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「終わらさないこと」におけるよい面。
今回の記事は、この前の記事(中途半端や不透明さに関するもの)に少し似た感じですが、内容は違います。
私たちは物事を終わらすこと、完結させることで気持ちもすっきりします。
逆に言えば、終えていないものは心残りとなるわけです。
典型的なものに恋愛や仕事での未達成感というものがあります。
恋愛だとまだ元カレとか元カノを想っていたり、片想いで続いているとかの状態で、仕事だとプロジェクトが中途で終わったとか、急に転勤になったとか、辞めざるを得なくなったとかいう「やりきれてない感」が残存しているような心持ちです。
マルセイユタロットだと「13」をメインに出現する場合が結構あるパターンです。
となると、「終えていないこと」「完結していないこと」は人にとってまずいのではないかということになりますが、ある意味ではそうでもあり、また別の観点ではそうでもないと言えます。
それは「心残り」状態をどうとらえるのかによって、解釈が異なってくるからです。
心残りが自分にネガティブな状況をもたらせているのならば、それは解決しなければならない問題です。
しかし反対に、心残りがあるから前向きになれたり、いい状態を保てたりすることもあり、そうならば別に無理に終わらす必要はありません。
そんなことがあるのだろうか?と思う人もいるでしょう。でもあるのです。
例えば・・
好きな本をあえて読みかけにしておく。趣味や学習をずっと続けていく。行きたいと思っている場所にあえて行かないようにしておく。食べたいものをずっと残しておく。ある人を好きなままで想い続ける・・・などです。
「なんだ、そんなことですか」と笑うかもしれません。
けれども、これは意外に高い効果を持つのです。何の効果といえば、モチベーションや情熱の持続にです。
かつて言われた5月病なども、目標を遮二無二達成してしまったから燃え尽きて、次に向かう気力がなえてしまった状態です。
あえて未完成・未達成にすることで、私たちはまだ未知の部分について好奇心を抱き続けることができます。
「すべてわかった」とか「知ってしまった」などの気持ちになると、私たち人間は、その対象に興味を失うような仕組みになっているのです。
ですからあえてまだ楽しみや未知なる部分を残しておくことで、興味を持続させることが逆にできると考えられるのです。
結婚したり同棲したりすると、あれほど熱々だった二人がすぐ冷めてしまった・・・というのもいろいろな原因があるのですが、そのもっともな理由には、やはり相手をわかりすぎた、知りすぎたということがあるのです。
なかなか会えない者同士の恋が燃え上がると言われるのには、そうしたことも要因としてあるでしょう。
これは男女のペアにおいて例えていますが、同性の友人同士、また人とモノ、人と事柄についての「間の」情熱感にも言えることなのです。この辺りは、マルセイユタロットの「恋人」カードを知るとさらに深く考察できるでしょう。
一方で、終わらせながら興味や関心・好奇心を持ち続ける方法もあります。
それは、まず、
とてつもない高い目標を抱き、そこから逆算して段階やステップとして、その目標までの道程を細かくわけるということです。
そして、細かく分けられた目標段階を終わらすこと、完結することを目指します。こうするとスモールステップといえど、達成された気持ちは味わえます。
けれども、まだ大目標のためには先がありますので、それを思うと「まだまだ楽しみがある」ということになり、興味は失われません。
ここで大切なのは、大目標・究極の目標というものが、自分にとって本当に心から望むことであるということです。
またあまりに現実的で俗ぽいものにしてしまうと、達成された喜びの次元が低くなり、途中で飽きてしまいます。
ですから非常に崇高で、しかも自分にとって楽しい(正確には歓喜で善的な)目標であることが望ましいのです。
もうひとつの方法は、あることを達成する時、それは「何かの中間段階ではないか」と思い直すというやり方です。「考え方」と言ってもいいでしょう。
その場合、達成してからでは遅い場合もありますので、できれば、目標を完成させている途中で、「もっと上の目標はないだろうか」とか、「自分のやっていることの本当の意味は何だろうか」とか、「達成したらほかに何を得ることができるのだろうか」とか、考察しながら進めていくことです。
これは局所的な視点ではなく、「人生」という総合的で全体的・俯瞰的視野を持つことが大切です。
「自分の人生からすれば、この目標の達成はどんな意味があるのだろうか」とか、「自分が亡くなる時、このことはどう自分で評価できるのだろうか」という具合に考えてみるのです。
また、仕事の目標はあくまで仕事ベースでとか、家庭の目標は家庭での問題とかというように、目標達成をその特定フィールドだけで見るのではなく、ほかのフィールドと有機的に結びつけて考えるのも、モチベーション維持には効果的です。
簡単な結び付け方の例でいえば、「仕事が成功すれば経済的にも豊かになるので、家族ももっとよい暮らしができる」というようなものです。
最初はこのように考えやすいリンク付けでよいですが、次第に高度で深い関連付けをしていくことも可能になってきます。
そうすると、今やろうとしていることが、ものすごい別の意味になっていることに気付くこともあり、マルセイユタロットでは「神の家」のような衝撃を受けることがあるのです。
その時、あなたはまさに「神」を自分に見たり知ったりすることになるでしょう。(だからこそ「神の家」という名前にもなっています)
いずれにしても、「終わらさない」ことでも、見方を変えれば、よいことはあるのです。
中途半端、不透明さ状態の意味を見る。
何事もきっちりと行うこと、完了すること、はっきりさせること・・というものが世間で正しい道のように言われます。
もちろんそういうこともあるでしょうし、中途半端や不透明なままでは問題の場合があるのも事実です。
けれども、すべてがそうでならなくてはならないということではありません。
考えてもみてください。すべては白黒と明瞭に分かれていることばかりでしょうか?
いえ、むしろ仕事も恋も、天気も景気も、そして人生さえも、いろいろなものが混ざり合った状態というのが真実に近いのではないでしょうか?
「いろいろ」と表現したように、このことは「色」で考えてみるとわかりやすいです。
両極を白と黒にして、その間をグラデーションのように、少しずつ片方の極の色に変えていくよう変化させます。そのような横棒グラフをイメージしてもいいでしょう。
そうすると、間の色は、その微妙さ加減によって膨大な数の「色」が現れることがわかるでしょう。
たとえ一瞬に白から黒に変化したように見えても、実はその間には別の色があり、それを通って変わったのです。
そのスピードの違いか、色の段階の数の違いによって変化の進行も変わります。
間の色を多く設定すれば、それだけ隣に移る距離は短くなり、つまりは楽に移行できるということになります。
反対に間の色の数を少なくすれば、一見移行は速くなるように思えますが、距離が増えるので(ひとつひとつの色の枠組が大きくなる)、その分遠く難しくなります。
ですが、進むスピードさえ上がれば一足飛びのような感じで、隣の色へと移ることができます。いわば極端な変化です。
ここからわかるのは、安全な変化とはステップを細かくわけたものであり、急激な変化はその逆の、高い目標・遠い目標にスピードを上げてチャレンジするということになります。
そして、大切なのは、移行中はどの場所にあってもまだ完全な極の色にはなっておらず、どちらかの色を何%か含むということなのです。
見方を変えればそれは中途半端であり、不透明です。
また反対の要素を割合の違いとはいえ持っているのですから、途中段階では反発することもあれば、理解することも可能だということになります。(どちらかに完全に決まっているのではないので、戻ることも行くことも可能な、柔軟性の状態だとも言えます)
マルセイユタロットで「悪魔」や「月」、「隠者」等が出れば、この移行中での混じり合った段階として、完全ではない状態を意識的に選択する、もくしは許す(移行中であることを理解する)ことを示唆している場合があります。
どんな状況でも、一瞬で切り替わるということはなく、その一瞬の中にもさらに細かく分析すれば、爆発していたり、離脱しようとしていたり、外部から何かが当たっていたり・・と必ず何かの変化・変容過程を経ているはずなのです。
「一瞬の変化」というものは、あまりにも速すぎて、私たちにはそれがわからないだけです。
高次になればなるほど、周波数・波動・振動数と呼ぶべきものは上がります。
すると、物事の変化のスピードも上がり、それより低次のものではとらえられない変化に見えます。
その開きが大きいと、低次からすれば「一瞬」に感じるということもありうるでしょう。
少年漫画で「ジョジョの奇妙な冒険」という作品がありますが、その特殊能力者に時間を操作する能力というものが設定されていました。能力者によって時間が止められるのです。
おそらく厳密にいえば時間を止めるのではなく、通常の人間の時間感覚を超えた超越スピード(漫画では「そんなもの(超スピードとか)ではない!」と叫ばれていますが(^_^;))だと考えることができます。つまり時間感覚の次元変化です。
超スピードで動く者の行動は、もっと遅い時間感覚で動く者には「奇跡」としか思えない動きだということになります。
神(高次存在)は通常の次元を超えたスピードの周波数だとすれば、「奇跡」の理由も何となくわかってきます。
私たちも自分が成長し、少しでも高次になって行けば、それだけ時間感覚も変わって行きます。
また、自分が何かの目的達成・完成に向けての中途段階であることを意識しても、それを楽しむことができるのです。
それは自分の次元上がったためにスピード化して、不透明な状態が長くは続かないことがわかるようになるためです。
電車での移動に例えれば、到着駅までの道のりが、普通電車では時間も長く、人もいちいち乗り降りが激しくて不安やイライラすることがあっても、特急や新幹線ではスピードも速く席もゆったりしているので、優雅に楽しんで速く駅まで着くことができるという感じです。
一人の時間、非日常の時空を持つ。
世の中には、「パートナーを作るにはどうすればいいか」とか、「人脈を広げるにはこうしなさい」みたいな、人付き合いの獲得路線のようなものがよく言われます。
しかし反対に、「孤独になるにはどうすればいいか?」とか、「一人身のススメ」みたいなものはあまり見かけませんよね。
まあ、最近はシンプルな生活も推奨されているところですし、一人でもいろいろと不便なく生きていける時代ですから、あえてそうしたことを言わなくてもいいのかもしれません。
そこで、この流れからして、「人とは無縁に、孤独に過ごしましょう」ということを言いたいのではありません。(笑)
ずっと孤独でいるのではなく、「一人になる時間や空間を持つ工夫をしてみましょう」ということです。
私たちは本当に、「いつも通りに進む」ということを無意識に望み、やってしまいます。
そのほうがエネルギーをあまり使わずに済むからであり、一言でいえば楽だからです。
また特に問題もないと思っている状態で、あえて変化をもたらせようという人も少ないでしょう。
従って、そのままいつもの通りの日々を過ごしていくことになります。
ところが、私たちはかなり外部からの刺激を毎日受け続けています。いわゆる広告や宣伝も含めて、ありとあらゆる情報のシャワーに打たれているようなものです。
意識的には自分はこれらを取り入れていないと思ってはいても、無意識の中では取り込んでいることもあります。
サブリミナルではありませんが、意識はしていなくても自分に影響を及ぼしているものもあるのです。
ですから、ここで情報を遮断した時空(時間と空間)を持つためにも、非日常的な「とき」が必要とされます。
同じパターンで自動的に、まるでロボットのように動いている自分を、あえて特別な時間にさらす(ひたる)ことで、自己に創造的な変化や、新たなパターンを作り出すことも可能になってきます。
その過程では、一見問題のないように見えた日常生活が、すでに洗脳のような形で自分が動かされていることに気付き、愕然とする場合もあります。
洗脳とは大げさかもしれませんが、身近なレベルでいえば、親や上司、先生、友人、パートナーなど、誰かの(期待する、支配する)人生を自分は歩まされていた・・というものです。
ところで、非日常的時空を創造するのに、何も必ず瞑想などをしなくてはならないというわけではありません。
とにかく慣れている状態、パターン、通常の過ごし方とは違うことをするとよいのです。ただ、できれば静かに自分のことが考えられる「とき」と「場所」を持つとよいでしょう。
それから、実はこのことが一番述べたい事柄になるのですが、こうしたいつもと違う、静かに沈思できる時空を持とうとすること自体が非常に大切なのです。
「静」になるには「動」が必要というわけであり、また「静」によって新たな「動」が生まれると言ってもよいでしょう。
マルセイユタロットでも「隠者」と「運命の輪」、「吊るし」と「13」、「手品師」と「斎王」など、その対比は数によって隣り合うカード同士で象徴されています。
自分はとてもそんな時間や空間など作ることができないと思っている人は、そう考えている時点で、ある次元に囚われていると言えます。それ(そのような思考)こそが「日常」なのです。
「そんなこと無理・・」というあなたは、すでに創意工夫の意志を捨てています。それでは創造的な自分と生活を見つけることは難しいのです。
さて、非日常的時空(を持つ)ことで、もうひとつ重要なことがあります。
それは自分の中で神聖なものを意識するということです。
単純に言えば、神や天使・仏や菩薩などの存在を想像しておく(非日常時に)ということになります。
別に神聖な気持ちになれるのならば、「神仏」でなくてもよいのですが、そのほうがイメージしやすく、意識も変わりやすいということがあります。
深くには、そういった高次のエネルギー・質・表現によって、自分の俗なる部分を浄化する、あるい俗から聖に引き上げてもらうという感じになります。
日本の伝統的な村々の祭りにも、こうした日常から非日常へ、神聖なものの力を借りて自分(居住地域も含む)を高めたり、浄化したりする意味合いがありました。
今は日常と非日常が混沌としている時代ですので、むしろこういう時こそ、自分の生活サイクルに短期的にも長期的にもメリハリをつけることが大事になってくるのです。
陰陽・聖俗の循環ともいえる意識的な切り替えのリズムが、自分のエネルギーのバランスを保つのにも有効なのです。
マルセイユタロット講座で習うもの
2月に入りましたね。
2月は旧暦的には新年が始まる月なので、むしろこのほうが「新春」という季節感を伴うのではないかと思います。
ところで私のタロット講座は、春と秋をメインに開講しています。(※グループや個人は随時)
ということで、もう少ししましたら春がやってきますので、その講座の話をしてみたいと思います。
まず私の講座は何が特色かといえば、タロットを使う目的が一般とは異なるところでしょうか。
タロットと聞けばたいていは「占い」をイメージしますし、「占いがタロットでできることを学ぶ」という講座が多いと思います。
こうした中で私の講座は、タロットを自己活用することに主目的を置いています。その学習のプロセスとして、「占い」もできなくはないことになります。
言ってみれば「占いがタロットでできること」ではなくて、「タロットが占いもできること」と、逆に言葉を入れ替えるようなことになるのです。
前者と後者の違いは実はとても大きいです。
前者は極端なことを言えば、占いの技術を学ぶ(すばらしい占いができるようになる)という点では、道具はタロットでなくてもよいのです。
ただタロットでの占いのほうが受けがいいし、自分も楽しいという人はタロットで占いを学ぶとよいと思います。
後者は、占いはタロット活用のごく一部と考えます。
占いが目的や最終ゴールではありませんので、逆にいえば講座が終わると占い技術、リーディング技術が格段に身に付くというわけではないこともあります。
では目的は何なのかといえば、すごく簡単に言いますと、
「今より幸せになる見方を獲得する」
ということです。
で、この「幸せ」というものが曲者なのです。
だって、皆さん、自分の「幸せ」と人の「幸せ」は同じだと思いますか?
もちろん同じ部分もあるでしょうが、厳密に言うとそうとは言えないでしょう。
お金にしても、ある人は年間収入200万円で満足という人いれば、一億円でも足りないという方もいらっしゃるでしょう。
精神的なことでも、まったく不安のない時が続くというのが幸せという人もいれば、愛のある生活が少しでもあればいいという人もおられるかもしれません。
どんな状態がその人の幸せでよい気持ちなのかは、まさに千差万別です。
ということは、一人一人の個別の幸せ(の追求)なんてつきあっていられない(笑)ということでもあります。
(逆にいえば、個人相談はその追求になります)
では万人に共通の幸せ観というものはあるのでしょうか?
それは先述したよにうに、個別に完全に対応したものはないと言えばないのですが、私は普遍的にはあると言えばあると考えています。
いや、正確に言いますと、「ある」というより、「その過程が存在する」と言ったほうがいいかもしれません。
なにやら禅問答的なおかしな話にはなってきましたね。
皆が皆、幸せだと思う考え方というものはないのかもしれませんが、それを追求していくための道程そのものが、気がつけば「幸せ」という見方の幅を広げることになっていると説明すればわかるでしょうか。
それは一言で言えば、「知見の象徴的拡大」ということになります。
えらく難しい言い方をしているようですが、要はモノの見方を広げてみようということです。
ただし、モノの見方の拡大方法は今のこれだけの情報社会、それこそいろいろとあるわけです。
それで私の場合は、ここで「マルセイユタロット」を使ってみようということなのです。
なぜ「マルセイユタロット」なのかといえば、古代からの連綿とした積み重ねと体系があり、その構造・システムが宇宙のそれと対応していると考えられるからです。
現代のものも大変優れてはいますが、大と小、全体と個別、大宇宙と小宇宙、神と人間、自然と人工、あの世とこの世、目に見えない世界と目に見える世界などの対応を、根本的に同じシンプルなシステム(あるいは逆に複雑多層)として象徴的に解析することができるのは、古代の洗練された象徴知識体系がふさわしいと言えるためです。
「象徴(シンボル)」ということでは別に何の道具でも形でも使えますが、このように、あらゆる世界を表すことのできる整理された体系的な象徴ツールは、あまりないのです。
マルセイユタロットの象徴世界を理解していくとき、私たちは自分の見ていた世界を一度壊し、秩序ある本当の宇宙構造に組み直すようになっていきます。
途中であきらめる人もいますが、続けてやっていくと、必ずあなたの認識していた世界は変わって行きます。
世界が変わるということは、つまりは現実も変わる事になるのです。
それが「多彩な幸せ観の獲得」ということにもつながっていきます。
いわば、今まで隠れていた幸せの見方・感じ方を発見していく作業がマルセイユタロットを学ぶということなのです。
この目的のために、タロット占いやタロットリーディングは、あくまでその過程や一方法に過ぎません。(しかし有効な方法でもあります)
ですから、基礎講座においては、まずは考え方や象徴の把握ということが重要となってきますので、リーディングや占いがすぐにできることを望まれる方にはふさわしくない面もあります。
講座自体、一見普通の講座形式のように見えて、実は長大なワークショップを行っているのです。
ただ、占い(吉凶・運の良し悪しなどを見るもの)ではないタロットリーディングは、とてもモノの見方を拡大させますので、せっかくタロットを使う以上、タロットリーディングもよくできるようになりたいですよね。
そのため、前にも書きましたが、今春からはリーディング技術に特化した楽しい(笑)体験的な講座も行う予定です。
あ、それと、タロット講座修了者には修了者用のメルマガや動画講座(基本的に無料)なども用意されています。
また私は特に受講生との人間的おつきあいも重視していますので(要らない人はもちろん必要以上には関わりません)、修了後でも個人的なご相談はできるだけ乗るようにしています。
「なんかよーわからん」とか、「ちょっと様子見したいわ」とか、「料金的にリーズナプルなところから・・・」とおっしゃる方は、京都新聞文化センター
、よみうり神戸文化センター
でも入門的なマルセイユタロット講座をしていおりますので、そちらをご検討ください。
いつか皆さんと講座でお会いできることを楽しみにしております。
なじみのものを持つ意味。
外国に行ってしばらくして、日本のものに接する機会があると、とてもほっとすると思います。
外国ではなくても、慣れない土地に行った場合にも、やはり自分がなじんでいる土地のもの、人の言葉などに遭遇すると癒されます。
このように当たり前ですが、自分が長く過ごした場所、長く扱ったモノ、長く接してきた人には誰でも「慣れ」が生じていますので、未知の不安におびえたり、何が出るかと身構える必要もなく、安心することができます。
それが時には愛着にもなって、「いとおしさ」「懐かしさ」という感情も呼び起こします。
ということは、癒されるのには単純に、「自分がなじんで(なじんでいた)いるものに接する時間を持つ」とよいのです。
力強さや積極さ、変わること、結果や成功ばかり求められる昨今の風潮ではありますが、時には羽を休め、休息し、自分を充電させる時は必要です。
マルセイユタロットでいえば「吊るし」の期間ともいえるでしょうし、向かって左方向を向いている人物の大アルカナカードで女性と見えるものは、その傾向が強いと言えるでしょう。
余談ですが、この視点に立つと、面白いのはいろいろな視線と複数の人物が存在する「恋人」カードなのですが、それはまた講座でお伝えいたします。
それはさておき、なじみのものがあるということは自分を取り戻すにもよいのです。
人間は人間をもって癒されるのが一番なのですが、なかなか人物だと実際に会えないこともあります。
幸い今は、技術の発達により、遠方にいても画像や映像を見てバーチャルに会話したり、少なくとも声を聞くことはほぼどこでも可能にはなりましたが、それでもSFのごとく、テレポーテーション的にすぐに実対面できるというまでには至っていません。(笑)
ということで、便利なのはモノです。それも携帯することがが可能なサイズがよいです。
つまりはとても自分がなじんでいるもの、長年使用しているものなどを選んで持って行くとよいということです。
実は単になじんでいるからという理由だけではなく、目に見えない自分のエネルギーのようなものが蓄積されていることがあるので、それを持つと安らいだり、本来の自分に戻れたりするのです。
いわば、ゆったりしている自分を記憶している電池のような装置とでも言いましょうか。
ということは、霊的なツールだとかなり効果が高いということになります。
ここでタロットが登場するわけです。
タロットリーダーやタロットになじんでいる人は、自分のタロットにふれるだけでエネルギーが変わります。
そしてタロットは安らいだり、落ち着いたりするだけではなく、鋭敏な感性やインスピレーションが働きやすい状況にも自分を整えてくれることがあります。
「ことがあります」とあえて書いたのは、毎度毎度そのようになるわけではないからです。
それにはきちんとしたステップと条件が必要です。
とはいえ、タロットを一応学習して使っている人には、自分をセッティングする効果は働きやすいです。
タロットを単なるトランプのようなもの、占いの道具だと思っていては、なかなか本当に活用することができませんし、タロット自身、心を開きません。
いえ、占いで使えば占いの心は開きます。
ですが別の入り口や世界もタロットは持っていて、その鍵は、やはりそういう使い方を志すことから開示されるようになっているのです。
これは象徴的に述べているので、タロットに心があるとかないとかを言っているのではありません。
とにかく、簡単にいえば、タロットになじんでいないと、タロットを持っていても特別な反応に自分の心はならないということです。
これはタロットに限らず、当然のことですよね。
何の思い入れもなく、接する時間もかけていないものが、自分にとって特別になるわけがありません。
ここまで書くと、今回の記事の複数の意図が少しわかった方もいるかもしれませんね。
ヒントを言えば、一般の人向けと、タロットを学習したり、興味を持っている人向け、両方にそれぞれ別のメッセージを添えているのです。