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「13」の無我夢中
マルセイユタロットのカードの「13」を見ていますと思うことがあります。
一般的に見て、このカードは最初にはやはり苦しそうに見えます。大きな鎌をもって容易ならざる作業をしているように感じます。
絵柄の人物の姿形も骨身であり、まさしく「骨身を削る」ような苦労をともなっているのでしょう。
こうした状態を実際の私たちの人生にあてはめると、それは苦難や試練ということになるのかもしれません。
試練や困難なことと聞くと、一般的に、「これはあなたにとっては大変でしょうが、自分を磨くためのよい体験なのです」と人から説明されることがあります。
「13」のタロットカードということに限らず、仕事や病気などの取り組み方として、普通に説教的に聞かされる話かもしれませんね。
それはもちろん大切なことであり、確かにその通りの面もあるでしょう。
しかしタロットの「13」からは、そのような「一般論」的な物の見方だけではない事柄も浮かんできます。
大変な時、一体私たちはどのような状態にあると言えるでしょうか?
おそらく心も現実的な行動もパニックになっているかのような混沌・混乱の中にあると思います。
クリアーに先や解決策が見えていたら、そんなにあせる必要も苦しみ続けることもないからです。
ですから真に大変な時というのは、「闇にある」状態と言ってもいいです。
闇の中でもがき苦しみ、悩んで私たちはいろいろと必死に考えたり手を出したりすることになります。
たいていは冷静さを欠いていますので、いわゆる「失敗」と思えるようなことを引き起こしてしまいます。その意味でも闇と言えるかもしれません。
まさに「盲目・手探り状態なのに手当たり次第」という感じが苦しみ時の人の行動です。
その結果で「やってしまった!」「ますますドツボにはまった・・・」ということは多くあるのですが、しかしながら必死なので、普段冷静な時には決してやらなかったようなことさえもやってしまうことがあります。
普通自分ではありえないことを思い、ありえないことをしてしまうのですね。
それは言ってみれば常識の境界線がはずれるということです。
これが悪い方向に働けば、自分や他人にも迷惑や危害が及ぶことにもなりますが、それほど強烈だということでもあります。
けれどもいいにしろ悪いにしろ、これまでの自分の常識を超えるわけですから、そこには突然の変革、大きな変容の道が切り開かれることもあるのです。
言い換えれば自分の殻が破れるのです。
そのことは当事者であるその時の自分にはほとんどわかりません。なぜなら苦しみの渦中にあって、とても自分を客観視することなどできないからです。
あとで救われ、落ち着きを取り戻した時に、「ああ、あの時は必死でわからなかったけれど、とんでもないことをやってしまったなあ、でも自分にもそんなところがあるんだ」と気がつきます。
人には普段発揮されない潜在的に隠された大きな力が眠っていると言われています。
その扉を開くのが「13」の体験なのかもしれません。
自分が本当に苦境に陥った時、人間の生存本能、眠っていたDNAの能力にスイッチが入るのかもしれません。
それは自分自身を生まれ変わらせるための実際的な儀式とも言えます。
マルセイユタロットでは正義から数の順番で続く13までの一連の流れが、まさに今回話してきた内容とつながっていくように感じます。
そして苦しみの変容のあと、待っているのは天使の「節制」の姿なのです。闇の中には混沌であるだけに、様々なものがあり、天使の種も入っていると言えましょう。
講座におけるシンクロニシティ
私の行うタロット講座では、実際に自分あるいは人と組んでのリーディング演習を行います。
講座を通じて何度も自分のテーマ(問いの内容は違いますが)でリーディングを行うことになりますので、自然、自分を見つめ直すことにつながってきます。
そもそもこのような時間をもつことだけでも重要な意味があります。
なぜならば普段たちは忙しさによって、または習慣や惰性によって自分自身をゆっくり振り返ったり、見つめたりすることはないからです。
ところが、そのような私たちでも日常において、自分のことを見なければならない時があります。
それがいわゆるアクシデントや問題と自分が思う事態が起きた場合であり、もうひとつは何かを行いたい、得たいというような願望を強く抱いた時といえるでしょう。
要は今の自分(心理・スキル)では対応しにくい状況が生じると、自分に立ち返らざるを得なくなるということです。
ということで別にタロット講座などに出なくても、人生において自分を見つめる時は否応なくやってくるといえばそうなのですが、あまりアクシデント的にやってきてほしくはありませんよね。
ですからあらかじめ見つめる作業をやっておくと、少しは楽にはなると考えられます。
いわば自ら先に修正をかけておくというスタイルです。そしてまた修正する道具やツールを持つことも今後において大きな意味で有利に働きます。
そうして講座に参加し、自分をテーマにリーディングしていくと、不思議とお題は異なるのにいつも同じカードが出たり、似たような傾向をタロットが示したりすることがよくあります。
私は多くの生徒さんの演習を見てきましたが、その確率は偶然を明らかに超えていると感じます。
タロットはシンクロニシティの世界です。目に見えないこと、普段とらえがたいメッセージを偶然引いたカードの中に意味を見いだすものです。
偶然のように思えない出方や感じ方をすれば、それはシンクロニシティ・必然であり、意味あるものと考えるのです。
その中でも誰が見ても必然と思える現れ方をすればするほど客観性を持ちますので、メッセージ的にも強いと信じることができます。
何度も同じカードが出るようなことはこれに相当するものとも考えられ、そしてそれがその人の現在の課題であり、テーマであると容易に想像できます。
それはカードからの単純な意味だけには留まりません。たとえば仮に何度も「愚者」の出る人にとって、「愚者は自由を表すからあなたのテーマは自由ですよ」などと言うのは浅はかなのものです。
「愚者」には様々な意味がありますが、たくさんの意味がもともとあるのではなく、意味を人がもたせているのです。それは「愚者」に限らず、どのカードでも言えることです。
もしかすると「愚者」は逃避も象徴しているかもしれませんし、逃避と自由は奥底では「つながる」こともよく考えればわかってきます。
ということは、その「つながり」の核の部分こそがその人のテーマであると指摘することができます。それは一言の言葉では表現できないものであり、その時のそれぞれの人によって意味が変わってくるものでもあります。
禅問答みたいになりますが、全員にもわかる「愚者」の意味と、その人の今にしかわからない「愚者」の意味があり、それらは言葉としては別々ですが実は別ではなく、潜在的にはつながっていて共通しているのだということです。
なんだか難しいなぁ・・・と思われるかもしれませんが、心配しなくてもOKです。
やっているうちに上記の例でいえば「愚者」が何を指しているのか、直観的にわかってきます。
ですからたいていこうなります。
「また愚者が出てますよね?」
「ええ。。。また出ているんです」
「もう何かは、あなたにはわかりますよね?」
「はい、たぶんこういうことなんだろうなと・・・わかります」
「それが答えですね」
「はい(深くうなずく)」
と別に意味を言わなくても心で把握することができるようになるのです。
これがタロットの象徴の働きであり、直観で本質を理解するということの一例になってきます。
誤解や齟齬を招く「言葉」は、時に不要となるのがタロットの世界です。(人に伝える場合はもちろん言葉・言語は大切です)
ちなみよく出る自分のその時のテーマとも言えるカードの象徴を理解すると、これまた不思議なことにそのカードは出なく(その時のテーマにおいて)なります。
タロット学習においてのヒント
タロットの種類によって、その一枚一枚の象徴する事柄も微妙に異なってきます。
それはもちろん絵柄による違いが大きいでしょう。
仮に楽しそうに歩いてる人物が描かれている絵を見て、「落ち込んでいる」「泣いている」「止まっている」「恐ろしい感じがする」というようには感じないと思います。
ということはまずタロットで大切なのは、何よりも絵柄だと言えます。
ですからたいていのスクールや先生は「絵からの印象」「絵を見て感じる感覚」を大切にされていらっしゃると思います。
そしてそれがやはりタロットリーディングへの第一歩になります。もちろんあくまで第一歩であり、ここから感覚だけではないものも学び、融合させていく必要はあります。
ただ実のところ、感じ方と言っても人それぞれであり、さらに言えば先生や教えてくれる人の語るカードの印象や意味というのも、突き詰めればその話す人の主観です。
このカードはこういうことを示すのですよ、と伝えられてもそれはその語る人が感じている、または抱いている印象と知識であり、それが伝えられる側の全員に共通した感じ方ではないということはあると思います。
それでも、たとえ違和感を感じたとしても、「ふーん、そうなんだ」となんとなくか無理矢理にでも納得させてしまうでしょう。
そうして最初は受け売りみたいなこと、先生(参考書の著書でも同じ)が言われたからそう信じるというようなことでタロットの印象と意味を覚えて行きます。
よって当初は自分のタロット観は、習った先生や影響を受けたテキスト・書籍からのもので作られると言ってもいいでしょう。
従ってタロットを習うことにおいて最初の選択は極めて重要です。
と同時に、習いながら考えてほしいのは、先生の言っていることや本で書いていることを単純に暗記するのではなく、なぜそのような意味になるのか、なぜそう感じるのかを自分の頭と感覚で再度検証してほしいということです。
その過程では先生の言っていることとは違った意味がカードから出たり、自分としてはこのカードはこのようにとらえたいという「自分なりの感覚と意味」がはっきりと出てきたりします。
そのうえで、先生や書籍が示したこととどうつながるのかを見る時、その奥底にあるカードが表す「元型」、コアな核のようなものがわかってきます。これが非常に大切なのです。
絵柄と元型は結びつきますので、タロットの種類によっては、たとえ同じ名前・数をもっていても違った解釈になることはありえるのです。
違った解釈や意味になっても、そのカードの表す元型がとらえられていたら、それはOKなのです。
そして結局はタロットの真の理解は自分体験によります。いつまでもテキストや先生の講義の録音に頼っていると、なかなか自分体験が訪れませんので注意してください。
また教えられる先生や伝えられる本によっては、言い方・書き方が誰でもわかるようなうまい例えで普遍化したものになっていたり、「魂がこもる」と言いますか先生自身の実感に基づく語りになっていたりすると、タロットと自分体験がまだ結びついていなくても、心に響いてくる場合があります。
上っ面の、どこかの本で読んだだけの知識をなぞって話しているような方の講義は、やはりそれ相応のものとして受講生にも表面的に伝わるだけです。
それは楽しいとか面白いとかというものとは別です。
確かにつまらない講義、面白くない話は講義としては問題ですが、「あー、面白かった」「楽しかった」だけで何も残らないような講義もレクリエーションとしてはいいかもしれませんが、学びとしては不足だと言えるでしょう。
とはいえ、タロット教室や書籍の選択なども、自分の求めるもの・思考・レベル・感覚によって同じ傾向を持つ人かまったく逆の自分にはない魅力のある人にひかれるところがあります。(受講生同士でも)
それはまた縁と呼ばれるものによっても関係が生じます。何気なく申し込んだ教室が実は自分の人生を変えるきっかけになったということもタロットでは起こりえます。
何を選んでも実は失敗などいうものはありません。自分のその時の判断・価値によって選んだことなのです。何かの意味がきっとあります。
そして総じていえるのは、その選んだ教室よりもそのタロットが自分が好きなのかどうか(最初はわからなくても学んでいるうちにわかります)、ということが重要です。
また教えている人がそのタロットのことを語る時、どれだけ魂がこもり、活き活きしているかということも判断の材料のひとつとなるでしょう。
どんなカードでもタロットなのか。
タロットはそのカードの種類にかかわらず、私はすべて象徴体であると考えています。
本来タロットは78枚をひと組とし、22枚と56枚の大・小のアルカナと呼ばれるカードグループで構成されているものです。
しかし世に「絵の描かれているカードは」結構「タロット」だと、皆ひっくるめて呼称されているケースも見受けられます。
ここでどれが正しいとか間違いとか言い出すと余計ややこしくなります。
ただある条件や設定を入れることで、タロットとそうではないものを区別することはできるかもしれませんが、そうした条件がなければ、何でもタロットになってしまいます。
もう一度言いますが、今回はそれに対していい悪いの(どれが正しいタロットなのかそうでないのかという)評価はしません。
それで何が主題なのかといえば、カードによる「象徴」の働きと型というテーマについてです。
私はおそらく人類にはある共通の認識パターンのようなものがあると思っています。それはユングらのいう「元型」といううようなもので考えてもよいかもしれません。
とにかく、皆が同じように思ったりとらえたりする「型」があるのだとします。
その型は行き着くところ、根源的にはひとつかもしれませんが、「型」ですから様々なタイプに分かれていきます。
それが22であったり78であったりするのがいわゆる一般的なタロットと言えましょう。
でも先述したように「絵」のついたカードを一応タロット的なものとすれば、その数、つまりカードの枚数は40であったり54であったり、いろいろです。
要は根源から分かれた象徴の型が、ある「とらえ方」(「とらえ型」でもあります(笑))によって何枚かにパターン化したのがカードであるということです。
極端なことをいえば、コインの表裏さえもふたつのタイプ・型として象徴することもできるのです。
この観点からいえば、どんなカードであろうと象徴にはなりえます。
ただ、システムとしてうまく機能するかどうか、一枚一枚の意味はもとより、全体として統合された場合、根源に還ることができるかということが大切なポイントだと思います。
たとえば、同じような型なのにさらにわけてしまっているようなことはないか? ということも見ないといけません。
このあたりは少々難しいことになりますが、幾枚かに分かれて象徴として表現されているカードでも、それぞれが同じレベル(次元)で分けられているかということが重要なのです。
たとえばAからZというカードがあったとして、よく見るとCとHがAの意味をさらに細かくわけたに過ぎない象徴であるというような場合です。
AからZは同レベルにおいての象徴でなければなりませんし、または意図をもって、一例としてAからMは上の次元で、NからZはその下の次元になっているようなグルーピングが必要です。
伝統的なタロットの場合、このあたりはやはり結構正確に整理されているように感じます。
ですからどのカードでも象徴にはなりえますが、マルセイユタロットは象徴ツールとしては中でも非常によくできていると個人的には考えています。
タロットリーディングの副産物のようでいて主産物であるもの。
昨日はタロットリーディングにおいての質問(問い・相談内容)のポイントを絞ることの重要性をお話しました。
そして実はタロットリーディングというのは、単にタロットを読むことの技術の意味だけではないということを予告しておきました。
今日はその話題です。
まずいきなり回答を言いますと、タロットリーディングによって身に付くことのひとつに、コミュニケーションの問題を解消したり、その能力が上がったりするということです。
特に人に対してタロットリーディングをする場合はそれが顕著です。
一人の時(自分リーディング)でも、自分とのコミュニケーションになりますので、やはり意味はあります。
自分とコミュニケーションする? おかなし表現ですが、タロットを使うとこれは可能です。
つまりはタロットによって自分の心を映し出すような働きであり、自分の内側をカードで象徴させながら自問自答していくわけですね。
これは皆さんが思うよりも高い効果があります。というより、本来はこのような使い方がタロットの本質に近いと思えます。
そしてもちろん人に対してリーディングする場合は、コミュニケーション(の能力・技術)は大きなポイントとなります。
相手との会話能力が試されますし、それも単なる雑談ではありません。人の悩み事を聴くのですから、そこには、あるテクニックも伴います。
タロットリーディングによってこうした訓練を重ねていくことになりますので、コミュニケーションの能力は必然的に上がります。(でたらめにやっても意味はありません、フィードバックや指導はいります)
そしてコミュニケーション能力だけではなく、問題の把握の仕方、とらえ方もこれまでとは違ったものになってきます。
相手の言おうとしていることは何なのか、問題の本質はどれなのか、こういったことがわかるようになってくるのです。(技術として、あるいは直観能力の向上として)
さらに物事の取り組み方への意識も変わってきます。
それは昨日の話で、クライアントの質問のポイントを絞ってリーディングするということを指摘しましたが、このことが理解できれば、普段の仕事などの分野においても活かすことができるようになるのです。
たとえば今まで漫然と作業に取りかかっていたものを、どこかポイントを絞ってやったほうが効率的になるというようなことです。
そんなこと(ポイントを絞ることなど)は知っているし、タロットリーディングしなくても当たり前に皆やっていることだと思うでしょう。
しかしながら知っていてもやっていない、あるいはやっていることを意識しないことがほとんどなのです。
タロットリーディングをすることによって実際にそれを経験し、その訓練を積み、習慣化することができます。さらにタロット画像として確認するのでイメージとしても心に刻印されます。
それが無意識の事柄を意識上に昇らせ、さらに整理して再度無意識に落とし込むことになり、無理のない行動力にもつながってくるのです。
大げさにいえばタロットリーディングすることは人間を磨くことにもなってきます。ですから実際、講座においてリーディング練習をすると自分の苦手なところも出てきます。
それはタロットを読む技術の問題も最初はありますが、実は自分のブロックであったりネガティブに意識したりしている人間(の成長)としての課題であることがあるのです。
「しんどい分」だけ、それを克服した時の喜びもまた大きいものがあります。
不思議なことに、リーディング(練習)で出るカードは相手の問題なのに、自分の課題であったり、時には自分を励ましてくれるかのような出方をしたりすることがあります。
私はこのような時、やはりカードは生き物であり、タロットの精霊が存在していると思うのです。