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2022年最初に

明けましておめでとうございます。
本年もどうぞ、よろしくお願い申し上げます。

さて、2020年より始まったコロナ禍はまだ続いており、新たな変異株の流入で、また問題視されているところです。しかし、そういう中でも、(よい)変化は確実に現れていると感じます。

どんなもの(状況)でも、悪いことばかりではなく、よいこともありますし、たとえ最高だと思っていても、それが最低への始まりのこともあるわけです。(まさにマルセイユタロット「運命の輪」の図)

一喜一憂せず、ますます俯瞰した目線や、姿勢というものが大切になってきているように思います。

これまでは、個人と全体のつながりがあまりわからなかった時代もありましたが、これからは、明確にそのつながりを、誰もが実感してくるようになると思います。もう、すべてが他人事ではなくってくるのです。

それは一見、大変なようにも思いますし、確かに一時期的には大変だと想像しますが、言ってみれば意識の覚醒であり、進化とも言え、自動的に他人の本音がわかり、また人だけではなく、生き物、ひいては地球の願いも把握することが可能になり、スピリチュアル的に言えば、より宇宙と調和した人類に変容する可能性でもあります。

それは「この世のあの世化」とも言え、個人の意識を持ちつつ、同時に全体意識にもなっているという、今の私たちの意識からすれば、とても不思議な感覚のものでしょう。

その過程では、別の意味で自己責任の意味が大きくなってくると考えられます。

これは従来言われているような自己責任ではなく、他者と自分が切り離せない意味での自己責任という意味です。ですから、逆説的ですが、相互救済の意識にもつながってくることなのです。

また悪意ある者も、隠してもわかるようになりますから、それもある意味、自己責任ということになってくるでしょう。

結局、一人一人の意識と選択に関わってくると思います。

ともあれ、希望的意味も込めて、私たちの善なる魂が目覚める世になってほしいと願います。


「世界」からの視線

このところ、暗く悲惨なニュースなどがあったところですが、冬至を越えた翌日、太陽の一層の輝きも見え(これは地域によりますが)希望というのも感じました。

私たちは日々悩み、生きています。

時には何のために生きているのかわからなくなることもあるでしょう。

無理に生きる意味を見つけようとしなくてもよいとは思いますが、些細なことでもいいので、「このために生きる」とか、とりあえず「この理由があるから」という、こじつけ、短期的・長期的、何でもよいので、自分にとっての生きる意味を持っておくことはよいのではないかと思います。

まずは短期的なところからでもいいと思います。

例えば、おいしいものを明日食べたいとか、疲れているので癒されに行こうとか、あの作品は面白うそうなので見てみようとか、しょーもなくはあるかもしませんが、小さくとも、生きるモチベーションにならないわけではありません。(苦笑)

あと、長期的というのも、時に有効です。

人間、意外にゴールと言いますか、遠い目的地を決めていないがために、現在迷ったり、どうしていいのかわからなくなったりすることがあります。ひいては、生きる目的・力を見失うことにもなりかねません。

どこに向かうのか、わからない状態では、現在地に迷うのも仕方がないというわけです。

自分が達成したいこと、あるいはそんな具体的なことではなくても、人生の最後の目的、せめてこうなっていたら(こういうもの(境地とか精神でもよい)を得ていたら)OKという遠いゴール設定をしておくと、今の自分に、その目的地からの光が当たります。

マルセイユタロットには、人間成長の道筋・指針としての大アルカナ図があります。これは数順に並べていくものですが、最終カードは、大アルカナの最大の数を持つ21の「世界」となります。

つまりは、マルセイユタロット的に言えば、この「世界」から数の少ないほうのカードを向く(見る)、ということになります。

面白いことに、「世界」のカードに描かれている中央の人物は、これまでの道を振り返るかのように、向かって左側を向いています。

この、自分にとっての「世界」のカードに該当するものを決めておくと、今の自分の立ち位置、またはそれがわからなくても、何をすればいいのか、何を評価し、何をあまり悩まなくていいのかが明確になります。

目的地・ゴールが、精神的な充実や満足感なら、物質や環境的なことに一喜一憂しても仕方ないということになりますし、その反対に、物質的に恵まれて終わりたいということであれば、お金の稼ぎ方とか使い方も逆算して、より具体的になってくるのではないでしょうか。

タロットだけではなく、カバラーの「生命の木」を使えば、中央の柱を文字通り、中央・基本として考え、一番上のケテル、真ん中のティファレト、イエソド、マルクトと、それぞれを段階別の目標として、抽象性から具体性へと降下して思考すれば、現在(現実・通常)の位置・次元とも言えるマルクトで何をすべきか、どう生きればよいのかという「イメージ」が出てくるでしょう。

もちろん、タロットでもそれは可能てすし、タロットの場合はがあり、その絵柄自体が象徴ですから、自分の生活・人生とリンクさせることがしやすく、迷子になってて、空しくなっている自分に、「世界」(のカード)から光明を指すことができます。

それはまた霊的には、「隠者」の光(ランタン)でもあります。

グノーシス的には、(透明ゆえに光を通し、輝くことになります)とも関係し、キリスト教の洗礼の儀式ともつながりますが、水といえば、タロットでは天使が象徴されますから、天使の絵柄が、私たちに光を見せてくれているのだと言い換えることもできます。

目的地から今やることを見るというのは、目的地まで予定通り到達していない自分にいらだちや、不安が襲って来るようにも思えますが、ここで言っている目的地からの視点は、むしろ、今を楽にするためのもので、「これだけやっていればOK」「これを得ていたらよしとする」みたいな感じで、カードの「13」の象徴とも関係するものです。

言わば、本質と表面の違いを区分けするようなものて、目的(地)の本質を見ていれば、今の自分、過去の自分、これからの自分の「本質」のみをたどって行けばよく、その他のことは、表面的・演出的なものであるとわかって、安心することもあるという話なのです。


「運命の輪」から見る「運」

マルセイユタロットの「運命の輪

文字通り、運命を象徴するようなカードと言えますが、その絵柄の特殊性(他のカードに比べて絵的に人物的要素がない)からしても、面白いカードで、様々な解釈が可能です。

タロットの大アルカナは22枚ありますが、このうち、ある区分けでは、10をひとシリーズ、1セットと見て、都合2セットの20枚とし、残りの二枚は「愚者」と「世界」にするものがあります。

これには、前回の記事にも出た「10」の数に関係するところが大ですが、ともかく、20枚、10を1セットとする2セットの、最初(数の少ないほうの)のシリーズの終わりが、「10」の数を持つ「運命の輪」のカードとなるわけです。

もし、「運命の輪」の示すことの大テーマが「運命」であるならば、いわゆる私たちの考える「運命」というものは、ここで一区切りを迎えることになります。

ということは、マルセイユタロットから見れば、運命のというものは、次のセットに進むとなくなる、あるいは、概念や考え方として、まったく別モノになるということが予想されます。

次の(10)セットとは、「力」から「審判」です。これらのカードと、今までの「運命の輪」までのカードたちとを比べると、明らかに違いがあるのがわかるでしょう。

その違いを何(どんな意味や象徴)と取るのか?によって、10セットのシリーズの意味合いも変わるでしょう。

ただ、「運命の輪」の「運命」ということを中心(テーマ)としますと、「運命」と呼ばれるものの質が、ここを境にして変わることは言えるかと思います。

「運命の輪」の絵柄の特徴は、車輪に三匹の動物たちが一緒に描かれていることです。

車輪の円周上にいるのが二匹で、車輪の上にいるのが一匹です。この三匹の位置が、いろいろと解釈が可能であり、面白いと言えるのです。

「運命」は、厳密に言いますと、「運」と「命」に分けられる言葉で、本当はそれぞれについて考察が必要ですが、ここでは、シンプルに「」だけで見てみます。

すると、「運命の輪」の動物たち、それぞれが運の特徴を表していると考えることもできます。

輪の中にいるとも言える二匹の動物は、輪がクルクルと回れば、二匹の位置は入れ替わって見ることもできます。上に向かっている動物も、下に向かっている動物も、輪にくっついているわけですから、輪が回転すれば、立場(方向)は逆になります。

ということは、本質的に、この二匹は同じなのです。ただ、輪の中にいては、それがわかりません。二匹の動物たちは、それぞれが「オレはオレ」「ワタシはワタシ」と思い、オレは上に向かうもので、ワタシは下に行くものだと認識していることでしょう。

ですが、輪の上に乗っている動物から見れば、上に向かう動物も、下に行く動物も、輪が回転すれば入れ替わるだけで、方向性に上も下もないことに気づきます。

ここに「運」をあてはめますと、輪の中の動物二匹は、運が良い・悪い(上とか下とかの位置)と思う私たちの心とも言えますし、環境(モノ)と精神のように、ふたつのことによって規定される「運」とも表現できます。

一方、輪の上の動物は、それらの「運」とは違う認識にあって、もしこの動物の位置に相当する運があるとしても、それは、もっと大きな宇宙的なものであるとも言えます。むしろ単なる機械的・リズム的なものかもしれません。

私たちのほとんどは、現実において、運の良し悪しを思うことが多いですが、それは、この「運命の輪」における輪の中の二匹の動物の位置のように、入れ替わりつつも、実は本質的には同じもの(別の言い方をすれば、いいも悪いもないもの)だと例えることができます。

いい・悪いを決めているのは、輪の中にいること(それに気づかないこと)と、その位置が直線的(円ではない認識)であること、すなわち、統合的認識に至っていないことにあると言えます。

極端な言い方をすれば、自分の運の良し悪しを決めているのは、ほかならぬ自分であるということです。

輪の上の動物の位置からすれば、おそらく見えていなかった因果関係というものも現れ、すべては原因があり、その結果であることがわかり、運という偶然ではなかったこと、良いを選び、悪しきを避けていても、本質的には、回転の演出で振り回されていたに過ぎないことに思い至るのだと想像します。

そのような境地は、ある意味、小悟り(中悟りかもですが)とも言え、だからこそ、10を2セットとして見た場合の、ひとつのシリーズの終わりと見ることができるわけです。

そして、「運命の輪」の段階で、人間的・凡夫的な、運命に振り回される状況を脱することが示唆されているのだと推測できます。

そんなことは、修行僧でもあるまいし、できるわけがないと思うでしょう。

確かに全体的には無理でも、実際の生活のひとつのシーン、あるいは問題において、「運命の輪」的見方をしていくことで、回転の演出から少しずつ逃れることができるのではないかと思います。

二匹の動物の位置ではなく、俯瞰した輪の上にいる動物の視点です。中立性と言い換えてもいいでしょう。

普段においても、運が悪いとか良いとかの断定的言い方を避け、そういう物言いをしている時、自分は何をもって良いとし、悪いと決めているのかを探ると、違う意識(認識)が出てくるかと思います。

ただ無理矢理、中立性を思ったり、悟るふりをしたりしても逆効果だと思います。

人間として、実際の生活において運の良し悪しを思うことは普通ですし、運気的な流れというのも、ある次元では存在していると考えられます。

運の良し悪しを感じることで、神仏やその守護、反対の悪魔的な力やその影響、さらには因縁めいたものとかの、別次元の考察に至ることもあり得ます。(すなわち多重なる世界の認識と、自己の再構築が進む、一時的には混乱もあり得ますが)

ですから運を排除して考えるのではなく、運を受け入れつつ、極端な二元的観点(良し悪し、一喜一憂するような態度)から離れて行くというような姿勢がよいように思います。


カバラーと小アルカナ

78枚の、いわば、伝統的構成のタロットは、大アルカナ、小アルカナというパートに分かれています。

伝統的タロットの典型版ともいえるマルセイユタロットは、当然、そのふたつの構成になっています。

マルセイユタロットの小アルカナは、一般的にわかりづらいとか、読みにくいとか言われます。

それは、特に数カード(数札)の絵柄が記号的で、具体的な絵ではないことが大きな理由でしょう。

一方、同じ小アルカナでも、宮廷(コート)カードは、大アルカナと同じ絵柄の質であり、ずばり人物画と言えますから、これは見た目通りでわかりやすいと言えます。

ということで、マルセイユタロットにおける小アルカナの難解さの問題は数カードにあるわけですが、日本の今のマルセイユタロットを扱う人たちは、奇しくも「カモワンタロット」をやっている人が多いので(これは旧タロット大学の活動の影響が大きいと思います)、製作者の一人、フィリップ・カモワン氏の教義・技術の特質上、あまり小アルカナは使わないことがあり、そのため、マルセイユタロット使いの者は、余計に、数カードが使われない傾向があるようです。

もちろん、ほかのマルセイユ版をやっている方もいらっしゃいますし、同じカモワンタロットを使っても、ホドロフスキー流(カモワンタロットの共同製作者、アレハンドロ・ホドロフスキー氏)の場合は、小アルカナの活用を示唆されていますから、数カードをよく使っている方もあるでしょう。

私は旧タロット大学出身ですから、カモワン流ベースから入ったことで、やはり、当初は小アルカナ、そして数カードはあまり使いませんでした。

しかし、カモワン流の範疇からはずれ、フリーでマルセイユタロットを実践、講義していくようになりますと、タロットは78枚で構成されているわけですから、小アルカナの活用なしくてタロットとは言えないと思い至り、自分自身で小アルカナについて探求するようになりました。

その結果、やはり、小アルカナ(当然数カードの件も)は、とても重要で、リーディングや目標達成などに、非常に活用度が高いことがわかりました。大アルカナと併用することはもちろん、単独で使うことにも意味があります。

小アルカナをさらに見て行くと、これまでの大アルカナで象徴されていた次元やレベルが、小アルカナでも可能であることもわかってきました。それは文化的背景にも関係します。

ところで、タロットはカバラー(ユダヤ神秘主義思想)と関係があるとかないとか、いろいろ説がありますが、ウェイト(ライダー)版系では、普通に関係させているように思います。

ただ、本当の意味でのカバラー、イスラエル・ヘブライ民族に伝わる古来のカバラーと関係しているかと言われると、それは難しいところではないでしょうか。

そうした本来のカバラーではないにしても、キリスト教圏、ヨーロッパに流れて他民族にわかりやすく改変され、普遍化・簡略化したようなカバラーの教えが、私たちもふれることが可能になりました。

その教義やシステムから、カバラーには「4」の体系が見て取れます。特に「生命の木」などには顕著です。(「10」の体系とも言えますが)

「4」(そして「10」)の体系となりますと、タロットでは小アルカナが当てはまります。(大アルカナでもそうした考えができないわけではありませんが、22枚の大アルカナでは、やはり少し無理があります。もっとも、「生命の木」のパス(小径)は22本あるので、大アルカナとリンクさせる考えもあるにはあります)

としますと、カバラーとタロットは、特に小アルカナを通して関係を見ることができるかもしれません。

カバラー発祥のイスラエルの土地は、ヨーロッパとは別です。宗教的にもユダヤ教で、古くから、また現代においても、その周辺国はほとんどイスラム教です。キリスト教圏のヨーロッパとは違うわけです。

それらの宗教では偶像崇拝は禁止されていますので(キリスト教もそのようですが、多くはイエスや聖人たちの図像に祈りますよね)、神を具体的な絵では表せなかったと思います。

このように考えますと、マルセイユタロットの小アルカナ・数カードは、偶像崇拝を排して、崇高な神(の世界、宇宙)を表現したものと見ることもできます。

タロットの小アルカナは、いわゆる4組として、剣・杯・杖・玉、一般的には、ソード・カップ・ワンド・コインと呼称され、それは、四大元素として、それぞれ、「風・水・火・地(土)」を示すと言われます。

しかし、カバラー的に考えますと、四大元素だけではなく、四つの次元や階層(天上・地上、宇宙の)として見ることも可能です。

こうすると、現代の私たちと言いますか、おそらく人類の今までの歴史の中において、この4つの順序や階層が乱れ、破壊され、さらには、鏡像のように逆さまに映し出されたものを現実として見ていることに気がつきます。

グノーシス的に言えば、悪魔の牢獄の中で、本物が隠され、嘘の世界で奴隷として存在させられているようなものです。

その救済には、大アルカナとのリンクも必要で、タロット全体の構成を見て、ひとつひとつ、再構築していく必要があります。

大アルカナの数の順序が、マルセイユタロットとは変わってしまっているものでは、システム的に整合性が出ない(あくまでマルセイユタロットにおける霊的体系のうえでの話)ので、やはり、マルセイユタロットそのもので、大も小も見て、自分の中の再構築が求められます。(他のタロットと混同されると、余計混乱してしまうという意味)

ウェイト版とはまた違った方法で、カバラーの生命の木とリンクさせ、私たちが、地上の人間から天上の神に戻る意識を回復させる試みができるのではないかと思っています。

そのは、意外に小アルカナにあるのです。


人の問題とタロットリーディング

マルセイユタロットでは様々な見方が可能になります。

そのひとつが、タロットリーディングにおける人の問題の扱いです。

他人へのタロットリーディングは、その方を解放に導いたり、問題の解決のアイデアを出したりするために、タロットを使って行うものです。

これは占いとは一線を画します。(ただし、表現上、占いに近い形を選択する場合もあります)

人の問題というものは、単純なようでいて複雑、またその逆の(複雑なようでいてシンプルな)こともあります。

しかし、多くの人が、問題の種類は分けられても、そのレベルまで見ようとはしません。

人の問題が複雑に見えるのは、同じレベルで数種類の問題が複合していることもありますが、特にタロットリーダー側で、問題のレベルが区別できていないことにも原因があります。

また、個人と一般、さらにはタロットリーダー自身価値観を混同してしまい、何がよくて何が悪いのかの検証ができにくくなっています。

レベルをかなり上げ(いわゆる抽象度を上げるというのに等しいですが)、神次元・神目線のようなところまで来ますと、本来問題というものはなく、ですから、良いも悪いも、正義も不正義もないということになります。よく、ノンデュアリティ論者がたとえるレベルの話です。

しかし、人間レベルまで降ろすと、色々な問題が出ます。それは現実という認識のもとに、一人一人、個性を持って人が生きているからです。

たとえまったく同じ条件であっても、人には個性があるがために、それぞれで感じ方が違ってきます。あの人が問題視することでも、別の人には、まったく気にしないものであるどころか、楽しみの場合でさえある、ちょっと奇妙な世界が地上であり現実です。

それは、つきつめると、する・されるなどの、二元的なエネルギーの方向性、行動、表現、立場の違いが人にはあるからとも言えますが、ともかく、個人レベルになりますと、問題は多種多様で、人の数(以上に)だけ生じてきます。

従って、一人一人、相談内容も問題も違うわけですから、その対応もそれぞれで異なるのが当然と言えます。しかしながら、私たちには「人」としての共有部分があり、ユングが元型と評した、ある種の共通パターンもあります。

それゆえ、象徴として、タロットカードを人に使うことができます。人と問題の数だけカードを用意するとすれば、とんでもない量となりますから、そこは象徴化させる必要があるのです。

けれども、この象徴というのもやっかいで、現代人はなかなか象徴というものが理解できず、はっきりとした答えのようなものがカードから出ると思い込んでいるところがあります。

極端に言えば、数学のような、絶対で万人が納得するひとつの回答があると信じるわけです。これを記号的解釈と述べてもよいでしょう。

しかし、象徴は、むしろあやふやで抽象的なものです。違うレベルや次元さえ超越し、それに含むことができます。

象徴(解釈)にもレベルがあり、そこをきちんと整理してわかっていないと、混沌とデタラメの世界に入り込んで、象徴を機能させることができません。

その象徴の扱いにも関係する話ですが、タロットに関心を持つ方で、注意したいのは、中間段階を飛ばそうとする傾向がある人がいることです。

だいたいにおいて、現実的レベルと、超越的レベル(神的・高いスピリチュアルレベル)の両極端が癒着(融合や統合とは異なります)してしまい、スピリチュアルでお金が引き寄せられるとか、神様はこういう(私の)幸せを望んでいるとか、個人的な、特に物質的・現実的願望実現を、超越レベルの次元の介入によって解決したり、手に入れたりしようという節がうかがえます。

これでは、宗教における、外の神に祈って何とかしてもらう(奇跡を待つ)というのと同じ構造となってしまいます。

何事にも段階やレベルがあり、特に現実空間、実際に生きる私たちには、物理法則はもとより、時間と空間の制約も受けます。

さきほど、問題の根幹は、二元のエネルギー表現にあると言いましたが、上記の態度では、人は受動がメインで、神から与えられるまま(幸不幸においても)の状態です。

もし、グノーシス的に自身に神性を認めるのならば、物事は反転し、受動ばかりの姿勢から、能動的で創造的な姿勢に変化するでしょう。もちろん、世の理は、二元での循環のようなものですので、受動的立場も時に必要です。

しかし、超越的(神)レベルと現実的(人間)レベルを癒着させるような姿勢で、外の神に頼ろうとする場合よりも、バランスは回復されてくると思います。

能動的・創造的になってきますと、先述の癒着から離れ、天と地との段階を認識していくことになります。

詩的な表現で言いますと、神が階段を下りて来るのを待つのではなく、自分が天への階段を上って行くのです。だから段階(梯子)を見ないといけないわけです。

すると、自分の体が重いことにも気づくでしょう。簡単に手が届くと思われた梯子に手足がかからない・・・なぜなのか?

それは、例えれば、自分の体を下に引っ張る何かがあり、重力の重い世界に自分がいる(その世界観にいる)ためです。それがインド的にはカルマと呼ばれるものと言ってもいいでしょう。

いくら引き寄せなどで、よい気分・フィーリング、波長に合わすと言っても、それができない自分の状態があるのです。(引き寄せ的なことは、ある意味、真実も含まれると個人的に考えますが、個人個人の波動調整、浄化のようものがあってのものだとも思います)

心理的な見地からも、たとえばトラウマとか、ネガティブに思う癖・データが自分を支配していたら、それを何とかしないと、幸せな状態になろうと頑張っても足かせとなって、結局、努力すればするほどうまく行かず、成長・変化を放棄したり、やってきた方法が悪かったと誤解(間違いと言えば間違いではあるのですが、実際は取り組みの順番が違うだけで、取った方法が悪かったかどうかは言えないことです)したりすることになります。

自分(人)の問題のレベルや種類を認識しつつ、受動だけにならず。能動的に段階を踏まえどこに今フォーカスすれば、問題の解消や解決(言っておきますが、問題は必ずしも解決することだけが対応ではありません)につながるのかを見ておくことが、特にタロットリーダーには求められるでしょう。

それには、マルセイユタロットと、それに流れている教義を知ったほうが、やりやすいと思います。逆に言えば、受動的に、カードや占い師から告げてもらうようなものは、ほかのタロット・技法のほうがよいと思います。


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