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小アルカナ的人間関係の問題と解決

前回のコメント企画、ご協力いただきありがとうございました。

これは、私の中で、小アルカナと大アルカナの使い方を検討する意味で、少し皆さまに、試していただいた次第です。

今回の意図や詳しいことは、私の生徒さんのZoom勉強会やメルマガでお話したいと思います。

一般的にマルセイユタロットを扱う方の場合、どうしても、その絵柄の違いから、大アルカナだけを使うことが多く、小アルカナの活用がおざなりになってしまう傾向があります。

何事も、使えば使うほどなじんできますし、反対に、使わなければ、いつまでたっても疎遠な存在になります。

小アルカナに関しては、食べず嫌いのところが、多分にマルセイユタロット使いの人には多いのかもしれません。

しかしながら、そもそも使い方を説明されないと、どうしていいのかもわからないのが実情だと思います。

私も、自分がタロットを習った時は、ほとんど小アルカナのことは説明されませんでしたが、今は自分なりに研究と実践を進め、おそらく、ほかのところでは言われていない活用法や考え方を開発してきました。

私の生徒さんで、ほかでマルセイユタロットを学ばれた方でも、初めて小アルカナの有意義な活用法を知る人もおり、それは非常にシンプルな方法なのですが、知っているのと知らないとでは、かなり実用度においても異なるところです。

そして、活用法とは、それが生まれた原理や背景をきちんと知っておかなければ、本当の意味では、使いこなせません。なぜそれが言えるのか、そう使うことができるのかの理由です

技術だけをただ教えられても、応用度が低くなります。学ぶ側は、先生のコピーであってはならないのです。

さて、今回のコメント企画では、比較的人間関係に悩んでいる方が多くいらっしゃったように感じました。

そこで、小アルカナの基本である4組をベースにした、人間関係についての処理とか扱い方について、簡単に記したいと思います。

小アルカナの4組とは、すなわち、剣・杯・杖・玉(一般的にはソード・カップ・ワンド・コイン)と呼ばれるスート(組)のことで、それはもとは四大元素という、世界を構成していると考えられる要素として見る西洋の古代概念です。

この4組の応用範囲はなかなかすばらしく、古代思想とはいえ、さすがによく練られている象徴概念だと、タロットを使っていると感じます。

それで、人間関係の問題と解決にも、この4組で、とらえたり分類したりすることが可能です。

詳しく説明すると長くなるので、ここでは簡単なことだけ言いますね。

●剣 考え方を変える 関係を断ち切る 離れる 環境を変える ルールを作る

●杯 思い方(感情・トラウマなど)を変える、浄化する、 人間味のつきあいをする

●杖 使命や目的の見地からつきあう、行動を変える、相手に仕事(役割)を与える

●玉 仕事やお金のためと割り切る 自分を守る 金銭や利害を調整する

人間関係の問題は、主に、自分でどうにかできる部分と、他人や外部からの助力を必要とする場合、もうひとつの分け方は、自分の思考や感情の中での問題と、明らかに客観的に見ても相手にも問題や否があるというケースがあります。

これらも4組で分類が可能であり、錬金術(現代的なお金を生み出す意味ではなく、古代中世の四大元素の性質を見る意味)的な応用から、4組の組み合わせ(相性や反発性)を検討することもできます。

まあ、自分がその人と付き合わないように移動したり、引っ越ししたり、関係を断ち切れたりすればよいのですが、職場が同じだとか、友人として関係を続けたい(修復したい)、事情があって割り切れない・・・などがある場合は、結局、相手自身をなかなか変えることはできませんから、自分の思考や感情を変えるか、行動・環境を何らかの形で変えるかでないと難しい場合があります。

まあ、しかし、タモリさんではありませんが(笑)、友達なんかいなくても生きていけるわけで、いい意味で自分中心、エゴイスティックになったほうが、結果的には相手も自分も楽になることが多い気がします。

誰しもがペルソナ、社会的、場面的役割をもって、自覚・無自覚において、いわば演じているわけで、夫婦関係や恋人関係ですら、お互いがそういう役割になっているわけです。

つまりは、真の自分など、どこにも現実的生活の中にはいないわけで、そうであるならば、助け合える人、比較的わかりあえ人は、それはそれでそういう役割同士の関係だと見て楽しくつきあえばいいですし、逆に嫌なやつ、面倒な人、攻撃してくるような人は、これまた、そういう役割の人と割り切って(自分が嫌ったり、避けたりして)考えることもできます。(真の人間同士としてのつきあいではないから)

ですから、相手との関係における「自分自身の役割」も、その人と関係してしまう役から、ほとんど関係しない役にするとかで、自分の心の中では決められるわけです。

そんなことでは問題は解決しないかもしれませんが、相手を憎んだり、自分を卑下したりせず、心の中でお互いの役を変えて、相手を飛ばしてしまうイメージでも持ち続けていれば、現実の関係性が変化することもあり得ます。

要は、相手を意識し過ぎると、それだけ強く自分の中で存在と役割が刻印されていくので、ますますその悪い関係性が固定されるという悪循環に陥ります。

自分に向かってくる意識ではなく、自分から離れてしまう意識やイメージ(願望や祈りにしてしまうと、また意識が強まるので、ゲーム的な方法がよいかと思います)を持つほうが、実際的にはいいのだ考えられるわけです。

うつ病になった私が言うのもあれですが、たとえ人に嫌われても、最終的には自分を守り、自分を大切にしたほうがよいと思います。

自分が壊れてしまえば、その回復に多大な時間を要しますし、もしいじめている相手からすれば、それこそ思うつぼと言いますか、悪い相手を守ったところで、あなたには何の恩恵もないのが普通です。

自分さえつぶれていなければ、人間関係など、別の人とまた新たに結ぶこともできますし、あなたと相性のいい人とか、理解してもらえる人とかと出会う可能性もあります。

魂は永遠ですが、今の人格、人間としては有限の時間の中に生きています。

限られた時間は貴重であり、できれば幸せに、あるいは自分が楽に、思うように生きたいものですよね。その決断を、ただあなたがすればよいのです。※不幸や困難をあえて選択する生き方もありますし、それは自由ですが。(苦笑)


恋人カードから見る迷いの解決

これは前にも書いたことがあると思うのですが、特に選択で迷っている時、あるいは悩んでいて、なかなか答えが見つからない時のアドバイスとして、「恋人」カードからのヒントが役立ちます。

ただし、あくまで、マルセイユタロットの「恋人」の絵柄からの話になります。

「恋人」カードは、その名の通り、恋愛模様を描いているように見えるカードですが、もっと奥深い意味があると考えられます。恋愛はあくまで、奥の部分を説明するための導入のように思えます。

それはともかくとして、単純に絵柄を見ますと、人間は三人いて、真ん中の男性が、両端のふたりの女性のどちらかを選ぼうとしているように見えます。女性側からしますと、真ん中の男性を取り合っているようにも感じられます。

とりあえず、男性、女性、どちらにしても選ぶ(選ばれる)ことに関わっているわけです。

ということで、選択の象徴性をこのカードから考えることができるわけですが、この三人を人物だけではなく、物事の選択肢として見ると、最初に述べた、迷っている時の示唆になってくるのです。

まず、どちらかを選ばなければならない迷いというものがあります。二者択一、AかBか、というケースです。

こういう場合は、結局、どちらかの優劣とか、違いを考えて、選ぶしかありません。

「恋人」カードの絵柄で言いますと、真ん中の男性が、どちらかの女性を選ぶことと同様です。その女性の選び方は、ふたりの違いを見て、その違いによる基準を思うわけです。

人間の場合は難しいかもしれませんが、これを物事だとしますと、、要するに、損得のお金とか、時間とかの現実的・効率的な基準と、好き嫌いとか、癒し・落ち着きとか、感情的・精神的な基準とに大別されると思います。

単純に言えば、心かモノかみたいな話です。このふたつの間で迷っていることもあれば、どちらか(モノか心)の領域内で、さらにふたつの間(あるいは複数以上)で迷っている場合があります。

ところで、この「恋人」の男性は、必ずしも、どちらかを選ばなければならないというわけではないのかもしれません。

もしどちらも選ぶことができるのなら、その道も意外にアリだと言えます。案外、選択で迷っている場合は、選択肢を全部選んでみるということで解決が図られる場合があります。

見落としがちですが、時期や時間をずらせば、どれも手に入れる、選択することは可能になるケースがあります。

しかしながら、やはりそれは無理だから悩むということがあるわけです。

もう一度、絵柄を見てみましょう。三人の人物たちは、同じフィールド(高さ・立ち位置)にいます。

つまり、同じ高さ・立ち位置からの目線では選択肢に違いは見えても、それは結局のところ、同レベルだということです。

まさに、「あちらが立てばこちらが立たず」というのも、同じ立ち位置だから(同じレベルの違いしか見ていないから)こそ、そうなってしまうのです。

同じレベルである限り、同レベル内での違いでの選択をするしか方法がないわけです。

そして、「恋人」カードの絵柄には、もうひとつ特徴があります。

それは上空に天使とも見える「キューピッド」がいることです。正確にはキューピッドと天使は異なる存在ですが、「天使」と書く方が楽なので、以降、「天使」と書きます。(笑)

この天使目線からすると、迷っている人間たちの選択はどれも同じに見えるのかもしれません。

天使はをつがえています。

天使から見て、どれも同じならば、矢が当たった方を選択してみよう!というゲーム性もあり得ます。天使からしたら、「どの道、おんなじなんだから、どれが(どの人に)当たってもよいでしょ♪」みたいな感じです。(笑)

このことを踏まえますと、以下のような方法が人間側では出てきます。

A.直感とかタイミングとかで、好きなように選ぶ

B.選ばれたほうを選ぶ、というより、従う

C.どちらも選ばないという選択もあり

D.迷いに迷って、究極まで悩み続ける

Aは、いい意味で観念する(諦観的)方法で、迷っても仕方ないので(天使目線からすればどれでも同じなので)、現実的条件等で選ぶことよりも、気持ちとかタイミングとかで、「これだ」「来たぞ、これ」「なんとなく今回はこっち」みたいな感覚で選べばよいというものです

もちろん、その結果、現実的な意味での失敗もあるかもしれませんが、それも見越してのことです。(天使目線からは成功も失敗もない)

Bは、Aと似ていますが、違うのは、自分で選ぶというより、自然に任す、放置したり、様子見していたりすることで、流れで決まっていくというものです。

いつの間にか、迷っていたもうひとつの選択肢は消えていた、条件的にも選べなくなっていた・・・みたいなことで、自然にひとつに決まってくる、答えが出るような感じになります。

そしてCは、実際的・現実の条件的な観点からしてもアリな方法ですが、意外に最初から抜け落ちている選択肢で、「選ばない」というのも立派な選択であるということです。迷うというのは、ひとつには、今は決めなくてよいから、決める必要がないからという理由もあるのです。

無理に決めよう、答えを出そうとするのを、あえて葛藤や膠着状態を生み出して、あせりに気づかせようとしている場合もあるわけです。

ですから、最初に立ち戻り、「なぜ今選ばないといけないのか? 」「なぜ答えを今出さねばならないのか?」と思い直してみれば、迷いのループから逃れることもあり得ます。

それでも、迷い悩むことはあります。

ならば、とことん悩むとよいのです。それがDの方法です。あれもこれも、ああでもない、こうでもない、いったいどうすれば・・・と悩み続けると、精神的にも体力的にも憔悴、疲弊するでしょう。それ(悩みごと)しか頭に思い浮かばなくなってしまうかもしれません。

そうする中で、いつか限界点・臨界点がやってきます。

そなると、「もー、どうでもいい」とか、「なるようになる」とか、はたまた、突如、まったく新しい境地とか視点が目覚めてくることがあります。

ショートしたあと、スパークして、どんでもない回路が開かれるようなものです。

こうなると、天使の目線、天使の立場に自分がシフトしたようなものです。

あなたは自分で矢を放つことができ、その当たる方向も、放つ前からわかっているようなもので、その選択の無意味さ(本質的にはどれも同じという意味)と同時に、直感ではなく直観に至って、選択できる喜びというものを実感するでしょう。

そう、悩める喜び、選べる楽しみというものが天使目線ではわかってくるのです。

そういうものがなかったとしても、疲れ切って(笑)、結局、シンプルに選んでしまうことになり、とにかくお悩みモードからは解放されることになります。

ということで、悩みを続けて行くことも、行きつく先にはよいこともあります。

ただし、やはり考え過ぎ、悩み過ぎは危険な場合もあるので、その場合は、「恋人」のカードの絵柄のもうひとつの示唆とも言える「他人に相談(三人は話し合っているようにも見えます)する」のがよいです。

先日書いた客観性の導入であり、そのほうが迷いのループからの現実的意味での脱出は早いと言えましょう。

ということで、今日は「恋人」カードの絵柄から、選択の迷いでの解決法についてお話しました。


大アルカナでの異質なカードたち

これはもう、割と今では知られている話ですが、タロットの大アルカナの数は、ある種の順番を示しており、そのまま数を進むごとに成長や拡大が示唆されるように設計されています。

ただし、タロットの種類によってはかなり絵柄も違いますし、中には作者の都合によって、枚数が変えられたり、数とのリンクを重視しないようにされていたりしますので、一概には言えません。

またそもそもの、そのタロットが作られた主たる目的というものがありますので、それが数の順番の意味と、どう関係しているかによっては、数のたどる、まさに最終目的が、普通に思う成長とか発展のゴールとは異なる場合もあります。

私はマルセイユタロット一本の(笑)人なので、図像と言っても、マルセイユタロットの絵柄しか思い浮かべませんが。

マルセイユタロットの場合は、極めてシンプルな絵柄ですので、これは素直に数の順番通りの成長を見るとよいかと思います。

さて、そんな数の順という観点で大アルカナを観察してみますと、ところどころに、わかりづらいカードがポイントとしてあるのに気付きます。

逆に言うと、さきほども述べたように、マルセイユタロットはシンプルな図像が多いので、複雑に見えるものは少ないのです。

数で言いますと、もちろん「1」の「手品師」から進むわけですが(実は逆から進む考え方とか、いろいろあるのですが、それはまた講座とか別の機会でお伝えします)、次の2から5までは、カードの名前にもなっている一人の人物が“ドーン”と目立つ形で描かれています。

しかし、6の「恋人」に来て、突然、雰囲気が変わり、そしてまた7の「戦車」では中心人物がメインのカードに戻る感じになります。

あと、8の「正義」からも人物が目立ちますが、10の「運命の輪」は、これまた雰囲気が変わり、そしてまた11の「力」から戻り・・・と続き、16の「神の家」、18の「月」の二枚がやはり、ほかのカードとニュアンスが異なる様子を感じさせます。

それらの数を見ると、6、10、16、18となって(異質性のカードは、見方によってはほかにもあるでしょうが、とりあえず、今回はこの4枚を取り上げます)、すべて偶数なのがわかります。(数字をばらして足すと奇数も出てきますが)

また、6と16という数では、10という数を入れて、「6」が共通しています。ちなみに、10も、上記のように「運命の輪」として、特別な雰囲気のカードに入っています。

18はこのグループから独立しているように見えますが、6の三倍数であり、約数の数としても6と無縁ではありません。

こうして見てきますと、大アルカナの間間に、ちっょと変わったカード、わかりづらいカードを入れているのは、順序的にも、数的にも何かの意図があると見たほうがよいと考えられるわけです。

その意図は何なのかということは皆さん自身で考えていただくとして、ここでは、これらのカードの特徴を改めて見てみましょう。

すると、一人の人物中心、目立つ人間が、これらのカードからはうかがえないという特質が見えてきます。

つまりは、そのままですが、人物が中心ではないことの象徴がメインとなっていることが考えられるわけです。

「恋人」には、天使のようなキューピッドのような存在が上空に描かれ、今まで中心だった人間たちは小さく、しかも三人、選択に迷うかのような形で描写されています。

「運命の輪」では、人間ではなく、動物が輪という機械・マシーンを思わせるものに乗ったり、ぶら下がったりしています。それも三匹います。回転盤のようなものは、それ自体が大海に浮かんでいるようでもあります。

「神の家」は、人物もいるにはいますが、逆さまに、つんのめっていたり(見る人によっては、落ちてきたようにも見える)、慌てふためいて通常ではない感じが伺えたり、さらに、絵柄の中心は、神の家であり、レンガ積みの塔にあります。

そして、「月」は、犬のような動物二匹いて、吠え合っている様子に見え、後ろの背景には塔がふたつ見え、さらに手前側には、水たまりとも、池とも湾にも見えるものが、ザリガニ(甲殻類の水生動物)とともに描かれています。

これら4枚を並べてみるとわかりますが、次第に人間から動物、機械や建物、自然のもの・・・というふうに、人間・人物がそぎ落とされているようにも感じられます。

これがいかなる意味を持つのか、いろいろと想像を膨らませてみるのも面白いでしょう。

ひとつ考えられるのは、人間から別のモノという表現、これは人間というものが通常や常識的なこと、普通の(人の)世界観みたいなものを象徴していると見て、そことは違う何かが重要であることの示唆のように思えます。

私たちの人生においても、普通なることがまさに常であり、恒なのですが、時々、異常事態が起こります。それはイレギュラーなことであり、アクシデントのこともあれば、ピンチもありますし、反対に、すごくハッピーな出来事という場合もあるでしょう。

その経験にある時、私たちは、これまでの常識的世界から、いい意味でも、悪い意味でも超越することがあります。

まるで自分がそれまでとは違う、別の自分になるかのような感覚、あるいは、別の世界に招かれたり、飛翔したり(堕落したり)するような感覚、はたまた生まれ変わったり、新しい自分に変容したりする感覚・・・こうしたものが、異常事態だからこそ訪れるとも言えます。

西洋風に言うならば、そこに神や天使、悪魔やその眷属たちが現れ、私たちの意識に干渉するかのような状態を見せます。(古代ギリシアで言われていた「ダイモーン」という存在との邂逅や交流に近いかもしれません)

人生は、順風満帆とはいかないものです。

多くの人は、普通に悩み、苦しみ、葛藤を持って生きています。それがこの世のルール、試練のようなものかもしれません。

けれども、一方で、それによって私たちは、大きな気づきを得て、覚醒し、強靭になり、人間的成長や意識の拡大を経験します。

時には、人生の不可思議な現象に疑問を抱き、運命や宇宙法則の探求に向かう人もいるでしょう。

「人が中心」という場合、悪い意味では、人間、私たちがすべてをコントロールできるという驕りのようなものが出ます。

ところがイレギュラーな事態が起こった時、それらはまさにコントロールできない事態であり、すべては完璧だ、自分(人間)の力であらゆるものは支配することができるという誤った考えから発生したものと言えます。

世界には、人だけではなく、ほかの生き物たちもいますし、目に見えない存在やつながりもあります。それらをすべて入れて「完全」なのです。

さらには、自分たち、人間が作った機械・創造物もあります。それらをどう扱うかによるでしょう。

自分が完璧ではなく自分の中(それは反転すると、取り巻く世界そのもの)あっての完全なのです。

大アルカナに、ところどころ、不思議なカードたちが混じっているのも、そうしたことを考えさせられます。

言ってみれば、あなたに訪れる不幸は、ある意味、不幸ではなく、完全という概念を思えば、不幸によって幸福があり、幸福によっても不幸があるわけです。

すべては一人でどうにかできるものでもないですし、一部には一人でもどうにかできるものもあります。

今の日本、いや世界は、このイレギュラーや異質も含める完全性の見方が欠けていて(いわやるジェンダーとかマイノリティの権利を訴えるというのとはニュアンスが違います)、自己責任・自業自得の偏った思いが過剰であり、また同時に、健全な自立的精神も不足しているように思います。

すでに述べたように、私たち一人だけではどうにもできない事態もあると同時に、一人でできることもある(力がある)わけです。

頼るべきところと頼られるべきところのバランス、調整が食い違っているというのが大きな問題です。

このようなことを、異質なるカードと全体を見ることで、思い浮かべた次第です。


マルセイユタロット 主観・客観

タロットは、主観性のツールと言えます。

タロットカードという絵柄の象徴を見ている者が何かを想起させたり、判断したりするわけで、結局、そのカードを見ている人の思考や感情、モノの見方のパターンは必ず入ります。

言ってみれば、カード(タロット)を読む人の脳によるのです。

個人の脳は、構造は皆同じでも、一人一人データ・働き方は違うので、タロットを読むことは、その人個人の脳に基づくと考えられるわけですから、当然、主観となる仕組みです。

しかしながら、タロットはまったく逆の、客観性に導くところもあります。

それは、タロットが極めて優れた象徴システム(シンボリズム)を持っているからです。ただし、タロットのすべてが、よい象徴システムになっているとは言い難いです。

時に、客観性というテーマで見た場合、作者が特定され、その思い・主張が入り込み過ぎているもの、独特なものは主観性が強くなります。

その作者の頭の中ではバランスが取れていても、ほかの多くの人が見ても同じに理解できるかどうかはわかりません。

その点、マルセイユタロットはとても客観性があると言えます。

それは、マルセイユタロットはひとつの版の作者の名前は伝わってはいても、その元型としての絵柄の根本デザインは、誰がどのように作ったのかはわかっていないからです。

要するに、特定の作者の個人的な考え・思いでは作られていない可能性が高いということです。

しかも絵柄自体は、絵画としてのでデザイン性、芸術感は少なく、おしゃれでもありませんし、おどおどろしくもないです。言わば、インパクトには欠ける絵柄です。

このことは、実は客観性にはよいことで、強烈な印象がない代わりに、多くの人に違和感を持たせない普遍的なスタイルがあると言えるからです。

確かに絵柄自体は、中世から近世にかけてのヨーロッパの人物・雰囲気を描いていますが、現代の日本人から見ても、さほどおかしな印象は受けず、意味がわかってくると、スーと心にも入ってくると言いますか、受け入れやすい絵柄となっています。

もちろん個人差はあるので、絵柄に癖を感じる人もいて、嫌いだという方もおられるでしょうが、ほかのタロットに比べると、特徴はあまりないと感じることが多いと思います。

ということで、基本、主観性のものであるタロットですが、こと、マルセイユタロットを選択する場合、多くのタロットに比べて、すでに客観性の点では秀でているということが言えるかもしれません。

ここで、改めてになりますが、客観性を持つことは、何がいいのかということについて、タロット的に簡単に記します。

1.自己に対して、冷静さやバランスが保ちやすい

2.リーディングにおける相談者の立場が確保しやすい

3.大局的・本質的・統合的観点に導かれやすい

ほかにもたくさんありますが、重要なところではこんな感じでしょうか。

主観に入り込み過ぎると、いわゆる自分勝手、自分の思い込みの世界に囚われやすくなるのは誰でもわかるかと思います。

自己の問題は自分では気づきにくいところがありますし、文字通り、客観という他人視線があれば、自分の盲点にも簡単に指摘可能となります。

ビジネスや商売の世界でも、お客様視点は基本であり、売る側が「これは売れるはず」と確信していても、さっぱりだったということもあれば、逆に「えー、こんなのが売れるの?」と、思ってもみなかったヒットもあります。それは買う側でないとわからないこともあるからです。

私は今でも経験しますが、クライアントさんから問いをお聞きした時、「これはこういうことかな?」と原因や解決策を予想していても、タロットを実際展開してみると、自分の思いとは違っていたということがあります。

マルセイユタロットと、タロットそのものが表す、人の共通・普遍パターンがあるので、タロットを出すことによって、タロットリーダーといえども、その思い込みはありますが、そこから脱する働きがあるわけです。

客観性があると、まさに自分本位から逃れ、相手側との調整、バランスが働き、調和へも近づきやすくなります。

そして、他者に対してタロットリーディングする場合、クライアントは自分ではないので、すでにそれ(他者リーディング)自体が客観性を持つのですが(だからこそ、人の相談ができるとも言えます)、それでも、タロットは基本、主観であるとお話したように、どうしても、タロットリーダーの主観性の影響も受けます。

そこに、タロットが間に入ってくると、タロットによって、タロットリーダー側の最初の思い込みとか、途中での感情的な揺れ動きなども修正され、客観的視点が出てきます。

さらに、客観性は主観性と対立することがありますが、たからこそ、主観と客観の相克の中で、それらを超えた超客観性とでもいうべき視点や立ち位置が出てくる可能性があります。

これは「次元上昇」と言い換えてもよい状態です。

他人も含めて、従来の世界観・常識が超越し、新しい次元の世界に、これまでの主観と客観が統合され、導かれるのです。

物語風にいえば(笑)、同じ人間レベルで、たとえ他人を交えて話をしていても、結局、同じレベルでの方法しか思いつかないけれども、天使や神、はたまた地球文明を超えた宇宙人レベルのような存在だと、超越したレベルの発想が出ますよ、という話です。

マルセイユタロットは、すでにあるだけで、客観性が確保できるところがありますから、持っていて損はないかと思います。

ただし、その客観性の精度を上げていくためには、象徴・シンボルの知識を学ぶ必要があります。

学びや学習もまた、客観性を助けるものとなります。

感情・感覚的なものは主観から来ていることが多々ありますから、その感覚を客観性に置き換えていくためにも(これは「斎王」と「法皇」のカップル性でもあります)、学習・研鑽・知識が重要となります。

しかし、客観性に傾き過ぎると、機械的、パターン的な思考のループにはまりますので、やはり主観的な感性も必要です。

みんながいいと言っていても、あなたが嫌なら、それは実はあなた自身にとっては何か大きな意味や問題があるのです。ほかの人にはわからない、あなただからわかる、感じている何かがあるわけですから。

でも、時には、人の意見や視点のような客観性が、自分を救うこともあるわけです。

宇宙はいわば、神のような完全性のバランスにあると考えられますが、そのバランスが、いろいろなレベルにおいても働いており、高次元であればあるほど、そのバランス・公平性はわかりづらく、低次であるほど、わかりやすいと言えます。

しかし低次のバランスは、高次のバランスから見れば、局所的・一時的には整ってはいても、実はアンバランスであることがほとんどではないかと考えられます。

つまりは、低次になるほど、高次的な意味てのバランス・調和性は無視され、悪い意味の主観中心、自分だけがよいという意識に囚われていくのだと想像されます。それは言い換えれば、非常に狭い範囲でのバランスを保とうとする働きです。

狭過ぎるがゆえに、主観・自我ばかりの世界での考え・感覚に陥るということです。短期的見方と言ってもよく、それは面白いもので、短気的(笑)でもあります。

とりあえずは、狭い世界においても、客観という意識を持てば、ひとつ分、世界が広がることになります。

だからこそ、私たちは「客観」という「視点」が求められるのです。

それでも主観を殺していいわけではありません。あくまで主観の修正、狭い主観性のモノの見方から解放を促すための客観であるべきで、客観があなたの主観に取って代わるわけではないのです。(つまり、他人の言いなりにならない)

とにかく、マルセイユタロットは、まず、「タロット」という主観性の道具でありながら客観性を促すという意味で、主観と客観のバランス・統合を見るには、とてもよいツールだと言えます。


ペア・カップル性 「斎王」と「法皇」

マルセイユタロットリーダー、マルセイユタロット講師を名乗っている私ですが、もとはと言えば、ホドロフスキー・カモワン版マルセイユタロット、日本では通称カモワンタロットと呼ばれるタロットから入った者です。

今でもリーディングでは、主体としてカモワンタロットを使っています。(ほかのマルセイユ版も使います)

そんなカモワンタロットの技法にはいくつか特徴があるのですが、 そのひとつにペアやカップル性をカード同士で見ていく(結び付けていく)というものがあります。

もっとも、カモワン流に限らず、カードをペアやカップルでくくるという概念は、タロットでは普通にあるかと思いますが、カモワン流の場合は、それがかなり強いと言いますか、ベースを占める考え方になっているのが、ほかとは違うところでしょうか。

そのうえで、私自身、さらにカップルやペアの概念を探求しいくうちに、実際の人間関係・役割においても、それは重要であることに気が付いてきました。

そもそもタロットは、ホドロフスキー氏が述べられているように、「宇宙のモデル」になっているところがあり、現実の考察と活用ができるものになっています。

ですから、カードを使えば実際フィールドでの気づきが生まれますし、現実の変化や改革もやりやすくなるのです。

タロットには霊的・精神的な側面と、実際的・現実的側面があります。あるというより、それらを象徴しているといったほうが正確でしょうか。

ですから、ペア・カップル性においても、霊的・精神的カップル、現実・物質的カップル・ペア性がカードからは推察することができます。

いわば、世の中のカップル・ペアとなる人間関係(だけとは限りませんが)には、種類・性質の違いがあるよ、ということであり、それを理解していると、人間関係もスムースになったり、自分に足りないところ、逆に有り余っているようなところの調整・活用も、うまく行ったりするわけです。

言い換えれば、人の組み合わせの意味合いと使い分けを見ましょうということです。

例えば、カードで言えば、「斎王」と「法皇」に当たるカップル性(カップル・ペアとなるカード)があります。

これは特に、スピリチュアルに関心を持つ女性の方に述べておきたいです。

「斎王」(アルカナナンバー2に当たる大アルカナ)は、言ってみれば巫女的な女性ですが、精神世界・スピリチュアルな傾向(関心)を女性が持つ場合、自身の中にこの「斎王」を見ます。

いや、「斎王」をきちんと蘇らせる必要があるとも言えます。(数秘的には同じ2の数と関係する、「力」や「審判」とも深く関係します)

しかしながら、その力の安定した発現には、一方で男性性の援助も求められるのです。

女性性である「斎王」の感応力は、ある条件や場所、あるいは血筋などによって目覚めることが可能ですが、それを安定したものにして、社会や現実に活かすためには、男性性の力と支えが必要となります。

一人の人間の中には、男性性も女性性も存在しますので、究極的には、一人の人間で両性を統合・具現化、発現することも可能に思いますが、生身の人間性、統合プロセスの途上にある者としては、異性同士の協力があったほうが早いと言われます。(ただ、巫女の力の性質上、男性性の支えということでは、人間の男性でなくてもよい場合もあります)

そのため、女性で、自分一人で何かの感応を得たとしても、それを安定化し、外に向かって、社会的に活かすには、男性の力や表現も借りるとよいということになってきます。(さきほどのも述べたように、一人でも可能ではありますが)

もっと言えば(逆に言えば)、女性から見て、心から信頼する(精神的な)男性がいれば、眠っていた斎王の力が復活する可能性があるということです。

そして、男性側からすれば、自分を信頼し、自らを預けることのできる(巫女的な)女性が存在することで、より社会的な力(影響力も含め)が増し、変革の力と実現性が強化・拡大します。

たとえ、他者からその男性が攻撃されたとしても、立ち直りと修復は、女性の巫女力(癒しの力でもあり、その元型は、マルセイユタロットで言えば「星」のカードから流れてきます)によって、早められます。

よく例えられるように、港と船の関係が、女性(港)と男性(船)に言えます。

ところが、このたとえは、逆転もあり、船が女性で、港が男性にもなります。

特に霊力・巫女力は船のように海に出るような感じで、海の情報を船に乗せる、入れるような感覚になるため、大海に揺られる小舟では不安定になるので、男性が港と灯台化することで、女性の船を安全に導くことが可能になります。

感応と言語は(感情と思考でもあります)対立する関係にありつつも、相補うものでもあり、女性(性)の感応は、適切な言語化によって、多くの人に理解してもらうことができますし、女性自身も自分の感じていることを客観視できます。

男性(性)は、いくら言語化できると言っても、元となる発想・アイデア・感応がなければ始まらず、分析はできても、神聖なる直観的示唆が得られていないと、宇宙(神)の本質からはずれ、ただ現実的(エゴ的人間同士の)正しさの世界、理屈の世界で競い合うはめになります。

この「斎王」「法皇」の男女ペアは、本質的には愛によって結合する二人と言えますが、恋愛感情のようなものとは違い、さらに現実性での良し悪しとか損得が入るペアではありません。

ですから実際の恋人関係とか一般の夫婦関係の男女とも異なります。しかし、実際にはその(恋人・夫婦)関係であっても、「斎王」「法皇」のペアとなり得ることもあります。

そこには非常に高度ともいえる関係性があり、肉体次元(肉体的性、打算や現実的立場・グループなどの次元)を特に超えていく間柄(現実世界にいながら)と言えます。簡単に言えば、精神性のカップルではあるのですが、そういう言葉では表せない絆があるペアです。

ですから、本来的には、相手はたった一人でよく、また唯一無二の人となるでしょう。

カード的には「恋人」から「審判」の高次の愛に目覚めるための関係性となるのですが、同時に、神聖なる意思を伝えていく協同的な者として、「太陽」的な二人にもなります。

しかし、二人の関係性があまりに閉鎖的に、独善的になってきますと、新興宗教の教祖と狂信的伝道者みたいな間柄になり、二人の間の理想が周囲に理解されず、忌み嫌われたり、現実離れした二人だけの世界に逃避してしまったりします。(犯罪協力者同士となり果てる、「悪魔」のカードとも関係)

女性にしても、男性にしても、ペア性・カップル性を思い、自分だけですべてをやろうとせず(特にこの現実の世界では)、異質な力を持った者同士が組み、目的を成し遂げていくのがスムースであったり、楽であったりするかと思います。

また、役割は違っても純粋に対等であることは、常に関係性の念頭におき、相手への依存や支配(独占含む)が働けば、それは均衡と統合の力を発揮するペアではないと認識しておくことも重要でしょう。関係性に癒着が見られると、依存か支配に取り込まれるおそれが強いので、注意が必要です。

実はこの世界、どの人もパートナーを求めており、得難き人が見つかれば、物事の成就はもとより、人生の安心感、ピースがはまる安定感、さらには万人を敵に回しても(多くの否定感に支配されても)、一人の大きな理解があれば自己を全力肯定できるすばらしさがあります。

恋の始まりも(「恋人」カード)、これらの意味があるのではないかと推測されます。

結局は、私の中のあなた、あたなの中の私を見つけることなのです。


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