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統合の前の分離・解体作業
マルセイユタロットにおいては、最終的には分離していたものを統合(完成)することが示されています。
錬金術的にも、分離(解体)して、統合せよという有名な言葉がありますが、単純に、「分けて、そのまま、また一緒にする」ということではありません。そこには様々な過程、困難な作業が待っているわけです。
しかしながら、タロットに書かれていることや古代の象徴性からも、統合される前の分離という状態を指摘しているのは共通であり、逆に言えば、分離というものを私たちはきちんと認識しないと統合できないことにもなります。
言い換えれば、何と何が分かれていて、問題となっているのか、その相反したり、葛藤したりしている性質を見極めないといけないわけです。
スピリチュアルなことが好きな人の中には、いきなりの統合(一足飛びの統合)を始めようとして、すべては同じ、争いのない自分や世界を思えばそうなれる(引き寄せる)と信じ込んでいる人がいます。
考えてもみれば、これ(その境地)は実は大変なことなのです。
なぜなら、何回かこのブログでも言っていますが、私たちが現実・リアリティある世界だと思っている状態は、違いや差があってこそ成り立っているものだからです。
普通に生きている限り、常に差は意識されるのが(つまり、分離状態の体感が常にあるのが)この世界です。
何も考えず、ただ思えば叶うみたいなことでは、偶然、平和な気持ちというものが訪れるかもしれませんが、なぜそれが訪れたのかがわからず、その状態を持続したり、人に伝えたりすることは難しくなります。
とはいえ、この、無数ともいえる違いや差をいちいち分析していてはキリがありません。
そこで「象徴」なのです。
象徴とは、ひとつひとつを細かく当てはめていくものではありません。
ある性質や本質が、絵や形として表されているものであり、象徴を使うということは、無数の差を、特質によってグループ化しているようなものになります。
例えば、古代では四大元素という、物事をとらえる思想・思考法がありますが、これらによって、数多ある世の中の現象を分類することができ、自分の中にも4つのタイプと課題を見ることが可能になります。
一度、自分を4つに分離・解体することで、今まで見えなかったことが浮上してきます。
ここでは四大元素の考えが(科学的に)正しいと言っているのではありません。
そうした象徴的見方を取り入れることによって、これまでとは違った観点ができ、統合するための“意味ある”分離状態を導くことができることを述べています。
どの人においても、今のレベルにおいては、その状態で要素たちが混ざりあっていて、問題解決や成長の糸口が同次元であるため(混ざり合い、混沌としているため)、見えにくいことになるのです。
そこで一回、ある基準によって分離させ(切り離し)ます。
低次の「ある要素」は、高次の「別の要素」によって置き換えることができますので、そのバランスとエネルギー変換によって、違う次元・レベルに到達することができます。
これらのシステムは、マルセイユタロットに描かれおり、引いたカードによって、どのエネルギー要素の変換が必要かを確認することもできます。
それは実は、ある次元での統合に近く、結局、分離と統合という作業、別の言い方をすれば死と再生の作業を人は行い続けることで、成長している、生まれ変わっている(リフレッシュしている)と言えます。
このもっとも大きな作業に当たるのが、実際の死と誕生ですが、生きているうちにも、象徴的には「死と再生」を何度も繰り返しています。
ということは、どんな人にも、どこかのレベル・分野においては、必ず成長しているはずなのです。
ただそれが部分的なものに留まっていて、全体性としてではないため、総合的に大きく飛躍できていないところに問題があると言えます。
全体(マクロ)性を見る上でも、逆に要素(ミクロ)別に見ることも必要です。
少し抽象的な話になりましたが、要するに、自分の成長や進化(深化)のためには、感覚的なものだけでもだめで、分析的な力も必要だということです。
その分析的な力というのが分離や解体に当たるわけで、統合(平和や愛という言葉を使う場合もあります)しようにも、何と何が不必要で、どれとどれが必要で、どれを融合すればいいのかということがわかっていなければ難しいのです。
分離や解体を覚悟して、きちんと分析できたもの(「真の体験」や「認識」とも言い換えられるもの)からの統合ではなく、ただ愛や平和を夢見たり、叫んだりするものは、見せかけの心地よさになりがちで、実は同じレベルでの堂々巡り・逃避に陥っていることが多いものです。
分離と統合は、一言で言えば、「愛に至る試練の道」と例えてもよいです。
マルセイユタロットでは、「13(番)」と14の「節制」が、今回述べたことをもっとも象徴していると言えましょう。
束縛と自由の関係性
今日、マルセイユタロットから浮かんできたものは、人の関係性における自由と束縛というものでした。
不思議な言い方になりますが、束縛の中に自由があり、自由の中に束縛があるというメッセージです。
マルセイユタロットの大アルカナは、意識の元型や、人の成長、あらゆることの象徴を示唆していますが、そうやって改めて大アルカナを眺めてみると、単独の人物が強調されているものと、複数の人物(あるいは動物)たちが描かれているものとに大別されることに気がつきます。
これは、様々な見方ができますが、私たちは精神においても現実においても、一人の時と、ほかの人たち(存在)と関わっている時とが状況としてあることが、カードを通して描かれるように感じます。
精神(心)でそういうことがあるのか?といぶかる人もいるでしょうが、心の中での会話やイメージで、自分一人の時と、他人や別の存在がイメージされる時のふたつは、おそらく誰もが経験しているはずです。
さて、そうした中で、ほかの人や複数の人(存在)との関係性を取り上げると、これも並行関係と縦の関係とに分かれます。
並行関係というのは、同じ立場や友人のような関係であり、縦の関係とは何らかの上下関係、指導・支配・ランク・地位・経験・年齢等によって作られてくるものです。
一般的には並行関係が自由で、縦関係は不自由で束縛されているように思われがちですが、一概にそうとも言えません。
考えてもみれば、特に上下関係でもない友人やグループとの間でも、私たちは結構悩みます。
逆に、指導してくれたり、守ってくれたりする上の人がいてくれるおかげで、自由にふるまえることができる場合もあります。
そう、ここが今日のポイントです。
「自由」について考える時、それ(その自由)はまったくのフリー、無法、何も束縛のない状態であることはほぼなく、あなたの自覚・無自覚に関係なく、誰かに守られていたり、障害が除かれていたりして、何らかの設定の範囲において自由が与えられていると見ることも重要です。
あなたが自由に(だと思って)活動できているのも、親やパートナー、地域や社会、国、その他もろもろの法律・制度などのおかげかもしれないのです。
それは見ようによっては、あなたを束縛しているものでもあります。
そもそも、自分という存在も、この現実世界においては、他人によって規定されているものです。
ほかの人の存在によってはじめて、自分という存在が区別され(パーソナリティとして認識される)、成り立っていることを思うと、自分一人だけの完全自由などないのがわかります。
スピリチュアル的な言い方をすれば、完全自由とは個別の世界にはなく、全体と個、つまり自分と相手、内と外が統合され、すべては自分であり、また他人であるという、分けられない不二のような不思議な感覚にならなければ叶わないことが、論理的に想像できます。
逆に言えば、その次元、あるいはグループ、個別の世界別に、自由と同時に同程度の束縛(あるルールに縛られ、守られた自由)があるということです。束縛はまた責任と言い換えてもよいでしょう。
そして、さらに付け加えるならば、やはり自由の獲得の大きさ段階が、個人の成長にも関係していることです。
自由と思う気持ちが広がれば、それだけ大きな次元の束縛やルールが見えてきます。いわば個人の正義(何かを良い・悪いと評価する価値観)との問題にも関連します。
昨日まで、あのことが許せないと思っていたことが、何か肩の力が抜け、「別にどっちでもいい」「まったくもう気にならない」「むしろ、それ(悪い・嫌だと思っていたこと)にも良さがある」・・・というような感覚になれば、あなたの次元はひとつ上昇し、自由度が増したと言えるでしょう。
新しい次元におけるルールになじむと、逆に今まで自分のいた次元(世界)のルールが何と幼いことか、あるいは細かなものだったかに気づかされます。自分を縛り、同時に守ってくれていた「束縛」「縄」「箱」を自覚するのです。
グノーシス的な話になりますが、結局、私たちは巨大なある女神の子宮の中にいて、その子宮膜が何重にも保護シールドとして私たちに覆い被さっていると見ることができます。それが束縛や牢獄としても、時に感じるわけです。
この何重もの子宮で、その都度生まれ、再生してくるのが私たち人間です。
巨大な女神は、私たちの成長を温かく見守ってくれているのか、はたまた、我が子かわいしの過保護のママ(笑)として、自分の中から出さないのか、それを想像してみるのも面白いです。
タロットで、自分固有の意味を活用する
最初にお知らせです。9/24と10/1の2日間で行うマルセイユタロット入門コース・神戸は、まだ席がありますので、受講希望の方はご連絡ください。タロットの用意や購入が間に合わない場合、こちらで用意することも可能です。
それと、6ヶ月の期間でゆっくり、毎月一回日曜日にマルセイユタロットを本格的に学んでいく基礎講座日曜コース・新大阪も募集しております。少人数制のため、枠は残りわずかです。
では、今日の記事です。
タロットを自己活用するということでは、前にもお話したように、対人的に行うタロットリーディングと同じ方法では難しいところがあります。
それは、いわゆる自分占いや自己リーディングは、客観的に見ることができにくいというのが要因です。
ですから、タロットカードを「象徴ツール」として、リーディングや占いとは異なる展開と見方をすればよいのです。
と言っても、展開とリーディングを対人向きのものと同じにしてはならないということではありません。
最初は同じ方法で始めないと、人も自分もタロットで見ることはできません。それはリーディングの習練の過程でもあります。
ですが、先述したように、自分の問題だと、客観的に展開を読みにくいことがありますので、自己リーディングが難しいのは確かなのです。
その対処については、何度かこのブログでも語ってきたところですし、講座でもお伝えしています。
今日は、それ(今まで紹介してきたもの)とは少し異なった方法を述べてみます。
これはひとつのカード、あるいはポイントとなるカードに着目するという読みの技法です。
タロットカードには、普遍的・根源的・元型的ともいえる、言ってみれば全員に共通する読み方・意味があるのと同時に、個別的なもの、さらには時間・空間的に限定的なものも出てくるのです。
後者は、あるカードが、その個人における問いと内容において、固有的・特別な意味になっているということです。
例えば、一般的にはマルセイユタロットの「力」のカードは、まさにある種の力の発動やコントロールとして読めますが、Aさんにとっては特定の女性の「○○さん」を指したり、Bさんにとっては物事へのGOサインであったりするわけです。
少し複雑になれば、数枚のカードのコンビネーション・組合せで、ある個別(特別)的な意味が決まっている(出てくる)こともあります。
それらは、カードを使っているうちに、「個人の意味」として特化されてくるものです。
難しい表現で言えば、タロットにおける象徴性の次元が下降し、自分のリアリティある世界の象徴(むしろ記号に近いもの)として具体化したという状態です。(何のことを言っているかわかりにくいでしょうが、基礎講座を学ぶ人にはわかってきますし、この理解がいわゆるスピリチュアルと現実というものの架け橋になります)
それはともかく、簡単に言えば、「このカードが出れば、私にとってはこの意味だ、これを告げている!」というパターンが、タロットを扱っていれば(リーディングしていれば)出現してくるということです。
ですから、あることの選択や意味を問おうと、自分でタロットを展開して読もうとしても難しくなってしまった(わからなくなってしまった)場合は、その展開の中に、自分にとってなじみとも言える特定の意味を持つカードが出ているか、あるいは(出ている場合)どのように出現しているか(位置や正逆など)を見ることで、タロットの言わんとしていることを推測することができるようになります。
できれば、シャッフルしてカードを選択する際、「自分にわかりやすいカードが出るように」とお願いするとよいでしょう。
その上で、自分にとってあまりなじみのないカードや、特段個別的な意味を持たないものが出ているとなれば、その問いに対しての答えは重要性を持たない(どちらでもいいみたいなニュアンス)と見ることもできます。
自分でカードを引く(選択する)からこそ、これは意味あるものとして考えることができるのです。
この方法を使うには、結局、リーディング(練習)を何度か行っておく必要があり、いろいろなケースでカードを展開していくことで、自分特有の意味のパターンが出てくる(わかってくる)ものです。
ちなみに、私の場合は、重要な選択や局面では、「神の家」が出ることが多く、文字通り、神的な意味を持ち、divineなる神聖さを示唆します。
むしろこれが出る時は、私にとっては、意識を現実や具体性から抽象性に飛躍させないといけないということが結構あります。
まあ、これは元型的な意味と個別的な意味が共通しているようなパターンで、今日述べたこととは少し違うのですが、自分(私)にとって「神の家」が出るか否かは、重要な意味合いを持つわけです。そういうことでは、個別性の意味としてとらえることができます。
タロットを深くやっていくと、そのような個別性と全体性の統合とか、意味合いなどもカードから察せられるようになり、結局、自分固有の意味と思っていたものも全体的・元型的な意味とつながっていることを知ることになります。
それはつまり、大いなるものと自分(エゴ)との融合(浄化)過程であり、心理学的には、自分の内にある様々な個別の人格を統合していくようなものなのです。
タロットで見る9月からの流れ
9月に入り、一週間以上過ぎ、数が重なる9/9も越えた今、不思議と「何か重苦しいものが抜けた」「先月までモヤモヤとしていたものがすっきりした」という声を結構聞きます。
これはある意味当然で、まず普通に、最近の夏はあまりに暑く、何をするにも大変なエネルギーを使うということがあり、思考や行動をする以前に、体力的に疲れていたというのがあるでしょう。
まあ、秋口の今になって、その疲れが出ている方もありますが、真夏より気温は下がり、一般的には次第にクールダウンして、エネルギーも思考も、したいことに振り向けられてくることになります。
それから9月は、一年をサイクルとして見ると、始まりと見てもよいですし、終わりと見てもよいふたつが重なる時期にもなるのです。(一年を三分割か四分割すれば)
そうした切り替えのポイントであるのは確かで、占星術と自他の世界をリンクさせたい(させている)人にも、それは強く意識されるものとなっているはずです。
さて、一方で、タロットに関心のあるような人は、もろちん全員ではありませんが、いわば、いつも自分の流れを意識することが多く、そしてその「時期」は、毎度自分にとって特別な「とき」であり、変化・変革や切り替え(特にスピリチュアル的に)であると見ようとします。
従って、逆に、「変わらない」とか、「そのままである(ありのままという意味ではなくて、変化がないという意味)」というのは、避けたい・思いたくない・考えたくないという傾向にあるように見えます。
マルセイユタロットには「吊るし」とか「月」とか「隠者」とか、待つことを示唆するようなカードがあります。その価値もほかのカードと同等ですし、そもそも変化があるということは、同時に不変である部分も対比され、「変わること」は多くのエネルギーがいること、過渡期には不安定・不透明になることも承知しておいたほうがいいでしょう。
そういうことをふまえたうえで、これからのことについて、タロットで展開したものから読んでみたいと思います。個人に対してのメッセージではありませんので、抽象的なものになることはご了解ください。
●現在、すっきりした感じがしている人
(前より抜けた感じ、飛躍した感じがある人、今後活動的になっていく予感のある人)
これまでの次元から新しいところに向かいますので、気持ちは前向きに、自分の思いを早く実行に移したいと思うかもしれませんが、それだからこそ、冷静な判断と落ち着いた環境が必要です。機は熟しているのですが、それが動き出すには若干のタイムラグがあるということです。しかしながら、例えば、何かの予約をする、申込みをする、下見をする、購入予算を準備するなど、実行直前段階のことはしておいていいわけです。
一人で何でもできそうな気分にもなりますが、あなたには信頼できるパートナーやアドバイザー、コンサルタントなど、相談できる人がいたほうがよく、実際に何かを始めるに当たっては話をしておくのがよいでしょう。好きなことしたり、本来のあなたにふさわしい道に至ったりする前に、一度、障害や試練、テストのような出来事が待っているかもしれません。しかしそれが、本当に現実的な意味で、自分というオリジナリティ・個性を創り上げてくれるものとなり、夢には終わらない実現への導きとなるのです。
●現在、まだ悩みや葛藤が続いている人
(何か重たい・暗い感じ、ブロックを感じている、わからないことがあるなどの人)
まだ当面は、葛藤や悩みが続き、行き着くところまで行くところを促すでしょう。一時的に光や解決策が見えたり、楽になったりすることもありそうですが、また苦しいところ(状態)に戻ることになりそうです。けれども、そうしたステップを経て、まるで行きつ戻りつの螺旋的な運動によって実質は前進しているように、少しずつ壁は崩れ、第一の解放へと確実に近づいているのです。確信が得られないとしても、それを信じることが大切なのです。
苦しい中でも、あなたにはオアシスがあります。共感してれる仲間かもしれませんし、唯一休める場所かもしれません。すべてが塞がれているわけではなく、天使的な救い(常識や現実を超えたものの働き)は、ずっとあなたには注がれており、内なる神性を照らしているのです。あなたが妥協したり、堕落的なものに逃避しようとしたりすれば、そのエネルギーは届かず、ますます暗闇の中を彷徨うことになります。自らの神性を尊び進めば、大丈夫です。マルセイユタロットのカードで言えば、「13」から「愚者」という開放的な流れが用意されています。
なお、毎月、私のHPでは、各人の生年月日(西暦換算)に関係する「ソウルカード」という技法を元にして、その月をリーディングしたものがありますので、こちらも参照されると面白いかと思います。
自分に当てはまるとか当たっているとかというより、こういうことは、たまたま見たとか、読んだということと、それがシンクロしているように感じるということそのものに、実は大きな意味があります。
メッセージが何かの参考になれば幸いです。
対外(人)的に行うタロットリーディング
これは前にも何度か書いたことがありますが、タロットリーディングは、対外的・対人的でありながら、つまるところ、自分のため、内的な作業でもあるのです。
私の講義を受講してくれる人にも言っていることなのですが、タロットリーディングはいつまでも、自分だけの範囲でやっていては上達しないのはもちろん、大きな観点で、自分のためにもなりにくいのです。
前回の記事で記したように、リーディングだけではなく、いわゆる全体性の象徴の意味でタロットを活用する方法は、自分の範囲(だけ)で使っていても、それは自分のためになります。
しかし、ことリーディングの場合は別なのです。
その理由のまずひとつは、人の意識の元型は共通であり、個別的な(クライアントの)問題であっても、タロットで象徴化して取り組むことで、自分(タロットリーダー)の問題や内側ともつながっいることがわかり、結局のところ、自己の浄化や問題の解消にも関係してくるからです。
そして、何よりも、対人的に取り組むことで、ある意味、現実的・社会的とはいえないタロットの世界と作業が、必然的に外に開かれることになるということです。
言い換えれば、人と関わることになるので、どうしても社会(性)も意識せざるを得なくなるわけです。
具体的に挙げれば、人とのコミュニケーションや関係性、もし営業としてタロットリーディングを行う場合なら、社会の動向・集客的要素・お金や経済・エンターティメント・社会的道義や責任・法律・契約・運営等・・・いろいろと考えないといけないところが出てきます。
タロットに関心を持つような人は、なにがしか自分に変わったところがあることを自覚していることが多いです。ま、私もそうですが・・・(笑)
それは実は、マルセイユタロットの根幹に流れている思想からすると極めて重要なことなのですが、一方で、現実逃避になっていたり、社会性について軽視したりしている人もいます。
あるいはそれ(現実性や社会性の自身の問題)を自覚していて、自信がなかったり、不安や恐れを抱いていたりする人もいます。
タロットが何とかしてくれると思うのかもしれませんが、何とかする糸口は与えてくれるものの、何とかするのは、どれであっても、いつであっても、それは「自分自身」です。
人は外のモノや他人によって助けられるのではないのです。
助けられる手前までは他人がサポートできますが、どんな人も、「救われた」という思いが自分の中に生じない限り、救われていないのです。
ということは、結局、自分(の思い)が自らを救うのです。
話が少しそれましたが、タロットをする人の中には、自分の中に対外的・社会的に行動する自分に不安や恐れ、問題を抱えていらっしゃる場合があり、そのために、いつまでもタロットリーディングを自分だけの世界で完結(閉鎖)していることがあります。
営業で行うのか、ボランティア的やるのか、お金をいただくか、いただかないかにしろ、タロットリーディングは、いずれ自分のために、対外的に(他人に対して)行う必要があります。
自分の世界(問題)、他人の世界(問題)、両者を見ることによって、統合の世界に導かれます。片方だけだと、まさに片側でしかの考察になってしまうのです。
それは独りよがりになる、見方が偏るといった単純な話だけではなく、霊的な向上の意味でも、両者(自分側の視点・他人側の視点、見る者・見られる者)の境界線が非常に重要だからです。
私の伝えているマルセイユタロットリーディングでは、基本、クライアント自らタロットカードを引いてもらいます。すると、タロットリーダーは自分だけでリーディングを行う時とは異なり、逆側の視点で見ることになります。
つまり、展開としてカードの正逆を採用した場合、クライアントにとっての正立は、タロットリーダー側からは逆向きに見えることになり、反対に、クライアント側のリバースカードは、リーダー側では正立に見えます。
文字通り、逆さまの視点であり、まるで大アルカナ「吊るし」の構造をそのまま経験するのです。
この視点の交換だけでも、実は変容と統合作用をもたらせます。
ということで、タロットリーディングをしながら、タロットを使って自己成長を志したい場合は、自分だけではなく、人に対してやってみることです。
それはエアー(イメージだけ)でタロットリーディングするだけではなく、ライブ(生・リアルタイム)でも人に対して行うことも意味します。
人に対して、そしてライブでリーディングを行うことは、「タロットの解釈ができる、正しく読める」ということよりも(基本技術ができていることは前提ですが)、「相手が満足するか、癒すことができるか、新しい視点をもたらすことができるか、解放できるか」などが重要になってきます。つまり、そこに模範解答はないのです。
エアーで、自分だけでやっていると、思い込みと知識的解釈ばかりが先に立ち、正答や「リーダーが思う一番」というものを求め、そこに相手への配慮や思い、感情のない、空虚なリーディングが出来上がります。
対外的なリーディングを行うのに自信がない、不安だという人は、いきなりではなく、親しい友人から、家族から、そして教える先生や教わっている仲間たちが提供したり、作ったりしているリーディング練習会などで、人とふれあいながらやってみるのも手でしょう。
営業的にやってみたい人は、イベントなど、手軽なところからチャレンジするのもよいです。
タロットリーディングは、人のためでもありますが、自分のためにも必ずなるものなのです。