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タロットリーディング実践練習会 京都

タロット講座を修了された方、もしくは今受講中の方に対してお知らせです。


来る6/15(金)、京都にてタロットリーディングの実践練習会を行います。3月に神戸で行いましたが、今回は京都です。


タロットを勉強したけれど、最近タロットやっていないなぁとか、リーディングする相手が見つからない、実践的にリーディングをしてみたいという方にもよい機会だと思います。


参加資格は私・宮岡のマルセイユタロット講座を受けた方、あるいは受講中の方ならば誰でもOKです。(カルチャーセンターの講座も含む) 


習った(学習中の)レベルで結構ですのでお気軽にお考えください。


終了後は希望者でタロット談義など、皆さんとお話できればとも思っています。どうぞふるってご参加くださいませ。


なお、発展コースでのクライアント役も募集いたしております ので、特に神戸方面の方はこちらのほうもよろしくです。



★タロットリーディング実践練習会★


●日時    6/15(金) 13:00-16:30


●場所    ウィングス京都 (四条駅徒歩5分) 

       詳細はお申込みされた方にお知らせいたします


●参加費  無料 (ただし会場費と講師交通費を参加者で折半)


●お申込み こちらまでメールにて

 宮岡の名刺をお持ちの方は私の携帯アドレスに送付されても結構です。


人の言葉を素直に聞けますか?

人間とは不思議なもので、ある人の言葉は素直に聞けるのに、ある人のものはなぜか抵抗が出てしまうという場合があります。


この理由は様々ですが、そのいくつかを書いてみたいと思います。


まず、単純にその人との関係がどうかということが挙げられるでしょう。


すなわち、友人や親しい人であればあるほど、どんな内容でも比較的あなたは耳を傾けることができるはずです。


これはいわば親密性がもともとその人と自分にはついているので、最初から心がオープンになっている状態だからです。


反対に仲の悪い人、日頃から好ましく思っていない人には対しては、たとえその人が結構いいことを言っているように思えても、あなたの色メガネ(笑)がそれをねじ曲げ、「あんな人が言っているのだから、何か裏があるに違いない」とか「えらそーなこと言っても、あんたはどうなのよ」という感じで、素直に聞くことができません。


それからほとんど関係のない人、普段意識することもない人の場合は、むしろフラット・公平にその人の話を聞くことができるでしょう。あなたには何の損得・好き嫌い感情がその人に対してはないからです。


これを逆に見てみれば、あなたと何らかの関係がついた人は、なかなかフラットにその人の言うことを聞くのが難しいとなります。多かれ少なかれ、どちらかに感情が傾くからです。


またその人のことを好ましく思っていれば、素直に好意的に聞けるかといえばそうでもなく、むしろ好き・嫌いの感情がどちらにせよ多量にある場合は、あることがきっかけで、一気に天秤の傾きが逆に変化することもあります。


たとえば自分が崇拝していた人が、ある日思っていたことと違った行動や態度を示した(と感じた)時、天秤はガタンと逆方向に傾きを変え、一番の批判の対象者になるというような感じです。


結局のところ、自分が正しいと思っていること、よいと感じていることを基準にして、誰の言葉であれ、自分で判定して「素直に」なったり、「聞く耳を持たなく」なったりするのだと想像されます。


ですから自分の「正義」や「よし」としている基準は何なのかということを知ることは大事で、それによって今までよりもフラットに人の言葉を聞くことができるようになります。


それから、これもよくあるのですが、その人が愛情をもって話しているかどうかも大きなポイントです。


本当は「」と言ったほうがいいのですが、実際にはそこまでは難しく大げさになるので、あえて「愛情」としておきます。


たとえば師匠と弟子の関係において、師匠が弟子の成長を願い、根本的に愛情をもっての言葉であるならば、たとえ厳しい叱咤であっても、おそらくその弟子は師匠の言葉を受け入れることができるでしょう。(弟子のレベルによっては表面的な言葉しかわからず、奥の愛情に気付くことができないこともありますが)


別に何かを教え教えられる間柄でなくても、普通に人と人との間でも、愛情のない特にキツイ言葉は、受け取ったほうはかなりの確率で傷つくことになります。


もしあなたが人から受けた言葉でひどく傷ついた場合は、言い方もあるとは思いますが、その言った人があなたに対して愛情がなかった(いつもはあってもその時は薄かったということもあります)と考えてよいかもしれません。


親しい間柄であっても、怒りに身を任せたり、悲しみのあまりだったり、相手のことに愛情を向ける余裕のない時は、やはり相手を傷つける言葉になりがちです。


愛情があれば、たとえその時には気がつかなかったとしても、将来「ああ、あの人は真に私のことを思ってあの時は言ってくれていたのだ」と悟ることができます。


人は平穏無事でいつも過ごし、傷つきたくないと思って生きています。何か不快なことや問題であると感じた時は、快適な状態や元の状況に戻そうという機能も働きます。


つまりは問題状況をよしとできない生理的なものがあるのです。だからこそ傷つき、悩むとも言えます。


しかしその、何とかしようと思う気持ちと努力が、これまでの自分よりも拡大や成長することにもつながります。自然にそうなるよう仕組みまれていると言えます。


ですから人には感じる「感情」とそれを整理する「知性」とが備わっているのです。神(大いなるもの)の配置に感謝です。


縁によって左右される現実

というものものはよく考えると不思議なものです。


そして、あまり意識したことはないかもしれませんが、この「縁」によって生ずる事柄が私たちの人生に大きく影響していると言えます。


ところでマルセイユタロットの考えのひとつには、私たちは皆、神性(神なる完全性)を有しているというものがあります。


しかしながら現実的には肉体を持ち、制約ある社会の中に生まれ暮らしています。


通常は自分の神性に気付かず、眠っている状態か、もしくは時々場面的に神性が現れるといった様相だと推測されます。


そして普通状態にいる時に私たちを支配しているのは自我意識と言いますか、自分というものを形づくるための思念であると言えましょう。(そうしないと物理社会では自分を認識することができず、安定しないからです)


その自我的な思念は、実はもっと奥底の潜在意識のようなところと反響しあいながら常に変化しているものと想像できます。


この奥底の、通常では自覚できない意識から、縁を引き寄せる種や卵のようなものが生まれ出ると考えられます。


ただその種も先述したように、自我意識とともに影響しあって生まれるので、結局縁を作るもとになるのは自分の考えや思いだということになってきます。


潜在意識の中にはよいも悪いも含まれていて、神性になるものもあれば悪性になるものも混在しています。もしかするとそれらは細かい階層ではさらに分かれていて、神性的なものは別のところにあるのかもしれません。


けれども自分の中にすべてあると見れば、神性の種も卵も、あるいは悪性のそれも、すべて持っていると見てもよいと思います。(または人類共通の集合的意識として共有されていると考えることもできます)


そして、結局のところ自分の日々の思念によって種と卵が産み出され、それに応じた現実的結果を引き寄せる(正確にはその現実に焦点が合う)というひとつのプロセスが想定できるのです。


つまり、種や卵も育て方(自分の思考とそれに従った行動)によって、開花するものも孵化するものも変わるということです。逆に言えば育て方次第で生まれるものも変わってくるのです。


このプロセスで関係してくるのがです。縁は自分の中にあるいろいろな種や卵を孵化させるためにやってくる材料であり、刺激であり、保護であり、破壊です。


縁は「人」になることもあれば「機会」や「場所」になることもあります。しかしたいていは人によって機会も運ばれます。


神性的な種は自分の神性的なものを開く(思い出すための)縁に導かれるでしょうし、そうでないものはやはりそれに等しい縁を生じるようにできています。


これらはマルセイユタロットを考察していて得られたビジョンですが、実はかなり仏教的な教えともリンクするところがあります。


マルセイユタロットに秘められていることは、仏教(特に大乗仏教)とつながることが多いと言われています。(私も仏教の専門家ではないので、確かなことは言えませんが、マルセイユタロットに親しまれている僧侶の方は結構いらっしゃいます)


結論から言いますと、たとえ神性を有している私たちであっても、縁によって様々な人物として生きることになるということです。


そしてそれらは結局のところ、誰のせいでもなく、自分自身のその時その時に応じた結果でもあるのです。まさに因果応報です。


ということはいつでもまた自分(の認識と結果)を変えていくことも可能なのです。


それからプロセスを見れば、自分の生み出している思念もわかります。つまりはどんな縁が生じているかを観察することで逆に自分の思考に行き着くことができるのです。


このことをマルセイユタロットで特に象徴しているのが「恋人」であり、「運命の輪」といえるでしょう。


多くの人は「正しく選択すること」が人生だと思っているかもしれませんが、それ(正しい選択という事柄)自体も実は幻想であるのです。


調子の悪い時は、ある種のチャンス。

人間はいつもいつも調子がいい、好調ということではないのが普通です。(たぶんほかの生物もそうだとは思いますが)


また有り難いことに、生き物には恒常性・ホメオスタシス機能があり、それによって私たち人間も健康に保たれたり、問題のない状態に修復されたりします。


人の回復機能とはすごいことで、ふだんあまり意識はしませんが、傷ついたり病気になったりする体が自然に元にもどる(場合によっては薬や処置は必要ですが)ことは、本当に神業ともいえるすばらしいものです。


これが単なる意識のない生物機能だとはとても思えません。そこには人の全体を統括する優れた「何か」があると想定したほうがつじつまがあいそうな気さえします。


さて、それはともかくとして、このように大変有り難い機能を有する私たちではあるのですが、それでも程度の差こそあれ、何か心身に変調を来すことはよくあります。


考えてみると、自分のいわゆるノーマル・普通状態というのはどんな感じなのかというのはわかりにくいものです。


こういうことは逆に考えてみるとわかりやすく、つまりは自分が「何かおかしいな」「普通ではないな」と思う状態がノーマルではない時ということになります。


ただ厳密には自分が普通だと思っていても、体の内部では異常事態が生じている、進行しているということもあります。しかしとりあえずは、今は自分の「感じ」を基準とすることにしましょう。


それで、いきなり結論になりますが、自分がノーマルではない時の「感覚」や「思い方」にも、それなりに(よい)意味があるのだということを知ってほしいと思います。


「何か調子がおかしい時」というのは「普通」ではない状態なので、当然あなたのいつものノーマル的な思考にならず普通からはずれた思い方や考え方になりがちです。


そのことをネガティブなことだととらえてしまうと、まさに「ノーマル」な思考になってしまいます。


体や心の調子がおかしい時の思考こそ、普段とは異なるものですので、ある意味、多様なものの見方を獲得するチャンスなのです。


ここで重要なのは、調子の悪い時の思考にも調子のいい時の思考に対しても、「いい・悪い」と評価や審判を差し挟まないということです。


もちろん普通に考えれば、調子の悪い時の思いというのは、だいたいにおいて「あせり」があり、正常な判断は下しにくいのが常ですが、それは何か「判断」をしないといけない場合のことです。


思考をそのような判断材料にするのではなく、「ああ、今の自分はこういう風に考えているのだなあ」とか、「こんなことを思うんだ、私」という具合に思考している自分を感じ、見つめるのです。


これは病気になって気分が滅入っているような時や、報われない恋愛をして、とてもつらい状態にある時などには、いい意味で心のバランスを回復したり、複雑な心境を燃焼させたりする効果があります。


また意外なことに、変調状態にある自分の思考によって斬新なアイデアも出ることがあります。特に創造の裏側である破壊系・合理化系のアイデアは出現しやすいでしょう。


こうしてみると、不調と思える時でもいいことはたくさんあるとわかりますし、同じ「自分」という人間の中に、多くの存在がいることも確認できるでしょう。


それでも混乱してわかりにくい時は、マルセイユタロットを使って、自分の状態や心を確認することもできます。


「運」について考えてみよう。

がよくなることというのは、占いでもメインテーマといえるほど人々にとっては重要です。


占いで相談をされる方は、皆運がよくなりたい、運の良い方向に自分を導きたいと思っていると言っても過言ではありません。


そりゃそうですよね、誰も運を悪くしようとわざわざお金を払ってまで占いをしようとは思いませんから。(笑)


そして実際に、私たちは自分でも運がよい時、悪い時というものを実感しますし、世の中や他人を見ていても、「この人、きっと運が悪かったんだ…」「あの人って、とってもついてるよね!」などと思います。


ということは「運」というものは目に見えないものではあるけれど、確実に、少なくとも人々の思いの中では存在しているものだと考えることができます。


事実、すべての事象を象徴的に表していると考えられるタロットカードにおいても、「運命の輪」という「運」の名前を冠したカードが一般的に存在します。


こうして見ると、古くから「運」というものは象徴化されたり、時には(女神が多いです)として擬人(人物)化されたりして、この目に見えない不確かな現象・「運」というものをとらえようとしていたことがわかります。


つまり今も昔も「運」は人々の大きな関心を引き寄せているものなのです。


逆にいえば、「運」を解明したり、会得したりすることができれば、この世の中の仕組みのかなりの部分を理解したことになると言ってもいいのかもしれません。


それゆえ、マルセイユタロットの「運命の輪」は大アルカナの中でもほぼ中間の「10」という数がふられており、個人的にはこの数があてがわれていること、大アルカナの位置としても非常に興味深いところがあると考えています。


ただ反対に考えれば、運がわかったところでまだ半分の過程でしかないということにもなります。


ですから「運」に関心を持つことはこの世のからくりを解明するうえでとてもよいことである反面、それに囚われすぎても、せいぜい半分程度の悟りにしかならないということであり、まだもう半分もの重大な秘密とプロセスが大きな意味では隠されていると見ることができます。


ところで、皆さんは「運がよいこと」というのは発生するものだと思いますか? それとも、もともと起こっているものを何らかのことで発見できたものだと考えますか?


後者のほうは何のことを言っているのかわからないかもしれません。


そもそも「運」という言葉だけを見た場合、それには「幸」とか「不」とかの文字がついていないですから、つまりは幸運でも不運でもないとなります。


ということは幸運でも不運でもない「運」という状態やものがあるのだと考えられます。


それは何なのか? どちらでもないのですからニュートラルなものだとも推測できますし、また中間に留まるだけではなく、どちらかに変化するものであるとも想像できます。


先の話に戻りますが、「運がよい」ということは、運に「よい」という字や意味が加わっているのですから、「運」だけの意味や状態とは異なっていることがわかるでしょう。


従って、「運がよい」ということは運がどちらかに傾いている(またはどちらかが多くなっているように見える)か、運そのものが変化していることだと思うことができます。これは「運が悪い」ということでも同じですね。


ここからは難しくなります。


運がどちらかに傾いているのと、変化しているのとではどう違うでしょうか? 


悩みますね。。。私の考えでいえば、実はどちらも同じだと思います。


そしてそのことが、運の良さ(悪さ)は発生していると見ることもできますし、もともとあるものを見つけたと言えることにもなります。


幸運には「ツキ」「ついている」という言葉がありますが、不運のほうにも「ツキモノ」「憑いている」という表現があって、面白いですね。


そしてタロットカードの「月」と「運命の輪」のふたつのカードを見ることも、「運」について考察する材料を与えてくれます。


今回はあえて「運はこういうものだ」とか、「このような意味だ」など明確には説明しません


それはそのこと(明確になりそうでそうでなく、あやふやのようで規則があるように思えること)こそが運の本質だと私は思っているからです。


今日書いてきた中で、「運」についてはたくさんのヒントをタロットとともに出しました。もちろん私の考えや思いが正しいわけではなく、マルセイユタロットから見た単なる一考察です。


是非皆さんも、この魅力的な(笑)「運」について考えてみてください。


「運」が古来より「女神」で表現されているのも意味があることです。まあ、人によってはイケメンで象徴される方もいらっしゃるかもしれませんが。。。(笑)


最後にひとこと念を押しておきますが、運について考えることと、運に振り回されることとは別になりますので、ご注意ください。また運をコントロールすることが目的でもありませんよ。(過程になることはあります)


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