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マルセイユタロットの構成と次元

マルセイユタロットを絵柄(デザイン)の特徴でわけると、2つのもの(グループ)に大別されます。

ひとつは主として人物や動物、天体など、まさに絵として見ることができるものと、もうひとつは、まるで記号や模様のようになっているデザインのものです。

タロット(ひと組の中)の種類わけの言葉でいえば、大アルカナと宮廷(コート)カードは同じと考えてよく、それに比べて小アルカナの数カード(スート)は、記号的なデザインとなっています。

ただし、数カードでも、マルセイユタロットの場合、1の数を持つエースは絵柄的な感じが強いです。

タロットをゲームとして使う場合、絵柄(絵として見ることのできる)カードである大アルカナと宮廷カード、そして数カードの1であるエースは得点力が強くなっていることが多いようです。

タロットはトランプとの関係も深く、どちらが先に成立したのかは諸説ありますが、どう見ても、マルセイユタロットとトランプはデザイン・構成からして関連があると想像できるものです。

このトランプの場合でも、皆さんがゲームで経験したと思いますが、絵のあるカードは、だいたいのゲームにおいて強かったはずです。

つまりは切り札なわけで、その切り札という意味こそ、そもそも「トランプ」という言葉なわけです。

さて、このようなことをなぜ述べているのかと言いますと、マルセイユタロットの構成・デザインから考えてみて、タロットは78枚がひと組とは言え、大きくわけてふたつ、さらにわけて3つの構成でカードの意味を考察したり、使ったりすることは理に適っているのではないかと指摘したいからです。

2つや3つとなりますと、二元や三元で物事をとらえる仕組みとも共通してきます。

そのため、私がマルセイユタロットを教える時は、抽象世界と具体的世界、言い換えれば、心や精神も含む全体(を表せる)世界と、はっきりと目で見たり、リアルと感じたり、具体的数値で表せたりする現実的世界とをカードグループでわけています。

特にリーディングの時は顕著です。

リーディングは、当然、自分も含めて人々の現実的悩みや葛藤・迷いの問いかけに答えて(応えて)いくものです。

従って、現実との関係を無視できません。しかしながら、人は同時に、空想や想像、イメージ、心や感情でも生きている存在です。

数値で示されるお金であっても、そのお金を使うか使わないかは心や思考が決めています。

また自分でも普段は自覚していないことが、現実の行動や表現として表れています。

つまり、具体的な世界に現れている目に見えていることも、心や精神などの一見あやふやで不確か、目で見ることのできない領域によって規定されていることも考えられるわけです。

ですから、そういった精神や心の世界を投影したり、表せたりできるシンボル・象徴的世界のパートと、具体的数値的世界のパートとの組合せが効果的と言えるのです。

しかしながら、数値的(具体的)世界を示す数カードは、マルセイユタロットは逆に具体的ではなく、抽象的な記号表現になっていることが、現実的読みと適用を難しくしていることもあります。

前にも書きましたが、現実・具体的表現の世界は個別世界でもあるので、それこそ無数の「数」を必要とされるのです。つまりはカードはモノの数だけ求められるわけです。

とはいえ、モノの数だけカードを作るとすれば、それこそ無限に近い枚数になってしまいます。

結局、その無数に近いモノを表すためには、原理的に集約してそぎ落とし、具体的絵柄(絵画的なもの)ではなく、逆に無数の想像が可能な抽象的・記号的(原理的)デザインにしたのだと考察できます。

ということは、もともと記号的なものを想像(イマジネーション)させることは、カードの機能としては想定されていたとも考えられ、そのイメージと想像の呼び水(イメージを呼び起こさせるもの)として、絵柄カード、つまり大アルカナ(一部宮廷カードも)があるのだと思うことができます。

さて、ここで問題なのが宮廷カードの位置づけです。

抽象(絵柄)と具体(数)の二元世界でわける場合、宮廷カードは前者に入ります。

ところが、宮廷カードは数カードと同じ、小アルカナのグループに属しています。

これをどう考えればよいのでしょうか?

そこで三部の次元を適用することになります。

ここでいう三部の次元とは、二元の間、中間を取るということになります。

抽象と具体の架け橋、どちらでも考えることが可能なものの、どちらかに完全に規定されるものではないという意味です。

これは大アルカナでは愚者的な位置になりますが、宮廷カードが人物ばかりで表現されているのは、ある意味、「愚者」のパターンを数値化に近い具体に落とし込んだものと考えることも可能です。

通常、宮廷カードは具体的(現実的)人物(人間)像のパターンとして読みますが、この考えを適用すると、必ずしも人間読みだけとは限らないことになります。

ただし、大アルカナの絵柄にも登場する人物像との違いを明確にするため、やはり次元を現実的フィールドに落としていく必要はあるでしょう。

宮廷カードは4×4の構成となっています。数カードは4×10です。

これには四大元素を象徴させる4組が基本となっているのでこうなっているわけですが、宮廷カードを三部次元の中間と位置づけると、宮廷カードの4と、数カードの10が結びつくことがわかってきます。

この意味ではトランプを研究(比較)することが、実は重要になってきます。

トランプを使うことは、タロットを理解したり、マルセイユタロットリーディングの、特に小アルカナリーディングに役立ったりすると想像されます。

このことは、現在発行している受講者用メルマガ(次号以降)で解説したいと思います。

さて、マルセイユタロットはこのように絵のカードと記号のカードでデザインされているので明確ですが、ほかのタロット種のカードでは、全部に絵がついていることもあります。

すると、それは二部や三部でわけて考えるより、全部を同質や同次元で読むことも可能になったり、そのほうが良かったりする場合も出てきます。

もちろん、絵があるからといっても、小アルカナパートにはその絵に、大アルカナとは異なって、意識的に別の作画(ストーリーになっていることもあり)にしているのが多いです。違いがあるということは、そこから次元を別にした使い方も当然できます。

絵がついているので、むしろ次元を別にしたとしても、読みはしやすいかもしれません。

ただ、同じような絵柄にすべてが近くなるほど、次元を区別した読み方ができにくくなり、次元が下のほうに引っ張られ(数が多いと具体化しますので)、78枚が現実的次元という具体に固定され、ひとつひとつの意味を記号のように覚えてしまうおそれもあります。

78枚が同じような絵柄の時は、小アルカナの4組など、しっかり原理を理解しておく必要はあるかもしれません。

一方、マルセイユタロットの場合は、もともと違いが明確なので、原理は意識的にも無意識的にも入ってきやすいというのはあるでしょう。しかし、数カードをイメージして読むことは難しくなっています。

だからこそ、マルセイユタロットは全体構成を理解したうえで、大アルカナと小アルカナ、絵柄のカードと記号のカードをセットで見て、統合的に読まなくてはならない(扱わなければならない)のです。


自己リーディングの工夫

タロットで自己リーディングするのは難しいとよく言われます。

その大きな理由は、自分のことだけに、客観的に見ることができないということにあります。

タロット(リーディング)のほとんどの部分は、実は主観的なものですが、その主観にもレベルの違いがあり、通常(人へのリーデイング)は(言葉としては矛盾しますが)、客観的主観みたいなもので読んでいます。

しかし、自分のことはやはり様々な感情や計算(つまり思考)が影響しますので、なかなかそれらのどれかに囚われたり、混乱させられたりして、これという一定の状態で読むことができなくなっているわけです。

逆に言えば、人に対してのもの(対人リーディング)は、読み手がある程度、一定の状態にいる(客観性を保つことができる)ということになります。

ルールや規則というほどではありませんが、そうしたタロットの意味での「ある法則性」が読み手の中にぶれずに存在している時は、客観的な感じで読むことができるのです。

普通はなかなか、自分のことをリーディングするのに、自分を切り離して読むことができないので、一定の境地・法則性の世界に留まることができず、苦労するわけです。

それでは、自己リーディングをどのように行えば、うまくタロットから自分への示唆を得ることができるのでしょうか?

結論から言えば、自己リーデイングはできないと思ったほうがいいということになります。

これでは身も蓋もありませんね。(笑)

もっと身も蓋もある(笑)言い方に直しますと、自己リーディングと対人リーディングは別物(別種)だと考えればよいということです。

対人リーディングと同じような方法と考え方をしていては、自己リーディングが難しく、読みにくくなるのも、むしろ当然なのです。

詳しくは講座で述べますが、簡単に言えば、自己リーディングは抽象的示唆でよく(抽象的なものこそがメッセージだと見る)、対人リーディングは比較的具体的なものまで落とし込む必要があると言えます。

わかりやすく言えば、自己リーディングでははっきりしたものを得ようとせず、大まかな方向性を知るために行う感じで見る(読む)と楽になってくるということです。

例えばAとBとCのものでは、どれを選択すれば自分にとってはいいのか?と問いに答えるとした場合、Bがよいとか、Cがダメとかでの回答ではなく、「今は積極に出たほうがいい感じ」「今は慎重に、控え気味という感じかな」と、全体のニュアンスをタロット展開から感じ取るというような、こうした読み方をします。

その上で、Aを選択することが、さきほど見た全体的なニュアンス(タロット展開の総合的方向性)に叶っているように思えたなら、その選択をよしとすると見ます。こうした見方であれば、ただ一つが正解となるのではなく、別にAかB、どちらでもOKと取ることもあり得ます。

自己リーディングは、具体的ではっきりした「やり方」を得ようとせず、大まかな「あり方」の示唆を受け取るという姿勢で読んでみてください。

ということは、タロットカードを、本当に象徴的に読むということであり、具体的物事や人物、時期に置き換えることまで無理にしなくてよいのです。

結局、タロットを象徴・シンボル的に読むことが自己リーディングのあり方でもあり、それはすなわち、タロットを自己洞察や自己省察、自己整理に使うという方法に自然になってくるものなのです。

このことがわかってくれば、タロット展開の方法でさえ、対人リーディングで行うものとは違ってもよいことが理解できます。時にはタロットを引かずに、タロットを想像するだけでも、自己リーディングとなります。

そうはいっても、もっと具体的、明確にメッセージが得たいという人の場合は、対人リーディングの方法を採用したくなると思いますので、その時は、同じタロット種を使う仲間とか、プロの人に「(相手から見て)対人リーディング」(普通のタロットセッション)をやってもらったほうがいいです。

純粋な対人リーディングの技術と方法で行うものでは、自己リーディング(自分で具体的ではっきりした回答を得るもの)は難しい、いや、できないのだいうくらいに認識しておくと、混乱せずに済みます。

まあ、それでも何とか自分で対人リーデイング的に読みたいという人は、方法がないわけではありません。

一番よいのは、自分が引いたカード展開を、時間や日にちを置いてもう一度見てみるということです。その間は、問いやタロットのことは忘れているくらいのほうがよいです。

いきなり忘れるのではなく、引いた直後はいろいろと検討したり、自分なりに読んだりして頑張ってみて、その上で翌日からはきれいさっぱり忘れるくらいにするという、負荷をかけたあとに手放すということをやってみてください。

すると、表面意識では忘れていても、別の意識では問いの検索がタロットの映像とともにずっと行われているので、やがて回答が導かれてインスピレーションのようにやって来るようになります。そのためには、一定の間をおく時間が必要です。

そうして改めて、寝かせておいた(笑)ネタと展開を再び見ることで、最初読んだ時とは違う感覚を得て、意外にすんなりとメッセージや示唆を得ることができます。

これは時間というものを利用した客観への移行です。

現実的な意味では、自分が変容する(意識が変わる)ためには、時間か距離の移動が必要とされなければならないからです。

つまり、時間を置いたあなたは、かつての自分とは別の自分になっており、それがために、違う読み方ができる可能性が高いのだという理屈になります。

つまりは、「自分であっても別人になる方法」を演出すれば、他人にタロットを読んでもらうような対人リーディングと同じ効果が期待できるのです。


直感で選ぶタイプ別、今年の後半

夏至も過ぎ、一年周期の後半に入りました。

この辺りは、いわば、いろいろな意味でターニングポイントとなる時期です。

こうしたポイントとなる時期・地点というのは、天体のサイクル(天体の回転運動と言ってもいいでしょう)で生み出される周期的時間のものと、個別に体感する時間とのものがあります。

言い換えれば、全員に共通するものと、一人一人によって違うものとがあるということです。

しかしながら、前者のものはやはり皆に適用されるところがあります(地球にいる限り)ので、そういった特別点をあらかじめ強く意識することで、実は個別的な点とも共鳴しあって、二重の意味で重要な位置時間になることがあるのです。

言い換えれば、もととも強い転換点の気質を持つ時間・ポイントに、自分の意識を込めることで、本当に個別的にも影響を及ぼす「時」になるということです。

ということで、何かを変えたい、生み出したい、終わらせたいというようなことには、そうした時(ポイント)の力を使うといいわけです。

さて、これからの後半を、タロットで見てみました。

少し占い風になっていますが、当たる当たらないで見るのではなく、あくまでひとつの情報として参考にしていただければと思います。

なお、今回も前にやったように、4つの図形で分けていますので、今しっくりくると思う図形を、あまり考えずに直感で選んでみてください。その選んだ図形の項目が、あなたの今年の後半を象徴的に示していたり、何か関係していたりする可能性があります。

4つの図形は、▲■◆●です。

◆このタイプを選んだあなたは、チームを組んだり、協力関係によったりして、実績をあげるということがテーマとなってきそうです。行き当たりばったりではなく、きちんと計画性と目的意識をもった活動が重要です。
ポイント月 10月

●このタイプを選んだあなたは、自分が過ごしやすく、落ち着く環境作りに取り組むとよいです。新しいものと出会っても、それが自らにとって心地よいものであるかどうかで、善し悪しの判断にするとよいでしょう。
ポイント月 12月

▲このタイプを選んだあなたは、パートナーによって運命や今後の流れが大きく変わる可能性があります。また単独においては自立がテーマで、さらにはその意志を固めるだけではなく、実行に移す時期に来ています。
ポイント月 9月

■このタイプを選んだあなたは、自分の殻を破る出来事や知識に遭遇し、自己改革が始まります。自身を規定していた従来ルールは変化せざるを得なくなり、これまで見えてこなかったものがあなたに開示されます。
ポイント月 7月


戦車、節制、世界の調和レベル

マルセイユタロットの「戦車」「節制」「世界」は、ある種のテーマを共有しています。(ほかの組合せも、それぞれテーマを持っていますが)

テーマと言ってもひとつではなく、見方によって複数のものを考察することができます。

今日は、「調和の完成」について、換言すれば「統合」をテーマに、この三枚を語りたいと思います。

もっとも「調和」といえば、「星」など、マルセイユタロットのほかのカードでも表すことが当然できますが、今回はあえて「戦車」「節制」「世界」においての調和を考えます。

さて、まずは「戦車」です。

マルセイユタロットの「戦車」の絵柄を見ますと、一人の御者二頭立ての馬車を操っている様子が描かれています。

この二頭の馬にはいろいろな解釈が可能ですが、ひとつには、この馬は自分自身(の二人)を表すと見てもよいでしょう。

そうすると、御者も自分ということになるのですが、御者の自分から見ると、自分の中に葛藤する二頭の馬がいるわけです。

ともかく、その馬に象徴される「心を御すること・操ること」が、前進や勝利につながると解釈できます。

詳しくは述べませんが、この「戦車」は実は現実的な意味(意識的な世界)での成功や完成を象徴すると言われるのですが、その鍵は、つまるところ、馬を巧みに操る御者になることだと言えます。

すなわち、自己を統御することが重要なのです。

そうすると、私たちがこの現実の世界で行う目標は、自己を統べるということになりますから、調和の意味において、何をまず大切にしなければならないかと言えば、「自分との調和」ということになります。

ここで言う「自分との調和」というのは、外向けだったり、内向きだったりする自己の相反する心(二頭の馬に相当)を統合し、わだかまりのない本当の自分の気持ち(になって)で進んでいくというのに近いでしょう。

それは自分の価値観を知り、それに従って躊躇なく生きる状態と言ってもよいです。

このことは心理系・スピリチュアル系の方々の多くが述べていることですが、これがいわゆる「自分のありのままでいる状態」というものになるかと思います。

こうして結局、「戦車」が示しているように、現実的な意味でも「成功」というのに向かっていくわけです。

次に「節制」です。

「節制」は天使の姿の者が、ふたつの壷を扱い、水を混ぜ合わせている様子が描かれています。

こういった象徴性から、他者と自分との交流ということが見えてきます。

人は自分だけで生きているものではありません。他人がいて、属する集団や組織・社会があります。大きくなれば、地域・国というようにもなってくるでしょう。

ですから、「節制」は、人との調和、社会との調和というものを実現するレベルと言えます。

私たちは、案外と、最初からこのレベルの完成を目指そうとしてしまうので苦しいのです。

「戦車」レベル、つまり自分との調和ができていないのに、いきなり他人との調和、社会との調和を完璧にしようとするので、自分を追いつめてしまうわけですね。

「節制」レベルは、言わば、世のため・人のためなのですが、これはもちろん悪いことではなく、反対によいことと一般的に認識されています。

ですが、あまりに自分を偽ったり、本当に素直にそれができる状態でなかったりすると、自己犠牲を払い過ぎる感情となり、世のため人のためではなく、世のせい・人のせい(自分のせいと思うこともあり)(でうまく行かない、苦しい、つらい)という気持ちにもなり、やらされている感(強制感覚)や、社会や人に貢献できない自分に無力感も覚えてしまいます。

従って、まずは「戦車」レベルで自己との調和を図って自分の特質・自己の価値を知り、その延長線上(「戦車」風に言うと、「戦場」となります)で、世のため・人のために動くとよいのです。

自分との調和が図られていれば、自分でできることとできないことの区別、自分が面白いと思うことと面白くないと感じることも、よくわかる(できる)ようになっているので、心と行動との間に矛盾も少なくなってくるのです。

もちろん、私たち人間は社会的な生き物であり、普段も仕事をしたり、地域社会で活動せざるを得なかったりと、対人関係・対社会的に行動します。

自己との調和・統合を図るより、無理矢理でも対人・対社会との調和を図らねばならないことがあるかもしれません。

理想的には「戦車」レベルでの調和の完成を終えて、「節制」レベルの調和を目指すべきといえますが、同時進行で行うのが現実的という可能性もあります。(とはいえ、「戦車」のほうが重きが置かれます)

さて、こうして「戦車」と「節制」、つまり自己との調和、人や社会との調和が図られれば、ついには神や宇宙と言われる、大きな世界との調和が待っています。

これが「世界」カードレベルの調和であり、最終的な全統合と言ってもよいでしょう。いわゆる現実と精神の融合であり、スピリチュアル(霊性)の完成でもあります。

「戦車」が地(自分)、「節制」が人(社会・他人)で、「世界」は天と言えます。すなわち、天・地・人の調和と統合なのです。

ただ、見方を変えれば、「世界」の調和も他のレベルと同時進行できます。

枠組・段階としては「戦車」「節制」「世界」の3つがあるわけですが、宇宙構造の基本として相似形のフラクタルな関係にあり、それぞれにさらに3つのレベルがあると見ることができ、それゆえに同じ次元であっても、その次元に応じた3つの調和を考えることができるために、同時進行が可能となるのです。

よくありがちな誤りとして、自己との調和・統合の過程で、わがままがよいというようになってしまうことがあります。「わがのまま(ありのまま)」と単なる自分勝手・利己的な「わがまま」とは違います。(「戦車」でいうと、片方の馬だけが暴走しているのが単なるわがままです)

実は多重構造として、「節制」の中にある「世界」レベルの調和を見ることで、悪い意味での「わがまま」にはセーブがかけられます。

わがままでなく、「わがのまま」であると、人からみてもスムースに見えて(反感を買わない、みっともなく見られない)、もちろん自分の心も葛藤がなく晴れやかに(楽しく)行動できているという状態になれるのです。

カードの象徴性を使って、自分をコントロールし、自己実現を図っていくと、自然に人や社会、宇宙と調和していくように、マルセイユタロットのシステムは設定されているのです。


完全性と非完全性 現実と理想

マルセイユタロットが表す大きな教義のひとつに、「人の完全性」というものがあげられます。

完全性とは完璧というのとは少しニュアンスが違うのですが、神や仏、宇宙などで象徴される全体性を示唆し、言ってみれば、「それそのもので何も不足するものはない」と表現できるものです。

スピリチュアルのことを学んだり、関心をもって探究したりすれば、必ずと言っていいほど行き当たる言葉であり、境地です。

もともと、私たちは何も過不足なく、存在自体完全なのだという認識ですね。これはまたグノーシス(自らの神性を認識する)に通じるものでもあります。

この観点は私も賛同しますし、ここを前提としなければ、マルセイユタロットにおいても、中途半端なものになると思っています。

しかしながら、現実的な側面で見ていくと、大きな誤解もあるような気がします。

精神やイメージ、心の中では「完全性」はいつでも思うことができます。

言い換えれば、精神世界・理想においては、確かに全員それぞれが完全であると述べられます。

厳密に言えば、「完全性を思い浮かべることができる」(完全性をイデアする、完全性のアイデアを持つ)ということです。

けれども、実体・現実の世界では、自分が神のように完全だと自覚することは難しいものです。

真面目に考えれば、自分はおろか、誰一人完全な人間なんていないと見るのが常識的で、当たり前の感覚です。

ということは、人の完全性、逆から言えば、完全性を持つ人というのは単なる幻想で、現実にはありえないということになります。

こうしたことを理由に、スピリチュアルというものは浮ついたもので、真実味もないと、特にリアリスト的な人からはみなされるわけです。

確かにそれはその通りでしょう。ただし、あくまで現実世界しか実体として見ない(存在として意識しない)場合は、です。

ここで大切なのは、両世界を行き来するために「橋」を架けることなのです。別の言い方をすれば、両方(の世界の認識)あって完全と見る考え方の受け入れとなります。

これ(架け橋する力)はマルセイユタロットでいえば、「愚者」そのものの力にも相当し、「法皇」はそれを伝えています。

現実で私たちが非完全(不完全)なのは、別の世界、つまりイメージや理想、現実を超えたところの世界では完全であることを強く認識させるためでもあります。

現実(通常の世界、見て触れる実体の世界)と理想(イメージや心・精神、通常認識しにくい世界)では表現方法が異なるのです。

そもそも端的にいえば、具体(個別)とイメージ(全体)という表現の違いが、ふたつの世界ではあります。

古代西洋のエネルギーのとらえ方の概念、四大元素を用いれば、主に「風」と「土(地)」の違いのようなものです。

イメージや裏の意識の世界では、いくらでも想像が可能なので、すべてがつながっていることも意識することができます。実際にそうした世界では、すべてがつながっていると考えてよいでしょう。

一方、現実では、一人一人個性を持ち、皆が異なる状態で存在します。従ってバラバラなため、過不足を感じるのが普通であり、一人の人間で完全だという思いは、客観的にも認識できにくいものです。

運動が得意であっても、ビジネスができるとは限りませんし、勉強ができても恋愛ではうまくいかないという人もいます。また生まれつき大きなハンディを背負っている人もいれば、知能も身体も恵まれている人もいます。

そう、現実はまさに「違い」の世界であり、一見、そのままでは差別性・非(不)完全性を強く認識させる世界になります。

ところが視点を変えると、実は完全性も強烈に現実に現れます。それは、全員がひとつひとつのピースのように、ある大きなものの一部であるという観点をもった時です。

そうすれば、この現実世界での「完全(の認識)」とは、個人での非完全性の認識(自分の過不足を認めること)と、そこから来る助け合いや相互の受容それぞれの能力・特技・個性の活用というものだと気づいてきます。

イメージや精神の世界では、すぐに完全になれる(思える)のに対し、現実では逆に完全を「個」で認識するのは困難な世界になっています。

その代わり、まさに現実(実が現れると書きます)の特徴の通り、実体として個と個が助け合ったり、得意なものを交換しあったりすることで、全体としての完全を感じていく仕組みになっているのです。

一方のイメージ世界では、すぐに完全を想像することはできても、実感としては難しく、また宇宙的一体感は瞑想や理想のイメージで得られたとしても、自分自身が個としても生きているので、よほど悟った人以外、またすぐに現実との矛盾(完全やひとつは感じても、実際はずっとそうはなれない、それを活かせない自分との葛藤や悩みが出る)に苛まされることになります。

たとえ自分が「完全性」を、イメージ・瞑想・スピリチュアルテクニックなどで感じられたとしても、それを他の人にも同じように感じられるようにすることは難しく、勢い、自分のこと(自分の感じたこと、自分が言うこと)を信じられない人に対して幻滅を感じたり、進化の遅れた人のように見下したりしてしまう傾向が出ます。

そこまで極端ではなくても、同じ感覚を共有できる人だけで固まり、セクト化・カルト化する場合もあります。

それを防ぐためにも、現実での非完全性を思いつつ、全体としての完全性を認識するようにし(個としての、現実としての不完全を認めたうえで、全員で完全と見る)、違いの対立ではなく、違いを活かし合うという方向性を持つことが重要になってきます。

逆に言えば、現実では違っているのが当たり前で、いくら精神やイメージで「皆はひとつ」とか、「宇宙は完全だから何もしなくてよい」とか思っていても、実体(現実)では一人一人異なっていること、非(不)完全性を強く思う仕組みになっているので、安易な「完全性」の主張は、現実での矛盾や苦しみを助長することになると理解しておく必要があります。

しかしながら、イメージで感じた全や一という感覚は、現実世界では、完全ではない(と感じる)一人一人の実社会での協力的関係(の構築)によって近づくことができるのです。

ということは、やはり、イメージや理念としても「完全性」を知っておく、学んでおくことは重要です。理想がないとよい現実を作ることができず、現実は混沌とし、さらにひどいものになるからです。

時には、一時的でも宇宙的・全体的一体感を味わっておくのもよいでしょう。

その意味では、害のない程度のトリップ体験ができる方法はありだとは思います。(扱う知識はいるでしょうが)

こうして、現実と非現実(イメージとか理想の世界)とは、お互い真逆のような状態でありながら相互にリンクし、実は同じことを対称的な表現で経験させるようになっているのです。

ですからふたつを意識したり、認識したりするほうが、真理に近づくのも早いと言えます。ふたつがあるからひとつが見えてくるのです。

しかしながら、表現がまったく反対になることを覚えておかないと、どちらかの世界に傾き、迷走することになります。

元に戻りますが、結局は私たちは宇宙そのものであり、やはりどちら(の世界)から見ても、完全なのだと私は考えています。(ただし、意識や認識のレベルによって、その完全性自体のレベルも変わると思っています)


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