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制限ある自由 自由のための制限

コロナ禍で、今年はいろいろと我慢を強いられている人が多いと思います。

一方で、人間、そうそう我慢が続けられるものでもなく、自由でありたい、束縛されたくないという思いも強いものがあるでしょう。

人とはおかしなもので、おそらく本質的には自由でありたいと願いつつも、どこかで制限してもらいたい、囲われたいという願望もあるような気がします。

後半の部分(制限願望)は、誰かに守られたい、安心安全に暮らしたいという保守的な思いによって生じているとは思いますが、もしかすると、人の成長欲求と言いますか、人間にはもともと変化・成長していくことの使命のような特質があり、それが自由というものに抵抗する力になっているのかもしれません。

一般的に、神は自由であり、悪魔は制限をかけるものと解釈されがちですが、見方を変えれば、むしろ、悪魔が自由、神が制限を加えるものという印象もあります。

それは特に宗教においての神と悪魔の概念で顕著な気がします。

宗教におけるは、たいてい試練を与えるものであり、戒律などで、その神を信じる人々に制限を与えます(神が与えなくても、神の意思に沿うために人がそれをする)。

一方、悪魔は、そういう神の守護範囲とも言える制限から、甘言や教唆をもって誘惑し、人々に神の戒律からはずれるように仕向けます。

これは宗教の神からすれば、とんだ悪ですが、もしその神が自分に権威をつけ、人々から敬われるようにわざと制限をかけていたとすれば、悪魔のほうこそ束縛からの解放による「自由」を主張していることになります。

マルセイユタロットに流れる思想のひとつと考えられる「グノーシス」では、神が悪魔である(一般の神は偽物という)反転構造を示唆し、私たちが一般的に信じていることに疑いを持つよう諭します。

しかしながら、マルセイユタロットでも、「悪魔」のカードには、ひもでつながれた二人の人物が描かれ、やはり悪魔は何らかの制限を(見えない形も含めて)かけていることがわかります。

一方、「神」の名前を持つカードでは、「悪魔」の次の大アカナナンバーである「神の家」があり、このカードでは、雷の衝撃で、はじかれたようになった人がおり、強制的な解放も意味されているようにも見えます。

とにかく、ここで言いたいのは、自由の名のもとに、裏では束縛や制限が潜行している場合があり、逆に、制限・束縛が、人を自由に導く、成長の糧として機能していることもある点です。

今、コロナ禍で不安になっている人々の前に、SNSなどを含め、様々な情報が提示されてきますが、よくよく吟味しないと、表向きとはまったく反対の意図によって、それこそ本当に「悪魔」につながれてしまうおそれもあるので、気をつけたほうがいいでしょう。

そして、このご時世、制限だらけで、息苦しい世の中にはなってはいますが、その中でも、私たちは成長や進化を遂げていくこともできるはずだと考えます。

マルセイユタロットには「吊るし」というカードがあります。二本の木の間で逆さまに人がつながれ、まるで吊るされていように見える図です。

しかし、何度もこのブログでも書いたように、マルセイユタロットの「吊るし」の場合は、拷問のように吊らされているのではなく、この人物、自らが好んでこのスタイルを取っているかのように、苦しさを感じさせないものです。

いわば、制限にある中でも、この環境、この人物なりに自由を楽しんでいるとも言えます。

そう、制限の中に自由があることを、「吊るし」のカードは、ひとつには語っているように思います。

最初にも述べたように、私たちの本質は「自由」であり、自由である自分、その故郷ともいえる場所(心境)に戻りたいと思ってはいるものの、現実社会の中では、様々な制限や束縛によって、自由を奪われているように感じています。

そもそも魂と肉体という対比で言いますと、肉体によって魂の自由性が制限されていると言えます。

しかしながら、同時に、私たちは制限を求めるところがあり、それは成長の枷のようなものとして、必要とされるかもしれないものです。

肉体があるからこそ、肉体的(物質的)経験ができ、それによって魂は実感を伴って成長することができます。

もし、まったくのフリー・自由であるならば、何も苦労もなく、願ったものはすべてかなうことになります。いや、そもそも「願う」というそのことさえ生じないでしょう。言ってみれば完全ではあるものの、「無」でもある状態です。

これでは成長を図る(計るでもあります)こともできません。

計測すること自体、制限があるからできることですから、もし、私たちの本質が完全であるならば、成長するという概念そのものもないことになります。

ですから、成長のためというより、制限から実感するゲームを楽しむためなのかもしれませんが、それは「有」、つまり肉体や障害物のある次元、現実界においてでないと、なかなか味わえないことなのでしょう。

制限があれば解放もあるという二元世界が、色濃く出てくるのがこの現実の世界です。

ということは、解放、自由の喜びも、制限があるほど生まれることになります。この両方の振り子が動くことで、ある種のエネルギーが生まれ、私たちの何かの宇宙を動かし、拡大させているのかもしれません。

とにかく、束縛や制限は、悪いことではなく、それがあるからこそ、自由への目覚め、自由に向けた新たな方法・アイデアも生まれると考えられます。

それは、先述したように、この現実の世界でないと、なかなかできないことなのだ思います。

ですから、今年から始まった、とても制限のある世界の中でも、一人一人の工夫と、全体の知恵が集まって、おそらく、今まで考えもしなかったものが誕生し、自由の新たな形を手にすることができるでしょうし、自由の大切さも、もっと考えられることになるでしょう。

誤解されがちなのが、自分勝手にわがままに振る舞うことが自由ではないことです。

自由のためには、安全にルールが守られた、他人と一緒に住む世界においては、いわば社会性も必要となってきます。

「もう我慢ならない」と、自分勝手に動くのは、結局、ほかの人や自分自身を制限させてしまう方向になっていきます。

例えば、釣りをする人が、どこでも釣りをしてゴミをそこに置いて帰るようなことになってきますと、その場所は汚れ、近隣住民にも迷惑がかかります。

やがて、それがひどくなると、釣り場への立ち入り禁止などの措置が取られるでしょう。そうなると、その釣り人、地元の人も釣る場所を失いますし、禁止を破って侵入する釣り人もいるかもしれませんので、その見回りや対策などで、いろいろと地域の人も苦労することになります。

つまりは、それまでの自由を失うわけです。

理不尽で妄信・迷信、権力のようなもので意図的に制限をかけられるものには、時には自分勝手に見えるくらいに、自らの自由を求めて動くことは大事でしょう。

制限や束縛は、基本的にはよくないもので、人の本質からは、はずれます。

ですが、社会と人の安心安全、個人的にも制限の中から成長を生み出すためにも、「吊るし」のようなものは必要なことがあります。

また「吊るし」のカードは、細かくは言えませんが、「創造」に関する細かな図像の象徴が施されています。

「吊るし」は束縛・停滞のように見えて、創造のカードでもあるのです。

このご時世だからこそ、あなた自身が、日本が、世界が、新たに創造できるよいものがあるはずです。

我慢を強いられているようでも、見方を変えれば、自分の中の自由を見出すチャンスでもあります。

あなたが求めていた自由の形は、まさに「形」にこだわっていれば、失ったと思うかもしれませんが、「」としてみれば、別のところに存在していたり、自分から表現できたりすることはあるものです。

たとえ自分ができなくても、ほかの人がやってくれるかもしれません。すでに、意外な自由の表現が、他人がモデルとして見せ始めているかもしれません。(「悪魔」のカードにも関係します)

今後に希望をもって、自らは「吊るし」になっているのも、今はよいかと思います。


数の情報で得るタロットの関係性

マルセイユタロットでは、数も無視できない情報です。

というより、かなり数はタロットに深く関わっているものと言えます。

ですが、ここでも何度か書いたことがありますが、タロットはあくまで図像がメインのものですから、数秘術的なものを中心にタロットを見てしまうと、それこそ、数秘術の補助の位置にタロットがなってしまいます。

もっとも、数秘術を中心としてリーディングや鑑定を行っている人の場合はそれでいいわけです。

しかし「自分はタロットが中心」「タロットリーダーである」と考えている人は、数はタロットを構成するひとつの要素であると見て、タロットの図像をメインとした情報・解読の取り扱いをしたほうがいいかと、個人的には思います。

さて、そうは言っても、最初に書いたように、数とタロットとの関係はなかなか強いものがあります。

数の観点から、タロットの、特に出た展開のカードのつながりを発見することは楽しいものですし、意外な情報や示唆を与えてくれるものです。時にはリーディングの重要な手がかり、理由の根拠になることもあります。

今日は、そんな数のつながりで見るタロットの話です。

マルセイユタロットの大アルカナは22枚ありますが、これを、「ある数によって分けるやり方」がいろいろとあります。

マルセイユタロットを研究するカルト映画監督の巨匠、アレハンドロ・ホドロフスキー氏は、その著書でも、大アルカナを「10」をベースにした数で分ける(分けつつも統合した見方の)方法を語っています。

それによりますと、アルカナナンバー「1」のカードから「10」のカード(「手品師」から「運命の輪」)と、「11」から「20」のカード(「力」から「審判」)のグループに分け、それらがコンセプトには同じながらも、レベルや階層の違いをもって二段組で構成されるとする見方が提示されています。

なお数を持たない「愚者」と、「21」という数はありますが、完成や完全性を意味する「世界」のカードは、ある意味、数を超越したものとみなし、このふたつのグループからは、はずれることになります。(はずれはしますが、全体像からは、重要な役割や意味を持つことになります)

そうすると、結局、「1」から「10」までの数をベースにした二組ができ、その同じ数を持つカード同士の関係性が強調されることになってきます。

つまり、1には11、2には12、3には13・・・という具合です。

数秘的にも一桁の数は重要で、すべての数の核となるものと言えますが、ここに二桁の数「10」を加えることで、一桁的には「10」も、いわば「1」(1+0=1)と言えますから、数的には、元型的な一桁の数に、レベルや表現の違う二種類の「1」を加えることで、理想や想念の世界とも言えるもの(言い換えればイデア)から、現実的・具合的な次元へとシフトさせる意味も包含させていると考えられます。

大アルカナ自体は、元型的世界を描くものと想定されますが、大アルカナを「10」の数世界で分類していくことにより、現実的な分野にまで範囲を下ろしていく見方もできるわけです。

普通は、小アルカナで現実次元を象徴させるものではありますが(それゆえに小アルカナ数カードは10枚ずつのグループになっています)、大アルカナはすべてを表現できるものでもありますので、こうした「10」でのくくり方は興味深いと言えます。

さて、ここで、「10」枚ずつのグルーピングをした大アルカナに対して、どちらのグループが理想・想念的か、逆に現実的・具体的であるかですが、「10」の数を採用していることから、どちらも現実性は含まれると見ていいかもしれません。

しかし強いていえば、やはり、数の多いほうのグループ、「11」から「20」の10まとまとりのほうが総じて解釈が難しく、イデアや想念、抽象的と言えるのではないでしょうか。

ですから、「11」から「20」のそれぞれが、同じ一桁の数を持つカードたちによって現実化されるという見方もできます。反対に、「1」から「10」のカードたちは、「11」から「20」のグループによって、秘密が開示され、解放されて、より高みや深みに導かれると考えることもできるでしょう。

ここに例として、「8」という数で見た場合の、10グループの二枚を見てみます。つまり、「正義」と「月」で、8と18の「8」つながりカード同士ということになります。

「正義」と「月」、見比べると、まるで違う(意味の)カードたちに思えます。数をベースにしないと、この二枚は無関係にさえ感じられます。

しかし、よく観察してみると、「正義」には天秤があり、「月」には二匹の犬のような動物がいて、吠えあってます。

ふたつのもののつり合い、関係性と見れば、天秤も犬も何やら似たような意味も見えてきそうです。と、同時に、「正義」には剣があり、「月」にはそのような鋭いものはほぼなく、曖昧模糊とした図像になっていて、両者には、かなり異質性が見えます。

ですが、「月」にはザリガニのようなものもいて、はさみを持っています。二枚はまったく違うようでいて、よく探せば、似た部分もあるのがわかります。

「正義」の天秤で見ると、何かを測り、つり合い・バランスを取ると思え、一方の月の犬たちは、つり合いというより、向き合い、吠えあって、何かを訴えているようにも見え、ただ、二匹は二匹で、片方だけではない、二匹なりのバランス関係にあるとも言えるかもしれません。

言ってみれは同じバランスを見ても、「正義」と「月」のそれでは性質が異なり、しかしながら、バランスという意味においては同じコンセプトもあるとわかるのです。

またカード的にも、「正義」できちっとしたものが、「月」ではぼやっとしたものに変わっていて、「正義」の囚われは「月」によって解放され、逆に、「月」の不確かさは、「正義」のルールによって明確化します。

こうして見ていくと、「正義」と「月」は、(ほかにも)何かしらの共通したものがあり、それはなかなか無造作に絵柄だけを見ていたり、意味だけを覚えていたりしていても気づくことは難しいものかもしれませんが、「8」という数において関係している二枚だと最初から見て行けば、その発見が早くなる可能性が高まります。

さらにその発見した共通点が、「8」の数秘的な意味と関連していることにも、気づくかもしれません。

そうやってタロット全体(一組)に思いを馳せれば、マルセイユタロットの精緻な構成、合理性、整合性の感応に至り、つまるところ、宇宙のモデルとしてタロットができていること、逆に言えば、宇宙はオーガナイズされた数的にも美しい世界であることがわかってくるように思います。

皆さんなりに、「10」をひとまとりにした分け方で、一度、大アルカナを考察してみることをお勧めします。


タロットと自分の情報

これはタロットの活用にも関係することですが、タロットの図柄を見て、どう思い、何を感じるかということは、タロットリーディングにおいても基本のように考えらています。

しかし、タロットカードを見た時の感じ方・思い方というのは、人によってまちまちでしょうし、どれをもって正しい情報と取るのか、または、たくさん浮かんできた中で、何を今は(リーディングの判断として)選択すべきかは、なかなかわかりづらいものです。

ここのところで、多くの人が迷い、時にはタロットを教える先生によっても、いろいろな意見が出てしまう部分なのです。

この点については、私の講座で整理して説明しており、その考え方は、おそらくどこにおいても言われていないもので、私オリジナルの方法とも言えます。

ここで詳しく書いてしまうと、せっかく講座を受けていただいてる方には不公平になるのと、一記事で説明するのは、とうていしきれないので、今回は別の観点から少し、タロットからの情報(の扱い)についてふれてみます。

そして、いきなり結論みたいになりますが、実は、タロットからの情報の迷いをすっきりさせるには、質問者側がタロットへの問いを絞ることで、かなり改善されるのです。

例えば、「太陽」というカード、一枚が出たとします。

質問が何もなければ、人によって、いろいろなことが思い浮かんでくるでしょう。あるいは、イメージから言語化することが、まだ苦手な人には(これは訓練すれば誰でもできるようになります)、言葉としては何も出ない場合もあるかもしれません。

けれども、ほんどんの人は何かしら感じるものはあるはずで、それを言葉にするかしないか(できるかできないか)の違いくらいで、イメージや感覚の言語化さえできれば、スムースに多くの言葉が出てくるはずです。

単に太陽を見て、温かい、熱いとかでもいいですし、ふたりの人物を見て、仲良しとか、友情とかそんなものからでもいいのです。

ところが、先述したように、たくさんの言葉とか意味が思い浮かんでも、その選択に迷うという段階が出てきます。

この「太陽」というカード一枚だけをとっても、カード上部の顔がついている太陽そのものからの情報と、下部の裸のふたりの人物の様子からの情報と、大きくわけて二つあり、それらは描かれているもの自体が違うわけですから、別々のものが言葉・情報として出てくるのは当然と言えます。

“太陽”のイメージから現れた情報なのか、“二人組”の絵柄から出てきた情報なのか、それだけでも情報の選択の幅というか、振り子はかなり揺れるかもしれません。

ですが、ここで質問側の情報を重ねて行けば、その選択も絞られてくるのです。振り子の幅が狭まると言ってもよいでしょう。

例えば、「旅行を計画したいが、誰と行けばよいか?」という質問の場合に、この「太陽」のカードを見ると、いかがでしょうか?

この質問は、「誰と」にフォーカスしているものであり、それは人物であるので、当たり前のように、人物に関する情報を探そうとするでしょう。

すると、さきほど述べたように、「太陽」には、ふたりの人物が描かれている部分があります。

ということは、この部分に注目すればよく(自然にそうなると思いますが)、「太陽」のふたりの人物の様子から、二人で行っても楽しい人、意見や性格の合う人、仲の良い友人、手を指し伸ばせば(誘いをすれば)乗ってくれる人というような「人物」が浮かんで来るでしょう。

この場合、親と行くとか、一人旅というイメージ・情報は取りにくいと思います。(ただし、親でもまるで友人同士みたいな関係の人には、あてはまるかもしれませんが)

一方、同じ旅行の質問でも、「どんなところへ行けばよいのか?」というものならば、ふたりの人物から想像することもできるかもしれませんが(例えば、裸なので温泉とかビーチなどのリゾート地とか)、どちらかといえば二人組より太陽のほうに目が行き、太陽がさんさんと輝く場所、端的にそのまま太陽のような明るい場所、解放的なところ、元気がもらえるような場所というようなイメージが出てくると思います。

人によっては、輝く太陽からイメージされる場所は、具体的には異なるでしょうが、「月」からイメージされる場所とか、「隠者」からイメージされる場所とは明らかに違うはずで、選択にそんなに迷うことはないと思います。

このように、質問を絞ったり、具体的にしたりすることで、カードの図柄でも、注目すべき点が明確になり、回答も導きやすくなるのです。

逆にいうと、抽象的な質問では、たとえ一枚と言えども、たくさんのイメージ、情報がカードから浮かんできたものの、その選択に悩んでしまうことになります。(ただし、抽象的な質問をあえてする方法もあります)

また情報としても、直感性やインスピーション系のものと、思考・論理・知識系のものとがあり、前者は個人によっても差が大きく、後者はいわゆる知識として覚えた「カードの意味」が大半なので普遍的とも言えるのですが、その両者のギャップ・葛藤(どちらがこの場合正しいのかとか、どの情報を選択すべきかということ)にまた悩むようになります。

カードを勉強すればするほど解釈がわからなくなったり、リーディングに迷いが出たりするのも、こうした理由(知識が増えて取れる情報も多くなったものの、その判断と選択に逆に迷うようになる)によります。

かえって勉強していなかった頃のほうが、すんなり読めていたという人もいるくらいです。

ですが、学習前とか初期にすんなり読めていたとしても、それは実は幅の狭い、情報として選択肢自体が少なかったからで、井の中の蛙のような、小さな世界でカードを読んでいたにすぎない状態といえ、進歩は止まったままなのです。

タロットの情報の取り方には段階やレベルがあり、実は奥深いものです。それはカード・図柄からの情報を得ようとやっきになっていても膠着状態に陥りやすく、今回ご紹介したような質問者側の工夫もいるのです。

タロットの情報、その他の情報が交流し合い、情報はますます複雑化することもありますが、それを整理し、コントロールし、選択するのは、タロットに向き合っている「人」なのです。

それと、正しい答えを出そうとか、答えはひとつだとか思わないことです。

私が思うに、タロットとは、人を混乱に貶め、楽しむようなツールでもあると見ています。(笑)

別の言い方をすれば、自分の固定観念や思い込みの世界を一度破壊するかのように、タロットの世界の誘いを受け、その世界に浸ることにより、現実にいたあなたの(固定)観念も、いつのまにか変わってしまうようなものです。

言わば、タロットは混沌に遊ぶツールなのです。この点は、同じ「卜占」系と言われる「易」とはかなり違う気がします。

タロットは質問に対して、ちゃんと出るのですが、ちゃんと出ていないように感じるというおかしなところがあります。

それは結局、リーダーの感じ方であり、カードの示唆が認められないということがほとんどなのですね。だから、カードは、いつも質問に対しての情報は必ず出していると言えます。その扱いが重要なのです。

タロットをうまく読みたい、タロットからきちんとした答えを出したいと悩んでいる人でも、少し自分の考え方、見方、態度を変えるだけで、楽になったり、読めるようになったりするものなのです。


学びの地上的視点、天上的視点

二年前の同時期に書いたをものを参考にする記事です。

私はタロットの講師をしていますが、ほかの分野では当然素人であったり、知らないことばかりであったりするので、いろいろと学びは続けています。

そもそもタロット自体もまだまだ学びの最中です。

※(タロットの場合、おかしな話ですが、自身の別の部分とタロットの象徴が先生となり、自分の普通部分が生徒でいるという、究極の自習状態(笑)ですが・・・もちろん他のタロット関係者、著書等からも学びがありますし、学べることは私にもたくさんあります)

すると、やはり学び(特にタロット以外のこと)の過程においては、これでいいんだろうか、この選択でよかったのだうかと思い悩むことも出てくることがあります。

皆さんも学びでは、まず何を、どれを学べばいいかと迷い、分野を決めたら決めたで、どの講座・セミナーがいいのだろうとか、どの講師のもとで学ぼうかとか、悩みも生じるでしょう。さらにはせっかく決めた学びや講座においても、その途中で、いろいろと考えてしまうこともあるかもしれません。

だいたいそれは、この二年前の記事にもありますが、地上的観点によるものです。

地上的(現実的、限定的、数量的)目線であれば、確かに時期・お金・内容などが気になって仕方ないということもあるでしょう。特に費用対効果という視点では、お金をこれだけ払ったのに、こんな内容では、こんな効果では・・・と悔やむ人もあると思います。

しかし、天上的観点(長期的、質的、精神・霊的)からすると、意外に払った分の価値は実はあった(その内容だけではない、違和感、間違い感の気づきなども含めて、様々な学びになっていることがあります)という場合や、それ以上だったということは結構あるものです。

失ったものは、地上的に見れば大きく、取り返しがつかないように思えるかもしれませんが、天上的にはそれも宿命、または、大きな意味での幸福や成長につながることであると言えます。

マルセイユタロットには「正義」というカードがありますが、この「正義」には天秤があります。

天上的な天秤は、とてつもなく巨大な視野での「はかり」、つまりバランスだと言え、地上的なものは、近視眼的で、すごく狭い範囲での天秤・バランスなのです。いわば、天秤の大きさが違うわけです。天使(神)の天秤と、普通の人間の天秤の違いとも言えます。

大きな天秤であれば、少々のことでは傾かず、いつもほぼ均衡を保っているでしょう。しかし、私たちは地上に生き、地上的目線が普通なので、その小さな天秤で物事を測ってしまいます。

こうした(地上的)天秤が悪いわけではなく、期間や場所、数量が限定されている中では、効果・効率を見るために、必要な天秤と言えます。

ただ、この小さな天秤だけで測っているばかりだと、時に落ち込み、失敗感も大きくなり、つまるところ、それは自分の価値・尊厳・力を貶めることになります。自分に自信が持てるほどではないにしても、人は自分や世界に肯定感を持ったほうが、当然生きやすくなります。

その肯定感(を増やす)のためにも、時には天上的目線を持ち、大きな天秤で物事を測ってみると、失敗感も癒されたり、傾いていたバランスも均衡に戻せたりするかもしれません。

地上的に見て、いわゆる成功や成長についても、その多くは、行動力、実践力にかかっていると言えますが、学びをそのまま素直に、あるいは積極的に、行動にすぐ移すことのできる人は、そんなにたくさんにいるわけではないですし、私からすると、そういうのもひとつの能力(特質)だと感じます。

弱さを持つ人、自分に自信がない人、なかなか前向きに学んでも行動ができない人に対して、つべこべ言わずやれ、というのはわかりますが、人間、できない理由、抵抗していることにも意味があります。

まず大事なのは、少しでもいいので、学びをしているのなら、自分自身に肯定感を持てるようにすることだと思います。肯定感が持てるようになるための物事の見方への修正と、その積み重ねとでも言いましょうか。ただし、肯定感と言っても、無理矢理なものではなく、自分が納得ずくであるのが重要です。

失敗やうまく行かないことも含めて、悩み、学んでいる自分自身を肯定する視点と言えましょう。そがまた天上的観点でもあるのです。

 

二年前の記事

『その学びは、実際に効果があるのか?』

 


タロットの構成、宮廷カード

タロット一組には、大アルカナと小アルカナと呼ばれるパートがあります。

タロットの種類やメソッドによっては、大アルカナだけ(使う・重視する)というものもありますが、やはり、伝統的に、78枚で一組というのがタロットであり、大アルカナと小アルカナが相まってこそタロットだと言えると思います。

さて、マルセイユタロットの場合、小アルカナは大アルカナよりもあまり活用されていない節がうかがえます。マルセイユタロットを使う人でも、実は小アルカナを学んだことがないという人もいるくらいです。

これにはいろいろな理由があるのですが、やはり、マルセイユタロットの小アルカナの数カード(数札)の図像が、記号的なものになっているので、イメージがつきにくく、わかりにくい、読みにくいという点があるでしょう。

大アルカナの場合、図像がまさしくなので、イメージしやすく、絵からダイレクトに意味を浮かべることができます。しかし、抽象的とも言える小アルカナの数カードの図像では、なかなかそれは難しいのです。

ゆえに、実は大アルカナを読む時とは別なリーディングシステムが必要なわけですが、ともかく、とっつきにくいと思われがちなのが、マルセイユタロットの小アルカナと言えます。従って、敬遠され、使われず、使われないから、当然読まない、読めないということにもなります。

しかし、小アルカナには、実はもうひとつ、「宮廷カード(コートカード)」というものがあります。

マルセイユタロットにおける宮廷カードは、実は、大アルカナと絵図の性質は同じと言ってもよいです。大アルカナと同じ、具体的な絵になっています。

違いは、宮廷カードが人物のみの絵で、大アルカナのような数がふられてないということくらいです。見た目はあまり変わらないと言ってもいいでしょう。

タロットを考える姿勢において、タロットの図像・数(構成数も含む)をよく観察するというものがあります。

すると、先述したように、宮廷カードは大アルカナの絵図と性質が似ており、明らかに、数カードは別種だと言えます。つまり、絵の性質から見れば、大アルカナと小アルカナの宮廷カード、小アルカナ数カードという二つの種類に分かれるということです。

「アルカナ」というくくりでは大と小なのですが、絵柄の性質では、上記のような分け方が可能です。

数カードは、図像・デザイン的に見て、ヨーロッパ単独のものではないと想像され、今でいう中東イスラム圏や、インド・中国的なものも入っているように思えます。(その証拠が、歴史的にも残っています)

とするならば、数カードの文化圏と、大アルカナ・宮廷カードは別で、後者はヨーロッパでもともと作られた可能性が高いと言えます。

アルカナ別では違うのに、絵柄や文化圏では大アルカナと同じの「宮廷カード」は、タロットのパートの中でも、特殊な位置にあることがわかります。

いわば、大アルカナと小アルカナをつなぐ役割、中間的ものとも言えるでしょう。

一般的には、ウェイト版なども含めて、宮廷カードは、具体的な人物像を表すとされます。

セオリー的にはその通りだと思いますが、大アルカナと小アルカナの中間的な役割があるとすれば、実はもっと秘密が隠されており、意味的にも別な読み方ができるのではないかと推測されます。

ここで注意したいのが、占いやリーディングであてはめるカードの意味と、システムや全体、構成から出てくるカードの意味合いとは、別なこともあるということです。

この、システム・全体から出てくる意味は、まさにタロット一組そのものが意味をなして主張している思想とか根源的な意味などであり、それは秘密になっていたり、隠されていたりすることがパータンとしては多い気がします。

まだ私自身は完全に明らかにはしていませんが、宮廷カードの特別な位置からして、大アルカナと数カードとの接合カードとして考察していくと、あまり知らされていない意味、使い方、暗号のようなものが浮かび上がるのではないかと思っています。

数(構成数)で言いますと、大アルカナが22枚で、小アルカナは56枚あります。

このうち、小アルカナは宮廷カードが16枚数カードが40枚です。小アルカナはという数、つまりは四大元素・4組がベースとなっているからで、どちらも当然、4で割り切れる構成数です。

一方、大アルカナは22枚なので、4で割り切ることができません。

自然に見ても、大と小は数のシステムが違うように判断できます。しかし、大アルカナ自体の構成を見た時、「愚者」という数をもたいなカードと、21の数を持つカードたちに分かれます。

とすると、大アルカナは21という数で「愚者」を特別視する構成も考えられます。それでも、21は4で割り切れません。しかし、3ならば割れます。

また、これは特にホドロフスキー氏が設定しているものですが、大アルカナを「愚者」と「世界」の二枚と、1から10、11から20の数を持つカードたちに分けて見るシステムがあり、要するに、これは10のひとまとりをベースにしたとらえ方です。

10をひとまとりにしたと言えば、数カードもそうですから、ここに、数カードと大アルカナとの数的なリンクをつけることが可能になります。

10自体は、4では割れませんが、10×2=20となれば、4で割り切れるようになります。(この場合、大アルカナの「愚者」と「世界」は割り切れない次元にあると想定します。もちろん「世界」のカードは21なので、ある数で割り切れますが、ここでは21を完全な数として考えていて、「愚者」と同様、数がないように見ているわけです)

すると、宮廷カードも4がベースですから、大アルカナとのリンク性を、数的に考えることが可能になってきます。

このように、まずは、大アルカナの構成(数)を宮廷カード・数カードの小アルカナたちにリンクするために変化させる方法(小アルカナの次元に大アルカナをスライドしたり、落としたりしていくようなもの)がありますが、逆に、小アルカナを大アルカナにあてはめていくことも考えられないわけではありません。

そうすると、小アルカナの数のシステムを変形していく必要があるので、これはこれで難しいと言えるでしょう。

ほかにも一枚に何枚かをつけるとか、枝分かれみたいに考えていくと、数のベースシステムが違っていても、分類やリンクをさせていくことは可能です。

そんなことより、宮廷カードを実践でどう読むのかについて知りたい読者は多いかもしれませんが(苦笑)、今回はその話ではなく、宮廷カードをタロット全体システムの目から見れば、特別な位置にあることがわかり、そのうえで、面白いことがタロットから浮上してくるというヒントを書いております。

宮廷カードの使い方は、一般に考えられているよりも、はるかに多いものがあると言え、実は、自分自身に使えるものなのです。

タロットと接していくと、人に占ったり、リーディングしたりするよりも(それも可能で、すばらしい活用法なのですが)、やはり自分のために使うものとして作られていることが、マルセイユタロットでは実感してきます。

宮廷カードや数カードもそうで、小アルカナも小アルカナなりに、自分に使うためのツールのひとつと言えます。

あと、マルセイユタロットの宮廷カードの特徴として、ランク(階級)は騎士が最上位と考える立場もあるということです。

一般的には、宮廷カードは、王が最上位とされていますが、騎士を最上位とするのにも一理あるのです。ホドロフスキー氏の「タロットの宇宙」では、その一端・理由が明かされていますが、ほかの理由もあります。

王を最上位として見るのか、騎士を最上位として見るのかでは、実はかなり違ってくるところがあります。騎士を最上位にしても、タロット全体として整合性が取れるようにマルセイユタロットは作られています。

トランプカードの絵札でも、ジャック、クイーン、キングと宮廷カードに当たるものがありますが、ここにナイト・騎士がなくなっているのは、騎士自体に特別な何かがあるのではという想像も働きます。

トランプではほかに、タロットと比べると、大アルカナもありません。(「愚者」のみジョーカーとして存在します)

ゲーム用に特化されていると言えるトランプに、大アルカナと宮廷カードの騎士がないこと、逆に言えば、タロットには大アルカナと宮廷カードの騎士がついていること、ここにも、重要な秘密があるのてはないかと思えます。

タロットも確かにゲーム道具として作られたものではありますが、78枚であること、その構成には、単にゲームを複雑化するためだけに付け加えられたとは思えないものがあると想定できるのです。

まあ、占いができればよいという人には、このようなことはあまり関心も意味もないのかもしれませんが、タロットの秘密を明らかにしていくことは、ホドロフスキー氏がその著作で「タロットの宇宙」と題したように、宇宙の秘密に近づくことになるかもしれず、そういう興味方向にある方には、マルセイユタロットは向いていると言えるでしょう。


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