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行動に移せない理由
ここでは、ふたつの観点からその理由を見てみます。
それは、
●やり方がわからない
●やる気にならない
というもの(理由)です。
これも陰陽原理みたいなものです。
やり方が表で、やる気が裏、方法(技術・知識)と心(感情・モチベーション)の問題と言い換えてもよいでしょう。
このふたつは、一緒になっていたり、別々であったりします。
しかしながら、区別して見たほうが解決も早く、行動もはっきりしてきます。
最初の「やり方がわからない」という場合、自分のリアリティや世界観の経験値が不足していることが多く、簡単に言えば、自分の知らない世界は知らないという状態です。
例えば、タロットを学習する人で、タロットリーダーやセラピストとして自営を目指したいという方の場合、
そもそも独立する具体的な方法がわからない、お金を自営で稼ぐ方法がわからない(雇われて働くくらいしか思いつかない、経験がない)などがあります。
どこでタロットリーディングして、どのようにお客様を呼ぶのかという「やり方」がわからず、
実践的に動けないわけですね。
これはいくらセラピーやタロットの勉強をしても解決しませんから、ひたすら専門技術と知識を極めても関係なく、入れる情報の分野が異なるわけで、学ぶ内容や方向性を変える必要があります。(知らないことは人に聞いたり、学んだりすることが必要)
ここでも、とにかくやってみる(実践してから、わからないことを聞く)というタイプと、頭や知識から入るというタイプがいて、自分にあったほうで始めるとよいです。
大切なのは、何がわからないのか、何を知らないのかということを自覚し、その知識を持つ人や、専門家、モデル、書籍、講座などから情報を入手することです。つまりは目的にあったやり方を学ぶことです。
ただし、自分の個性に合わない方法を学ぶと、遠回りや苦痛が増えますので、自分の特質は知っておいたほうがよいでしょう。
あと、後者の、「やる気にならない、やる気がおきない」という場合は、いくらやり方を学んだり、その情報を入れたりしても、やはりこれも方向性が違うので、努力の割に無駄が多くなります。
自分をブロックしているものは何か、行動に移せない気持ちは何か、あるいは、そもそもそれを行うことが本当の自分の気持ちに合致しているのかなど、見つめ直し、ブロックならば解消することも場合によっては必要となるでしょうし、合わないということならば、やめる勇気も大切となります。
行動の最初の動機が、実は何か違うことがしたかっただけとか、違う自分になりたかっただけとか、自分の価値を自分で認められるよう何かをしたかった・・みたいなことはよくあるものです。
つまりそれを行うこと・達成すること自体が目的(その対象自体が目的)ではなく、自分の心の葛藤が、そのまま自分の行動面における膠着状態として現れていたということです。
例えば、婚活しなければ・・と思っているのだけれどなかなか積極的にできないというのには、結婚が目的ではなく、変わりたいけれど変われないとか、経済的な将来の不安を解消したい思いが婚活を自分に強要していたとか、まあ、そんなこと(葛藤や真の悩み)が隠されていたような状態です。
また、やり方を知らないから不安になっていて、行動をブロックしていたという両方がからむ場合もありますので、やはり行動に移せないのなら、心から探ることは効果的です。
とはいえ、一人ですべて調べる(自分の心の内を調べる)のは難しいことがあります。
自分のことは自分でわかっているようで、意外にわからないものだからです。
ですから、人の力を借りるとよいです。あるいはツールとして、ほかのモノやほかのモノサシを使います。それがタロットでも可能です。
それから、何かができないことは必ずしも悪いことではありません。
積極的なこと、ポジティブなこと、あることができることはすばらしいという誤解があります。
昼があれば夜があるように、動けないこと、できないこと、それそのものにも(よいと思える)意味があります。
心や体を守ってくれていたり(休息の必要性)、うかつに行動することにストップをかけていたり、事故に遭う危険性を警告していたり、蓄積や発酵・醸成させていくことが示唆されていたり・・・まさにマルセイユタロットでいえば「吊るし」や「月」で象徴されるようなタイミングや時期があるのです。
物事が成就するのにも、季節と同じように4サイクル(春夏秋冬、始まりからピークを迎え、収穫ののち衰え、籠もる時期を経て、また始まるサイクル)があります。理念的には3サイクル(創造・維持・破壊)でもあります。
タロットカードを引くことにより、その象徴性をもって、自分がどの時期にいるのか、どの状態なのか、調べることもできるのです。
常識ある人の存在で成り立つ「愚者」
タロットカードに、「愚者」というカードがあります。
このカードには数がなく、ただ名前だけがあります。ということは、特殊なカードであることがわかります。
数がないということは、どのカードにもなれる、トランプゲームでいえはジョーカーのような役割になることもあれば、反対に、だからこそ、どのカードとも違う異質性や自由性があるとも言えます。
ただ、私が思うのは、タロットの世界は78枚全体でひとつの世界・ワールドを象徴しており、それはすなわち、私たちのこの世界や宇宙も表しているのだと思っています。
ですから、78枚全体をもってひとつの世界(宇宙)と見た場合、「愚者」単独で存在することはできず、「愚者」も全体の一部であり、また、一つによって全体を表すカードだと考えることができます。
すると、面白いことが見えてきます。
「愚者」と書けば、その名の通り、愚か者を意味します。
愚か者、悪い言い方をすれば、馬鹿であり、アホです。(笑) よい言い方では、常識とは違う考えや行動をする人間で、冒険者や自由人とみなすことが可能です。
このような人に、私たちはあこがれたり、嫌悪したりします。
その理由は、通常、私たちは常識ある固定的ルールある世界(社会)に生きざるを得ず、そのため、自分たちと真逆の存在ともいえる「愚者」に、共感と反感、嫉妬とあこがれのような複雑な感情を抱くようになるからです。
つまり、私たちの中には、いくら常識的・固定的生き方をしていても、自由・解放・冒険・無軌道的・非常識的とも形容される愚者的性質に感応する(良きにつけ・悪しきにつけ)心があるということになります。
マルセイユタロットでは、「愚者」を含む22枚の大アルカナに、人の元型とも言えるパターンやモデル的人格を認めることが可能です。
従って、「愚者」が自分の中にいるというのもうなずけますし、逆に、「愚者」を否定したい気持ちになる自分も存在するわけです。
さて、話を元に戻しますが、「愚者」は78枚の宇宙・世界の一員でもあると言いました。
ということは、平たく言えば、ほかのカードあっての「愚者」なのです。
「愚者」が「愚者」であるためには、賢者や常識人、特定のルールに従う真面目な人たちがいてこそ成り立つわけです。
全員が「愚者」であれば、「愚者」という人(性格・個性)は存在できません。
「愚者」はその自由性、非局所性、移動性を表すために、一般的に旅姿で描かれています。
どこなりとも自由に放浪する人物であり、それに不安や恐れもなく、むしろそういった行き当たりばったりの人生を心から楽しむことのできる者です。
しかし、マルセイユタロットで見た場合、「愚者」が進んでいく(旅をする)とするのなら、それは、ほかのカードたちのところとなります。
もしほかのカードに入らなければ(移動しなければ)、「愚者」はほかのカードに変わったり、ほかのカードに象徴される経験をしたりすることができません。
また「愚者」以外のカードから認識されることもなくなります。
「愚者」はほかのフィールドに旅をしてこそ、「愚者」として実体化するとも言えます。
さて、ここで象徴世界から現実世界へ次元を下降します。
すると、世の中には実際に愚者的な行動や考えをしている人物がいることがわかります。
一方で、多くの人が、たまに愚者的になったとしても、「愚者」とは異なる常識人として、ほぼずっとふるまっている(生活している)ことが理解できます。
さきほど、タロットで象徴的に例えた場合、「愚者」はほかのカードが存在してこそ、「愚者」として成り立つと言いました。
実は現実でもそうだと言いたいわけです。
一人の変わり者が、変わり者として存在できるのは、多くの常識的で普通な人の暮らし・生活・人生があってこそなのです。
10人普通の人がいれば、一人くらい、何もせずブラブラしていても、皆からの援助で食べていくことはできるでしょう。
その代わり、「愚者」たる人物は、皆が普通ではできないことを経験してきて、楽しいお話や斬新な考えを伝えたり、ピエロ的になることで人を楽しませたりすることが可能です。
昔、日本でもお伊勢参りなどの参詣旅行において、村や村落・町内の講と呼ばれる組織を代表して、やっと一人か二人かの人物が行くことができていました。
この時、弥次さん喜多さんではないですが、代表の旅人は、「愚者」となるのです。そうして「愚者」となって異質な経験をして村に帰り、それを普通の人々と(精神的に)共有します。
こうして閉塞的な村や組織に新たな息吹を入れていき、全体として活力を取り戻させ、成長発展も見込まれる(見聞が技術や知識も拡大させる)ように変化してくるわけです。
ハレとケの循環サイクルから考察すると、「愚者」となった人物は、言わば神様の化身と言ってもよいでしょう。
大切なのは、皆が「愚者」になることではなく、全体として、「愚者」とそうではない人とのバランスで生じるのだということです。
「愚者」がその日暮らしの自由な生活ができているからと言って、あなたや全員が、いきなり、行き当たりばったりで暮らしていけるわけではありません。
「愚者」の行動をそのまま真似するのではなく、「愚者」が示す、自由の表現、精神・エネルギーを、常識の世界に住む者たちが受け取り、行き詰まった社会に改革のくさびを打ち込むことが重要なのです。
もちろん、役割として、自分自身が「愚者」となるという選択もありですが、全員が行動や現実として愚者化できないのは言及した通りです。
「愚者」の心は皆が持ちますが、社会の中で、その人の個性に応じた「演じる」役割があると思えばよいでしょう。
手品師とサイコロ
マルセイユタロットの大アルカナ、1の数(本来はローマ数字ですが、文字化けの可能性もありますので、普通の算用数字で表します)を持つカードは「手品師」です。
一般的タロット名称では、「魔術師」とか「奇術師」とか呼ばれているカードです。
ウェイト版の場合は、文字通り「魔術」を行っている様子が描写されていますので、「魔術師」で妥当でしょうが、マルセイユ版だと、やはり手品とか奇術を行っているように見えるので、「魔術師」というより「手品師」と呼ぶほうがいいかと個人的には思います。
実はこのカードにおいて、「手品師」も魔術とつながっていると考えられるのですが、それはここでは言及しません。
とにかく、「魔術」と表現するより、「手品」とか「奇術」と言いますと、表記的にも、言葉の意味的にも、どこかうさんくさいもの(笑)が漂ってきますし、また一方で、ひょうきんで、ちょっとかわいげがあり、憎めないところも感じます。
一見、巧妙に人を騙しているようで、ちょっとネタとかバレそうであり、手品であることを自分も客も理解したうえで、場を楽しんでいる雰囲気もうかがえます。
「手品師」はテーブルの上に、さまざまな道具を置いています。手にも棒(杖)を持っています。これにはひとつひとつ、見た目の道具としての意味だけではなく、隠された意味もあります。
ぱっと見には、無造作で、デタラ目に置かれているように感じる道具類も、実は綿密な計算と巧みな配置によってなされていることが、後世の研究者によって解明されています。
その図像を見れば、地球に張り巡らされていると言われるグリッド線のように見えてます。
このことから、おそらく、「手品師は」私たちと地上(地球)の関係を示唆しているのだと推測することができ、またその魔術的な使い方(従って、やはり「魔術師」でもある)も、わかる人にだけ暗号のような形で残しているとイメージできます。
そして、地球は、私たちが普通に思っている丸いものとは別の、やや立方体的なものであることも語っているように思います。またそういうようにとらえれば、ある「力」の理解として効果的だとも言っています。
さて、これはマルセイユタロットの中でも、ホドロフスキー・カモワン版タロットの特徴と言えますが、「手品師」の道具のひとつに、サイコロが並んでいます。
ほかのマルセイユ系タロットの「手品師」にもそれ(サイコロ)らしきモノがあるようには思えますが、はっきりサイコロ・ダイスとは見えないものが多いです。
しかし、一応グリモー版には、ふたつのサイコロがあるように見えますね。
ホドロフスキー・カモワン版では、ふたつではなく、3つのサイコロがあり、それも出目がすべて同じようになっています。秘伝では、この出目や並びにも意味があることになっています。
サイコロは立方体であり、私たちはサイコロといえば正六面体を思いますが、多面体サイコロとしては、ほかにもいろいろなものがあります。
四大元素を立体で象徴させたプラトン立体との関連もうかがえます。
ところで、北海道の地方テレビ番組から全国区(人気)になった「水曜どうでしょう」という番組があります。
現在、映画などで活躍中の大泉洋氏を有名にさせた企画バラエティ番組です。
この番組の中でも、「サイコロの旅」という企画がありました。
これはサイコロを振って、出た目の数の行き先(フリップにあらかじめディレクターが書いている)に絶対行かなければならないというルールで、まさにサイコロ任せの行き当たりばったりの人気旅企画でした。まあ、最近ではこれを真似してのバラエティも増えましたが。
私はこれを見ていて、「手品師」のサイコロをイメージしました。
サイコロから出る目は何かわからず、そこにはリスクもありますが、何が出るかわからない面白さもあり、出た目の数に象徴されることを経験する悲喜こもごもの事柄があります。
すごろく遊びでも、サイコロの出目に私たちは一喜一憂します。
「そこのマスには入らないでくれ・・・」と願ったのに、なぜかピッタリの数の出目が出てしまい、吸い込まれるように入ってしまったとか、「6の目出ろ!」と念じたら、本当に出てゲームを有利に進めることができたとか、不思議な経験をされた人もいらっしゃるでしょう。
想念と現実の仕組みの象徴にも、サイコロは興味深いツールと言えます。そもそもサイコロという立方体自体が、現実を象徴していると考えられるのです。
つまり、「手品師」のサイコロは、私たちが自分で創造する世界での、ワンダーな体験・経験を示しています。※サイコロにはほかの意味もあり、ここではひとつの考え方を言っています。
テーブルの上にあるというのも、この地上の、ある法則(物理や時間)の中で制限されたものであるということが見て取れます。
その上で、私たちはサイコロを自由に振り、出た目の数で象徴される世界を体験するのです。それはワクワクもあればドキドキもあり、悲しみもあれば苦痛もあるでしょう。
「水曜どうでしょう」では、大泉氏と一緒にサイコロの旅をする“ミスターどうでしょう”こと鈴井氏の二人が、苦労すればするほど視聴している者からは面白く感じます。ただ、旅をしている当事者にとっては、テレビ番組の企画といえど、大変なことであるのは間違いありません。(同時に本人達も楽しんでいるところもあるでしょう)
言ってみれば、「手品師」とサイコロ、あるいは行っている手品のシーンによって、この視聴者(お客様)目線と「手品師」本人目線の両方の融合・統合で見る人生が語られているわけです。
タロットで「旅」といえば、「愚者」というカードがイメージされます。
「愚者」と「手品師」のカードを並べた特、「愚者」の持つ袋からサイコロや手品道具が取り出されたと見ることもできます。
手品道具を出し、サイコロを振る場所は、あなたの現実のフィールドです。
「愚者」のままでは夢想や想像の世界に遊んでいてもよいですが、ひとたび、「手品師」になれば、そこは現実世界のフィールドとなるのです。
「手品師」は、その現実世界であなたが選んだ(または選ばされた)所での、経験や習熟の可能性を秘めています。
そうして、また「手品師」は道具を袋に収めて、「愚者」として旅立ちます。次の新しいフィールドで芸を磨くのです。おそらく、今までのサイコロで経験したものは、袋の中に入っていることでしょう。
自分が今いる場所・環境・仕事・人間・・・ここにもサイコロの出目の数だけ経験する象徴的可能性があります。
たとえつらく苦しくても、手品をして芸を磨いているのだと思い、視聴者(手品のお客様)目線をもって臨むと、少しは楽になってきます。
また本当につらければ、「愚者」となって自ら旅立つこともできるのです。その選択と行使ができることも、ほかの一桁番台の数を持つカードが語っているのです。
「幸せ」について考えてみる。
いろいろな方が、いろいろな方法で、人に対して“あること”を伝えています。
それは「幸せになる」ということです。
物質(成功)面からアプローチする場合もありますし、心の満足や解放から推し進めていく場合もあるでしょう。
いずれにしても、そのほとんどは、結局何を求めているのか、何を目的として語っているのかと言えば、「幸せになること」なのです。
ところが、「幸せ」という概念は、一般的なイメージもあるにはありますが、実は観念によるもの、つまり一人一人の思いや価値観で違うものなので、一口に「幸せになる」と言っても難しいものなのです。
この点が、「幸せになること」「幸せになる方法」においても、みんなに通用する部分と、私(わたくし)やあの人(個人)にしか通用しない部分とがある理由になります。
このことを理解していないと、得てして、押しつけの幸せ(観)を人に強要することになります。
言ってみれば、お酒好きな人が、お酒の飲めない人に無理矢理お酒を勧めるようなものです。
お酒が(好きで)飲める人は、お酒を飲むことはどうかと問われれば、当然、おいしく、楽しく、気分がよいものだと答えるでしょう。
ところが、お酒が一滴も飲めない人、体質的に飲めば生命や身体的に危険が及ぶ人の場合、お酒を飲むということは、まるで正反対の恐ろしいことになります。
狭義の幸せ、個人の思う幸せも同じであり、自分が思う幸せ感や幸せな状態というのは、ほかの人にとっては苦痛で不幸のこともあるのです。
「幸せになりましょう」言葉で、もし嫌悪感や気持ち悪さを感じるとするのなら、それは、そう言っている人の幸せというものの表現や実態に、自分の幸せ感(観)が合わないからの場合があります。
先のお酒の例でいえば、ベロベロで酔っているのはもちろん、ほろ酔い気分の状態であったとしても、「それは経験したくないなあ」とか、「お酒を飲んで酔うなんて、どうにも気持ちがわからない」「ほかでいい気持ちになる方法はあるだろうに..」と見るような感じです。
まあ、人は不快に思ったり、苦痛だと感じたりすることからは避けようとするものですから、結局、同じような感じ方をする人や、価値観(ただし、まったく同じ価値観の人は皆無です)の合う人で集まってくるのです。
批判したところで、もともと価値観や幸せと思うポイントが違うのですから、あまり意味はありません。まさにお楽しみは人それぞれであり、それを間違っているとか、面白くないとか言うのは野暮というものです。
一方で人の価値観や考え方は、訓練したり、知識や経験によって与えられたりして、変化しますので、新しい幸せ感、これまでとは異質な幸せ感(観)というものが出てくることもあります。
またお酒の例でいえば、もともとお酒を飲む力があった人が、飲まず嫌いや経験不足なだけであって、あとでそのおいしさや飲み方を覚えると、お酒を飲むことによる幸せ感というものが芽生えることもあるわけです。
ということは、「幸せと思う」想い方・方法をたくさん学べば(トレーニングすれば)、幸せな時間は物理的にも増加すると言えます。
これは言い換えれば、多様な価値観を受容する(多様な価値観を持つことではないので注意)心になればよいという意味でもあります。
ところがいろいろと落とし穴もあります。
そもそも人の幸せ感は、個人の快楽や欲求充足に基づくことが多く、平たく言えば低レベルな刺激だったり、現世利益にまみれたりすることに「幸せ感」がすり替わっていることもあるのです。
極端な例でいえば、麻薬で多幸感が得られるので、お手軽にやっていると麻薬中毒になりました・・・みたいなことです。
麻薬であっても、リスクがあることは別としても、確かに「幸せな気持ち」は感じているでしょう。
もし中毒症状を引き起こしたりせず、身体・精神的な危険がなかったりしたとしたら、麻薬を使用して多幸感を得るというのは、手段として間違ってると言えるでしょうか?
いや、幸せ(感)の質が違うんですよ、と言う人もいるかもしれませんが、幸せが個人の価値観や気持ちに基づいていると判断する限り、なかなかこれが悪いとは言い切れません。
しかし、もし幸せ感が、誰かによってコントロールされ、与えられている「ある概念」であり、それが個人的観念に巧妙に変化させられているとすれば、それはかなり厄介な問題です。
言い換えれば、誰か、あるいはある一部のグループのための共通的幸せ(感・観)のために、個人的な幸せ感が利用されているという場合です。
このあたりは単純なことではないので、なかなか判断は難しく、幻想と錯覚が入り交じった複雑なものだと言えます。
ただ無自覚・無意識的に、私たちは、自分の幸せへの欲求、幸せを感じたい心に、さらに植え付けられた「ある幸せ」のイメージがかぶせられて、本当の高次の幸せとは別のものを追い求めるよう、駆り立てられているのではないかと想像することもあります。
これ(そういう欺瞞の仕組みに気づくこと)は、マルセイユタロットに秘められた教義のひとつでもあるのです。
幸せになることは人として当然とも言える感情ですが、自分の求めている幸せとは何か、さらには、それ以外の幸せは本当にないのか、人のいう幸せは果たして自分の価値観に合っているのか、よく観察・洞察する必要があります。
自分を知ることは幸せにつながりますが、自分を知るつもりが、その過程でいつの間にか、人からコピーされた幸せの価値観と基準になっていて、それを実現することが目的に変わっていることがあります。
ずる賢い人は、幸せと自分を知るということをセットで道具とし、実は自分を知るプロセスや手段(メソッド)自体を売ることを目的としていることもあります。
従って、さらに悪質になりますと、自分探しをさせることに駆り立てることをわざとさせます。つまりは今まで意識していなかった欲求(デマンド)をわざと生み出させます。そう、まさにデマンド・需要になるのです。
自由・解放・ありのまま・常識やルールに従わない・じぶんらしく・やりたいことをやればいい・・・など、これらは自分・個性としての価値観を充足させることで幸せに近づく方法でもありますが、一方では、巧妙で悪質な勢力の広告や宣伝のうたい文句になっていることもあるのです。
幸せは個人とその価値観によって違うものではありますが、天(神・統合的総合的全体的視点)の幸せ観もありますし、その中間(個人と全体の間)もあります。
理想的には全体と個、天・地・人の幸せに適うもの(といっても、同じレベルですべてが適うというものではありません)が発見できればよいのかもしれません。
タロットの4組と願望(目標)達成
マルセイユタロットと言いますか、ほかのタロットでも西洋占星術でも共通していますが、四大元素という思想体系があり、4つのメレメント、4つ組、4つのグループ、4つの枠組という概念で物事をとらえることができます。
このことから、私たちは最低でも4つのとらえ方、4つのパターンが、あらゆるもので透徹しているのではないかと、古代思想的には考察できます。
これは個性というものとは少し違うのですが、それでも、4つのタイプということに、人を分けることは可能でしょう。
そこで、意外に思うかもしれませんが、目標達成や願望実現にも、実は4タイプがあることが想定できるのです。
これについて詳しく語ろうとすると、4つを10の構造に細かく分けて語らないといけませんので、省略します。
ここでは4をふたつに分けて考えてみましょう。
そのふたつとは、どれをもって中心や焦点とすれば自分にとって効果的となるかという点と、達成しやすいフィールドや表現方法という観点です。
そのふたつが、それぞれタイプとして4つに分かれると考えます。
4つは、つまりは四大元素のわけですが、これは風・水・火・地(土)というエレメント(元素)です。
それをタロット的に見れば、4つとは剣・杯・杖・玉、一般的にはソード・ワンド・カップ・コインという名称(モノ・道具)で表現されています。
モノや道具に置き換えられているのは、それをツールとして扱うという意味が込められてもいる(と考えることもできる)からです。
さて、先述したように、ふたつの観点で見ると、人によって4タイプあるわけですが、まず、自分にとっての効果的なポイント、つまりは得意技みたいなところは、簡単に言えば、剣(風)タイプは思考であり、杯(水)タイプは感情であり、杖(火)タイプは直感であり、玉(地)タイプは感覚となります。
つまり、自分が信用する(信用がおけると思うもの、なじむもの)は、それぞれその4つのうちの一つだということです。
このタイプを間違って、別の焦点で物事を見たり、扱ったりすると、なかなか対象の本質がわかりにくかったり、補足や理解に当たって非効率になったりするのです。
例えば理屈で理解したいタイプの人が、感覚で理解しようと無理にしても難しく、反対に感情が納得しなけば、いくら理論(勉強)で学んで正しいとわかっても実行できないなんてことがあるわけです。
まあ、こういったことはユング派などの心理学でも言われていること(上記の4タイプはユング派の語るところでもあります)なので、比較的よく知られている話でしょう。
あと、付け加えれば、自分の得意タイプが逆に自分を縛ることにもなるので注意が必要です。自分の得意技だからこそ、それにこだわって周りが見えなかったり、逆に効率を悪くしたりすることもあるということです。
さて、ここからがあまり聞いたことがない話だと思います。
私はタロットを見ていて、そしてこれを使い人の相談をしている中で、気づいたことがあります。
どうも、人によっては、叶いやすいフィールド(分野)と叶いにくいフィールドというものがあり、それは4つのタイプと関係しているのではないかと。
世の中には様々な願望達成法や、目標に到達するメソッドが紹介され、また日々生み出されています。
読者の中にも、そうしたものを幾つかお試しになった方もいらっしゃるでしょう。
今のところ私自身は、そうしたものにはあまり関心はないのですが、ただ仕組みについては興味があります。
それで現時点の私の結論として、願望実現法は、ある程度普遍的なもの、普遍的レベルで到達できるものもあるにせよ、やはり個人によって違ってくる(個々によって効果が違う)というものになっています。
この考えからしても、4つのタイプで達成しやすい分野が分かれるというのもうなずけるのです。ただ、この4タイプは、上に書いた4つのタイプ(思考とか感情とかのタイプ)とはあまりリンクしません。また別物の4タイプと思っていただくとよいでしょう。
このタイプ別が現実的に表れれば、例えば、恋愛においては比較的望み通りうまく人、仕事で目標が達成しやいすところがあるという人、健康や身体能力のことでうまく行くという人、お金や成功という分野で願望が実現したという人もいるかもしれません。
もちろん、どれ(どの分野)でも願望が実現したという人もいるでしょう。そういう人は、おそらく、最強のフィールドを得意としています。
それ(最強のフィールド)は「運」という分野です。
こうなってきますと(運を味方につけますと)、総合的にどの分野でも、望みは叶いやすくなるでしょう。
実は四大元素ではこの4つのエレメントを超える、第5元素(フィフスエレメント)があると考えられています。
面白いことに、マルセイユタロットの「運命の輪」(運命を象徴するカード)には、四大元素と第5元素との関連が盛り込まれています。
望みが叶わない理由は、自分の中のブロックや思い込み(これは自分の守護や本当の成長のための恩恵の場合もあり)、現実感やセルフイメージの限界、カルマ、他人の思念や社会・環境の障害、果ては物理法則や普遍的な宇宙と地球の法則など、いろいろと原因は考えられますが、個人個人のタイプ(言い換えればモノの見方・とらえ方の特徴)によっても変わってくると想像できます。
その個人個人のタイプとして、4つのタイプも影響していると見ることができそうです。
ということで、自分の叶いやすいフィールド(分野)をまずは見つけてもらって、そこに集中して行き、幸運の輪を回して、ほかの分野に好影響を与えていくか、すべてに影響する「運」そのものをつかんで、全体に降ろしていくかによって、現実的な意味での望み通り(望みに近い)人生が送りやすくなるのではないかと思います。
実は書いた本人が言うのもなんですが、現世利益的な願望達成(法)そのものと、運勢をよくするというなことには、個人的にはあまり興味がありません。(笑) いい・悪いの問題ではなく、単に私の興味や価値観は別にあるからです。
ただ先ほども書いたように、そのシステムや働きには注目したいところがあります。なぜならば、タロットで言えば、「力」のカード以上のことの考察と実現には必要のことだからです。
