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うつ病予防や要因の、ひとつの考え

前回はうつ病時代の話を書くつもりでしたが、つい公務員(時代)のことについて書いてしまいました。

まあ、私にとってはその時代がうつ病になった時でもあるので、仕方ないと言えば仕方ないのですが。

さて、人がうつ病になるのには、様々な原因があると思います。

どういった観点で分析するかによって、人それぞれとなるでしょう。

ここでは、「自分殺し」の視点で見てみたいと思います。

自分殺しとは、また物騒な表現ですが、うつ病のひとつの要因としては、これがあげられると思っています。

もっと柔らかい表現で言えば、「自分への偽り」「自己本質と表現の抑圧」と言ってもよいでしょう。

自分が本当にしたいこと、自分の本当の心・思いと、現実で表せる行動・環境との不一致が続くと、どうしてもそこに葛藤が生まれます。

葛藤は歪みとなってねじれ固まり、ひとつの重力のような重さを持ちます。

逆に言えば、心と表現が一致・調和していれば、中立的になり、重さを感じないわけです。

この「重さ」「重力」は、次第に潜在的にも溜まっていき、重さの度合いを強め、ついには支えきれなくなります。

ひどくなると、重さで押しつぶされ、まさに自分(の純粋な部分)が象徴的には死ぬことになります。

しかし、人には生存本能がありますので、死なないように、防衛や反発が働きます。

それがうつ症状となって現れるものだと、ひとつには想像できます。

つまり、うつ症状は、表面的には沈み込むような停止エネルギーに見えますが、その裏側には抵抗や防衛のためのエネルギーが渦巻いている状態と言えます。

これが間違って現れた場合、防衛・逃避行動の過剰として、自殺などに向かう場合もあります。

現実(実際)的な意味で「自分を殺す」ということは、そこに行動が伴いますので、実はエネルギーがいることなのです。

そのエネルギーは、死への反発として、自己防衛で生み出されたものの可能性であることが、不幸です。

いろいろと説明していますが、要するに、自分の気持ちを殺して、あるいは抑圧して、我慢を続けることでうつ病が発生してしまう仕組みがあるということです。

ということは、ふたつの予防策や、治療に関わる考えができます。

ひとつは、単純ですが、我慢をしなくてもよい環境に身を置き換えること

そしてもうひとつは、我慢や抑圧という感覚にならないよう、自分の思考と感情を変えることです。

前者は実際には難しいかもしれません。

そう簡単に環境や仕事場を辞めたり、変わったりできないからこそ、うつ病になる、困っているとも言えるからです。

これは個人の問題だけではなく、社会的・地球(世界)的(働き方・生き方の構造的)問題まで根を張っているように感じることもあります。

しかし、象徴的なことではなく、本当の意味で生死の境目まで追い込まれてきたら、それは生命を重視するべきです。

会社に行くことで生きるか死ぬかレベルで悩むのであれば、まったくもって、そこは続けるにふさわしいところとは言えません。

死ぬために会社に行くのか、死ぬためにあなたは生きているのかということになるからです。

一方、軽度の抑圧になっていて、ここに居るのは苦しい、自分の本当の表現ができていないという人は、もちろん辞めたり、環境を変えたりしてもいいのですが、先述したように、自分自身を変えることで、環境は変わらなくても大丈夫になることがあります。

これは先に述べた後者の方法です。

自分という内側、認識装置をバージョンアップさせたり、性能を変化させたりすることで、環境適応能力を上げるという方法で、スピリチュアル的に言えば、内が変われば世界も変わるというやり方です。

自分を殺したり、抑圧させたりしてしまうのは、あるルールを厳守したりする傾向や、物事を受容する限界値が低かったりする場合もあるわけです。

言わば、自分を縛っている決まり事・考え方というのが強固にあるから問題なのです。

縛りというのは、よく言われるような、「・・しなければならない」という部分です。

人によく見てもらわくてはいけない、失敗してはいけない、親や配偶者、子供達を心配させてはいけない、期待に応えなくてならない、サラリーマンとして勤め上げなくてならない、いい加減な働き方をしてはならない、上司より先に帰ってはならない・・・というようなブロック的ものから、誰それに怒られるから、周囲から変に思われるから、あれをすると孤立してしまうのではないか・・いじめられるのではないかと・・・という不安・恐れから来るものなど、いろいろとあります。

もちろん、これらが悪いわけではなく、常識の世界で社会人として普通に生きるために、ひとつのモデルであり、ルールであり、社会秩序や自分を守るためのものでもあります。

ただ、それがあまりにも自分に課すことが強すぎて、自分が死んでしまうようなことになっては、意味がありません。

本来は自分と社会が調和・適応するためにルールを守っていることなのに、その主体である自分自身が殺されては本末転倒なのです。

ということで、平たく言えば、もっと大らかに、許容量を広く持てるようになるために、自己改造を行います。

それには、少しのわがままから入る(自分のしたいことをする)ことで、少しずつ改造計画(笑)が進みます。

例えば、ほとんど有給休暇も取らなかった状態から、今年は旅行や遊びのために取ってみる、残業ばかりしていたのなら、定時で帰る勇気の日を週の一日でも実行してみるなどから始めます。

会社や家族、友人・知人のため、ましては地球や宇宙のためでもなく(笑)、ただ純粋に自分のためだけに過ごす時間を持つことです。

あるいは、時には心理的な解放形セミナーに行ったり、瞑想や座禅などして、自分を見つめる体験をしたりすることもよいでしょう。

これとは違うやり方ですが、経済的収入を今の仕事以外で得られることを考え、その方法を学んでみたり、実行したりします。

今はネット環境があるので、その気になれば、すこしの額からなら、個人が稼ぐことは、やり方次第で比較的自由にできるでしょう。

要するに、今の仕事や環境だけで生きるというアイデアで固定しないということです。

ほかのアイデア・発想をもって、それが可能だとリアリティが持てるよう学んだり、経験したりすることです。

人は自分が思っているほど、小さい存在ではありません。セルフイメージが拡大できれば、その生き方の可能性と幅が増えるのです。

言い換えれば、常識人のふりをして、非常識を流入させろということになるでしょう。

ただうつ病になるようなタイプの人は、非常識で生きることは、逆に自分を苦しめる場合もあります。

ここが、もともと自由人的な人には、なかなか理解しづらいところです。

型が破れないから困っているのであり、また破ることは必ずしも快感や、いいこととは限らないのです。

しかし、そういう人の中にも冒険者的精神・自由の心、解放の欲求はあります。タロットで言えば「愚者」の心です。

それを失っては、人は生きる屍や奴隷、または何かのルールの強制者・規則遵守の番人者となります。

ですから、うつ病になるかもしれないタイプの人は、いきなりの自由人になる必要はなく、常識人として生きながら、非常識を理解すると言いますか、「そういうのもアリだよね」と、柔らかな気持ちで受け入れられる土壌に、自分を耕し直すくらいがちょうどいいのです。

無理に解放したり、無謀に思い切って好きなことして生きて行ったりするというのは、別の意味で自分を殺すことになりかねません。

一方で、自分(の心の)改造やキャパシティを上げても、環境が自分を苦しめ、自分を殺して来るのであれば、それはもう、その環境から離れてもいいと思います。

その環境は、あなたの性能を上げるために仕組まれたワールドなので、性能を上げた今(上げる必要性に気がついた今)、その世界(環境)は役割が終わったと言えるからです。

性能を上げるだけではなく、自分の性能が何に合っているのか、自分が本当は何をしたかったのかを気づかせるための環境の役割ということもあります。

あなたがそれに気づいたのなら、環境が変わるか、あなたがその環境から離れてもOKとなるでしょう。(辞める決意ができるようなもの)

とにかく、うつ病予防には、自分の内と外が乖離し過ぎないよう、自分を殺しにかかっていないか、注意してみるとよいでしょう。


公務員時代を、ふとスピリチュアル的に考える。

久しぶりに公務員時代のことやうつ病になった時のことについて、少し書いてみたいと思います。

もしかしたら、苦しんでいる人の何かの参考になるかもしれません。また反対に、まったく役に立たない内容かもしれません。

まあ、こんなヤツもいたのだと軽く読んでいただければと思います。

私は公務員をしていた時に、うつ病になりました。

その原因は、直接的には残業などが続き、体力的に疲弊していたこと、そして本当の理由は、今でこそわかりますが、自分をかなり殺して生きていたことにあると思っています。

公務員と聞けば、現在でも手堅い人気職でしょう。一般的にも楽な職場と思われているようです。

しかし、どの仕事もどの職場もそれなりにそうであるように、公務員の世界も決して楽なことはありません。

業務内容も、職場によるとはいえ、今はどこも人員不足であり、また悪しき担当制が徹底されていることにより、専門的で孤独な仕事でもあります。

それなのに、転勤すれば、もともとの専門職は別として、事務職の人などはゼネラリストとして、それまでとはまったく違う別の仕事を、いきなり全・市とか県とか国レベルで「専門家」として担当させられます。

なかなか民間では想像つかないと思いますが、転勤で変わる公務員の仕事は、一般でいえば会社が変わったり、転職して仕事そのものが変わったりするのに近いような衝撃があります。

加えて、外部(市民や県民、国民)との対応と同時に、内部(同じ公的機関内、別の公的機関同士)での仕事がかなりあります。

銀行のように、むしろ終業時間が来てから(対外的なことは終わっても内的にある)が、本当の仕事(時間)のようなものです。

ここらあたりは、いろいろと公務員特有の古い体質、組織なとが影響しており、私がいた頃でさえ、まさに内側で仕事を作り合っているとしか思えないようなところと、それも職員が実は喜んでいるような“マゾヒスト”的な体質が感じられました。

全部がそうとはいいませんが、少なからず、そういうところが公務員の世界にはあるのだと思います。

タロットをするようになって、霊的(スピリチュアル的)に物事を見ることが増えました。

そうして考えますと、公務員にひかれたり、公務員になる方というのは、多くの縛りブロックと言いますか、規則やルールを遵守しようという性質と、一方でそれを破壊したいとう衝動との葛藤カルマとでも言うべきものを持ち合わせている人が多いように思いました。

もし前世縁というものがあると仮定すれば、やはり過去生においても、何らかの規則や縛りが強い社会・組織で生きた人たちだったのかもしれません。

ある意味、組織を守ったり、自分の信条を壊さないようにするために、責任感も強かったのだと想像されます。

しかし、反面、それで他人を苦しめた経験があったり、何よりも自分自身に嘘をついて自分を縛ったりしていたところがあるのかもしれません。

それから公務員を選ぶ人は、よい意味で言いますと、公共の福祉に貢献したいという思いがどこかに持っているはずで、そこから自己犠牲の精神も強くなるのだと考えられます。(それが曲がった形となって、マゾヒスト的な傾向となっているように思います)

ただやはり、公務員なのですから、一方では、安定や自分の身を守りたいという強固な保守性自己保身性も存在しているでしょう。

そうして考えると、公務員になる人のスピリチュアルな魂というのは、いろいろと「葛藤」がつきものという気がします。

そこで再び、今生で公務員になることで、過去データ(カルマと呼んでもいいのかもしれません)を浄化しようという働き(行動・環境調整)が出るのたと思います。

そして公務員になれば、葛藤を統合、あるいは破棄するかのようなデリート作業によって、自分をもう一段階を進めさそうとするでしょう。

ひとつは、公務員をする中で、魂自体は比較的自由に生きるような選択をするというのが考えられます。

これは公務員というしがらみの中にあっても、自分を縛らず、自らの主張や選択が、公務自体と結びついているというやり方です。

公務は公共の福祉や人々に役立つ仕事ですので、社会的に意義があります。

ですから、仕事ではあっても、社会貢献をしたいというような人にとっては、生き方や方向性と直接関係し、それは民間よりもリンク性が高くなる可能性があります。

公務員は儲けやお金稼ぎで仕事するのではなく、みんなのために役立つ仕事をするからです。

簡単に言えば、公務員生活を充実させることで、カルマを解消していく方法です。

また別の方法では、やはり相当な軋轢や葛藤を公務員をすることで経験し、そこから自分に残る強固な安定思考(志向)を最終的には解除していくというやり方があります。

強固な安定志向は、つまるところ、不足感や分離の恐れから出ています。

ということは、全体に戻る方向性によってそれは解消されていきます。ですが、恐れを手放すということは、とても勇気がいることです。

マルセイユタロットでいえば、バカ者(一般常識の世界から見て変人のように見える者)、つまり「愚者」になって「世界」のカードの境地を目指す、「13」(破壊)を経験して、「節制」によって救済する(される)みたいなことになります。

これはわかりやすく言えば、公務員は自分に合っていないと決意し、安定的な地位を捨て、民間で働いたり、起業したりして生きることを、現実的には意味するでしょう。

まあ、私の場合は後者になっているのですが、ギリギリまで悩み、追いつめられたので、自己選択をした(自分で決意をもって選択した)というより、ちょっと無理矢理させられたみたいなところがありますので、まだ残存思念のようなものがあるかもしれません。(笑)

これは公務員の話で書いていますが、民間のお仕事であっても、業種や働き方によっては、どこか通じるところはあると思います。

今の仕事で苦しんでいる人は、ちょっと、スピリチュアル的な視点でもって考えてみるのも、自己の救いになることがあります。

ただ、逃避のためにスピリチュアルを利用しないようにはしたいものです。

ですが、逃避しないと本当に危ないこともあるので、逃避が決して悪いわけではありませが。

そうこう書いているうちに、結構文章量が多くなりました。

まだうつ病の話ができていないので、続きは次の記事で書きたいと思います。


サプリ摂取とタロットコンビネーション

今日のタイトルから、「えっ、あるサプリを取ると、タロットがよく読めるの?」みたいに思った人は、まったく話が違うことなので、期待はずれにならないうちに、記事は飛ばしていただいたほうがいいです。(笑)

最近は野菜などにも昔ほど栄養がないと言われ、また健康増進や健康維持に関心を持つ人も増えた(逆に言えば、皆、健康に何らかの不安を持っている)ことで、サプリメントを飲んでいる方も多くなったように思います。

もちろん、そこに商売の目をつけ、いろいろな人がサプリを売るために、かえって煽っているようなところもあるかもしれません。

それはともかく、今の人はサプリを摂取することで、体に足りない何かの栄養や要素を補っている(補うことができる)と考えます。

確かにそれで、ある栄養素は取れるのかもしれませんが、果たして、人体にその栄養素やビタミンのようなものが、きちんと効果的に吸収されているのかと言えば、疑問もあります。

大量に摂取すればいいものではなく、何事も過剰はバランスを崩します。

だいたいは、多く取りすぎたものは排出されるようで問題は起きないのでしょうが、やはり懸念されるところはあります。

私が思うのは、サプリで補おうと思う栄養やビタミンなどが、本当はほかのものと複合的に相まることで、身体によいものとして効果的に取り入れられるのではないかということです。時には合わさることで、何か新しい、栄養やエネルギーに変化していることもあるでしょう。

つまり、栄養やビタミンが単体で何かの特定の役割を持っていたり、効果があったりはあるにせよ、実はまだまだ隠された仕組みがあって、それはほかのいろいろなものと複合することで、免疫力を向上させたり、病に効果を及ぼしたり、健康を維持させたりするよう機能している部分があるのではないかということです。

その組合せや仕組みは、相当複雑なものがあると思います。(しかし、実はシンプルな気もします)

極端な話、将来、食事としてではなく、計算された栄養素のサプリとか飲料のみで人体は維持できるかもしれませんが、それではどこか抜け落ちているというか、本当の意味では生命の維持と活力を出すには不足するのではと想像します。

まだ私たちが知らない単体以外の栄養素やビタミンの(複合的)機能、また、食べ物同士がいろいろと重なって摂取され、合わさることで生み出される、未知の状態や要素というものもたくさんあるのではないかと考えられます。

食事が大事なのはここにあるのでしょう。

もし、それが、西洋の思想として昔からある「四大元素」的なものでとらえられるとするならば、私たちは食べ物とか自然環境などで、健康のために見逃している大きなものがあるのかもしれません。

さて、突然話はタロットリーディングに変わりますが、上記とは無関係ではありません。

長々とサプリとか栄養の話をしてきたのにはわけがあります。(笑)

私が使い、教えているタロットはマルセイユタロットですが、このタロットによるリーディングも、カード単体や少ない数枚での引き方(タロットの展開法)で行うこともできますが、主に、もっと枚数の多い展開法で実践します。

ということは、単純なカード一枚や二枚の意味ではなく、複合的に、様々に合わさった意味が表出されてくることになるのです。

カードが多く組み合わさることで、この複雑な私たちの世界を表すことができるようになります。

それゆえ、私たちの悩み事や世界(心と現実)の整理にも役立つのです。

これは、言わばサプリである栄養素を単体で取るというのはではなく、よい食事をすることでいろいろなものが有機的にからみあい、新しい栄養素が生み出されたり、身体の維持や健康ための機能に役立てられたりするのと似ています。

食べ物や空気などから、まだ私たちが解明できない身体のための複合的要素が生み出されている(かもしれない)というのは、ある意味神秘的であり、その完璧なる合成と調整能力に、神なるものを見ます。

マルセイユタロットのカードからなる複合的な世界観は、そこにまた神秘や神性を見ることがあるのです。

ということで、マルセイユタロットの真髄は、やはりカードを単体や少ない枚数で使うのではなく、ある程度の枚数を組み合わせること、さらには78枚全体を通して考察することにあると私は思っています。


今更ながら、「引き寄せ」の考察

スピリチュアルが好きな人の間の世界で一世を風靡しながら、最近はいろいろなところで否定されがちの、ちょっとかわいそう(笑)とも言える「引き寄せの法則」ですが、それでも考え方としては面白い点はあると思います。(私自身はこれを使うとか使わないという次元での興味がなく、その考え方やシステム、信じる人の心を考察することに関心があります)

結局のところ、「引き寄せの法則」も波動や一種のエネルギーなるものが鍵となりそうですが、その波動というものが今ひとつわからないものであり、もちろん今の科学的見地からはまったくのオカルト(本来のオカルトの意味とは別の「怪しい」という意味で)ということになって、まともには考察されにくいわけです。

ということで、ややこしくなりますので、とりあえずここではスピリチュアル的な物言いにして、科学的なことは置いておきます。(笑)

いわゆる「引き寄せ」の核が、仮に波動なるものとして設定しますと、引き寄せをうまくするには、引き寄せたいものの波動を作り出すか、その波動に近づけるということになるでしょう。

しかし、引き寄せたいものというのは、逆に言えば引き寄せられていないもの、自分がまだ実現していないものの場合が多いはずですから、引き寄せたいものの波動を作り出すのは、そもそも難しいわけです。

経験したことのないものをイメージしろ、話してみてください、と言ったところで、それができにくいことは誰にでもわかると思います。

またその波動に近づけると言っても、やはりこれも味わったことのないものであり、近づけようにも近づけるそれそのものがわからないのですから、困難なことと言えます。言わば、羅針盤もなく、目的地がわからないまま、大海を航海するようなものです。

ということは、「引き寄せ」はそもそも不可能な技法(考え方)なのかと言えば、そうとも言えません。

なぜなら、波動というものが物質的な目に見えるような実体ではないからです。

実体ではないのなら、実体を見なくても、あるいは実際に手などで感じなくても、その本質がつかめればいいということになります。

もちろんそれそのもの(引き寄せたいもの・状態そのもの)を実現していない状態なのですから、先述したように、イメージをつかむのも暗中模索という感じになるのは否めません。

見たこともないものを想像するというのは確かに難しいものなのですが、こういう場合は、たくさんの、それ(引き寄せたい内容・状況)と似たような「情報」を集めることによって、次第に本体に接近することもできそうです。

中身が見えない箱の中に何かがあり、その中身を周囲の人は知っていて、でも中身そのものは教えてはくれないルールで、周りの人に中身は何かのヒントを聞くというような感じです。

一人の人に聞くより、あるいは一回だけ聞くより、それを知っている多くの人に、または何回も聞くことで、中身としての実体に、より迫ることが可能です。

引き寄せるのが波動であるのなら、本当は具体性はあまり意味をなしません

例えば、お金を引き寄せたいとしても、お金そのものをイメージしてもあまり意味がないということです、

あなたはお金の持つ何の波動・エネルギーを引き寄せたいかということが重要で、「お金を引き寄せたい」というそのままのことだけだと、オモチャのお金とか、お金風に印刷された紙とか、コイン状の金属・固まりとかを引き寄せることになるかもしれないのです。(笑)

あなたが引き寄せたいものが、「お金を使って得られる自由な生活」ということであるのなら、お金よりも自由な生活を体験している人を知るとか、自由な生活をエネルギーや波動として象徴していると思えるもの(情報・状態)を集める必要があるでしょう。

さらには、そういった本質(モノとか具体性ではなく、波動として同じ状態・性質)波動の情報をたくさん集めるにしても、その情報を干渉させてしまう状況では問題です。

特に自分の中の情報をクリアーにしておかないと情報(波動)が打ち消しあい、望むものを引き寄せることは難しくなると予想されます。

だいたいは、この干渉(障害)が、引き寄せ(がうまく行かないこと)での問題・要因と言えそうです。

ここであえて、今では古めかしい「ラジオ」(笑)で例えます。

まずラジオ自体の性能の問題があり、受信する周波数の域が限定されていれば、その範囲でしかラジオ放送や番組を聴くことができません。

そして電波をクリアーにキャッチできず、ラジオの混信がひどいと、やはり放送をうまく聴くことはできません。

これと同じように考えれば、自分の波動域の上昇(性能のアップ)、クリアーに望む波動と同調させる状態(干渉を起こさせない澄み切った状態)があって初めて、引き寄せがうまく行くのではないかと想像されます。

もう少しわかりやすく言いますと、要するに自分が望むもの・状態を実現できるレベルに成長しているか、成っているか(成りつつあるか)ということが重要で、そのレベル未満であると、そもそも引き寄せられないに等しいということです。

というわけで、レベルアップのためには、自己の内面(思考と感情)を、望む方向に抵抗や疑い・恐れなく統一できていること(クリアーにできていること)、セルフイメージが、望むものを実現できるリアリティを持っていること(現実感がある状態に成長している、しようとしていること)が大事だと言えます。

ただ叶えたい、実現したいと思っているだけでは、夢想しているだけに過ぎないでしょう。まさそれは浮かんでは消える泡沫のようなものです。(しかし、願望が何なのかをはっきりさせることは、最初の段階で必要)

と言っても、強いイメージや思いをずっと持っていればいいというわけではなく、これまで書いたように、実現したいそのこと自体よりも、「それを生み出しているエネルギーや波動を実現する」ことが本質なので、強く思っていたところで、自分がその波動に遠い状態ならば、引き寄せは困難です。

むしろ、強く思いすぎて、まだ叶えられない自分のふがいなさや惨めさのほうが強化されて、望む波動との分離(乖離)がますます激しくなることもあります。

自分が「大それた望みだな」「これは無理目の望みだ」と思うようものは、文字通り、「大きくそれた望み」「無理な願望」ということで実現する(笑)(つまりは望みは叶わない、引き寄せられない)わけなのです。


タロットリーデイングは投影か。

タロットリーディングをやっていくようになりますと、ある疑問が出てきます。

それは、

●自分の思考や意識を、カードに投影してリーディングしているのか?
●タロットそのものメッセージを読んでいるのか?

というふたつの疑問・葛藤です。

この質問や疑問が出るだけでも、よくリーディングについて考察しているなと思うのですが、一方で、この質問を出す人は、考え過ぎになっているところもあります。

私はこの質問に対しての答えは、ひとつではないと思っています。

結論から言えば、だいたいは前者のほう、自分の思考や意識をカードに投影させて読んでいるほうが多いと思っています。

そしてそれが悪いわけでもないと考えていますし、むしろ、それがひとつの心理的・現実的意味でのタロットリーディングの形だとも思っています。

そもそも、まったくの客観的な読み方なるものが存在するかといえば、主体が人である以上、それはありえない(ことに近い)でしょう。

誰もが、自分の経験や知識、歴史、ストーリー、価値観を持ち、それは誰一人として同じ人はいません。言ってみれば、みんな違うのです。

ですから、読み方・見方がそれぞれに違って来るのは当たり前で、自分の傾向が出るのも当然なのです。

それを自己意識の投影として考えれば、ほぼ皆がそれをしていることになります。

それでは、初めに結論ありき、自分の考え方・見方ありきでタロットを読んでいるのかと言えば、一面ではそうであると言えますし、またある面ではそうとも限らないということになります。

ここではその説明はちょっとややこしい話になるので省略し、要するに、その区別はつきにくいということなので、目的から入ればすっきりすることを指摘しておきたいと思います。

目的から入るというのは、タロットリーディングを行うことの目的です。

例えば、あなたが人の悩み事の相談をしたい、セラピーをしたいという目的でタロットを使い、タロットリーディングするということであるならば、目的はクライアント・相談に来た人の悩み事が解決したり、癒しが行われたり、気持ちが整理されてすっきりしたりすることになります。

そうすると、タロットリーディングが、意識の投影なのか、タロットそのものからのメッセージを受け取っているのかという区別はあまり意味をなさなくなります。

結局、相手の問題がクリアーになればOKなので、それはどちらでもいいのです。

この考えでは、タロットをツールとして活用し、目的を達成することに使うので、その過程における意味合いはあまり重要ではないことになります。

しかし、その癒されたり、問題が解決したりするメカニズムや理由についてはっきりさせたいという思いの場合は、それは大事なテーマとなります。

ところで、心理的な問題と症状ということでは、目的論と原因論の考え方があります。

目的論では、心理的な問題(症状)は、あるトラウマとか事件が原因となって生じているのではなく、それ(症状)を起こすことで、何かから逃れたり、忘れたりできるというように、とにかくある「目的」のために、症状を起こしている(症状を選択している)という考えになるものです。

一方で、原因論は、何かの原因があって、その症状が引き起こされているので、その原因を突き止め、解消することで治療できるという考え方になります。

こう書くと、両者は対極を成していて、まるで違うものに思えます。

しかし、症状で悩まされているクライアントや患者にとっては、短期的には、そのどちらが正しいかということなど、どうでもよいことで、とにかく治りたいわけです。

治る、症状が治まるという観点からでは、目的論も原因論もどちらでもOKとなります。

ですが、なぜその患者でうまく行ったのか、治ったのか、この患者ではダメだったのかなど、個々のケースや症状で、治療法や効果を検証したり、症状の発生と解消のメカニズムを知るためには、目的論とか原因論とかの区別にも意味が出てきます。

また「そもそも論」のようなことで、人の心理とか、苦悩とは何か?など、哲学的に考察していくのにも、その区別が、議論の種になったり、論理の発展に寄与したりすることになるでしょう。

この記事の最初で書いた、タロットリーディングにおける疑問も、このようなものだと考えられます。

それをふまえた上で、あえて客観性と言いますか、タロットリーディングが自己の投影的な主観性に傾き過ぎたものにならないようにするためには、ひとつには、法則やルールをきちんと当てはめるというやり方があります。

例えば「逆向きが出ると悪い」とか、「問題がある」とか、人為的に設定したルールを決めて、その世界観を強固にして、タロットを展開するということです。

そして、読むほうも、そのルールを比較的厳密に適用することになります。

それから、ほかの方法としては、同じタロット種類と展開方法を採用している、ほかのタロットリーダーにも読んでもらって、自分の色メガネとの違いを知るということで、少しは客観性、つまりタロットそのもののメッセージという「考え(あくまで“考え”です)」に近づづくことができます。

一方で、西洋魔法的テクニックになってきますと、タロットの精霊とのコンタクトという、一種のパラレルワールドとのコミュニケーションになりますので、そうなると、今まで述べたことと別の意味で、タロットそのもののメッセージということが濃くなります。


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