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マルセイユタロットへの占い関連の質問で
マルセイユタロットは日本でマイナーなのか、検索すると同じような記事とか、人の名前とか出てきます。
私もブログをまあまあ続けているほうですので、マルセイユタロット関連での検索ではヒットすることがあるようです。
そのため、時々、マルセイユタロットについてメールで質問を受けることがあるのですが、その中に、とても変だなと思ってしまう質問があります。
それは例えば、「マルセイユタロットは、ほかのタロットより、とてもよく当たるのは本当ですか?」というものや、「マルセイユタロットをやると霊感が出るらしいと聞いたのですが・・」などというものです。
思うに、これらはやはり、マルセイユタロットがあまり一般に知られていないということがあり、変な神秘性とか、特別感で誤解されているのではないかと感じます。
何か、普段はなかなか表に出ない秘宝、それを扱えれば、とてつもない力を得ることができるとでもいうようなイメージでもあるのでしょうか。(笑)
面白いことに、このイメージは、いわゆる聖杯伝説や失われたアーク(聖棺)伝説に近く、実はそういったことは、マルセイユタロットとも関連するものです。
とはいえ、マルセイユタロットを手にすれば、誰でも特別な力が得られるというわけではもちろんありません。
ましてや、占いが必ず上手なるとか、これでしか占えないというようなことはく、ほかのウェイト版(ライダー版)など、いわゆる一般的にはメジャーなタロットのほうが、むしろ「タロット占い」では適していると私は思っています。
その大きな理由は、「占い」で使っている人が多いタロットのほうが、その分「占い」分野での蓄積があるということです。
これには常識的理由と、目に見えない霊的な理由があります。
まず常識的に言えば、占いで使う人が多かったり、時間(歴史)が長ければ長かったりするほど、その技術・知識・経験は積み重ねられ、本やテキストでまとめられたり、講師や先生として多くの人を輩出していったりすることになり、それだけ世界の奥行きと広さが出るからです。
そしてもうひとつの霊的なほうは、目に見えない世界においても、ある種のデータベースが出来上がっていき、そのタロットを同じような目的(つまりここでは「占い」)で使うようになると、そのデータベースに無意識にアクセスしやすくなるという側面があります。
簡単に言えば、占いの直感力がさえ、見えない占いデータベースを利用しやすくなるみたいなことです。
マルセイユタロットの場合、占いというより、ゲームであったり、ほかの目的で使われることがあったので、マルセイユタロットで「占い」となると、皆さんが普通にイメージしている「占い」の方法や答えとは、かけ離れたものになりやすく、この意味では、私はマルセイユタロットは一般的な占いには向いていないものだと思っています。
ということで、マルセイユタロットを習えば、占いが上達するとか、占い的霊感が増すとかはありませんので、その点はご注意いただきたいと思います。
ただ、上記のことも、意味は異なりますが、まったく関係ない話ではありません。
それを説明します。
占いが上達すると言っても、これも一般的な意味での「占い」ではなく、普通の占いを超えた、あるいは別のアプローチによる相談技術・ツールとしてマルセイユタロットは使うと、総合的な意味で、「占い相談技術」がアップする可能性があることを言っています。
「これこれはどうなる?」とか、「相手の気持ちは?」とか、「どちらを選択すればよい?」とか、吉凶選択判断次元のものから脱した見方ができるようになり、表面的な良し悪しではない、心理的・個の魂的レベルでの向上性、方向性を指針として考察できるようになると言ってもいいでしょう。
いわば、占い現場では、ほかの占い師とは違う観点になり、占い師というより、変わったスタイルでの相談援助者ということになるかもしれません。ただ、それで人気や売上が出るかといえば、それはその人自身の考え、お店の方針や営業、お客様の層次第と言えます。
そして霊感の面ですが、これは霊が見えるとか、何か特別な能力でもって別存在の力を借りてチャネリングするような心霊系の霊感という意味ではなく、自身にある霊的な力、神性、直観力を磨く、回復させていくということでの「霊感(霊的な力)」が上げられると表現されるものです。
ここでいう「霊」の使い方の意味が異なることに注意してください。後者の霊は、「物質と精神の統合」「高次のエネルギー」「神性・完全性を表す形」みたいなことです。
それを認識していく、感応していくということを言っているのです。
マルセイユタロットはシンプルな絵柄であり、見た目の神秘性とか不可思議性は、ほかのタロットに比べてありません。
しかし、単純なようでいて、一枚一枚の構図、そして全体の構成、どれをとっても相当複雑に組み上げられており、統一した意図とデザインのもとに仕上げられています。一人の人が思いつきで自由に描いたというものではないのです。
このことは、知れば知るほど驚異的なものとわかり、マルセイユタロットのすごさに思い至ります。まさに宇宙的シンボルとでもいうべきものが描写されています。
よって、マルセイユタロットは、個人の運勢の吉凶とか、狭い範囲での現実的な利益・幸福のために利用するというより、まさに内外・次元の統合、霊的な成長、心理的調和や個性の確立と全体への貢献などのために使っていくものだということがわかります。
占いの目的と方法にもよりますが、低次な占いに関心持ちすぎ、それを実践していくと、どんどん外向きになります。
外向きと聞くと、いいように感じるかもしれませんが、そうではありません。
ここの「外向き」の意味は、自分の運勢や人生にフォーカスし過ぎるあまり、内(自分)向きでありながら、外の運命・運勢・状況・結果に目がいくことを言っています。
これは周りのものに自分を没入させてしまう(外のものが自分を支配し、評価する)ということであり、究極的には依存で、自分を見失うことになります。
今の占い(の一部)には、占い法則でできているある世界観があり、その世界観に自分を当てはめていくようにすることで、さも、占いによって運勢がよくなったかのように錯覚していることがあるのです。
ゲームで例えるとわかりやすいでしょう。あるルールの、あるゲーム世界があり、そこでのルール・法則をマスターしていくこと(言い換えれば、自分をゲーム世界に適用させていくこと)で、そのゲーム世界では得点を上げていくことができるようになります。
しかし、それはその世界だけに通じるもので、ゲームにいる自分も自分本体ではなく、やればやるほど、ゲームにのめり込み、仮象の自分としてゲームでしか生きられない身体になってしまいます。
「ゲーム」は、別の表現をすれば「牢獄」です。
本当はそのゲーム(占いで構築され、そのルールで見ることのできる世界観)を学び実践することで、この世の仕組みとか、宇宙を知るヒントにするわけです。
それにはまりこんではまずいのです。ゲームはあくまでモデルであり、全部や世界そのものではないのです。
このことに気づかないと、自分を真の意味で回復させていくことが難しくなります。
ゲームの世界で遊ぶことが楽しいことはよくわかります。別に遊ぶことは悪いことではなく、まさに娯楽のひとつとして見てもいいでしょう。
ゲームに翻弄されているか、楽しみや成長としてうまく使っているかについては、ひとのつ目安として、感情を麻痺させられていないか、知性を使ったり、増幅させたりすることができているかで判断する方法があります。
つまりあなたが「占い」をするようになって、あまり思索したり、知的に考察したりすることがなくなったとか、欲望を感情的を満足させる(それは中毒や麻痺と同じ)ために、何度も些細なことも含めて「占い」を利用してしまうとか、それ(占い)が毎日気になって仕方ないとかの状態であれば、それはおかしい使い方になっているということです。
マルセイユタロットであっても、ほかのタロットであっても、はたまた、どんな占いツール技術であっても、上記のような症状では、自分が使われている状態であったり、「ある世界観」に囚われたりしています。
自分を閉じこめる方向ではなく、解放や自由に向かって(それは責任と段階もあります)飛翔して行きましょう。
この時期の自分の癒し・浄化・供養
お盆になりますと、過去のことが想い出されたり、懐かしく感じたりすることが、人によってはあると思います。
伝統的にお盆は、普通の人でも日本人なら、亡くなった人やご先祖のことを偲ぶ期間でもありますので、自分自身のかつてのことに郷愁的な思いが出るのも自然かもしれません。
タロットカードを見ていると、一種のパラレルワールド的な発想を見ることがあります。
そうしたパラレルワールド的なもので考えますと、過去の自分、いや過去だけではなく未来の自分も含めて、数多の「自分」の存在がある(いる)と言えます。
これを別データや別次元の自分として見ることも可能でしょう。時系列的な過去や未来の自分も、その時その時の自分として、並列的に存在していると考えることもできます。
お盆の時期は、霊的な扉が開く時だと言われますので、いわば、霊的に誰もが感応しやすくなっているわけです。
いや私たち、今を生きている人間は普段と同じなのかもしれませんが、向こう側の者たち(霊)が、この見える世界の次元の状態にシンクロ(適応)しやすくなっていると言ったほうがいいのかもしれません。
いずれにしても、普段は見えない側の者たちが、私たちの意識にとらえられやすくなるわけです。
ということは、ご先祖や亡くなった人の霊だけではなく、さきほど述べた自分自身の別存在、分霊ともいうべきパラレルワールドの自分も、普段より意識しやすくなることもありそうです。
特に過去ゲート的なものが開くので、それで昔のことを想い出したり、懐かしんだりすることになるとも考えられます。
そして、中にはただ思い出すだけではなく、すごく気になってしまう過去の自分があるかもしれません。
それは言い換えれば、後悔したり、苦しんだりしている自分の姿で、未浄化の自分とも表現できます。
ならば、供養(浄化・癒しを)する必要があります。
それは普段でもできるのですが、こうした通常と別の次元の扉が開いているお盆などの期間は、特に供養の効果が届きやすい可能性があります。
そう、まさに別の世界の自分自身への供養・浄化を、この時期に行ってみるのです。
方法としては、祈りとして別の自分に思念で届けてもよいでしょうし、今の幸せや、恵まれている状態を思って、そのエネルギー(満足や穏やかな心)を送ってもよいでしょう。
タロットがあれば、カードで象徴化して、自分が特に癒しや浄化につながると感じるカードを選択して、思いとともに浄化されていくイメージをするのもよいかもしれません。
普段はこういった別存在の自分は、寝ている時の夢などに現れやすいです。
確かに夢と言えば夢であり、現実の自分とは関係ないでしょうが、そんな夢を見ること自体、例えば心理的には何か心に引っかかっているものがあると言えます。
夢を見ることによって、「イメージ」として顕在化し、浄化を図っているのだと考えることもできます。
「心残り」という言葉があるように、心がそこに残っているわけです。心はエネルギーとして見れば、やはりそのひとつの現れです。
さらに、時間が本来ないものとすれば、心残りという形での何らかのエネルギーの形質が、過去の(あるいは未来と自分が思う)空間(普通の空間概念とは違いますが)に留まっており、それが今の自分に何らかの影響を及ぼしていると想像することができます。
別次元、あるいは心の奥深くに「心残り」の見えないエネルギーとしてあるのなら、それを見える形や意識の表面として浮上させることで、エネルギー(表現)をさらに変化させていることになります。
ということは、それだけでエネルギーが変質している可能性があり、もとあった空間から全部ではなくても、移行(変容)していることも考えられます。
こうしたことで、過去(や未来)のエネルギーが変わり、自分が本当の自分と思っている(つまり今の自分として意識している)時系列での「現実」の選択肢・岐路も変わってくることが予想されます。
皆さんにも、「あのことを思いだしただけで、その時は重たくても、あとで何か心が軽くなった」とかの経験があるでしょう。
そして過去(の事件・誰か)を許したということで、まったく生き方も変わることがあるわけです。
過去だけではなく、例えば未来に希望を持つ気持ちになれただけで(それは選択肢の幅の増加や位置の上昇でもあります)、「今」この時が輝き出し、まさに「この瞬間」が意識から変わります。今という質の変化と言ってもいいでしょう。
私ちは結局とのことろ、今この時しか生きていないと言えますが、逆説的になりますが、その分、無数の並列的な選択肢の(別の)自分、時間軸を意識した場合の縦列的な、過去・未来の自分(世界)というものも、捨てて来たり、同時に存在したりしているわけです。
このように、私たちの「今」というものは、無数のクロス(交差)・シンクロでできていると考えられます。その点では、いつも奇跡的な「一点」にいます。
しかしその一点も、多くの関連性を持つ点であり、点でありながら、極大な円(球)ともいえ、だからこそ、別存在の自分の影響も考慮されるものなのです。
時系列的には今だけではなく、過去、そして未来のイメージ(の可能性・幅)も大事だということです。
聖性と俗性 ふたつの「勝利」
リオデジャネイロでのオリンピック、日本(選手)の金メダルも出て盛り上がって来ましたね。
今の近代オリンピックも面白いですが、古代オリンピックも、調べてみますと、なかなか興味深いものがあります。
ポリスと言われるギリシアの小国家が、争いを繰り返していた中で、オリンピックの時だけは停戦していたところや、男性が裸で競技をしていたところなど、その根本には「神」を前提にした神聖なる思いがあったと推測されます。
いわば、人間的なものと神的なもの、言い換えれば、通常の人間ベースの生活と、理想・イデアたる完全な神聖さとの相克と融合が、そこにはあったと想像できます。
日常で悩んだり、いがみ合ったり、欲求のままに行動してしまったりするという、まさに人間くさい部分があるのが私たちではあるものの、神を想定して、その神聖さにふれること、自身の神性なる部分を想起することで、より個人を高め、全体としても崇高な状態へと成長・移行することができると考えられます。
いわば、俗性を聖性によって浄化していくようなことでもあるのです。
古代オリンピックで言えば、ただ勝ちさえすればよいというのではなく、あるルールに基づき、美しく競技し、それでも勝つことが重要だったわけです。
この場合、勝つというのは相手(人間)を打ち負かすのではなく、神と融合する自分になる、神に近づく聖性を獲得するということに意味と価値があったように思います。別の言い方をすれば、自身の人間性部分に対する勝利です。(マルセイユタロットの「戦車」の深いところと通じます)
マルセイユタロットでは、カードの人物が裸で描かれているものがありますが、これも伝統から見れば「神」を象徴しているわけで、そのカードたちが、タロット全体の構成としてどう配置されているのかを見れば、マルセイユタロットが一種の神性への回帰、神性(神聖さでもある)にふれるための図として、意図されているのがわかります。
さて、この、「人の俗性と聖性」は、人の中に二面性があるということでもあり、端的に言えば悪魔性と天使性、神と悪魔、低次と高次なとで言い表されます。
しかし、これを単純によい面と悪い面としてしまうと、幼稚な発想となってしまいます。
人間である限り、肉体を持ち、俗なる生活と欲求を持って生きるのは当たり前です。
もしそれがまったくなかったとすれば、おそらく生きるエネルギーや活力、新しいものを生み出したり、工夫したりする創造性さえ失うことになるでしょう。
俗であるから個人として体験できる感情や境地があり、それはバラエティに富み、非常に面白いもの(体験)と言えます。
しかし、俗や個人の欲求ばかりが重視される世界、もう少しましな言い方をすれば、個人の生活・現実に目を向け続けなければならい状態が続く世界では、次第に私たちはエネルギーを失い、オートマチックな安楽の道か、自己の欲求の満足を求め、ますますエゴを肥大化させるかの道に進むことが多くなります。
さきほど、俗なる欲求の世界は創造性もあると言いましたが、創造性のためには、そもそも創造のもととなるエネルギーを補充しないと発動しません。
そのための神、現実や俗性を超越したものとの接触となります。つまりは聖性との交流です。
日本や世界の祭りも、「祀り」の意味として、そういう面があったと考えられます。祭りによって神と交流し、俗から聖へとエネルギーを変換浄化させ、新たな力を手に入れたのでしょう。
現代は、この俗と聖のサイクルが混濁してしまい、わけがわからない状態となっています。
そのため、生き方についても悩み、俗やエゴの追求、または現実の生活重視というものと、夢や理想、ワクワクみたいなことでの生き方との狭間に立たされ、どう選択すればよいのか混乱する人が多くなっているようです。
言ってしまえば、聖なるものが俗に取り込まれ、あるいは利用され、混同・誤解されているところに問題があるわけです。
聖性は現実の、特に物質的な充実とか、個人のエゴの満足ということとは違います。
俗に傾きすぎた自分を聖性によって回復させていけば、結果というより、過程そのものに幸福感が出てくるでしょう。
つまり、人生において、一連のサイクルのような魂の永続性や、人生の波によって起こる波動力(まるで潮力発電のようなもの)のすごさに気づくことになるのです。
波はあるものの、そこに貫かれている一本の芯のようなものを発見する視点と言ってもよいでしょう。
それは二元、聖と俗の繰り返しの波の間、または超越したところに存在しているのです。
私たちは俗で生きる時、他人への勝利(人より優れていること)を望み、行動しますが、聖性で生きる時は、自身の人間性の超克、神性の勝利(低次と高次の統合)を魂は希求し、美しく生きようとします。
言ってみれば、「勝利」には二種類あるということです。
これはどちらがいいということではないのです。そういう二面で生きるのが私たちです。
ただ、最近は、あまりにも聖を俗に属させているような生き方の人も多く、個人的にそれは美しくないと思えるのです。
人間関係のあるポイントとタロット
人とのつきあいは難しいものです。
一般的に、人の相談ごとでも、大きな割合を占めるのが人間関係に係わる話です。
それだけ多くの人が人づきあいで悩んでいるということでしょう。
タロットで人間関係を見て、どう自分が考えればいいのか、ふるまえばいいのかということについて情報を得ることができます。
その情報は、見えない分野や隠れたところのものが多く、そのため、自分のみならず、問題となっている相手の人間の見えない分野、つまり心とか感情などの部分も象徴として推測することがある程度可能です。
それは、原理としては、タロット(マルセイユタロット)が人間誰しも同じ共通の心の型を持っているという前提で、それがマルセイユタロットには描かれているからだという理由です。
ただ、人には個性があり、その時その時の思いがあるので、例えば、相手が本当に今どう思っているのかという具体的で細かな内容を当てるというようなことは、本当は無理があるものです。
わかるのは共通の元型的なパターンであり、それが個人のフィールド・状況において選択されると、どう影響されるのかということを、タロットから読んでいくのです。
ところで、人間関係において、問題となる要因はいろいろあるのですが、まず、人の人格(の選択)ということで考えることができます。
前回の記事にも書いたように、一人の人間にはひとつの性格だけではなく、内面に様々なタイプ(人格)を抱えています。
それが普段の何でもない穏やかな環境では、「あるA」という人格(性格を持つ人の状態)でいるのが多いのに、職場だと「Bという人格」に変わるという感じになります。
また同じ職場であっても、慣れているセクションではAになることもあれば、上司と対応したり、合っていないセクションに来たりすると、Cになるということもあります。
これは自己防衛反応や、環境に適応しようとする意味での人格の選択と言っていいものです。
つまり、環境や状況が、その人を一時的に変えているようなもので、もしかすると、一番メインである人格とは異なるものを、あなたはその人に見ているかもしれないのです。
プレッシャーがかかったり、余裕がなかったり、ある信念で凝り固まったりしていると、人は自分を守るために、ひとつの奇妙ともいえる人格に支配され、それを他人に見せてしまうことがあります。
これで人間関係にトラブルを来すことがあるのです。
だから、自分は、あるいはあの人は、ほかの人格や性格もあるのかもしれないと見て、今はこの人格でいなければ壊れてしまうのだ、そう選択せざるを得ないのだと見ると、少し楽になることがあります。
さて、ここでもうひとつ、人間関係のうえで大事なものである「距離感」とか、「関係性のループ」ということについても述べてみましょう。
人と人との間には、微妙な距離感がありますよね。
親しい人ほど近くても許されるものになりますが、たとえ親しい人でも時と場合によっては、距離を置いてほしいこともあります。
つまりは時間と空間、状況によって、適切な距離感は移り変わってしまうということです。
こうした人と人との距離・関わり方の濃密度とでもいいましょうか、それがこのように、実は一定ではないので、色々と問題としてとらえられてしまうのですね。
この距離感の適切さな選択については、意外とカードたちは表現することができ、それを引くことで、今、どの距離感が大切かを知ることができるのです。
それも人間関係の距離は、距離感と「感」がつくだけに、メーターで計るような、明確に測定できるものではないからこそ、見えない分野の象徴化ということで、タロットでそれを見ることができるのだと言えます。
あと、「関係性のループ」というのは、「運命の輪」が示唆することでもありますが、ある決まった関係性を、特定の人たちとの間に繰り返し、行い続けているというものです。
具体的には例えば、疑似家族とか、疑似親子とか、疑似夫婦とか、疑似兄弟とか、疑似親友、疑似成長仲間とか、ある関係に似たようなものを擬似的に形式化する関係性です。
本当にその関係になりたくてやっているものもあれば、結果的にその関係性が、擬似的な何かの関係に似ていることになってしまっているというものがあります。
しかもその関係性は、お互いを傷つけない暗黙の了解で、実は心地よい逃避的なものになっているので、仮の楽園として機能し、関係にある者は、基本、それを続けていこうと(保持)します。
仮に人が変わっても、関係性の形は保持し、それが繰り返されていくというものです。これがループとなります。
この擬似的な、偽りの、でも心地よい関係性の中では、永遠に続いてほしいという錯覚に囚われ、脱出が困難になります。
ただ、現実や物事に永遠はなく、やがてどうしても環境の変化や、第三者の影響、誰かの成長・気づきなどによって、それが壊わされる時がやってきます。
そのショックはかなり大きなものとなります。ですから、その前に、どこかで勇気をもって、擬似的な関係性のループから脱却する決意と行動を持たねばなりません。
ただ、擬似的な関係性が悪いわけではなく、自他ともに癒しや安心の場所になっていることもあるのです。
いわば成長ための「杖」や、一時の船のドッグのようなもので、強く旅立つための、安らぎの場所として、タロットでいえば「杯(カップ)」として見ることができます。
人間関係はお互いに人に気遣い過ぎると、、逆に問題を潜在化させることになって、いわば気持ち悪い関係性を強め、各人に抑圧された感情を蓄積させます。
それが爆発の機会をうかがい、常に火種が隠し持たれているという不安なものでもあります。
また反対に、いつもストレートで気持ちに正直にぶつけるのがよいとしてしまうと、うざい関係になったり、無神経な者が現れたり、土足で人の内面まで踏み込まれているような感覚で、仲間はずれが起きたり、スケープゴートの人ができたりします。
ありのまま、感情のままに行動するのがよいというのは、わがままで幼い子どものうちだけであり、社会で生きる大人には、人に気を遣ったり、自分がどのように見られているのかということを気にしたり、どう行動すれば一番安心か、みたいな選択をしていくのが普通です。
しかし、そのために自分をひどく偽り、感情を抑圧し、取り繕って人とつきあうのも、双方にとって、よいことではありません。疲れがたまり、無駄にエネルギーを浪費する一方です。
それは創造エネルギーを欠如させ、ただ流されて生きる人生となります。
タロットでは四大元素と、心の元型を表すカードたちがあるので、いろいろとバランスを見たり、見えなくてわかりにくい人の関係性のエネルギー、思い方を象徴として見ることが可能です。
他人がいるというのが、私たちの住む普通の世界のわけですから、どうしたって人間関係で悩むのは、ある意味、普通なのです。
だからこそ、それをどうコントロールするのか、どう扱い、整理づけるのかによって(学びや楽しさに変えることでもあります)、人生の質と生きやすさも変わってくるのです。
「月」と「太陽」 人格の統合
マルセイユタロットには、二元で表されるエネルギーとでもいうべきものを、ひとつに統合していく過程が描かれています。
これによると、統合の前には必ず分離や葛藤、あるいは解体や破壊が行われことになっています。
これは錬金術(物質的に「金」を作るということだけではなく、霊的に最高度の状態に達するということでもあります)に示唆されていることです。
そうして人は霊的に完成するというわけです。
ただ、霊的なとか、大宇宙とか悟りに向かって、とかになると、どうもエソテリックで、特別な人しかできないみたいな印象になります。
ということで、実際には心理・メンタル(思考と感情)レベルや次元に置き換えて考えると、実用的かつ、理解もしやすくなります。
さて、この二元、ふたつのエネルギーを、もっとも大きな意味でマルセイユタロットのカードとして象徴しているのは、「月」と「太陽」だと考えられます。
「月」はそのふたつの分離を示し、「太陽」は統合を象徴します。
数においても、「月」は18であり、「太陽」は19であるので、18の過程(分離や葛藤)を経て、19(統合)に向かうと見ることもできます。
私たちの精神や実際においても、このふたつの過程は常に現れ、言い方を換えれば、破壊と創造(その逆の創造と破壊)が繰り返され、私たちの内面と外面、多重な部分は統合され、成長していくものと考えられます。
ここでテーマを、自分の中の精神(心理)的な人格統合ということにしますと、「月」と「太陽」は、やはりその分離と統合を示すと表現できます。
人は自分一人の中にも、たくさんの人格・パーソナリティを抱えています。いわば個性の中の個性です。
ところが、これはほかの人にも同様にあり、それがかぶったり、まったく違うものとして衝突したりと、常に自分の中のたくさんの人格・個性が刺激を受けるようになっています。
その都度、「月」で象徴されるような隠れた部分において、不安や葛藤、何かザワザワとした感情が出るわけです。(これは「月」のカードの水たまりやザリガニでも象徴されます)
一方、誰でも人から愛されたい、誰かを愛したいという思いがあり、そのため人と交流を持ち、友人や恋人というつきあいにも発展する、ひとつの要因にもなります。
それは、他者と融合したいという気持ちとも言え、つまるところ、実は自分自身のたくさんある人格の融合・完全に向かう完成を目指しているとも言えるのです。
結局、人から愛されたい、人を愛したいというのも、自分によって自分が愛されたい、自分を愛したいということにつながります。
ということで、「太陽」の初期段階では、自分と同じ部分・共通部分・合う部分・理解できる部分を他人に見ることによって、まず融合を図ろうとします。
しかし、深く融合しようと思えば思うほど、他人と自分の違いが見えてきます。
そこに違和感を持ち始めると、「月」の段階へ戻り、分離と葛藤が、特に感情的に大きくなってきます。
どちら(「月」「太陽」)も心理的には投影と無関係ではありませんが、いずれにしても、自分と他人という関係で、親近感と疎遠感(違和感)のふたつを感じるわけです。
親近感を抱く部分は、強く自分に出ている人格・パーソナリティーであり、自分で好ましく思っているところ、自分で自分を愛している部分と言えます。
逆に他人に違和感や疎遠感を覚えるところは、自分の中でも強く分離されている人格であったり、受け入れていなかったりする影(シャドー)であることが多いのです。自分の中で愛していない自分の部分とも言えるでしょう。
それらは、ほかのタロットカードで象徴されている部分でもあるので、客観的に見たい場合は、カードの象徴を活用するとよいわけです。
いわば、「月」の二匹の犬と、「太陽」の二人の人物は、ほかのカードによって表現されるネガとポジのような関係になっています。
こうして、人との出会いや交流の中で、私たちは自分の中にあるたくさんの人格や状態・エネルギーを発見し、統合していくことになります。
最初は融合や融和を見つつも、混乱や葛藤による分離を迎え、最終的には統合(融和段階を超えたもの)に導かれるということです。
よく、好きな人だけつきあえばいいとか、考えが同じ人だけと交流するみたいな人がいますが、確かにわざわざ合わない難しい人と積極的に交流を持つ必要はないとはいえ、違和感を覚えたり、自分とは違う考えの人をまったく無視するのは、せっかくの統合チャンスをふいにすることにもなるので、何でも極端は問題だと言えます。
合う人にの中には違う部分を見、合わない人には、それでも同じ部分を見ることで、自分の中のアンバランスなパーソナリティーがバランス化してきます。
とはいえ、これは無理に他人と仲良くしなければならないとか、好きな人と距離を置かなければならいとうことではなく、あくまで自分の人格的統合と成長の意味において考え見ていくものであり、人とのつきあい方自体を示唆するものではないのです。
たくさんの人がいるからこそ、傷つけられることもあり、怒りを覚えたり、悲しくもなったりします。また反対に癒されたり、愛を感じたり、楽しい気持ちになったりもします。
だから、人によっての傷は、人によって癒されることもあると思って、何でも一人で抱え込むことはないでしょう。
それが「自分の世界であって、他人の世界でもある」この世の仕組みと言えます。
