ブログ
企画もの、無料リーディング等
5月も終わりということで、ここで、少し気分を変えまして、企画ものをしたいと思います。
あ、私は論理的・計画的にブログを書いているように思われがちですが、実は直感とか感性に従って、何の計画もなく、その日想ったことをテーマに書いている次第ですので、そこに何か意図があるわけではありません。
そのせいか、意外に読者からは、記事内容がシンクロすると感想をいただくことはあります。
ということで、今回の企画も思いつきです。(笑)
●企画その1
無料リーディング
時々やっていますが、また無料リーディングしたいと思います。メールのことが多いのですが、今回はスカイプリーディングを募集いたします。
▼無料スカイプリーディング
音声のみでも映像つきでも、どちらでも可 1名様限定 時間は約60分
■応募要領
「無料スカイプリーディング希望」とお書きのうえ、お名前、メールアドレスを併記されて、メールにてお申込みください。→こちらから。
携帯メールの方は、返信がPCからでもOKなように設定していてください。
応募多数の場合、タロットによる抽選を行います。(落選された方にもその旨、ご連絡いたします)
相談内容は、応募の時点でお書きになる必要はありません。リーディング対象者が決定してから、お伺いいたします。
当然ですが、スカイプができる環境にある方(スカイプ通話ができる方)がご応募ください。
今回はどなたでもOKで、以前リーディングを受けたことがある方、講座を受講された方でも受け付けます。(抽選も平等)
■締め切り 6月7日(日)まで。
●企画その2
マルセイユタロットへの質問にお答えする企画
素朴な質問でもいいですので、ブログ読者から、マルセイユタロットへの質問を募集し、それに私がわかる範囲でお答えいたします。意味のとらえ方や、展開法、学習方法などでもOKです。
ご質問をいただいた方全員に、個別にメールでお答えいたします。
ただし、講座で口伝的内容となっているもの、講座でなければ伝えられないものなどもありますので、その点はお答えできないことはご了承ください。また、私にもわからない事柄は結構ありますので、わからない時はわからないとお答えするのは、ご容赦ください。
比較的多かったご質問、代表的なご質問というのが今回あれば、ブログでもご紹介したいと思います。
【質問募集要領】
ご質問は、メールにてこちらからお願いいたします。
個別対応を行うため、あまり人数が多いとこちらも大変ですので(^_^;)、2日間の短期間募集にいたします。つまり、締め切りは6月1日22時までとさせていただきます。それ以降のものは、申し訳ありませんが、ご返信いたしませんのでご注意ください。
以上、よろしくお願いいたします。
人間的に生きながら神(高次)を見る
西洋的にはタロットや占星術となりますが、その象徴性は極めて高度で、整理されたものと言えます。
しかしながら、一方で、人の現実的な悩み事や関心について、それらのツール・象徴性を利用して占いをしたり、具体的なことに当てはめることも可能です。
いわば、高度な理念(プラトン的にはイデア)と、低俗な人の欲求にも両方応えることができるものが、タロットや占星術などの象徴です。
ところで、現在の私は、マルセイユタロットを占いとして教えることはしていません。
しかし、一般で言うところの「占い」的な考えも大事だと思っています。
その大事さの意味が、昔よりも変化してきたことが言えます。
かつては占いとして使われるタロットから脱却することに力を入れていましたし、そういう理想を思って、教える際にも心がけようとしていた時もありました。
しかしながら、ことはそう単純なものでもないのです。
次第に私もそれに気がついてきまして、今は占いはしない、教えないにしても、占いを否定しているわけではなく(もともと否定していたわけではありませんが)、ただ、次元の適用の違いがあるだけだと、はっきり認識できるようになりました。
また講義でもリーディングでも、結果的には占いをしていることもありますし、プロセスとして、あえて占いを利用することもあります。
もちろん、占いの中にも高次はあり(もともと占いは高次なものから発生しています)、逆に高い理念を思っていても、その把握方法と適用を間違えると、やはり俗ぽいものとなってしまいます。
まさに「人間」と同じで、人は、神性と表現される高い次元の部分を持つと同時に、個人的な欲求や願望で活動したり、のまれたりする低次な部分、悪魔的部分、動物的部分も併せ持ちます。
それでも、マルセイユタロットで表現されていることですが、面白いのは動物でも、いや動物だからこそ純粋なものを持ち、また悪魔でも、悪魔だからこそ高い能力、高度な知性、輝くばかりの魅力、ほぼ神に近い完全性を有しています。
一概に何がよくて何が悪いかなどと言うことはできず、そのすべてが神なるもの、完全なるもの必要素や表現と見ることが可能です。
神秘思想に照らし合わせても、人の中には、こういった様々な要素が封じ込められていると言えます。
ですから、たとえ低俗に見えるようなものでも、そこには高次に至るヒントが隠されており、またやたらと高次や純粋なものを求めても、それだからこそ、もろく、すぐに折れてしまう(挫折や変節をする)ことがあると言えます。
人の相談や悩み事が、現実的で願望実現的なものになるのは当たり前です。
それに応えようとすると、例えば占星術において星の象徴性が、その運動性とともに、地上に投影されて(ハウスなどの手法でさらに現実化されます)、具体的なこと、個人的な関心ごとに、その象徴性の次元が落とされていきます。
タロットでも、抽象的で高度な意味が、卑近で現実的、二元選択・吉凶的なものへと変貌されます。
「魂が囚われている」と言われるより、「あなた自身が殺されている」と言われたほうがさらに強烈でわかりやすくなり、もっと現実的になれば、「今の会社はあなたに合っていない、辞めて別の●●のような仕事をするべき」となります。
人は一般的に、断定的・具体的・ストーリー的に述べられたほうが、わかりやすく思うものです。
言い換えれば、次元が低く、具体・個別レベルにひかれるということです。現実世界に生きているので、それは当然であり、悪いことではありせん。
問題はこの次元に固定された考えや生き方をして自覚できない場合であり、そうなると一生、その次元での世界で泳ぐしかなくなります。
それでも人生は悲喜こもごもで、それなりに楽しく、波乱もあって充実したところもある人生だと思います。
しかし、子供の時の世界観が、今見ればとても幼く純粋であったように、違う次元に至れば、それまでの世界の矮小さに気がつきます。
もっと言えば、それまでの世界で自分が騙されていたことに、気が付く場合もあります。
世界が拡大すれば、それだけ文字通り、自分の住む世界(リアリティを感じる世界)も拡大します。ということは、自分を活かす資源もや可能性も増えるということです。(危険や責任なども増えますが、その対応策もこれまで考えもつかなかったものが存在する世界になります)
インターネットがある世界と、なかった時代の世界と例えてもいいでしょう。
こうした次元移行のためには、実は、いきなり高次を目指すのではなく、一見低次とも思えるものを、高次に向かうためのエネルギーに変えていくことが求められます。
低次世界そのものに囚われるのではなく、その世界で自分が出すエネルギーを違うものに変換していくという意味です。
欲求や願望に対応しよう、かなえようという思いと行動が、実はエネルギーになるということです。
昔、「性の昇華」ということで、学校で学習した人もいると思いますが、あの概念に近いです。
そして、そのためには、高次とは何かということを想像できるイメージやモデルが必要です。目標がわからなければ、どうしようもないからです。
ただ、他の動物が人間の状態になれないのと同じで、高次そのものを、そこに至っていない者が体感することは難しく、そこで象徴をともなったイメージやモデル図が役に立ってくるのです。
神(の境地)とはこんなものではないか、と想像できるものです。
これが具体的すぎると、また低次になってしまうおそれがあるので、宗教によっては偶像崇拝を禁止しているところもあるわけです。(偶像は形や絵であり、具体的・人間的なものなので)
できれば抽象的で、自然や宇宙と同様、一貫し、透徹された規則性が内包されたものがよいと考えられます。
ただあまりに抽象的だとイメージするのも難しいので、そういう意味では、タロットは中間的によくできていると感じます。
とにかく、清く正しく美しくに徹するのでもなく、欲求や願望を満たす、現実を充足させることだけに取り組むのでもなく、理念を思いながら現実を生き、現実を生きながら(活用しながら)理念に飛翔するというのが、私の見るマルセイユタロットからの示唆です。
タロットの不思議体験と自己成長
マルセイユタロットを学び、使っていくと、いろいろと面白いことが起こってきます。
それは不思議とも言えるものですが、それを検証したり、考察したりせず、ただ「不思議」だと無分別に受け入れることは、私自身はしていません。
不思議だ、神秘だ、ワンダーだと驚嘆する心はあっていいと思いますし、それが人の感応力のすばらしさでもあり、また大いなるものへの敬意や感謝にもつながります。
しかし、不思議なことにただ驚いているばかりでは、進歩もありません。その気持ちが洗脳や、コントロールに利用されることもあります。
不思議は、これまた不思議なことを言いますが(笑)、不思議だからこそ理解と智慧が獲得されるような仕組みがあるのです。
「驚き」「不思議」「謎」は理解や探究とセットでもあるのです。
さて、自分使いのタロット(他人にリーディングするなど以外の、自分でタロットを使うもの)で、(起こる)不思議なことを幾つか述べてみましょう。
まず、自分で、問題や状況についてタロットを展開した時、出たカードと展開が、あまりにもぴったりで衝撃を受けることがあります。
私は今はこの現象(の理由)について、驚くべき気づきがあり、それを説明することができますが、ここではふれません。
説明しても、受けいれられる人が少ないと思うからです。ちゃんとタロットを学んで、段階を追って開示しないと無理でしょう。
それはそうと、とにかく、タロットと自分とのつながりが、偶然引いた中でもある(生じる)ことに、驚きや不思議さを感じます。
偶然の中の必然、それこそ、シンクロニシティをここで体験するわけです。
次に、タロットをさらに学んで使っていくようになると、人によってですが、ふいにタロットが映像として出て来たり、まるで人格をもって語りかけてくるかのように感じたりすることがあります。
「タロットの聖霊」という概念を信じるか信じないかによって、このことの説明は変わってくるのですが、まあ、ともかくこれも不思議な体験です。
そして、タロットの象徴について理解が進むと、今度は、カードのある並び(順番)や、学ぶべき事柄として、まさにタロットカードの示す象徴内容そのもののが、現実に起こってくるようになります。
もちろん逆から考えることもでき、タロットが理解できてきたからこそ、自分に起こっていることがその象徴として把握できてくるとも言えます。
とはいえ、その考え方よりも、むしろ「タロットにより経験させられている」としたほうが納得できるかのような感覚と言ったほうがしっくりきます。
これが「不思議」と感じる部分になってきます。
こうして、最初にタロットに接し、その意味を理解した時とは別の、さらに次元やレベルの異なるタロットの示唆するところの多重性の意味を、知性と感情、さらにその他の知覚でもって、体験的に知ることになります。
これが連鎖反応的、螺旋状的に続いていくのです。
もちろん一枚だけの象意ではなく、カードの組合せや全体性による体験と理解もあります。
それはすなわち、自己の成長や向上とつながっているのです。
言わば、自分にある内的宇宙と、外に存在していると錯覚している外的宇宙を、マルセイユタロットをモデルや核として、統合していくような作業と述べてもいいかもしれません。
このプロセスは、他人と比べるものではありません。
あくまで自分中心に、自分の成長レベルで体験していくものです。
ですから、自分が知ったカードの象徴や意味も、他人と共有できる部分もあるとはいえ、やはり自分だけにしか通用しないものもあるわけです。
言葉尻だけをとらえると、いかにも一般的な意味のように思えても、その真意は、その人が自分の知識と体験から導き出し語られる内容のもので、他人にはわからないものなのです。
例えて言えば、一枚のカードに象徴される自分の中にある何階層にも及ぶ建物(意味・智慧・理解)があり、その1階と10階とでは、まったく言葉としては違っていても、建物としては共通しており、しかしながら、この建物はあくまでこの人の「マンション(メゾン・メーソン)」であるというところで、他人には理解できないということなのです。
と言っても、建物自体は似ているというより、実は共通基盤・設計・施工は同じ建物と建設会社によるものなので、別の人の建物同士でも理解しあうことや、共通点はあるとも言えます。
矛盾しているようですが、これもタロット的には言えることなのです。
違っているけれど同じ、また同じだけれど違っている、これが自分と人との関係でも言えますし、自分一人だけの基準においても適用されるのが、タロットで物事を見る時の基本ルールみたいなものです。
しかもそれこそが、宇宙を見る時のルール(仕組み)と同じであるとも考えられます。
ですから、タロットは自分使い(自分自身と比べる)だけのように見えて、人と比べることも可能で、他人とカードについて比較し合い、気づきと意味を述べ合うことでも、自己成長が促進されるようになっているのです。
この時の「他人との比較」というのは、差を意識しつつも、差に引きずられるのではなく、あくまで自分の理解と成長のために、人の考え・気づきと比べるというものです。
一言でいうと競争ではなく、他人と融合や統合するための使い方です。(しかしながら、他人と違う自分の個性も理解する方向でもあります)
ですから差だけではなく、むしろ共通部分も発見することが鍵となってきます。
このように、マルセイユタロットを学び、使っていくというのは、不思議体験とそれへの理解による螺旋的な自己の進化(深化)・拡大を意味するのです。
知ることの意味、再生と創造
人には知りたい、物事を明らかにしたいという欲求があります。
欲求なので、他の「欲求」と同様、暴走すると問題になりますが、本来は、やはり「人」であるところの特徴であって、そのために成長や発展も見込まれるものだと思います。
そもそも先述したように、ある意味、「欲求」は「人」たる証左のようなものであり、悪いものでもいいものでもなく、バランスの問題によってよくも悪くも変化するものだと考えられます。
知りたい欲求、知的欲求も同じで、情報や知識を過剰に入れ過ぎ、それに振り回されていては問題となりますが(現代はそれが顕著です)、その欲求があるからこそ、人類も進展していくものと言えます。
人に知りたいという欲求があるのは(知りたい欲求にかかわらずですが)、肉体を持って生まれ、自分が完全ではないと思いこまされている世界を、リアリティあるもの(つまり現実)と感じているから(言い方を換えれば「神」から切り離された状態になっている)にほかならないと思うのですが、これはマルセイユタロットに流れる「グノーシス」思想と関係する深い話となりますので、今回はそれにはふれません。
さて、知ることに対して、時に人によっては、「知らない方がいい」「下手に知るとまずい」「子供のような純粋な状態が望ましい」と言われることもあります。
もちろんこれに当てはまるケースもあるでしょうし、自分の段階やレベルを超えて知識を得てしまうと、その意味がわからず、うまく活用できないこともあります。
また、真実(この定義は難しいので、ここではまだ知らなかった事柄・事実という意味で使います)を知ったために、ショックを受けたり、裏切られたという思いをもったりするようなこともあります。
何か別のことが隠されいるのを薄々感じながらも、それに直面することが怖くて、あえて知らないフリをしている場合もあるでしょう。
そんな時は、例えばマルセイユタロットならば、「正義」のカードが出るかもしれません。
いずれにしても、知りたい欲求と、反面、知ってしまうことへの恐れ、知ることがタイミングとして適当ではない、知ったために純粋さが失われた・・・という「知ることにおいての葛藤」が誰でもあります。
ここで私が、タロットから見て思うのは、それでもたいていは知ったほうがいいということです。
前述したように、いろいろなケースがあって、必ずしも状況によって「知る」ことの選択がベストとは言いませんが、究極的な意味と言いますか、最終的には知ったほうがいいのでないかと述べています。
「知りたい、でも知りたくない」という状態は「葛藤」なので、それを乗り越えるために「知る」ことで葛藤の門をくぐり、新たな境地(統合・新しい創造の世界)へと進むことができるからです。
もっと別の言い方で例えましょう。
新しい情報なり知識なりが入って、一時的に混乱はしても、人間は何とかそれを調和させようと、融合作用を開始します。
すると旧バージョンの自分がバージョンアップされて、新しい情報も自分の中で収めたうえでの判断ができるようになります。
その新しい情報や知識が、自分にとってあまり有用ではない場合、切り捨てる(眠らせておく)ことも人は可能です。
何も付け加えることだけが創造ではなく、破壊し、捨てることも創造の一部です。
さらには、ヤスリやサンドペーパーで磨かれるがごとく、新しい知識などが、自分の今までのものを磨き、その新しいもの自体は使い終わったサンドペーパーのようになったとしても、残った従来のものは研磨されて、まさにブラッシュアップされた知識・情報として非常に効果的なものになります。
知らなければ良かった・・・と後悔することも人にはありますが、知るシーンや状況に遭遇することは、総合的・全体的に見れば、きっと意味があることだと思います。
それは自分の表面意識では知らなかった(自覚していない・認識していない)ことでしょうが、実はすでにあなたが奥底で、「知らなければならなかった事柄・知識・情報」「直感的に何かあると思っていたけれど、恐れで避けていたもの」として感じていたことだったかもしれないのです。
いわば、自分自身の「知りたい欲求」が自らを動かし、そういう「知る状況」に出会わせたと考えられます。
ですから、知ってショックなことではあっても、それは別の自分、奥底の自分、顕在意識ではない意識の部分が求めていたことかもしれませんので、どこかで満足している自分がいて、その新(真)情報によるカオスから、火の鳥のように新しいもの(解釈・選択・生き方など)が生み出されてくるはずなのです。
「真実はこうなのかもしれない」「もしかしたらああいうことかもしれない」「でも知るのは怖い」「まだ知る段階ではない」・・・という不安と葛藤の状態から、偶然であれ、意図的であれ、結局「知ること」によって、対立からの統合を果たし、新しい自分(の考え方)を創造していくのです。
それは象徴的に言えば、死と再生のプロセスであり、古いものからの囚われを解放し、自分らに革命を起こすことにつながるのです。
カードによる自己世界と全体世界の融合
マルセイユタロットは、いわばユング風に言うと、人間の集合意識の元型とでも例えられるものが象徴されていると見ることができます。
簡単に言えば、誰しも持っている思考や感情と、その反応のパターンと表現できるでしょう。
特に大アルカナ22枚でそれを表すことができます。
一方、もっと大きな意味で、霊的な進化のナビゲーションような形を象徴させることも可能です。
これらのことは私の講座で詳細に語っているところであり、またそれらの見方と活用についても述べています。
タロット(に限らないことですが)の象徴というものには、レベルや次元があり、全部同じ見方・とらえ方をしてしまっては、余計混乱するばかりなのです。
この次元の区別ができていないので、タロットリーディングにおいても迷うことになります。
またタロットという絵柄から何かを想像し、象徴として現実と関係させるという理屈もわからず、タロットなんてものはスピリチュアルや占い好きな人の迷信による道具にしか過ぎないと、頭の堅い人は思ってしまうことになるのです。
それはさておき、いずれにしても、どの次元の使い方をしても、マルセイユタロットはバランスが働くように構成されています。
例えば自己の内観や認識、調整・調和にマルセイユタロットを利用する(そういう次元で活用する)時、大まかに言えば、22枚の大アルカナに象徴される自己が内在していると考えることができますが、それぞれは、全体として何かに偏っているわけではありません。
ただ、不思議なことに(本当は当然のことです)、ひとつひとつカードと自分とを検証していく過程では、ある種の偏りが見られるのが普通です。
それは特定のカードたちがわからない、なじめないとか、こういうタイプのカードは好きだ、感じがいいというものであったり、カードを見て言葉がたくさん出るものもあれば、まったく出ないものもあったりするような感じです。
また感覚や感情とカードが結びつくと言いますか、気持ち・感じのようなものでカードをとらえたり、読んだりすることが向いているという人もいれば、反対に象徴の意味や言葉などから、理屈や論理が通って初めて、カードのことがわかってくるというタイプの人など、カードに対する自分の向き合い方・読み方にも個性が出ます。
それも、言わば、カードを通した自己の偏りの確認と言ってもいいでしょう。
実は「偏り」は個性でもあるのです。
偏りと聞くとネガティブなものに思えますが、反対に長所と言いますか、自分だけにある特別なセンサーと言ってもよく、ホジティブに解釈することもできます。
しかしながら、その偏りも、次第にそのどちらでもないとか、どちらでもあるとか、カードで象徴される自己認識をさらに拡大、受容していくことになり、偏りそのものが最後には修正されていきます。
言い換えれば、バランスが完全に取れた状態です。
さらに付け加えれば、「修正」というより、もともと偏りや個性はあるようでなかったことに気づく段階と言えます。
そして、個性や偏りは、次元を別にすれば、また登場してくるものなのです。
ただしここでいう「バランス」は、数値で計るようなフィフティ・フィフテイのバランスではなく、個人の特性に応じたバランスです。
食事でも、全員同じ数値的な栄養バランスのものを摂取していれば、皆が皆、健康になるとは限らないのと同じです。その人に合ったバランスというものがあるのです。
一方、実は全体を貫いている定理のようなバランスもあり、それは数値的なものではないとはいえ、普遍的・全体的なもので、いわば陰陽などの宇宙原理と言ってもいいものです。
マルセイユタロットをきちんと活用していけば、自分の個人バランスと、全体の大きなバランスとの融合点・調和もやがて理解できてくるようになります。
それは例えれば、わがままのように見えて、全体との調和も保たれているような生き方・自己表現です。(外からはわがままとは見えず、むしろ洗練された風に見え、そして内側・自分からは自分自身を出している・生きている・「わがのまま」にいる実感の状態です)
カード単体においても、最初は吉凶とか、いいカード・悪いカードという見方から入り(それは私は勧めていませんが)、やがてそのどちらでもないことに気づき、さらには精神的な雰囲気のカードに物質的なものを見たり、その逆をとらえたりという相互のエネルギーの循環を悟り、カード一枚でも宇宙を象徴することがわかってくるという過程を経て、全体と個別のバランスが調和されてきます。
そしてカード(マルセイユタロット)を扱うことが、自分や世界、ひいては宇宙をモデルとして観察し、自分自身が宇宙そのものであることを認識するための、プラクティスと遊技(ゲーム)をしていることに気がついてくるのです。
