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時間の回転は傷を和らげる。
人は生きていれば、本当に傷つくことは多いものです。強い時ばかりではありません。
仕事・恋愛・家庭・・・様々な場面。
自分が悪いこともあれば、突然のアクシデントなどで一方的に傷つくこともあるでしょう。
しかし、有り難いことに、私たちは時間が流れる世界に生きています。
時間をを表すタロットカードに「運命の輪」があります。
「運命の輪は」、その名が示すとおり、輪であり円です。
これに反して直線的なものはストレートです。直線は時には刃物のようなキツさをもって、私たちに迫ってくることがあります。
円は丸く、回ることによって時間がかかります。相手に届くのも、自分に届くのもぐるりと円周を回らねばなりません。
もどかしいことはありますが、ショックを受けたり、傷ついた時は円が逆に緩衝材となって、ダイレクトに響くことを緩和します。エネルギーが丸いものに沿って流れざるを得なくなるからです。
ですから、時間の回転は心の癒しにつながるのです。
最近とてもつらいことがあったとしても、時が回っていくことで、何度もの時間の回転で、最初起こった時の強烈さは違った形であなたに届けられるようになります。そしてまた、ショッキングな出来事も別の思いで見られるようにもなります。
このように、「運命の輪」はただチャンスや時流に乗るということだけではなく、緩衝材や緩和していく効果として時の回転を見ることができるのです。
今心が痛い人も、つらくてパニック状態かもしれませんが、時が必ず解決してくれるようになります。少なくとも時間はあなたの味方となって、傷を和らげてくれることでしょう。
「吊るし」と「悪魔」の隠されている手。
タロットカードの大アルカナと呼ばれる22枚のカードは、そのほとんどに人物が描かれています。
そして「人」ということは、当然手足もあるわけなのですが、不思議なことにあえて「手」を隠しているカードがあります。
それが「吊るし」(他のカードでは「吊され人」とか「吊された男」)と「悪魔」です。
「吊るし」の人物は逆さまに吊られた状態で、手は後ろ手になっていますので手が見えません。おそらくほとんどの人がこのカードを見た時思うように、手も縛られているのではないかと想像できます。
しかし、カモワン流の解釈ではこの「吊るし」の人物は吊されているのではなく、自らが好んでこの姿勢をとっているとしますので、手もまた自分から後ろにして結んでいるのかもしれません。
一方の「悪魔」ですが、このカードには悪魔と思われる人物と、その悪魔を崇拝しているかのような二人の裸の者たちが描かれています。
手が見えなくなっているのは、悪魔ではなく、つながれている二人の人物のほうです。
この者たちはともに悪魔を見て、心酔しきっているかのように笑みを浮かべています。
二人がしている後ろ手状態は、やはり「吊るし」のように縛られているようにも見えますし、手を表に出さないことが楽しく、自然にさせられているようにも感じます。
手はいろいろなことを象徴します。
手先を使うということで、カードの「手品師」(ほかのカードでは「奇術師」「魔術師」)にもいえますが、「仕事」を表すこともありますし、そこから個性・パーソナル、その人そのものを示すこともあります。(仕事が人を社会的に表すことがあるからです)
また手を使うことは文字通り、手段ともとれますし、印を結ぶということなどからも呪術的な意味合いもあります。手当という言葉からも、治療やヒーリング的な行為を表すでしょうし、手当はまさに手当として働いた報酬・お金を意味することもあるでしょう。
さらには手は五感の刺激を受け、全体を把握するための有効な装置となっていますので(手でさわって感じるように)、手の自由を奪われるということは、まさしく人としての自由を奪われるのに等しいともいえます。
罪人を拘束するのに手錠が使われていることが何よりの証拠でしょう。
こう考えてみますと、現実世界で生きる私たちにとって、手(の自由が利くこと)はいかに大切かということを物語っているといえましょう。
その手をあえて隠している、あるいは隠されている「吊るし」と「悪魔」のカードは、いったい何を私たちに示唆しようとしているのでしょうか。
ここで「吊るし」と「悪魔」の二枚の手の隠され方に注意してみる必要があります。
「吊るし」は自ら吊るし状態を選んだ人物だとお話しました。ということは、後ろ手にしているのも、自分の意志だと考えられます。
それに対し悪魔につながれている二人の人物は、自分からということもいえるかもしれませんが、どうも悪魔の影響によってそうせざるを得ない、そうさせられていると想像できます。
つまりは自らと他者からの違いです。
手をあえて使わないようにする、使われないようにするということは、結局先述したように個性や自由を奪うことにはなるでしょう。
しかしハンディとも思えるある縛りをかけることで、逆に見えてくるものもあります。また自分が個性だと思っていたものはわがままな我であって、それを抑えて物事を観察することも時には有効かもしれません。
それらが「吊るし」のほうのひとつの解釈です。
反対に「悪魔」は、手で反抗できないほどの影響力、自然に従ってしまうような(好きになるような)力を持つことをいわれているように感じます。その点では「力」のカードと共通している部分もあるのです。(カモワン版を学習した人は、「力」と「悪魔」にはもともとあるシンボルで連繋していることを知っているはずです)
またあれこれ手を出すのではなく、悪魔という大きな存在に導いてもらいつつ、自分で手鎖をはずす事を学んだり、気付いたりすることも示されているともいえましょう。
こちらは自分の個性に気が付いていなったり、自分が何をしていいのかわからないような人には参考になる方法でもあるといえます。結局は自分の自信や本当の自分の良さに気付くための仕掛けでもあるのです。(以前の悪魔の記事 も参考にしてください)
けれどもここで述べたのは私のひとつの解釈に過ぎません。もっと別の多くのことを思い起こすことも可能でしょう。
この二枚は、ほかのカードの中でもネガティブに考えてしまいがちのカードでもあります。
隠された手のこととロープの象徴に思いを馳せながら、できるだけポジティブなことも想像していくと、人生そのものへの効果的な訓練になるかもしれないのです。
「正義」のカードで、責任のバランスを考える。
タロットカードに「正義」という名前のカードがあります。
このカードに描かれている人物が天秤をもっているところから、ひとつの意味としてはバランスを象徴しているカードともいえます。
私がタロットの相談をしていて思うのは、問題のほとんどはバランスがとれていないことにあるということです。
その中でも今回は、責任のバランスということについてお話したいと思います。
私がデパートの占いの館に出ていた時によくあった相談ケースなのですが、親が子供のことを心配するあまり、本来子供自身が持つべき責任までも介入してしまい、親子の間でバランスを崩してしまっているということがありました。
具体的なことでいえば、結構いい年になっている子供の進路、結婚・恋愛、就職までも親が責任をもとうとしていたのです。
「私が決めてあげないといけない」と子を思う親心がそうさせるのでしょうが、年少の頃ならともかく、ある程度の年齢になり自分で物事を決められるはずの子供に対して、その人生に大きく干渉することは、子供と自分(親)の人生における責任配分を誤らせているといえます。
こう考えてみましょう。
親も子(とくに大人になった子供)も、それぞれの人生には、それぞれが100%の責任を持っているのが正常な配分だといえます。
しかし、本当は自分の人生ということで子が100%責任を取らねばならないところを親が介入し、子の責任分まで取り上げてしまうと、たとえば子が30%、親が70%という配分になっていることもあるのです。
そうすると、一見、子の負担分を減らしてあげたと親は感じますが、それは錯覚であり、その分だけ子の成長する部分や人生で味わうはずだったパートを子から取り上げてしまったことに気がつかねばなりません。
過保護が実は意味的には虐待みたいなことにもなりかねないのです。
責任の配分と言ってはいますが、それは何もネガティブなことではなく、正常に受け持つ部分であり、結果的に楽しみであったり、経験や資源になったりする分ともいえます。
親子ということで親側が子の部分を削る話をしましたが、この逆のこともあります。(親が本来責任を持たねばならない部分を子が余計に負担してしまうケース)
また親子という関係だけではなく、夫婦、恋人、友人、職場の人間など、あらゆる両者の人間関係に見られることです。
自分が責任を取りすぎているか(自分が過剰に負いすぎているか)、あるいは本来取るべき責任を減らしていないか(相手に押しつけていないか)をチェックすることは、心のバランスを保ったり、回復させたりすることにもつながりますので、一度試してみるとよいでしょう。
タロットを使った「忘れない」方法。
皆さんもご経験があるとは思いますが、たとえばノウハウ本などを購入して、
「おお、これはいい方法だ。やってみよう」
と思ってみても、いざ読み終わって日常生活に戻ってしまうと、いつの間にかすっかりそのことは忘れてしまい、本を買ったことすら思い出せないことがあります。
結局、そのまま実行に移すことがなく、「読んだ」ということで「実際に行った」と気分的に錯覚しているわけですね。
こういう場合、本を読み終わる→本を閉じる→本をしまうという過程で、「自分がやろう」と思った文章自体、物理的に目に入らなくなったことが意外にも行動に影響しているのです。
情報量の多い日常生活の中で、人はなるべく忘れようとして生きている生き物でもあるからですね。
気にとめることが少ないほうが楽だからです。
ですから、単純にその文章を抜き出して、自分の目に入りやすいところに置いておけば、少なくとも今までより気がつくことは多くなり、忘れることが少なくなるのは確かでしょう。
また本などは文章量が多いので、必然的に情報の量も多くなって、あるポイントで「これはよいな」と思ったとしても、また違う箇所で「こっちの方法も使える」「この考え方もいいよねー」など、覚えておくことができにくくなることもあります。
それでやはりめんどくさくなって、「忘れてしまう」いや「忘れようとする」のですね。
ということで、目につくところに「やりたいこと」や「使ってみたい方法」などを書いて置きたいことろなのですが、でかでかと机の前に紙を貼ってもちょっとかっこ悪い感じもします。(笑)
そこでタロットを使います。
記憶したいこと、是非やってみたいことなどをタロットカードに託して記憶させるのです。
えぇー、覚えるのかぁ、めんどうだよねぇ・・・と感じるかしもれませんが、タロットに慣れていれば覚えるというより、自然に内容とタロットがリンクするようになります。まさに自動反応のようなものです。
そして、実行したいと思っている知識や文章などを、ある一枚のカードに象徴させ、タロットカード(画像でもよい)を目の着くところに飾っておきます。
外出の機会が多い方は携帯の待ち受け画面にしてもよいです。
これには二重の効果があります。
ひとつには、ここで書いてきたように、物理的に「目に入る」機会が多くなるということで、忘れようにも忘れにくくなります。(象徴させたことを実行するかは、やはり本人の意志によりますが)
もうひとつは自分が覚えておきたい内容だけではなく、それを象徴させたタロットカードにおけるほかの事柄(そのタロットが象徴している様々な事柄)も心に染みこんでいくということです。
たとえば、「スピードこそ起業のカギ」というようなことを覚えておきたい時、「戦車」というカードにそれを象徴させてもいいのですが、同時に「戦車」の表す成功や勝利というような事柄もあなたにの中に刻み込まれて行き、成功のためのマインドが呼び起こされていくというものです。
これは願望実現法というより、自分の中にある成功における心のプラスとマイナスのことも出てくるということです。
ですから、この場合、単純にカードを見ていれば成功するということを言っているわけではありません。成功するためのあなたにある問題点も出てくるということを意味します。
しかしながら、そのマイナス部分を見つめ直し、克服することができれば成功に導かれるということでもありますので、結局のところ、大きな意味では願望実現法といってもよいかもしれません。
タロットカードの「隠者」に見る、年を取った時の対処法
タロットカードで「隠者」というカードがあります。
いわゆる老賢人という姿で描かれているカードで、深い智慧と見識、経験を有している人物がそこにはいます。
私はタロットを教えている時、皆さんにカードに親しみをもってもらうため、よく冗談でこのカードを「おじいちゃん」と表現することがあります。
カードが問題状態で出た時、「古い考え方にとらわれている」「ある物の見方に固執している」「隠れすぎ」など、困ったじいちゃん(笑)ぽい話を交えてたとえに出したりします。
しかし本当に、このカードは年老いた時、私たちはどう対応すべきかということを教えてくれるような気がしています。
年を取ると肉体はだんだんということを聞かなくなり、動きはどうしても機敏にはできなくなるでしょう。
「隠者」の人物を見てみると、ゆったりとしたローブを着ていて、それほどの動きはやはり見られません。
(余談ですが、映画スターウォーズのジェダイの着る服みたいな感じですね。スターウォーズは結構秘教魔法的な話です)
しかしその視線は鋭く、手にはランプを持ってじっと観察しているかのようです。おそらく心の中はスピード感あふれる洞察のインスピレーションが動き回っていることでしょう。
それがあまりにも早いので、一瞬で判断も下していそうです。(カードの順番では「正義」のカードの次が「隠者」であり、「隠者」の視線の方向に「正義」があることも興味深いのです)
それはまるで検索エンジンを一発クリックして、瞬時に結果を出す(しかし組み上げられたシステムと巡回する量は多重)ようなものです。
このように、「隠者」はたとえ肉体的な動きは若い時のようにできなくても、蓄積された膨大な知識と経験によって、無闇に動かずとも適切な回答を得ることができますし、内的にはとても能動的(心は豊かで積極的)なのです。
そして「隠者」の姿は、最初にも述べたように、私たちに年を取ったら何をすべきかということを示唆してくれています。
それは探求する、学ぶということです。
学生に戻るといってもよいです。つまり、何かを学び続けるということなのです。
学びは新しい知識や技術の習得を意味するだけではなく、自分自身を常に変えていくきっかけにもなります。性別、世代を超えた広い交流もあるでしょう。
そのことが、凝り固まりがちなお年寄りの頭脳と生活に柔軟性と活性をもたらせます。
また学びは自分を謙虚にします。
教えを講うわけですから、尊大な態度だと相手は教えたくても教えたくなくなります。
それに、自分の知らないことを知るということは、「ほぉ、こんな世界があったのか」「この年になってもまだまだ知らないことはたくさんあるものだ」と自分の小ささを知り、自然と頭(こうべ)を垂れることになります。
「隠者」の人物も表立って目立つわけではなく、その名前が示すとおり、隠れて謙虚です。
もちろんこれまでの自分の蓄積を誰かに伝えるため、反対に自分が教える側になってもよいのです。
けれども、それは年を取れば誰もが行うありがちな話です。むしろ、たとえ誰かに物事を教えていたとしても、自分が教えを受ける立場にもなることで、さらに豊かさは増すと考えられます。
タロットを学びに来られる方は、80代の方もいらっしゃいましたし、60代くらいの方なら珍しくもないくらいです。
私もそうした皆様にタロットを教えながらも、皆様の豊富な人生経験から逆に学びを受けることも多々あります。
年を取ったら、是非新しい何かを学びに行かれることをお勧めします。