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「隠者」の光

以前、自分のブログ記事で何がよく読まれているのか、調べてみたことがあります。

すると、「隠者の危機」というものがよく読まれていることがわかりました。

おそらく、「隠者」というカードの不思議な響き、謎が隠されている雰囲気、それにさらに「危機」という不穏な言葉が並んでいることで、読みたいと思わせたのかもしれません。

またタロットの「隠者」というカードは、わかるようで、実はわかりにくいカードでもあるからでしょう。

ということで、今回は「隠者」のカードついて、それも危機ではなく、「光」に焦点を当てて書いてみます。

「隠者」(マルセイユタロット)で、「光」と言いますと、隠者の持つランタン・ランプが浮かびます。

もともと「隠れる者」と書く「隠者」なので、その名の通り、世間から隔絶された場所で、一人孤独に隠れて修行しているような人ですから、光や明るさというものとは無縁に感じます。

ところが、だからこそ、「隠者」の持つランプの「光」が強調されるのです。

タロットは多重構造の象徴性を持ちます。

これは言ってみれば、入れ子構造・フラクタルな構造であるということで、一枚のカードにもほかのカードの象徴が、次元や分野を変えて入り込んでいると考えます。

こうした入れ子構造の仕組みがわからないと、タロットの本質(タロットが根源的に象徴していること)には近づけません。

ということは、「隠者」にも、例えばほかの大アルカナのカードが含まれていることになります。

そうした考えをもとにした場合、隠者のランプの光は、つまりはほかのカードの象徴性に当てられた光でもあると見ることきができます。

これは、リーディングにおいて、「隠者」のランプの先に置かれる(引かれる)カードで読むこともできます。

マルセイユタロットの大アルカナには、読み方や考え方の流派にもよりますが、私は大きく分けて三階層の次元があると見ています。

これを適用していくと、「隠者」の光にも三階層の当て方があることになり、さらに先ほど述べた他のカードたちも入れますと、少なくともかなりの数の光がある(光の見方・当て方がある)ということになります。

さて、それらをもう少しシンプルにして言い換えてみましょう。

要するに、隠者の持つ光は、その人の隠れた才能であったり、希望であったり、霊性や神性であったりするということです。

グノーシス的には「神性」「真の叡智」、スピリチュアル的には「(高次の)愛」と呼んでもいいものです。

ただ、この「光」のレベルをどこに置くか(「光」を何とするか)によって、当て方も見え方も変わってくるのです。

いずれにしても、重要なのは、あるレベルや段階に達しないと見えない光にもなっているということです。

逆に言えば、段階別に見える光が違うことにもなります。

「隠者」は、本来的には俗世間での多くの経験は終え、霊的な修行に入っている人と考えられますが、これ(このカードの象徴性)を現実的・精神的なレベルに置き換えますと(次元を下降させますと)、物質的なことや目に見える環境要素以外のことで、変化を生じさせている人の段階と言えましょう。

もっと簡単に言えば、精神世界や象徴的なものに感応し、これまでの物質中心的観点に疑問や違和感を伴ってきた状態と言えます。

こうした場合、ほとんとの人はこれまでの価値観に変化が見えてきますので、葛藤や悩み、生き方への不安・模索といったことが続いてきます。

いわば、肉体次元だけではない、精神や魂の次元での追求(満足)が始まるということです。

ただ、それは一面では不安定な状態とも言えます。これが「隠者の危機」として現れることがあるのです。

特に「月」や「恋人」カード、極めつきは「13」とセットになって出てくるようだと顕著になるでしょう。

そして、これまでとは違ったレベルの「光」を見ようとするようになります。

明らかに、今まで見ていなかった「光」の兆しが、いろいろなところで、あるいは意外なところに存在していることに気がつくようになります。

「光」には違いや段階があると言ったように、まずは通常レベルにおいての見えなかった部分に焦点が行きます。

これは例えば、ほかに好きなものがあったとか、こういう才能や特技があったとか、こんな趣味があったのかとか、こんな仕事に向いていたのかというような、現実的レベルでの隠れていたものに当てられる(気づく)「光」です。

しかし、やがて心に抑圧されていたものとか、ずっと気が付いていなかったパターンとか、思い込みとか、心理・精神レベルの気づきの光として作用していきます。

さらに、「隠者の危機」が登場していくるようになると、魂の求めに応じて、理屈や心とも違う、自分の中の尊い部分に光が当てられてくるように感じてきます。

それぞれのレベルで、それぞれの光が、自分自身(の中)と、この世界に散りばめられていることを発見します。

そう、つまりはこの「光」は、その時の自分のあり方や方向性を示す灯台であり、暁光であり、目標ともなってくるのです。

光の当てられる層の違いによって、目指すものは違ってきます。今までの光が消えて、新しい光が登場することもあります。どれであっても成長の段階を進んでいるといえましょう。

その説明を現実的レベル(言語や文章レベル)でしているのが、「法皇」でもあります。

ちなみに、「法皇」と「隠者」は絵柄的にも関連するカードであり、「法皇」を超えたところに「隠者」が存在します。

苦しい時、試練の時、うまく行かない時には、落ち込んだり、絶望したり、何も救いがない、八方塞がりのように感じられたりするかもしれません。

しかし「隠者」のカードは、そのような時にも光があること、光が当てられることを示します。
(語呂合わせみたいですが、隠者は「9」の数を持ち、八方にひとつ加わった方向性を見ることができます。つまり脱出や覚醒の道です)

ネガティブな中にもポジティブが見え、また反対に、いいことづくめのように見えて、マイナスや闇もこの光によってわかることがあります。そういうことでは、やはり隠者の持つランプの光は「智慧の光」なのです。

一度自分の中にこの「光」が灯ると、もう消えることはありません。

やがて光が大きくなり、自己にある不純なものを燃やす働きを開始します。それは時に苦しいこともありますが、純粋で統合なる道へと進み、迷いは少なくなってきます。

ところでマルセイユタロットには「卵」の象徴も多いのですが、その「卵」にこの「光」を当てることで、孵化させることもできるのです。

あなたに「隠者」の「光」が届くことを願います。


タロットを最初に習う時、そしてその後。

前にも書きましたが、あなたが誰かにタロットを習いたいと思う時、先生は次のように選ぶとよいです。

まずひとつ。

自分が望む状況が、すでに確立されたり、実現されている人を選ぶ。いわば、先生のようになりたい、活躍したいというもので、先生が自分の目標・モデルであるとするものです。

そしてもうひとつ。

その先生の思い、目指しているところが、あなたのタロットを学ぶ目的と合致している、リンクしている人を選ぶというもの。

こちらは、自分と先生が同じものを感じてる、見ているという印象で、自分がその先生のようになりたいのではなく、その先生の伝えるものに共感する、自分が響く、成長のヒントがあるというものですね。

いずれにしても、タロットに対する思いや目的が共感していないと、学んでいる最中、かなり違和感を持つことになり、効果的にタロットを満足に学習することができません。

要するに、技術や内容というより、あなの心が満足しないのです。

ただ、心と切り離し、あくまで技術や知識だけを学ぶのだというスタイルで臨む時は、どの先生についても、またどんなタロットを学んでも、割り切って自分に落とし込むことができるでしょう。

これは、いわばタロットを機能的に学ぶ方法です。

しかしながらタロットは、基本、心と切り離して考えることはできませんので、いくら機能的に学ぼうとしても、どこかで割り切れない思いも出てくるでしょう。

それでも、こうした機能的な学び方が悪いわけではありません。

特に、タロットの基本を一通り学んだあと、自分にとっての足りない部分や、もっと知りたい分野について、補強していく意味で、こうした機能別に学習することは、むしろ効率的と言えます。

そして、こうした機能的(要素別)に学ぶ場合、タロットそのものから離れる内容のものが多くなってきます。

いえ、もちろんタロットのために学ぶのですから、すべてはタロットに関係してくることになるわけですが、それでも直接「タロット講座」を受けるというようなスタイルとは異なってきます。

例えば、関連する占星術とか、カバラーとか数秘術とか、西洋に関係するものはもちろん、一般の心理学とか、仏教、神道、神話、哲学・象徴学・各思想などいろいろと個別にあります。

それらを別々に学習することで、さらなるタロットへ知識と技術が深まるわけです。

これは「タロティスト」として、タロットを基本に真理を追求したり、対人サポートしたりする人の場合です。

もちろん、タロットではなくても、自分は「これが基本」というほかの「コアなもの」があればいいわけです。

私がここで言いたいのは、実はタロットの学習方法のことではなく、なぜタロットを学習するのか、改めて自分に聞いてみてくださいという、タロットと自分のあり方についてのことなのです。

最初は確かに、タロットを学ぶ目的とか、自分とタロットとの関係など、はっきりしたものがないことが多いでしょうし、それでも構わないのです。

入り口はまさにそれぞれです。単に占いとして趣味的に学びたかったという人もいれば、友人に誘われてとか、たまたまブログを見て気になったからとか、そういうようなものが実は普通です。

問題は、一通り、学習してからです。

さて、タロットの基礎、あるいは初歩を学んだとします。

「これから、あなたは、せっかく学習したタロットをどのように活用したいと思いますか?」

と聞かれれば、あなたはどう答えますか?

どう使おうがその人の自由であり、またタロットは、伝統的なタロットであれば、ほぼあらゆるものに対応できる象徴体系(システム)を持っており、自分の使い方の希望に応じてくれます。

ここで、タロットに対するあなたの立ち位置、スタンスが求められます。

「タロットはあくまで、目的のための道具・ツールの一つです」という人は、その目的とは何ですか?

例えば、人を癒し、問題を解決したり、解消したりするサポートとして活用したいというのであれば、そのためのツールということになるでしょう。

この場合でも、多くのツールの中のひとつか、メインとして使うのかの違いで、今後のタロット学習や研鑽について、異なってくることになります。

あるいは、自分の解放や探求のために「象徴図」として使いますという方も、またそれなりの学習方法と使い方があります。

このケースでは、ほかのもの(タロット以外のもの)を学びつつ、タロットに落とし込んで理解する帰納的なものと、タロットを基本としながら、あらゆるほかのものを考察していく演繹的なものとがあり、それらを入れ替えしながら、自分自身を高め、統合的・霊的に成長の道を見ていくこともできます。

一方、タロットを経済活動に組み込み、占い師やタロットリーダー、セラピストとして独立、もしくは副業し、仕事として(社会的にも)経済的にも自立か、自立する方向に持って行きたいという人もいらっしゃるでしょう。

人を助けるためというきれいごとだけではなく、本音として、仕事にしたい、お金にしたい、あるいはタロットが好きで、それ(好きなこと)が仕事になればいいという人もおられると思います。(もちろん、人のために役に立ちたいというのも本音でしょう)

それはそれで学ぶことが、やはりあります。

特に経済活動になってきますと、集客とか宣伝とか、具体的に物質的なことにフォーカスし、その技術や方法も学習することが求められます。

プロとして料金をいただく活動をすることは、タロットの技術や知識が高い(お金をいただくことのできるレベルである)のは当たり前ですが、それだけでは、望んだ状態(経済的自立とか成功ということであれば)になるのは難しいです。

ここで誤解している人がいますが、学びとは「座学」だけではないということです。

頭や知識でわかったとしても、それは片面だけの学びにしか過ぎません。

もうひとつの、実践での学び、いや、学びは実践であると言い換えてもよいでしょう。

暗記は頑張れば誰でもできるのですが、それを筆記テストで一時的に満点取ったからと言っても、本当に使えるか、理解しているかは別の話です。

覚えたことが通じない、そもそも覚えたことの意味・真実がわからないということは、ままあることです。

そのために実践であり、現実なのです。

いつもマニュアル通りの同じ事が起こるとは限らないどころか、毎回必ず、現実(実際)ではどこか違っているはずです。

マルセイユタロットにおける大アルカナは、ある意味、すべてが学びを象徴しているカードです。

しかし「学び」であっても、「斎王」「や「隠者」のように、本を手にしたり、静かな環境で瞑想したりするだけではなく、例えば、「手品師」とか「皇帝」「戦車」など、現実的なことを示唆するカードでは、その足や乗っているものから見ても、動きがあったり、両足開いたりして、臨機応変的なスタイルがうかがえます。

関西弁で言えば、学びは実際に活かされてナンボです。(笑)

ただし、ここでも誤解があるのですが、実際に活かされるというのは、物理的なことだけではないのです。

見に見えて効果がないように感じても、精神的・霊的に働いていれば、それはまた別の意味で実際に活かされているのです。

大切なのは知識を満たすだけではなく(知識欲を満たすことだけではなく)、それをどう活用するかなのです。

知らないことを知って、「へぇー、そうなんだ、すごい!」と思うのはいいのですが、そこから次の段階が重要です。

タロットを一度習ったあなた、そのタロットと知識をどう使いますか? そもそもあなたは、これから、どいういった目標と目的のために、タロットの学びと実践を行うのですか?

もう一度ここで考えてみましょう。


「恋人」と「審判」 そのコミュニケーション

マルセイユタロットの「恋人」のカードと、「審判」のカードは同じ構造の絵柄を持ちます。

それでも、その違いには明確な線引き・数学的な比率があり(これらのカードだけではありませんが)、そのことは無造作にマルセイユタロットが作られているわけではないことを証明しています。

それはさておき、この二枚には、ある種のコミュニケーションの違いといったものが象徴されています。

そして、ほかのカードとの関連と、自分の経験とも照らし合わせてみますと、興味深いことがわかってきました。

それは、人には、人間とコミュニケーションする時と、人以外のものとコミュニケーションする機会・時間があり、その両方の意識的な気づき自己の変化・変容にも関わっているということです。

さて、私たちが人とコミュニケーションしない時というのは、どんな状況でしょうか?

何らかのことで人と関わりたくないという気持ちの時もあれば、周囲に人がいなかったり、またいじめや村八分など、会話したくてもできない状態に追い込まれていたりと、自分の意志とは関係なく生じる場合があるでしょう。

自分からコミュニケーションを拒んでいても、環境がそうさせていても、それは一言で言えば、「孤独」の状況と言えます。

このような時、誰ともコミュニケーションせず、ただ耐え続けるというのは、相当な意志の強さか忍耐力が要求されます。

普通はあまりに大変なので、そこから、人以外のものともコミュニケーションを取ろうとし始めるでしょう。

もちろん、内なる自分と言いますか、自問自答、独り言のような、自分自身と会話する場合もあるでしょうが、やはり、(心の中の)自分とだけではつらく、ほかの存在と妄想であっても会話したいと思うことになります。

人以外と言いますと、例えば、動物とか植物が考えられますし、そういった「生物」ではなく、モノとか人形とか絵画などのこともあるかもしれません。

いずれにしても、人は孤独の状態に陥った時、人以外のものとコミュニケーションするようになっていくのです。

その状況は、冷静に見れば、気がおかしくなったように見えるかもしれませんし、ほかの存在と言っても、実際にしゃべってくれるわけではありませんから、見ようによっては統合失調症みたいなものにも感じます。

しかしながら、そこに私たちの意識の変容の可能性もあるのです。

追いつめられ、孤独になり、現実の人間とのコミュニケーションができにくくなってつらい状況ではありますが、そこから、人以外のものとコミュニケーションしていくことにより、人でなくても「命」「魂」「エネルギー」のようなものが宿っていることを感じ始めることになるのです。

それまでの、「モノと人間」というように、人間とほかのものが分離したような常識的世界観から、周囲のものすべでが、何か「命あるもの」のように感じてくるわけです。

まるで世界が有機的つながっているように見え、直線から円環的にとらえ直されてくると言ってもよいでしょう。

それはまさに、異種・異質間同士のコミュニケーションから実感する、意識の変容体験なのです。

見えるそのままの形ではなく、その奧に宿る本質的なものと接する機会でもあるのです。

そんなものは妄想であり、自分の思い込みに過ぎないと言えばその通りかもしれません。

ただ、重要なのは、実際に人以外のものに命があったり、コミュニケーションできたりするということではなく、そのような環境に作り替えることのできる「自分」の力の存在なのです。

ただおそらく、スピリチュアル的には、形やモノにとらわれない(人以外との)コミュニケーションを想定することは、非常に重要な視点だと考えられます。

それは別の世界の状態があること、別の次元に気づくことにもなるからです。

たとえ人づきあいが苦手で、人とのコミュニケーションがうまく行かなくても、見えないものとのコミュニケーション、動物や生物、時にはモノとコミュニケートできるチャンスはあります。

あなたのコミュニケーションの能力や豊かさは、実はほかの存在のものとの間にあるのかもしれないのです。

芸術家とかクリエイタータイプの人は、その可能性が高いです。

また先述したように、孤独な状況こそが、通常と異なる異質なコミュニケーションに向きやすい時でもあります。

孤独は不幸とか、寂しいとかのイメージがありますが、孤独にも孤独なりの良さがあります。

何事も両面あり、多くの人とコミュニケーションできる状態にも、逆に言えば、煩わしかったり、情報が多すぎて迷ったり、人に気遣い過ぎたり、時間を取られたりするというマイナス面もあるわけです。

「恋人」カードは、主に人とのコミュニケーションを描きつつ、異質性のものも匂わさせています。

反対に「審判」は、人以外のもの(存在)とのコミュニケーションが示唆されています。

しかし「審判」にも人は描かれていますので、人とのコミュニケーションもが忘れられているわけではありません。(ただし、「審判」の人物たちが、「恋人」カードの人間たちと同じレベルの存在とは限りませんが)

そして、マルセイユタロット自体、様々なコミュニケーションのツールであり、それは全体としての機能だけではなく、一枚一枚においても、それぞれコミュニケートする対象や世界が異なる性質も併せ持ちます。

それくらい詳細に見ていくと、あなたがタロットを使って、何とコミュニケーションしたいのか、すればよいのかということが次第にわってくるのです。

コミュニケーションは、あなたのを迷わせることもありますが、統合的に見れば、どのレベルにおいても、自らの救いになりますし、拡大・成長させていく機会を与えてくれるものだと考えられます。


タロットを使う目的、グノーシス

タロット、特にマルセイユタロットには幾つかの目的によって、使い方が変わってきます。

それ(目的)は階層や次元・レベルと置き換えてもいいものです。

まず、一番楽しいのは、遊びで使うというものでしょう。

もともとタロットは一般的にはゲーム、いわば私たち日本人の思う「トランプカード」的な目的で製作販売されていたところもありますから、それはそれで、ある意味、伝統的で正しい使い方といえます。

そして、この遊びの範疇に入ってくるものの、ゲームではなく、ライトな「占い」で使うというものがあります。

「私の○○どうなる?」的な、ちょっと状況をカードで見てみたい、という雰囲気に使用するものです。これも皆さんでやってみると、楽しいですよね。

そして、「占い」でも遊びではなく、ややヘビーといいますか、真剣な悩み事の相談として「占い」を行うことでも、もちろん使えます。

だいたい、そうなってきますと、心理レベル、心理次元での投影や象徴として、カードを見ていくことになります。

占いとは別に、カウンセリングやセラピー(心身、特に心の浄化・調整・癒し)として、心の範疇をメインで扱うタロット使いがありわけです。

おそらく多くの人は、この次元でのタロットの使用を求めており、タロットを学びたいという人も、タロットを使った対人援助・相談を行うことが目的で学ぶ、という方も少なくありません。

さて、そのほかのことでタロットを使う目的はあるのか?ということになますが、細かく言えば、これ以外でもたくさんあります。

ただ、大きな括り、レベルや次元別でいえば、特にマルセイユタロットの場合は、霊的な成長、霊的レベルでの統合、グノーシスの完成のために使うというものがあります。

これは一見、心理次元のタロット使いに似ているのですが、大きく異なるのが、自己を宇宙レベルの規模で考察していくということにあります。スピリチュアルといえば、まさしくスピリチュアルでしょう。

平たく言えば、「社会と自分」というような枠組みを超えて扱うということです。

変な言い方になりますが、自分が現実や社会で生きやすくするためにタロットを使うのではなく、現実そのもの、社会そのものを根底から変える(変える必要があることを認識する)ためにタロットを使うということになります。

ところが、これまた禅問答みたいになりまずか、それが外に働きかけるのではなく、自己、内側に作用していくというものになるのです。

内側に働きかけるので、心理次元の使い方と似たような段階を通ることになるのですが、狭義の心理次元の範囲に収まらないのが、タロットを霊的に使う目的となります。

ただし、それは非常に抽象的であり、難しいところなので、具体的な方法となると、うまく言えないところもあるのです。

しかしながら、これもまたマルセイユタロットのすごいところなのですが、タロットは目的別に示唆を与えてくれるところがあり、グノーシスや霊的探求を志していても、ちゃんと導きがあり、折に触れて、その「光」「叡智」に気づかせてくれるところがあるのです。

グノーシスとは、「霊智」ともいえるもので、自分の中の「神性」を覚知(認識)することの意味です。

智慧はタロットにあるのではなく、自己にもともと存在している神的で高次な部分にあるのです。

ただそれに気づくきっかけや知識、経験、感性が必要だということになり、その有力なもの(ツール・書物)がマルセイユタロットだということです。

具体的に「こうだ」とは文字で書かれてはいませんが、イメージ的な話でいえば、タロットの精霊が導いていくれる、教えてくれるというようなものです。

イメージの世界の最高度のところには、イデアという世界があります。これは哲学者プラトンが言及した理想・完全なる世界です。

イデアに到達するためには、普通の思考では難しく、イメージや感覚、同時に知識も必要です。特に図形と幾何学は重要です。

グノーシスは、この世界が偽の神で作られているという反宇宙論、世界を否定的に見ることから始まりますから、まともに考察していると、とても苦しい状況になります。

今言われているスピリチュアルな話では、そのほとんどが、この世界は愛で調和に満ちた世界である、神(大いなるもの)の恩恵でできているという前提でいます。

それを感じられないのは、ひとえは私たちの認識不足、偏り、不調和、束縛にあると考えます。

愛に気づき、自己を解放していけば、幸せな世界になり、経済的にも精神的にも満たされるという話にもなります。

しかしながら、グノーシスは、それに気づけば気づくほど、この世界が嘘偽り、欺瞞でできているということになってきますので、やればやるほど自分が苦しくなり、まともにグノーシス的世界観を信じるのは、バカらしいということになってきます。

同じ「愛」や「神性」の気づきでも、この「神性」という前提の「神」が、まことか嘘かで、まったく話が違ってくるのです。

最初に「嘘」という前提に立つグノーシスは、現実的には、いわば救いようのない話と見えるわけです。

従って、現代ではまじめにグノーシスを考える人も、おそらくほとんどいないと思われます。まさに矛盾したおとぎ話です。

この大矛盾の思想が、なぜかつて隆盛を極め、一度下火になるも、中世ヨーロッパでは、再びカタリ派として、南仏を中心に、カトリックと違う異端の教えが広まったのかと考えてきますと、なかなか頭では理解しがたいことだと思います。

ところが、私はマルセイユタロットを通してカタリ派を見てきますと、その出家階層ともいえる人たちの純粋さの思いに至ってきました。

本当に、善き人でありたい、この世界が善き世界でありたい(善き世界にしたい)、そういう純粋な思いが込められているのです。カタリとは清浄や浄化を意味する言葉でもあります。

実はとても現実(世界)を見ているからこそ、グノーシスやカタリ派の人たちは、それを信仰していたと考えられます。

冷徹な目で見ると、当時の社会は、支配・不均衡・不調和で、現実は汚く、腐敗しているように見えたのでしょう。それはもしかすると、当時も今も変わりないのかもしれません。

そして、本当のグノーシスとは信仰ではなく、目の前の現実を見据えた知的探求と純粋思考・純粋感性にあると感じます。

信じる時点で、それはもう堕落を意味します。

話は変わりますが、2011年に放映され、大きな話題となった「魔法少女まどか☆マギカ」というアニメがあります。

ネタバレになるので、詳しくは言いませんが、このアニメでは、「魔法少女」になるため、ある存在と契約した女の子たちが、生死に関わる大きな矛盾に陥るようになります。

幸せになるため、愛のため、または時には自己(エゴ)の満足のため、魔法少女という特別な力を得た代わりに、とてつもない矛盾に抱えることになるわけです。

善だと信じた世界が悪に変わり、その究極の輪廻・ループ・牢獄とも思える中で、いかに解放にもっていくのか、これが描かれていきます。

私はこのアニメを見ていて、はっきりとグノーシスを感じました。先述したように、グノーシスをまともに探求していくと、絶望とも思える世界の矛盾に苛まされます。

自己の神性に救済はあるというのがグノーシスですが、なかなか現実的・精神的には大変なことにもなります。

しかし、このようなアニメの世界においても、グノーシスの光があったのです。アニメーションは、イメージの世界だからこそ、イデアに接することができるのだと感じます。

グノーシス神話には、悪や偽の世界においても、私たちの魂を救済するための援助者、神性の光が散りばめられていると言われています。(反対に閉じこめる存在も多数)

苦しい時にあっても、グノーシスを探求する者は、それ(神性の光)を見ることができます。

心理的には自分の作った価値観と世界観の中で、自己を悲劇のヒロインや主人公にして、わざと苦しい世界に自分を設定して、そこで頑張ることで「自己の価値」を偽りのシステムの中で見出している(作っている)、という話もあり、苦労する人、縛りを作りたがる人の心理的理由にもなっています。

グノーシス思想を取り入れる人も、それだと指摘できるかもしれません。

要する、ブロックのひとつ、自己妄想、自己信念、自分の創造するストーリーの一つであると。

バカだと言えばバカであり、もっと楽に気軽に考える世界を選択してもよいのです。

ただ、私のような者は、「愚者」となって、グノーシスの道を歩みたいという思いがあり、それは深く魂の叫びのようなものがあるのだということです。

自分だけがよい世界では、まさに自分一代限りのことです。グノーシスは時間(の概念・感覚)がないともいえ、同時にまた一方では、長大な時間周期を考慮に入れます。

マルセイユタロットの「愚者」には、そのようなシンボル・象徴が描かれています。

そして初めに戻りますが、タロットはこのような、バカげた思想(笑)の探求に使うこともできますし、ライトな占いや、心理的調整道具として使うことも、もちろんできるわけです。

どの次元を扱うかは、その人の選択次第です。

なお、個人(対人)リーディングにおいては、私は主に心理次元を採用しています。

このように、次元の階段を登り降りしながら、タロットは扱うことができるのです。


タロットカードの意味のとらえ方

タロットカードは、見た目や表面的なことから推測される意味と、絵柄の象徴的ことから考察できる意味、さらには、潜在的・反面的な意味など、様々な階層に分かれています。

まずは、誰でも少し説明されればすぐにわかる意味をとらえておく(覚えておく)ことは必要で、それが基礎と言えましょう。

しかし、ずっとタロットを使い、学んできますと、さきほど述べたような、色々な別の意味(階層)がわかってくるものです。

それらは、「言葉」「単語」としてだけ聞かされると、全くのバラパラなもの、つながりがないようなものに思えます。

ところが、やはり「象徴」的には、ある根源から派生していることがわかってくるのてす。

その「つながり」の糸を自分の中にたぐり寄せることができた時、タロットカードの「意識」のようなものを感じることができるでしょう。

その段階では、もうカードの言葉や意味を覚えることは必要なく、むしろ覚えるほうが弊害となります。

タロットリーディングにおいても、もっと語彙力があればとか、もっとカードから意味を言葉として汲み取ることができればと思うことはしばしばあるでしょうが、だからと言って、カードの意味を、本や誰かから教えてもらって暗記しても、一時的・初期的には必要ですが、それはカードの本質を理解することとは別になります。

覚えたカードの意味をただ当てはめるだけのリーディングは、いわば暗記すれば誰にでもできることであり、場合によっては一日とかでも可能です。

さらに、これに典型的なスプレッド(展開法)の意味も強制的に覚えれば、あっという間に形式的には、タロット占い、タロットリーディングはできているように思えるでしょう。

なぜなら、典型的に多く使われているスプレッドは、それだけ自動的に意味や物語になるように構成されているからです。

しかしそれはまさに形だけのもので、中身は浅く、ないに等しいものです。

質問に答えられるからと言っても、暗記でそのまま述べたものと、深い理解にあるので単純には答えられず、やっと自分なりの回答を出したものとでは、スピードは一見前者にありますが、答えの深さ・重たさ・質の高さでは、後者のほうがはるかにあります。

ここで「」のカードで例示してみましょう。

このカードはマルセイユタロットに限らず、ほかのタロットでも存在していることの多いカードです。

「力」という名前や、ライオンを女性が押さえているような絵柄から、表面的に読むと、パワー、力の強さ、さらに心情的には勇気とか決心とか、全体的に強気のような姿勢をイメージでき、「(力)強さ」ということがキーワードのように思えてきます。

確かに、そう読むこともあります。

しかし、ここで「強さ」とか「パワー」とかで意味を固定して暗記すると、もうこれしかこのカードの意味はないように見てしまうようになります。

カードの意味の暗記は、あくまでカードの本質を理解するための入り口、導入でしかありません。

ましてや、その段階で他人にプロ的にカードリーディングをする(できる)など、あり得ないことは普通はわかると思います。(まあ、これも人の自由ですので、その人の思い次第ですが)

「力」のカードをさらに見ていくと、マルセイユタロットの場合だと、ライオンが力ずくで押さえつけられているわけではないのに気づきます。

フランス語では「力」が「フォルス」と表記され、英語でも「フォース」であって、「パワー」ではないことが、言葉としても見えてきます。

「そんなもん、力強さの意味では一緒でしょ?」と思うのか、「いや、まてよ、何か違いがあるのか?」と見るのか、ここがまた分かれ目です。

さらに、よく見ると、ライオンと女性の大きさの比率が異常なことがわかります。

描かれているのは子ライオンではなく、大人のライオンです。

成獣の雄ライオンを猫やペットの犬のように扱っているその女性の大きさ、力とはいかに?と見ていくと、この不思議さに思いが行くはずです。

「いや、単に力強さを誇張して描いているのでしょ? それが「象徴」というものでしょ?」

と思う人は、本当の意味でタロットのセンス(タロットに関わるセンス)が疑われます。

もし誇張して描いているのなら、なぜ女性なのか、同じ「か弱きもの」というのなら、子どもの男の子で描いてもよく、むしろそのほうが本人の力強さが強調されるかもしれません。

ここに「女性である必要がある」と、意図を想像することが求められます。

このようにして、「力」を考察していくと、最初に見た「力強さ」というものよりも、まったく反対の「脱力」のようなものも意味として出てくるように感じられます。

言葉だけ見れば、「力強さ」と「脱力」は矛盾しているように見え、もしクライアントにこのカードが出て、「あなたは力をもっと入れて頑張ってください」「でも、力は抜いたほうがいいんですよね」と言うと、相手はわけがわからなくなるでしょう。どっちなんだと。(笑)

言ってしまえば、「脱力した力強さ」「力(フォース)を出すたのめの力(パワー)抜き」というようなことなのですが、言葉・意味の丸暗記では、このような矛盾を統合することができません。

タロットはこうした、表面的・物質的側面(見たままの世界)と、裏面的・精神的・潜在的(見えない世界)の分離(整理)と統合を進めて、成長・発展・進化していくプロセスの指針・ツールなのです。

感性と知性、その両方はフルに動員されなければ、なかなかカードの本当の理解に達しません。

そして、実はカードを理解するのが目的ではなく、カードに描かれている本質・エネルギー、コアなるものが、人にも世界にも宇宙にも流れていることを識るためにあります。

カードはゲートであり、通信装置であり、モデル図としての教科書みたいなものです。

ですからカードーリーダーがえらいわけでもなく、カードが読めるからといって、それ自体は別に大したことでもないのです。

私たち自身にある神性・貴き輝きがすばらしいのであり、それに気がつかせるのがマルセイユタロットと言えましょう。


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