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「13」に思う「再生」

今日、浮かんで来ましたのは「再生」というテーマであり、マルセイユタロットのカードとしては、「13」の姿がイメージされました。

「13」の場合は、いろいろな解釈はあるでしょうが、絵柄には骨と皮の人物が描かれ、見ようによっては、大変苦しく厳しそうに感じますので、むしろ「再生中」というように、その過程や、まっただ中の状況と言えるかもしれません。

再生後であるならば、「審判」のほうが意味的には合うでしょう。それでも、あえて「13」で再生をテーマとして見てみたいと思います。

さて、ここで、もし「再生」というものがなく、ただ死滅してしまう、終わってしまうだけだと考えてみてください。

それでは、まさに地獄と言いますか、闇の中のループが永遠に続くみたいになります。

しかし、その状況も、やがて抜けることができる、新しい自分に生まれ変わるのだという、変化・変容を信じることができれば、つらくとも希望が出て、推進力や耐える力が生まれます。「13」では杖のようにも見える大鎌でも、それを感じさせます。

私たちの生きる現実は、うれしいことや楽しいこともある反面、大変厳しく、つらいことも多い世界です。

その量は同じかどうかは、見方や人によるかもしれません。

けれども、世界全体を見回せば、戦争や貧困、災害等、その他様々な問題のあることがわかり、むしろ人生が楽しく幸福と思っている人よりも、つらく苦しい人生にある人のほうが多いのではないかと思えることもあります。

ここで世界が変わらず、たとえ変わっても、さほどのものではないとしたら、やはり絶望せざるを得ない人も出るでしょう。

けれども、よくよく考えれば、この世界は不変のことはほとんどありません。

生々流転、始まったものは終わりを必ず迎えます。人も生まれると、やがて年を取り、死を迎えます。

誰一人、まったく同じ状態が人生で続く人はおらず、当然自分だけの世界ではありませんから、他人や社会、国、世界全体も常に動き、変化しているものとすれば、現実とは変化する世界であると言い換えることもできます。

変わらないのは、まさに「変わらない」と思うその気持ち、思考であり、言い換えれば、心の中では「変わらずの状態」にすることは可能です。

ですから、心の世界では不変はあり得るのかもしれません。ただ、これも、あくまで自分の思いだけであり、他人の思いや考えが変わることを止めることはできません。

話を「再生」に戻します。

再生するためには、一度、何らかの変化のプロセスを通過しないといけません。

「再生」であるならば、文字通り、再び生きること、再び生き返ることであり、ということは、一度その前に「停滞」から「死」「終わり」を迎えなければならないわけです。

「再生」が、単なる変化ではないことが、これでわかるでしょう。

とはいえ、「再生」も変化の一種であり、言わば、死から生に推移するほどの、極端で大きな変化が「再生」なのです。

そこで、先述した「現実とは変化する世界」という話とリンクしてきます。

幸いにも、この現実世界は変化がノーマルなので、至るところに変化の機会・場所は存在しているわけです。年を取っていくだけでも、変化していく状態です。

この中でも、さきほど言及した、極端で大きな変化となると、それが「再生」の過程に近くなります。

変化することが常の世界ならば、つらく苦しい状態でも、再生の希望はあるということになります。

再生が見えないのは地獄だと述べましたが、それはこの世界における自分を勝手に絶望させているだけだからかもしれません。

この世界は変化するのですから、自分を変化させていくことを受け入れれば、大変な状況においても、「再生」という光を見い出せるのです。

あきらめて、自ら肉体的に死を選んでしまえば、せっかくのこの世界の変化性の特典を利用せずに終わることになります。

ただし、いい・悪いは別にして、自分で死を選ぶという自由さえもあるのが、またこの世界です。その結果がどうなるかはわかりませんが。

しかし、再生は単なる変化ではありませんので、精神的には「死」というものを受け入れる覚悟がいります。それは象徴的に、古い自分を殺す、今までの自分が死ぬことになるものです。

これがある大きな現実の「問題」として、外から起こる場合もあれば、自分の中から起こる場合もあります。

いずれにしても、「死ぬかと思った」というような事件が、再生に向かわせます。

これはいわゆる肉体的な「死亡」「絶命」のことを言っているのではなく、象徴的・精神的「死」のことを指しています。

普通は、なかなか精神的に「死ぬかと思った」というようなことはないでしょう。そんな経験はあえてしなくてもよいはずです。

しかし、どうしても、本当の意味で「再生」したいのなら、死ぬかと思うくらいの経験、あるいは、まさに真剣になる、ギリギリ感覚の体験が必要です。

だからといって、車や電車に飛び込むようなことをしろと言っているのでは、もちろんありません。

またわざわざ、仕事で自分を追い込み、生死をかけるほどの体験をしろと言うのでもありません。

ただ、再生は死や終わりというものとのセットであるので、何かが終わることの覚悟・受容、終わらせる積極的決意を持つことなのです。

そして人生の苦しい体験・事件・問題においては、絶望せず、自己の再生を希望とし、これが魂の研磨であり、余計なものは、それによりそぎ落とされ、純粋な自分(神性なる部分・貴い部分・魂次元で求めるもの)が立ち上がり蘇ってくるという意識で臨むことです。

順風満帆を求めるのは変化の世界では矛盾していることです。しかし、無闇(まさに知性が闇に閉ざされている状態)に苦労し、つらさを味わいすぎることもありません。

私たちはこの世界で、「再生」を経験し、もっと純度の高い自分になるよう、旅をしていると言えます。

もちろん個人の目的・人生は人それぞれです。そこにも変化と選択の自由があります。

なお、ひとつの再生が完了すると、それは前の自分ではなくなり、まさしく生まれ変わって、次元を移行させています。

SF的に言えば、同じような人・環境・世界のように見えて、その本質は皆変わっています(次元移行している)ので、あなたが見てきた人とは別人であり、違うフィールドなのです。

いわば、多重に存在するいくつもの地球のひとつから、また別のどれかの地球に移行したという感じです。

ですから、急に人の対応がよくなったり、場所がキラキラと輝いて見えたり、ほかの場所に行きたくなったり、ほかの人とつきあいたくなったりするのです。

再生ではなく退行の場合でも、次元でいえば下降がありますので、それも逆の意味で違う世界に行くことになります。

「運命の輪」のようにクルクル回っていては、再生しているようでそうではなく、それは「死」を迎えていないのです。

心の世界は不変が可能ですから、終わらせていないもの、死しんでいないものは、ずっと同じ次元で拘束し続けることになります。

これが思い出や過去に囚われることの意味にもなっています。

ですから、死(終わり・完結)の意識が「時間」を進ませ、無限地獄のような闇からの解放を促すのです。

あの世(目に見えない世界)ではなく、変化が常にあるこの世、現世、現実でこそ、解放のチャンスは多いのだ気づくことが重要です。


タロットから、「見る」ことを考える。

これは学習した内容や流派にもよりますが、マルセイユタロットのリーディングでは、カードに描かれている人物の視線を重視します。

ほかのタロット種でもできないことはないでしょうが、マルセイユ版における人物の視線は、なかなかに鋭く、どこを向いているのか、一目瞭然のところがあります。

人が誰かや何かに関心のある時、そちらの方向に向くのは自然なことです。カードの人物を人間のように見れば、自分や人の考えている内容・興味ごとが、カードで象徴されるという見方になってきます。

ここで改めて、見ること、視点というものについて考えてみたいと思います。

私たちは、全部を見ている、全部を見ることができるように思っていても、実はほんの一部、ひとつの方向性しか見ていないのがわかります。

当たり前ですが、人の目はふたつあり、しかしカメレオンのように、別々に動かして見ることはできません。ふたつでひとつであり、結局のところ、視点の定点はひとつと言えます。

しかも、前方向か、頭(首)を動かした方向にしか見ることができず、後方、その他視野外の部分は、いつも見逃していることになります。

単純に言って、後側は鏡や機械でもない限り、自力では見えないのです。

もちろん他の人が見ていてくれれば、見えないところもわかります。

しかし、自分一人だけの場合、果たして、後側など見えないところは、本当に自分が想像しているような世界(あると思っている世界)であるのか、証明することは難しいものです。

もしかすると、前方の、見ている世界しか存在していないかもしれず、後はイメージの世界として、別世界(あなたの想像の世界)の可能性もあるのです。それどころか、何もない、まだ現実として固まっていない状態かもしれません。(笑)

こう考えると、私たちは視線を向けた瞬間に、あるいは見たその瞬間(そのわずかの直前)に、一人一人世界を創造しているとも言え、今自分の見ている側が現実(になった世界)で、見ることのできない側がイメージや空想、まだ未顕現の裏の世界かもしれません。

しかし、どちら(現実かイメージか)にしても、創造されていることには変わりありません。

つまり、見ることは創造につながるということです。逆にい言えば、見ないと創造されません。

これはマルセイユタロット的には、「女帝」と「世界」の関連の考察とあいまって、私たちの認識というシステムにおいて、極めて重要な示唆を与えるものだと思います。

ここでは、「見る」というものが、実際に目で見ることだけではなく、心の目のようなもので見る(観る)ということまで考慮すると、創造の源泉が、プラトンの言うイデアというものに近いことがわかってきます。

この話はちょっとややこしいので、このあたりでやめまますが、言いたいことは、見る・観るという意識が創造性において大切だということです。

さて、「視点」で言えば、いわば自分視点と他人視点という二つにわけることができます。

自分視点は、先述したように限界があり、自分では見ることのできない方向を見ようとすれば、他人の視点か機械を利用しないとなりません。

しかし、他人とて人間ですから、これも限界があります。そう、一人一人では常に視点や視野に限界があるのです。見えないところ、わからないところがあるということです。

しかし、ほかの人と協力すれば、全方位を見ることもできます。皆で鏡役になるということですね。

これがマルセイユタロットでいえば、「節制」(の目)とも関係して来ます。「節制」には互助的な救済の意味があり、協力的な多数の視点のことも考えられるからです。

私たちの視線は、一人一人では限界があり、見方も偏りがちですが、他者と協力しあえば、多くのことを見ることができ、知ることもできます。

カメラとモニターを使えば、確かに一人でも様々な方向を見ることはできますが、一人ですべてをチェックするのは大変なことです。

一人でできないこと、難しいこと、わからないことは協力する、助けてもらう、教え合う、そういうことが視点の問題から見ても、まさに「見えて」くるのです。

ただし、マルセイユタロット(カモワン版)の「悪魔」にも、たくさんの目がついているように、人の視線は気に過ぎると自分を縛ることになり、また監視社会のように、あまりに見られすぎるのも、牢獄のような状態となって息苦しいことになります。

ところで他者の視点を取り入れるだけではなく、自分単独でも、視点を変えることの重要性は、マルセイユタロットの「吊るし」の逆さま姿勢に描写されているところです。

いつもの決まった席や立ち位置を、何気なく変えてみる(見る)だけで、あなたの世界は、意外にも大きく変わるものです。


リーディングサービス企画5月分と無料メールリーディング募集

少々遅れましたが、先月より始めましたリーディングサービス企画5月分の募集をさせていただきたいと思います。

この企画は、マルセイユタロットのリーディングを、通常価格より大幅に割引して、その体験を味わってもらうためのものです。たとえ料金が安くても、心を込めてリーディングさせていただきます。

とうぞ、マルセイユタロットのリーディングに興味のある方、また、何か問題を抱えていて、タロットによって、よい方向に導きたい方、自分の混乱を整理したい方など、ご応募いただければ幸いです。

応募要領は下記の通りです。

それに加えまして、先日募集しました、リーディングコース用の、受講生のためのリーディング課題(無料メールリーディング)についても、一件だけですが、追加募集したいと思います。

こちらについても、下記をお読みいただけばと思います。

◆タロットリーディングサービス企画 5月◆

●募集人数
1名様 応募者複数の場合、タロットによる抽選を行います。

●時間と料金
1件のみ 最大45分 料金は3千円  
ただし、直接面談の場合は、一時間くらいかかってもOKです。

●リーディング方法
スカイプもしくは、直接対面の形式、選択制。
(スカイプは音声のみ、ご希望の方は映像も可)

神戸市内までお越しになれる方は、直接の対面式も可です。ただし、双方のカフェ代が必要となります。

対象者が決定したのち、あらかじめ、ご相談内容をメールでおうかがいし、こちらでタロット展開したものを画像資料としてお送りし、当日スカイプか対面でリーディングいたします。

●注意事項
リーディング日程は、双方で調整のうえ決定いたしますが、スケジュールが混んでいる時は、ご希望のお日にちをお取りすることができないケースもあります。また応募された翌月にリーディングとなることもありますので、その点はご了解ください。

リーディングはスカイプの場合、夜間は不可です。またなるべく平日でお願いします。直接対面式は土日祝日でもOKです。

●応募方法と締め切り
こちらからメールにてお願いいたします。
「リーディングサービス企画 5月分」とご明記ください。締め切りは5/13日(金)までです。決定のご連絡は、16日以降になります。

ご応募は、どなたでもOKです。タロット講座の受講生・修了生の方でも可ですが、発展コースやリーデイングコースを受講された方はご遠慮ください。

■リーディングコース用、無料メールリーディング募集■

タロット講座・リーディングコース用に、受講生のトレーニングのため、リーディングの質問(タロットに聞きたいこと、見てもらいたいこと)を募集します。結果は、メールリーディング形式でご返信いたします。

リーディングは受講生が行いますが、宮岡も監修いたします。

●募集枠
1名様1件のみ。無料です。

●締め切り
5/12(木)まで。
応募者多数の場合、今回はタロットによる抽選制となります。

●応募ついて
名前は本名でなくても構いません。(ハンドル名、ペンネームなどでも可)
応募の際は、まだご質問の内容を書いていただかなくてもよく、こちらから決定のお知らせの後、メールにてお書きください。リーディングの結果は、講座終了後の5月末頃にお送りする予定です。

こちらのページから、「リーディングコース用メールリーディング応募」の旨、お書きのうえ、お申込みください。


「思い」と「行動」の関係について

マルセイユタロットでは、特に「女帝」と「皇帝」で象徴されていますが、「思い」と「行動」ということについて、書いてみたいと思います。

「思い」と「行動」は、人間にとって、それが一致することは、実は一般に考えられているより、少ないのではないかと思います。

これが本能で生きる動物となると、ふたつは矛盾することなく、思い即行動、行動=思いの表現・動作ということになるでしょう。

しかし人間の場合、なまじ思考・想像という力をもっているために、なかなか行動に結びつかなかったり、思いと裏腹な行動を取ってしまったりします。

「行動」は、現実・実際においてわかるもの(見えるもの)ですが、逆に「思い」は見えないものです。

この点がまた誤解を呼びやすく、対人関係、人との交流において特に問題となります。

知識と情報は、私たちを進歩させますが、一方で、様々なデータを抱えることで、選択としては難しい状況を生み出していきます。

単純なコンピュータのように、データをある決まったルートで分析し、判断するのであれば、すぐに答えは見つかり、むしろデータはたくさんあったほうが確信を得やすいのですが、人間は、データをもとに、あれこれと想像を巡らし、結論へのルートが多様に散らばって行くため、いわゆる混乱や葛藤の状態を生みやすいと言えます。

ただ経験則によったり、何か自分なりの信念が強くあれば、知識、つまりデータが多くても、明確な答えは早く導き出せるでしょう。

ここのところが、経験を活かすことの良さ、強い意志や信念を抱くこと、あるいは何か使命や目的というものがあったほうがいいという理由につながります。

つまり、データをまとめるためのルート、または分類基準がはっきりしているということです。

こういう人は、悩むことが少ないので、行動も素早く、ストレートなことが多くなります。

そして、行動は自ずと結果を呼びます。

その結果が失敗か成功かというのは、その人の価値観が決めることなので、結局、いずれであっても、結果としてのデータがまた入ることになります。

これは実際の行動に関係したデータですから、あれこれ思考していた時のデータとはまた違います。

よって、かなりフィードバックとしてのものや、経験的・実際的データとして使えることになります。

すると、強い信念や目的意識のある人は、これらのデータをもとに、ますます、物事を有利に進めていく(シミュレーションを改善していき、よい結果にしていく)ことができます。

だからこそ、行動力のある人は、自分の思う、よりよい結果・成果を出しやすいのです。

ここから考えると、行動のためには、思いを整理して、シンプルにすることが重要であることがわかります。

面白いことに、マルセイユタロットでは「女帝」は「3」の数を持ち、同じ「3」つながりでは、そぎ落とすことを象徴する、「13」という(数だけの)カードがあります。

この二枚からも、思考を整理して、そぎ落とし、シンプルにしていくことで、次の数を持つ、「皇帝」の行動や、「節制」の救済につながっていくことが謳われているわけです。

しかし、整理する「方法」も重要です。

たくさん出た思考と想像、これをまとめ、整理し、シンプルにするには、やはり先述したように、目的を絞ることです。

人は多くのことをポジティブにもネガティブにも想像(つまりは創造でもあります)することができます。

それ自体は創造力としてすばらしいことです。(たとえネガティブなことであろうと)

心配性の人は、それだけいろいろなことを想像(イメージ世界の創造)することができるのです。

問題は自分の方向性を決めることができない、それが整理されていないことにあります。

単純な整理法でいうと、「今の自分は何をもっとも大切にしているのか」という「基準」「整理の観点・括り」を入れることです。

迷いは、いろいろなレベルでの正答を求めようとしていることに問題があります。

言ってみれば、たくさんの「自分」が、あれこれ、それぞれの価値観とレベルで意見しているようなものです。

ここでまとめ役として、「テーマ」を自分の中で掲げることです。

そのテーマが、「今、もっとも大切(重要)なこと」となるわけです。

それは「大きな意味での成長」ということかもしれませんし、「今の心地よさ」かもしれません。

また「愛情」の場合もあるでしょうし、「楽しさ」「損得、特にお金の得」「時間の効率」「スピード」「量」「味のおいしさ」などかもしれません。

選択における、その時その時のもっとも重要なひとつの基準を入れることで、思考・想像・感情(思い)を整理し、行動へと進ませます。

それから、「思い」から「行動」への方向を見るだけではなく、「行動」から「思い」へと逆の方向も見るとよいでしょう。

行動していること(外に表現されていること)が、自分の思いと一致しているか、そこに大きな違いがあれば、それは葛藤や歪みとして、自覚がなくても、奥底にねじれの感情として溜まっていく場合があります。

そのねじれがひどくなると、心身のアンバランス・不調として症状が現れることがあるのです。肉体がおかしくなるか、心がおかしくなるか、その両方の時もあります。

あるいは、スピリチュアル的に言えば、これまでのやり方では対処しづらい、外の現象の問題として現れます。

人は「思い」と「行動」が違うことが多くなる生物であることは、最初に述べた通りですが、それゆえ、両者がなるべく矛盾しないよう、整理と浄化(メンテナンス)を図っていく必要もあるのだと言えます。

タロットは心を絵柄として見える形て浮上させますので、まさに思いと行動の間を整理し、調和させていくツールとして、有効なものでもあるのです。


学びやすい時代だからこそ、気をつけること。

何かを学びたいという時、独学と、他人や学校から学ぶ場合とがあります。

昔は、独学するにも本や資料を求めて図書館とか書店に行くしかなく、そのありかを探すことすら難しいところがありました。

それが隠秘学的なものや、マイナーなものだったりすればなおさらです。

たとえ、独学ではなく、通学したり、講座を受けたりして他人から学ぶ場合でも、その知識・専門性のある人と場所の情報収集と、実際にそこに行く(会う)労苦、また学びの種類にもよりますが、金銭的・経済的なものも大変なものがありました。

ということは、かなり運と縁、そして実際に行動する(足を運ぶ、動く、物理的に移動する)という要素、そして学びにお金をかけられるかどうかという点が大きかったと言えます。

しかし最近はインターネットの発達により、特に独学する環境がずいぶんと整い、学ぶことがとても容易になってきました。わざわざ学校や人に学ぶ必要もないくらいです。

お金の面でも、まず通学したり、高い文献など買ったりせずによくなってきましたから、かなり安く(場合よっては無料)上がるようになっています。

ということで現在は、おそらく人類史上、かつてないほどの知識・情報を得やすい時代、つまりは学びやすい時代になっており、全体レベルで、相当知識の拡大と蓄積が大きなものになっていると言えます。

例えれば、個人レベルでも、昔は人生をかけて修行したり、方々をさすらったりして得た知識・情報が、現代人は数時間、いや数十分で手に入っていることになります。

いわば時間と場所が、学びにもおいても短縮されてきたわけです。時間に限れば、昔の一日に要する時間が、今は10分くらいかもしれないのです。

従って、昔の先生レベルの人が、今の人たちでは普通にたくさんいるということであり、今の時代の先生は、昔のマスタークラスの人かもしれないのです。

ただし、残念ながら、まだ実体験のレベルでは、そう考えるののには疑問があります。

いくらネット社会が発達したとはいえ、まだ文章と平面的動画の二次元が主体です。

3Dとか出てきてはいますが、リアルなライブ体験をネットで味わえるかというと、それはまだまだでしょう。

つまりは、視覚と音声情報から得たものが中心で、感情と体感覚をセットで味わうことは難しく、しかも文字や動画(文章や口頭での説明)で、デジタルのはっきりしたものが多いですから、視覚以外から得られる微妙な情報、感性を得ることも困難です。

言わばそれは、見たまま、説明されたまま、書かれたままの情報それそのものを機械的に入れることになって、象徴的な理解の種類とはかけ離れていくことになります。

例えば「26人」という文字が書かれていたとすれば、人が26人(いる、いた)のだと理解するのがそのままのことで、象徴的理解というのは、実はこの26人には「26人が存在する」という意味ではなく、「26」と「人」という象徴で、ほかの意味(象徴する意味、象意)を示していると見ることが可能になるものです。

もちろん、文字で「○○はこの象徴で、ほかの意味がありますよ」と書かれていれば、象徴の学びにもなりますが、それはそれでどこまで行っても、「この意味は実はこれで、そしてその意味はまたこの意味も含まれて・・・」と、やはりデジタル式に細かく分かれていくだけになります。

言い換えると、ひとつの言葉をただ別の言葉で説明しているだけの、辞書的・機械的なものだということです。

それでは、文章でいうところの行間の雰囲気、味わい、ニュアンスがくみ取れず、「象徴の次元」で述べると、細かく分かれて具体的次元に下降するだけで、反対方向の、抽象的に上昇していくイメージができにくくなっているわけです。

つまり、物事のつながりを象徴的に心で把握すること(全体的・有機的関連で把握すること)ができず、ひたすらぶつ切りしたひとつの正答、回答を求める思考に陥っていくということです。

もっとわかりやすく、見える世界と見えない世界、すでに知っている世界と知らない世界とのつながりが見つけにくくなると言ってもいいでしょう。

また視覚・文字情報だけの蓄積だと、ライブ(生)の体験、情緒的・感情的体験とが知識と結びつくことも困難になりますから(ライブ体験の蓄積がない)、やはりここでも肉体と精神など、人間にある各要素が分離しがちになります。

マルセイユタロットに流れる古代の思想体系、四大元素で言いますと、人間の成長と完成には「風・水・火・地」すべての要素がバランスよく統合されていく必要があります。

今のネット中心の学びでは、「風」の要素が極端に強調されてしまい、ほかの要素が少なくアンバランスです。これはまさに頭でっかちの状態と表現されます。

また情報が簡単に大量に手に入るということは、選択肢が異常に多く目の前に呈示されているような環境であり、情報があるのに、逆に選ぶことが難しくなってもいます。

そうすると、人は面倒になり、思考停止か、単純に好き嫌いレベルで選ぶ傾向も出てくるのです。

すると、さきほどの四大元素でいえば、「風」(これは知性的分野を示します)のものを、「水」(これは感情的分野を示します)に変えてしまう人もいるのです。

言い換えれば、好き嫌いの感情レベルで文字や動画のネット情報も選んで、学んだ気になってしまうということです。

これは、四大元素でいえば、自分の主たる個性的な特質(風・水・火・地のどれかのタイプ)によって、変換のされ方も変わってきます。

いずれにしても、今の時代は、ものすごく学びやすい環境にあるとはいえ、それだけ危険もあり、アンバランスな学びになりやすくもあるということなのです。

先述したように、量的な学びにおいて、現代は昔より時間が短縮されていますので、バイアスのかかった学び・情報が、気がつかず、大量に蓄積してしまって、修正が難しくなるという事態もありえるわけです。

ネットの文章を読むのもいいのですが、実際にライブで人の話を聞くこと、リアル世界での体験と検証も忘れないこと、さらにはネット以外でも隠れた情報や専門性をもった人もいることなど、心に留めておくとよいでしょう。

そして学びには、象徴的・抽象的世界、イデアやイメージの世界からのものもあるのです。

それは本当に、神や天使、悪魔とか精霊とか、昔の人がイメージした存在との学び合いみたいな感覚と言えます。

タロットでは、「法皇」(5の数を持つ現実的・先生的なカード)ではなく、「隠者」(9の数を持つ神話的的・ハイアーセルフ的カード)と見てもよいでしょう。


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