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タロティストからの結縁潅頂の勧め

私は父の実家が寺であり、祖父が真言宗の僧侶だったせいか、仏教とか、特に真言密教への関心や縁があるように感じます。

マルセイユタロットを学んだ時、このタロットに真言密教と同じような教えが根本にあることを知り、自分の出自と関連して、シンクロニシティを感じたことがあります。

さらにこのタロットを学ぶコースの際、フランスでの講座にも参加しましたが、その時同室だったのが、真言僧侶の方でした。

余談ですが、自分の家系にある宗教というのは、油断がならないもので(笑)、思いの外、自分に影響があるものです。それは縛りのこともあれば、守護のこともあります。

やはり先祖的には守護として働くように思います。それは、ご先祖の供養も、家の宗教で行われているはずだからで、霊的に見て、子孫に守護的になるのだと推測されます。

このあたりは大学で私は民俗学でも、弔い上げのシステムとして学習した経緯があります。

今思えば、大学での学びの選択にも、もしかすると、家の宗教やご先祖様が関係していたのかもしれませんね。ただ、オチではないてすが、大学はキリスト教系でした。(笑)

守護といえば、私の場合、こんなことがありました。それは、とある新興系の宗教からの勧誘を以前強く受けていた時、なぜかそのことを知らない父親から、突然携帯にコールがあったというものです。

当時は父と離れて暮らしていましたので、しばらく父とは会ってもいなかったですし、また父からのコールされた内容も、ただのご機嫌伺い(笑)だっただけに、だからこそ、このタイミングで・・と非常に驚きました。まるで家の宗教が自分を守ってくれているかのように感じたからです。

私の場合は寺系統ですから、普通の人より強い家の霊統と言いますか、そういうものがあるのかもしれませんが、やはり長年信仰してきたその家系の宗教のエネルギー、縁というものは無視できないものと言えるでしょう。

ということで私のご先祖様も喜ばれるのかどうかわかりませんが(笑)、GWのこの時期、ついつい、タロットの生徒さんたちにもご紹介してしまう行事があります。

それは高野山での「結縁潅頂」という儀式です。

毎年、5月3日から5日と、秋の10月1日から3日までも行われています。これは一言で言えば、仏様と縁を結ばせていただくという行事です。

私も参加したことがありますが、やはり真言縁があるのか、高野山に行っただけで感動があり、この儀式前のお坊さんの説話には、なぜか涙が出て止まりませんでした。実際の儀式においても、なにがしかの精神的な変容を実感した部分がありました。

儀式の内容はここでは述べませんが、形式的に、自身の死と再生を促し、仏様とは、実は自分の中にある仏性のことであり、それと改めて邂逅する(仏性を自覚し、目覚めさせる)という意味の儀式ではないかと感じました。

高野山HPにある当該儀式の説明にも、そうした趣旨として受け取ることが可能です。

目覚めは本質的には仏性で皆同じでしょうが、おそらくその時その時の心の状態、成長段階によって、人によって目覚めや気づきは、いろいろな形で起こると想像されます。

その形こそが、様々な形で化身されている仏様ということになるでしょう。

本来はどの仏様と縁が結ばれるか、個人で異なるのでしょうが、実際の儀式では、全員「大日如来」という中心根本の仏様に今はなっているようです。

ですから、儀式に参加された場合、最後に自分の内面をよく観察し、一体何に気づき、心や魂の声とも呼ぶべきものを聴いたのか、覚えておくとよいでしょう。

目覚めには幾層のものや段階があると考えられます。

つまり、同じレベルでの色の違いとでもいうべき横軸と、次元が異なりつつも同色のグラデーションになっているという縦軸の違いです。

私たちは普段修行してるお坊さんではありませんから、大きな目覚めとか覚醒というものはないかもしれません。言ってみれば、横軸の目覚めレベルです。

それでも、人には仏の心、仏性が誰でも存在し、普段の生活においても、その発動・発心は、たとえ小さくともあると想像できます。

ならば、せっかくのこうした特別なご縁のある場所と時での儀式に会したのなら、もっと鋭敏な感性でもって、自身の目覚め、仏性への気づきに自覚的になるはずです。言い換えれば、先述した縦軸の目覚めや気づきです。

真剣になればなるほど、特別な意識で臨めば臨むほど、気づきもそれに応じたもの(横軸だけではなく縦軸の目覚め)になるということです。

だからこそ、聖地というものが存在し、日常と非日常の違いを施した装置・舞台というものもあるのです。

実は、仏性を神性と置き換えれば、それはマルセイユタロットに流れる教義と等しいものになると考えられます。

マルセイユタロットには、横軸縦軸の精神・霊的覚醒の仕組みが図像で描かれています。

さらにマルセイユタロットは意識やエネルギーの型やモデルも象徴しますので、例えば、この儀式のようなものにおける、自身の中の仏(神)の化身を、カードの図像を通して、想像する(実感する)ことが可能です。

神や仏、精霊や天使といった表現で人が示してきたエネルギー、性質とは何なのか、それがカードによって感じられ、理解することが次第にできるようになります。

ただそれにもやはり、段階やレベルがあり、「自分はもうわかった」と、うぬぼれてはいけないことも、カードは伝えています。

ともあれ、マルセイユタロット好きの人は、一度この「結縁潅頂」の儀式(春か秋、あるいは両方)に参加されてみるのもよいかと思います。

ちなみに高野山HPによりますと、今年の5月のものには、「限定御守り」の授与があるようですので、ますますよい機会かもしれませんね。


「正義」と「月」のバランス性

マルセイユタロットの「正義」と「」は、同じ「」(本来はローマ数字で表されていますが、文字化けの可能性もあるので、算用数字で書いています)という数を持ちます。

ところで、私自身は、タロットと数秘術とは切り離して考えており、タロットにおいても数との関連性はもちろんありますが、数の象徴性・意味と、絵柄のそれから来るものとは、ズレもあって、数秘術的解釈からタロットを見過ぎると、かえってわかりづらくなると思っています。

要するに、数秘術(数)をメインの象徴性とするか、タロットの絵柄の象徴性をメインとするかの立場の違いです。

数秘術が好きで、そちらに造詣が深い人は、タロットを数の象徴性の理解のために使えばよく、当然、その逆もあります。

しかし、数とタロットの象徴性がまったくのイコールとならないことは、注意しておくべきだと思います。

さて、それをふまえたうえで、今回は数つながりで「正義」と「月」について述べています。

先述したように、「8」が共通している両カードですから、「8」に象徴される何かを含んでいると考えられます。

数秘的には「8」にも、当然、ある意味が当てはめられていますが、ここでは少し一般的に言われている「8」の意味から離れ、あえて「バランス」というテーマで見てみます。

なぜ離れるのかと言えば、先に述べたように、タロットは絵柄だからです。しかし、「バランス」と「8」が数(秘)的に無縁なわけではありません。

その詳細はここでは省略しますが、とにかく「バランス」で両カードを見てみましょうということです。

すると、「バランス」ですから、何か「ふたつのもの」の間の調整とか、釣り合いとかのイメージが出てきます。

そのイメージをもとに「正義」を見れば、ふたつのもの、つまり天秤が描かれているのに気づきますし、一方の「月」には、のような動物が二匹いるのがわかります。

ただ、数的には同じ「ふたつ」のものではあっても、方や天秤(物質、計り)であり、方や犬(動物、生き物)という違いがあります。

そして、ほかの絵柄としては、「正義に」はがあり、「月」には文字通り、「月」が描かれているほか、ザリガニのようなものもいます。

ということは、ふたつの間のバランスと言っても、まず「正義」のほうは、何か物質的(数量的)で、切って量れるような計測的なバランスであることがわかり、逆に「月」は、生物的と言いますか、目に見えるはっきりと計測できるようなものではないうえに、ほかのもの(二匹の犬の間だけではないもの)との関係でのバランスがあることが示唆されます。

いわば、誰が見ても明確な指針となる規則やルール、数値のような客観的なバランスと、その人や、大いなる視点でしかわからないような主観的、あるいは超個人的視点でのバランスがあるという対比になるのです。

簡単に言えば、皆に共通のバランスと個人個人のバランスの違い、または、一般レベルのバランスと、宇宙的・神的レベルのバランスの違いみたいなものです。

このふたつのバランスの違いを理解しておかないと、人に自分のバランス感覚を強要したり、判で押したような無機質なバランスを誰に対しても適用したりしてしまいます。

確かに概念としての共通ルール的なバランスはあるものの、言わば、心の中の一人一人のバランス感覚は違うものであり、バランスの調整とその方法も、個人で異なってくることになります。

肉ばかり食べても健康な人はいますし、野菜だけのベジタリアンがいいという人もいます。統合レベルになればなるほど、バランスは全体性を帯びてきます。

何かひとつだけバランスを取ればいいというものではないのです。

価値観をはじめ、人間は一人一人の違い・個性があり、例えば成功というものに対しても、思いの違いがあります。

ですから成功法則というものも、共通のところはあるにせよ、細かい点、具体的な面では、一人一人違うのが当たり前です。

知識と感性(直感・感覚)においても、50対50というようなバランスではなく、人によって、感性のほうで80%理解して、知識は20%でいいという場合もあり、その逆や、いろいろなパーセンテージはあるものです。

つまりは、あの人の通りとか、モデルとか師匠の通りそのままにしなくてもいいわけであり、もっと言えば、誰も他人そのもの、その人にはなれない(他人のバランスを表現できない)のです。

それよりも、その人の表現している本質のバランス(バランスの本質)を重視するのです。

健康と食事で例えれば、ある人が健康だからと言って、その人の毎日の食事内容をそっくりまねするということではなく、もっと長期のスパンや性質などからその全体性を見て、トータルなバランス性に着目するということです。

言ってみれば、「正義」だけではなく、「月」のバランスも考慮する意味にもなります。

「正義」はともかく、読みにくいといいわれる「月」のカードには、こうしたバランス性をテーマとして、読む場合もあるのです。


「吊るし」の反転性が重要

マルセイユタロットの「吊るし」は、特殊なカードと言えます。

ほかのタロット種でも、このカードに該当するものはありますが、「吊るされた男」とか、「吊るし人」という名前が普通で、マルセイユタロットの「吊るし」とは解釈が異なっているように思います。

どうしても、一般的な名称では、吊るされていること、吊るしているという見方が主になり、「吊り」状態が受動的になっている印象です。

ともあれ、吊されているにしろ、自分から吊しているにしろ、私は、「逆さになっている」ことの姿勢が重要だと感じています。

「逆さになって見る」というのは、言わば、物事をすべて反転させてしまうようなものであり、それがポイントだと考えられるのです。

「逆もまた真なり」という言葉があるように、まったく正反対ということは、対立する別の概念や意味とは限りません。

逆さに見た時は、確かに見え方はまったく変わりますが、実はそれこそが真実の見え方だったり、隠されていたものだったりするわけです。

逆転する、反転するということは、今までの認識が180度変わるわけですから、混乱するのが当たり前です。

逆から見た世界も、また真実なのだと告げられた場合、それまで自分が見ていたものは何だったのか・・ということになります。

今までの正立状態というのは、「完全」というものを片側・反面からしか見ていなかったのであり、逆さになることで初めて全体を見たことになるわけです。

私たちは正面を向いていますが、その反対の後ろ側は常に見えておらず、残念ながら、人間の視点は360度、全方位を一度に見るようにはできていないのです。

従って、正立(逆さまになっていない通常状態)の時でさえ、半分しか見ていないことになります。

これに加えて、逆さまの位置というものを入れますと、正立と反転(逆さ)での半分ずつ、都合、正立の前方と後方、正逆のそれぞれの前方・後方と合わせると、これだけでも4つの視点を持たないと、なかなか完全・全体というものは見えてこないことがわかります。

また、「逆に考える」ということは、さまざまな示唆を与えます。

言葉の順序・位置を入れ替えただけで、意味やニュアンスが変わってしまうこともあります。

例えば、「好きな仕事をすれば、幸せになれる」というのが、「幸せになるには、好きな仕事をするしかない」という風に、反対に言葉を入れ替えて書くと、何か前者の文章と後者のそれとでは異なることがわかるでしょうし、自分の思い込みとか価値観というのも明確になる場合があります。

それから自分が正しいと思っていること、信じていることが、まったく逆、つまり間違いや不確かで信じられないものと仮定するとどうなるのか?と考察してみるのも面白いです。

さらには、つらいことや悲しいことがあれば、その経験の中で、反対のいいこと、楽しいことはないかと逆転させて考えてみると、心が楽になれる場合があります。

ネガポジ反転といわれるように、物事のよしあしは、まるで正反対のもの同時に含みます。

好調の時には、すでに不調の兆しが始まっており、不調の時は好調の種が蒔かれています。

人生には、これまでの自分の価値観を全く反転させるようなことが、いつか起こります。それは内的なこと、外的なこと両方の意味において存在します。(発生する可能性がある)

そうした時、私たちはこれまでの自分を象徴的には一度死なせて、再び、全く新しい状態で再生させなければなりません。

霊的な意味合い、覚醒の意味では、私たちのほとんどが、まだ「逆さ」にもなっていないと言えるでしょう。

自分が「吊るされる存在」ではなく、自ら「吊るす(逆さになる、反転する)」ことのできる者であり、また(何者かに)吊るされていることにも気づく必要があります。

「吊るし」を体験すると、自分の見ていた「世界」は反転し、常識が非常識、非常識は常識へと変わるでしょう。注意深く見れば、マルセイユタロットの「世界」のカードと、「吊るし」の関連性も見えてきます。


無料メールリーディング企画

無料でのメールタロットリーディングのご質問を募集いたします。

これは、この度行う、タロットリーディング講座(リーディングコース)のために企画しております。

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◆無料メールリーディング企画◆

●募集人数
先着順 3名 ※枠に達しました。ありがとうございます。

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●締め切り
4/27(水)まで

●応募方法
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ご質問については、お申込みの時点では書かなくても大丈夫です。リーディングが決定した時、こちらからご連絡いたしますので、そのご返信で、タロットへの問いをお書きください。

お名前は本名でも匿名・ハンドル名でも構いませんが、メールアドレスは、PCから添付ファイルが送ることのできるものでご用意ください。送信できない(アドレス間違い、PC受信拒否設定のままなどの)場合は、権利をほかの人に移譲させます。

●リーディングつにいて
リーディングは、当方の行うタロットリーディング講座中に、受講者の実践練習として行ってもらいます。結果は、後日、受講生が記載したメールリーディング形式のものを、当方が監修したのち、お申込み者にメールにてお送りいたします。到着の目処は、だいたい5月上旬頃となります。

以上、よろしくお願いいたします。


横と縦とバランス、完全性の多様

熊本ほか九州で起こった(起こっている)地震の被害に遭われた方のお見舞と、お亡くなりになられた方のご冥福をお祈り申しあげます。一日も早い復旧が行われますよう、願っております。

東北大震災から5年、私も経験した阪神大震災からもかなり年数が経ちましたが、改めて日本で暮らすことの意味、今後の備えや社会・暮らしの改革が求められるのではないかという思いを強くしました。

何かの行動を起こすことができない人でも、少なくとも心や魂の声に耳を傾け、全体のレベル(次元)を上げるために、個々の内側で、切り替えと変革の意識をもつ(自己の本質思い出す)ことは重要かと感じています。

マルセイユタロットを見ていると、いろいろなことが整理されてくるのですが、そのひとつにバランスと次元というものがあります。

おそらく、この世界は、局所(ミクロ)的にも壮大なマクロ的にも、どの部分においても、あるバランスが働いて、それなりに均衡している状態だと考えられます。

ただ人間の思考は、偏りや錯覚が可能になる「創造性」を持つとも言えます。これもよいと言えばよい特徴ですし、悪いとはいえば悪い能力です。

それでも、たとえ一人一人の思考が生み出す(とらえる)世界においての錯覚(アンバランス)があっても、個を超える全体性と客観性(神とか宇宙とかの目線と言ってもいいでしょう)から見れば、やはりバランスは取れていると思えます。

荒っぽく言ってしまえば、一人一人違っていても、平均すると、バランス化されているというようなものです。(これは厳密にはまったく違う例えなのですが・・・一応、わかりやすくするための例えです)

しかしながら、これはまだ、ある一面だけ、横軸だけの視点に過ぎません。

一面・横軸というのは、そうですね、階層をもった建物・マンションみたいに想像するとわかりやすいです。

そうした建物で言えば、1階だけ、2階だけといった横視線の方向で見ているのが、「横軸」のバランス視点となります。

2階の201号室の住民と、207号室の住民はまったく違う人ですが、2階の部屋全体で総合すると、バランスが取られていて、平均化されているように見えるという感じです。

ところが、建物全体では、縦軸・縦階層もあります。1階と3階そのものの違いというやつです。

しかし、階層の違いはあっても、縦・横全体において見るとバランスが取れていると考えるのが、全体視点のバランスです。

そして、この階層の違い、縦軸が次元を象徴し、言わば、1階と2階では、次元(レベル)が異なる生活があると考えます。

高い階に上がるほど、まさに高いレベルの意識とそれに応じた生活があり、同じ階層では皆同レベルではあるものの、一人一人(部屋単位の住民)には個性や差異があります。

5階の人は1階の人よりレベルが上ですが、同じ5階の502号室と509号室の人は違う人が住んでおり、1階の人とは視点と視野が異なった景色を見ている(思考が異なる)ということです。

これは「類は友を呼ぶ法則」に近いものと言えます。

それで1階の人は、そこから見えるものを、「これが普通の景色だ、生活だ」と思っていますが、5階の人にはそれとは違う景色が見えています。

この形式の見え方が、考え方の違いを象徴しているようなものです。

長々と例えてきましたが、要するにこういうことです。

私たちの今の社会・生活レベルは、それはそれでバランスが全体として取れており、その意識レベルにおいては、これがノーマル・普通、このままでよい、あるいは、これで仕方ない、変えられない、変えなくてもいいと思う人が多くなります。

ところが、別次元(レベル)に意識がシフトしますと、ほかのあり方や方法で、社会のシステム・暮らしが成り立つことに気がつきます。

それがまた、そのレベルにおいてバランスが取れているのです。下の次元の人には思いもよらない社会(言ってみれば常識はずれ)なのですが、その次元に至れば、「普通・ノーマル」なことなのです。

どの所でもバランスが取れている、均衡化されているということは、言い方を換えれば、どのレベル・次元においても、その階層において「完全」だということです。

しかし、次元や階層が異なれば、それぞれでは「完全」であっても、まるで「世界」「宇宙」そのものが違っているように見え、別世界としての「完全」レベルがたくさんあるということになります。

おかしな言い方になりますが、「完全」というものは、何種類もあるということです。

換言すれば、完全性とは、本質は同じでも、スタイルと表現に違いがあると言えます。

ですから、一人一人の意識が変わっていけば、全体としてのレベル・次元のバランス性・完全性の表現もシフトしていき、別の宇宙・世界を経験することになると考えられるのです。

今のような表現の世界でいいのかどうか、今の日本のスタイルでいいのかどうか、ここに来て真剣に考えないといけない時期に来ているよう思います。


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