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カードはどんなものでも当たる説
今回の話は気軽に、ライトに読んでいただければと思います。
いわば、タロットに関する「よもやま話」です。(笑)
タロットを学んだり、活用されたりする人の中には、以前にも書いたことがありますが、いろいろなタイプがあり、そのひとつに、「カードコレクター」や「カード類が好き」というタイプの人がいらっしゃいます。
そういう人はタロットはもちろん、ほかの癒しやセラピー系、時にはゲーム系のカードでさえ広く扱い、興味をもちます。
もし、条件さえかなうのなら、おそらくこのタイプの人は、カードをいくらでも買い集め、ひとつの部屋とか館とかにコレクションして眺めたり、使ったりすることでしょう。
私自身はこうした人たちとは別のタイプで、マルセイユタロットだけに特化した特殊人間(笑)ですから、それ以外のカードにあまり関心がなく、極端なことを言えば、タロットにさえ興味はありません。
あ、かろうじて、トランプには少し興味というか、実際に占いとして使うこともあります。
とにかく、たまたま自分が強くひかれたのが「マルセイユタロット」だったので、「タロット」という分野に接しているというだけに過ぎないのです。
それはさておき、先述の、とにかくカードが好きというタイプの人からは、いろいろなカードを紹介されることもあり、実際にそういったカード類を使ってのセッションを経験したこともあります。
それで、最初のうちは何とも思わなかったのですが、よく考えてみると、不思議にどのカードであっても、今の自分のことを表していると思えるカードが出る(もちろんこちらはカードの意味を知らないので、お相手の説明にもよってのものなのですが)ことに気がつきました。
ということは、タロットであれ、誰れかが創作したカードであれ、何でもツールとして、セラピーやセッション、相談に活用できる可能性があるということです。
もしかすると、自然に転がっている石や草木ですら、そうしたツールになりえるかもしれません。(実際に加工され、象徴の文字や絵が入った自然物ツールは存在します)
さてさて、ではなぜ、カードや道具の種類に関わらず、引いたもの、選択したものが自分の状況と合っているものが出るのかということを考察してみましょう。
ひとつは「思いこみ」があると考えられます。
そもそも前提からして、ツールは何か自分に示唆を与えてくれるものだ、意味があるものだと思って引けば、そういうように見えてくるものです。天井のシミさえ、その人が今思っているものを投影するからです。
あとは、巧みな相手の誘導ということもありえます。
一時期よく言及されていたコールドリーデイングみたいなもので、これを無意識的に術者やリーダーがやっていることがあるということです。
しかし、もちろんそれだけの理由ではないでしょう。
ここで一気に大きな話になります。
実は私たち自身も、目の前にあるものも、作られたあらゆるものも、すべて宇宙の一部と考えれば、当たるのも当然になってくるわけです。
イメージとして、宇宙という巨大な子宮の中にいる私たちそれぞれとその活動という感じです。
何をやっても、何であっても、宇宙、つまり神の一部や表現であるということです。
私たちが自分を知ろうと思うことは、神(宇宙)を知ろうということと、究極的な意味では同意であり、そもそも宇宙の創造の原理も、神が自分をほかの観点から知ろうと発起したことから始まったと象徴的に伝説的に言われているくらいですから、自分を知ろうとすると、神の恩恵・サポートが働くと考えられるのです。
ですから、セラピーや癒し、自己変容、自己改革、占いなどに使おうと志すと、その時点で、その人が作る、あるいは使用するツールは神の道具(自分を知る、神を知る道具)となるのです。
そうなれば、もはや、当たること(当てること)も、意識とリンクさせることも可能になってきます。
いやいや、そんなでかい話にはついていけませんよ、ファンタジーでしょう、てな思いの人は、別のストーリーを用意してあげましょう。(笑)
ある人が何かのカードを、「これは宇宙のすべてを象徴している」と信じれば、その通りの働きをするように見えるようになります。
つまり、カードなり、道具なりの製作者の思い(確信)が強ければ強いほど、その道具はその人の思いのままのツールとなり、その人の世界観で、まさにツール化、その人から見る宇宙の表現として、人とモノが融合します。
言い換えれば、ある種の意味とエネルギーを持つようになると述べてもいいでしょう。
カードや道具を使ってセッションしたり、相談したりする人に対して、クライアントの人は、相手の思いでできた空間(世界)に入ることになりますから、セッションを受ける時点で、すでにほぼそのツールが(術者・リーダーの思いが)活きる世界に取り込まれたことになります。
ただ受ける人が、非常に自分という存在を強く実感し(個性を持つ)、強力なエネルギーと磁場を形成していると、逆転現象が起き、相手のツールが無効化されることもあります。
こう考えると、いわば、すべて幻想であり、錯覚なのです。
ツール自体に意味はなく、単に絵があったり、形があったりするように見える、そういうものに過ぎません。
そこに人間の意識と思いこみによって作られた世界が生じ、それによる操作と投影が出現してきます。
ということは、タロットも含めて、実は何の意味もないのではないかと思うかもしれません。
そう、全くその通りです。
カードを使った相談やセッションは、究極的には何の意味ありません。それも錯覚であり、幻想です。
しかし禅問答のようですが、だから(幻想だから)こそ、それをする行為とツールにも意味があるのです。
何を言っているかわからないと思います。だから最初に「よもやま話」として、気軽に読んでほしいと言いました。(笑)
ヒントは人の意識です。形があるものが本物とは言えず、また目に見えないものだけに本質があるものでもありません。
しかし、思考し、感じ、目に見えたり、見えなかったり、私たちは現実の世界で、自分の価値観に従い、また他人の影響も受け合いながら、生きています。
それらは実体と実感はありますが、本物かどうかは言えないところもあるのです。
言ってみれば、私たちの現実・リアルも錯覚・幻想の可能性があるのです。
ここまで言えば、もうタロットやカードを使うことに「意味がないようであること」がわかってきた人もいると思います。
よくわからない人は、もっとご自分で考えてみてくださいね。(^^;)
あ、それからたくさんのものがあっても、やっぱりマルセイユタロットが、ツールとして(それ以外でも)利用しやすいなと思う私の考えがありますが、それは講座でお話しさせていただきたいと思います。
同じことは伝えられない、しかし。
私はマルセイユタロットを教え、伝える講師をしています。
長年というほどではないですが、それなりに続いていますので、教えている時間と受講される方の数も、自然に増えることになってきます。
かつては普遍的な教えをきちんと守って伝えていこうという気持ちが強かったのですが、ずっと講師をやってきますと、同じものを全員同じ形で伝えることはできないということに気がついてきました。
また、伝えることだけではなく、受け取るほうにも違いがあり、例えば同じ言葉、文章、意味などをこちらが話したとしても、聴いている方々には、必ずしも同じ内容で受け取っているとは限らないのです。
これはイメージと個人の体験にもよります。
もし「太陽」という単語をこちらが言ったとします。
そうすると、全員、聴いているほうは確かに「太陽」を思い浮かべるでしょうが、それぞれの抱いているイメージ、想像した「太陽」は、おそらく、皆、違っているはずです。
ある人は自分の家から見る太陽をイメージする人もいれば、ある人は本や絵が描かれた太陽を思う人もいるでしょう。
黄色く輝いているのか、赤く燃えているのか、はたまた黒い太陽として不思議な映像を思い浮かぶ人もいるかもしれません。
このように、「太陽」ひとつとってもそうなのですから、ましてや文章ともなってきますと、かなり違ったイメージを抱いたり、意味ですら異なって受け取っていたりすると考えられるのです。
ですから、伝える方としても、どのレベルで、何を伝えるのかということを考えないといけません。
それは抽象と具体のバランスともいえますし、本質と周辺の、巧みな組合せと言ってもいいでしょう。
先述したように、結局、人はそれぞれの個性でもって、一人一人違うものとして受け入れていきますので、その前提を認めることが重要です。
と同時に、そのバラバラで多様な個人個人のイメージを、あるレベルにおいて統合したり、本質的・抽象的・象徴的にまとめあげたりしなければなりません。
タロットでいえば、一枚のカードの意味を、言葉では言い表せないけれども、「本質的にはこういうこと」だと心と頭で理解するようなことであり、また逆にいえば、その本質に至るためには、「具体的で個別的な例えや次元の話も、時には必要」であるとなります。
この具体的な例えや次元の段階が、個性的ということであるので、人によって違うわけです。
政治や仕事のことで表現したほうがわかりやすい人もいれば、恋愛や人間関係で例えたほうが入ってくるという人もいるようにです。
ということは、ここがとても大事なことですが、自分が理解しやすい、「ああ、そういうことなのね」と気づく例えや表現・次元こそが、自分に向いていたり、適しやすい(得意とする)分野であるということになります。
ネットの掲示板では、ある事件について、「ドラゴンボールで例えるならば、どういうことになるのか説明してくれ」(笑)みたいな風に書かれているのがありますが、それはアニメや漫画が好きな人には、そういう例えでしてくれるほうがわかりやいと同時に、その人はアニメや漫画の分野は得意であるということになります。
さらには、それぞれが個性の生き物であるとしても、「日本人ならば」とか、「関西人ならば」とか、「この年代の人ならば」・・・という具合に、典型的な共通項とか、共感できる要素で結ばれる集団というものがあります。
それでもって、グルーピングできる人数のデータによって、本質理解の助けとなることがあります。
抽象的なものの理解には、できるだけ多くの共通因子や共通項で例えるか、個別になじみのある分野で例えるかで、わかりやすさが変わってくるのです。
あと、伝えられたものをさらに自分が伝えていくということになりますと、伝言ゲームではないですが、微妙に最初の伝達からズレが生じてきます。
コピーを重ねるうちに、原本が何であったのかがわかりづらくなってくる、あるいはオリジナルがぼやけてくるというのに似ています。
ただ、悪いことばかりではありません。人の伝達は、単純な機械のコピーとは異なるからです。
いわばオリジナルな複製と言ってもいいもので、結局、これも人のそれぞれの個性によって、伝えられたものに自分の表現が入れられて、同じではあっても、別のものとして伝えられていくのです。
そこで、個性的な表現によって新たな創造がなされ、世界は多彩になっていきます。その多彩さがまた、本質へ引き寄せられる人たちへの機会を増やしていくことにもなります。
ですから、きちんと伝わっているかどうか、伝えられているかどうかとナーバスになったり、嘆いたりせず、その人が自分流の表現で、伝えられたものにオリジナルな複合と発展が遂げられていくことに期待したほうがよいわけです。
しかしながら、たとえ抽象的ではあっても、本質が伝えられているかどうかという点は、伝達において重要でしょう。
枝葉や周辺のことはその人独特の表現ではあっても、本質そのものはきちんと伝えられているかはチェックされるべき点です。
しかしそれは、ただ単語や並べられた言葉のテスト(チェック)では本当はわからず、自己の体験や表現によって語られたり、文章化されたりして出てくる魂的とも言える表現から伝わってくるもので、確かめられるのです。
普遍的で本質的なものは、実は個性的で具体的なものの中に流れています。
伝えられた言葉や文章をまったく同じにコピーして語ったとしても、そこに本質的なコアなオリジナルの理解がなければ、それは真の伝達とは言えないでしょう。
伝達は自分流になるのが当たり前と思いつつも、その自分流の中に、本質的で普遍的なものがあるかどうか、ここが大切なところとなります。
その点では、あることを本当に伝達していくという意味では、教えを聴いた人が、得手勝手に次にそのままコピー状に伝えたり、教えたりしていいわけでもないのです。
このことは、マルセイユタロットでは「法皇」と「恋人」カードの並びや、「正義」と「隠者」の並びなどに見ることができます。
タロットによる想像力の向上
マルセイユタロットは、目に見えない世界を象徴すると同時に、現実的な目に見える世界も象徴します。
どちらの世界も考えることができるので、とても面白いわけです。
これは別にタロットでなければならないというものではありませんが、タロットは絵柄のツールなので、形でないものをあえて視覚化し、構造分析するのに適しています。
これは逆に言えば、視覚的な表現と感覚が難しい人には、タロットは適さない、あるいは相応の訓練が必要だと指摘することもできます。
視覚的な表現でも、実際に「思ったこを絵にする」というようなものよりも(それはトレーニングとしては大事ですが)、そもそも、まずは心の中でイメージを思い浮かべることができるかということのほうが重要です。
一言でいうと、想像力・イメージングの能力の発動です。
人間なら誰しもこれは備わっているのですが、空想すること、想像することが、現代社会ではますます機会が失われてきているので、昔より、劣ってきているのです。
例えば、携帯電話がなかった時代、これはそんなに大昔のことではありませんが、携帯やメール(を送受信する機器)がないので、待ち合わせとか、連絡には、固定電話を使うか、直接会っている時に約束するか、手紙やハガキで知らせるか、誰かに言づてするしかない状態でした。
電話をかけたり、連絡したりする前に、今家にいるのだろうか、いても電話に出ることができる状態なのだろうか、ほかの人が出ないだろうか・・・など想像することは多かったわけです。
待ち合わせがうまく行かない時にも、いろいろと交通のことや相手のことなど、イメージせざるを得なかったのです。
ということは、今よりも格段に、想像する機会があったということです。
もっと時代を遡ると、電話もありませんでしたので、本当に想像・イメージ・予想するしかなかったわけです。
ただ、闇雲に想像するよりも、自分の想像したことが実際にはどうなのかということを調べたり、比較検討したりする手段も必要になったと考えられます。
それが占いの原点でもあっただろうと想像できます。
星の動き、自然現象、偶然に出たしるし、これらを象徴的に読み解き、実際に見たり聞いたりできない分野(地理的・時間的制約のもの)について、適用していたのでしょう。
それは、自然や現象が、すべて秩序ある神なるものがコントロールしているという前提の考えがあって成り立つものです。
つまり、私たちは神に囲まれているということであり、神の意志や法則(神が表すと見る自然や宇宙の法則)と人が想像するものとが調和してこそ、いろいろなものが正しく見通せると見ていたわけです。
私たち人間は、いわば動物性も悪魔性も神性も同居する複層的な生き物です。
ですから、想像すること・イメージすることにも、低次から高次まで、様々のものが思い浮かぶわけです。
しかしそこは物理法則(宇宙の法則)や、人に備わる理性や神性などによって、暴走しないよう、思ったことがすぐに実現できないよう制御されています。
ところが、理性や神性だけではなく、人が作ったルールや規則・制約、さらには自分自身が作ってしまったそれらのものも存在するようになり、いつの間にか、人の持つ想像力はかなり自由性を失い、能力そのものも減退していくことになったのです。
また先述したように、時代が進むにつれ、想像する機会がますます失われることになり、人々は何かをイメージしなくても、生活できる便利な状態に慣れてしまっています。
ところで日本語で言えば、「想像」は「創造」と音が同じであり、ここは言霊的にも、「そうぞうすること」「生み出すこと」に、想像が結びついていることがわかります。
神はあらゆるものを創造することができる存在ですが、人も神の似姿として、神が創造し、さらに人自身も創造する力を得たと言われています。
その創造する力の源こそが想像力なのです。
タロットには作られた目的には諸説あり、どれかひとつとは言えないところがありますが、いろいろと考えられるタロットの目的のひとつに、失われつつある人間の想像力を復活させる意味があるのではないかと私は考えています。
想像力が衰え、普段何も思い浮かばない人は、タロットの絵柄という補助を得て、まずは自分や人の、あるいは物事・現象についての思い・感情・感覚を、タロットにあてはめます。(「私の思いは、タロットで言えばこんな感じ」という具合です)
そして、タロットの絵柄の象徴性を学ぶことにより(知ることにより)、なぜそのカードの絵柄を選択したのか、気になったのかということを理解し、自分がある事に対してイメージしようとしていたものをつかむことができます。
タロットによって、当初はわからなかった自分が想像しようとしていた「絵」を、今度は自らの力で心の中で描いていくことになるのです。
そうやって、今度は自分のイメージ力を向上させていくのです。
想像力が回復してくると、自分自身が、より自由で、創造的な生き方を望むようになり、人や社会から支配されていた自己の力と魂の解放が進んでいくことになるのです。
タロットの絵柄から見る3つの様相
マルセイユタロットには、2、3、4そして7、さらには10の数の原理が、あるグループごとに隠されていたり、重要な意味をもっていたりします。
タロットは絵柄ののカードですから、私の考えでは、基本的には図像に重きを置くのが第一だと思っていますが、数についても無視することはできません。
そこ(タロットにおける数)にも当然、何らかの意味や意志が込められていると見えるからです。
ただ、先にも述べたように、タロットは図像がメインですので、数秘的なことを中心に考察し過ぎると、逆に本質を見失い、その理解に混乱を来することになるでしょう。
それはともかく、今回はマルセイユタロットの図像における3の数で象徴されるものを取り上げ、少し意味を考えてみたいと思います。
マルセイユタロットの大アルカナでは人物や動物を含めて、3つのモノが描かれている図像が比較的多くあります。
その多くは1対2の関係になっており、突出した一人や一つに対して、同等の二人やふたつという関係性でくくられているパターンがよく見られます。
ということは、そのひとつ、大体は真ん中に描かれることが多いのですが、その中心の一つと、ほかのふたつが、異質かニュアンスが違っていることを示していると言えましょう。
たとえ3つが本質的に同じものであっても、位置的に違うので、何らかの入れ替え、立場の違いはあるということです。
ところで、3といえば、キリスト教的には三位一体という言葉が思い浮かびます、
これは父なる神と、子であるイエス・キリストと、聖霊とが一体である、3つのようでいてひとつである(ひとつとして働きかけがある)という、実は、少しわかりづらい表現です。キリスト教の中でも、解釈はいろいろとあるようですね。
構造的にはカバラーの生命の木の「三角形」と真ん中のセフィロトとの構図に似ているところもあり、本当のところは頭の理解というより霊的な理解によってわかるというものだと思っています。
さてキリスト教の三位一体(の意味)とは違ってはきますが(しかしつながってはいると思っています)、自然界においても、ひとつのものが3つの様相を示すということはあります。
サイクルとして見た場合、始まり、ピーク、終わりという状態を3つで表すことができます。
言い換えれば、創造・維持・破壊ということになり、インドではこれを神として表し、それぞれに名前があります。
インドに限らず、世界各地で、この3つの性格をもった神々は出てきます。
要するに、私たちの住む世界・宇宙では、物事が始まり、維持されピークに達し、やがては衰え滅び、また新たに創造される(再生とも言える)という変化性と循環性があるということになります。
これは物理的にもそうですし、精神的にもそうでしょう。
例えば精神的に見た場合、感情での「怒り」を見れば、まずは怒りが発生し(始まり)、それが爆発し(ピーク)、やがては静まります。(終わり)
また、とてもポジティブになっていても、やがて平静になり、さらには落ち込んでいくこともありますし、その反対に落ち込みから普通になり、嬉しくハイに変わっていくこともあります。
会社でも売上のよい時もあれば、落ち込むこともあり、スポーツ選手でも優勝するくらいの勢いがある時と、負けが続く時と、勝ったり負けたりの両方の日々もあります。
芸人でも、そのサイクルやピークの度合いに違いはあるとはいえ、売れる時と売れなくなる時、そのどちらでもない時があるはずです。
いわば、どんな人も、またどんな分野においても、3つの様相やサイクルは繰り返され、まるで円が回転しながら進んでいく、あるいは後退していくように見えます。
「巡り」という言葉がぴったり当てはまる感じですね。
そこで最初の話に戻りますが、マルセイユタロットでは3つのものは同じ描き方ではなく、1対2の関係になっていることが多いと述べました。
3つのものを同じことの様相の違いと見ることもできますが、実はどちらでもない中間(中立)のものに対して、どちらかに偏ったふたつのものがあるという見方もできるのです。
偏りのふたつのどちらかに引っ張られすぎると、うまく調和せず、問題のように感じる、現実に問題として認識される状態になる(不調和)と考えることもできます。
円の中で、等しい角度できれいな正三角形(60度のそれぞの角度を持つ)になっていれば、3つの様相は等しく、ただ状態や位置の違いでしかないとなり、図形的にも調和したものとなります。
しかし、三角形の点のひとつが異常に拡大されたり、強調されたりすると、歪なものに三角形は見えてしまい、調和が保てなくなります。
ここは矛盾するような話ですが、だからこそ、あるひとつのポイントを中心にして、ほかのふたつをコントロールする必要があるのです。
ほかのふたつが行きすぎないように、逆にひとつ地点をコントロールセンターとして意識する、こういった感じになるでしょうか。
始まりとピークと終わりという3様相がある中で、始まりは終わりと結びついていて(終わりは再生、始まりでもある)、そのどちらも方向性の違いでしかなく、またピークも反対の方向のピーク(山が逆のもの)もあって、それも結局上下の振り幅に過ぎないと見れば、ひとつの直線を中心として、私たちは上下や左右に揺れ動いているだけだと見ることができます。
結局1対2の関係に行き着くのです。
つまりところ、振り幅で遊んでいるのが人生であるということです。
こう考えると、少しは気が楽になってくると思います。
直線やコントロールセンターに当たるものが何であるかを見極め、そこに意識を戻すことができれば、振り幅を楽しむことができます。
センター・中心がわからないままだと、振り幅そのものに振り回され、悩み多き人生となってしまうのです。
マルセイユタロットの図像は、これらの秘密を解き明かしてくれるでしょう。
偶然の再会の意味
偶然の再会という出来事があります。
人によって、その意味もまたそれぞれだと思いますが、これを現象そのままのこととして受け止めるか、象徴的出来事として解釈するかによって違ってくることがあります。
現象そのものとして受け止めるというのは、端的にいえば、「その人」に再会したことに意味があるというものです。
再会の出来事というより、その人との出会い、邂逅に意味を置いて考えてみましょうということになります。
その人が何かずっと伝えたかったことがあるのかもしれませんし、その人から紹介される仕事があるのかもしれません。
また、自分自身がその人に対して、何か言いたいことを残していた可能性もあります。
さらには、恋愛などでよくあるように、再会することで、前には進めなかった恋愛が進行していくというのもあります。つまりは、一歩関係性を深めたり、やり直したりするために再会したとも言えます。
それは、いわば「運命の出会い」「運命の再会」というべきものかもしれません。
タロットを占い的に使う場合は、たとえば「運命の輪」などが登場することで、そうした出会いを暗示することもあり得ます。
一方、再会を象徴的に解釈するというのは、その人との出会いももちろん意味あるかもしれませんが、それよりも、その人と「再び会う」こと、それ(再会現象)自体に重要なポイントがあると考えるものです。
さらには、その人と過ごしたり、出会っていたりした昔の自分の状態も思い出し、その人が自分にとって何かの象徴であることをつきとめると、再会の真の意味がわかってきます。
例えば、私にはこういうことがありました。
5年くらい前、タロットの仕事に行き詰まり、とあるところでアルバイトを始めていたのですが、なんと、その通勤途中に、公務員時代の上司に偶然、遭遇することになったのです。
その方は、当時でももう定年されており、第二の就職先にお勤めされていたのですが、それにしても、偶然でびっくりしました。
この方が私の上司だった時代、私は公務員として、いろいろと基礎から仕事を仕切り直していた時代であり(最初は児童相談所勤務でしたので、典型的な公務事務的な仕事が、まだ身に付いておりませんでした)、また後半はそれなりに公務員生活も充実していた時でもありました。
しかし、反面、うつ病の要因になった期間とも言えました。
つまり、まさにいい面でも悪い面でも、私の公務員時代の象徴が、この上司(と仕事した時代)と言えたのです。
さて、私がその元上司と再会した時、通っていたアルバイト先(これも半行政的なところでしたが)も期間限定であったので、次のアルバイト先も決めていた状態(内定していた状態)でした。
しかし、この元上司と偶然再会し、アルバイト期間が終了しようとした矢先、なぜか急に次のアルバイト先の都合でアルバイトがダメになり、再びタロットの仕事をすることに向き合わざるを得ない状況になりました。
結果、今に至るわけですが、いろいろと人生で転機のあった中で、あの時も大きなもののひとつと言えました。
結局、再会した元上司は、その象徴的意味合いにおいて、私が公務員という仕事と、完全なる決別を促す存在だったわけです。
元上司という人間の登場で、典型的な公務員時代を思い起こさせることで、逆に、今はもうそうではない自分(私)を暗示させていたと考えられます。
(別に元上司の方と特別な話をしたわけではありません、象徴という意味においてです)
おそらく私の中で、どこかまだ公務員時代の名残や、タロットを仕事とすることに対してのブロックや、いい加減さというものが残っていたのでしょう。
このように、再会する人、あるいはその出来事そのものが、象徴として自分の(変化などの)何かを知らせてくれることになっているのです。
SF的に考えると、再会する人は、実際にその人自身ではない可能性もあり、あなたが生み出した別次元のその人とも考えられますし、また別の時間軸に存在したその人と、今の自分の時間軸が瞬間的にシンクロした出来事だとも推測できます。(タロット的には「運命の輪」のリンク)
ということは、あなた自身の次元がゆらめいていることは確かであり、それゆえ、あなたが今(誰かと偶然再会した時)、変容過程にあることを証明できるわけなのです。
人の偶然の再会というのは、それだけ大きな意味があると考えられます。
