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繰り返しの物語
ふと、あるアニメ作品を再び(というか、その作品についてはもう何度も視聴しているのですが)見てしまいました。
それは「涼宮ハルヒの憂鬱」というライトノベルからアニメ化された作品です。もうだいぶん前の作品ですが、いまだインパクトをもって語られるアニメ界隈では有名な作品です。
個人的にはいろいろと気づきを得た作品でもあり、純粋にアニメ作品としても好きな作品です。
舞台のモデルになった地域も兵庫県西宮市で、兵庫県に住む私にはなじみであり、しかも広島時代に通っていた高校に何か雰囲気が近いので、ノスタルジックでもあります。
あの京都アニメーションが製作した作品ですので、凝った作画や演出もあります。
この作品には、いろいろと興味深いところや話題になったことがたくさんあるのですが、何より、一番の衝撃は、同じ話を8回にもわたって繰り返し放映した(と言っても作画とかセリフ、進行は微妙に毎回違うのですが、つまり毎回違うもはの作られていたわけです)「エンドレスエイト」と名付けられたそのストーリーで、当時リアルタイムで視聴していた者にとっては、いつ終わるかわからない、まさに地獄のループにはまったかのような感覚を味わったと言います。
私は幸い、再放送で見たことと、エンドレスエイトの回数も知っていたので、リアルタイムで見ていた人ほどの苦痛はなかったのですが、それでも、さすがに5~6回目になりますと、かなり苦しかったのは確かです。
この話はようやく、8回目の話で終わりを迎えることになり、その解放感たるや、すごいものがありました。今回の再視聴では、さすがに全部は見ることはせず(苦笑)、最初と途中、最後を見ましたが、それでも味わう解放感は、相当なものがありました。(笑)
すでに(アニメ界では)超有名な話ですから、少しのネタバレになりますが、何をループしていたのかと言いますと、主人公(語りのほうの主人公)たち高校生が、夏休みのある期間を何度もリセットして繰り返すことになっていたというものです。
話の中で衝撃的なのは、そのループ回数です。もちろん話ごとにループ回数は変わる(何度もループしているという設定なので)のですが、二回目の話の時点で、すでに一万五千回を超えていたのです。もう二万回にも迫ろうかという、ものすごいループ回数です。
そんなにループを繰り返していたら、もしすべてを記憶していた場合、楽しい夏休みどころか、地獄でしかありません。ちょっと意味的には異なりますが、絶えることのない間の苦しみが続くという意味では、無間地獄そのものと言えましょう。
ところで、輪廻転生説というのがあります。簡単に言えば、繰り返し生まれ直すという説ですが、もしこの輪廻の繰り返しをネガティブ的な苦痛なものととらえると、このアニメ作品の「エンドレスエイト」みたいなことになるのではないかと感じました。
アニメの視聴者は、たった8回の繰り返しを見ていたに過ぎませんが、それでも強烈な苦しみでした。
同じことが続く、変化がないということは、一見平和で穏やかなようですが、これほど苦痛でもあるのです。ましてや作品内の者たちは、万を超す繰り返しにはまっているのですから、記憶がないから助かっているものの、全部ループ内容を覚えていたら、とんでもない地獄となります。(余談ですが、登場人物の中で、ループをすべて記憶している者がいて、その者があとで事件を起こすことになるのですが、そりゃ仕方ないよね、と理解できるものです(笑))
マルセイユタロットに内包される思想にグノーシスというものがありますが、原理的なグノーシス思想では、この現実世界は悪魔(デミウルゴス)が創った世界で、真の(神の)世界は別にあるとされ、私たちはそこに戻る必要性があると説きます。
「エンドレスエイト」ではありませんが、グノーシス的に言えば、私たちは、悪魔デミウルゴスの世界にいることで、ずっと地獄のような輪廻転生・ループ世界を彷徨っている(閉じ込められている)ことになるのかもしれません。
さて、ループと言うと、哲学的に思いつくのは、ニーチェの「永劫回帰」です。ニーチェの永劫回帰は一般的にわかりづらく、私もきちんと理解しているわけではありませんが、哲学でループ説を提示したのは面白いところだと思います。
しかしニーチェの永劫回帰は、輪廻転生とは真逆とも言えるものです。
私たちは同じことをただ繰り返しているだけで、それに意味はないというものだからです。まあいくら選択肢がたくさんあっても、何度も繰り返せば、まったく同じパターンで同じシチュエーション、同じ選択というものを、いつかはすることになり、その意味では、何をやっても変化はない(同じことは繰り返される)と言えるわけです。
そうすると、まるで生きていることに意味はないというようなことにも行き着き、それゆえニーチェにはニヒリズム・虚無主義という思想も言われるのですが、私は、ニーチェの超人思想からしても、実はそれは、虚無から有と言いますか、真の実存に迫る考えにもなるかと思っています。
マルセイユタロット的には、「運命の輪」と「悪魔」との二枚で象徴されると思うのですが、何度も同じパターンを繰り返していると、完全飽和みたいな状態に達し、そこからループの終わりのようなものが見えてくる可能性があると思えるわけです。しかし、なまじの気づきでは、「悪魔」の世界の遊びのまま(支配のまま)です。
結局、グノーシス思想的なことになりますが、私たちが「生きる」という形のループを取ることで、完全性を目指しているとも言え、それはただ一人のループだけに留まらず、人類全体・宇宙全体ですらループしており、その経験値が飽和を迎えると、「悪魔」からの縛りは解除されるという例えになります。
先述のアニメ、涼宮ハルヒの「エンドレスエイト」においても、登場人物たちは作中で、ループに気づくシーンが何度もありました。同時に、最終的にループを脱出したきっかけも、何万回と繰り返してきた過去(時間的に過去というのはおかしいかもですが)の自分たちによる後押し(デジャヴュ)があったからと語られます。
過去に消された、リセットされた一人一人のループ人生に「意味がある」とする(意味を与える)ことで、その力は蓄積され、ある種の目的力を持ち、解放に向かうのだということです。
虚無から有意義に、しかしそれは結果だけを大事にしたり、プロセスが重要と過程・経験を過剰に持ちあげたりすることではなく、一度、「人生には意味がない」というくらい虚無的な感覚を持つことで、だからこそ、長大な俯瞰した視点と、その時その時の他人やほかから植え付けられる価値観とか影響からも解放され、真の(神の)とも言える自分自身に戻り、霊的な実存性を獲得できるのではないかと考えます。
ニーチェの超人思想とはまた別かもしれませんが、ちょっと似ているところもあるのではないかと感じます。
生きる意味はあるようでない、ないようである、禅問答みたいな話ですが、その両方に気づかせてくれるのが、実はマルセイユタロットの「悪魔」でもあるのです。
アセンションについて
スピリチュアルな世界、精神世界の考え方のひとつに、「アセンション」というのがあります。訳としては「次元上昇」と言われますが、ちょっとわかりづらい表現です。
まあ、簡単に言えば、私たちのレベル全体が上がるよ、それで世界が変わるよ、ととらえていいかと思います。(笑)
それで、「上がる」「変わる」と言っても、それは物質的なのか、霊的(精神的)なのかという点では、また違って来ます。もし物質的にも変わるのだとすると、見た目も何もかも変わるということになり、それこそ世界大改変といった現象として現れるでしょう。しかし、霊的・精神的な変容だとすると、内的には変わっていても、見た目、外的にはさほど変化はないのかもしれません。
もっとも、スピリチュアルの基本的な考えは、内が変わって外が変わる、あるいは外は内なるものの投影みたいに言われるところがありますから、霊的変化そのものが物質面も変えることになるのかもしれません。
グノーシス的にはおそらく認識の次元が変わると言いますか、深まる(高度になる)ことで、世界(宇宙)の見え方も変わる(それは空間認識の変化も意味する)のだと考えられます。
さて、ここで、よく言われるのは、宇宙は進化や発展の波・流れというものがあるので、どの道、人類も進化していくことになり、いわゆるアセンションも、時期が来れば自然に起きるのだという説があります。
一方、一人一人の気づきや努力が、アセンション(を起こす)には必要という意見も少なくありません。
前者と後者とでは対立してしまいますが、考えによっては、どちらも正しいとする見方ができるでしょう。
個人的には、霊的時間と物質的時間とに分けて考えないといけないかなと思っています。言い換えれば、アセンション後や、今の私たちの通常認識を超えたレベルの時間感覚と、三次元認識の現在の私たちの時間感覚では違いがあり、両者を区別して考えないと、おかしなことになるという話です。
ここからすると、宇宙の流れに従い、自動的にアセンションしていくという(受動的な)考えと、自己(各々)の努力、気づき、働きかけが何よりも重要という(能動的)考えの統合ができるように思います。
その詳しい考えの解説は、あえてしません。皆さん自身で考えてみてください。(笑)
マルセイユタロットで言えば「運命の輪」に描かれていることだ思いますし、「運命」というものをどうとらえるかによっても、アセンションに対する考えは異なってくるように思います。
願望はたくさんあり、移ろうもの
タロットを学んでいる人では、大アルカナと小アルカナの意味と言いますか、レベルのようなものが違うことはご存じだと思います。
もっとも、同じ階層で両者を扱うこともできるので、一概に大と小で異なるとは言えませんが。
それで、まあこれもひとつの考え方に過ぎませんが、私の中では、マルセイユタロットにおいては、大アルカナそれ自体、そして小アルカナそれ自体にも階層やレベルがあると見ています。(正確にはそういう見方ができるということです)
それらを考察していますと、まるで人間の中にもそのような(異なる)階層・レベルがあることがわかってきます。
そうすると、人の願いや思いというのも多層だとみなすことができます。この考えに立てば、あなたの今の願望とか欲求、さらには尊いと思っている気持ちでさえも、実はたくさんあるの中のひとつに過ぎないということも言えるのです。
さらに、人間には一生がありますから、自分の年齢や世代によっても思いは移り変わります。それくらい、自分の思いというものはひとつではないですし、移ろいやすいものなのです。
そして、人は自分の思いや願いに対して、それが叶ったり、満足したりすることを望みます。まさに「願望」という文字のごとしです。すると、その願望を満たす答えや方法というものを探し、よい結果を求めます。逆に言えば、結果とか答え(への評価)というのも、自分の抱く願望によるということになります。
何が言いたのかと言えば、現実に対して抱く思いも、自分の願望によるところが大きいということと、その願望は永遠に変わらないものではなく、むしろ移ろいやすいもので、しかもたくさんの思いの中の少数であるということなのです。
現実が願望によるところが大きいのなら、あなたの今の現実(への評価)は今の願望によってできていると言ってもいいのです。
ですから、生きづらさを抱えている人は、願望や思いの種類とか性質を変えてみると、少しはましになるのではないかと思うのです。それは、マルセイユタロットに描かれている階層やレベルで整理していくと、さらにはっきりするのです。
自分の今の思いは、どの種類でどのレベルのものか、それがわかりやすくなれば、願望を叶えようとする行動も取りやすくなりますし、また、それ(その願望)は、本当は今は必要ないなという気づきが得られれば、願望を満たされる・満たされないの葛藤からも解放されますので、すっきりするというわけです。
今のこの世の中は、経済中心主義みたいになっていますので、売り買いを促すというものが行動や心理の原理原則として働いていることがあります。すると、私たちは「買いたい」「持ちたい」という願望を無理にもたされている部分もあると言えましょう。
要するに、洗脳的に他者から刺激を受けて願望をもたされているということが多いのです。自分の願望だけでもいろいろとあるのに、他者からの押し付けられた(生み出された)願望も増えれば、それらを満たすためには、大変なエネルギーがいることは誰にでもわかるでしょう。そりゃ、心も体も消耗するはずなのです。(笑)
マルセイユタロットの「13」のように、シンプルに願望をそぎ落とすことも、人生を乗りこなすのには必要なことかもしれません。
「月」のカードを簡単に
これまで、ここ(HPサイト)のブログは、アメブロ保管庫みたいな役割で、アメブロ記事をそのまま転載していたのですが、しばらくアメブロの方を休止することにしたので、これから、たまに、こちら(このサイト)だけのオリジナルな内容のブログを(比較的ライトに)書いてみようと思います。
マルセイユタロットのリーディングや、その意味において難しいといわれている大アルカナのカードに「月」があります。
以前、この「月」の象徴理解についての段階(進度でもあり深度とも言えます)を記事にしたことがあります。(あくまで私個人の見解をもとにしたものですが)
その記事(過去記事にあります)は、いわば、「月」の象徴を、個人の意識から人類全体への意識へ拡大移行して解釈するというものになりました。
ただ、実際のリーディングは、個別の対人というのがほとんとですから、結局、そのレベルにおいては、個人の感情と関係させることが多くなるように思います。
今までの経験上、リーディング展開において「月」が出るということは、簡単に言えば、気持ち(感情)に注目せよ、というタロットからのメッセージだと考えられます。
ほかの(出ている)カードとの関連によって、その「気持ち」というものをどう整理(処理、浄化)させるか、あるいは大切に見ていくか(守ることにもつながります)が決まってきます。
いずれにしても、人は感情の生き物とも言われるように、自分(あるいは他人)の気持ちを放置して行動していても、どこか違和感が出たり、すっきりしなかったりするものです。
もうひとつ、「月」のカードから、皆様にアドバイスしたいのは、「月」のカードが重要な位置で出る時、何か白黒はっきり決めたい意識が強すぎていないか注意する必要があります。
この場合、何か、狭い視野や自分に課したルールによって、選択が狭められているおそれがあります。
「月」はその絵が示すように、ぼやっとした不透明な印象のカードです。
また象徴的に見ても、毎日昼と夜がはっきりする太陽とは違い、月は夜に輝くのを基本としながらも、日中に見えることもあります。そして、月は自然のリズム、もっと言えば生命のサイクルにも関係しています。そういう(自然や命のような)ものは、突然現れ突然なくなるものではありません。生み出され、死滅していく期間、流れというものがあります。
ですから、今すぐに何かを絶対決めなくてはならない、というのとは真逆とも言えるのが「月」の象徴からも出るわけなのです。
マルセイユタロットの大アルカナでは、「月」の次に「太陽」のカード順になっています。
「太陽」の状態になるために「月」の過程は必須であり、そのため、「月」が人によっては、何か不穏ではっきりしないように思えても、その人自身や、何かの成就・覚醒にとっては必要な状態であり、時期なのだと“受け入れる”ことで、あなたは「太陽」の子どもを「月」の母として育てていることになるのです。
天上と地上世界との間で
これも見方や立場によって、いろいろと言えますが、私自身は、マルセイユタロットには、天上的なものと地上的なものとの思想対立とでも言いますか、葛藤が描かれているように思えます。
今のスピリチュアルに関心のある方たちの多くは、理想的には、そういう天上と地上の葛藤があっても、それらを統合していけるものという思いがあるでしょうし、また、地上的繁栄と天上的繁栄はリンクしており、言わば、精神的・霊的成長があれば物質的にも恵まれるという考えもある(実体験のある人もいる)でしょう。
しかし、マルセイユタロット的には、地上的なものと天上的なものは、結局、レベルとか次元が違うので、地上から天上を見るのと、天上から地上を見るのとでは、同じようでいて、まるで異なることではないかという気がしています。
もう少し別の言い方をしますと、私たちの視点は常に地上から天上へという方向性であり、地上における幸福や充実、発展、成長といったものを見ます。
私たち一般の人間が、幸せだとか充実だとか善だとかと考えたり、感じたりするものは、どうしても短期的(人の一生か、せいぜい親子・孫世代くらいまで)で、人間の実生活に基づく、肉体的・物質的なものが中心となります。
たとえ観点が精神的なものであったとしても、個人の心が思うもの、もしくは集合的であっても、その人類としての全体意識みたいなものとなります。
これが天上性からの方向性になりますと、言ってみれば神目線のようなことになりますので、非常に長期的、俯瞰的、宇宙的レベルなものとなるのは予想され、一人の人間の幸せ感(観)がどうこうとかのレベルでは当然ないでしょうし、たとえ人類全体規模であっても、しょせんはそれも小さな地球規模みたいなものです。(もっとも、宇宙は地球しかなく、その反映として、ほかの惑星や宇宙があるかのように見えているという説もありますが)
ということで、私たちは、地上生活を頑張って生きているわけですが、その過程や結果が思うように行かないことになるのは、誰もが経験していることだと思います。
それは地上的に見れば、不幸だとか失敗だとか、ちゃんと努力しいるはずなのに・・・と不満や理不尽さを感じさせるものではあっても、天上的に見れば、きちんと理屈が通っているものではないかということです。
マルセイユタロットの「神の家」ではないですが、天上的視点から見れば、地上の苦しみにも意味があり、それも真の幸福につながっているのだという視点です。
なるほど、これに基づくと、地上性と天上性とではレベルや次元の違いが大きく、私たちは天上ルールを推しはかることができないので、地上的幸福として人間レベルで見るのが普通となるがゆえに、天(天上・神)の真の意図がわからず、地上の不幸や災厄の本当の意味を知ることができないということになります。(逆に言うと、天からすると、すべては公平で完全、真の幸福に向かっていることになります)
ところが、そうでもないかもしれない、というのが今日の趣旨です。
実は、天上的レベルが、私たちのいる地上的レベルによって、まるで光が屈折して曲げられてしまうかのように、何か虚像、鏡像のように、(地上において)本当の姿でとらえられなくなってしまっているからだとも考えられるのです。
詩的にあえて表現するのなら、天上の光が正しく届いておらず、偽物の光を受けて、地上生活を照らしてしまっている(つまり影を見ている)状態だということです。
ですから、いくら地上的に平和を見ようとしても、そして天上的な立場に近づこうとしても、私たちが見ている世界そのものが虚像と言いますか、幻想のようになっているので、どこまで行っても平穏(真の安寧・幸福)はないみたいなことにも感じます。
ふと、ここで般若心経の文言が出てきます。
般若心経では、ひたすら、「そんなものは無い」の無い無いづくしに終始します。無いからこそ最上だみたいなことのようにも聞こえます。
スピリチュアルや心理系の世界では、肯定していくことが尊重されます。
しかし、否定し続けて行く方法もまた、真理に近づく道かもしれません。
地上そのものと、地上における欺瞞の天上性をすへで否定し続けていくことで、そこに現れる真の光(グノーシス)というものがあるのかもしれません。
一件、逃避的で破壊的、虚無的行為のように映るかもしれませんが、地上の苦しみの中にある人にとって、否定というのは、悪い思想行為とは思えません。むしろ救いの道の一つではないかと想像します。
地上における理不尽で大変な生活をしている人、あるいは、何か違和感を覚え、暮らしている人にとっては希望となるものです。
それこそ、個人的な感覚でいえば、下手な肯定よりも否定に愛があるように感じます。
本当にいろいろな道や選択はあるのだと思いますが、さらなる探究をマルセイユタロットを通して続け、自他ともに常識の世界(地上世界)からの希望と救いを見い出したいと思っています。
そして、諸事情で、しばらくブログ活動は休止いたします。(再開はする予定です)
またの日までは、過去記事もたくさんたまっていますので、お読みいただければありがたく思います。
それでは。