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聖なるものを想像(創造)する。

私たちは、ともすれば毎日、同じようなことを繰り返し、そのまま無為に流された生活をしてしまいます。

それは仕方のない面もあり、そのほうが楽なことは確かです。

変化がないということは、このように楽な一方、面白味がなく、いろいろなものも停滞気味だという裏の面もあります。

逆にいえば、変化に富む毎日というのは、面白くはあっても、危険な面もあり、エネルギーも多く使い、何かと大変なことも多いわけです。

農耕(稲作)をするかつての日常の生活においても、やはり平穏で同じことを繰り返すような毎日と、お祭りをしてにぎわったり、神聖な気持ちになったりする特別な日とに分かれていました。

これは意識的というより、自然にそのようなサイクルが組まれていたと考えられます。(意図的な面もあったとは思います)

民俗学では、このサイクルをハレ(非日常)と(日常)ととらえ、日常のケのエネルギーが枯渇してくるとケガレとなり、そして神聖なるものと交流する「ハレ」状態をもって、その補給や浄化とし、また通常のケに戻っていたと想定されています。

いわゆるお祭りはオマツリとして、神を祀り、霊的にも神のエネルギーを降ろしてもらうことに意義があったと考えられます。(反対に言えば、内なる神性を、神を想像することで覚醒させていたと言い換えてもいいかもしれません)

たとえ神なるものが存在しなかったとしても、その存在を地域住民の皆が信じることで、心理的効果が及び、リフレッシュできたと思われます。

私個人としては、思いこみ的な心理効果とともに、霊的な何かのエネルギーの変転が、実際にあったのではないかと推測しています。

いずれにしても、「信じる」ことと、それが多くの人に共通意識となることが、神と人の交流や意識交換・意識変化システムにとって、非常に重要な要素であったと考えられます。

そのため、「神がいる」ということを視覚的にも認識しやすいように、神殿、つまり日本ならば神社・仏閣が造られたと想像できます。

しかも、日常のフィールドと明らかに異なるように見せるためには、高台であったり、森の中であったり、特別な場所が社の場所として選定されたことでしょう。

もちろんエネルギー場として、もともと特殊であったところということも考えられます。

ただ、人々の意識・思いが、信じる力の束となり、その場所に「神」なるもの、神聖なる存在・フィールドを創造したのだとも言えそうです。

日本語の音は不思議なもので、この場合の「思い」と「重い」がまさに重なり、思いが入る所は、ほかとは違う重力場になっている感覚があったのではないでしょうか。すなわち聖域です。

人々の思いが何らかの形で重さに影響し、その場所に行くと軽くなったり、重くなったりするようにも思います。(「重さ」は影響力にも関係)

このように昔は、村々の鎮守の社のような形式で、地域住民の共通理解によるイメージの神様が存在することで、生活に適度なメリハリがあったと想像できます。

しかし、現代の私たちはそうした共通理解の神殿や神を持たないため、カリスマ的な人や、ある分野に特別な知識や技術を持った人を神的に扱ったり(ネットでは「神」という言葉の使い方を見ればわかります)、かなり広域な範囲での神殿(有名神社)をわざわざ訪れたりします。

それも好き勝手な個人のリズムで、です。

言い換えれば日常的なメリハリが利かなくなっているのと、まとまりの力が弱くなっているのですね。

本当は地域のセンター的なところに聖域を作り、その意識を再び醸成していく必要があるように感じますが、なかなか難しいので、まずは個人の家から始めるのがいいかと思います。

それは神棚とか仏壇の復活と言いますか、そうした「聖なるもの」が認識できるものを家にも作ったり、置いたりします。

ただ意識が重要なので、飾っているだけではダメで、まして掃除も何もせず、ほこりをかぶっている放置状態では、単なるスペースの無駄となって逆効果とも言えます。

意識を特別なものにするためには、実在感が大切です。

つまりリアリティです。それは、思うだけではなく、現実の行為が必要となってきます。

手を合わせたり、祈ったり、唱えたり、お供えをしたり、そういうような聖なるものに対する実際の自分の行為があいまって、意識的・感覚的に、そこのフィールドに聖なるものが芽生えるのだと思えます。

そして、できれば一家の共通認識を形成することです。

つまり、家族全員が信じる状態というものにすれば、それだけ効果はその家全体に及ぶようになってくるというものです。

ただ、契約のように思ったり、何かを叶えるための代償のように感じたりすると、自分を縛ること(想像した聖なるものに縛られること)になるので、聖なるものに願望実現を祈るのは避け、感謝的な気持ちを捧げることにしたほうがよいと思います。

いずれにしても、普段の生活の中で、聖なるものを意識する場所と時間があることで、確実に意識を切り替えたり、クリアーにしたりすることが可能になってきます。

言ってみれば、流されにくくなるということなのです。

実はマルセイユタロットに接する時間を持つ行為も、これに類する(意識の切り替え)ことになります。


「戦車」でも自制の場合があります。

マルセイユタロットの「戦車」「力」などのカードを見ると、いかにも勇ましく、力強い印象を受けます。

そのため、一般的には積極的でイケイケゴーゴー!(笑)みたいな意味にとられることが多いのですが、象徴をよく理解していくと、自制やコントロールといった内容も見えてきます。

これはこの二枚に限らずですが、タロットから得られる示唆・意味がまったく矛盾するようなことであっても、実は奥底ではつながっており、そのリンク性・関連性のコアを把握することが、カードの本当の理解の意味では重要だと言えます。

それにはちょっとした考え方のコツがあり、その見方を得ないと、結局カードを二元にわけて、吉凶的意味合い(いいか悪いか)でとらえてしまうようになります。

それは言わば、おみしくじ的な解釈であり、実はとても楽な読み方になります。

しかし、ずっとそれを続けていくと、カードの意味づけが決定してしまい、エネルギー的にもそういうものを呼び寄せる(リンクする)ようになるので、例えば、これは「不吉なカード」「悪いカード」だと決めつけると、その通りのことが起こったり、生じたことの意味を確定させたりすることになってくるのです。

これは、カードの当たる原理のひとつです。(当たる原理はほかにもいろいろと考えられます)

それはさておき、本題です。

先述したように、「戦車」や「力」にも、自制・コントロールする要素が働いています。

カードを展開してこれらのカードが出ることはもちろん、カードを扱わない人にとっても、自制すること、ちょっと間を置いて考えてみることは重要です。

最近は、情報過剰な世界になってきており、世間の広告も含めて、煽るようなことがたくさんあります。

たいていはお金やエネルギーの消費に向けられるものです。

また巧妙にカモフラージュされていたり、知らず知らずにそうしたものの片棒をかつがされていたりすることもあり、注意が必要です。

「自分らしく」とか、「やりたいことは今やらないと損」とか、「人生、後悔しないように」とか、はたまた「心にブロックをかけないように」「直感が導くままに」「ワクワクを信じて行動」とか、そういううたい文句でもって、煽る場合もあります。

もちろん、それらの中にも、魂やスピリチュアル的な面で、よいことを述べている場合もありますし、それに従うことが今の自分にとって正解だということもあるでしょう。

しかし、すべてが合っているというわけでもありません。

やりたいこと、見たいこと、経験したいことが、単に表層的な欲求から出ている場合もあります。

また自分の願望や欲求ではなく、先述したように、宣伝・広告として煽られたり、他人や組織から洗脳のように動かされたりしていることもあるのです。

そこで、「自制すること」「もう一度よく検討すること」「選択に時間を置くこと」「直感だけではなく、理性を働かせること」が求められます。

すると、自分が何者か(他人の欲求や感情も含む)に動かされていたことや、瞬間的な欲求(たいていは肉体的・感情的アンバランスや欠乏感がら出ています)にふりまわれさていたことに気がつきます。

二度・三度試みようとしてもうまく行かない時は、また別の機会を考えたり、今回は見送ったり、やめたりしてもよいことが、意外に多いものです。

本当に必要であれば、またスムースにできるようになる時がやってきます。

簡単に諦めないということも大切ですが、急がば回れ、無理にこじあけようとしないことも、時には重要なポイントになってきます。

まあ、たいていは今まで慎重気味だった人は、必要以上にブレーキをかけているケースが多いので、思い切ってアクセルをふかすことで人生が好転することがあり、反対に、ほとんど何も考えず、パッと思ったままに動いていてきた人は、ブレーキをかけたほうが無駄が少なく、次のレベル・次元に自分を進ませることが容易になっていくものです。


タロット学習、その前提のセンス。

最近はちょっとスピリチュアルと言いますか、純粋なタロットのことから離れていたきらいもありますので、今日は普通にタロットの話にします。

その中でも、タロット(マルセイユタロット)学習についてとりあげます。

タロットは絵柄のカードなので、一見親しみやすく、取り組みやすいように思うのですが、実は奧が深く、なかなか学習していくのには大変なところもあります。(ただ最初は比較的取り組みやすいはずです)

私も結構多くの人にタロットを教えてきましたが、その学習と理解の大きなポイントとしては、センスと努力という、どの分野でも当たり前に言われることが、やはり指摘されると思います。

ひとまず、今回はそのセンス(の一部)について書きます。

ここでいうタロットの「センス」というのは、一言で言いますと「類推能力」といいますか、「ポエティックな力」とも表現できる、平たくいえば、「ほかのものにたとえることのできる力、ほかのものを想像できる能力」と言えます。

これは、歌の歌詞などではよくありますが、心と現実の状況(現象)の両者を関連させてよく歌われている(歌詞が作られている)ものなのです。

例えば、

空が晴れている」という状態(現象)があったとします。

そして今、恋人とラブラブの人から見れば、「今日もなんて素敵な青空!」と心ウキウキに思いそうですが、反対に失恋した人からすれば、「憎らしいほど澄み切った青空・・」と感じるかもしれません。

同じ青空ひとつにしても、心とリンクさせたり、心の状態で例えるたりすることで、ひとのつ現象に変化が生じる(解釈が変わる)わけです。

もうひとつ例を述べましょう。

結構重い「かばん」がひとつあったとします。

それを持ってみた時、ある人は、「思い出がいっぱい詰め込まれているから重い」と感じるかもしれませんし、「いろいろと疲れていて、いつもより重く感じる」と思うかもしれません。

いずれにしても、かばんと重さというものを、「入れ物」と「データ」として例え、それが心の入れ物とデータ・重量として表現することで、かばんひとつでも、その人の心模様を表すことができます。

ほかに、単純に、空の雲を見ていて、ケーキに見えるとか、おじさんの顔に見えるとか、龍に見える、天使に見えるとか、こういう想像力、例える力もあったほうがタロット的には望ましいです。

できれば普段、思わずそういうことをやってしまうというような人のほうが、タロット読みには向いていると言えます。

これがバカバカしいと感じる人は、タロットを読むセンスが欠けていると言ってもいいかもしれません。

ただし一方では、冷静に、例えば上記の雲の話でも、「ケーキが食べたい」と思っているから雲もケーキに見えてくるのでしょうし、「天使や龍を見たい」と思っているから、雲がその形に見えるという心理投影を理解しておくことも重要です。

そうすると、雲がどのように見えるかということで、直感的なものでも、心理分析的なものでも、いろいろと多方面に理解することができ、タロットを読む時でも、「単純な当てはめ」から脱却することができます。

タロット学習において、特に象徴の知識を学ぶのも、そのためです。

とはいえ、現代人はガチガチの論理構造に支配されていることが多く、「これこれはこう見なくてはならない」とか、「この回答は、これこれが唯一の正解である」という一対一の関係性に慣れていることもあって、なかなかひとつの絵柄や形から自由に発想する、類推するということができません。

私自身も実は結構苦労したのです。もともと公務員をしていたくらいですから、頭が固いところがあるのですね。(笑)

またまじめな人ほど、(唯一の)正解や正しさを求めますので、間違ったらどうしようとか、特に他人がいる教室などでは慎重になりすぎたり、テキストに頼りすぎたりします。

ですから、最初からひとつの正解はないというように考えて、できるだけゲームのような感覚で、少しずつでもよいので、思いきって想像し、口で言うことです。

この「発言する」ということが極めて重要で、ただ頭で想像するだけでは、まだブロックがかかったままのことが多く、口で述べることで、恥ずかしさや心のブロックがはずれることが多いのです。

またコツとしては、連想ゲームのように、絵から絵、形から形を想像するだけではなく、絵から匂いや味、絵から温度(温かさや冷たさ)も想像するとよく、さらには人だと思っているものを、今度は動物や植物、モノ、さらには内的な状態(精神や心の状態)に例えていくよう心がけると、イメージが幅広くなっていきます。

最初は大アルカナの一枚、そして二枚、三枚と関連させてイメージや類推を試みていってください。

慣れてくると、記号的な絵柄のマルセイユタロットの小アルカナでさえ、いろいろと読むことは可能になってくるのです。(マルセイユタロット小アルカナの読み方は、きちんと別に法則的なものがありますが、それもやはり想像や類推が鍵になります)

実はタロットを読むセンスは誰しももっています。

ただそのセンスを阻害しているものがあり、それが今までの人生で強制されてきた「思いこみ」なのです。

「思いこみ」は自分の信念として、自分を守ってきたものでもあるので、それが強固な人は大変ですが、タロットを学習すること、読むことによって、それらも次第にはずれてきます。

それはすなわち、本来の自己に立ち返ることと同意になります。


私たちはほとんど寝ているということ。

顕在(表面)意識と潜在意識ということがよく言われます。

スピリチュアルや心理の分野で大流行(おおはやり)の枠組といってもいい概念かもしれませんね。

そして大体は、潜在意識をどう扱うか、そこに刻印されていることをどのように知り、変えていくかみたいなことがテーマとなっているように思います。

それも大変興味深く、確かに潜在意識のデータとコントロールで、無意識に私たちは生かされているところもあるかもしれず、問題解決や自己変容にも貴重な分野・情報を、潜在意識へのアプローチで提供してくれるかもしれません。

しかしながら、やはり「潜在」という言葉が使われているように、それは奥深くにあって、普段は認識できないものであり、実際には潜在意識のことを読み解いて、データを入れ替えるというのも難しいことではないかと思います。

潜在意識には生きることそのもののシステムが自動的に働いていることもあって、無闇に簡単に扱ってよいものとも言えないところがあると考えています。

ということで、今回は逆に、顕在意識・表面意識のほうで見てみたいと思います。

ところで私たちはいったい、自分の意識について、どれほど自覚した時間があるでしょうか?

仕事をしたり、家事をしたり、遊んだり、いろいろと日常的に私たちは活動しているわけですが、「あれをしよう」「これをしよう」と意識的に思うことはあっても、いつの間にか忘れていたり、何かに集中して無意識的になったりしていて、今考えていることを自覚する(している)という瞬間は少ないのではないかと思います。

そして実際、私たちは、そのほとんどを自動的・無意識的に動いていると言えます。

何か意識的になる時は、たいてい、切り替え時、意図をもって特に何かをしなくてはならない時だと思います。

一日の大部分は、実は自覚的でなく、意識的でもないのです。

しかもおよそ一日の1/3から1/4くらいは睡眠がありますから、睡眠中もほぼ無自覚と考えれば、自覚時間は極めて少ないと言わざるを得ません。

ただ、無意識・無自覚とは言っても、潜在意識的にどうこうということとは必ずしも一致しないと思っています。

例えば、毎日の食事や着替え、洗顔・歯磨きなどは、もしかしたらすでに潜在意識に刻み込まれていて、動かされているのかもしれませんが、自覚することはでき、いつでもパターンを変えたり、止めようとしたりはできます。

このように、意識すればいつでも変えられるもの、自覚可能なものを、ここでは対象としています。

言い換えれば、顕在意識化することができるものと言ってもいいでしょう。

そのほうが潜在意識よりも、まさに自覚しやすく、コントロールしやすいからです。

顕在意識はそのほとんどを自分でコントロールすることができます。「変えられるもの」と言ったのはそういう意味もあります。

先述したように、私たちのほとんどは、オートマチックに動いており、一日の大半を無意識的・無自覚的・習慣的に過ごしていますが、そのために、何の変化もない日が続くことにもなるのです。

言い換えれば、自分を変容・成長させることが毎日遅れていくようなものです。

これはいちいち何かを気に留めていたら、無駄に体力と気力を消耗し、生きる力に影響を及ぼすことから、人に備わった防御機能とも言えますが、それだけに曲者でもあるのです。

自分を守ってくれるものではあっても、あまりに無意識的になると、その機能が人の快楽反応(痛みを避け、快・楽を取る本能的な反応)に結びつき、無自覚な時間はそのまま積み重なって、ひどい時には一生続いてしまいます。

そうすると、主に外側の起こったことに反応するしかない人生となり、いわば自分の力を他人や外の偶然の現象に明け渡す結果ともなりかねない危険なものと言えます。他人の支配や洗脳にもつながるものです。

そこで、まずは一日のうち、時間単位で意識的な時を作ります。

具体的には、時間やポイントを決めて、自分の行っていることに意識的に注目し、何をしているのか具体的に自覚したり、今後やろうとすることを計画的に俯瞰したりします。

西洋魔法の修行では、逆向き瞑想というのがあり、一日の終わりにその時点から遡って思い出し、一日の始まりまで瞑想によって想起します。

こういうのも、自覚の時間(意識的な時間)を増やすことに、目的のひとつがあるように思います。

ちなみにタロットで、一日のあるポイントを心でマーキングしておくと、意識的な時間に戻りやすくなる方法もあります。

いずれにしても、自分は今何をしているのか、何をしようとしているのか、何をしてきたのかをはっきりと思い出したり、自覚したりすることが、眠っている意識を覚醒させるきっかけになるのです。

自分で眠らせているだけではなく、人から眠らされている場合もあるので、意識的時間をもって自己を覚醒させることは、自分の人生を自分のものにするためにも重要なことです。

マルセイユタロットの「手品師」から「斎王」「女帝」「皇帝」という流れにも、そのヒントが隠されています。特に「女帝」は、この意味において極めて重要です。

結局、そのまま普通に生活していると、世界はあなたのエネルギーを自動的に奪っていくようになります(世界があなたを動かすようになります)が、意識的に生きることを選択していくと、あなたが世界となっていく(あなたの思いが世界となっていく)ように変化していきます。

春先の睡眠や、休みの日の眠りのように、いつまでも惰眠をむさぼるのは気持ちのいいものです。(笑)

しかし、ちょっとつらくとも、意を決してベッドから抜け出していくことで、新しい世界へと旅立つきっけとなるのです。


自己創造の世界

先日、タロットの受講生・修了者用に発行しているメルマガを出したところです。

今回は「運命」についてタロット的に考察しています。

そこで語ったひとつのは、「自己創造の世界」という概念です。

今日のブログでは、メルマガの記事と同じようには行きませんが、この「自己創造の世界」について、少しふれてみたいと思います。

いきなり結論から言いますと、私たち一人一人は、結局、自分の作り(創り)出した世界で遊んでいる存在ではないかということです。

ということは、スピリチュアルな世界や潜在意識関係でもよく言われるように、自分の信じた通りの世界・人生を自分が体験するということになります。

ただし、自分が思ったり、信じていたりすることは、表面意識・自覚しているものだけとは限らず、そのほとんどは、別のところ(潜在意識やほかの記憶庫)にあるとも考えられます。

ここがやっかいなところで、従って、自分の(自覚している)願望がそのまま叶うわけではないのです。

ですが、今回は、この、自覚したものと無自覚なものとのデータの違いと実現度を述べることが趣旨ではないので、省きます。

私の言いたいのは、先述したように「自己創造の世界」ということで、要するに、意識的であれ、無意識的であれ、自分が作り出した世界で、私たちは生きるようになるという「仕組み」についてなのです。

例えば、「運」(幸運・不運)というものががあると思う人は、その通りの世界観を自分が投影した「現実」を経験していくことになります。

具体的には例示した「運」を信じる人の場合で説明します。

そういう人は、その「運」「不運」というものについて明確にしたいため、まず現象観察から入り、そして占いやほかの分野などでも、「運」ということについて書かれたり、解説されたりしているものを学び、いよいよはっきりと「運」の存在、その善し悪し、働き方、運用の方法、幸運のつかみ方などを体験し、実践していくことになっていきます。

最後は、それでよい人生をどれだけ送れたか、あるいは人にも教えられたか(とらえ方によっては、救えたかにもなるかもしれません)を、満足度によって計ることになると思います。

これは実はとても面白いことなのですが、今の説明のままではわかりづらいので、ゲームで例えます。そうすると、とてもわかりやすいからです。

さて、自分で創造する世界とは、ゲームで言えば、自分が作り、設定したゲームのスイッチをオンにさせて楽しむことのわけですが、「自己創造」ゲームにおいては、このスイッチを押す時は、自分がゲーム設定をしたことを一度完全に忘却します。

忘れているので、現れたゲームの世界を、現実の体験として受け止めます。

しかもゲームを楽しむルールはわかったとしても、その真意やゲームの詳細な攻略方法などはわからないままです。

人それぞれのゲームでは、「こういうことをすれば成功と言えるんだ」とか、「これがスピリチュアル的にすばらしい生き方なんだ」とか、「運をつかんで幸運な人生を送るんだ」とか、そういう願望や思いが自己の世界設定を生み出し、その世界観が通じる現実を味わう(体験させられる)ということになります。

またこのゲームは、自分の考えや価値観、目的が変われば、設定もその都度変更されていきます。

まさに自分が身につけた(信じた)ものの通りに、ゲーム世界観と設定も改編されていくわけです。

最終的には、ゲーム終了時、実際には自分の寿命が尽きるか、亡くなるということになってきますが、自分の創造したゲーム世界で、いかに高得点を自分がたたき出したかうまく遊べたかを振り返り、満足してあの世に旅立つか、悔いを残して亡くなるかみたいになります。

つまり、これ(自分が思うゲームの達成感や遊技感)が幸せや不幸せ、人生での達成感や充実感、逆の不満足感や悔恨度になっていくわけです。

冷静に考えると滑稽なことです。

もともとは自分が作り、また途中においても自らが改編しているゲームに、わざと設定を忘れて、ほかならぬ自分が作ったそのゲームを極めようと邁進するわけですから。

これをばからしいと思うか、いやいや、これはこれでとてもすばらしいことだと思うかによって、ゲームの意味(つまりその人が思う現実の意味)も変わってくると思います。

言っておきますが、このようなゲームを作って、設定を忘却してまでリアリティを感じるという超高度な楽しみ方は、なかなか味わえるものではなく、おそらく肉体をもって生まれた人生だけの体験だと言えるでしょう。

それは一時(いっとき)、与えられた特殊な能力と設定なのです。

これを起動せず(と言っても強制的に起動させられますが)、意図的に避けよう(悟りなど過度に目指すことにつながるかもしれませんし、逃避的・自虐的人生を送ることであるかもしれません)としたりしても、もったいない面があるのではないかと思います。

しかしまた、一方では、この仕組みのまま、ゲームに熱中し、自分で自分をはめてしまう(縛ってしまう)ことに強い力が働きすぎると、どこかドラッグ中毒みたいな違和感も覚えるのではないかと危惧します。

もっと言えば、こういった仕組みを理解している一部の人たちがいて、この一人一人のゲーム世界に介入できるシステムも働いているのではないかと想像してしまいます。(まあ、それも自己創造の世界といえばそうかもしれませんが)

自己創造の世界のゲームで充実したと思える人生を送るのもいいのでしょうが、ゲームをやらないと、あるいはゲームをやりながら、ゲーム自体にのめり込まない生き方もある気がします。

結局、ゲームの得点自体を競うものではなく、競わせるように見せかけて、ドキドキワクワクを体験するかのようなそのプロセスと演出に、リアリティさや迫真さを覚えることが目的でもあると考えられるからです。

このあたりは難しいところではありますが、マルセイユタロットの教義や象徴を見ていくと、ゲームの謎について、描かれているように感じるのです。

いずれにしても、大事なことは、一人一人、自分が作る世界で、究極的な意味においては「楽しんでいる」わけですから、その選択に他人(自分)がとやかく言う必要もないのです。

いや、「とやかく、必要以上に思い悩む必要はない」と言ったほうがいいでしょう。

人間関係性においては、何かを人に言ったり、言われたりすることは当然あるからで、それはコントロールしにくいものです。(特に他人から言われるものは)

けれども、自分が受け取る方、言われたことをどうとらえるか、思うかは、ある程度コントロール可能です。

ですから、「とやかく悩む必要はない」と心の対処のほうを述べているわけです。

また、「自分が生み出す世界」での、「あなた自身が他人に対してとやかく働きかける設定」(笑)というのもあるかもしれませんので、その意味では、人に関わり、援助したり、反対に助けられたりすることが積極的にあってもよい思っています。

それから、それぞれの創造世界は微妙に重なりあっているとも言え、その点から見ると、きっと人の数だけ何らかの影響を及ぼし合っていると言えるかもしれず、自分の思い・行動が、全く一人の世界で閉鎖し、完結しているものではないと思います。

自分が何をゲームで今設定しているのかは、やはり外側の起こったことで見ていくことがいいでしょう。

その時はゲームに取り込まれている自分に客観性をもたらすことが重要ですから、何かツールを使ったり、シンクロニシティを見たり、反対に異質感際だつものをピックアップしたりするとよいでしょう。

なお、客観性をもたらせるのには、「象徴解釈」ということも大きな手助けとなります。


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