・フィーリング・直感・気づきのような、抽象的な方法で成立します。
これは、マルセイユタロットのカードで言えば、5の「法皇」(外に伝達する)、2の「斎王」(自分に受け入れる)という違い、表現として示されます。
「斎王」と「法皇」は女性と男性という姿で描かれていますので、やはり性の違いでの特質はあるものと考えられ、表現方法の得意・不得意は、性別において存在する可能性はあります。
ただし、どちらの性においても、両質の要素は内在していると見ると、性別で区別できるものでもありません。
いずれにしても、今のところ、この世の中が、言葉としてのコミュニケーションで意思の疎通を図っている状態ですから、対人タロットリーディングをしたいという方は、言葉としての意味、そして、カードと展開から示されることを、言語として表すという訓練は必要となるでしょう。特に、プロとしてやっていくことを考えている人は、そこは無視できないものになります。
それでも、注意すべきは、テキストに書いてあるようなカードの意味を、ただ丸暗記するような方法は、一番まずいということです。
カードは象徴ですから、ひとつの意味に決まってくるものではありません。絵柄が表す本質というもの、そこから言葉とか意味が出てくるのです。
その本質は「形」としての言葉、つまり言い方を換えれば「具体」ではなく、大まかには決まっているけれども、細かくは決まっていない、元型として「何か」なのです。
だからこそ、言語・文字ではない、絵柄・図像としての別の「形」で表現されているのです。(音・波動などが、ひとつの言葉にできなのと同じです)
絵柄から意味や言葉を出し、再度カードの絵柄を確認する過程そのものが、宇宙(神)と人の理(ことわり)、天上と地上の反映と循環を示します。これこそがもっとも大切なものです。
※言葉として具体化すればするほど人間(地上・常識)的になって、神性や高次の本質から離れていきますから、そこも注意すべきことです。
カードの本質を探究しようとせず、ただ意味を丸暗記するというのは、別にタロットでなくてもよいわけで、しかもそれはリーディングやタロットを活用しているとは言い難い行為と言えます。暗記をする前に、なぜその意味になるのか、よく考え、感じてみましょう。
一方で、実は言葉や文字にすることが悪いわけではありません。
先述したように、他人に伝えるということでは、どうしても必要となるものですし、それ以外でも、例えば自己リーディングにおいても、言葉を発する、文字にしてみる、文章にしてみるという行為は、効果的なこともあるのです。
言葉や文字にするということは、具体化する作業でもあります。
カードで何かを感じてはいても、もやもやしたり、ふわふわしたりして、はっきり何が必要で、どうすればよいのかということがまだわからないこと(段階)があります。
そういう時は、文字にしたり、文章にしてみたりすると明確になります。言葉にできないことが、自分のひっかかりやブロックということもあります。
対人リーディングにおいても、言葉として発しにくい、どう伝えていいのかわかりづらいというパターンが多い人は、まず文章にしてみるなどの訓練をするとよいことがあります。
心の中、感覚としてはカードを読めているのに、相手にうまく伝えられないという場合は、言語化する過程がまだ未熟である、慣れていないということがあります。ですから、会話の前に、文章で書くという作業でトレーニングしておくわけです。
こういうタイプの人は、メールリーディングなどをやっていくのもありでしょう。またリーディング数をこなして場慣れする、話すことに慣れるという手もあります。
リーディングは、自分のコミュニケーションスキルや得手不得手の表現方法とも関係してきますので、自分に合った伝達・表現方法も選択するとよいでしょう。(反対に、足りないスキルを鍛えることを選択する方法もあります)
例えば、会話においても、すべてこちら(タロットリーダー)が話すのではなく、カウンセリング的に相手に語ってもらうテクニックもありますし、ポイントさえ押さえていれば、むしろ、言葉は少ないリーディングのほうが、心や魂的には響くことがあります。
話し下手だからと言って、リーディングができないわけではありません。
タロットと自分との会話によって、言葉でなくてもコミュニケーションが自分の中で成立していれば、それは(自己)リーディングと言えるのです。
ふたつの間での選択の迷いにあること。
私たちは、毎日、選択しているとよく言われます。
それは現実と思う感覚の中では、まったくその通りで、仕事の決断から、食べるもの、着るも
に至るまで、ささいなことを選び、行動する日々です。
そういう中でも、どうしても迷いに迷って、すぐに選べないというケースが出てきます。
それが二者択一、究極の選択という、ふたつのものの間にはさまれ、迷う事態です。
これはマルセイユタロットでは、「恋人」カードが、もっともその状態を象徴していると言えます。
ただ、だいたいにおいて、ふたつの間の迷いというものは、感情と思考の狭間によるものがほとんどで、さらに言ってしまえば、どちらが自分にとってよいと感じるか(思うか)どうかというだけに過ぎません。
結局、自分の感じ方・思い方の迷いなのです。
ところが、だからこそ迷ってしまう、という妙なことにもなっています。
それは、私たちが自分も含め、他人の皆が、一人一人違う感情や思考パターンを持ち、それをもって見る世界で生きているからで、いわば、多くの人の多様なすべて異なる価値観や影響によって、自分も世界を見ようとしているからです。
ですから、どれに基準(選択するための基準)を、今回適合させようかと、迷いに迷うわけです。(笑)
そして不思議なことに、そうは言っても、究極に迷っていくと、つまるところ、ふたつの間のどれか(どちらか)というポジジョンで迷うことに気がつきます。
このこともよく考えると、二元という分離構造こそが迷いの本質であり、その元型とでも表現すべき型が、形を変えて、ふたつのものの間での迷いとか、選びにくさとして、現実化している(個人体験として投影されている)のだとわかります。
個人個人の思う「現実」感から離れれば離れるほど、迷いはなくなってきますが(つまりふたつのものの迷いの両者の統合)、私たちは抽象の世界では存在しづらく(実感が得にくく)、肉体を持っての具体や現実感に生きていますので、どうしても、迷いからは逃れにくい状態にあります。
そして一度、二元構造の投影である「ふたつの間の迷い」というものに陥ると、それは元型の投影であるだけに、そう簡単には選ぶことのできない、文字通り、究極の選択めいた雰囲気・状態となるのです。
実際的なことでは、そのふたつの迷いは、自ら大切にしている「価値観」と、時間的・空間(場所・地位・距離・数量)的制約の中で生じており、逆に言えば、一定の時間と空間の中においては、良し悪し(よい選択・悪い選択)は出るものです。
だから、選択をはっきり決めたいという場合は、制限(時空の制限と価値観)を明確にするか、逆に、抽象化した次元や、両者の迷いのものを統合した次元まで上がる必要があります。後者のほうが、霊的には望ましいですが、実際には気づきを深めないと難しいところではあります。
一般的には(一時的には)、制約を明確にして、自分の迷いが制限(時間的・空間的)の中で効率的・効果的、あるいは自分の価値観に、より合致しているほうを選択するということになります。
例えば、時間制限では、この一年、この3ヶ月においてはどちらを取るべきか?とか、反対にもっと長期的に見て、老後まで考えるとどちらがよいか?などになりますし、空間的では、どちらが便利かとか、どちらが経済的か?どちらが速いか?(これは時間的でもありますが)みたいなことです。
そして自分の価値観に照らす場合は、どちらが心地よいかとか、どちらが自分にとって楽しいか、充実する(心が喜ぶか)か、という具合を基準にして選びます。
それでも、二者択一ですから、経済(お金)か自分の心か?みたいなことになってくることが多いものなのですが、これも「人生という長期で見るか?」「この数年で見るか?」とか、「自分の心(精神・気持ちの解放)」を優先するという「心を中心とした制限の中で見るか?」とかで決めたりすると、自ずと選択しやすくなります。
前に「吊るし」関係のところでも述べたように、どちらも選ばないこともありとか、どちらも選ぶ(迷うくらいなら両方やってみる、少々の無理でも両方取る)ことも選択肢としてあると考えるだけでも、だいぶん、ふたつの間で迷い続ける境地から解放されます。
あと、「選択するために選択する」ということもポイントです。
要するに、自分の選ぶ基準自体が選べていないので、二重の意味で選択に迷うわけです。
ふたつのうち、どちらかを選ぶという発想ではなく、その選ぶための基準・線引きを選べばよいと思うことです。
「今回は経済を優先する」「自分より相手を優先する」ことを選ぶとか、そういうことです。
そしてたとえ選択に失敗したと思っても、それはその時点でのあなたの状態・価値観による失敗感であり、自身が成長したり、霊的に統合が図られてくれば、当時の失敗など逆の成功として思い直すことができたり、どっちでも良かったと思えたり、してくるものです。
失敗感が続くというのは、ある種の古い価値観や制約の中に閉じこめられているようなものです。
いわゆる「やり直し」という概念とは違いますが、いつからでも、別の意味で選択し直すことはできるのです。
また最終的には、「選択」「迷い」ということ自体が幻想とも言えることで、選択や迷いは、霊的次元の扉を開くチャンスだと言えます。
