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タロットマンダラ

前回、カモワンタロットで言われている大アルカナの絵図、いわゆる「タロットマンダラ」について取り上げることを予告しました。

とは言え、タロットマンダラについては、カモワンタロット的に秘伝的な内容を多く含みますし、私自身は、今はカモワンタロットの認定講師の立場にありませんので、詳しく話すことはできません。

ですので、ヒントのように、におわすような形で、ここではふれさせていただきます。

タロットマンダラとは、カモワン流における、大アルカナ22枚を数の順に並べた全体絵図のことです。

マルセイユタロットの大アルカナを、数の順に並べて、ある図にする手法は、このタロットマンダラに限らず、昔から伝承されていることだったと考えられます。

逆に言えば、大アルカナの数が、何かの順を示していることは明らかであるということです。

しかも、タロットマンダラでもそうですが、大アルカナのセットとなる基本数が「7」であり、つまりは七枚ずつのセットに分かれ、都合、三つのグループとなり、全部で21枚と「愚者」という構成になるわけです。

大アルカナの数が何らかの順番、段階を表していることは推測されますが、それが何なのか?というのは、実は、絵を見ているだけでも、何となく推し量ることも可能なのです。それくらい、マルセイユタロットの大アルカナの絵は、普遍的で元型的な描かれ方をしています。

タロットマンダラが、ほかの大アルカナの数の順を追った絵図と少々違うのは、「愚者」の位置かもしれません。

カモワン流のタロットマンダラの場合、「愚者」は最初の出発点のような位置に置かれます。出発点というより、ほかの大アルカナを旅する(「愚者」の人物は旅人の姿を象徴しています)当事者として見たほうがわかりやすいでしょう。

このように、タロットマンダラは、「愚者」を主体として、ほかの21枚を旅するような図になっています。3×7(7枚ごとに3グループ)+1(愚者)という構成です。

このような構成を見渡しますと、横の3段グループ(七枚ごとにセットになるグループ)のほか、縦では、7つの列(三枚ごとのセットが七つ)にまとまっているのもわかります。

この、横である3段のグループと、縦の7列のグループには、それぞれ意味があります。わかりやすいのは横の段のほうですが、縦にも、もちろん意味があります。

この縦列の解読は難しいところもありますが、わかってくると、とても興味深く、いろいろな気づきや知識が入って来るようになります。

例えば、真ん中の列ともいえる、「月」「力」「皇帝」の縦の並び。(それぞれ「18」「11」「4」と7つごとの数の増減グループになります)

一見すると、まるで関連性のない三枚に見えますが、「月」から「皇帝」、「皇帝」から「月」、間に「力」のカードをはさんで考察していくと、想念世界と物質世界の関係性がヴィジョアライズされてきます。(ほかの意味合いも考察可能です)

三つ目の列、「星」「運命の輪」「女帝」をこの順で見ますと、まるで、「星」から流されるエネルギーが「運命の輪」を通って(回して)、「女帝」に流れ落ちて来るかのように見えます。

もしここで、「運命の輪」の回転が変われば、「女帝」はどうなるでしょうか?・・・などと想像すると、面白い発見ができるかもしれません。

このように、7つごとにまとまったタロットマンダラの縦も横も、とても示唆があるものです。

ほかにも斜めや隣同士など、様々に考察が可能なのがタロットマンダラの絵図です。

ある意味、タロット界の至宝図と表現でき、まさに仏教界の曼陀羅図同様、私たちに大いなる智慧と気づきの示唆を与えてくれるものと言えましょう。

このタロットマンダラを知るだけでも、マルセイユタロットの価値があると思います。


カモワン流、ホドロフスキー流

私はマルセイユタロットを伝えているわけですが、もとは、そのマルセイユタロットの種類のひとつ、カモワン版から入った口です。

カモワン版は、日本では、むしろマルセイユタロットの代名詞みたいになりましたが、それは旧タロット大学による普及の力が大きかったのが要因のひとつだと思います。

しかし、カモワン版マルセイユタロット、通称カモワンタロットは、実はリニューアルされた創作系マルセイユタロットと言え、伝統的な古い時代そのままのマルセイユタロットではありません。

カモワンタロットは、その名の通り、マルセイユタロットカードメーカーの子孫、フィリップ・カモワン氏によって作られたものですが、忘れてはならないのは、もう一人の製作者、アレハンドロ・ホドロフスキー氏いてこそであり、お二人によって共同製作されたのが、カモワンタロットです。ですから、ホドロフスキー・カモワン版マルセイユタロットと呼ぶのが正式でしょう。

世界的・一般的には、ホドロフスキー氏のほうが有名で、著名な映画監督であり、セラピスト、作家、詩人、芸術家、俳優など、様々な才能と肩書を持つ方です。

ホドロフスキー氏がタロットを愛していることは、氏を知る人では当たり前のことになっていますので、ホドロフスキー氏に関しての縁で、カモワンタロットにふれたり、学んだりする人もいます。(日本でも、ここ数年はその傾向が増えてきたようにも感じます)

アメブロでも解説したことがありますが、カモワン氏とホドロフスキー氏のタロット観とその技術は、かなり異なるところがあります。

知らない方は、共同制作者だからと思って、二人のタロットにおける思想・技術は同じだと誤解している人もいるかもしれませんが、カモワン流とホドロフスキー流とでは、本当に別モノと言ったほうがよいくらいのものです。

どう違うのかは、マルセイユタロットにある程度接していないと、説明してもわかりづらいので、ここ(ブログ)では詳しくはふれません。

ただ、あえて言うとすれば、カモワン氏は霊的視点でタロットを中心に扱い、ホドロフスキー氏は、心理的視点が中心だということです。ですが、ともに現実次元を扱う表現方法がありますし、サイキックなところもあります。

あと、タロットリーディングの技術面でいいますと、ホドロフスキー氏はタロットカードを正立のみで展開し、一方、カモワン氏は、カードの正逆を取る展開法を示します。

本来、タロットカードは、正立のみで見て行くものだったと私は考えますが、逆位置というものを採用する利点があり、何より、見た目が明らかにわかりやすいので、カード解釈がやりやすい側面があるのです。

これが正立だけとなると、いろいろな意味を正立だけの位置から読み取らねばならず、初級者にとっては、困難さが伴うでしょう。

その意味では、ホドロフスキー氏のやり方のほうが、高度なリーディング技術が要求されるものだと言えます。

ところが、正逆という意味では、そうとも言えますが、カモワン氏の、いわゆる動的展開法と名付けられている、カード人物の視線を追った展開法と、正逆の位置を取って、逆位置カードに対して正立のカードを置いていく方法ともなると、枚数的にも、形としても流動的になり、なかなか定型パターンで読解(リーディング)することが難しくなります。

つまり、カモワン氏の提唱している展開とリーディング法自体も、実は高度なものなのです。

まあ、それでも、私自身がカモワン流から入ったこともありますが、やはり、カモワン流のほうが、ホドロフスキー流よりも、とっつきやすい(理解しやすい)のではないかと考えます。

ホドロフスキー氏のタロットは、カード全体の見方としては研究された論理性があるのですが、逆にリーディングとなってきますと、かなり特異的で、直感性のようなもの、サイキック能力も要求される感じがします。

カモワン氏のタロットは、タロットの見方としては、一見、論理的に見えて、案外、スピリチュアル的です。ただ、リーディングについては、システマチックなところもあり、伝えるほうさえしっかりわかっていれば、学びやすい体系とも言えます。

いずれにしても、お二人の作られたマルセイユタロットはすばらしく、今はなかなか入手できなくなっていますが、今後も、皆さんに手に取っていただきたいタロットであることは間違いありませんし、どちらの流儀であっても、リーディングにも、大いなる力を発揮するものだと思います。

次回は、カモワン流の根本絵図ともいえる、大アルカナの並び(通称「タロットマンダラ」とカモワン流では言われる並び)ついて、少し取り上げたいと思います。


選択と可能性

現実の人生は選択の連続とも言えます。

毎日、習慣化されているとはいえ、起きて何をするのか、服を着るのも、何を食べるのかも、選択しているわけです。

ただ、さきほど、習慣化されていると述べたように、些細なルーチン的なことは、ほぼ定型化・パターン化されているので、いちいち選択について考えることはありません。

それのほうがエネルギーも使わず、でもあります。

しかしながら、何でも二面性があり、楽ではあるものの、変わらない選択をしているわけですから、いい意味ならよいのですが、悪い意味で変わらないのは問題となります。

つまり、今の状態がよいのなら、そのままでいいのですが、現状がよくないことを自覚しているのなら、何らかの方法で、選択を(意識的に)変える必要性があるわけです。

さて、選択においてもタロットカードが使えるかというと、結構、活用できます。

むしろ、現実的なタロットの使い方としては、選択の参考にカードを引くということがあげられるくらいです。

タロットには、大アルカナと小アルカナというふたつのパートがありますが、現実生活における選択には、小アルカナを活用すると、より実際とのリンク性が増します。

ただ、大アルカナも一緒に使うことで、選択もしやすいですし(読みやすくなる)、特に、変化を求める選択においては、大アルカナの示唆が有効になります。

ところで、現実の生活における選択のシーンでは、短期的なこと(今決めたいこと)が多いと思います。

ですから、ついタロットカードを展開しても、短期的な目線でカードを読もうとします。

選択に迷い、困っているケースでは、何とか決着をつけ、すっきりさせたいと思っているところがありますので、短期的視点になって、あせる気持ちもわかります。

ですが、ここで少し、選択への視点を長期的なもので考えみることを提案します。

長期的というのは、言い換えれば、可能性の拡大(的視点)ともいえ、マルセイユタロットていえば、「世界」のカードのような観点で、「手品師」を見下ろすみたいなことになります。(これは私のタロット講座を受けている方ならば、ニュアンスがわかるはずです)

例えば、Aという選択肢を選べば、どれほどの可能性が増えるのか、あるいは減るのか、同様にBだとどうなのか?と考えます。

短期的に判断していると、見えてこない事柄が、長期的可能性(あるいは問題性)としてならば浮上してくるはずです。

マルセイユタロットでは、拡大や可能性を示唆する細かな象徴が隠されていますので、そういうものが出ている選択肢を選ぶというのも、特に現状変化を望む場合は有効かと思います。

単に可能性といっても、偶然や自然に起こるものを想像するだけではなく、同じ音としての「創造」も意図するとよく、その選択肢を選ぶことで、何がどのように創造できるのか、創造の可能性をイメージ(想像)できることが、選ぶ基準のひとつにもなってくるでしょう。

特にお金を使っての選択(何かの購入、申し込みなど)は悩むこともよくあると思いますが、その選ぶものへ投じた金額と同等か、それ以上のリターンを想像と創造できるかによって、決まって来るところもあるでしょう。

その選択をすることで失うお金のイメージが、回復の望みも、方法もわからない・・・お金を失って気分が暗くなるだけの想像がある場合は避けたほうが無難です。

また、気持ちの不安が高いのに、それを無視して、「何とかなる!」と、無理矢理強引にお金を使う選択をするのも問題です。どちらにおいても、創造の想像ができていないからです。

※ワクワクするという気分だけのものではなく、どのように投資したお金の価値が回帰してくるか、人生の楽しみと幅が、一時的ではなく、中長期的に広がるかというイメージが想像できるかということです。ワクワクだけならば、一時的な快楽的満足、あるいは中毒症状継続の選択になってしまっていることもあるのです。

超長期的(一生を超えるような目線)で見れば、選択に間違いというものはなく、ただ選んだ経験をするのみ、ということなので、そのような考えも持っておくと、後悔というのも少なくなると思います。

さらに言えば、最近ではよく言われるように、自分の意思などなく、本当はすべて最初から決まっているという説もありますので、選択に迷うこと自体、プロセス(演出)でしかなく、悩んでも仕方ない(選択に悩むのはよくても、あとて選択したことを後悔して悩むことは必要ないということ←それさえも決まっていたことかもしれませんが)わけです。

※とはいえ、人間的・実際的・短期的・空間的には有効性、効率性、正解性というのはあり得ると考えますが。

そして、ここが実は本当に言いたかったことなのですが、現実での選択という行為そのものが、私たちが霊的な解放を目指すのか、牢獄のままで意識を眠らせておくのかの、まさに「選択」となっているのです。(詳しくはここでは述べませんが、マルセイユタロットの「恋人」カードにヒントがあります)

ですから、タロットを使うにしても、「どちらを選べばいいか?」の質問と活用をメインにしていると、マルセイユタロット的には、「運命の輪」に囚われ続けることになるのです。


「じしん」と神の家

日本語は面白いもので、「自身」と「自信」は同じ音になりますよね。

さらには、「地震」もそうですね。なんだか、自分に揺らぐ感じがあるのは、自らが信じられない、すなわち自信がないという、うまい具合に言葉のだじゃれ感も出てきます。

ほかにも「磁針」とか「時針」など変換で出てきますが、これなども、中心に磁力のような何かひきつけるもの、安定するものがないと自信につながらない気もしますし、時の針の示され方で、いちいち(その時々で)フラフラしていては、これまた自分の安定感がなくなる感じもしますので、一層、言葉遊び感が増します。(笑)

じしん」という言葉で遊んでみましたが、「じしん」と言いますと、マルセイユタロットのイメージとして、「神の家」が浮かんできます。

マルセイユタロットの「神の家」は、実は解釈が難しいカードのひとつと言えます。

一見、絵柄的には建物が崩れているかのようで、どこも崩れておらず、それどころか頑強な塔がきちんと建っているイメージが、よく見るとうかがえます。

私たち、マルセイユタロットを使う者は、このカードを崩壊とは取らず、むしろその逆で、完成に近い構築、積み上げという意味をメインで取ります。

「神の家」というからには、神と関係するのですが、人が建物を建てて、そこに神様に住んでもらうというような概念ではなく、自らが神となり、そして家(この家も普通言われる意味での家ではありませんが)となるという、自分の神性なるものへの変容、簡単にいえば神化(これも言葉遊びですが、進化がすなわち神化するようなもの)の状態を示していると考えられます。

もっと現実的でシンプルに言えば、さきほどから述べている「自信」の確信という意味にとってみてもよいと思います。

ただ、一口に「自信」と言っても、実は「自信」にも種類と性質があり、この神の家で構築する自信は、単なる一般的に言われる(獲得する)自信とは性質が異なるでしょう。

人が何かを得たり、他人と比べたりして持つ自信とは違い、もともとある自信というもので、それは自らの中に神性(完全性)、あるいは大いなる平和、天国があるという観念のようなものだと私は考えています。

それは誰しもが最初から持っているものなのですが、現実世界に生き、肉体と精神が癒着しつつ、一方では分離した状態にある時、本質の神性的なものは忘却され、体や心、周囲の環境、状況による反応によって、恐れ、不安、苦しみ、あるい反対の喜び、幸福感、高揚感のようなものも人は自分に巡らせることになります。

マルセイユタロットにある「運命の輪」の輪にいるに二匹の動物状態とも言えます。

しかし、そういうものとは別の、何ものにも動じず、汚れず、染まらず、輝きを放ち続けている天上的ともいえる「」が人にはあり、それが神性を持っているといってもよいでしょう。

ライトスピリチュアル的には、それとつながる平穏状態と表現できるかもしれませんが、結局、そのようなコアなものに自分の中心がシフトする時、まさに自分が神となって、当然のような自信が出るということだと思います。

「自身」が「自神」となって、本当の「自信」を思い出すといようなニュアンスです。ここでも言葉遊びが有効ですね。

そして、もともとは「神」のような魂を持つ我々人ではあっても、現実世界で生きていくことにより、忘却の幻想世界に閉じ込められ、(あるいはゲームし)、現実での様々な体験・経験・気づきを積み重ねていくことで、まるで、ひとつひとつ石やレンガを積み上げていくかのようにして、自身の神を見出していく(思い出していく)ことになるのです。

学びながら思い出していくようなイメージでしょうか。

または、マルセイユタロットの「手品師」のように、タネ(仕掛け)ある手品であっても、それを味わい、楽しみ、苦しむ世界を経験しながら、本質(偽物から脱却する世界)に目覚めていくという二重ゲームのようなものとも言い換えられます。

その経験、すなわち石積みの過程が、「神の家」の建物(塔)に描かれています。

そうなると、結果というより、積み上げていく作業そのものが重要であり、プロセスと結果の両方が神性開花には必要であることがわかります。

現実の実際世界では、完璧になることなど、誰しもあり得ません。必ず、何か悩みや苦しみもありますし、何らかの喜びや楽しさもあるでしょう。

人生が思い通りに、うまく行っている人もいるかもしれませんが、大半の人はそうでもないはずです。

宇宙人的な比喩で言いますと、この地球に慣れ、うまく暮らしていくことは案外難しい(簡単な人もいるでしょうが)もので、どこかの星ではまあまあバランスが取れていた人でも、この地球・地上世界では、アンバランスになってしまうことも多々あります。

(住む世界のルールが違えば、あるところでは完璧でも、別の場所ではマイナスになる場合もあります)

よって、うまく行かないことで、自分を責めなくてもよいかもしれないのです。あなたの能力やバランス性が、この地球の地上性、現実世界では、歪となってしまうこともあるからです。

ですが、この星(地上)に来ている人は、神性を帯びていると、グノーシス思想では言います。

難しくても、「神の家」の構築、その本質を思い出すようにしていくと、安寧は少しずつやってくるように思いますし、ここ(地上、地球)に来た何らかの意味や(意味付けでもあります)、思いを持つこともできるでしょう。

ワンダーランドでありつつ、牢獄でもあるこの星の世界を、いかにあなたらしく生きるか、過ごすか、「神の家」に限らず、ほかのマルセイユタロットのカードたちが示しているように思います。

あなたはどのカードになることもできますし、どのカードの生き方を選ぶこともできるのです。


タロットと人、意識、方向性

タロットへのアプローチ、方向性、ベクトルと言ってもいいかもしれませんが、それは、大きく分けて二つあります。

ひとつは、読み手(タロットを読む人、タロットリーダー)側からタロット側への方向、もうひとつは、タロット側から読み手側への方向です。

何かと何かの関係(性)がある時、それは必ず一方向ではなく、双方向的なものであることは、タロットをしていて気づきました。

それは、第三者的な目線から見れば、至極当たり前のことなのですが、ふたつ、あるいは二人の当事者同士の関係性では、意外に意識しないものです。

一般的に、タロットから何か示唆を得たいと思う時、質問をしてタロットを引き、その出たタロットと質問を関連付けようとします。

しかし、タロットから読み手側への方向もあるとすれば、それは、タロットを引こうとした人が引いたのではなく、タロット側が引かせてあげた、出してあげたというものにもなります。

自分が主体となってタロットから何かを得ようとしたのかタロット側が見せたいから(自分と遊んでもらいたい、使ってもらいたいと思って(笑))出したのかという見方の違いです。

タロット側が主体だと、一種の演出と言ってもいいくらい、ゲーム色が濃くなります。

もしかすると、タロットを主体として見た場合、人の質問の内容には関係なく、ただそのカードを、今のタイミングでタロット側が見せたかっただけかもしれません。

ただ、タロットと読み手側との間にラポール(関係性、親密性)がついていれば、タロット側もランダムに、あるいはタロットが見せたいカードをただ示すというより、相手(この場合は人のほうになります)の質問に対応したカードを見せてやろう、引かせてやろうという思惑になることもあるでしょう。

どちらも主体であると考えた時、やはり、タロットとの関係性・ラポールは結構重要ではないかと考えます。

さて、そうしたどちらも主体とした、双方向的なタロットとの関係性がある一方、私は新たに、その中間のような関係性もあるのではないかと思っています。

それはまた、後日、紹介することもあるでしょうが、ここで少しふれますと、タロットと人との間に現れる、中間的な感覚・エネルギーとでも言いましょうか。

言い換えれば、人の質問に答えるカードでもなく、タロットが見せたいと思うカードでもなく、その中間的な存在としてのカードの出方(出し方)があるというものです。

まあ、タロットに限らず、私たちは普段、自分という主体意識、自我意識を持って、それが当たり前になっていて気づきませんが、ふと視点をずらせば(主体を変えると)、多様な関係性とレベルによって、世界が成り立っていることに気づきます。

ある意味、様々な存在とレベルによる共同(協同)作業によっているわけです。

従って、自分の意識のズレというものは、新たな(異質な)世界への、文字通り移行であり、旅立ちということにもなるわけで、それが「愚者」の表すエネルギーと言ってもよいでしょう。

ただし、きちんとしたコントロールをしていないと、それこそ統合失調症のような状態にもなりかねませんので、簡単に考え過ぎるのも危険です。サイキック世界との境目に意識をずらしてしまえば、いわゆる憑依というもので、自分の主体性が失われます。

ですが、一方で、何かに行き詰まりや閉塞感をを覚えていたり、同様の問題が続いていたりする時は、意識・主体をずらすという行いは、いい意味でのブレイク、よいアイデアを得るきっかけにもなります。

タロットはそれを推進させる機能もあると考えられるのです。


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