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タロットを数で分けたり、まとめたりする。

このブログでも何度かふれていますが、タロットは絵柄による象徴のカードなので、数がメインとなるわけではありません。

それでも、数秘術による考え方、読み方をタロットで使う人もよく見ます。

別にそれはそれで構わないとは思いますが、タロットの本来である絵を元にしたリーディングを差し置いて、数の解釈を重視し過ぎるのは、もはやタロットリーディングではなく、数秘術だと言ってもいいかもしれません。

たとえば、引いたタロットカードの数を全部足して、その数を持つタロットと関連させるなどという手法はよく見かけますが、それ(数を足す)以前に、出た(引いた)カードそのものを、まず注目すべきだと思います。

もっとも、矛盾するようなことを言いますが、数は無関係ではなく、タロットの情報のひとつとして数にふれていくことも、リーディングのひとつの技術だと考えています。

つまりは、タロットリーディングにおいては、どこまで情報として扱うのかというルール(設定)によって変わってくるということです。

数を扱うことによって、リーディングの質が上がるのなら、それ(数の解釈)を採り入れるも、よいことかもしれません。逆に、数を意識し過ぎてしまったがために、読みがブレてしまった、タロットが伝えていることがよくわからなくなったというのなら、本末転倒です。

やはり、タロットリーダーとしては、数よりも、タロットの絵柄の象徴性を重要視したいものです。

とは言え、数を関係させてタロットを見ることは、リーディングだけではなく、タロット研究の意味でも、タロットの複雑で精緻な部分が見えてくることもありますので、数に注目するのも興味深くはあります。

たとえば、大アルカナにおいて、ある基準の数をベースに、まとまりや関係を持たせると、不思議な構図のようなものが出現します。

比較的有名なものでは、「7」を基準とするもの、「10」を基準とするものなどがあります。

「7」でも「10」でも、大アルカナは22枚なので、どちらにしても割り切れません。

「7」を基準にした場合、22枚の大アルカナは、3つの「7」ベース(ひとまとまり)ができ、余りは1となります。

この余りのカードを「数を持たない愚者」に当てはめると、3×7=21枚(それぞれ数を持つ大アルカナ)のカードと「愚者」という具合に、うまくひとつの図ができあがります。

これはカモワン流ではタロットマンダラと呼ばれる図であったり、ユング派でマルセイユタロットを使う人にも、心理的な完成図・モデルとして図示される形です。

一方、「10」を基準にすると、大アルカナの場合、ふたつのグループができ、余りは2枚のカードになります。

ホドロフスキー氏などが提唱している見方では、1から10の数を持つカード、11から20の数を持つカードグループと「愚者」と「世界」はその枠から外れる特別なカードと見立てるができます。

「10」を基準にしていますので、1の数を持つカードと11の数を持つカードのように、下一桁が同じになる数で二枚組が10個でき上がることになります。

それぞれ(二枚)を陰陽相補・対称・対照のような意味で見ることも可能で、その見方をリーディングにおいての関連性として解釈する技術もあります。

組は、具体的には、マルセイユタロットで言えば、手品師と力、斎王と吊るし、女帝と13、皇帝と節制、法皇と悪魔、恋人と神の家、戦車と星、正義と月、隠者と太陽、運命の輪と審判の組み合わせになります。

何となくそれぞれの二枚が関連性を持つことが、絵柄からでもわかる組み合わせもあれば、なかなかその二枚がどう関係しているのか、共通点などがわかりづらいものもあると思います。

ここで言っておきますが、この二枚組たちは、単純に一桁の数に10が加わっているだけではありません。

さらに言えば、マルセイユタロットにはローマ数字にも図像としての意味があり、現代の算数的な解釈での数の読みだと、重要なことを見落とす場合があります。

そのことをよく表しているのは、この場合、ほかならぬ「10」の数を持つ「運命の輪」と、これとセットになる「審判」の組み合わせと言えましょう。

このように、おそらく、マルセイユタロットの絵柄の象徴性の意味を伝えられないと、それらの組み合わせの関係性も理解できないでしょうし、リーディングにも活かせないでしょう。

この二枚の組み合わせは、基本は数をコンセプトにできたものなので、もちろん、数の意味も関係してくるわけですが、不思議なことに、それぞれの組の絵柄からでも、先述したように、関係性が見えてくる(関連が発見できる)のです。

ここがタロット(マルセイユタロット)の恐るべきところで、ある数を基本とした分け方なのに、絵柄においても関連性があるように見えてくるのは、でたらめに数をあてがっているわけではなく、ある意味、神的目線で計算のもとにカードが作られ、構成されているということがわかるのです。

それゆえに、数秘術的技術を使っても、ある程度、タロットの解釈に意味が出てくることになるわけです。

ただし、たからといって、絵柄を抜いてしまって、数だけ抽出したものにすれば、それはタロットではなくなります。

極端なことを言えば、数だけを重視するのなら、カードに絵はいらず、1とか3とか大書すればよく、それはすなわち、ただの番号カードに成り果てます。(笑)

だから、緻密に計算されていると思えるタロットにおいても、数はあくまくでひとつの情報や、関連性を見るための手法としてとらえ、特にリーディングにおいては、メインは絵柄であることを基本にするのが王道だと思います。

ただし、小アルカナの数カードは、名前の通り、数が中心になっているので、数の解釈から入らないと、そもそもマルセイユタロットの数カードの場合は、デザイン的にも絵というより、記号に近いものになっていますので、この限りではないでしょう。(でも、よく見ると、数カードと言えど、細かな絵の違いはあり、それに注目すると、読みもまた違って来ます)

ちなみに、さきほど述べた大アルカナを「10」のくくりで分ける方法は、数カードの10枚ずつと関係させることができ、カモワン流ではこれによって、数カードを解釈するひとつの技法となっています。

もちろん数カードの読み方は、カモワン流で伝えられている方法だけではないものもありますので、数カードの読み方をどうしていくのかは、流派によって違いがあり、その選択は自由と言えますが。

日本でのマルセイユタロットは、カモワンタロットが2000年以降に、いわば平成において特に広まったので、小アルカナの読み方も、カモワン流(というより、旧タロット大学で教えられていた方法)が知られているように思います。

しかしながら、かつてのカモワン流やカモワン系からの流れで教えられた人の多くは、ほとんど大アルカナしか使わないので、小アルカナの数カード自体、そもそも読む・読まない以前の問題で、読み方の技術が取り上げられることも少ないようです。

何度かここでも言っておりますが、タロットは78枚で一組のものですから、小アルカナも活用しないともったいなく、大アルカナだけだと片よりが出るように思います。

タロットは数がメインではありませんが、逆に数に注目することで、特に数カードへの関心も出て、タロットの全体的活用につながるかもしれません。

何事も悪いことだけではなく、必ずよいこともあります。(その逆もしかり)

ともかくも、数にこだわり過ぎず、それでいて、数も重要なひとつのタロットの情報として扱っていくと、タロットへの探究はもとより、リーディング実践の場においても、有意義なものになると思いますので、いろいろな見方のひとつとして、タロットの数に注目してみるのもよいでしょう。


年の初めにタロットカードを引くこと

明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

2021年の始まりにあたり、去年は世界的にも大変な年となりましたので、ふと、昨年のはじめにはどんなことを自分が書いていたのか、確認したくなりました。

すると、自分でも『2020年は一般的にも「変化」を実感する年となるのは、間違いない』と書いていますね。

なぜそう思ったのかは、もはや忘れましたが(苦笑)、私のことですから、間違いなくタロットカードを展開した結果、そう判断したのでしょう。

もっとも、毎年「変化」を言う人も多いので、よくあるように、誰しもに起こるようなことを抽象的に指摘すれば当たっているように感じてしまうという、それでもあるかもしれませんが。(笑)

まあ、私は占い師ではありませんので、書いたことが当たる・当たらないなんてことはどうでもよいのです。

ここで重要なのは、人が言ったことを自分が受け入れたり、同調したりする感覚があるのかないのかということが、あげられます。

当たり前の話ですが、他人の言葉に納得できるのも、反感を持つのも、自分に何か基準とする思いがあるからで、それと照らし合わせれば同意もしますし、反発もするというわけです。

逆に言えば、普段、自分がどう思っているのかが、他人の言葉からの自分の反応でわかるということです。意外にも、自分の気持ちや自分の思いには気づいていないこともあるのです。

よって、例えば「今年は変化の年になるよ」と誰かが言ったのを聞いて、自分が「そうなんだ」と思えば、「変化したい」と自分が思っているか、逆に「変化に抵抗がある」ということが多いのです。つまりは、「変化」ということに、何らかのこだわりや思いがあるということです。

そして、さらに、マルセイユタロットで言えば、それぞれの大アルカナの象徴性に関係し、例えば「変化」であると、「13」とか「愚者」などにあてはめられ、そのカードを自分が引く(タロットを扱っている者では)こともあるわけです。

しかも大アルカナ象徴性は、全体性(大きな流れとか人類全体のようなマクロ的なもの)も表しますので、単に自分の個人的な思いだったものも、タロットで見れば、その思いが大きなものと関連しているのがわかることもあります。

というように、個人的な思いが反映されると同時に、集合的な意識と言いますか、人類全体が変化を予測していたり、それを種として望んでいたりする場合は、たくさんの人の意識に浮かんで、同じようなことを起こす場合があります。

だから、例えば、タロットで言えば、今年一年を見ようとすると、まったく同じカードとはいえませんが、似たような傾向を皆が引くということもあり得るでしょう。

ただし、占いとして、自分のことの細部(具体性)まで見ようとすると、具体的なことは、かなり占う人によって違ってくると思います。

私自身は占い師ではありませんが、タロットは占い業界での定番であり、占いとは無縁ではありませんので、占いについて考えることはあります。

そしてマルセイユタロットをやってきてわかってきたことは、この世界は個別と全体とで分けられながらも統合される構造にあるということで、それゆえ、個別(個人)や具体の次元になってくると、実は一人ひとり異なってくるのが当たり前であることなのです。

つまり、当たる・当たらないは、具体(個別)次元になればなるほど、極めて困難になるという至極当然の話に行き着きます。

そしてここがとても大事なことなのですが、だからこそ当たる・当たらないに固執していても意味がないばかりか、統合的見地、宇宙的全体性視点から見れば、個別の占いで個人の未来予測を具体的に当てるのは、ゲームとしては面白いかもしれませんが、天の意思に反するようなものと言えるのです。

なぜなら、個別次元では、それぞれ異なるようになる仕組みであり、システムであるからで、それを天(神)のデザイン・オーダー・システムだと考えれば、その意図を尊重するのが人の本分と考えられるからです。(しかし、これももっと深く言えば、そうではないところもあるのですが、このことはまた別の機会にお話します)

まあ個人的な、自分がこの先どうなるのか知りたいという思いは、人としてわかります。

しかし、一人一人、細かいことを言えば、みんな違うので、それを当てて当人は喜んだり、面白がったりしても、全体としてはあまり意味がなく、個人占いは一種のゲームとして見るのがよいのではないかということです。

ところが、反対に、全体的には同じ流れや傾向があると考えられ、いわば、全体はひとつの大きな象徴性を持っていると言えますから、それを読むこと、推測することは悪いことではないと思います。

個人の未来は(過去も)千差万別で、一人一人にとっては重要なことであるのは確かでしょうが、バラバラで違いがあり、どう生きるか、どう選択するかは個人の自由と言っていいでしょう。

ですから自分で自分を評価すればよく、結果をどう解釈するかも、自分に委ねられるのですから、先のことが起こったあと、それがどうだったのかも、自分次第で意味づけられるのです。ここに未来を占って知ることの意味のなさが出ると思います。

(まあ、個人占いで先を見ることも自由と言えるので、それも人それぞれに任されるわけですが・・・)

しかし、全体としては意思が形成されると言いますか、宇宙の進化の巨大なうねりのようなものがあると考えられ、バラバラな個人の表現がひとつにまとめられ、人類としての進化や方向性も決まって来るように思います。

ですから、個人では自由なものの、全体としては何か意図の中にあるか、その意思を汲んで(あるいは影響されて)の個人的人生となるわけで、そこを全く無視していると、とんでもない方向に全体としては行ってしまうおそれがあるかもしれないのです。

簡単に言えば(逆の言い方をすれば)、人類全体の舵取りは、実は一人ひとりの思いにかかっているということです。

あなたも私も、舵を動かす一人であり、一人一人は微力でも、全体としてまとまれば、確実にひとつの方向性に進むのだと考えられます。

自分個人の先行きを占って一喜一憂している間に、全体の舵はふらふらとまとまらず、蛇行して船は沈没してしまうかもしれません。(笑)

ですから、個人ではなく、全体としての(船の舵取りとしての)象徴的な予測、占い、傾向的判断はあってもいいかと思います。

一方の個人的占い、個人的予測も、全体的意思を汲んだうえでなら、どのように自己を表現するかを見るためには許されることもある気がします。

要するに、自分のことだけを考え、利己的な現世利益獲得のための占いとか、予測判断している時ではないかもしれないですよ、と言いたいわけです。するのなら、全体部分も考慮したうえで、自分の活かし方を知ることです。

話は変わりますが、昨年に引いたカード(ブログ読者向けのもの)は、昨年のブログを見ると、「節制」を中心にして、「悪魔」と「恋人」のようでした。

今思えば、コロナウィルスによる行動の制限と、各人の選択を余儀なくされる様子にも見えてきます。(あとづけですが(笑)、このような事後検証も、時にタロット学習においては必要です)

マルセイユタロットを学んでいる者には、「恋人」カードの構造の意味を知っていると思いますので、「悪魔」と「節制」も、「恋人」一枚に見ることが可能になり、実はこの三枚は、実に面白い形で出ていたのがわかります。

一昨年(2019年)、次の年(2020年)にウィルスのパンデミック、コロナ禍が世界的に起きることを予想したり、占いを示したりする人は、ほぼいなかったと言えますから、いかに具体的な占い予測が信用できない(あまり意味がない)のかも、これでわかったと思います。

ただ、大きな変化や危険性を指摘した人は少なくなかったでしょう。それが全体性としての象徴とも言えます。

先述したように、特に一年スパンのようなものでは、いきなり個別や具体を見るのではなく、象徴的に全体性の意図を見定め、個として自分はどうすべきを考えるほうがよいと思います。

去年に出た「節制」「悪魔」「恋人」の象徴性から、2020年の意味を、今の2021年から遡って受け取ってみると、また新たな視点が生まれると思います。マルセイユタロットを学んでいる者にはなおさらです。

では、今年も皆さまに向けて、三枚のカードを引きます。占い的にならないよう、あえて引いた順番は記さず(出たカードの順を記すと、出たカードのことが順番に起きると解釈する人がいるからです。下に書いている三枚のカードは、順不同と思っていただくとよいです)、三枚それぞれで、自分なりに組み合わせ、意味を見出してください。

●2021年の三枚

「悪魔」 「女帝」 「手品師」

さきほど、「見出す」と書いたように、自分で意味づけることにまさに「意味がある」のです。最初のほうにも書いたように、「意味」が今の自分の心であり、思いである可能性が高いからで、それを自覚することが大事だからです。

ひとつだけ、参考で言いますと、ブログでの上記三枚だけではなく、ほかの場面においても、今年について展開した結果から言いますと、霊的な向上をもとにしながらも、現実に向き合い、実際への対処という傾向が全体的に強くなると感じられます。

では、皆さまにとって、今年が、現実的にもそうですが、特に魂・霊の意味でよいことになるよう、祈っております。


2020年の終わりに。

今年は、世界的規模大変革、大きな事件の年と言えました。そう、新型コロナウィルスのパンデミックです。

この影響は来年以降もさらに続きそうですが、一方で、このことで、今年ほどいわゆるバランス思考のような、物事の中立性を感じた年はなかったと言えます。

つまり、マイナスにはプラスあり悪いように見えても、観点を変えれば同じくらいよいこともあるという考え方です。(当然その逆の、プラスにもマイナスありになります)

コロナ禍は、「禍」というように、かなりのマイナス面が一般的に見てありますが、これがきっかけで見直されること、よいこともあったはずです。

例えば、リアルで人に会いにくい世の中になりましたが、反面、ネットコミュニケーションが飛躍的に活用化され、距離に関係なく、あくまでネット環境ではありますが、映像でオンライン会話することが普通になりました。

今までもツール環境(ハード・ソフト面)としては整っていたにも関わらず、コロナ禍にならなければ、オンラインで会話すること、リモートで仕事することはあまりノーマルにはならなかったわけです。

そして、今年、移動する(移動して人に会う)こと、距離というのが感覚やブロックとしては、なくなってきたと言えます。

一面では、実際会えないわけですから、距離は物理的には今まで以上に離れてしまった人も多いわけですが、オンラインでは距離を感じず、つまりは精神的な距離は近づいた人もたくさんいたのです。

もしここに、翻訳機能が普通に付与されるアプリが出て(おそらくそれは実現は近いかと思います)、さらにバーチャルな空間とか部屋とかがホログラフィック的に共有されるようになれば、もはや、物理的距離は、世界的に、ほとんど意味がなくなってくるかもしれません。

ところで、私たちが現実としての三次元にいるという感覚を持つには、物事の差異(の感覚)が必要です。

その代表的なものが、距離と時間です。グノーシス的には、悪魔、デミウルゴスの本質と目されていたり、人間を縛る仕掛けとされていたりするので、(グノーシス)神話的にも面白いのですが、とにかく、このふたつは現実認識には重要です。

それで話を戻しますと、さきほど、距離は、特に精神的にはなくなってきたことを述べました。距離は長さとしての空間的差異です。それが精神的には意識されづらくなってきたわけです。

とういうことは、精神的には、私たちの現実認識が変わろうとしている、いや、自然に変わって行く可能性もあると言えるのではないでしょうか。

物事の見方の変化は、物理環境が変わることと、もうひとつ精神的な変化があることです。

今は、普通の人には、精神と物質がまったく違う次元で、別物だと目されていますが、距離の感覚がなくなってくることで、次第に、ココロとモノの間にかかっているベールが巻上がり、ふたつが同じ次元や構造で見えてくる方向性に進んでいるのではないかという気がします。

コロナ禍という大きなネガティブな問題の発生は、人々に現実認識を変える土台そのものへの変容を、自然に促しているようにも思えます。

来年以降はさらに、コミュニケーションというものが、方法だけではなく、質的にも、かなり変わって来るのではないかと予想されます。

人々は次第に、言葉だけではない伝達方法、交流方法を身につけるようになると思います。いや、身につけるというより、思い出す、復活させると述べたほうが適切かもしれません。

今もすでに、文章・言葉よりも、映像、そして動画のほうが伝わりやすい時代に変化しました。

文章がうまい、しゃべりがうまいという技術的な評価と効果は、これからも残っていくとは思いますが、今までのように、それがコミュニケーションや宣伝での王道的評価ではないことが当たり前になってくるでしょう。

伝え方、伝わり方の幅が拡大し、人々は好みのようなもので選ぶ(あるいは表現する)ことがもっと評価されたり、許されたりすることになり、しかし、それは従来のような単純な好き嫌いとか、エゴや欲求に基づく好みというより、思考・論理とも一体化した、新しい形の好みでの選択というものが出てくるようになると予想されます。

いわば芸術的な感覚に近く、大小、レベルはさまざまですが、多くの人がアーティスティックになっていくものと思うわけです。そうすると成功概念も観念的なものとなって、かなり多様性を帯びることになります。

ただ、よく言われるように、選ばれる自分らしさや、尖った自分のウリを出すみたいなこととは違うと感じます。

相互関連と言いますか、もっと広い視野で、他者、社会を含めた自己実現、自己の特質を発現するようなものと言えるでしょうか。

ですが、その基礎は、今の単純な好きとか嫌いとか、安心感や違和感というものにあると考えられます。

ですから、自分の今の感性もないがしろにせず、しかし、自分勝手にならず、自分が心地よくも、無理に相手に気に入られたり、認められようとしたりせず、自然に相手も自分も認められるような接点、着地点を目指し、どちらも幸せになっていくような方向性が、よいように思います。

まだまだモノのあるなし(多寡)が評価の中心になってはいますが、質というものが見直され、量と質が同じように見られる意識が普遍化していけば、お金・経済についても大きな変質が起こり、もっと多くの人が生きやすい世の中になるのではないかと思います。

とにかく、今の世の中、悪いことばかりではなく、宇宙には正しい方向に進んでいくエネルギーがあり、それに多くの人々の意識は向かっていると個人的には感じます。

現実的には楽観できない年の切り替わりではありますが、見方を変えれば、本当によいことも見えてくる、そんな2020年から2021年だと言えます。

希望をもって、新しい年に向かいましょう。


精神的な問題や不調が起きる人に

いろいろな分野の講師たちが集う、とあるグループのスピーチコンテストに参加しました。

と言っても、私自身は聞く側に徹していまして、皆さまのスピーチから勉強させていただく立場です。

スピーチの内容的には、ご自身の経験からの学びや、役に立つこと、伝えたいことなどが披露されました。

それで、不思議なことに、と言いますか、今の社会ではもはや当たり前のようになっているのか、聞いていますと、たいてい、皆さん、精神的に何かトラブル(うつ病とか神経症とか、精神の不調を来すもの)に遭っているのですね。

そして、これまた皆さん同様に、そこから立ち直り、社会貢献やビジネスの形で再起し、自分の伝えたいことを伝える講師になられているのです。

私自身も神経症うつ病とか、パニック症状を起こしていた時期もあり、その後、マルセイユタロットに出会い、リーディングや講義の講師をしております。

以前は、その頃のこととか、回復に至る道などのこともブログに書いたり、人に語ったりしていたこともありましたが、今となっては、先述したように、精神的なトラブルや問題が起きることは、普通に誰しもによくあることになっており、別に人に話すようなことでもないと思って(心や精神は、回復してもまた何かあると問題になる場合もありますので)、誰かに聞かれたり、そのことを話す必要がある特別な場合を除いては、あまり語らなくしています。

ただ、人というのは、ドラマチックなストーリーを好む傾向があり、これは自らもそうでありたいというのと、他人の話がそう(ドラマチック)であると、聞く側の自分も楽しい、感動するということがあり、いわば自他ともに、ドラマ性を期待する思いがあるわけです。

ということで、自分を宣伝する必要のあるビジネスシーンにおいても、プロフィールは平板なものより、波と起伏のある、ドラマチックなものにすべしと言われることもあるようです。

例えば、昔ヤンキーをしていたけれど今は人気弁護士ですとか、ただの主婦だった人が、有名カウンセラーになって、多くの人を救っていますとか、大転回・大逆転ストーリーは、人の興味を引き付けますよね。

人を癒す仕事の場合、かつては自分がいかに大変な状態であって、癒されていなかった時があり、そこから今は調和に至り、幸福な人生を歩んでいるということを知らしめれば、今現在、癒されていない人、不幸だと思っている人にとっては励みにもなりますし、この人ならきっと自分をわかってくれる、救ってくれると思うことでしょう。

それはともかく、話は戻りますが、講師たちのスピーチを聞いておりまして、私なりに、ちょっと気づいたことを書いてみたいと思います。

 

●精神不調(心の問題・トラブル)の経験が当たり前の時代になっている

先ほども書きましたが、私が神経を病んでいた時よりも、今はもっと普遍的というと変ですが、誰しもが神経・精神の不調を経験してしまう時代になってきたということです。

これには様々な理由がありますが、そもそも、健全な世の中、社会であれば、これほど多くの人が精神や心を病むようなことはないはずです。

たいていの人はそのような体験がある、ましてや投薬や治療を受けたことがあると人も多くなっている状況なのです。

ですが、そうした精神関係の医療機関は増えたものの、医学的進歩の意味では、ほかの病気の分野より、まだまだ遅れている感じは否めません。

同時に、だからこそというわけではないのですが、代替医療や様々な心理療法、果てはスピリチュアルな分野からのアプローチまで、心や精神の問題を軽減したり、復調させたり、よい意味で改変したりすることが増えてきたと思います。

これだけ、心が不調になる人が普通になってきますと、それに対する問題解決を行う者や方法も増加するのは当然だと言えます。

経済原理的にも需要あっての供給です。ただそれが純粋な、これまでの医学的な観点からだけではないというところが、見えない心の分野だけに、特徴があるのかもしれません。

それと、単に心の病的な意味での不調というより、自分の生き方の悩みや、社会・世の中における自分を、いかに調整し、生きがいを持って生きたり、創造的に人生を歩んだりできるかという観点から、いわば治療的な対処だけではなく、発展的・創造的対処が、心・精神の分野には用いられているように感じます。

簡単に言えば、現実世界において、健全な精神でいられる状態をいかに作るか(保つか)ということです。

精神のトラブルを「病」の状態と見るのではなく、完全性の不均衡、調和に対する不調和、自分で自分を縛っているものによる影響で病のようなものになっていると見る向きです。

心の問題が多くの人に自覚、共有されていくことで、私たちの内面に向ける意識や考え方も変わり、精神、そして霊・魂というものにさえ、関心が行こうとしているように思います。

病む人とそれを治療したり、サポートしたりする人が、同時発生的に増え続け、これはマルセイユタロットで言えば、「13」と「節制」との関係とも言えそうです。この二枚はセットとして考えられ、すなわち、変容と救済なのです。

つまり、病む者、助ける者という役割分担で分離しつつ、一元的には、ともに変容し、救われるようとしているのです。(これを一人二役で体験する人も増えているわけです)

また変な話ですが、救済しようとする人が現れると、救済してもらいたい人が現れるという逆現象も起こっています。

しかし、それは順番が逆のようでも、結局、救わなければならない部分や人が潜在的に眠っていただけで、大きな意味では人類全体としての大浄化の流れに移行しているのだと見ることもできます。

 

●救済時に出会うメソッドと個性の強化

例えば私の場合は、マルセイユタロットでしたが、精神的な問題を抱えていた者が、何かのきっかけで、ある治療法や心を変えるメソッドなどに出会うことがあります。

もちろん治療のためということもありますが、人生のことを深く考えていた時に出会うということもあります。

出会う対象そのものについては、優劣や良し悪しは関係なく、たまたま、回復や治療のタイミングで出会ったものが、自分のその後の人生に大きく影響することがあるように思います。

回復・治療に至ったメソッドが仕事になる人もいますし、病気をきっかけに、自分を見つめ直す過程で、新たな自分として生まれ変わり、その体験から得たこと、気づいたこと伝道していく人もいます。

ともかく、出会うのが何であっても、また気づきがどんなものであっても、その人に与えられた新たな個性として、自分というものが際立ってくるようになります。

この現実世界では、際立つほうが生きやすいと言えます。

これは目立つというのとはちょっと違い、いわば、自分が自分である根拠とか、特徴、精神的には使命感のようなものでもあります。言い換えれば、生きる意味、反対にすると、意味をもって生きる、と表現してもよいでしょうか。

こうしてみると、精神的な問題は、マルセイユタロットの「隠者」のひとつの意味でもある霊的な危機と覚醒を象徴しているのかもしれません。

そして「隠者」と似たようなカードである「法皇」で表されるように、自分の経験から得た個性を用いて、人に伝達していくことになります。

ともあれ、技術・メソッドは何でもいいと思います。

運命的に言えば、出会うものは決まっていたようなもので、それがヨガであれ、レイキであれ、何でもよくて、重要なのは、あなたはそれによって個性が持て(自我が補強され)、現実を生きやすくしていけるということです。

精神の問題によって、心やスピリチュアルなことに関心が行くことで、一見、エゴから離れるような方向性に見えますが、その実、エゴは強まるのです。ここでいうエゴとは悪者のエゴではなく、自分を自分として認識する自我のことです。

つまり、精神的な問題を抱える人は、自我が弱い、あるいは逆に自我が強いものの、それがエゴとなっていて、しかしながら強いエゴなのに抑圧されている(自分であることを発揮できない、主張できない)状態にあるから問題となっていると考えられます。

ですから、まさに自分らしく生きる方法を選べば、自我・エゴが解放されるか、いい意味で強まって、その人にとっては楽になったり、生きやすくなったりするのです。

個人的には、マイナスのようなことから立ち直りや気づきを得て、成功していくストーリーというのは飽きていますが(笑)、ここで言いたいのは、今、精神的な問題やトラブルを抱える人は多くなっている時代でも、いろいろと見て行けば、全体としての成長に皆さん貢献している可能性があるということなのです。

心理的・スピリチュアル的には、自我・個性の問題が隠れているという点も指摘しました。

自分が今、救われるほうの側である人、つまりトラブルや問題によって苦しんでいる人は、先述したように、救う人もたくさん同時に生まれていますので、そういう人たちに出会うように自らを持って行けばよいかと思います。

平たく言えば、我慢して一人で抱え込まず、誰かに助けてもらうようにすればいいということです。

そうして助け・助けられという循環が活発になると、分離した個性は、やがて統合され、個性を持ちつつ他者と共有していけるような、新しい感覚が発達していくことと思います。

精神や心の問題が増えてきたのは、多くの要因として、今の社会システムの問題にあると言えますが、それとは別に、多くの人が精神・心・霊の重要性、内面の方向性の大切さに気づき、極端な物質的観点が解除されていけば、心のフィールドから共有化が推し進められ、全体としても解放と望ましい発展の流れになるからとも言えます。

精神的に苦しい状態にある人は、悲観的になったり、つらくて毎日大変だったりすると思いますが、今述べたように、全体としての成長に貢献しているので、生きている自分の価値はあるのだと思ってください。あきらめず、求めて行けば、救いの道は必ず開かれるでしょう。


大きなの流れと個人のポイント

冬至も過ぎ、太陽周期のうえでは、新しい年が始まったと言えます。

かつて書いたことがありますが、クリスマスやサンタクロース冬至と関係していると考えられ、昔ながらの太陽信仰がキリスト教に取れ入れられた結果だと思われます。

日中が一番短くなる日を境に、再び日が長くなっていくところから、この時期に、物事の再生・復活を象徴化させているとも言えます。

私たち、現代人の考えからすると、このような「象徴化」は、単なるこじつけのように見えるかもしれませんが、そこには現代ではとらえられないきちんとした別の理論と言いますか、大局的見地と古代から続く伝統的論理があり、簡単に言えば宇宙や自然の構造が、根本的には同じであるという認識から生まれていると考えられるものです。

霊的な感性(思考性でもある)をかなり失った(というより、隠れてしまった)現代人では、暦の巡りは、毎日のスケジュール、日の移動という直線的・単純なものでしか見えなくなっています。

すべてにはつながりがあること、モノと霊(精神も含む)の関係として意味があることは、霊的感性が回復してくれば、リアリティをもって感じられてくるものと想像できます。

その回復のための、ひとつの手がかりが「象徴」という考え方・とらえ方なのです。タロットはその象徴システムからできています。

ですから、タロットを扱うことは、霊的感性を取り戻すためでもあるのです。

日本においても年中行事等を通して、祭りなど特異点のような日、行いがありますが、それもお祭り騒ぎをしたい(民衆の気持ちとしてそれはありますが)というものではなく、背景に物質次元を超えた霊的な意味があったと考えれます。

私は大学時代、民俗学にふれていまして、その私たちの民俗学担当教授は、実際に離島などでフィールドワーク(現地調査や現地での収集・研究)をされていたこともあり、「現地の人の素朴に見える信仰には、皆さんが思うより大きな意味がその人たちにはあるのです」と、心を込めて語られていましたが、その理由が今なら本当によくわかります。

それは学術的な意味合いのことではなく(それもありますが)、そこにいる人たちの信仰が、その人たちには特別な意味を持つ霊的な力と関係する(その場や環境に働いていたこと)をおっしゃっていたのだと思います。(儀式と信仰の力と意味合い)

そして部外者の者、その場の霊的フィールドを共有感覚化していない者には、結局、学術的な目線か、部外者の常識目線、観光的な興味本位でしか見ることができず、変わった風習だなあ・・・とか、なんで今時、こんなことをしているのだろうか・・・とか、不思議がったり、面白がったりしているわけです。

そのため、本当に行事の意味を知るには、そこに住んで生活しないとわからないこともあるのだと思います。

アニメで「蟲師(むしし)」という作品がありますが、この作品に描かれる部外者と当事者の感覚の違いが、雰囲気的には近いかと思いますので、参考になるかもしれません。

さて、同じ冬至のことでも、話題は変わりますが、今年の冬至の時期は、少しスピリチュアル的には話題になっていたようてす。いわゆる地の時代から風の時代に変わるポイントだと。

確かに、そういう切り替えの時には来ているのかもしれませんが、闇雲にそういう情報に踊らされるのにも注意しないといけません。

ここで前半の記事とリンクしてくるのですが、重要なのは、全体の流れを個としてどう感じるかであり、言い換えれば、私たちが大自然や宇宙の一部であること、いやその逆に、私たちの一部が大自然や宇宙であること(この言い方はおかしいですが、こちらの言い方のほうが、鍵に近い言葉だと思います)の回復にあると言えます。

その意味では、地の時代から風の時代へというのも、ひとつのきっかけ、契機に過ぎません。

私たちはそれこそ地の時代の感覚のまま、全体と個が分離され、モノと霊、モノと精神を分断して見るようになってしまいました。

それでは、前半で述べたように、暦も、時代の流れも、直線的にただ進むだけ、過去・現在・未来と、一方向で経過していく感覚であり、ひとつひとつ、記憶や感性さえも、モノのように一方向に並べられたたような状態でいます。

数や日で言いますと、21日と22日は、一日の違いがあるだけで、21日から時間が経過して次の日になったに過ぎないというとらえ方です。

ですが、私たちそれぞれにとって、21日と22日は精神的に決定的な違いがある人も世の中にはいたでしょう。

例えば誕生日が21日の人は、22日とは明らかに意識が違うはずです。なんでもないただの一日の人、一生の思い出の日になった人、忘れたい嫌なことがあった日の人・・それぞれにとって、特別の日とそうでない日があるわけです。

これは結局、数量の違いではなく、質の違いで見ているからです。

あくまで個人としての日にちの見方だとバラバラな印象ですが、ここで言いたいのは、質を見る感覚を思い出してほしいということです。

そして、一年スパンで見た場合、(個人の感覚)とは別の、宇宙や自然の流れの全体的な質の違いも、やはりあるのです。

まず全体が、その質の違いによって回転している(循環している)ことを知り、それが大小、様々なレベルで働いていること、それらが次元、階層を変えて、ついには自分、個としてのレベルにおいても流れていることを知るのです。

イベントが一見、個人それぞれで無関係で起こっているように見え、さきほど述べたように、ある人にとっての日は日常の日でも、別の人にとっては特別な日となっています。

それもまた、カレンダーの日の流れだけではなく、宇宙のサイクルの一部として見ると、実は同じシステムによって起こり、消滅していることに気がつきます。

無理矢理、誰かの言うような、大きな流れを自分にルールとして適用して、例えば、いついつまでになになにをしないと流れに取り残されるとか、ゲートが閉じるとかで恐怖や不安に囚われたり、あせったりする以前に、外側ではなく、内側、自分自身を見つめ、個の質を知ることが大事です。

しばらくは人の言っているようなことは無視して、自分がどういう流れにあり、どういう現実と心の動き方をしているのかを確認してみることが先決です。

そのうえで、少しずつ大きな流れというものを意識してみましょう。

他人の言う外側の情報に、自分を無理やりあてはめることは、それこそ地の時代の考え方・やり方なのです。

自分の感覚を主観と客観で確認していくこと、いきなり全体(宇宙や自然のようなもの)へ適合しようとあせらないこと、自分が自分であること、ここをまず確立させていくほうが、遠回りのようでいて、結局、スピリチュアル的にもしっかりとした道を歩んでいくことになると考えられます。

それはマルセイユタロットが示す、霊的成長の道のりからも言えることです。

よく見てください。

「なになに、いついつは変わり時、変化の大きなチャンス・・・」などと言っている人は、毎年毎年、何かのネタを引用して広告しているわけです。

春分秋分・冬至夏至しかり、ミレニアムしかり、平成・令和の元号しかり、マヤ歴しかり、惑星運動しかり、歳差運動周期しかり、彗星の近接しかり、満月・新月しかり、毎月一日しかり、誕生日しかり・・・ネタをあげればキリがありません。(笑)

重要なのは、そう言ったものが、なぜ切り替えや変化のポイントになるのかという意味の背景を知ることと、霊的感覚の回復です。

誰かのいうポイントに、カレンダーで赤丸をつけて、そこに向けて自分を追い込むようなことではないのです。強いて言えば、自分の中の感覚に気づいて、ふとカレンダーを見ると赤丸がついていた・・・みたいな感じになるという、逆のような形です。

そして、人によってポイントは違いますから、大きな流れのポイントに乗れる・乗れないにあせるより、まずは自分にとって重要なポイントはいつか、どこかを注視し、人と違ってもよいのだと思うことです。

いわば、それぞれ個人に列車は用意されていて、その列車内の車両を移ることをまずは意識していると、列車自体(自分の乗っている列車自体)は、いつのまにか線路の切り替えポイントに導かれながら、皆それぞれの乗った列車が同じ路線に集まって来るような感じです。

それぞれが違う路線を回っていても、最終的には同じ駅の何番線かのホームに、皆到着するというイメージでしょうか。確かに人によっては、たどるルートは違うでしょうが、目指す駅は同じで、そこを目指すことさえ意識すれば、必ずたどり着くようになっていると考えられます。

見た目の比較だと、あなたが各駅停車の列車で、他人は特急列車に見えるかもしれませんが、それは今のあなたの目に、そう映るだけで、演出なのです。

あなたは普通電車でもいいのです。すると、関西圏のJRではよくありますが(笑)、途中から快速電車に変わることもあります。

まずはマイペースというものを大切にし、他人に踊らされないようにすることのほうが、今の時代、真の意味でスピリチュアル的だと言えるかと思います。


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