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タロットを使った選択法。
私たちはいつも迷いの中にあると言えます。
占いやタロットリーディングでの相談でも、結構多い質問に、「どちらにすればよいですか?」「これをするべきですか?しないほうがいいですか?」「あそこへ行くのがよいですか?行かないほうがよいですか」「仕事を続けるべきか、辞めるべきか」「あの講座を受講したほうがよいのか、今はしないほうがよいのか」・・・といった、いわゆる二者択一のものがあります。
こういう時は、占いでは「卜占」(偶然出した象意で占う)的なものが効果的です。東洋系では「易」などがよいでしょうね。
タロットも、占い部門で言うと卜占に該当するので、できないことはないです。
しかし、これは私の私感ですが、タロットの霊(という存在がいると仮定します)は、意外に茶目っ気があり、バシッと出さない時があるように思います。もちろん決断を下すとして真剣にやれば、違ってきますが。
とはいえ、タロットでも二者択一を判断する技法(スプレッド)はいろいろとあります。
たとえば、正逆というカードの出た方向性で判断する方法。
単純に正立がイエス、リバースがノーと判定するやり方です。ただ、これではコインを投げても、えんぴつをころがしても同じ(笑)なので、あまりカードを使う意味がありません。(出たカードの意味はやはりありますが)
ほかにも二枚や、それ以上のカードを使ってどちらがよいかを判定するやり方があります。
また高度になってきますと、カードの方向性や枚数などには関係なく、カードのニュアンス・感覚で判断してしまうこともできるようになります。こうなりますと正逆とか、カードの普遍的な意味とかはあまり関係なくなるのです。
ほかにも、個人とカードの特定のつながりがついてきますと、あるカードが出ればノーになり、ほかのカードではイエスだと判断できる性格のものもあります。
この場合、同じカードを使っても他人がそのノーに当たるカードを引いたからと言って、必ずしもノーの意味にはならず、あくまでそのカードの持ち主で生きる意味となります。
理屈的には、その人が感じるイエスとノーの波動が、そのカードにこめられて行く、あるいはカード自体のエネルギーが、その人のイエス・ノー波動に反応するような特質を表していると言ってもよいかもしれません。
それから前にも書きましたが、自分でやってわからない時は(というより、結構自分でやる場合は感情が入りすぎるので、冷静に判断できず、感度が鈍るおそれがあります)、人にやってもらうのがよいです。
プロに占ってもらってもよいですし、アマチュアでも他人なので客観性が保て、かえって正確さが増します。
何も一人だけにやってもらうのがいいとは限りません。複数の人に同じ問いをして、統計的にどちらがよかったのかを取ってみて判断するという方法もあります。
自分で判定する場合でも、(タロットの場合、タロットに断りを入れて)何度か同じ問いをしてもよいです。
「タロットでは同じ問いをしてはいけない」と言っている人もいますが、それは間違いではないですし、正解でもないと言えます。
タロットがわかってくると、同じ問いをしてまずい場合は、自然にしたくなくなります。同じ質問をすること自体、無駄だと感じるのです。
本来は、一度の展開で全力を注視し、神聖な儀式として行うものですので、その意味では何度も行うという発想そのものがあり得ません。
しかしながら、日常の占いレベルでは、その次元まで意識を高める性質ではない(質問内容にもよります)ことが多いので、複数回が認められることもあるのです。
またタロットを信頼したうえで、技法として複数回やってみたいとタロットに宣言しておくならば、タロットはきちんと、そうした統計的な(^^;)結果も出してくれます。
あ、言っておきますが、そもそも「占い」は統計学ではありませんので(私の考えです)、統計という言葉が今回出てきますが、あくまで便宜上・技法の説明上、言っているだけです。
やってみればわかりますが、統計的に積み重ねて行くと、やがて統計的な概念から自分の意識がはずれていくようになるでしょう。その状態こそが、タロットに関わるという意味や目的ではとても大切なのです。
つまり、常識や通常の自分のこれまでの概念があやふやになる奇妙な状態を出現させるのがポイントでもあるのです。
ということで、二者択一の話をしてきて、ものすごく逆説的に聞こえるでしょうが、タロットを展開してみて「(論理的に)よくわからない・・」となってくれば、実はしめたものなのです。(笑)
物語からの創造。
知識をつたけり、思考を深めていったりすることが、必ずしも頭(智慧)をよくしていることとは限りません。
それどころか、逆に素直な感覚や、純粋な感じ方、いわば直感を失わせることにもなりかねないところがあります。
平たく言えば、考えすぎによる堂々巡りや混乱ということです。
本当はシンプルなことなのに、難しく考えすぎて動きが取れないといった事態が、こういうことの典型ですね。
要は何事も使いようということです。
それでも知識・思考によって、面白いこともたくさん出てきますし、実は直観と同じく、真理に近づく方法のひとつでもあると考えられます。
ということで、知識・思考による「面白いこと」のひとつをご紹介します。
映画や小説、絵画・芸術作品など、人による創作物(創造物)にふれた時、人はそれぞれに何かを感じたり、学びを得たりします。
そして、もちろん作者の言いたいこと、主張・テーマというものも存在します。自分の感じたことが作者のそれと同じこともあるでしょうが、違うこともあります。
とはいえ、だいたいにおいては、それほど作者の思いとは大きくははずれないでしょうし、その作品における世間一般の多くの人の共通評価というものもあります。
しかし、いろいろな知識を得て思考を重ねていくようになると、そうした一般的な感じ方・見方・感想、さらには作者の意図・テーマとも異なる、別のものが自分の中に現れるようになります。
いわば、多次元・多世界の見方ができるようになるということです。
もちろん作品によっては、作者がある暗号・コードみたいなものを忍ばせておき、それが理解できるものだけに、表面的に見せているものとは異なる裏のメッセージを含ませているというケースもあります。
これも知識による多重の楽しみ方のひとつです。
でも、これとは違う、自分なりの新しいモノの見方、別の見方も起こってくることがあるのです。創作者や一般的評価(見方)を超えたストーリーの出現と言ってもよいでしょう。
これができてきますと、創作物だけではなく、普段の何気ないシーンからでも、自分流の物語・メッセージを抽出することができます。
換言すれば、設定を借りた自分なりの新しい創作と言えます。
そして、実はここがとても重要なことなのですが、この世で現れている(見えている・感じている)事柄すべては、神の創造物だとすれば、あなたが自分流に解釈するスートリーも、神の創造のひとつの解釈となるということです。)
人は神に似せられて創られたと聖書でもあるように、人間は創造することができ、結局それは神に帰する行為であるならば、自分の創造も神の創造になるという理屈になります。
しかも、この「神」とは「自分」でもあるというグノーシス的に想定すれば、自己の創造性のすごさに気がついてくることになるでしょう。
そこから、すべてがつながっていること、あるいは逆にすべてはつながらないこと(創造が幻想物であり、だだ自分が、ある目的のために創造しているに過ぎないこと)などに思いが行きます。
結局、知識も思考も、「創造のためのツール」と言えます。(ひとつの見方ですので、それがすべてではありませんが)
これとは反対方向の、思考をどんどんと削ぎ落とし、「空」や「始原」に戻って、湧き出ている創造の泉(自己の根源・神のエネルギー)を観察して多重世界を楽しむという方法もあります。禅的な方法と言えましょう。
どちらで行ってもよいですし、どちらも楽しむことができます。
大切なのは、どの方向であっても、こだわりや絶対を思い過ぎないことですね。力を抜いたとき、本当の力に遭遇することは、マルセイユタロット「力」のカードでも描かれていることです。
余談ですが、ほかにもマルセイユタロットでたとえると、「星」と「月」が隣り合わせの数を持ち、並べると特別な意味をもってくるように見えるのは、この記事で述べたことと関係していると私は考えています。
大アルカナの上(高)番号の象徴性
マルセイユタロットの大アルカナの並びには、昔からいろいろと研究されているようです。
その秘密の一端を、かのカモワン版マルセイユタロットのフィリップ・カモワン氏が一部開示しました。またユングによって心理学的に解説されこともありますし、ほかでも様々な解釈がされています。
私もこうしたことをふまえながら、個人的にタロットの象徴性を探究して行く中で、ようやく、特に大アルカナの数の多いカードの意味が少しずつとらえられてきたように感じています。(それでもまだまだのレベルだと思っていますが・・)
と言いますのも、数で言うと「10」(本当はローマ数字の表記ですが、文字化けの可能性のため算用数字で示しています)以降のカードの象徴は、数が多くなるほど、実は本当の意味では高度の象徴性を持つからなのです。(※ただし、すべて同じレベルの象徴性と取る見方もあります)
簡単な吉凶占いレベルにおいては、それを感じることは少ないと思いますし、むしろ数の多いカードは読みやすいカードだったり、わかりやすかったりするでしょう。例えば19「太陽」とか21「世界」が、「うまく行く、吉兆的なカード」の意味として取るようなケースです。
しかし深い象徴性で観ていくと、なかなか「太陽」や「世界」でも、何を表しているのかを説明するのは難しいものです。
「太陽」のカードを例にしますと、これは私たちの普通に見ている天体的な太陽ではないのは明白ですが、しかしその太陽の象徴性をきちんと理解・把握できるかといえば、それは簡単ではありません。
言っておきますが、占星術でも同じであり、占星術上の惑星(これは天体の惑星とは同じようで、別です)の太陽の意味を丸暗記したところであまり意味はありません。
ということで、自然や裸の人物、異世界の生物のような描かれ方が多くなる、数の多いマルセイユタロットのカードの理解は奥が深いものなのです。
それぞれのカードに描かれている細かな象徴の意味を知識として知ったとしても、です。(しかし、それを知らないとそもそも始まらず、門の中に入ることすらできません)
実はマルセイユタロットはグノーシス(自分の中の神性を発見する、認識する)のための道具でもあるので(これは私の考えですので、必ずそうだという意味ではありません)、そのグノーシスそのものが知識ではなく、魂や心で把握するものだからです。
もちろん知識として知ることも必要ですか、それは先述したようにあくまで出発点であり前提であり、「本当の認識」のためには、個人個人が(象徴として)自覚する(気付く・理解する・覚醒する)しかないのものなのです。
ですからグノーシスは、本当の意味では人から教えられるものではなく、自分で「識る」ものと言えます。
ただタロットの知識・象徴はその手助けとして、おそらく今この世界にあるツールとしては、かなり優れたものの部類に入ると思います。
その意味を知らない者にとっては、単なるカードであり、ゲームであり、占いの道具でしかないのですが、真理を観る(見るのではなく、観る)ためのツール、自分を欺瞞の世界から真実の世界へと飛翔させるための導きの指針としては、これほど有用なものはないとさえ言えるものです。
今回書いていることは、とても抽象的で、何を言っているのかわからないという人も多いかと思います。
ただヒントと言いますか、私のこの感覚に共鳴していただけるための糸口としてお話するならば、この世界を少なくとも「二重の形」で観て意識しなければならないということです。
ひとつには自分を「愚者」化することであり、また「月」のカードで象徴させられ(てい)る状態を意識することでもあると言えます。
こうしたことを、具体的に知識や技術として、皆様にお伝えできたらとも思いますが、先にも述べましたように、いくら知ったからと言って、最終的には自分で気がつかないと本当の意味はわかりません。
ですが、ギリシアの哲学者・プラトン風にいうならば、「外からあなたの体の向きを変えることはできなくても、自分で体の向きを変えるための手助けとして伝えることはできる」ということです。ここで言う「体の向き」とは、幻想のほうに向いている方向を、真実の光のほうに向けるという意味です。
これを講座として提供できればと思います。いわば「自分(のために使う)使い」のタロット講座です。人使い(のために使う)となると、今までのタロットリーディングということがメインとなるでしょう。
タロットリーディングによって人の問題を解決したり、気づきへのサポートしたりするために使うタロットも重要ですが、自分を高め、本来の自分に戻るためにタロットを使っていくということも大きな価値があると言えます。
できれば両方やっていただくのがベスト(これは表裏一体のものでもあるからです)ですが、自分使いでも十分なものでしょう。どちらにしてもベース(基礎知識と技術)は押さえておく必要はあります。
少し時間がかかると思いますが、新規講座ができましたら、またこちらでもお知らせしたいと思います。
決断・選択の結果への対処法
「決断」を表すマルセイユタロットのカードといえば、「正義」がまず挙げられるかもしれません。
※このブログでは何度も申し上げているように、タロットは「象徴」ですので、シチュエーションの違いによっては、ひとつの意味が、他のカードでも読めることはむしろ普通のことです。ですから「決断」を意味するカードは、それこそたくさんあるのが実状です。
特に「正義」の決断にはニュアンス的に、「責任」ということが伴ってきます。
これはとても重要なことだと私は考えています。
よく、決めたはいいが、あとでとても迷ったり、後悔したりする人が)います(場合があります)。
「やっぱりあれにしとけば良かった・・」「「こっちを選択したのは間違いだった・・」と悔やみ、決断したことに対して真にエネルギーを注ぐことができなくなっているのです。
必然、まさに「今」に集中することができなくなり、ますます事態は悪化します。
論理的に考えればわかるのですが、「失敗した」と思えば思うほど、今の選択事項にいつて好ましく思えなくなるのは当然てあり、いわばポジよりネガがクローズアップされるのは当たり前の状態となります。
これが、「悪いことは重なる」とか「貧すれば鈍する」という、タロットでいえば「運命の輪」の逆回転が続いていくような悪循環を生み出すのです。
ではどうすればよいのかですが、まずシンプルにはふたつの方法があります。
ひとつは、もしやり直せるのなら、決断・選択をリセットして、違う方であったり、まったく最初から異なる選択肢も入れたりして選び直します。
ただ、もう決めてしまったことは後に戻せないことが多いので、その場合は、今から述べることを採用します。
それは、一言でいえば「ネガティブや最悪を楽しむ」という精神状態にするということです。「開き直り」や「割り切り」と言ってもいいでしょう。
決断や選択が「失敗だった」と思う嫌な感情自体を起こさせないようにするのは難しいので、それはそれで潔く認め、悪い状況を自虐的でもいいので笑いとばして楽しむようにします。
「人生、何事も経験だ」の心境です。
たとえばこの連休でレジャーを楽しむ人も多いと思いますが、行った先(選択した先)が激混みで最悪だったという場合でも、もうどうしようもないとあきらめ、混雑そのものをレジャーだと思うくらいの気持ちでいるということです。
またDr.ジョン・ディマティーニ氏の言うように、ネガティブな部分のほかにも、同じくらいのポジティブがあることを見つけるようにしてもよいでしょう。
たとえば、車の渋滞で動かなくなったおかげで、車中で家族との話が結構できたというようなものでも構いません。
こういうのがとりあえずの対処方法です。
そして、次の三つ目の方法が実は大事です。方法というより前提や心構えに近いものですが。
これは仕事の決断・選択とか、比較的大きなこと、真剣に人生に関わってくることの場合に有効です。
それが最初に言いました「決断」と「責任」に関係することなのです。
それは、決断・選択したことに対して、いかな状況になろうと、「私の(選択の)責任の結果」だと思い、自分でまさに責任を取るという決意をすることです。
結果によっては文句や愚痴も出ましょう。それは人間であり、感情を持つのですから仕方のないことです。それを無理に抑え込む必要はありません。
しかし重要な決断をする時(重要でなくても)には、自己の選択の責任を、その結果において自分が負うと真から決意して行動すれば、結果が一見悪いように見えても、必ず改善の道が開かれます。
それは理屈的にいえば、「自分の責任にする」ということが、自己のコントロール(支配)に置くという意味と同じになるからです。
つまり人任せ、運任せという状態からの脱却になり、自分に力とエネルギーを集積させる(回復させる)ことになるのです。
それ(運命を支配する力があること)を私たちは忘れさせられようと、ある意味洗脳(これは自分自身でのこともあれば、人からのこともあります)されているのです。
自分の決断・選択に責任を持つことは、マルセイユタロットでいえば、「力」(の獲得)につながることなのです。
ですから、「自分の選択や決断の結果には責任を持つ」という意識を強く持ちましょう。
ブログを書き続けるには。
ブログを書き始めたはいいものの、何を書こうか困ってしまっている、ネタがないという人も少なくないと思います。
さて、改めてそういう人に問いたいと思いますが、「あなたは何のためにブログを書いているのか?」ということです。
目的がはっきりすれば、書き方も決まってきます。もっというと引き際、やめるかどうかもわかります。
たとえば「特に目的はないです」「ただ何となく・・」という人ならば、そのままにすればよいのです。
つまりは、書くことがなかったら書かなくてもよいということです。目的がないのですから、どうあなたがブログを運営しようが自由です。
ブログのもともとの活用法といえる「日記」が目的であるならば、何とかして毎日日記として書けばいいですし、週間日記(こうなると「週記」ですね(^^;))ならば、土曜日など週末に一週間のことを書けばいいのです。公開ラブラブ交換日記がしたければ、相手と一緒にひとつのブログをしてみるのもよいでしょう(笑)し、公開がいやならば限定公開やパスワード制のブログでできます。
また極端なことを言えば、何も書きたくなくなったらブログをやめればいいですし、また始めたくなったら始めればいいわけです。
それじゃ身も蓋もない・・ということであれば、今一度、あなた自身のブログを書く目的をはっきりさせましょう。
「目的」というと大げさになりますから、「ブログでどうしたいのか」「どう思われたいのか」という気持ちを確認すると言い換えてもよいですね。
すると、「ブログをたくさんの人に読んでもらって、反応してほしい・・」というものかもしれませんし、まさに「商売や集客」という、はっきりとした目的の人も出てくるでしょう。
後者の場合は目的が明確ですから、書くネタがなければ書き方をコンサルタントに教わったり、自分から集客目的の本やセミナーなどに参加したりして、勉強すれば書く能力の進展があります。
問題は前者の(人に反応してほしい)人です。ではさらに、自分の希望をつきつめてみましょう。結局、どうなのかを探るということです。
その結果、もしかすると自分は、「人とつながりたい」だけなのかもしれないとわかるかもしれません。
それならばブログでなくてもよい場合があります。SNSなど、ネットでも今はいろいろな方法で人とつながるやり方があります。
またネットを介してではなく、直接のリアルでの交流もあるでしょう。
古典的ですが、やはり相手は生身の人間ですから、直接会える交流の場所に行く(参加する)のは、不安もあるでしょうが、結果が得られれば有益で、ネット交流のレベルを超えるでしょう。
さて、ここで人とのつながり・交流がメイン(それ意外でも通用しますが)の人に、書き添えておきたいことがあります。
人とつながりたいと思えば、一方的なものではダメです。
何せ相手を欲していることであり、お互いのものなのですから、双方向にしていく表現(エネルギー)が求められるのです。
つまり、自分がしてほしければ同じことをまず自分からするということです。これは結構よく聞く言葉だと思いますが、それが宇宙の理にかなっているからなのです。
またエネルギー保存の法則とも言えます。
自分が得たいというエネルギーを出せば、自分に引っ張るエネルギーですから、その分自分からも出さなさいと中立性が保てず、バランスが崩れているものは宇宙の表現としては成り立たないか消滅するしかないので、一方向だけでは叶いにくいのです。
ということで、クレクレ星人(笑)になっていると、自分の存在すら消滅したようになりかねません。(実際的には無視されるような状態)
それから、書くネタがない人にある技術をお伝えするとすれば、ひとつのこと(ネタ)を違う角度(見方)から書くというものがあります。
これもよく聞かれることなので、今更「なんだそんなことか」と思うかもしれませんが、シンプルですが実は非常に有効な方法です。
ただ、別の角度を持つというのが意外に難しいことがあります。そのためよく言われる技術なのに、実際に活用できるている人が少ないのです。
ところが、マルセイユタロットを知ってこれを活用していくと、簡単にできる(別の視点を持つことができる)ようになります。
たとえば、小アルカナには剣・杯・杖・玉(ソード・ワンド・カップ・コイン)と4組ありますが、それぞれの組別の視点を持てば、少なくともこれで4つの目を持つことになります。
複数の視点を持つということは、旅行ネタを書いて、食べ物メインで行くか、場所でアプローチするか、ホテル・旅館を中心に書くか、旅そのものをテーマにしたためるか、節約術やお金のことなどでお得情報を提供するか、子供を持つ親の視点で書くか、大人の楽しみのほうで書くか・・こういうようなことですが、タロットはその複数の見方をサポートします。
私がブログを書き続けられるのも、タロットのおかげによるところが大きいのです。