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目に見えない子供たち
今日書くことは、かなり感覚的なもので、客観性や論理性には欠けることではあります。(まあ、そもそもタロットがテーマとなれば、ほとんどそうなりますが・・・)
しかし、タロットリーディングを通じて、あるいはタロットによって物事を見ていると、伝わってくるものもありましたので、あえて書くことにいたします。
さて、人はカップル・ペアとなり、結婚して子供を誕生させます。
その行いは、ある意味 「生命を創造する」神の所業と言え、とても尊い行為です。ですが、そこには魂とともに肉体の(合一・創造という)側面があり、それがその行為の混乱のもとにもなっていると考えられます。
肉体を生み出すには、男女の肉体が必要であり、肉体的(身体的)・物理的・機能的制約をどうしても受けます。
具体的に言えば、年を取ったり、生理的な何かのアクシデント・欠如があれば、うまく子供を作ることができまないということです。たとえ一方に問題がなくても、パートナーに何か問題があればうまくいきません。
もちろん肉体的なことだけではなく、心理的・精神的要素も大きなものがあります。とは言っても、いくら両方の心が合っていても、肉体的・生理的に機能不全であれば子供を産み出すことはできないわけです。
そのため、不妊で悩まれているご夫婦は多いのです。タロットの相談でも、子供を持ちたいけれどもできにくい不妊の問題は少なくありませんでした。
結局、努力はするとしても、死ぬまで続けられるものではなく、どこかであきらめざるを得ない時点が生理的にやってきます。それは年齢だと言えるかもしれません。
しかしながら、そう簡単にあきらめられないのも心情であり、お子さんを誕生させたいご夫婦の悲痛な叫びでもあります。
ですから、安易なことは決して言えませんし、当事者でなければ、わからないこともあることを承知の上で、これからある考えを書きます。不妊で悩むカップルには、気休めに過ぎないかもしれませんが・・・
先程、肉体を生み出すには肉体(機能の充実・完全性、協同性)が必要だとお話ししました。しかし、果たして、私たち人間は肉体だけの生き物でしょうか?
やはり心とか魂と呼ばれるものがある(ように感じる)のは、スピリチュアルなことに特別に関心がない人でも思うでしょう。
もしそうであるのなら、私たちは肉体の合一による肉体の創造だけではなく、魂や心の合一(協同・共同・ふれあい)によって、やはり新たな魂や心も生み出しているのではないでしょうか。
すると、年齢が上がってもう肉体を創造することができないペアであっても、そしてまた、何らかのことで子供を作ることのできないご夫婦であっても、二人の協同・合同作業によって、目に見えない魂を誕生させているのでないかということが想像できます。
それは肉体ではないので、実際にはふれることや見ることはできないかもしれませんが、何らかのエネルギーとして存在している(創造された)可能性があります。
肉体では一度に一人とか二人、どんなに多くても5人や6人程度(5つ子とか6つ子とかのことです)しか、人は産めません。けれども心や魂であるならば、形がないだけに制限も少なく、かなりたくさんの数を生み出すこともできるかもしれません。
子供のことを、俗に「二人の愛の結晶」と表現する場合があります。
これと同様に、まさに二人での愛の結晶(エネルギー)を形ではなく、魂や心のような状態で、「愛」を生み出していると見てはいかがでしょうか。
むしろ、子供を肉体的に出現させることのできないという意味は、別の創造表現の能力が二人にはあり、それによる貢献が宇宙に求められている可能性もあります。
今生はそういった役割なのかもしれず、それは自分たち両者の魂間では、合意してのシナリオであったということも考えられます。
高齢になって、もはや肉体的創造が必要ではない場合も、エネルギーの創造は可能かもしれません。それはいわゆるセックス行為を通さなくても生み出せると推測されます。
逆に言えば、子作りができない年齢というのは、「心(エネルギー)を創造しなさい」「すばらしい心を生み出す力が今のあなたたちにはありますよ」という印なのかもしれません。言わば「身体」ではなく「心体」を生み出す時期なのです。
肉体をもった二人の現実の子供としては生み出せない状況ではあっても、二人の信頼と愛をもって融合されたエネルギーは創造されているのです。
それが社会や宇宙に、大きく貢献していると思うこともできます。つまり、あなたたちのお子さんは、目に見えない形で多く誕生し、活躍しているのです。
ですから、ペア・カップル・パートナー間において、愛をもって二人が接することがとても重要なのです。
なぜなら、それに比例して、二人が合一(肉体的なことだけを言っているのではありません)し、調和や平和の時空にお互いがなることも増え、その分、二人の「目に見えない子供」としての、愛の「エネルギー」をたくさん生み出すことができるからです。それはもしかすると、羽を持った「天使」なのかもしれません。
これはマルセイユタロットの「恋人」カードを中心に、ほかのカードとともに受け取った示唆です。
日常と非日常的時間・空間のサイクルと効果
さて、この前の記事で日常と非日常の話を出しましたので、今度はまた、それについてアプローチを変えて書きたいと思います。
日常と非日常、前回でも書きましたが、結局は意識によって区別されているに過ぎず、環境の違いではないことはお伝えしました。
しかしながら、一方で、実際の環境というものも無視することはできません。それは私たちが意識や心だけの存在ではないからです。
心を変えるには外からと内からの方法がありますが、外の環境の変化は、やはり自分の心に多大な影響があると言わざるを得ません。
静かなところでは落ち着いた気持ちになり、逆に騒々しい場所ではざわついた感じに心もなってきます。
ところが、心をあまり乱されない訓練を受けていたり、思考のレベルが上がって意識的に拡大していたりすると、ほとんど環境によって左右されることが少なくなります。
ここに、心の鍛え方、物事のとらえ方、考え方による幸せや安定をもたらす技術の根拠が見えてきます。
とは言うものの、先程述べたように、なかなか普通は環境からまったく影響を受けない心境になるのは難しいものです。
ということであれば、環境を使って意識や心も変化させたり、楽しんだりするという別の考え方もできます。
むしろその方が簡単かもしれません。
実はそれは、特別に意識せずとも、皆さんが普通にやっていることです。「気分転換」のための移動・変化というやつです。
大きなものは引っ越しや海外留学・長期研修などですし、小さなものではカフェに行ったり、ショッピングを楽しんだり、旅行に行ったり、音楽を聴いたりすることなどもそうです。
昔の日本では、「ハレ」と「ケ」と言って、祭祀を行うハレの日と、日常の農耕生活をするケとの区別がありました。
日常生活の繰り返しではエネルギーが次第に枯渇し、「ケガレ」となるため、神のエネルギーを祭祀によって受け入れ再生復活するという民俗行事や信仰があったわけです。(これも民俗学での一説ですので、必ずしもこれらの用語がその理由であるとは言えませんが)
翻って私たちの現代では、かつてのようなメリハリある生活が失われています。
民俗学者によっては、今はいつも「ハレ」(つまり非日常、興奮状態)になっているという人もいるくらいです。あるいは逆に聖なるハレの日はなく、いつも「ケガレ」(エネルギーを失っている低俗)状態だと主張する方もいます。
私も思うのは、今の人たちが年中ハレ状態(お祭り状態)であると言えますし、年中ケガレ状態(エネルギー枯渇状態)とも言えるように感じます。
要はバランスや調整がおしかくなって踊らされており、本来持つ創造的エネルギーが浪費させられている気がするのです。多くは消費に向けられていると言えます。
マルセイユタロットでは「女帝」や「13」と関係してきますが、創造と破壊のエネルギーがアンバランスであり、創造したくても阻害されたり消費させられたりし、終了再生しようとしてもそれが妨げられ、無駄に続けさせられているのが現代かもしれません。
よって、私たは意識的に自分で「ハレ」と「ケ」のリズムを創り出す必要がありそうです。
たとえば一年を通しても、どこかで自分をリセットしたり、見直したりする時期をチェックポイントとして持っておくとよいと思います。
便利なのは、やはり星の運行によって生じる特別ポイントを使うやり方です。わかりやすいものでは、春・秋分、夏至・冬至などが使えます。
また一ヶ月や一週間、さらには一日のうちでも、メリハリをつける意識を持ち、やはり聖と俗、静と動といったふたつのバランスを取るとよいでしょう。またこのバランスは時間量的に全く同じではなく、むしろ非日常や聖というものは短いもの(しかしエネルギーは強いもの)です。
とにかく、どっぷりと日常で流される生活を続けるのでなく、どこかで自分の好きな場所や、気持ちが正されるような空間・時間を持ち、自分をリセットしてみることです。
環境から変えるということでは、旅などもいいでしょう。
その旅の場合も、やたらめったら日常意識的にたくさんの観光地巡りをして行くのではなく、非日常というものを意識して、普通では味わえない感覚や場所を特別に訪れると、ハレ効果は高くなります。
あなたが今、創造的な自分になっていないと感じているのなら、自分を見直せる空間と時間をもっと作ったり、非日常な環境を経験してみたりするとよいでしょう。
一言で言えば、自分の神性(内なる神。それは外なる偉大な神でもあります)とつながる「とき」を持つということです。
マルセイユタロットにふれる時間というのも、その目的のひとつなのです。
イメージと運動の同時作業
普段(日常)の生活と、そうではない特別な生活(非日常)というものが人間、誰でもあります。
これは環境の違いによると思われるかもしれませんが、意外に環境が変わったからと言って、日常と非日常が区別されるものではありません。
たとえば、引っ越ししてすぐはまだその土地になじんでいないので、日常的な過ごし方をしていても非日常と言えるかもしれませんし、反対にそこに慣れてしまえば、もう日常でしょう。
ということは、その区分けは、結局、私たちの意識や認識が決めているようなものです。
最近はパワースポットブームなどで、特別な場所に行って恩恵を受けたり、自分をいい意味で変化させようとしたりする方も多いですが、究極的には自分の意識によって、どこでも聖地やパワースポットになるのです。
とはいえ、実際にエネルギーと言いますか、もっと簡単に表現すれば「雰囲気」というものが、やはりそういった特別な場所にはあります。
また、実際に自分の肉体を移動させた(旅をした)という意識と効果があり、精神的ことが大きいとは言え、肉体や五感を通して受け取っていく感覚のリアルさの影響も強いと言えます。
そして現地に立ってみて、やはりそこで感じるリアリティ、物質的な感覚というものが、ただイメージしてそこへ飛ぶというものとはかなりの違いが出てくるわけです。
私たちは精神的な生き物・存在であると同時に、物質的で現実的な動物でもあります。従って、意識と行動、生身の肉体でのセンサーと心で感じたりイメージしたりするものとの両方によって、何かを得る効果も倍増すると考えられます。
ここが机上の空論であるアイデアの段階と、実際に行動や体感で経験した現実次元との違いと言えます。
まあ、こんなことは当たり前といえば、当たり前の話です。
今回さらに言っておきたいのは、精神と肉体での逆転発想による向上と発展の方法です。
私たちは行動なり移動なりで、体を使って現実にいる時、結構ただ肉体や欲求の奴隷になっていることが多いものです。
その際には、あまり深く思考したり、何かをイメージしたりすることがありません。
反対に、イメージしたり瞑想したりしている時に、肉体の感覚を意識することが少なくなります。技法によっては瞑想と同時に肉体にも注視するものもありますので、一概にそうとは言い切れませんが。
ということで、これらの関係をあえて逆転させて、というより、統合・融合させてみると面白くなってきます。
簡単に言えば「運動とイメージを同時にする」という感じになります。
まず、何か行っている時にイメージしたり、心で感じることを意図的にやってみます。無意識の惰性のままに動かないということです。
例えば、物を食べながらそれを味わいつつ、味のイメージを色、具材の育った土地などでビジョン化してみるというのも一例です。
逆に瞑想やイメージングにおいては、手や足を動かしたり、何か物質を使いながらイメージを拡大させてみます。
例えば、積み木を組み立てながら、イメージしているのは自分が建てたいビルや家、都市を建築しているというようなものです。
積み木を触っているという肉体感覚が、イメージの中では巨大な創造が行われていると拡大されるわけです。
そんなことして何になるの?と思うかもしれませんが、一言で言えば、自分の中に眠る力が解放されてくると述べておきましょう。
実はマルセイユタロットは、この作業を便利してくれるツールなのです。
自由の前の不自由な殻
今は自由ということが尊ばれている時代です。もちろんそれが悪いわけではありません。
自由は誰もがあこがれ、それを目指します。いわば、人類の歴史は自由を求めての葛藤と争い、克服の歴史だったようなものです。
しかし、自由を本当に知るためには不自由な状態を逆に味わっておかねばならないという皮肉なところがあります。
不自由さや束縛されていることが自覚できて初めて、次の自由を目指すことができると言えます。
人間において完全自由というのはまずありえないでしょう。肉体があり、物理法則という縛りがあり、さらには通常、時間による縛りもあるからです。
スピリチュアルな世界観では、いわゆる「悟り」状態に至れば、物理的ともいえる制約から逃れ、まさしく自由になるのだと言いますが、果たしてそれは精神状態のことを言うのか、はたまた本当に空を飛んだり、肉体を変形させたり、過去や未来に自由に行き来できたりする物理も超越した存在のことを言うのか、これはわかりません。
後者だとかなり荒唐無稽な、漫画やアニメ的なイメージにもなります。(一説にはそういう話もあります)
ただ普通に考えると、悟りとは一種の精神的なことであり、完全な物理法則等の縛りから解放されることなのだとは言い難いように思います。
それでもおそらくは、そのような物理的制約を気にしなくなる、苦や障害とは感じなくなる境地であると推察されます。もっと言えば、それらも楽しくなる、面白くなる世界と言えましょうか。
これならば、悟りや完全とは言わないまでも、私たち一般の者でも、ある程度目指すのことの出来るところだと考えられます。
そこで話は戻りますが、自由になるためには前提として不自由さが必要と言いました。そして不自由さを自覚することが解放(次への自由)のステップだとも指摘しました。
そんなこと当たり前で簡単じゃん、と思うかもしれませんが、案外これが難しいのです。ほとんどの人は自分のつながれている綱、つまり縛りについて気が付いていません。大きなもので言えば、私たちは皆洗脳されてつながれているようなものです。
普通は生きていく中で、ただ何となく違和感があったり、時折息苦しい感じがする程度で、通常はなかなか自分の縛りに気がつかず、ずっと一生そのままということもありえます。
それが顕著に現象として出るのは、やはり何かのトラブルや試練、自分ではよくないと思う状況、うまく行かないと思う事柄が発生した時です。
具体的には病気であったり、仕事の問題であったり、パートナー・家族、人間関係の問題であったりします。お金・経済的な問題のことも多いです。
それは、実は自分の中に「何かの縛り」があることに気がつく(かもしれない)きっかけとなっているのです。気がつけば、小さいといえども「ある覚醒」となります。
マルセイユタロットでいえば、大きな意味では「悪魔」と「神の家」であり、また「13」とも言え、一枚で象徴するならば「恋人」や「運命の輪」、「審判」だとも考えることができます。
ここで縛りというのは思い込みであったり、正しいと信じていたことであったりする自分ルール・信念のことがほとんどです。(その意味では「正義」のカードとも関連します)
しかしそれはたいてい外からもたらされており、例えば親や世間の常識、学校や職場で信じ込まされてきたものと言えます。
とはいえ、それは今までは必要な自分の殻であったわけです。
「殻」と言うと悪いイメージがありますが、「殻」なのですから、自分を守る防護壁でもあるのです。殻がなければ、あなたはむき出しのままで無防備に傷つき、倒れていたことでしょう。
しかしながら、もうその殻がなくてもよい状態にあなたが成長し始めていたり、殻を脱ぎ捨てて新しい殻を身にまとうべき段階に来たりしていた場合、上記のようなこと(試練・事件)が発生するのです。
よく勘違いされるのは、「気づきがありました」「やっと縛りから解放できました」「自分はもう自由です」と、セッションやカウンセリング、セラピーなどでその状態になったとしても、実は新たな殻・柵の中に入り直したに過ぎないことがあるのです。
でも新たな枠ですから、今までの枠よりかは大きく、自由性があります。
動物園の檻に入れられている状態から、サファリパークみたいに少し自由性を伴った大きな檻に移行したと言ってもいいでしょう。決して自然の元いた自由な場所に帰ったわけではありませんが。
この動物園の動物たちが「元いた自由な場所」に例えられる所こそが、実はまさにもともとの私たちの本質・状態、故郷なのだと言うことができます。
マルセイユタロットはそこに戻るための、あるいは気付くための学びのプロセスが描写されたカードだと述べることができます。
ただ、それもいきなり一気に戻れるわけではありませんので、少しずつのステップが必要なのです。
一気にやってしまうのは脱走に近くなりますので、監視員の目から逃れるのも大変であり、一時的に成功しても捕まえにくる部隊によって追われる運命になって、気が安まりません。それでも挑戦したい人はやってみるとよいでしょう。これがいわゆる荒行ということになります。
安全に行くためには、ひとつの殻に気付いてはまた次の殻に入り、そしてその殻を破ってさらに大きな次の殻に入るという繰り返しがよいです。
そうこうしているうちに殻の破り方のコツがわかってきて、スピードもアップし、ガンガンガンと小気味よく殻を空手の瓦割りのように(笑)、連続割りしていくこともできてくるでしょう。
やはりそう考えると、人生をゲームだととらえて、楽しみながら殻破りをしていくことがポイントのように思えます。
同じ質問で、タロットは何度も引けるのか?
タロットリーディングのもっともシンプルな展開法(スプレッド)は、一枚引きです。
それだけに情報が少ないこともあって、読みにくい展開法だと言えますし、逆にズバッと結論だけ知りたい場合には有効な方法と言えます。(ただし一枚引きにも実は解釈法の違いがあり、それによっては複雑になることもあります)
後者の、特にはっきりと決断を下したい時に使うシンプルな展開法の場合(それが一枚引きであることが多いのですが)、自分の期待する結果と違う象意が出ると、大変困惑してしまう場合があります。
中には、もう一度タロットを引き直す人もいます。ひどくなると、2回だけではなく、3回、4回とやってしまう方もいるほどです。
「タロットは同じ問いに対して、(期間を置かずに)何度も引いてはいけない」と聞いたことがあると思います。
その理由は複数あり、さらには決してそうとも言い切れないケースもあるので、その詳細の説明はまたの機会に譲るといたしましても、「何度も引いてはまずい」理由のひとつは、今回の記事で示すことができます。
簡単に言えば、情報が多数になり、整理ができず混乱してしまうということです。
イエス・ノー的な問いの答えを明らかにしたいと場合は顕著ですので、例示してみましょう。
一回目にカードを引くと、どうもノーだと思った。でも、それでは望むものとは違っていたので、もう一度やってみた。
すると今度はイエスぽいものと解釈できた。
でも、いまひとつイエスとは確信が持てないし、そもそも最初はノーだと思った・・うーん、では、もう一度やってみよう、今度こそ!と引いたら、なんと次は「ノー」とも「イエス」とも考えられる結果だった。ますますわけがわからなくなり、一層困ってしまった・・・
というような場合です。
迷う原因は、もちろん複数回引いてしまったことにあります。
情報がたくさん入りすぎて、しかもその情報・データが相反する(統合できない、ひとつやシンプルにできない)ものだったので、混乱に陥ったわけです。
戦いの時で第一偵察隊が戻って聞いてみれば、敵の数は数万と報告されてびびった将軍が、第二偵察隊を派遣して、その報告では、今度はせいぜい数千程度で、こちらの半数かも?との情報を受けて、「よし、これは勝てる」と勢い込むも、もうひとつの部隊から「どうも伏兵があるようだ」との新情報も得て、またまた不安に思い・・さらに偵察を出しの繰り返しで腹が決まらず、そのうち敵の奇襲を受けて、一気に軍が混乱に陥り、崩れて敗走するようなものです。
ここで、「戦いの将軍」のイメージを出したのには理由があります。
もしこの将軍に決意と覚悟、データ分析のひとつの法則のようなものがきちんと確立されていたならば、たとえ相反する情報が入り乱れたとしても、ある種の判断を下して、戦いに臨むか退却かをスムースに行えたでしょう。
それには「最初の斥候・偵察の情報を信じる」と、元から決めていたり、自分のデータ分析の法則や根拠を持っていたり(たとえば三国志演義の世界でならば「星が動いた」とか)すれば、判断は下せたわけです。
このようなことを考えますと、タロットでも何かはっきりしたものを出したい、知りたいという場合は特に、
●複数回は引かない
ということが重要になり、それは先述したように情報が(相反する要素も含めて)多くなり、整理できず混乱するからと言えます。
そして、そのためには、
●最初(に引く回)のカード、象意を尊重すると決める、覚悟する
ということです。
あやふやな、浮気心を起こすような気持ちで臨まず、たとえ自分が希望する結果ではなくても、それを受け入れると決めて行うことがよいのです。
それができない場合は、しないほうがましですし、最初から別の方法でやってみることです。
易などでは、易の神様へのお伺いであり、天意を伝えていただくので、それを尊重する意味でも何度も伺いを立てるのは失礼にな当たると戒められる場合があります。
タロットでも、タロットの精霊というものがおり、その存在とのコンタクトの不手際を招くとして考えることもできます。
たとえば、あなたが友人や家族から何度も同じ事を聞いて来られたら、終いには嫌になりますよね。
最後の方は、テキトーに「もう、それでええやん」(なぜか関西弁ですが(^_^;))と答えしまうこともあるでしょう。(笑) タロットも人間的に見た場合、そうなることがあるということです。
ただ最初にも述べたように、絶対に複数回同じ質問でタロットを引いてはならないというわけではないのです。
むしろ複数回を引いて占ったり、リーディングしたりする技術もあります。
とはいえ、それでもタロット(の精霊)との了解を自分なりに得ておく必要があります。
