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タロットの一枚引きについて

タロットカードの展開法・スプレッドでもっともシンプルなものに、一枚引きというものがあります。

これは文字通り、カードの山から一枚だけ引いてくるというものです。

正逆(描かれている絵の向きが正立の位置になっているか、逆さまの位置なのか)、あるいは詳細に検討する人は、引いた時の微妙な角度まで意味をもたせるものもありますが、最初はまっすぐの正立だけで見ていくほうがいいと思います。

諸説ありますが、私の考えるところ、カードで正逆の位置により、意味や解釈を変えて読むようになったのは、かなりあとのことではないかと推測しています。

最初は普通に、正立の状態の絵を見て判断していたと思います。

というより、本当はタロット(マルセイユタロット)は、カードを引いて物事の判断材料にするというような使い方ではなかったのではないかと、私自身は考えています。

それはさておき、ともかくも一枚引きでは、当たり前ですが、カードがたった一枚しか出ません。

一枚だけなので、そのカードしか手がかりや情報がないわけです。

ですから、意外にこの「一枚引き」のリーディングは難しいところがあります。

一枚引きでリーディングする時、「情報量が絶対的に少ない」という観点から見て、そのままその特性を活かせば、「シンプルに読む」ことが、まずはあげられます。

ところが、人間は意外にシンプルに考える(思う)ことができないことが多いのです。

カードを展開する前には、問いなど、タロットに聞いてみたいことがあるはずですから、どうしてもその問い・質問の内容についてイメージしたり、考えを巡らせたりしています。

これは、カード読みの基本みたいなものなので、問いについて何か想像すること・イメージすることは仕方ありません。(むしろ推奨されることもあります)

ですが、あまりにそれにとらわれると、「問い」に関する事柄や抱いたイメージとの一致を思って、引いた一枚だけのタロットの(絵の)中から、必死で探そうという態度にもなってしまいます。

それが逆に、シンプルな読み方を阻害することもあります。

そこで、まず、シンプルに読むためには、出た(山から取り出した、あるいは表に返した)瞬間のニュアンス・雰囲気を、思考をあまり入れずに素直にキャッチすることです。

それは感覚的・感性的とも言っていいものです。

そして、カードに人物がメインで描かれているのなら、その人物と自分が(想像の中で)会話したり言わんとするものを感じ取ろうとしたりします。

カードの声を聴くと言ってもいいでしょう。

見るにしても、カードの、特に目に最初に飛び込んできた、あるいはすごく気になった部分に注目してみるくらいです。

そこをボーとした感じで見ていると、ある事柄が浮かんでくるようなことがあります。

まあ、これが一枚引きをシンプルに見てみる方法のひとつですが、これとはまったく逆の見方もあります。

さきほど述べたこととは矛盾するような話になりますが、実は一枚(引き)に膨大な情報が詰まっていると考え、知的に読むやり方があります。

読むというより、分析に近いかもしれません。

一枚というのは確かに見た目は情報が少ないです。ただし、モノの見方を反転すれば、それは実はものすごい情報があると見ることができるのです。

情報を量としてとらえるから、一枚は少ないと感じてしまうもので、情報を質だと見れば、また違ってくるのです。

言い換えれば、巨大な抽象次元に引き上げて一枚を見るという方法になります。

一枚から具体的で現実的な分野や事柄のメッセージを得よう、導こうとするから難しく、情報の量も少なく感じてしまうのです。

これを一枚の中に一切がすべて含まれているとして大きく見ると、最初に細かい答えを探そうとはしなくなります。

大げさに言えば、一枚を宇宙そのものとして感じるようなものです。

そうした大きな抽象感覚をもったあと、再び現実や細かい「自分の問い」のレベルまで降りてきます。この時、タロットの絵柄の象徴(の知識)が活かされるのです。

ただ、最初に述べたシンプルに読む感覚的なものとは異なり、象徴の意味を知識として学んだうえで分析していくような形で、問いの次元に落とし込んでいく性質のものです。

このため、マルセイユタロットのリーディングでは、タロットにおける象徴の知識を深く学んだほうが、直感的なものだけではない、面白いリーディングができます。

感覚的に読むものだけでは、実際、それはタロットカードでなくてもよいところがあります。

乱暴に言えば、、それは何でもよいわけで、自分で作ったカードでも、木の葉っぱでも、感覚的にとらえることができれば、自分に役立てることはできるでしょう。

存在するものすべて、自分の創るものも含めて、宇宙そのものの表現だとすれば、どんなものにも宇宙(神)がある(いる)と言えます。

一枚引きというのは、タロットの引き方の基本だと言われますが、それはシンプルな枚数ということもあるのですが、タロットを引く(タロットが意味を持つ)世界を、自分か創る第一歩であるからだとも言えます。

どんなものでも宇宙を表すと、さきほど指摘しましたが、「タロットを引いてその解釈をする・できる」ということは、タロットで組み上げられる宇宙・世界のモデルを、あなたが創造することでもあるのです。

タロットカードという材料を使って、あなたが世界の創造主となって、自分の世界を創ります。

しかしそれは、「全体」「大元」と切り離されたものではなく、本当の大きな世界の入れ子構造として、これもまた、同じ型を持つ「世界・宇宙」のひとつなのです。

それを実感するために、まずは一枚という最少の枚数で訓練することになります。

この意味で、やはり一枚引きはタロットリーディングの第一歩・基本となるのです。


グループ・仲間の両面性

マルセイユタロットに「太陽」というカードがあります。

さんさんと輝く巨大な太陽の下で、二人の人物が手を取り、喜び合っている姿が描かれています。

この二人は同志であり、仲間であることが伺えます。

ここに描かれている二人の象徴性は、非常に高次なものと考えられますが、あえて今日は次元を落として、普通の仲間やグループというものをテーマにしてみようかと思います。

日本人は共同性や同じ感覚を共有したいという意識が強いせいか、仲間やグループが重要な役割をもったり、逆に束縛や所属意識を強めたりするところがあるように思います。

日本的表現の代名詞にもなっている「漫画」や「アニメ」においても、仲間意識の強調、シンボルの共有、仲間のために頑張る、仲間のために命をかけるみたいなことが描かれます。

それで感動することもある反面、そこまで仲間に思いを寄せるのはどうかという疑問がわくこともあります。

仲間思いがよい面があるのは確かかもしれませんが、奥底には仲間がいないと安心できない気持ち、仲間の承認を得ないと確信の持てない心情、自分一人では自信の出ない状態が隠されていることもあるわけです。

心理的にいえば、仲間との共依存の関係とも言えましょう。

最近は精神世界でも、心理などの方面でも、さらにはビジネス・成功系でも、仲間やグループを作ったり、意図的に作られたりしていることが多いように感じます。

同じ志をもったグループや、同じ学びの仲間を形成することは、よいことがたくさんあります。

私も実際に、マルセイユタロットを学んだ(学ぶ)人たち同士で交流する会を開いたり、情報交換できる掲示板を作ったりして、つながりを重視しているところがあります。

それは、特にタロットのようなものは、一般社会では特殊な学び(趣味の場合もあるでしょう)になり、なかなか普通にタロットと、そこに描かれている内容について話し合ったり、気づきを分かち合ったりするような機会・人がいないからです。

つまりは孤独な学習環境となりますので、それを解消するためにも、グループは必要なものと考えているのです。

また同じタロットを学んでいるので、例えばタロットリーディングにおいても、逆に自分とは違う読み方の視点も得られ、固定観念を打ち破るような、いろいろな刺激にもなります。

それから心理的な学びのグループにとっては重要なことになると思いますが、自分の価値を認めるうえで貴重な経験と場所にもなります。

自己を尊重していく自己肯定の過程においては、実は他人から、ありのままの自分を肯定されたり、評価されたりする経験が必要なことがあります。

自己肯定は、すなわち、自分を愛するという言い方に換えてもいいかもしれませんが、それは簡単なようで難しいものです。

いくら自分を愛することが重要だとわかっても、なかなか自分を愛することができない現実もあります。他人から愛されたり、肯定されたりした経験がないと「愛」の感覚すらわからないものだからです。

そういう場合、自分を出せる安心した仲間うちの環境は大事です。

このような場所ならば、お互い暗黙の了解があり、認め合うのを前提としていますので、その人のよいところを発見したり、そのままを肯定できたりしやすい環境にあるわけです。

そのため、他人からの肯定、ポジティブな評価が得られやすく、自信がつくのです。そこから自分で自分を認め、尊重する方へ向かいやすくもなります。

そういう意味でも、同志、仲間とその集まりは、大切な存在と場所になります。

ところが、何事もプラスあればマイナスありです。

最初のほうで、仲間やグループは、束縛や強制にもなると述べたように、あまりにも仲間意識が強固になりすぎると、様々なマイナス面を見せます。

それは一言でいえば仲間と、その磁力のような場所、仲間うちのルールに囚われるというものです。

またあまりにも居心地が良すぎて、お互いの成長を阻害し、なれ合いの関係を生じさせることもあります。

もっとひどい場合には、成長しよう、新しい環境へステップアップしようという人が、仲間への裏切り行為みたいに思われ、いじめや非難を受ける場合があります。まさに人の足の引っ張るわけです。

その仲間やグループが、有名で大きな影響力を持った講師や先生、何かカリスマ的なパワーを持つ人を中心に形成されている場合、その中心の人が「神」のようになり、その方への忠誠心が試されるようなグループになり、非常に束縛感の激しい組織になっていることがあります。

そうすると、批判や異論がはさめないのは当然で、自分はちょっと違和感はあるのに、仲間は賞賛しているから、自分もそうしなくてはならない・・・みたいなことが起こってくるわけです。

このようなグループは、もはやマルセイユタロットでは、「悪魔」によって作られたグループをイメージさせます。

この「悪魔」のカードと、最初に述べた「太陽」のカードとは、ある象徴で強い結びつきと違いが示唆されており(関係性の深いカード同士ということ)、とても興味深いです。

今はSNSが発達しましたので、承認欲求も過剰に刺激されることになっていますから、仲間うちのお互い(個人・個人)の承認欲求も激しくなり、何らかのレスポンス(反応)を返さないと、仲間はずれにされる(実際は自分がそう思ってしまうことのほうが多いでしょう)不安にさらされることになります。

このように、仲間やグループはとてもよいプラス面がある一方、現代においては、それと同等なくらい、マイナス面、危険な部分も含まれています。

遊びにおけるグループ・仲間はそれほど深刻にはならないかもしれませんが、学びにおけるそれは、共生のつもりが強制にならないよう、自分でも注意しておく必要はあるでしょう。

何かグループで違和感や苦しさ、つらさ、強制感を感じたり、そこから離れようとすると攻撃を受けたり、足を引っ張られたりするものは、やはり何かバランスが崩れていると見るべきです。

ただそれは、グループ自体の問題もあるかもしれませんが、むしろ自分の問題ということがほとんどなのです。

グループはただある特徴をもって、グループとして存在しているだけです。本当はいいも悪いもありません。

あなたの思い方次第で、仲間やグループは、サポートにも解放にもなれば、逆に堕落や束縛にもなるのです。


ネガティブシンキングの修正

私は基本的にはバランス思考(志向でもあります)を重視しますが、そのバランスも、いろいろな見方をすれば、一時的にはバランスをあえて傾かせることもアリかと思っています。

そういう一例として、ポジティブシンキングへの傾きというのがあります。

このところ、たくさんの人が指摘しているように、ポジティブ過ぎるのは、確かにバランス的には問題です。

人間の感情や思考は、いつも明るく前向きにあるわけではなく、時には落ち込んだり、暗くなったり、まさにネガティブシンキングに傾くことは誰にでもあるからです。

それを無理にポジティブにしようとするのは、重力に逆らうようなもので、かえって多大なエネルギーを浪費し、疲れたり、ますます自己嫌悪に陥ったりします。

しかしながら、一方で、人にはというものがあります。

これは生まれながらという素養もあるにはありますが、たいていは育成環境、今まで過ごしてきた経験によってついてしまったものと言えます。

それは身体的なものとして体の癖にもなりますし、感情や心、思い方の癖、思考癖のようなものも形成されるのです。

脳内的には、同じ神経回路を通る固定ルートのようなもので決まっている状態かもしれません。

そのような癖として考えると、ポジティブシンキングの傾向になる人より、ネガティブシンキングに傾く人のほうが問題が多いのではないかと想像できます。

もともとポジティブな人は、前述したように、人として落ち込んだり、へこんだりすることはあるかもしれませんが、あまり無理に思い直すということはないように思います。

まあ、言ってみれば、何事も楽観視できるので、事態を必要以上に重たく考えずに済みます。

重たく考えないということは、そのままその人から見た世界観(事象・物事のとらえ方)となり、「世界は重たくない、明るいもの、楽しいもの」として形成されていきます。

ですから心理的・スピリチュアル的に見れば、現実は自分の投影した世界となって、実際に人生や生活は重たくないものになっていくものと考えられます。

ということで、ネガティブ思考癖の人のほうが、現実の幸せ観(一般的な幸せ基準)から見れば、その癖を修正していくほうが望ましいと言えます。

しかし癖というのは、意識しないとなかなか変えることが難しいものです。

特に体癖と違い、目に見えない心の中の思考癖ともなると、自分ではわかりづらいものです。

それでも、やはり修正の第一歩は、自分で意識する時間を増やすということになるでしょう。

この場合でも、マルセイユタロットは役に立ちます。

マルセイユタロットは心の元型として、人の感情や思いのパターンを絵柄で象徴しています。

人の共通パターンとしての象徴があるので、言わば、思い(方)をチェックするのにはうってつけなのです。

見えない思考や感情の部分を、絵柄として見える形で映し出す機能がありますので、そういう意味でタロットは見えない部分を把握するのには有効なのです。

カードにはもともと楽観的なことを象徴しているものもありますが、逆に、どうしても一般的にはネガティブにしか思えないものもあります。

例えば、一般的なタロットカードの名前で言えば「死神」とか「悪魔」とか「塔」と呼ばれるカードなどは、その典型でしょう。

ただし、マルセイユ版では、それぞれ、「死神」は「13(番)」、塔は「神の家」となりますので、かなり違ってはきます。(そもそも、本来はいい・悪いの意味で区別してカードは見ません)

しかしそれでも「悪魔」のカードなどは、私たちのイメージにすり込まれたまさに「悪魔的」なイメージから、最初は普通にポジティブに考えることは難しいでしょう。

だからこそ、とてもネガティブな人がポジティブシンキングに変えるよい訓練にもなるのです。

タロットがなくても、先にも述べたように意識的になって、自分のネガティブ思考癖に気がついたら、その都度修正していくようにすればいいと思います。

ここで未来のことを思ってみましょう。今の現状に左右されるかもしれませんが、未来を予想した時の、あなたの「思い方」はどのようなものだったでしょうか?

先行きのことを予想して対処するのは、人間の想像力による知性とも言えますが、それも行き過ぎると取り越し苦労となり、まだ起こってもないことに心配したり、解決策や別のよいことが起こる可能性を排除したりという、ポジティブな「想像力」のほうが欠如してしまう人がいます。

不安(な状態)があるから、悪いほうに考えるのは仕方ないこともあるのですが、実は不安があってもなくても、癖によって、そのように思いがちな自分になっていることもあるのです。

まったく同じ状況であっても、思考癖により、ある人は楽観になり、ある人は悲観にもなります。

ネガティブ癖の人は、幸せなことが続いても、「いやいや、これはあとから悪いことが起こるに違いない」とか、「こんなに楽しいことが続くはずがない」とか、やはり癖によって、どんな時でもネガティブなシンキングを忘れない(笑)ようになってしまうのです。

その律儀さたるや、自分でもびっくりするくらいだと思います。

ネガティブシンキングの人は、その癖によって、一種のネガティブループの状態に陥っていますので、その根本の癖を修正する意識と同時に、ループから抜け出すきっかけとしての、環境チェンジ、思考の堂々巡りをストップする外側から働きかけ、自らの切り替えの作業・行動が重要です。

その点では、思考癖も一種の体癖ととらえることが可能で、体(環境)を変えたり、運動したりすることで、思考も変化すると考えられます。

つまりは、癖はいろいろな方向から修正することが可能なのです。

また体癖と同じく、癖はすぐに元に戻ろうとする傾向がある(その癖の大元を修正することも重要なのですが)ので、何度も修正を繰り返していくことが、もうひとつのポイントとなるでしょう。


タロットの抽象・象徴世界の解放性と束縛性

タロットの世界もそうですが、こういうものは言ってみれば、目に見えない世界や心理、スピリチュアル、さらには神や仏、宇宙、根源、全一などといった究極まで扱います。

それは私たちが普通に意識し、生活する次元(レベル)とは異にした「抽象的世界(次元)」に飛ぶことでもあります。

従って、言い換えれば、普通の「現実」(意識)から離れるということであり、そこにはふたつの「遊離」「移行」といったものが出ます。

ひとつはいい意味での自由や囚われからの解放、または真理への到達や悟りという方向性で、そしてもうひとつは解放の逆になる形で、現実離れ、中二病、悪くすれば妄想、精神異常、病理的な思い込みの世界に閉じこめられるといったものです。

精神や行動の自由の獲得、自分の霊性を高めるものが、一方では反対に、自分を閉じこめたり、自己洗脳、自己肥大、現実や他人への侮蔑のような極端な世界観に封鎖されるようなことになるのです。

探求が過ぎると、それは孤独になり、自分だけが本当の世界を知っているとか、オレはワタシは特別だとか、傲慢な状態にもなることがありますし、それとは真逆の、深く求めるレベルに達成できない自分にいい評価ができず、ますます自己否定・自己卑下になる人もいます。

このように、抽象世界、イメージの世界、現実の意識とは別の世界を知ることは、楽観と悲観、解放と束縛、安全のようでいて危険でもあるという矛盾を抱えています。

よく狭義のスピリチュアルや心理レベルで、最近は自分を愛すること、自己の価値と評価を高めることが大切だと言われていますが、現実と非現実の狭間の段階においては、そのことは確かにとても重要です。

しかし、抽象世界に奥深く分け入ると、巷で言われるような自己評価など吹き飛び、底なしの自己否定感に囚われることもあるのです。それは易々と「あなたは宇宙から愛されている」などといった言葉で肯定できるものではありません。

しかしながら、抽象世界は、底なしの自己否定が反転して、底なし、いや、あえて別表現をしますが、際限のない自己肯定に変化します。

それこそが自我・自分という意識を失う究極の「全」的感覚、感覚のようで感覚でないものといったものでしょう。

それは、「わたくし」がない世界なのですから、自己の否定も肯定もないというものなのです。

それはさておき、前置きが長くなりました。今日言いたいのはこのことでありません。

要するに、抽象的世界(感・観)は、現実を色々な意味で超える力を持っているということです。

それを活かすも殺すも、自分の活用次第なのです。

イメージや抽象、象徴の世界にふれることで、神や宇宙、見えない心や存在というものを、何とか人間の意識レベルで置き換えたり、把握できたりが可能となります。

それは現実という枠組、一般的価値観からあなたを解放するものです。

わかりやすく言えば、今の世の中でいいと認められる人やもの・状況、反対に悪いと思われることやダメな状態、負け組や落ちこぼれ、失敗者と思われてしまう人など、こうしたいい・悪い、幸・不幸、成功・失敗の価値観・基準で判断される世界とは別の価値・見方を得られるのです。

例えば、人生を短期間で見るのと、亡くなる直前から振り返るのとではまた違います。

いろいろとあったけど、最後はいい人生だったと思えたとか、何事もなかったのが実は大きな幸いの連続といえる人生だったとか、終わりからの視点で人生を見ることもできれば、短期的に、「記録への挑戦へ、この一瞬にかけた」とか、「あの人との恋に燃えたひとときの時期がすばらしかった」という「その時」だけを見て、よい人生だったと言えるかもしれないのです。

こういう多角的視点、特殊な視点で自分(の人生)でなければ見えてこないものがあり、今の現実や一般的価値観・幸せ観だけで判断していては、いつまでも苦しいまま、成長しないままの地獄、固定観念に縛られやすくなります。

そう、自分を大きな次元、宇宙とか神のような目線、あるいは地球の視点、動物たちの目線、他人側からの思いに浸るなど、別次元、別意識に飛ばないとならないのです。

それが抽象・象徴の世界によって可能となるのです。

マルセイユタロットは、実際に存在する絵のついたカードという物質性・現実性とともに、その図柄と構成によって、目に見えない世界、抽象的・イメージ的世界、別の次元、究極の状態を想起させられるようになっています。

言わば、現実と非現実のゲートや架け橋でもあるのです。

ここで囚われからの解放を目指すのもよいですし、様々な自己の統合を図っていくことや、真理の探究を進めていくのもよいでしょう。

ただ、先述したように、一方で非現実の世界(観)は、逆に自分を妄想や空虚な世界、生きるエネルギーの喪失、一切合切を同一に見てしまう危険性に閉じこめ、現実逃避の手段としても利用されます。

そうならないよう、架け橋を行きつ戻りつする場合でも、いつも意識的になり、非現実の世界で考える場合でも、どこかに現実性を持たせて飛翔することです。

つまり、行ったきりにならずに、現実に戻る(通常の意識世界に還元する)ことが必要なのです。それも、ただ同じ意識で戻るのではなく、飛翔した世界で見たものを活かす意識です。

そういう意味でも、何か特別な体験をして日常に戻った時、海外旅行を終えて国内の普段の生活に戻った時、研修を受けて通常の業務に戻った状態のような感覚に近いでしょう。

マルセイユタロットの場合、どちらかに傾き過ぎないよう、見事に精神性や現実性のバランスを、象徴的にカードに配置しているように思います。

と言っても、最終的には、それ(タロットのような現実と非現実を架け橋する象徴ツール)を扱う「人」、その「人」の求める方向性、バランスの問題が重要となるでしょう。


人にも「脱皮」があること。

マルセイユタロットには「脱皮」をイメージさせるカードが幾つかあります。

典型的なのは「13」の人物、そして「」におけるザリガニのような存在です。

ほかにも「吊るし」の人物も、ある意味、脱皮前のような印象を受けますし、その他、これは秘密になるので言えませんが、数枚、脱皮を彷彿させるカードがあります。(ぱっと見ではわかりません)

そしてそれらのカードの続き番号のカードには、必ずと言っていいほど、殻を破る激しさと、脱いだあとを癒すかのようなカードが配置されているのです。

やはり、皮を破る勢い、強さのエネルギーと、そのあとの傷を保護したり、癒したりするエネルギーの両面あってこそ脱皮がかなうのでしょう。

現実的には、人は脱皮をしませんが、象徴的に考えれば、脱皮現象はいろいろなシーンで行われているといえます。

精神的には幼く・古い自分から、強く新しい自分になる成長かもしれませんし、体でいえば、細胞の増加、再生、体躯の発達でしょう。

実際に体の細胞は見た目はわからなくとも、毎日死んで新しいものになっているようですし、数年のサイクルで入れ替わっていくと言われていますから、甲殻類や爬虫類的な脱皮ではなくても、私たちは脱皮を繰り返していると言ってもよいのかもしれません。

ところで人の記憶やデータというものは、一般的に脳にあると考えられていますが、最近はでは腸(に住む微生物も含む)にもあるのではないかと言われたり、心臓など、ほかの体の部分にもあると推測されたりしています。

私はさらに、タロット的に考えて、細胞ベースみたいなものにも記憶のようなものが宿っているのではないかと想像しています。

汎神論のように見れば、どんなところでも「神」が存在し、ほんのわずかな細胞にも神性と意識のようなものがあるのではと思うのです。

ミクロの細胞ではなくても、現実的には体の個人的な特徴・癖・傾向として考えてみてもわかります。

もちろんそれは長年の姿勢のようなものからでしょうが、精神的なもの、感情や思考の癖によっても体は個性(いい・悪いを含む個人的特徴)をもって作られてしまうことがあるように思います。

意識と体はバラバラではなく、やはり関連があってつながっていると見ますと、象徴的には、意識の脱皮(変化)が行われる時、体(の細胞)の脱皮も著しく促進されるのではないかとイメージできます。

その反対もあり、体(や内部に取り込むもの)を変えていくと、精神的な脱皮も進むと予想されます。

皮は殻だとも考えられ、それは一種の鎧であり、自分を守り保護する防御装置でもあると同時に、重たい囚われ、枠でもあります。

脱皮をする生物を見れば、やはりどの段階でも、その姿になっているのには意味があり、それでないと自分を守れず、適応しない部分があると考えられます。

ですから無理に脱皮をすることは、逆に危険でもあるのです。

自分のブロックや枠を強引にはがすことは、まだ固まっていない内部の柔らかな体がむきだしになって壊れてしまうおそれがあります。

ちょうど、昆虫のさなぎの内部がドロドロに溶けて、まだ変容中である途中で開いてしまうようなものです。

つまりは変化の前の準備期間、一定の安静期間が必要ともいえます。

先述したように、脱皮には壊すエネルギーもいれば、癒すエネルギーも必要で、それは、両方とも他人の手によってなされる場合もあるでしょう。

どちらにしても人が介入し過ぎると、バランスが崩れ、当人には苛烈なものにあるか、過保護的なものになるかです。

マルセイユタロットの「」のカードには、ザリガニとともにそのカード名の通り、天体の月も描かれ、月の周期に生物的な産卵・懐妊・出産のようなリズムがあることを示唆しています。

変化(脱皮)の前の安定、安静、静寂は、時に人によってはうつ的な状態や、やる気のなさ、葛藤で前に進めない状態の場合もあります。

極端な場合は、まるで後退しているかのように感じることもあるでしょう。

脱皮なのですから、前に行ったり後に戻ったりして、モゾモゾと古い皮をはいでいくこともあり、それは後退しているように見えることもあるのです。

自分の、とくに心理状況や、変化のリズムというのはわかりづらいところがあります。

それでもマルセイユタロットのような象徴ツールがあれば、見えない意識層を絵のように見える形で顕在化することができます。

もし「脱皮」が示されるカードが出れば、シンボル・象徴的に、自分の状況も「変化」の時にあることが客観的に把握できるというものです。

さらに小アルカナというパートも使えば、そうした内面的変化を、現実的な世界、実際の世界においてどう調整、表現していくのかということがわかります。

例えば、「脱皮」は大アルカナでは象徴的であっても、現実的には仕事で表現されるのか、恋愛で表現されるのか、その期間はどれくらいか、実際の数値基準として、小アルカナで見ていくことができます。

さらに面白いことに(意図的ですが)、マルセイユタロットでは小アルカナの数カードと呼ばれるパートは、絵というより記号になっています。

つまり、余計なイメージが思い浮かばないようにそぎ落とされているわけです。

それは、さきほど言いました、現実世界での数値などとリンクさせるため、関係ない分野までイメージしてしまって混乱することのないようにする配慮だと言えます。

話が少しそれましたが、人にも「脱皮」はあり、それは誰でも繰り返し経験することなのです。

そして脱皮前のあなたは、それはそれで必要な形態(心・体)であり、あなたの「今」に適応したものです。

それが古くなって、バージョンアップを必要とするようになれば、脱皮の準備が始まり、いよいよ、次の新しいあなたに生まれ変わることになるのです。

逆に考えれば、苦しい時、つらい時、葛藤が続く時などは、ある意味、それはもう古いあなたでは対応できなくなっているということであり、脱皮が促されていると見ることもできるです。


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