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4つの性質・ポイントで物事を見る。

マルセイユタロット(ほかの伝統的なものでもそうですが)には、4つの性質をひとつのコンセプトとして扱っています。

言ってしまえばそれは4大元素であり、特に小アルカナの4組として顕著に象徴化されていますが、実は、よく見るとそれだけはないのです。

大アルカナにも、もちろん、その四大元素を元にした動物象徴とかあるわけなのですが、そうしたはっきりと四大シンボルとして描かれているだけでなく、例えば、大アルカナグループを4つの括りで見てみることも可能なのです。

3構造と4構造が基本コンセプトとして存在していると言ったほうがいいでしょうか。

私たちの現実世界、そして私たち自身にも、4つの世界観は流れており、至る所にそれは見受けられます。

例えば、東西南北、春夏秋冬、夏至・冬至と春分・秋分、上下と左右、グラフの第1象限から第4象限、遺伝子のDNA塩基の4つなどなど・・・

それらはやはり、四大元素的に見ることもできますし、そこから離れて見ることも可能ですが、いずれにしても、4つの性質、構造、ポイントがミクロからマクロまで、この世界にはあることがわかります。

そして、マルセイユタロットで描かれていることで言えば、4つのものが統合された時、新しい次元に移行することが語られていますが、四大元素の古代象徴で言えば、それは第5元素(四大の大元)への移行ということもできます。

マルセイユタロットの構造示唆から、おそらく4(3対1)が統合されて5になって、またそれが3対1の4になって、5に統合されるという繰り返しの世界が、同構造的にどの階層にも存在しているのだと推測されます。

さてこれでは、難しいというか、何を言っているのか、わけがわからない(笑)話になりますので、もっと簡単に、この4つの性質を個人の中に見て行くことをしてみましょう。

わかりやすいものということで、季節の春夏秋冬で例えるとよいです。

まず、自分の元々持っている基本気質が、季節でいえば、春なのか、夏なのか、秋なのか、冬なのかをイメージします。

ここでの季節イメージは、一般的に、皆さんが抱くものでいいですよ。

例えば・・・

春は始まりの季節、ワクワク、フワフワする感じでちょっと活動的になる感じ、木々が芽吹き、日本では桜が咲きますね。

夏は暑く燃えていて、エネルギッシュ、真っ盛り、ピークという感じで、バカンスや衝動的な行動もありそうです。

秋は実りの季節、何かを学びたい、結果を出したいという思いもあると同時に、情緒的な気分にもなります。

冬は寒くて冷たいですが、内面には逆に温かさを感じる季節で、待つ感じや、落ち着きなどもイメージされます。

まあそのような感じで、自分を季節で例えれば、基本的にはどれかを想像します。もし難しい場合は、単純に、自分の好きな季節はどれか?でもいいですね。

自分が春だとすると、夏タイプの人、秋タイプの人、冬タイプの人がそろえばバランスが取れますし、普段の交際や交流を見て、春と夏、秋と冬とか、相手とはどういう関係性にあり、自分にとってフォローされるのか、逆にしていく方なのか、というようなことがわかります。

普通はサイクルとして見て、春夏秋冬の順方向で自然になり、逆方向は刺激や変化を与えるものと見るとよく、春と秋、夏と冬は対立しながらも相補う感じで、意外に馬が合うかもしれません。

次に、個々の出来事、事柄にこの4季節を当てはめることもできます。

「今の出来事は、季節でいうと夏なのか、秋なのか?」みたいな感じで、要するに、始まり・ピーク・収穫・準備みたいなサイクルとして見て、今は冬に当たるので、準備期間や待機期間だとしたり、今は春だから物事が始まった時だ、これから夏に向かうのだと見たりして、適切な状況判断をします。

本当はタロットカードを引けば、それがよくわかるのですが、感覚でもとらえることはできるでしょう。

そうすると、あせったり、逆にのんびりし過ぎたりすることが少なくなり、自然の流れのように、調整がうまく行きます。

月のサイクルにおいても、新月満月上弦下弦とあるように、物事の成就・変化はいきなり起こるのではなく、それなりのサイクル、ポイントとして4つがある(サイクル・プロセスとして4つを循環・経過する)のです。

あなたのやっていること、願っていることが、今は4つのうちで、どのポイントと流れ(間の過程)にあるのかを見極めると、タイミング的にもうまく行くでしょう。


ネガティブな方向、悪い状況の選択の中で。

一年の周期で言いますと、夏至から流れが変わったということができます。

全体と個別ではまた異なってくるところもある反面、人の個人的意識も全体の流れと無縁とは言えないと考えられますので、6月末頃から少しずつ、変化の出ている人も多いのではないかと感じます。

それで、タロットで見てみますと、こういう人がいらっしゃるのでは推察されます。

それは、自分が良くないと思っている習慣とか、惰性的なものとか、あるいは、かつては修正したと思っていたものが、またぞろ顔を出してきた・・・というような人です。

もっといえば、堕落・怠惰傾向にあるとか、一番ひどいものでは、自滅・破壊願望のようなものも生じている人さえいるかもしれません。

それは我慢しようとしたり、 コントロールしようとしたりしても、なかなかうまく行かず、つい、その気分に流されてしまうというところもあるでしょう。

結局、それらはあなたの中にある不純物のようなもので、純粋性やホジティブ性、生きる力・活力とは逆方向の反転したエネルギー・性質です。

ですが、それはひとつの見方では、悪いもの・ネガティブなものと思えるかもしれませんが、あなた自身の拡大や発展には、全体的・統合的観点から言えば、むしろあなたに寄与しているものだと言えます。

いろいろな考え方がありますが、ここでネガティブと思えることが再び出てきていることの理由と対策を述べてみましょう。

●自分自身のリニューアル(再生)の前の葛藤、禊ぎ現象

新しい自分に変わる前には、古い自分のエネルギー・性質をそぎ落とさなければなりません。

これはマルセイユタロットで言えば「13」に相当することです。心理状態・内部状況としては、「」で示されることもあるでしょう。

その古い性質の象徴として、もっともあなたが囚われていること、悪習慣、思考癖のように潜在しているものが、実際に現れやすくなります。不安や恐れとして抱いていることも、現実の表現・状況として出てくることもあるでしょう。

このような時は、古い性質・エネルギーから逃げていてはかえって奥底にそれが隠れ、ますます見つけにくくなって、変わる機会も遅くなります。

従って、あえて積極的に古いものに飛び込み、それによる不安や恐れ、いやな気分、ダメになっている自分を味わうとよいです。注意点は、感情的に飲まれず、どこかに客観性を失わないように実験的視点を持って臨むことです。

いわば洞穴(古いエネルギーの充満している場所)には、命綱は外に結びつけておいてから入るというような姿勢です。これをしないと、古いものに取り込まれる危険性があります。

恋愛を新しくしたい場合も、古いものに見切りをつける何らかの儀式・心理的終結行為が求められることもあります。

激情と欲に飲まれると、復活愛・復縁の名を借りたドロドロの恋愛劇に翻弄されることになります。(復縁が再生となる望ましいケースもありますので、そのケースとは別です)

●エネルギーの下降と上昇の転換点(回転と波)

これは「運命の輪」で表現されますが、人にはそれぞれの回転や波のようなエネルギー周期があります。運気の好不調やバイオリズムとして出ることもあれば、経済の巡り、感情の上下(ハイ・落ち込み)としても出てくる場合もあります。

山あれば谷ありで、ひとつの円運動や波の周期として見れば、それはひとつのものの二元の現れに過ぎず、周期ペース・スパンの違いはあれど、必ず逆方向の流れに転じます。

悪いと思う状況が、かなりひどいものだと、逆転のサイクルに入る直前(マイナスのピークに来たの)だということもできます。

ただし、回転の輪や波(の周期)が、低い位置のままだと、そこから上昇や上のピークに至ったとしても、輪や波のレベル自体は低いものですので、それほど運勢や状況が好転したと考えられない人もいます。(いつまで経っても不幸だと思う状況にいる)

ですから、波や回転に任せてグルグルしているよりも、もう一段上の回転リングや波動に移ることが必要で、それが意外にも上下ピークを経験している時にチャンスが訪れるのです。

上のピークはわかるけれども、下のピーク時がなぜチャンスなのか?と思う人もいるでしょう。

ピークというのは、輪や波の究極地点ですから、そこに別の輪や波の移行点とかぶっている場合があるのです。

下のピークが来ても、そのまま従来と同じ輪や波に入ってしまえば、また同じ状態が続きますが、ピークの瞬間に、少しずれること(揺らぎを起こすこと)で、別の輪や波に移る可能性があるのです。

いわば背後に巨大な輪の回転や波動が隠されている感じで、それが移行の鍵を握っている潜在的な歯車(歯車を動かしている歯車のようなもの)で、それに乗るには、ピークのところがチャンスなのです。

上のピークは歓喜状態なので熱狂や陶酔にあり、逆に冷静には気づきが起きにくいかもしれませんが、下のピークは迷いのピーク、ネガティブの行き着くところみたいなものなので、変容する気づきがかえって起こりやすいわけです。

その時、覚醒すれば、背後の歯車に乗ることができます。

要するに、新しいレベルに目覚めるため、新しい上の(大きな)回転や波に移行するために起こっている現象なのですから、一段上の気づきが必要なのです。

一段上の気づきとは、「こんなことしている場合じゃない」とか「同じことを繰り返している」などの言葉で表されますし、結局は見方・考え方の違い、新しい自身の世界観の獲得と言っていいでしょう。

さて、いずれにしても、試練の期間であり、それは結構つらい時かもしれません。

自分のダメなところが一気に噴出したり、ほかの人や環境がうらやましく思ったりすることもあるでしょう。

しかしマイナスと思えることが、プラスの反転エネルギーの充填にもなっており、マルセイユタロットでいえば「」のカードの象徴して、創造的方向に変換できるものです。

絶望のために絶望するのではなく、希望のために絶望することで、あなたの中にあるフォース(力)は目覚めるのです。

最悪なことにも最良の幸いの種が眠っていることを意識すれば、蘇ることは可能です。

あなたの人生には、どんな時も、まだまだ希望が残されているのです。


聖域訪問における特別感について。

スピリチュアルブームもあってか(そんなものがあるかどうかは本当は不明ですが(苦笑))、神社や聖域など、パワースポットと呼ばれるところ訪問したがる人は増えているようです。

いわゆるスピリチュアル傾向にある人は、そういうところに行くと、何か特別なことが起こることを期待している節がうかがえます。

まあ、一般レベルの話で、特別な場所なのだから、まさしく特別なことが自分に起こってほしいと思うのは人情でしょう。

しかし、ここで、特にスピリチュアルを志向する人は、改めて考えてほしいのです。

いわゆる「スピリチュアル」を志向する人の理想・思想的には、人は誰しも平等であり、究極的にはひとつであるというものがあります。

そして分離・葛藤・競争ではなく、共助・統合・平和的な方向性を持っていることでしょう。

ところが、大いなるものにふれて、「人類はひとつ」というような気持ちになろうとする聖域において、逆に自分は(神から)選ばれている、特別な使命がある、自分(だけ)には神からの意志が示された、神からの恩寵・特別な徴(しるし)を見た・・・というようになる人がいます。

やれ風が吹いた、虹が出た、オーブが写真に写った、眷属が見えた、特別な音が聞こえた、天気が晴れた、結婚式があった・・・まあ、実にいろいろなことをこじつけて、自分の身に特別なことが起きたことをアピールします。

これは、「自分」の個という存在と、神という何か大きく、場をすべて支配するような存在とが別々に意識(設定)され、その中で自分という特別な存在が、大きなものから選ばれている、意識されているという視点になっているのです。

有り体に言えば、自分と神との「分離」、自己の「特別」視と「選民」意識です。

これはさきほど述べたスピリチュアル的な思想とは正反対のものになっていることに気づくはずです。

聖域では、むしろ自己の存在を消して、宇宙や自然と一体感を味わうはずのものが、かえって「自己」を際立たせ、自らの分離感・特別感を助長してしまうシステム(仕組み)に、自分からしてしまっているのです。

いや、私自身も聖域訪問などで、そのような特別感を抱いたり、シンクロ的にこれは普通とは違うことが起こったと思ったりすることがあります。(苦笑)

そういう気持ちは先述したように、人として普通にある感情なのです。

選ばれたい、特別になりたいという気持ちです。それは人というものは「個性(一人一人の違い)」を持ち、分離している存在だから、そうなるのは当たり前なのです。

ただ、それは裏を返せば、その感情を抱いてしまうのは、現実(人間としての普通)意識にいることであり、せっかくの聖域に来ている意味とは逆になってしまうのです。

聖域訪問を、ひとつのレジャー・観光という感じで行うのであれば、同行している友人たちとともに特別感に浸ってみるのも、「人間としての楽しみ・喜び」としてはOKだと思います。

選ばれている喜び、愛されている喜びというのは、時に必要だからです。普段の生活ではなかなか選ばれている感とか、愛されている感を持つのが難しいものです。

その点、自然や神という抽象的で大きな存在を仮定し、それを実感できる場所(聖域)において、自分と対峙させた時、何か特別に感じることがあれば、大いなるものから選ばれている感、愛されている感を味わうことが可能です。

それで自分の価値を改めて自身が確認し、平和な気持ちに満たされることもあるでしょう。

ですから、聖域で、特別感・選民感を持つことも悪いわけではないのです。

けれども、さらにそこから一歩進み、結局、神とか大いなるものは自分でもある(個と全の統合・一体感)と考え、それを感じさせるための装置だと「聖域」を見ることで、分離感・特別感が次第に消えていくような心境を目指すとよいと思います。

マルセイユタロットでは、そのことを「神の家」と「星」のカードで表しています。逆に選民感とか特別感は、その前に位置する「悪魔」のカードが象徴していると言えましょう。

「15・悪魔」「16・神の家」「17・星」という数順の並びから見て、自分に対する特別感から、やがて神との一体感、神が自分の中に宿ることを実感する過程が描かれているように思います。

聖域では何も自分に起こらないのがむしろスピリチュアル的には当然と言え、すでにいるだけ、存在しているだけで、すべてが特別であり、反対に普遍でもあるのです。

ある意味、自分を素直に純粋にさせる場所と言い換えてもよいでしょう。

聖と俗、その境界線は、ひとつと多数、統合と分離の線引きであり、普段の日常では俗として多数の「違い」の中で翻弄されながら、反対に自分が取るに足らない「全体」に埋没してしまう、ちっぽけなものとして感じられます。

逆に聖域では、違いのないひとつの存在として、全体=個、いや個の境界線が消失し、大いるなる自身(全体)に戻る場所になっていると言えましょう。

この両方を交替・交流していくことで、自身の俗性と聖性のバランスを取っていく(昔は儀式化・習慣化していた)のだと考えられます。結局意識のメリハリが重要でもあるわけです。

いかに聖域で普遍を意識することができるかで、あなた(というより全員)が特別であることがわかるのです。


運・運気を強く意識する「運命の輪」

私はタロットで、遊びや特別な理由の時以外は占いはしませんが(占いを否定しているのではなく、占いツールとしてタロットを見ていないということです)、占いは現実的に見て、実は人生をよくする可能性があります。

この現実的に見て、という言い方は、普通の意味で使う「現実的」というのではなくて(それもありますが)、どちらかといえば、本人の感じるリアリティ(現実感)の世界においてという意味のほうが正しいでしょう。

占いは、過去や未来の情報を読んだり、当てたりするものですが、つまるところ、個人の運や運気を見るものでもあります。

これはマルセイユタロットのカードで言えば、「運命の輪」と関係します。

いわゆる「運」とか、「運勢」とかいうものは、私たちは普段はあまり意識していないものです。

意識するといえば、まさに「運」が極端に傾いたと感じる時です。

つまりは、「ついている」「運がいい」と思うような時か、逆に「ついていない」「運が悪い」というような時のどちらかに、「運」や「運気」を意識することが多いということです。

「運」の傾きによって「運」が意識されるとは皮肉なものですが、このことは結構重要な示唆があります。

ところで、私たちの現実の世界は、ふたつのもの、ふたつの違い、二元のもので実体を感じる世界となっています。このことはこのブログで、何度も述べて来ていますね。

要するに、違いがあるからこそ、私たちは人して、現実として生活を味わうことができる仕組みになっているのです。

さて、そこで、さきほどの「運」です。

運は傾きによって意識されることはすでに述べましたが、傾きというのはどちらかの極端であり、これも二元表現と言えます。

私たちが「運」や「運気」というものを強く意識すればするほど、それは二元のものとして、実体化してくる(現実のものとして感じやすくなる)のです。

実体としての「運」が見えてくれば、その運気を「形」のようにとらえ、よい運気・悪い運気という区分のもとでそれを読み、よい運気を選択したり、よい運気の流れに乗ったり、いい運の方向に、仕事・恋愛・経済・生活面全般を整えて行ったりすること(選んでいくこと)がやりやすくなります。

いわば、運気の二元(良し・悪し)で、自分の世界を構築し直すようなものです。

言い換えれば、自分が認めるいい・悪いという運気の目によって、自分の世界を眺めることであり、世界は自分の知る「運気」によって、色分けされて見えるようになるのです。

従って、あなたが運・運気を知れば知るほど、あなたの世界はその運気で判断できる世界に変化し、極端に言えば、あなたの世界フィールドにいる人・物事は、すべては、あなた(の判断する)運気に従うようになってきます。

これは、運気(の判断)によって自分の人生をいいように変えていくことができることと同じです。

またもし、あなたがその状態で占い師になっていたのなら、あなたのもとに相談に来るクライアントを、あなたの信じる運気と世界のもとで、的確なアドバイスをすることもできます。

あなたが運気を絶対だと信じる力が強いほど、あなたのアドバイスが効果的になります。

もっと言えば、あなたの運気の判断に沿わない人は、あなたのもとにはやって来なくもなるでしょう。

一般の人は、運の良し悪しを、何かのことで(傾きを意識する事件の発生で)意識することはあっても、その時だけのもので、のど元過ぎれば、よほど悪いことが続くなどしない限り、やがて運のことなど忘れてしまいます。(意識しないようになる)

だから、多くの人は、運気は安定せず、運は文字通り運任せみたいになります。

しかし、運気をつかみ、その活用で現実の人生をよくしようと思えば、運・運気を意識して、実体化するくらいに「形」として感じる(見る)必要があります。

これがマルセイユタロットでいえば、「運命の輪」を強化する(輪・自分の運気の世界を濃密に感じる)ことでもあります。

運・運気を知るためには、やはり占い技法・技術(の学習)が役に立ちます。

その意味において、占いの勉強、あるいは非常に強力に自分の占術を信頼している占い師の鑑定を受けることは、役に立つものと言えましょう。

とはいえ、これは諸刃の剣のようなもので、輪・自分の信じる世界を強固にして、自分の運気・人生(輪で表現されるもの)をよくすることに使える一方、逆説的ですが、その輪自体が囚われとなることもあるのです。

なぜなら、運命の実体化・現実化は、つまるところ二元の強い分離であり、霊的な意味での統合とは逆方向にあるからです。

結局は、自分の価値観や興味の方向、趣味志向性によって、運の扱いをどうするかは決まってくると言えるでしょう。

「運命の輪」で言えば、輪の回転力を上げる方向、あるいは輪の推進力を強める方向(輪の中の二匹の動物の入れ替わり)か、輪を意識せず、上の動物(スフィンクス)のように泰然とし、別のことを意識するかとなります。

どちらがいいとか悪いとかではなく、まさに自分自身の選択の問題・テーマ次第となります。


幸せはどこにあるのか?

「幸せ」というものの定義は簡単なようで難しいものです。

「幸せ」と一口に言っても、考え方により、いろいろな分け方ができるからです。

その中で、「一般的な幸せ」と、「個人的な、それぞれの幸せ」という分け方、違いがあります。

これは、特にタロットリーダーなど、人の相談をする者にとっては、押さえておきたいポイントです。

個人的な相談をする場合、相手は「個人」を相手にするわけですから、一般論とか多数の幸せというものが基準にはなりません。

その相手・クライアントの望む幸せというのが主題になってくるのです。

ところが、ここが難しいところなのですが、クライアントも、そして相談を受ける者も、どちらもやはり一般的な意味での幸せを無視することができません。それに影響されていると言ってもいいでしょう。

だから、自分個人の思う幸せと、一般多数の幸せ観がごっちゃになって、わからくなっていることもあるのです。

幸せ感と幸せ観の「感」と「観」、「個人」と「多数」の違い、誤解と理解の問題です。

それは誰しも、人としては共通の部分があるからです。

皆、感情を持ち、快や不快、苦痛を避けて快適を望むという反応は、人類という種として同じところがあるわけです。

ただし、その反応の違いにおいて、まさに個性がある(人それぞれである)のです。

ある人はこのレベルで満足や幸せを感じるのに対し、ほかの人では、もっと量や程度が大きくなっていないと幸せとは感じないということが起きます。

また実は一般的な幸せというものでも、地域や時代によって異なってくることがあります。

要するに価値観の相違であり、それが多くの人の概念と、個人の概念の違いということもあれば、時代によっても国によっても違ってくることがあるというややこしさです。

そのため、「幸せ」というものの定義はあいまいで、いつも変化するものだと考えることができます。

もっと言えば、はっきりとした幸せ(といえる定義)などないと極論できますし、また逆説的になりますが、幸せはいつでもそこにあり、思い方次第でたちまち現れてくる(感じられてくる)ものである、とも言えるのです。

ここで、もう少し踏み込んで考えてみましょう。

「幸せ」の実体と言いますか、定義はあやふやで、固定したものがないとわかってきました。

そしてそれはまた、一人一人の感じ方・思い方、言わば、心の中にあると言ってもいいものでした。

ここまでは、よく言われていることですし、すぐわかると思います。結局、大事なのは、まず幸せの感受性(幸せを感じる心の度合い)というのが見えてきます。

しかし幸せと感じるためには、幸せと思える価値の創出が必要です。単なる喜怒哀楽的感情の、喜と楽で幸せだと感じるのは、動物的・反応的・受動的なものです。

これでは快楽や喜びとなる感情状態を、待っていなくてはなりません。

もっと能動的に幸せを感じるためには、どうすればよいのでしょうか?

それがさきほど言った、幸せの価値観の(多数)創出ということになります。つまり、簡単に言えば、先に感情よりも思考で幸せを見てみるということです。

「こういうことは幸せと見ることができないだろうか」「このような幸せ観(感につながる)もあるのだと知る」などのことになるでしょう。

それは新しい体験からもたらされることもあれば、イメージや知的思考の中でも起こると考えられます。

幸せは感情的なものだから、知識と思考では無理だと思う人もいるかもしれませんが、最終的には感情であっても、その感情を動かしたり、満足させたりするのには、知識や思考によって新しい価値観を創ることができれば、その新しい価値観によって、満足と思える感情を生み出すことが可能になるのです。

例えば、ただ見た目で気持ちいい、悪いだけで判断していた美術品において、その見方の知識が増えれば、希少な絵の展覧が近くの美術館であるのを鑑賞することができれば、今まで以上の喜びを得られることでしょう。

また、もし骨董価値とか、金銭的価値の知識を知ると、それを手にしたときの喜びも得られます。

ただいずれにしても、何かの刺激によってとか、不足からの充足での幸せ感情というものは、一時的なもので、それはもともとあいまいだった幸せというものを、もっとうつろいやすいもの(どこまで行っても得ることの出来ない幸せというもの)にしてしまうおそれがあります。

となれば、最初に戻りますが、結局、幸せはいつもここにありながら、その定義は決められない、自分で生み出していない、幸せを感じる能力に至っていないということを思い出すことが重要になります。

はっきり言いまして、幸せは、「探す」という意味では実はどこにもないのです。あったと思っても、それは見せかけのもの、仮のもの、他人の(考えた、創った)幸せです。

本当の幸せは「自分が創るもの」「自分で生み出すもの」と言えましょう。

マルセイユタロットでいえば、「運命の輪」が、結構これらの示唆になります。

「幸せはどこかにあるもの」「幸せは手に入れるもの」と強く考えていては、「運命の輪」の中でグルグル回っている動物たちとなります。

大切なのは、この輪から逃れて、上にいる動物(スフィンクスの位置)になることなのです。

この動物(スフィンクス)は、「幸せはない」と知っています。

おかしな言い方になりますが、幸せは探せば探すほど、見つからないのです。それは先述したように、探すものではないからです。

幸せは自分の中に種(たね)として存在し、それを開花させる、生み出すことで見出されます。

自分の中にあるのに、グルグルとほかを探し歩いても、ただ疲れるだけか、幻想の幸せを追い求め続けることになります。

まさに「幸せの青い鳥」のたとえのようです。

奇しくも、マルセイユタロットの「運命の輪」のスフィンクスは、青い空色で表現されています。

幸せと感じられない、ひとつの原因は、あなたが同じ輪の中で探し歩いているからなのです。

この輪から脱却し、次元を変え、幸せが自分から「考え」として生み出され、そしてその「考え」を受けた感情として、幸せを味わことができます。

あなた自身が変身し、気づくことが、幸せの近道なのです。


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