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あるテレビドラマで
俳優の田村正和氏が永眠されました。ご冥福をお祈り申し上げます。
田村氏と言えば、私の中では、意外にコメディタッチのドラマのほうが印象深く、言わずと知れた「古畑任三郎」は有名ですが、他局系列のテレビドラマでは、「パパはニュースキャスター」など、そういうちょっとコメディ系の役を演じられていたのを覚えています。
同系列のその他では、「うちの子にかぎって…」というドラマで先生役もされていました。
そのことで思い出したことがあります。
そのドラマの第二期だったと思いますが、ある一話がとてもすばらしく、見たあと、当時大学生であった私は、高校時代の友人(よくドラマとか映画の話をしていました)に、ちょっと興奮気味に(笑)、それを語っていました。
とは言え、今となっては、内容をほとんど忘れていまして、タイトルにインパクトがあったので、うっすらとした記憶を頼りに、ネットで検索して調べてみました。今は便利な時代で、ネットのおかげで、その内容を改めて思い出すことができました。
やはり第二期だったようで、その話は、第9話「転校少女にナニが起こったか?」でした。
タイトル自体は、確か、同じTBS系のドラマのふたつを掛け合わせたような、遊びタイトルだったと思いますが、ともかく、題名の通り、女の子が転校してくる話でした。
今思うと、アニメとか映画でよくあるような、パターン・お約束とも言える話なのですが、舞台である東京の小学校のクラス(小学校)に、ある日、北海道から女の子が転校してきます。
その子と北海道にいた頃知り合いだったクラスの男の子(その時は忘れていて、あとで思い出す)がいて、その女の子と不思議ともいえる体験をします。女の子は、わずかの期間でまた転校してしまい、男の子はショックを受けるのですが、実は、その男の子以外、誰も転校してきた女の子のことは記憶にないという、現実なのか夢なのか、わからないような結末の話になっています。
まるで大林宣彦監督の「時をかける少女」の逆バージョンみたいでもあり(学校の理科の実験室など登場しますし、おそらくかなり意識されていたと想像、そういえばこのドラマと同じ年には、大林監督の「さびしんぼう」も公開されていました)、全体的には、往年のNHK少年ドラマシリーズ(私はこのシリーズがとても好きでした)の雰囲気もありました。
田村正和氏は、そのクラスの担任の先生を演じていて、男の子から不思議な体験をしたことを話されますが、きちんと話を聞いたうえで、「先生もそういうことはある、一瞬だけど長い時間を経験したかのような夢を見ることがあるらしい」というようなことを話されていたように思います。まあ、生徒の話を否定もせず、かといって完全に信じるわけでもなくという、よい教科書的な対応といえば対応ですよね。
ドラマでは少年の夢だったのではないかという感じの演出があり、例えば、現実には夏の話なのに、女の子と会っている時は、冬の雪が降っているシーン(東京なのに北海道的になっている)になるなど、明らかに演出意図として、現実の世界と想像の世界との区別をしていたように見えます。
しかし少年と少女は、同じ傷をつけ合うというシーンがあり、女の子がいなくなったあとに男の子は、自分の指に血が流れているのに気づくことで、「やっぱりあれは本当のことだったんだ」とつぶやく場面がありました。
この同じ傷という、一種の合言葉や鍵のようなものが演出されていたのが心にくいです。(現実と夢の世界を行き来するための鍵と考えられます。それが「傷」であることに、とても深いものを感じます)
私たちは、誰でもというわけではないですが、ファンタジー好きな人や夢見がちな人、あるいは普通の人でも、何かとても苦しい状況に置かれていたり、自分が消えてしまいたいような目に遭っていたりすると、別の世界に逃避しようとします。
よい言い方をすれば避難でもあり、ある種の別次元の創造、あるいは転送・シフトと言ってもよいです。
スピリチュアル系でも、この世界は幾つもの次元、平行世界、多世界が重なって存在し、自分の波動や周波数、選択意図によって、そういった別次元・ほかの宇宙を旅する(移動する)と考える人もいます。
その場合、現状とはまるで違う異次元のようなところにジャンプしてしまうのではなく、たいていは、ほとんど今いる世界と似たような感じの世界で、少しだけ違う世界に、まずは移ると言われます。
それはあまりに違う宇宙・次元だと、その差が大きく、さすがに無理があるということだからでしょう。大きな川や海を渡るには、小刻みに島を通って行ったほうが行きやすく、安全でもあるからとも言えます。
ちなみにUFOは、この次元転移を可能している乗り物という説があります。
それはともかく、田村氏演じた先生の言葉ではないですが、長時間と思えた間が一瞬だっというような時間感覚の狂いとか、実際とは似てはいても、ちょっと違う幻のような世界に、意識が飛んでしまうようなこともあるのだと思え、それは現実的に考えますと、先述したように心理的な逃避、あるいは自分を守りたい強い気持ちが働いていたからではないかと推察されます。
このドラマの男の子は、おそらくクラスの中では平凡な存在で、毎日が特別に沸き立つ時間ではなかったのでしょう。
そういう退屈な日常的なところに、非日常的な特別体験を欲する気持ちが生じ、それは裏を返すと、自分を認めてほしい、自分の生活が単調で、面白くない(自分が生きていない、もっと言うと死んでいる)ものだと(自覚はなくても)思っていたのかもしれません。
その気持ちが、ついに、かつて幼馴染で仲良かった女の子が転校してくるという白昼夢のような体験を創造(想像)させ、自分が特別であること、この世界(しかし現実というより男の子の創った世界のほうですが)に自分は必要で、求められている、つまりは生きていてよいということを確認したい気持ちにつながっていたのだと推測します。
つまり、転校してきた女の子は、男の子にとっての女神であり、自分を生み出し、無条件的に愛を注ぐ母的な役割(自分の存在と価値を認めてくれる女性)で、もっと言うと、彼自身でもあるのです。
すると、私には「世界」のカードと「吊るし」のカードとの関係が浮かびます
このドラマの男の子ではありませんが、もしかすると、私たちは、いつもある世界(自分の見ている世界、体験している世界)を創り上げているのかもしれません。今あなたが現実だと思う世界さえも、創造され、破壊され、変化され、また作り直されている可能性もあります。
また多くの人は、実際に、睡眠中に夢を見ることで、このような異世界体験、別次元創造と転移を経験していると言えます。
私自身、実は小学生の時に好きだった女の子が、成長してきて、その子と少し会話することで、気づきを得るというような夢を見たことがあります。
この夢は、皮肉にも、癒しを与えてくれるというより、学びになると言ったほうがよく、まさにほろ苦い感じで、その夢のあと起きてしまいましたが(笑)。これなど、初恋の相手を材料にして、内的に自分との語らいをしているとも言えます。
ということで、現実逃避も悪いことではないですし、しかし、自分の都合のよい異世界ばかりを創り上げて、そこに居座ってしまうと、それはそれで問題となることもあるでしょう。タロットで言えば、ひとつところに固執しない、旅する「愚者」意識がいいのではないかと思います。
現実の世界は本当に現実なのか?、そして現実を創り上げている重要素は時間と空間と言われるように、そのふたつにあると考えられ、その中で「時間」に着目すると、空想のような世界に行っている時間というのは、現実の(流れる)時間とは違っており、私たちの固定観念としての時間(現実と思っている時間、現実での時間)に揺らぎや破壊(変容)を生じさせるのではないかという気がします。
ドラマで男の子の経験したことは、ファンタジーで、ただ夢を見ていたとか、妄想していたとか、心理的な防衛の世界に耽溺(埋没)していたと考えるのは普通ですが、一方で、私たちに、現実を超えた世界、霊的な次元というテーマを想起させ、もしも現実が牢獄(私たち自身が作っているもの)であるならば、そこからの脱出を示唆するものとして見ることもできるのではないかと思います。
それはこれからの時代にこそ、実は重要になってくるのだと感じさせます。
カード解釈の選択
タロットの読み方、リーディングについての、ちょっとしたお話です。
ある質問を用意し、タロットを引いて、何かのカードが出ますが、この時、そのカード象徴する(意味する)ことを行うのか、あるいは、そのカードが示すテーマとか問題を取るのかと、解釈を迷うことがあると思います。
もちろん、カードはもっと多様に解釈ができることもありますから、選択の迷いますます複雑になることもあるかもしれません。
皮肉なことに、カードの意味を学べば学ぶ(知れば知る)ほど、読みの選択の幅が広がるわけで、その分、その迷いも深くなることもあるわけです。
タロット占いであれば、当てることが重要ですから、解釈のどれを選択するのかについては、占い師にとっては、結構、死活問題くらい大切でしょう。
しかしながら、逆に、タロット占いではないケース(タロット占いというスタンスではない方法)では、必ずしも、当たる当たらないにこだわる必要がないばかりか、そもそもそういう考え方(線引き)ではないこともあり、カード解釈の選択を正しくしなければならないというプレッシャーとか、考えからは解放されます。
しかし、それでも、まったく的外れなリーディングでは困ります。
ではどうすればいいのかと言えば、結局、タロットリーダーだけで解釈の選択を決めてしまわないことです。
要するに、クライアント、相談をする側の者と一緒に、「答え」をまさに“選択し”ていくのです。極端なことを言えば、クライアント側が、ぴったりだと思う解釈を採用すればいいわけです。
一方、タロットリーダー側は、一枚のカードや複数枚数展開からでも、いろいろな見方・読み方ができるように、訓練しておくことです。それだけ、クライアントの選択肢の幅も増えるからです。
選択が多いというのは、実は豊かさとも関係しますし(物資的豊かさとは限りません)、拘り、執着からの解放の可能性も高まります。
ですが、それでも問題はあります。
ひとつは、タロットリーダー自ら自分リーディングする場合(つまり、自分の問いを自分でタロットを引いてリーディングする場合)で、一人二役であるので、いろいろな解釈が出ても、それは自分が出したものですから、自らでこれだとは決めにくいのは当然あります。
もうひとつは、クライアントの思惑を超えた内容の選択も「答え」としてあり得るわけで、そうすると、クライアントがぴったりだと思う解釈でさえも、必ずしも選択としてよいというわけではない場合もあることです。
このふたつの問題についても対処方法はあるのですが、それはまあ、特にタロットを学習されている皆さんであるならば、ご自身でもお考えいただくとよいでしょう。
スタンドアローンコンプレックス
今日はふと、「スタンドアローンコンプレックス」という言葉を思い出しました。
この言葉と言いますか、概念は、(またしてもアニメネタですが…)、攻殻機動隊(士郎正宗氏の漫画が原作のアニメ)に登場するものです。
この概念は実はとても難しく、上記アニメ作品の中でも、見た人によって解釈が色々とあるようで・・・私も説明しづらいです。
ですから、ここでは、攻殻機動隊とは切り離して、私の別の勝手な意味に置き換えて、スピリチュアル的に述べたいと思います。
スタンドアローンコンプレックス、直訳すると「孤立孤独複合体」というようなことになるかもしれませんが、「コンプレックス」の部分を、心理的に使う意味のコンプレックス、感情の複合、複雑な感情状態、つまりは劣等感とか抑圧された欲望などとして取ってしまうと、また違って来るので、とりあえず、今回は単純にコンプレックスは「複合(体)」という意味で見ます。
マルセイユタロットで、人類の霊的な進化や成長を考えていくと、私たちは、やがて複合体的な生命へと変容していくのではないかと想像できます。
しかし、その前に、一人一人が独立意識を持ち、心理的には自我の完成(個性の完成)という状態を全員が獲得しないと、それは難しいのではないかという気もしています。
ともあれ、一人一人がよい意味で孤立し、言い換えれば真の意味で独立(自立)し(他者に依存するような未熟な状態ではなく)、そのうえでネットワーク的に全員がつながるような意識になれば、まさにひとつの巨大な生命としての複合体となり、新たな進化を遂げることになるのではないかと考えるわけです。
この過程において、独立意識、自立状態が必須条件であると思うのは、もし、まだ未成熟な依存性を持つ人間であると、ネットワークがつながったとしても、誰か強烈な個性を持った者の意識によって乗っ取られたり、洗脳されたりして、いいように使われてしまう危険性があるからです。
また、反対に言えば、カリスマ的な人や、力を持った人に頼り過ぎ、依存して、自らを犠牲に捧げてしまうようなこともあり得るかもしれません。
そうなると、ネットワークは単なる支配の道具、あるいは混沌の弱肉強食の世界に逆戻りという感じになるでしょう。
肉体意識、物質意識がまだ強くある今のような三次元的認識が中心であるならば、ネットワークがあっても、肉体と物質にフォーカスすれば、その亜空間のようなネット社会的洗脳から逃れることもまだできるかもしれません。(まあ、もうすでに難しくなってきていますが…)
しかし、肉体意識が希薄になり、精神の状態のほうがメインの体(初期の霊的な体みたいなもの)にシフトし始めると、いわば見えない世界のほうが実存性を持ち、思いの世界が実質的に力と影響を持つことになり(形のような力を持つ)、そのため、ネットワークで形成される世界の中で、誰かの強力な意思につかまってしまうと、なかなか抜け出すことができなくなってしまうおそれを感じます。
要するに、意思や意識の力をコントロールできないままでは、誰かを支配したり、反対に操られたりすることが容易にできてしまう世界となるのです。
よって、一人一人の成熟性、独立(自立)性、コントロール力の完成が必要であり、そのうえで全員でつながり合うことができれば、個性を活かしあい、助け合い、協力し合い、言ってみれば、ひとつの巨大なコンピューターがネットワークによつてできあがるわけで、情報処理、解決能力は想像を絶するレベルに至ると考えられます。(これもアニメネタですが、「とある科学の電磁砲(レールガン)」でのシスターズのネットワークを利用する、一方通行アクセラレータさんみたいなものです(笑))
しかし、だからと言って、一人一人がコンピューターの歯車、機械の一部、ロボット化するわけではなく、きちんと固有の意思も持ち、自分の希望を叶えるのには、その他全員の力も簡単に援用することができる社会(世界)という感じです。
まさに、一人はみんなのため、みんなは一人のためを体現する世界と言えます。
これが実現するには、自分と他人が本当の意味で理解し合えるレベルに達していないと、低次の自我、いわゆるエゴによって、バラバラなまま、自分勝手に動いてしまうことになり、とてもネットワークを活かせる状況にはならないでしょう。
ということで、いきなりワンネスとか、統合とかいう前に、自分自身が真に独立・自立していく状態を作り上げる必要があるのです。
見かけは「分離」でもあるので、たぶんスピ系の人には嫌がれる言葉ではありますが、私自身は分離(の自覚と本当の個別理解)こそ統合の前段階だと考えています。
それと同時に、協力し合わないとやっていけないのでは、という意識の醸成、気づきも重要だと思っています。
個人ではなく、全体性から見る意識・視点といいますか。
しかしこれも未成熟のまま全体から見ようとすると、やれ全体主義だとか共産主義だとかで、旧来の管理システム的な発想、さらにはその延長の世界統一政府、ワンオーダーの世界みたいなものになってしまいますので、結局、一人一人の独立・孤立・自立・個性の完成(そのためには調整浄化も必要)が重要だと言えます。
余談ですが、そういえば、攻殻機動隊のアニメでは、「笑い男」の話で、確かワクチンの利権に関わるものがあった気がしますが、なんだか、今の世の中とリンクしているところもあるように思いますね。(断っておきますが、私は陰謀論者のようなワクチン絶対反対派ではないですよ、また全面的・無批判にワクチンを許容しているものでもないですが)
マルセイユタロットとバランス性
マルセイユタロットの面白いところは、感性・心情的なものと思考・論理的なものとの両方が体験できるからなんですよね。
ですから、たぶん男性(あるいは女性でも思考をよくする人、感じるより考えることを先にしがちな人)にもお勧めできるのです。
で、やはりタロットなので、直感とかインスピレーションなど感性の世界とも通じるところがあります。タロットが女性に人気なのは言うまでもないところです。(男性でも女性的な感覚が多い人、考えるより感じるほうが大事になる人も)
私はと言えば、あれこれ調べたり、考えたりすることが好きなので、それら思考を整理してくれるものとして、マルセイユタロットは大変貴重なのです。
同時に、その絵柄と象徴から、心や感覚といったもの、つまりは見えない領域、あるいは潜在的なものまで(普段思考や常識ではとらえられないもの)浮上してくるので、すばらしいわけです。
そう思うと、本当にマルセイユタロットはバランス的にもよくできています。
ところで、私はそのマルセイユタロットを教えている男性講師ですが、受講者・生徒さんたちの多くは女性で、私はなるほど、タロットにおいては先生ではあっても、実は、皆さんから感性を刺激されている、もっと言うと学ばせてもらっている立場とも言えます。(実際に生徒さんに助けられることはよく経験しています)
その逆も言え、男性の論理性を女性側が刺激を受けている、学んでいるとも言えます。
では教える者、教えられる者は性が違わないといけないのかと思うかもしれませんが、そういうことではありません。ここで言っている性別は、見た目とか、一般的に言われる肉体的性別ではなく、本質的なまさに性質というべきもので、それを人間に例えているに過ぎません。もちろん人間の性別自体、それ(本質的な性質)と無関係では当然ありませんが。
ですから、女性同士、男性同士であっても、教え・教えられる関係性では、能動と受容のように、その立場そのものが性を表すとも言え、自分が男とか女とかは関係なくなります。
何が言いたいのかと言えば、結局はバランス性のことです。
私たちは、何かひとつの方向性や性質にこだわることもあって、それが究極への近道のように思われることもありますが、やはり、反対側の性質、真逆ともいえるものの(言い換えれば様々な)体験があって初めて、真の向上があるのだと考えられます。
まあ、やり過ぎたら力を抜くことも重要ですし、抜き過ぎたら集中したほうがよいこともあります。学びを受ける側だけ、受容するだけでは成長は為せず、自分から行動を起こしたり、思いを述べたりすることもバランス性です。
好きなことだけで成長し、幸せになるように思う人もいるかもしれませんが、おそらく、それだけやっていても、別の体験を促すよう、何かの問題が出てくるはずです。
仮に一時的に満足している状況にあっても、そのレベルどまりで、環境が変化したり、今までとは異なる状況に押し込まれたりすると、必ず何か問題として浮上し(問題性が自覚される)、自分自身の向上(レベルアップ)を目指さなくてはならなくなります。
人間における問題性は、マルセイユタロットで言いますと、小アルカナの次元で生じることが多く、剣・杯・杖・玉みたいな分野ごと、人によって個性的に生じます。
例えば、具体的に言えば、お金の問題、健康や精神の問題、家族やパートナー、人間関係の問題、仕事の問題などとなって現れるわけです。
それらはマルセイユタロットの大アルカナ的な見方によって、バランスを取ることが求められ、そうすることで、成長が図られ、問題を問題として感じないレベルに達するか、問題自体の解決(策)が見つけられるかにより、自身は変容します。
その際、バランス性を取るわけですから、逆のことや、今まで気づかなかったことに気づいたり、採り入れたり、反対に削ぎ落したりしていく過程が生じます。
そういう意味では、極端に言えば、堕落であっても成長の一過程と言え、自分の状態は、大きな視点から言えば、すべて受け入れること(どんな自分でも自分として認めるみたいな感覚)もできると思います。(なかなか実際には難しいですが、そういう気持ちになれる視点というものがあるということ)
二元とよく言われるように、ふたつの性質とか運動、エネルギーは、見方の違いによっては入れ替え可能にもなりますので、バランスということでは、ひとつのことに、常に反転した見方や考え方を同時にもっておくことが重要かと思います。
言い方で例えれば、していると思ったらされている、動いていると思ったら停止しているみたいな禅問答のような表現ですが、どちらでもなく、どちらでもある領域に新しい次元があると言えます。
「愚者」とその他のカード
タロットはあらゆるものの象徴として使うことができます。
マルセイユタロットにおいても、特に絵柄に特徴のある大アルカナにおいて、それは顕著です。(小アルカナも象徴になりますが)
そうすると、人を大アルカナ22枚で分けることもできますし、一人の人間に22の人格のようなものがあると考えることも可能です。
前者、人を22のタイプに分けた場合、それぞれのカードが表す主体の人物・性格の人があると見るわけです。
ところで、近ごろはYouTuberなど動画で稼ぐ人も多くなり、その他、自己発信が単独でも容易にできるツールが増えたことで、従来型の働きや稼ぎ方とは一線を画す人も増えました。
自由主義経済の中では、法律に反さない限り、どう稼ごうが自由ですので、それで生活ができ、自由な暮らしができるのなら、有力な選択のひとつにはなるでしょう。
一見すると、時間や場所、組織や会社などに縛られない自由な生き方として、もてはやされることもあるかもしれません。
ひところ独立起業ブーム、好きなことビジネスみたいに、自分がやりたいこと、好きなことを仕事にして暮らしていくみたいなことも流行りました。それは今もかなりあるようには思います。(むしろ、皮肉なもので、そうなりたい人を対象にしたビジネスのほうが多い気はしますが(苦笑))
これも悪いことではなく、むしろ、仕事や生き方の選択多様性が進み、より全体・社会としての自由度が高度になってきているとも考えられます。
ただ、何事もよいこともあれば悪いこともありです。
このように簡単に自分で何かをする、情報が発信できる状態になってくると、自由をはき違え、自分勝手、無責任な人も目立つようになりました。
タロットカードで言えば、「愚者」の中で問題性のあるタイプです。
「自分はこんな普通からはずれたことをしていても、人並み以上に暮らしていけるどころか、普通のサラリーマンより稼げているし、楽しく暮らしている」と述べる方がいます。
いや、別にそれはそれでいいのですが、問題なのは、その人たちのいう普通の人々、普通に暮らしている人たちをバカにしている(言い換えれば、自分の能力・知能・情報取集が優れていて、すべては自分一人の結果だと勘違いしている)ということです。
タロットカードの大アルカナは、構成上、「愚者」とその他21枚のカードに分けることができます。それは、「愚者」が数を持たず、ほかのカードたちは数(1から21の数)があるからです。
ただ、こう書くと、ほら「愚者」は、他と違って特別じゃないか、もし「愚者」を人として表せば、「愚者」タイプの人は特別な人となるんじゃないですか?
と思い、そういう見方からすれば、ほかのカード(ほかの普通の人たち)を見下してもよいくらいの特別感があると見えるかもしれません。
ですが、タロットがよくわかっていれば、決してそのような考えにはなりません。
確かに、「愚者」は数を持たず、ほかの大アルカナたちとは違うところもあります。
ですが、私たちマルセイユタロティストなら、こう考えます。「愚者」は、ほかのカードがあって初めて「愚者」足り得るのだと。
特殊性を持つには、その他大勢と呼ばれる普通・普遍的な多数がなければ現れないのです。(表すことができない)
つまり、多くの普通の人たちに支えられているのが特別な存在なのです。
「俺は他の者より自由だ」「私はほかの人と違って好きなことをしている」と言っても、そう言っている人たちがビジネスし、お金を得て、生活をしていく中で、手にしているもの、利用しているものは、誰がどのような過程をもって作り、届けられているのかということなのです。
例えば、「何もしなくても暮らしていけるはず、神は私を見捨てない」と、お金も持たず、今の日本で、旅を続けて行く人がいたとしましょう。
最初は自然のモノを採取したり、野宿をしたりして行けたとしても、次第にそれだけでは済まず、お腹が空けば人に恵んでもらい、泊まるところに困れば誰かに泊めてもらうこともあるかもしれません。旅人を応援する人とか、親切な人など、進んでいろいろものを提供してくださる方もいると思います。
それで数カ月、日本中を旅して、「とにかく生きてこれた、それどころか、楽しい旅ができた、なんて私は自由なんだ、働かなくても暮らししていくことができる、やはり神は私を見捨てない・・・」など語ったところで、どこかおかしいと、たいていの人は思うでしょう。
そう、たまにではあっても、人に施しを受けて命がつなげられたのは、確かに大きく言えば神のおかげかもしれませんが、具体的には言えば、人によって生かされたのです。
そしてその恵みを与えた人は、何らかの暮らしを行っており、おそらく労働やビジネスをしてお金を得て、生活しているはずです。旅人は、その一部に預かったに過ぎません。当たり前ですが、旅人が願えば勝手に食べ物が出てきたわけではないのです。
また現代日本においては、自然のものとは言え、勝手に取って食べることは禁止されているところがほとんどです。野宿ですらそうです。その土地の権利者、管理者に許可が必要なことが多いです。
となると、ほぼ誰か、人の助けなくしては、何も持たない旅などできません。そして、その助ける人こそが普通の人たちであり、普通に働き、生活している人たちなのです。
自分だけが「愚者」となって、特別感を気取ったところで、実はその他大勢の普通の人たちがいてこそ、「愚者」としての存在や生活が成り立っている構造なのです。
ただ、逆に、「愚者」という存在が現れるからこそ、私たちは夢を見て、希望を持ち、変革を起こすこともできます。
多くの普通の生活をされている方々に苦しみや閉塞感が伴い、それが限界まで来ると、「愚者」が現れ、「愚者」によって、その他大勢の世界に変容が起きてきます。
そうして、1から21のカードたち、言わば一般のその他大勢の人たち全体のレベルも上がるのです。
「愚者」になること、「愚者」であることは悪いことでありません。多くの人を救う(救いというより、勇気や希望を与え、閉塞した社会と自分を新たにするエネルギーを与える)こともできるのです。
しかし、悪い「愚者」としておごり高ぶり、その他たくさんの人たちによって支えられていること、そういう人たちに自分の自由が確保(担保)されていることを忘れていると、文字通り、「愚か者」になってしまうのです。
個性が発揮できやすい時代だからこそ、「愚者」とその他のカードとの全体性を見て行くことをお勧めします。