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水平方向と垂直方向

いつも文章量が多くて自分でも読みにくいと思っているくらいですので(^_^;)、今回は短めに書きますね。


運動や関係性の方向には、大きく分けて水平方向と垂直方向とがあります。(物理的というより、心理的な面で見たほうがよいです)


縦軸と横軸で表された図を考えるとわかりやすいかもしれません。


閉塞した状況であったり、何か行き詰まったりした時に、水平方向と垂直方向とをシフトしあうことで、急に道が開けてくることがあります。


簡単な例を出すと、


自分に働きかけるか他人に働きかけるかの違い

同じフィルードか別のフィルードかの違い

友人か上下関係かの違い


などの視点の切り替えです。


カモワン版マルセイユタロットをお持ちの方は、タロットマンダラ(大アルカナ22枚をある思想で並べた図)を見ていただくと面白いことに気がつかれるでしょう。(たとえば「審判」と「恋人」など)


水平方向と垂直方向の違いが今一つつかめない人は、「次元」「レベル」ということをキーワードに考えてみるとよいでしょう。


そして、ここが最も大切なのですが、縦軸と横軸の図(十字)で、横から縦、縦から横へとゆったりと線をつなげていくと、様々なが浮かび上がってくるのです。


その意味が何なのか、皆様も考えてみると面白いと思います。


旅の好みのスタイルによる相性

前に、真の意味で恋愛には相性はなく、作っていくものだ とはお話ししました。


しかしながら、人それぞれ、気質や育ってきた環境の違いなどにより、思考(考え方のくせ)や好み(自分が心地よいと感じるパターン)には異なるものがあります。


それが二人の間で大きく隔たりのあるものだと、初めの間はやはり相性の違いという感覚でとらえられてしまうことがあります。


さて、いよいよ夏真っ盛りというシーズンになりましたが、旅行へ出かけるカップルも多いことでしょう。


ここで旅の例をもとに、その相性の違い(と感じること)を挙げてみましょう。


人は旅の好みからの観点で大きくわけると、以下のふたつのタイプがあると私は考えています。


1.目的型

2.過程型


1は、とにかく行きたい場所に行って楽しむことを主としているタイプで、たとえば「何々が見たい」「何々のテーマパークや施設で遊びたい」「何々を経験したい」という目的ありきをメインとする人です。


タロットで旅をイメージするカードを挙げるとすれば二枚あり、それは「戦車」と「愚者」ですが、この1は「戦車」タイプだと考えられます。


目的を達成すること自体が旅の趣旨となりますから、目的地にたどり着くスピードを重視します。到着してからも効果的に回る方法など合理性や効率性もポイントに置きます。


すると、中には車や電車に乗っている目的地までの旅では、ほとんど寝ている人もいます。(到着すると、めいっぱい楽しみます)


これに対し、2は旅の過程やプロセスを重視するタイプです。


このタイプにも目的地はもちろん心にあるのですが、それよりもそこまでたどり着く途中の楽しみや、旅の計画から終わりまでの流れ全体を好みとし、旅をイメージするだけでワクワクしてしまうという人です。


ただ少々ロマンチスト傾向があり、実際の旅行と自分の想像とが違っていたりすると、目的地に着いても不満をもらしたり、そもそも目的型ではありませんから、そこからさらに別の旅や目的地に行こうとすることもさえあります。


タロットでいえば、この2は「愚者」タイプとなります。


恋愛関係(に限らずですが)において、この戦車タイプ(目的型)と愚者タイプ(過程型)というようにタイプが別々であった場合、旅行の間中、ギクシャクとしたものになりがちです。


目的型の人にとって過程型の人は、「途中の計画や妙なものにこだわりをもって、本来の目的を楽しんでいない」ような印象を持ちますし、過程型の人は目的型の人を、「目的地にに着くことばかり考えて、もっと景色とか旅自体を楽しんでほしい」などと感じることもあるでしょう。


ただ、恋愛が盛り上がっている時はラブラブ状態で、ともに相手へ合わそうとしていますから、そんな違いもお互いにかわいらしく見えて、すべて楽しくやり過ごすこともできます。


けれども次第に情熱が冷めてきますと、お互いの気質の違いが逆に気になり、その違いばかりがマイナスに目に付くようになってしまいます。


最初からある程度この人はこういうタイプだと思っていると、それもましになりますし、もともと同じようなタイプの人とつきあっていると、こうした意味での破綻は少なくなります。


それでもタイプ論の記事 でもお話しましたが、結局どのタイプも人の中には存在していますので、必ずしも旅のタイプもこのように分けられませんし、状況よってその複合タイプになることもしばしばなのです。


ということは、たとえ相性や気質の違いはあっても、相手に自分と同じところや自分とは異なる部分を見ることによって調整し、調和させることで、お互いが成長していくことも可能だということです。


旅のタイプの例でも、「今はこの人は目的に偏っているんだな」「私は過程を楽しんでいないから、もっと楽しんでみよう」とその時その時に、相手を思ってパターンを意識的に変えていくと、二人の関係も新しく創造していくことができるということになるのです。


タロットがいらない相談

私は以前、デパートの一角にある占いの館に出させていただいていたことがあります。


週一回のことであり、それほどたくさんの方のご相談をしたわけではありませんが、この期間の経験はとても得難いものでした。


今でもまた機会があれば出たいと思うこともあります。


訪れる相談者の方は、買い物に来たついでに占ってもらおうという主婦の人、それも年齢的には比較的上の方々が多い傾向にありました。


こう書きますと、「買い物帰りの気軽な相談」と思うかもしれませんが、実はとても重たい内容ばかりでした。


人は見かけによらないといいますが、楽しく買い物をされているようで、その心の中は「買い物でもするしかない」「買い物をしてうさを晴らしている」「ただここに、あてもなく来ているだけ」といった複雑な心境が隠されていたのです。


確かに最初は「ちょっと運勢、みてもらおうかと思いまして・・・」「私、占い好きなもので・・・」といった軽い感じから入って来られる方が多いのです。


しかしじっくりお話をうがっていますと、配偶者やパートナーとの積年のうらみ、不治に近い病の相談、こじれた嫁姑問題、遺産や財産の話、自分の死に様をどうすべきかとというような、とうてい私のような若輩者ではすぐにアドバイスすることが難しいようなことばかりが本当の相談でありました。


こうした場合、私はタロットリーダーですから、タロットを展開して見ていくのですが、あまりに相談がすさまじいものであると、相手もタロットや占いをされているという意識が薄れ、ほとんど人生相談のようなものになってしまいます。


カモワン流では、相手にタロットを引いてもらって、その出たタロットを相手と一緒に見ていきながら、自分の心や状態がどのようにタロットに反映されているかを確認していく作業があります。


しかしながら先述したような人生相談状況になりますと、とてもタロットを見てもらうなどのことはできなくなります。極端なことをいえば、この時、タロットは無意味でさえあるのです。


こうなると、ほぼ人間対人間の話し合いとなり、持てる全力で相談者と向き合い、話を聴いていかなければなりません。


「ではタロットなど不必要では・・・」とも感じるでしょう。


けれども、たとえ相手(相談する方)がタロットを無視したとしても、こちら(相談される側、タロットリーダー)は頭の中でタロットをイメージしながら整理し、相手が引いたタロットを心の中でリーディングしていくことにより最終的には何らかの示唆やアドバイスをタロットから導き出すことも可能になるのです。


タロットリーダーが、「タロットはこう語っています」と言っても、相手は自分のことで必死であり、タロットのことなどどうでもよいと思うこともあるでしょう。


相談する人がほしいのは解決策であり、癒しであり、話を聴いてもらう安堵感であり、自分の生きている価値を確認したいことなのです。


タロットリーダーは何でも「タロットがタロットが・・」・と言いたくなるのはわかりますが、相手は人であるということを忘れてはならないでしょう。


自分の中でタロットが生きていて、そこからの指針が相手に伝われば、たとえ相手がタロットに関心や注目を抱いていなくても十分だと思います。


人との相談の現場というのは、理論や形だけでは通用しない世界だともいえます。まさに人が千差万別なように、その悩みも相談もいろいろです。


自分なりのひとつの形を持っていれば、あとは臨機応変に対応していける柔軟性をもって、「人」に対して行っていきたいものです。


タロットカードに流れる「マグダラのマリア」のエネルギー

昨日は7月22日でしたが、この日はマグダラのマリアの記念日(西方教会)でもあります。


マグダラのマリアといえば、近年、小説「ダ・ヴィンチ・コード」でも有名になりましたが、イエス・キリストの妻であったといわれる女性です。(イエスジュニアを身ごもり、産んだという伝説もあり)


ただマグダラのマリアについては様々な伝説があり、一般的にはイエスによって自分の罪を悔い改めた人物、イエスの磔刑後、その復活を最初に見届けた女性として知られています。(当然ですがイエスの妻であるとは公式には認められていません)


カモワン版マルセイユタロットでは、マグダラのマリアとの関連を説きます。


タロットカードの絵柄(単体もしくは複数のカードの組み合わせ)によって、マグダラのマリアの数々の伝説を見ることができるのですが、ここではそれらについては言及しません。


ただ、一枚だけ挙げるとすれば、17の数を持つ「星」というカードを示すことができます。


西洋の宗教画において聖母マリアと違い、マグダラのマリアは長髪の金髪であり、裸で描かれることが多かったようです。


星のカードをみると、まさにそのような女性が二つの壺から水を流している姿で描かれています。


私たち日本人が見てもすぐにはわかりませんが、きっとキリスト教、特にラテン系の国の方々にはこの「星」の女性を見ると、マグダラのマリアだとすぐ思われることでしょう。


マグダラのマリアは伝説によれば、イエスの受難のあと、イエスの子をお腹に宿しながら、イエスの秘儀を受け継ぐ者たちとともに地中海に船出し、今の南仏マルセイユ界隈の海岸に漂着したのち(「サント・マリー・ド・ラ・メール」という地名で残っています)、その地に留まってイエスの教えを広めたといわれています。


イエスジュニアを産んだあと、マグダラのマリアは山の洞窟にこもって修行を続け、悟り(というと仏教的ですが)を開いたとも伝えられています。裸の姿と長い髪の毛はこの時の修行状態を表しているとの説もあります。


ちなみにこの洞窟はマルセイユ郊外のサント・ボームという山にあり、中腹にはやはり洞窟が存在し、そこにはマグダラのマリアを祭る教会もあります。私も実際にタロット学習の関係で行ったことがありますが、いろいろな意味ですごいところです。


マグダラのマリアが伝説の通りに実在したかどうかはわかりません。ただマグダラのマリアと語られる存在は、古代からの女神崇拝、女神・地母神信仰が反映されていると見てよいでしょう。


従って、女性的な癒しのエネルギーが「星」のカードには体現されています。


多くの女性の方がこのカードを見て特別な感情を抱いたり、自分の女性性について思いを馳せたりするのもそうした理由があるものと考えられます。


また女性だけでなく男性も含めて、このカードから大いなる浄化と癒しのパワーを実感することでしょう。


私自身も行き詰まっていた時、このカードと瞑想対話していますと、マグダラのマリアのような存在が現れ、「そのままでいいのですよ、がんばっていることは私が知っています」と告げられた感覚があり、涙がとまらなくなった経験があります。


カモワン版マルセイユタロットには、確かにこのマグダラのマリアに象徴されるような女性的な力が流れているように感じます。


それは、今の世で失われがちな何かだといえるでしょう。


タロットカード「神の家」の一考察

今回の話はカード一枚のやや専門的な話になります。


カードの絵柄がイメージできないと、まったく何の話かわかりませんので、もし絵柄を確認されたい場合はこのサイト でのタロット図最上段、向かって左から二番目のカードを見てください。


カモワン版マルセイユタロットではなく、ほかのタロットカードの一般的な解釈でちょっと妙な気持ちになるのは、特に「塔」と呼ばれるカードです。(ほかにもありますが・・・)


カモワン版マルセイユタロットではこの「塔」のカードのことを、フランス語の直訳で「神の家」と名付けています。


「塔」としては、正立としても逆位置でもかなり凶的な意味合いでとらえられるようです。


それはこのカードの絵柄を見ればわかるのですが、中心の建物の頂上部に向け、横から稲妻のような光が走ってきて、建物の上の王冠部分を崩しているように見えるからです。


それがまさに物事の崩壊や突発的な災厄を暗示させるからでしょう。


しかしカモワン版マルセイユタロットの「神の家」では、意味が180度くらい違ってきます。一言でいえば「栄光」や「祝福」を受けることに関係します。


その根拠として、カモワン版では、「塔」の建物のてっぺんにある王冠が、実は破壊されているのではなく、天から降ってきている(かぶせられている)と解釈するからです。


つまりは神の光を受けて自身が「神の住まう家」になるため、その栄光として王冠が天(の父)より下されると考えるわけですね。


私はこのカモワン版マルセイユタロットを使う身なので、この説をとっています。


ただし、もっと純粋に他のマルセイユタロットも見て想像してみると、やはり建物(塔)の頂上・王冠部分は光によって離れていっているようにも見えます。


ということで、私は「必ずしも王冠が空から降ってきているとはいえないのではないか」と思うこともあるのです。


では、破壊されているでもなく、降ってきているでもないとすれば、ほかにどのような解釈ができるのでしょうか。


もう一度「神の家」をながめてみます。するとある考えとイメージが浮かんできました。


この王冠はもともと「塔」の建物上部に存在していました。ところが、天からの光(稲妻のような強烈なエネルギー)を受け入れるため、自ら王冠であるふたを開いたのです。


これは建物(塔)の内側に充満するエネルギーと、天から降りてくるエネルギーの邂逅(合体)です。


雷の落下には金属などの誘導されるものが必要なように、建物の内側自体から発するエネルギーが、それに引き合う天からの別種(大きな意味では同種)のエネルギーを導いたといえます。


その瞬間、建物内のエネルギーの漏出を防ぐため王冠はバカッと口を開けるかのように傾き、そして天からのエネルギーは、その空いた部分から建物(塔)内に流入することになったのです。


王冠はカバラー的にいえば、一段階下のケテルかもしれません。つまり、稲妻が降りてくる前は王冠と建物は一体化しており、その時点でひとつの完結や完成を見ていたのです。


しかし、それでは次の次元や段階へ上昇できないと気付いた建物(私たち自身や特定次元の象徴でもあります)は、さらなるエネルギーの充実に努め(エネルギーを練る)、その高まった圧力とオーラで、ついに天から新しいエネルギーを呼ぶことに成功したのです。


その時、前の時代(次元の)王冠はもはや必要性がなくなり、王冠は自らふたとしての機能をはずして、天からのエネルギーを受け入れたということになります。


おそらくこの後は別の建物に変化するか、建物自体、さらなる発展のために爆発する可能性があります。古い形は崩れ変容するのです。


よく日本のアニメでありますが、エゴ的な人間が究極的な力を熱望するあまり、急激に無理して圧力を高め、エネルギー装置を暴走させてしまい、破壊に至らしめてしまう描写があります。


反対に装置をコントロールできる力を持つ(それは女性や少女であることが多い)者が平和を望んでそれを扱う時、巨大な扉が開かれ、新しい世界を生み出します。


このことから、「塔」という名前で語られるタロットカードの解釈もある意味正解であり、またカモワン流の「神の家」としての解釈もまた正しいということになります。


ですから、「神の家」をリーディングする時は、非常に大きな試練を与えられていると見ることもあります。


それは自分自身の飛躍や成長を促されるものであり、そのためには力をうまく扱えるほどの蓄積と技術が必要だということになりましょう。


簡単にいえば、大きな変化のための準備をする、別次元へのステップへの始まりを意識するということです。そこには神の試練とでもいうべき、厳しさを伴う選択も用意されることでしょう。


いずれにしても、土台をしっかり見据え、変化の決意を意識しないとこの機会を生かすことはできないと考えられます。


それが、「神=(自分の神性でもある)への絶対的な信頼ができるか」ということにもにもつながることだと思えるのです。


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