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欲求や願望を叶えようとしてみる。

世の中、人間の欲望や欲求を刺激することにあふれています。

言ってみれば、それが商売の種、原理ともなっているので、四六時中、私たちは興奮(を起こすため)の波にさらされているようなことになっています。

これを避けるには、まずは物理的に自分を刺激の波から遠ざけておく(隔離しておく)必要があります。

刺激はどこから来るかと言えば、テレビや新聞雑誌などの広告、今はインターネットからも大きいでしょう。もちろん街中を歩けば、広告や看板の山ですし、電車など乗り物の中でもしかりです。

やっかいなのは、人を介しても持ち込まれるということです。

その仲介者自身に自覚がないため、やっかいなのです。

SNSなどでは、実はそれ(知らず知らず、広告の片棒をかついでいる)になっている人も多いものです。

ということは、なるべく外界や人との接触を避け、引きこもっていれば、かなりは逃れられるということです。

もしかすると、最近の引きこもり者の増加は、ひとつには、こうした無意識の自己防衛の形が出ているのかもしれません。

しかし、人は社会的な生き物であることを忘れてはなりません。

引きこもっていると独善的になります。

それはそうでしょう。自分しか世界にはいないみたいな状態になってくるわけですから。

また、考えることが「自分だけ」となりますから、「私はどう生きればいいのだろう?」「オレってそもそも何者?」というような、「私」「自分」の存在意義(宇宙とか世界とか大きな意味での)にこだわるようになり、それが悩みにもなって、結局答えの出ない袋小路のような迷路に彷徨うことになります。

それは一見哲学風な悩みではありますが、実(現実)よりも理想を追求することになるので、どんどん現実離れしてきます。(これが悪いわけではなく、いいところももちろんあります)

そこで、マルセイユタロットでは「悪魔」と「神の家」の関係が意味を持ってきます。

つまり現実の状態からただ自分を隔離して逃げるのではなく、欲望や欲求への刺激を受けていることを自覚し、それらをエネルギーに変えて、これまでの自分枠からの脱却を図るという方法です。

それには、一時的に欲求・願望を叶えるため、忠実に動いてみるという方策があります。

法律を犯したり、犯罪になったりすることは論外ですが、なるべく自分の欲求を叶えるよう気持ちのままに動いてみるということです。

それによって、結果がどのようなものになるのか、叶える過程において内外の状況はどう変化したか、これらを事後検証します。

結局、結構な形で、欲望に忠実になると、心身にダメージがあることがわかります。

物質的にはお金というエネルギーが消費されますし、メンタル的には一時的に満たされる感覚はあっても、次なる飢餓感、もっと大きな欲求に広がっていくことを実感します。

人間関係的にも、あまりよくならないでしょう。ただし素直に伝えたり、表現したりすることで、両者の真の理解を生むこともあります。

まあ、やってみればわかること、動いてみて気付くこともあるということです。

そうして、欲求の充足によって、自分の器とか、求めている本当のものについて知ることになるのです。

そこから、自分の欲求が起こる根本を浄化したり、変容させたりして、次の段階に移ることができます。(ここでまた新たな欲求も起きるでしょう)

この過程がマルセイユタロットの「悪魔」と「神の家」で象徴されます。

欲求の中には、自分への不足感(完全性への疑い、隔離の不安)があり、それをほかで補おうというる行為になりますが、誰でもそれ(不足・欠乏感)はありますので、ある意味、必要なものと言えます。

大切なのは、何を欲求によって求めているかを見つけることです。

人に対してだと、その人に何を求めているのか、モノだと、そのモノを手にして何を得ようとしているのかです。

逆に言えば、自分に欠けていると思っているものが欲求で出るということになります。

ところが、本来はそれ(欠けているもの)が自分にあるというのが真理だと言われていますから、自分の中にあることを自分の欲求から気付いていくための仕組みだとも言えるでしょう。

またたとえ全員が完全であり、すべて備えていたとしても、その現実的表現は様々な形になっており、皆個性を持っています。

「ああいう方法や形もあるのか」と、自分にあるものを出す表現というものを、欲求は知らしめてくれます。

つまり、完全ではあるけれど、表現的には未熟だったり、知らなかったりすることを、人それぞれの欲求とその解消で、より「完全な世界」として整えてくれるよう、存在するシステムだと考えることができます。

ですから、味わう、欲求を叶えるということも、悪いわけではないのです。

欲求を叶えるために社会に生きる時、孤独から解放され、引きこもりにならずに済みます。

ただし、ストレートに欲求がすぐ解消できるような社会になっていないのも、それはご愛敬であり、またゲームとしての楽しい世界なのです。


ホドロフスキー氏の上映会とタロットリーディング

4/22、東京新橋にて、カルト映画の巨匠にして、タロット研究家・セラピストとしても知られている「アレハンドロ・ホドロフスキー氏」の新作映画上映会に行って参りました。

雨模様の中、会場前には早くも人だかり、聞くところによりますとチケットは即日完売であったとか。御年80歳を超える監督と作品への人気は、まだまだ監督同様、衰えるところを知らないという感じです。

私がこれに参加したのも、もちろん映画を見たいというのもありましたが、この日、上映のあとに監督によるタロットリーディングがなされるということでありましたので、この理由も大でした。私は監督が復刻したマルセイユタロットを使っているからでもあります。

さて、そのタロットリーディングがどのようなものであったのかは、例えばこのような記事で書かれていますので、http://www.webdice.jp/dice/detail/4178/
 興味があったらほかにも検索されてご覧いただければと思います。

ただ、タロットリーディングの解説そのものはあまりないでしょう。会場で、監督や作品に興味はあっても、マルセイユタロットを学ばれている人は少なかったのではと想像できるからです。

ということで、私宮岡が、自分の推測も少し入れながら、稚拙ではありますが、監督のタロットリーディングについて、解説したいと思います。

とはいえ、当日は合計4つの質問についてタロットリーディングされましたが、ひとつひとつ全部解説すると膨大な量になりますので、ひとつだけここでご紹介しておきます。

お一人、「髪を伸ばしたほうがよいか、短くしたままがよいか?」という女性の方の質問がありました。

確か、この方は最初に「デートで告白すべきかどうか?」という質問をされていたと思いますが、監督に「告白すればいいじゃないか」(笑)と、あっさりタロットリーディングの前に、現実的な答えを言われていました。

そのあとに女性は思い直して、「じゃ、髪はどうすれば・・短くしたほうがいいのか、伸ばしたほうがいいのか」という質問になったと記憶しています。

流れからすれば、聞いてた人は、ああまた、監督からどうせ、「どちらでもいいでしょう、あなたが決めなさい」とか言われるんじゃないかと想像したと思います。

ところが、監督は「それはいい質問ですね」と、興味を持たれてタロットを引くことを指示しました。

ちなみにこの日用意されたタロット(の仕掛け)は、22人の人間が仮面(顔が見えないように)をかぶり、巨大タロットを裏向きにもって舞台に登場するというもので(苦笑)、監督の思いつきではなく、主催者側のエンターテイメント的な発想だったようです。ま、とにかく、でっかいタロットなわけです。(^^;)

22枚のカードというのは、「大アルカナ」という、タロットでは重要なパートを占めるカードグループのことを言います。これだけでもほぼリーディングや占いをすることは可能です。(伝統的なタロットは全部で78枚あります)

さて、続きです。

質問者の女性によるカード選択が始まりました。スリーカード(最初に三枚引く)の手法を取れ入れ、三枚を選ぶように言う監督。

 そして、裏向きに巨大な人間タロットたちが並びました。左から一枚ずつカードを表にしていきます。

 まず出たのは「教皇」(私は「法皇」と呼んでいるカードですので、これから「法皇」と表記します)、この時点で「おおっ」と私は声を出してしまいました。監督がなぜ、彼女の「髪の毛の長短の問題」の質問に反応したのかが、およそ想像がついてきたからです。

 やはり監督は、「このカードは父親を示します」と語られました。

 「法皇」のカードは、宗教的な権威を誇示するかのように、正当で(教えを守ることの)厳しい印象を与えるカードです。(保護する優しい部分もあります)彼女の父親がそうであったのではないかとタロットと監督は言うのです。

 続いて残り二枚を返していきます。真ん中は「運命の輪」、その右は「女教皇」(私は「斎王」と呼んでいますから「斎王」と表記します)でした。監督はこのカードは「修道女」だと言いました。

 カードの暗号を知るものは、「法皇」と「斎王」が特別な関係にあるカードであることは知っており、監督も、この女性のカード(「斎王」)が、彼女の母親であることを示唆していました。

 修道女でもある(敬虔で受容性のある控えな印象を与える)この「斎王」が母親だとすると、父「法皇」の権威のもと、母親は従順に従い、よきパートナーであろうと努めていたことが伺えます。反面、その奥には激しいものが渦巻いているのも、斎王の深い意味と象徴を知っていれば、読み取れることです。

 監督はこのリーディングがイベントであることもあり、多くは語りませんでしたが、母親とご本人(質問者の女性)が、父を取り合っている(隠喩的・象徴的・無意識的にであり、実際にそうしていたとかではありません)ようなことを言われていました。

 つまり父にかわいがられるためには、母親と同様にするか、母親よりも修道女らしくふるまう必要があったわけです。父もそうした女性が好みであり、それを娘に期待してきた、幻想のイメージを押しつけてきたと考えることができます。もっといえば、この父と父の母親(質問者からすると祖母)との関係も、「法皇」と「斎王」との関係に近いものがあったことが想像できるのです。

 こういった無意識の争い・葛藤のために、彼女は大人の女性になることに、おそらくどこかでおびえていた(おびえている)と想像できます。父にかわいがられる娘であること、隠喩的には妻であることを守るためです。そうしたほうが家庭では安心感がでます。しかし、逆に解放も望んでいて、母を超え、父の幻想からも脱却したいという無意識の欲求も起こっていることでしょう。

 だからこそ、ここで「運命の輪」が真ん中で出たのです。「運命の輪」は運命が回転(展開)していく様を象徴し、「法皇」と「斎王」の間(両親との狭間)で、自分の運命を回転(流してきた)させてきた質問者自身も象徴すると同時に、この輪から脱却する機会・タイミングを得ていることも示唆しています。

 監督は、さらにカードを引くように指示しました。

 私はここでおそらくどちらかのカードが出ると予想しました。それは「女帝」か「星」でした。なぜならば、彼女が「斎王」であるイメージから抜けるためには、別のイメージと象徴の女性カードが必要だからです。(必ずしも女性ではなくても、それを示唆する別のカード)

 すると、ここで出たカードは、なんと「女帝」!でした。

 カードはきちんと、わかりやすく(カードの象徴を知っていたらですが)答えて(応えて)くれます。

 「女帝」は大人の現実的女性を意味し、斎王が修道女のように髪の毛を隠しているのに対し、「女帝」は絵柄を見ればわかりますが、金髪の髪をなびかせています。またこのカードには金星の象徴と関連させられるものもあり、つまりはヴィーナス的な意味もあるわけです。

 監督は「女帝」の持つ杖(王笏)の底(の方向)が、女性の部分を示していることも指摘し、ユーモアも交えながら、「大人の女性はいろいろな髪が伸びるものだ」と語りました。つまりはセクシャルなパワー(子供をつくることもできる大人の女性の力)の象徴による、自分自身(相談者)の大人への成長と権力の獲得(親からの支配の脱却)の必要性をカードから読み取ったわけです。

 ここでは書きませんが、「女帝」にはほかにも大人の女性を示唆する象徴、さらには創造性やクリエティブを意味する象徴など、たくさんあります。それは受動的な「斎王」と対比されるものです。

 ほかにも数に注目すると、出たカードや、それぞれに意味が浮かび上がってきますが、これも省略します。

 結局、監督が質問者の髪の毛の問題に反応したのは、当初(デートの告白問題の時)から、彼女の成長に関わる課題が出ていることを推察し、親とその上の世代から受け継がれてきた無意識のある関係性が、彼女に迷いを与えていることを想像して、髪の毛の質問が出た時にタロットリーディングに入った(たとえ監督が意図していなくても、タロットリーディングにおいてはそういうことが起こります)と考えられます。

 「髪の毛を短くすればいいのか、伸ばせばいいのか」という一見単純な質問の中に、彼女の重要な成長と発展のための鍵が隠されていたわけです。それはまたタロットの象徴を知る者がタロットをリーディングすることで、浮上してくるものでもあります。

 すでにカードを表に開く前から監督は、「二枚が(人間タロットの人で)髪の長い女性、一枚は短い人に持たれいますよね?」と指摘していたことからも、この髪の毛の質問がとても重要なものであることを監督は見抜いていたわけです。

 タロットを使い、現代の道具を利用しながら古代の呪術師のような心理的治療を試みるホドロフスキー氏の手法は、彼自身「サイコマジック」と読んでいる画期的で印象的なセラピーです。

 その一端は、今回のイベントの最終質問者の問題(上記の髪の毛の人とは別)に見ることができましたが、本来は神聖な儀式として執り行う必要があるので、実際はもっと厳粛で、参加者と施術者がそのことによりリアリティを感じるものだと思います。

 映画も含めて、かなり滑稽で、笑ってしまうようなシーンが多いと思った人が少なくないようでしたが、ユーモアとしてわざとしていたところ以外、笑いどころかむしろ心打たれ、泣けるシーンのほうが多かったように私は感じています。

 つまり、象徴的なシーンに対して、自分がリアリティを感じるかどうかの違いが、笑いになるか、真剣なものと感じるかの違いであり、後者でなければ意味がないとさえ言えます。(笑って、リラックスした、楽しくなったという効果は別として)

 タロットの象徴を知ってる者では、今回の監督の映画もタロットリーディングも、まったく別のものを見ていたと言ってもいいでしょう。

 私にとってはアレハンドロ・ホドロフスキー氏とマルセイユタロット、双方の偉大さを改めて感じた時間でした。タロットをやっていて本当に良かったと思います。

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三つの世界意識

マルセイユタロットを通していろいろな考察ができるのですが、その代表的なものに、世界観の考察(洞察に近い)というものがあります。

私たちには普段意識はしていませんが、大きくわけて三つの世界観があるように感じられます。それはまた、マルセイユタロットでも表現されていることです。

その三つとは以下のものです。

●個人的な意識(私) 

●社会的な意識(公)

●宇宙的な意識(全)

もちろん細かく分ければもっとたくさんありますし、一概には言えないところではありますが、タロットから見るとこうなってきます。

それぞれ簡単に説明しますと、かっこ書きで表している単語がその階層をよく示しているのですが、まず個人的な意識というのは文字通り、自分というものを強く感じている意識です。

ある面、わがまま意識と言ってもよいでしょう。その認識する世界はとても狭く、自分のためというのが第一の価値となります。しかしながら、ここをよくわかっていないと、自分が何者であり、どのような個性や特性をもっているのかわからず、迷いがちの人生ともなります。

二番目は社会や外に向けて拡大した(拡大する必要のある)意識で、人間社会で生きている限り、この意識を持たないわけにはいきません。なかなか心理的にも重要な意識と言えます。

ポジティブに見れば、世のため人のための意識といえますが、ここがあまりにも強いと、自己犠牲が行き過ぎたり、組織に縛られたり、自分ではなく人の人生を生きようとしたりしてしまいます。

三番目は全体意識であり、すべてのものはひとつという、いわゆる「ワンネス」的な境地です。この意識に至ると、ほとんどの問題は消え失せ、愛に包まれる状態になるでしょう。

反面、抽象的であるがために具体性に欠け、個別の問題に対処できなかったり、すべては同じように発展していくものという幻想にとらわれやすくなったりもします。(ただし本当の全意識に至っている場合は、幻想にとらわれることはないと考えられます、あくまで概念上で見る「全体意識」でのことです)

実は、私たちはこの現実世界で生きているうえでは、肉体的、精神的、霊的な存在(を同時に生きている状態)であると考えられますので、この三つのすべての意識はどれが優れているとか、どれでなければならないとかではないと言えます。

重要なのは、この三つを通して共通の意識で動くということです。

共通と言っても、3世界を全く同じアイデアややり方で生きなさいというのではありません。それぞれ表現方法は違えど、一本の芯が通っているような共通のものを持ちましょうということです。

いわば三世界にわたって、どれも理屈が通る生き方をするということです。

自分のやっていること(やろうとしていること)が、自分のためであり、世のため人のためであり、宇宙のためであるという見通しと確信が得られれば、それが一番強力なわけです。なせならば、三世界(三つの自分自身)の合意できるからです。

すべての考えや行動に、この三世界の合意がなければならないとは言いませんが、せめて自分の生きる目的(使命のようなもの)は、筋を全部に通しておくことが望ましいでしょう。

その筋の通し方、あるいは合意形成ができるアイデアは、マルセイユタロットならばとても作りやすい(発見しやすい)のです。そもそもが、そのためにできていると言ってもよいところがマルセイユタロットにはあるからです。

人は、自分のためだけに生きていてもその人生はつまらなく、充実感や輝きを感じられないでしょう。

また宇宙や社会のためと言って生きていても、自己の存在が希薄になったり、特に肉体的・物質的満足感・達成感は得られにくかったりします。

両方(もっと言えば、三つ)あっての真の生き甲斐感といえるでしょう。

さらに、4つの目の世界観がタロットにはあるのですが、それはタロット講座などでお伝えします。


「変わらないために変わる」「変わるために変わらない」

今日、タロットを見て浮かんできたことは、「変わらないために変わる」「変わるために変わらない」というフレーズでした。

特に「吊るし」というカードを見ていて思ったものです。

「吊るし」に描かれている人物の姿勢は逆さ吊りであり、そのことからマルセイユタロット以外のタロット種では、犠牲や苦しい状況、時には磔(はりつけ)みたいなイメージで語られることもありますが、マルセイユ版は、「逆さ」という姿勢の能動さ(積極さ)に注目します。

すると、前述したように、「変わらないために変わる」とか、「変わるために変わらない」という言葉が出てくるのです。

変わらないために変わる」とはどいうことでしょうか。

例えば、あるポリシーを持っていたり、自分軸というものがしっかりあったりする場合は、本来は変わる必要はないのかもしれません。

けれどもやはり時代や人は変わっていきますし、そもそも宇宙のサイクルは変化していくものです。いわば状況が変わっていく自然の流れというものがあり、それに対して抵抗するかのように頑固に変わらないのも問題といえます。

たとえば老舗のお店があるとして、ご主人が変わらない店の本質は守っていきたいと思っているとします。

ただこの時代、HPなどネットの告知をまったく持たず、味も店のすべて何もかも昔のままで変えずに商いをするのは難しいでしょう。

これは実際に聞いたことがありますが、老舗の味でも時代によって微妙に味を変えているということです。そしてそれは決して店の軸を曲げることではなく、お店として商売・繁栄を続けていくための方法であり、何よりもお客様に喜んでもらうものを提供したいという変わらない精神のためでもあるということでした。

自分の本質が変わらないためにも、何か外や対応を変える必要もあるということですね。

言い換えれば自分や相手を守るために、表現や外向きには変えることもある・できるということです。

愛する人のためには、いつも同じやさしい態度で接するだけが行動ではなく、時にはあえて厳しくすることで、本質の愛を貫く場合もあります。相手側からすれば、態度が変わったように見えるかもしれませんが。

これはいわば自分を持ちつつ、臨機応変に行動する態度と言ってもよいかもしれません。こうなとる、マルセイユタロットでは「手品師」とも関連してきそうです。(マルセイユタロットの「手品師」と「吊るし」は格好が似ています)

一方、「変わるために変わらない」ということも面白いです。

こちらのほうが、よりスピリチュアルかもしれませんし、「吊るし」の意味の原義に近いでしょう。

ひとつは、変わる準備のために今はあえて変えないのだということです。

今、不安定だからこそ、大きな改革が予定されているのなら、それを急にやってしまうと、組織自体衝撃でガタガタになってしまいます。従って、何が必要で何が不必要か、どこを改革すればよいのかなど見極めと準備のための調査・安定・保存期間がいると言えます。

お金が不足してきたり、人間関係や恋愛で問題があったりすると、人は外側のことで動揺します。

しかし、内外(自分の内と外)が呼応しているというスピリチュアル的信頼を得ていると、物事の原因は自分にあることがわかり、やたらと外側に働きかけて動いてしまうということを避けます。それよりも内なる平安を取り戻そうとします。

これは一見、変わらないようなことに見えて、自分を変えているものでもあります。

それは外側の問題を自分の総合的な発展拡大の課題(恩恵)としてとらえ、これまでの自分より内なるものを大きくしていくことで、心のバランスを回復させ、適切な対応をしていくことを可能にするというものです。

つまり、それまでの自分では問題になるところを、自分が内的に変化することで、問題を問題ではなくしていくということになるのです。

変わるのは内であり、変わらないのは見た目なので(無闇に動かないので)、何も変化していないように外的には見えるのです。

「変わらないために変わる」

「変わるために変わらない」

この両方を必要に応じて採択していけば、結局、「吊るし」の意味でもある「不動の精神」で生きていくことができるでしょう。


タロットの扱いにおける二面(二元)

タロットをどのように扱うか、それは意外と大切な問題です。

この場合の「扱う」とは、タロットの活用のことではなく、どのようにタロットと接するかということです。

タロットは紙の上に絵柄が載っている、まさに「カード」です。

といういことは、当たり前ですが、まずはモノであり物質だということです。

それもさきほど述べたように材質が「」なので、プラスチックとか金属などとは違い、痛みやすいのです。

カードによってはコーティングがしっかりされているものもあって、見た目はさほど痛まないように感じるのですが、やはり長い間使用していると、角のあたりが曲がってきたり、絵柄の表面が薄くなったり(塗料がはげたり)します。

当たり前ですが、自分専門(自分だけのために使う人)で、あまりタロットを使わない人は、そのきれいさは長期間保てます。逆に、対人向けにリーディングや占いをたくさん行う人は、かなり早いペースで痛みが来ます。プロの人などは顕著でしょう。

教える先生によっては、タロットはあまり換えない(新品に取り替えない)ほうがよい言われる方もおられるかもしれませんが(その理由もあるにはあります、それについてはまた別の機会に)、私は痛めば新しいものに交換することをおすすめしています。

やはりくたくたになったタロットは、自分であっても、リーディングされるクライアントにとっても、見た目やさわり心地がよくなく、気分も悪くなるからです。

いずれにしても、痛みやすいタロットは、物理的に丁寧に扱い、使ったあとは布でふくなど、クリーニングもしっかり行っておく必要があります。

それからタロットはもうひとつ、精神的・霊的に扱わなくてはならない部分があります。これを信じるか信じないかは個人の自由ですが、私はタロットには物理的な部分以外の、目に見えない表現の世界があると思っています。

それは例えば、カードをきれいにしても、ドロッとした重さを感じたり、反対に見た目は何ともないのに、以前よりクリアーになっているのを感じたりするからです。ほかにも人によってはタロットの意志を感じたり、霊的な存在のコンタクトが入るようなこともあったりします。(タロットの精霊の存在)

「そんなものは気分の問題や思い込みに過ぎない」という人もいるでしょう。ただ、そう言い張る人はタロットは真剣にされないほうがいいと思います。あまり向いていないとはっきり言っておきましょう。

少なくとも精神世界に関心や興味が抱ける人でないと、タロットを扱うことが難しくなります。

もし純粋に物質・モノとしてカードを扱いたければ、カードを自作したり、トランプや気に入った絵のついたカードで、物事を投影してみるとよいと思います。それでも心理的な使い方までは可能でしょう。(ただし実はトランプやほかのカードにあっても、精神世界の表現は存在します)

ということで、「タロットの扱い」ということになりますと、モノとして大切にする部分と、目に見えない分野も表現している「霊的な存在」として扱う部分とのふたつの意味があるわけです。

後者は最初は難しいかもしれませんが、精神の表現を見る(「見る」ことは難しいのですが)ためには、信じることが最初の段階となってくるのです。

信じるというより、そういう世界があることを受け入れると言ったほうがよいでしょうか。

逆説的になるのですが、信じること・受け入れることで、向こう側の世界は半ば形のように現れてくるのです。(実際ではなく、自分の精神に)

ますます混乱するかもしれませんが、あなたがそれを創り上げると言ってもいいかもしれません。物理的なモノとしてのカードは現実にすでに存在し、誰であっても見ること・感じる(五感で)ことが可能です。

しかし、霊的・精神的カードの世界は、誰もがわかるわけではなく、さらにいうならば、個別的(それぞれ扱う人によって個性が出る)世界でもあります。あなたが感じようとしなければ、その世界は扉を滅多に開くことはありません。(何もしないと、最初は「ない世界」に等しいということ)

逆にあなたが信じ、感じようとすれば、あなたのレベルに応じて扉は開閉(閉まることもあるのが重要です)されます。

世の中は二元(ふたつの質の表現)で現れる世界です。実際やモノの世界と、精神や心の世界のふたつでひとつです。タロットは如実にそれが表れる「霊物」両面の世界なのです。


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