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「節制」に見る助け合い
タロットカードに、「節制」というカードがあります。
カードの名前だけを聞くと、厳しいイメージもありますが(実際、そういうニュアンスで象徴させられることもあります)、絵柄はいかにも典型的な「天使」の姿であるので、助ける、救済といった意味もあります。
ということで、今回は「助ける」「助けられる」といったことをテーマにしたいと思います。
いきなりですが、私たちは皆、助ける側か助けられる側、どちらかであると言えます。
どんな人間でも生まれてきた直後は赤ん坊であり、親や人の助け(まれに動物の助け)がないと生き延びることはできませんし、成長もできません。
ということは、全員助けられる側から出発だということです。
そして、大きくなるにつれ、誰かしらを助ける側に回ります。
普通の人間関係においても経験することですし、直接的ではなくても、何かを買ったり、利用したりしてお金を支払うことも、ひとつの助ける行為だと言えましょう。
ここで大切なのは、助ける数ではなく、誰もがこうして必ず助ける側にも回るという事実です。
助ける行為や意味を拡大すると、赤ちゃんの頃でも、親や他人に安らぎと希望・勇気などを与えることもありますから、存在だけで助けている場合もあると考えられます。
大人になっても助けられることは多く、仕事やプライベートで誰しも助けられた経験はあるでしょう。
怪我をしたり、病気になったりすれば、医者に助けてもらいますよね。
商売はボランティアでない限り、助け助けられていると言えないかもですが、そのサービスがないと人生が味気なくなったり、生きていけないものもあったりしますので、やはり助け助けられていると商売でも言うことができるでしょう。
すると、本当に誰もが、どの場面でも、助けられ、助けていると考えることができるのです。
「節制」のカード(マルセイユ版)の特徴は、2つの壺を天使が持ち、壺の水を交互に移し替えているところです。
つまり、助け合いであったり、助ける側・助けられる側の関係が入れ替わることを示唆しています。
もしかすると、私たちは誰もが助ける側と助けられる側になるのは等量なのかもしれません。
そんなはずはない、私は助けられる側ばかりだとか、助けているほうが多いかなあ・・など思うでしょう。そもそも、そんな比率を計ったことがないという人がほとんどかもしれません。
しかし、私は「節制」のカードの象徴から、その関係は同じなのですよ、と言われている気がするのです。
問題はその等量バランスに気がついていないことなのです。また、実は同じこと(気がついていないことと同じ)になるのですが、等量バランスのレベルが低いという問題もあります。
例えばいつも助けられていると思っている人は、自分で自分をそう規定してしまって、だから自分の認識や行動も「自分が助けられている」となるよう振る舞います。
結局それは、「自分は助けられなければならないほど、無力なのだ」と思っているということです。
逆に、自分はいつも助けているという思いが強い場合は、自分が助ける側に回る機会を持つことに傾注し、言わば、助けられる側を無意識的に探し出し、あるいは、もっと悪いケースでは、弱者になるよう相手の力を奪ったり、そう決めつけたりして自分を優位な立場や上にいるようにする場合があります。
「いえいえ、そんなことは思ってませんよ、実際に私は力がなくて助けられるしかないんです」とか、「困っている人を助けるのは当たり前でしょ」だとか、自分の経験している事実を見て、そう主張されるかもしれません。
確かにそれはそれで事実だと思います。あなたは弱いかもしれないし、上から目線などなく、純粋に困っている人、弱い人を助けるサポートをしているということもあるでしょう。
私が言いたいのは、どんな人、どんな人生であれ、言ってみれば「神目線」であれば、助け・助けられるバランスは同じではないかということなのです。
個人個人の認識は違っていてもです。(違っているというのは、助けるほうが多いとか、助けられるほうが普通だとかいう偏りの認識)
こう考えてみましょう。
例えば病気がちでずっと助けられて生きている人であっても、反対に、自分の存在でサポートをする人を創造していると見ることもでき、サポートしている側の「救う」という意志・エネルギーが、ほかの人や人類全体に寄与しているのではないかと考えるわけです。
また助けられる人に必要なものは、物理的にも製品・商品として使われるので、それを製造している者や会社に貢献しているとも言えます。
では仮に、人は誰でも助け・助けられる関係として等量バランスにあると見ると、何もしなくてもいいではないか、特に助ることは無意味ではないかと思うかもしれません。
ここに個人のレベル・次元の問題が浮上するのです。
だいぶん長くなっていますので、簡単に言いますと、助ける・助けないを何も意識せず、ただ流されるままで動いていると、その人のレベルに応じたバランスの取られ方になってしまうということです。
有り体に言えば、成長しないのです。
救う量も少なければ、救われる量も少ないと言えばわかりやすいでしょうか。
だから救う範囲やレベルが上がれば、その分、(自身の)救われる範囲やレベルも拡大するということです。
逆に言えば、「救われた」という実感と自己認識が深くて大きければ、それに匹敵する救う行為にも発展していくということになります。
そして、さらに重要なのは、人を救うその前に、いや同時に、自分を救うこと(を意識すること)なのです。自分を救えば、人は救えます。※自分を救ってからでないと人を救えないわけではないことに注意。
人を救う機会がある時、自分を救っていることを意識すると、自分には救済者の部分があること、その行為ができたり、表現できたりする自分がいることを確認できるからです。
自分が救済者であるのなら、自分を救えないわけはないのです。
たとえ最初のうちは自分を救う自分の力が弱くても、人の救済に自分の救済力を見ることが増えれば、自分の救済力も上昇していきます。(傲慢になること、自分を驕ることとは別なので注意)
そうすれば、自己の救済はきっとできるでしょう。
「節制」はまさにそのことを象徴していると考えられるのです。
経年と人生の逆転(反転)
8月になりましたね。
ちょっとお知らせです。
先月、渋谷のアップリンクさんで行われました、アレハンドロ・ホドロフスキー監督の「リアリティのダンス」上映会と、氏の使うマルセイユタロットについて語る会(前回の模様はこんな感じです
)が、今度は京都(映画館・京都みなみ会館)で開催されることになったようです。
トークをされるのは、同じく、京都のカフェ・オパール
店主で、マルセイユタロットリーダーの小川トモコさんです。
マルセイユタロットに関心のある方、ホドロフスキー監督が好きな関西の方は、是非参加してみてください。
イベントの詳細についてはこちら。
http://kyoto-minamikaikan.jp/archives/16635
さて、記事に移ります。
思えば、私も今年で50歳(誕生日は11月後半)になります。
ほんと、えー年で(笑)、年下の妻からは、「あんた、もうすぐシニア割引使える年齢やね、どこか行く時は、ちゃんとチェックしといてね」と言われます。(^_^;)
40代、ミドルエイジクライシスから続く後半として、50代も危機が訪れる年齢と言います。
まあ、これまで私は何度か危機がありましたが、やはりうつ病と神経症になって、ほとんど宙に浮いたような時期(あるいは、底に張り付いたような時期)が一番の危機だったと言えるかもしれません。
とはいえ、それでもほかの人に比べ、私など大した危機も迎えておらず、中途半端な人間だと自覚しております。
昔に比べて、今はやはり全体的に年の取り方が遅いと言いますか、悪く言えば未熟なままに進んでいる気がします。私も例に漏れず・・でしょう。
ですが、そうは言っても、人は必ず年を取り、老います。
マルセイユタロットでは、人や物事の成長を示す過程が描かれていますが、それを改めて観察してみますと、意外にも絵柄的には、あまり孤独を示すようなカードは少ないと言えます。
単独の人物は多いのですが、よく見ると、そうでもないのです。動物が描かれていたり、見ようによってはほかの人であったりするものが発見できます。
しかし、全体の構成から見てみますと、大きくわけて3つのグループと段階があります。
そのひとつのグループでは、明らかに孤独とその時期による変容が示されています。
さらに観察すると、結局ふたつ、「自立」と「共生」のバランスに分けられることに気がつきます。
もっともカードは象徴なので、一枚のカードに、どちらの意味もとれる場合があるのがタロットの難しいところではあります。
ともあれ、タロットの図から、人の成長には、ほかの人といる時期と孤独な時期、自立と共生の両方が必要ではあるのがわかります。
そして自立の中でも二集類あり、物理的(経済的)・現実的・固定的な自立と、精神的・理想的・可変的な自立が示されているのが面白いのです。
つまり、私はたちは形の上で自立することと、心の上で自立すること、ふたつが求められるのと同時に、多くの人がいても束縛があり、反対に孤独でも自由という矛盾するような世界を認識(経験)して、本当の意味で自らを自立・解放させていくことが示唆されているのだと読み取れます。
そこで年齢の話になりますが、年を取ってくると、物理的・身体的なことがいろいろと問題となってきます。
要は誰でも体の自由が利かなくなってくるわけです。
ということは、若い頃は体の自由は利くけれども、束縛の多いと感じる世界の経験があり、それはある意味、反対の状況ではあるものの、老いの予行演習でもあると見えます。
なぜなら、今度は実際に束縛される身体になるからです。
簡単に言えば、束縛(枠)の中で、いかに精神を自由に羽ばたかせることができるかが試されているということです。
精神的な意味での、重力からの解放を目指すと言ってもいいでしょう。
ところで今は「好きなことをする」「自分に正直になる」ブームみたいなところがあり、自分に素直になれば幸せになれるということがたくさんの人からお話されています。
それはかなり確かなことがあると私も思っています。
けれども、そのような観点と行動も大切ではありますが、現実や物理・身体的問題も年を取ってくれば顕著になってきます。
好きなことをやろうとしてもやれない、自分の正直な思いと行動が、機能的にブロックされてしまうこともあるわけです。(表現しづらくなる)
そのため、もうひとつ、規則やルールの中でも自由になる心の方法や状態を、なるべく実践していくとよいのではないかと考えています。
例えば誰もいなくて、車もほとんど通らない状態で、信号をきちんと守って青になって渡る。無理矢理やっているのではなく、自然に楽しんで。
本当は道路交通法からして、それが正しい渡り方ですが、無人や車が皆無に近い状態で、そんなにまで信号を遵守する人もまれではないかと思います。
かたくなに守るような人は、むしろ、守りすぎるがこそ、自分を型にはめ過ぎたり、守っている人=自分はいい人アピールしていて、うざかったり、本当は信号無視したいのに自分に偽って、自分とは違う自分になっていたりして、自分を苦しめていることもあります。
私の言いたいのは、そういう、ルールを絶対に守りなさいとか、くそまじめになれ(笑)、ということではありません。
物理的身体的制約がかかってくる状況に対して、前倒しで心の(自由を感じる)トレーニングをしていく機会を意識するということなのです。
そしてそれは単純に老後の備えというのではなく、霊肉統合(スピリチュアリティ向上)のトレーニングにもなるのではないかとタロット的に述べています。
若い人がやる型破り的なこと、ルールや規則を無視して「オレかっこいい」というのは、簡単なことです。
しかし、ルールや規則を守りながら逸脱せず、本人は自由さを感じているというのはなかなか難しいものです。
物理的には自分の行動自体は世の中のルールを超えないのですが、超えているようにほかの人も感じる(何か飄々としている、世間を超越した人のように感じる)というものでしょうか。
鍵となるカード(マルセイユタロット)は「吊るし」だと私は思っています。
世の中を反転したとらえ方をするため、私たちは年を取りますし、年齢が上がると、今までとは逆の思考や行動(制限も含む)にもなっていくわけです。
それこそが、先にも言いましたように、自己成長、本当の自立(それは本当の共生と同意義)の過程と言えるのです。
中高年の人は、人生を逆転させて行き(生き)ましょう。
憑依について。
先日の27日に久しぶりにタロットのお話とリーディングを体験する会をしました。
知っている方も入っていただいて、何か勉強会みたいな雰囲気にもなりましたが、参加していただいた皆様、ありがとうございました。
毎回ですが、特に何かを話そうという取り決めはしていないのですが(マルセイユタロットに流れる教義は説明します)、その時に応じて勝手に話したいことが出るようです。今回は二元の統合がメインでしたね。
リーディングにおいては、女帝のカードもよく出ました。きっと女帝に関するテーマが、参加者の皆さんに隠されていたのでしょう。名刺も皆さんへのメッセージですよ。
それともうひとつお知らせです。受講生・修了生用のメルマガを本日、配信しております。メルマガ配信スタンド移行後ですので、届いていない人もいるかもしれず、登録している人はチェックしてみてくださいね。
さて、今回は何を書こうかなと思っていると、「憑依」という言葉が浮かんできました。
これについて語れというわけですかな。
まず言っておきますが、私は霊感師や心霊治療家でもないですし、見えないものが見えるというたちでもありません。
人間としてはごくごく普通の感覚の人物です。
ただタロットをしているだけあって、そういう見えない世界のことを探究したり、ふれたりする機会は少なからずあり、次第に感性は以前より高くなってきたと思えます。
あと、何も「憑依」といっても、必ずしも霊的なものとして考えていないということは、述べておかないといけません。
言い方を換えれば、自分の中の別人格が現れると言ってもよいのが「憑依」だと、ひとつには思っています。
そう書くと、憑依とは多重人格障害のことではないのかという意見もあるでしょうが、多くのケースでは、かなりその可能性は高いと私は見ています。
ただし、そうとも言い切れないのがあるのも、私の中では存在します。
いずれにしても、「憑依」というものを定義するのなら、通常の自分、今まで社会的に多くの人に見せてきた、冷静に判断できる自分の状態ではない人格が現れる状態と言えるかもしれません。
その憑依するものが別に存在するのか、自分の中にもともとあったものが拡大したり、何かのきっかけで急激に入れ替わったりするのかはわかりません。
しかしながら、もし見えない他の存在というものがあるとすれば、単独で存在している何かが取り憑くというより(それも考えられますが)、私の観察では、結構、一種のエネルギーグループを形成している存在があって、そこと同調した場合に、グループから派遣されるような、あるいは磁石のように自分が引き寄せるような形で、自分の今までのエネルギー性質が変化してしまうことが、ケースとして多いのでないかと思っています。
これが現実世界での表現(エネルギーグループ)となれば、信仰集団とか、同じ意志や思想を持つグループ、何か強い意図を抱いている人たちだと言えます。
いわば、集団の思い・想念がエネルギー体として人格化したものとも言えますし、逆に考えれば、もともとあったある種のエネルギー性質が、人の集団という場を得たことで、活動(憑依)できる寄る代や拠り所をもったということも言えるでしょう。
実は、憑依という言い方をすればネガティブな感じを受けますが、何かに取って代わるとか、今までとは異なる状態に(一時的に)変化するということならば、ポジティブな憑依もあると考えられます。
ですから、その集団の意図が、特に自分や他人・社会にとって悪影響がない限りは、よい憑依みたいな形で、活き活きとした自分になることもできると想像できます。
まあ、おそらく、誰でも何らかの軽い憑依状態は毎日あり、ただ基本となる主人格まで影響を及ぼすに至っていないものなので、日常に支障を来すことはないと言えます。
タロットでいえば、タロットカードの枚数分の精霊(エネルギー性質)がおり、その憑依を受けてリーディングしていることもあると考えられます。
それがいいか悪いかは、簡単には判断がつきません。
結局、現実や常識を大幅に逸脱し、戻って来られない状態、コントロールが自分でできない状態がまずいと考えられるでしょう。
自分でコントロールできない場合は、もはや人格的に人から見ておかしな状態とか、今までのその人とは別人のようになっていることもあるので、すぐにわかると思います。(自分ではわからづらいのが問題)
その状態は、本来のその人ではありませんから(ある意味、別のその人でもあるのですが)、そういう人と対した時、他人のように思って感情的に切り離すことも必要になる場合があります。
安易に変わりたい願望を抱き続けたり、パワースポットなどと言って煽られて、やたらと場所と心をを移動させたり、特殊なグループや信仰集団に過度にのめり込んだりすると、自己コントロールができない憑依(されている状態)となることがあります。
自分に自信を持つ(自尊心を持つ)ということは、心理的な意味でも大切ですが、この悪い意味での憑依にならないようにするためにも、重要なのです。
自分軸がフラフラとしていると、やはり憑かれやすくなるわけで、また反対に異常に尊大になって、えらそーになっていると、これまた同様の存在と同調して憑依を受けやすくなるでしょう。
さきほど、タロットにおいても憑依と考えられることがあると言いましたが、反対に憑依を防御することもタロットをやっていると強くなる気がします。
それはシステムとして見ると、自分の内的人格を発見し、認識する作業があるからです。
つまり、一度自分をばらして(解体して)、再統合するということです。
その過程で別人格を危険のないように見ますので、自分というものを客観視して、逆に強く柔軟に自らを規定することができるようになってくるのです。
漫画・アニメ的に言えば、憑依を受けようとすると、タロットの象徴的カードを通して自らが人格を分散させ、存在を希薄にします。
そのため憑依側からすれば拠り所や憑依するものがあまりなく、影響が与えにくくなります。
そうしたところ(相手が去ったところ)で、再び自分を統合して戻すみたいな感じです。
あと、タロットの精霊自体が守護的なものとなる場合もあります。
とはいえ、タロットに使われてしまうようになるのも問題なのです。
危険な憑依は、自分の自信を失ったり、病気であったり、経済的不安が強くあったり、恋愛等で感情の波が激しく動く時だったり、ダジャレ的ではありますが、「ツカレ(疲れ)たり」した時など、まさに不安や恐れを抱く時に、現れやすく同調しやすくなります。
今・ここ・自分というものを実感できたり、戻ることのできたりする方法や場所、技術、または友人や相談者を、普段から持っておくことも、保険の意味ではよいでしょう。
私たちは緊張し過ぎている。
知り合いのタロット仲間の人で、お坊さんの方がいらっしゃいます。
その人はいろいろな知識も深い方ですが、身体的な面でも強く、台湾で太極拳も修めていらっしゃいました。
私がこの方のお家に訪問した時、太極拳的な身体の使い方を少しだけ教えてもらったのですが、その際、脱力することの重要さを、実践とともにお話されました。
「宮岡さんは力が入りすぎていますよ、もっと力を抜いてみてください」
と、私の腕を持って言われるのですが、私は自分では力を抜いているつもりでも、お坊さんは、
「まだまだ、全然力が入っています」と指摘されます。
実際に体験してもらうしかないとお坊さんは思われたのか、
「じゃ、私が脱力した状態というのをやってみますから、私の腕、持っていてください」
と、立場を逆にして、私の前に腕を差し出しました。
「いいですか、行きますよ」
お坊さんは一気に腕の力を抜かれます。
その瞬間、ものすごい重みを感じて、私はお坊さんの腕を支えきれなくなり、手を放してしまいました。
「そうなるんですよ、本当に力を抜いたら」
驚いている私を見て、お坊さんは言われました。
この時、私はいかに自分が力を入れたままにしているかを悟ったわけです。
思えば、現代社会、いつも私たちは緊張状態に置かれているようなものです。
緊張すれば、身体は当然身構えて硬く(固く)なり、柔軟性を失います。
また力をずっと込めているので、どこかに負担がかかり続けるのも当たり前です。
緊張した人に声をかけたり、動くことを要求したりするとどうでしょうか?
その人はおそらく態度はぎこちなく、場合によっては怒って(怒り気味に)返答されることもあるでしょう。
そう、緊張すると、スムースな行動ができなくなるばかりでなく、怒りやすくなるということも重要です。
それは怒りの感情を持つ時、私たちは身体が攻撃や防御の反応へと準備するため、緊張した状態になるからだと考えられます。
鶏が先が、卵が先かみたいな話ですが、怒りと緊張は密接な関係があると思います。
翻って考えてみますと、さきほど私は現代は緊張状態に常に置かれていると指摘しました。
簡単に言えば、刺激の多い世界なのです。緊張というのは、刺激によって起こるケースが少なくありません。
刺激と緊張は興奮状態にも通じます。つまり、悪いことで緊張するだけではなく、ポジティブに興味あること、興奮することでも緊張するわけです。
今は、緩めたり脱力したりする弛緩の働きが、絶対的に弱く、少ない時代だと言えます。
あまりの緊張に、弛緩の効果を逆に求めすぎるがゆえに、劇的な弛緩に向かい、それがかえって過度の快楽を欲しがることにつながっています。
私たちはメリハリのない時空間に放り込まれているようなものなのです。
先述したように、緊張と怒りは結びついていますので、怒りがエネルギーを消費し、いろいろな弊害をもたらせます。
よって、緊張を解く必要性は、怒り(の浄化・緩和)からの観点でも言えます。今の私たちは、意識的に自分から脱力の機会を作らねばなりません。
心の脱力や弛緩は、最近はよく言われるのですが、身体・肉体から入る方法もあるでしょう。
私は整体に行っている経験から、意外にも、身体からのほうがアプローチがしやいこともあると感じています。
単純に運動やウォーキングなどでもよいでしょうし、身体と心が連動していくようなメソッド(ヨガなど)を利用するのもよいでしょう。
マルセイユタロットならば、「愚者」や「吊るし」が関係してくると思います。
とにかく、何かイライラしている感じがあったり、腹が立ちやすいことがよく生じたりする場合は、自分でも他人でも、緊張が働いていないかを確認してみるとよいでしょう。
本当に自分でも気がついていないほど、普段から私たちは力を入れすぎて、緊張しているのです。それはもう、びっくりするくらいの「力」です。そりゃ、自分の身体も精神も壊れるよな、と思うほどのものです。
完璧主義の人や不安の高い人は特に緊張が多いので(私ももともとそういうタイプです)、普段に力を込めすぎていて、パワーを浪費していることに気がついたほうがよいでしょう。緊張するパワーにほとんど使っているので、疲れやすいのも当たり前なのです。
ちなみにタロットになじんできますと、タロットの絵柄からのエネルギーでも力を抜かせることができるようになります。(反対に緊張させることもできます。緊張も弛緩も、それは単に状態であって、よいも悪いもありません。バランスや意味づけ、選択の問題です)
脱力すれば力は戻る、矛盾するようですが、ある意味、真理ですね。
お知らせと、危機から来る「特別な出会い」
まず、二、三のお知らせを。
●お問い合せについて
最近、タロット講座やリーディングのお問い合せをいただくことが続いており、有り難い思いでいますが、せっかくお問い合せをいただいたのに、メールアドレスのご記入ミスなどで戻ってきてしまうことがあります。お問い合せいただいて、3日経過してもこちらからの返信がない場合は、再度ご確認いただければ(迷惑メールフォルダ等に入っていることも含めて)と存じます。
●タロット講座
現在、関西では9月中・後半頃開始の予定のコース(基礎講座ハイクラス)を計画しています。それ以外でも随時、個人講義やグループ講義も行いますので、お問い合せください。
関西以外の遠方の人には、スカイプ講座や、招待いただければ個人・グループででも出張講座を行うことができます。
基本的に全国主要都市で、3名以上(地域によっては4名以上)の受講があれば、出張費なしで講座を行うことができます。(個人・グループ2名以内は出張費が必要です)
その他、関東では神奈川県藤沢市で行うタロットのお話会&リーディング体験会、そしてタロット講座の企画を考えていますが、参加ご希望・ご要望があれば、お問い合せしていだたければ実施の可能性が高まります。
リーズナブルにまずは入門からという方は、10月から開講予定の京都新聞文化センター、よみうり神戸文化センターのカルチャークラスをご検討いただければと思います。(体験会は9月にあります)
●7/27(日) マルセイユタロットお話会&リーディング体験会
大阪市中央区で上記の会を行います。残りあと一名様です。会の詳細はこちらの記事にて。
お知らせが長くなってしまいましたが、本日の記事です。
私は今でこそ、マルセイユタロットの講師をしていますが、以前は実は、タロットについてまったく興味がなく、将来タロットを使った仕事をするなど思いもよりませんでした。
その私がなぜマルセイユタロットと関わることになったのかということは、またシリーズで詳しく書きたいとは思いますが、簡単に言えば、個人的「危機」があったからです。
すでにこのブログでも何度か書いていますし、カテゴリーとしても「うつ 心の健康」とあるように、私はうつ病を患い、不安神経症とも複合して、非常に苦しい時期がありました。
人間、誰でも生命や存在、土台、精神の危機が何度か人生であると思いますが(まったく寿命まで何もない人もいらっしゃるでしょうが)、私の場合もうつ病の時がまさにそれでした。
まあ、マルセイユタロットでいえば、「13」であり、「隠者」と「神の家」にも通じる出来事です。
その時は、なかなか個人的には壮絶な状況だったのですが(見た目はそうではなかったかもしれませんが精神的には危険な状況でした)、いろいろともがき、時にはあきらめ、治療を試みたりしているうちに時間が経過し、よやうく気がつくと普通の状態にゆっくりと戻っていました。
その最終過程で出会ったのがマルセイユタロットだったのです。
つまり、逆に言えば、こういう「危機」がなければ、タロットに関心を向けることもなく、たとえ興味を一時的に抱いても、本格的に学習したり、扱ったりすることはなかっただろうと思えるのです。
これを目的論風に言うと、タロットに出会うために危機を起こしていたとも言えますし、実はタロットに出会うということは、単にタロット(マルセイユタロット)に出会うことが目的ではなく、タロットの示す奥底の何か(グノーシスであったり、智慧であったりするもの、光)を知る(確認・認識すする)ためであったとも言えるのです。
今でこそ思えば、相当苦しい経験であったがゆえに、タロットの奥深い部分に興味をもつことができ、そこに向けた取り組みが始まったと考えられます。
もし当時よりも軽い状況で、「ちょっとしたしんどさ程度」の過程でタロットに出会っていたとすれば、そこまでタロットに深く入っていたかどうかは疑問です。
何が言いたいのかといえば、要するに、人の個人的「危機」は、ある霊的な導き(成長の導き)そのものであるということです。
そしてまた、タロットとの出会いといえば、衝撃的なイメージがあるかもしれませんが、私にとっては意外にもそうではなく、それまでの過程は壮絶であっても、出会い自体はふとしたきっかけみたいなものだったわけです。
ということは、人にとって影響を与える重要なものというのは、必ずしも一目惚れとか、強烈な体験をもってとかではないということでもあります。
遭遇のきっかけは偶然(を装っていたり)であったり、些細なことだったりするのです。
従って、ピンと来たらとか、何となく気になるというようなレベルでも、特に危機のあと(危機の最中は冷静な判断ができず、逆に危険です)で少し落ち着いてきた時に出会うものは、人であれ、モノであれ、何か時別な意味をもつことがあるかもしれず、注目するとよいでしょう。
自分にとってよいものは、人にとってよいものであるとは限りません。でも一生の出会いというものは誰にでもひとつやふたつはあると思います。
