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個性と二極化、自分の選択

スピリチュアルな世界では、融和や統合を説きつつも、結構、差別化とか二極化の話がよくされます。

今回のコロナウィルス禍の中でも、不安の波に埋もれる人と打開を目指す人、進化する人とそのままの人とか、新しい世界に行く人と取り残される人・・・など、表現の微妙な違いはあるものの、やはり、二極化で語られることが多いように思います。

人は自分の望む世界にシフトしていく、あるいは、自分が世界を創造していくという、スピリチュアル的な観点がありますが、そこからすると、どうしても、それぞれの人の希望によって住む世界が異なってくるという言い方になるのは当たり前かもしれません。

死後の天国や地獄の概念においても、それも二極化であり、もともとそういうふたつの世界があるという見方もありますが、結局、スピリチュアル的には、自分の望む世界、あるいは自分に見合う世界に収まるということで解釈されており、たとえ地獄であっても、本人の想念がそれであれば、まさにその世界は自分にとってふさわしいということになるようです。

ただ、二極化という観念も、魂の向上のために方便的に言われているものならともかく、そこに差別意識や選民思想などが働いている場合は、ちょっとどうかなと思うところがあります。

自分はえらい、自分は進んでいる、覚醒しない人は置いてけぼり、物質は悪で霊や精神こそ至上・・・みたいなスピリチュアル的な思考・感情は、かなりアンバランスな面もあるのではないかと危惧されます。一種の逃避や、エゴの肥大による自分へのわがままな保守ということもありえます。

自分というものはまずは大事ではありまずか、自分と全体とを共有して見て、自己の救いが他者の救い、全体の救いになり、その逆もまたありで、他者の救いが自分の救いに同時になるという、相対しながらも同じに見られる視点も重要だと考えます。

タロットでも、カードそれぞれのエネルギー・波動の違いを設定して、優劣的に解釈する人がいます。

カードの違いは、実際に絵柄も意味も異なるわけですから、その見方は当然なのですが、そこに優劣的観点を入れてしまうと、場合によっては問題となります。

それは、カードに良し悪しの順列ができてしまうことで、単なる吉凶判断になったり、エゴ的な見方を増幅させたり(自分さえよければよいという見方)、劣るとみられるカードの扱いが悪くなったり(ひどい場合は無視や拒否)するおそれがあるからです。

一枚ずつの違いを見ながらも、全体としてどうなのか、すべてが等しく意味を持ち、なおかつ個性があって、カード同士が組み合わさると、新たな意味が出たり、アドバイス・救済方法が見つかったりするという感じで見ていくのがよいと思います。

それが実は、自分と世の中のバランスある見方にもつながるからです。

よく、「私には個性やウリがない」「人と比べて優れているところがない」と嘆く人がいます。

これにはまず、前提を変えるとよいです。つまり、普通、なかなか人より優れているような才能、能力、技術は見つかりにくいということです。

だいたいの人は、個性はあっても、それが優劣の優て売り出せるほどの自信もなければ、実際にそれほど際立つものを持つ人は少ないと認識しておくとよいということです。ありていに言えば、多くの人は平凡なのです。(笑)

それでも、もともとの才能や外見はともかくとしても、あとから身につけたり、変えてたりしていくことで、自分の個性やウリ、エッジを立てることは可能です。このあたりは努力や工夫によります。

あと、さきほどのカードの話に関連しますが、自分一人だけではなかなか自分の個性がわからない、ウリにもできなくても、他の人と関わったり、協力したり、利用しあったりすることで、自分の個性・ウリが目立ってくる、わかってくるという場合があるのです。

人には大なり小なり、得意不得意、関心の強い部分、そうでない部分があり、それらは一人一人だとあまり際立たないかもしれないのですが、ほかの人との関わりによって、欠点も目立つかもしれませんが、目線の違い(目の付け所)とか、他人よりかはましにできる部分が逆に見えてくることがあるのです。

だからチームになれば、自分の個性が実は出てくる、わかってくる、表現できてくるパターンは意外に多いのです。

そういう意味ては、これからは、競争の優劣ではなく、その時々のチームやコラボによって自分も他人も活かされる時代になるのかもしれません。

例えば、ユーチューバーでも一人でやっていると、なかなか個性が出せず、多くの似たような動画として埋もれるおそれは大でも、誰かと組むと、その動画に個性が出て、目立つ場合もあるかもしれません。

また、何かひとつが飛びぬけていないとウリにならないと誤解している人もいます。

この世は、まったくのオリジナルはすでに出尽くしていると言われ、だいたいは、すでにあるアイデアの組み合わせで、新しいものができていると目されます。

ですから、組み合わせの妙があればいいのです。

人より少し才能があるもの、好きで努力できるもの、こういう分野を複数もって組み合わせ、伸ばすことで、新たな個性として表現できるわけです。この場合、異質なもの同士であればあるほど、その個性は輝きます。

ひとつの孤高なる頂に君臨し続けることはかなり大変です。よほどの際立つ才能があるか、とてもつない努力が続けられるかでないと、そのポジションは保てないでしょう。

しかし、複数の里山的な山を持っていると、一応平地よりは高くて目立ちますし、里山が複数集まれば、それなりの財産にもなります。

トップになって支配するという意識ではなく、ちょっとした特技や工夫、好きで伸ばしたものを皆さんに提供して、自分の不得意なものは、ほかの人に提供してもらったり、助けてもらったりするという相互扶助的な精神でやっていくと、肩に力が入らず、よいのではないかと思います。

際立つ個性はないのが当たり前の中で、それでも、自分らしい生き方(それは人と同じてあっても違っていても別にどうてもよく、とにかく自分を生きていると思えるもの)がなんとか少しでもできていればOKだとやっていれば、いつの間にか、それが個性として輝いてくると思います。

さて、二極化の差別化はまずいところもあるというお話を最初にしましたが、それでも、もし、今までの世の中に何かおかしさや違和感を持っていた人は、ポストコロナウィルスの世界と言われる今後について、やはり、自分なりの選択と創造(想像でもあります)をしていたほうが無難かと思います。

日本では緊急事態宣言も解かれ、少しずつ平常に戻りつつありますが、果たして「もとに戻る」「もとに戻りたい」と考えるのか、「新しい世界に移行する」と考えるのかの、その思考の違いによっては、自分の選択する(居る)世界も変わってくるのではないかと、スピリチュアル的には思います。

人はともすれば、流されやすい生き物です。

東日本大震災の時もそうでしたが、事態が収まってくれば、元の黙阿弥(本当はそうではないのですが)ということにもなりかねません。いや、それが自分の望みであり、それがよいという人は、別に構わないと思います。

しかし、これまでの世界に違和感を持っていた人、このコロナウィルス騒ぎで、世界や体制への疑問が出てきた人にとっては、元に戻るという流れと考えは危険かもしれません。

自分はどんな世の中の、どんな世界を望むのか、その世界は、全体として、今までよりたくさんの人の救いになるのか、そうした思いをもって今後のことを思い、活動していくことは、新たな世界にシフトしたい人には重要かと思います。

自分一人がどうこうしたところで、世界が変わるとはとうてい思えないでしょう。

ただ、今は世界自体が変わってきているという、まれな機会でもあるのです。そこに自分の思いを載せていくのも、これまためったにない機会かもしれないのです。

元の世界を希望する人、これからを悲観する人も少なくないでしょうが、あなた自身は、あなたの望むよい世界を、少なくとも想像していくことは必要かと思います。


「力」と」世界」、言葉の関係

今日、浮かんできたのも「力」のカードのことであり、それについて記事にしようとか思っていたのですが、すでに三年前に書いていたようなので、その記事を再アップします。

「力のカードがあなたを変える」

それでも、ただ再アップするだけでは面白くありませんので、ちょっとこの記事に付け加えたいと思います。

少々引用が長くなって恐縮ですが、この記事で、

『もともと、「自分はできる存在だ」「私にはその力がある」と思って取り組むのと、「自分は何もできない」「自分には力がない」と思ってやるのとでは、きっと、最初から達成力に違いが出てくるものだと想像できます。あなたの自我意識が認識できていない、もっとすごい力、内なる可能性が、あなたにはあるのです。それはあなたが自分にはない、できない、ダメだとしている(そう信じ、決めている)から見えない(発現しない)だけで、そこ(自分)にあるのです。「力」のカードのように、見えないエネルギーをライオンとして実体化、視覚化することで、その力も実感し、それをコントロールすることにもつながります。自分の力、フォースを信じた時、それは現れるのです。』

と書いている部分があります。

ここは言葉の使い方にも大きく関係することだと思います。力がたとえあっても、その使い方次第で、正義にも悪にもなるからです。その鍵のひとつが「言葉」だと言えます。

」のカードのライオンは、口を開けており、そして「世界」のカードにもライオンがいて、こちらは口を閉じています。その象徴の詳細については、ここでは述べませんが、二匹が対になっているのは明らかです。

「力」と「世界」のカードを並べて、「世界」側から「力」を見ると、文字通り、「世界」は「力」(の扱い)による、「力」の影響があるという読み方ができます。逆に言えば、まさしく、「力」が「世界」をつくるわけです。

両カードは、ともにローマ数字の「」を持ち、始まりが強調されますが、ある象徴によって終わりも示唆されます。

言葉」というものをカードのライオンの絵に関係づけますと、口を開けるということは、言葉(音)を発することを意味し、口が閉じられることは、言葉を受けとる、言葉の意味を噛みしめている、発した言葉の結果を見ている(受け取っている)と言ってもよいかもしれません。

ということは、すでに述べたように、言葉の使い方次第で、(自分の)世界は変わるということです。

最初からダメだ、できない、どうせ自分なんて・・・と否定やネガティブな言葉を発していれば、その言葉はそのまま世界をつくる(その通りの世界をつくろうと働く)ことになります。(実際に口に言うだけではなく、心でそう発することも同じでしょう)

聖書ではありませんが、まさに「はじめに言葉ありき」です。

ですが、人間、へこんだり、メンタルが弱くなったりして、そういう言葉を発することは、結構、誰にでもあります。

そこで、口を閉じている「世界」のライオンです。

こちらは口を開けていないので、言い直しができると考えます。心の中で、さっき(力のライオンが)発した言葉をキャンセルし、仕切り直しの準備をしていると見ます。また、「世界」のライオン側には、天使など、ほかの存在も周囲にいます。

ですから、自分が気弱な言葉を発そうとしても、ほかの存在たちが応援してくれて、思い直しもできることが考えられます。

世界はあなたが創造し、あなたはその力を持ちますが、だからと言って、あなた一人によって完成するわけではないと、「世界」のカードが示しています。

捨てる神あれば拾う神ありです。

とは言え、大元であるあなた自身が、自分の力(言葉によって変えられる力でもあります)を、いい意味で創造的に使っていかないと、あなたの世界は闇に閉ざされることになります。

グノーシス神話では、光が闇側の勢力に取り込まれて、その光を救出するというストーリーから始まります。あなた自身が動けなくても、きっと救援部隊はやってきます。しかし、あなた自身にも救いを求めて、自分が光であることを思い出す必要があるのです。

それが言葉の使い方にも関係するという話なのです。


様々な「待つ」ことの意味

マルセイユタロットには、「待つ」ことを示唆するカードたちも少なくありません。

そもそもタロットの象徴自体、大きく分けて二元的なエネルギーの表現をしており、その二元をしっかり把握し、その中でバランスを取る現実感覚とともに、二元を統合して大元に回帰する、いわば空とか無(しかし光であり有の可能性のすべてである)の境地に到達することも示唆しています。

つまりは、現実への認識をうまく調整しながら、この世と経験を楽しむか、現実を超越して、自分自身が天国を創造する(宗教的にいえば 神の国に帰る)かということになります。

本当に私自身、長年マルセイユタロットをやってきて思うのは、「愚者」というカードがあるように、自分の自由性を尊重しているということであり、タロットは自分の選択によって、いかようにでも道を示してくれるという面白さです。

タロットの精霊の形ともいわれる「愚者」と、その「愚者」に寄り添う犬、その犬がいろいろな種類で現れ、私たちが「愚者」になる時、犬は姿を臨機応変に変えるみたいな感じですね。

話を戻しますが、タロットには、進め、変革、GOみたいなことを示すカードと、先にも述べたように、待つ、様子見、保守、ストップみたいなカードのふたつの表現や象徴があるわけです。

後者の代表で言いますと、「吊るし」です。このカードが出るということは、イケイケゴーゴー(笑)みたいなことでは決してないと思ったほうがいいでしょう。(ただし、例外はありますが、それはややこしくなるので、今回は説明しません)

さて、一般的に「待つ」ことで迷うのは、それが受動的か能動的かでも異なるからです。

だいたいにおいて、「つ」と言えば受動的なものですが、これにも、待たされる、待たされているという状態の時と、自分からあえて待っているという状態の時があります。

これが、受動的か能動的かの違いと言えましょう。

そう、受動的と思える「待つ」姿勢にも、よくよく考えると、その中に、さらに受動的なものと能動的なものとに分かれるわけです。(ここにも二元の働きが見て取れます)

能動的な「待つ」の場合は、あまり迷いや悩みはありません。あるとすれば、待つ姿勢を解除するタイミング、ゴーサインを、どう見落とさないかというくらいです。

とは言え、そのタイミングはかなり大事なので、慎重かつ大胆に見る必要があります。「吊るし」と「運命の輪」、「戦車」などが重なれば、このようなことも表すと見ていいかもしれません。

問題は、待たされる「待つ」です。

これもタイミングが重要とはなってきますが、自分から選択できないので、判断や次の行動が難しいわけです。

自分からはわからないのですから、ひとつには、自分が何とかしようとする気持ちをあえて捨てるというのもありです。

言い換えれば、相手や自然に任せることを自分が許し、支持するということです。まさに「吊るし」のように、手も足も出さずに待っているような感じです。

イライラしたり、早く動きが出てくれとあせったりすればするほど、そうできない状況と比較して、心は苦しくなるばかりです。

だから、もういっそのこと、いい意味でのあきらめをして、天や自然のタイミング教えてくれるという感じでいると、心は楽になります。

また劇的な変化を望むのではなく、一見、膠着状態、出口が見えないとあせり、苦しいかもしれませんが、その状況を悲嘆せず、一定期間の膠着状態を経験する必要があると切り替え(もがいても変わらないモードに今は入っていると考え)、やれることだけを淡々としていくというのもあります。

もちろん、今何とかしないと死ぬとか、本当に危機で追いつめられるという状況になれば別ですが、しかし、それも、そのような絶体絶命の大変な状況になっているという「お知らせ」であり、「タイミング」であると言え、ここは動かざるを得ない、変えざるを得ない、本当にあきらめるようなことに、事態は待機モードから変わっているわけです。

ここで、悪い意味での能動的な「待ち」についても言及しておきます。

それは、やるべきことがあるのに、できないことの理由を自分が作り、それで「待つ」という状態にしている場合です。

何が能動的なのかと言えば、動かない理由、待つ理由を作って、能動的に「待っている」ことです。言ってみれば、動かないことに能動的(笑)だというわけです。

私自身にもよくありますが(苦笑)、人は不思議なもので、やりたくない、面倒だと思うようなことに対して、何かと理由を作って、それに取り掛かかれない(着手・完遂することに向かわない)ようにします。

それはそれは見事で、自分どころか、他人に対してさえも、論理的で正当だと思えるような理由を創造してしまいます。

本当は感情的なものなのですが、そこに論理性(屁理屈ですが)をつける能力は、意外にどの人にもあり、相反しているとよく言われる論理(思考)と感情でも、蜜月関係(笑)になれば最強であることを、ここに見ることができます。

まあ、平たく言えば「言い訳づくり」で、それは職人芸の域にあるみたいなものです。

さらにこれがひどくなると、自分の中での言い訳がパワーと権力を持ち、カードで言えば「正義」となり、また「悪魔」とも結びつき、自分の行為を正当化して、誰の声も聞こえなくします。

ライトスピリチュアルや心理系の誤解では、「心の声」とか「ありのままの自分」という錯覚さえ起こすことがあるので、注意です。

そうなる前に、「待つ」ことの状態をもう一度振り返り、それが本当に苦しいことなのか、つらいことなのかを確認してみましょう。

待つ、何もしないということが一見楽なようでいても、それが自分にとっては本当は心苦しく、つらいことである、気になって仕方ないことであるのなら、自分の心や成長したいという気持ちに嘘をついているのかもしれません。

そのつらさは、動きたいのに、変わりたい(元に戻りたい)のに、状況・環境的にそうできないというつらさとはまた別です。

このままではダメだとわかっているのに、動かない、ずっと待っているほうが楽だからと、何かと理由をつけてそうしている、でもそれは本当は苦しい・・・というのならば、どこかで一歩踏み出し、厳しくても本心に即した行動に向かうほうが、結果的にはつらさは消えていくことになります。

やるつらさ、何もしないでいるつらさは、同じ(つらさの)ようでいて、まったく質は違うのです。

マルセイユタロットでは、ナンバーの前後や、ある並びの絵図が、ひとつのカードの問題性を解決したり、癒したりする場合があります。

「吊るし」の場合でも、詳しくは言いませんが、「法皇」や」太陽」とも関係し、そこからしますと、父性的なほかの力や段階が働いて「吊るし」の救済があると考えられます。

よって、自分一人で膠着し、出口が見つからない待機モードになってしまった人には、その問題を整理し、上の段階や別の見方から助言をしてくれる者(あるいは考え)の存在が打開の可能性を持ちます。

止まっている理由、止まりたい理由は、抵抗・ブロックでもあり、実は自分にとって大切なこと、大事にしていることでもあるのです。それを切り捨てられたり、否定されたりすると、余計にかたくなになってしまうおそれもあります。

誰かに相談する場合は、これらをきちんと見てくれたうえで、「吊るしモード」を解くことに、勇気をもたらしてくれる人がよいです。

また「吊るし」が長引いている人自身においても、よき方向に変わりたいことを心の中で宣言し、その支援を天や神(これは内的な高次の自分というように考えてもよいです)に本気に頼めば(祈れば)、事態はそれに見合うものに変化してくるでしょう。

それに見合うというのは、人によっては、まだ「吊るし」として「準備」、浄化・調整としての期間が必要な場合もあり、必ずしも、自他が物理的に、今、変化する必要があるわけではないからです。もちろん、必要な人には、そういうことが「神の家」として起こることもあるでしょう。

いずれにしても、自分を貶めないことです。言い訳モードの待機でも、人は安心安全でいたい気持ちがあるのが当然ですから、それも責められることではありません。

自分のことを尊重していけば、動かない理由をつけて自分を守っていることが、逆に自分を貶めていることにも気がつく時がやってきます。言い訳している自分を責めても、自己尊重とは逆のことをしているわけですから、本当の気づきは訪れにくくなります。

このあたりは、タロットを学んでいると、きっとわかってくるでしょう。


現実の肯定

マルセイユタロットの大アルカナで、現実的なことをもっとも象徴するのは、おそらく「皇帝」かもしれません。

もちろん、ほかのカードでも言えますし、そもそも、22枚(細かく言えば78枚)による完全性の象徴だと取ると、あらゆることは22枚に分かれ、表現されることになります。

ですからその意味においては、「現実」についても、言わば、「月」の現実もあれば、「13」の現実もあるのです。

と書いてみて、ちょっと面白いので、その続きを書きます。

さきほど「月」の現実と言いましたが、皆さんはこの表現で何を思い浮かべるでしょうか? 月のような現実をイメージすれば、はかない現実、淡い幻のような現実、夢としての現実・・・こんな印象が出るかもしれません。

とすると、それは現実と言うより、幻想に近いものとなりますが(苦笑)、人によっては、他人が幻想だと思うものでも、その人にとっては現実と認識しているかもしれないのです。

ある人にとっては、とても現実的な重要事項であっても、他の方から見れば、夢・幻、幻想を追っているようなことは意外にあるものです。

たとえば、最近の話題では、自粛中にパチンコに行ってしまうような人と、それを見ている一般人という構図にもあてはまるかもしれません。

パチンコに行く人にとっては、それは現実であり、彼らの現実においては大切なことだと本人は思っているわけですが、他の人には幻か夢を見ている人のように映るわけです。

というように、現実ひとつ取っても、22枚で検証すると、いろいろな見方ができます。

今日の話題はそれではありません。(前置き長くてすみません(笑))

だしゃれ(苦笑)ではないですが、「皇帝」と「肯定」、そして「現実」(の生活)のお話です。

私たちが、現実の生活をしていく中で、イキイキとして、楽しく暮らしている人と、いつも悩んだり、辛かったりの気分で過ごしている人との二種類があると思います。

いや、多くの人は、そのはざまに位置するのかもしれませんが、まあ、言ってみれば、明るくポジティブに生きる傾向の人と、物事を深刻にとらえ、ネガティブ気味に生きる傾向の人と、大分されるところはあるのではないかと思うわけです。

それは、実際に自分の状況が現実的によいとか、順調であるとか、恵まれているとか、先天的・後天的環境要因に左右されることがあるのも確かです。

しかし、やはり持って生まれた性格と言いますか、思考・感情のスタイルによるところのほうが大きい気もします。

そういう性質の違いのほかに、もうひとつ、現実をどれくらい肯定できるかによって、運や生き方、ひいては人生の楽しさも変わってくるのではないかと思います。

逆に言えば、現実を否定すればするほど、現実の神から見放されるかのごとく、自分が追い込まれ、苦しい状況になっていくところもあると考えられます。

これは、実は当たり前のような話で、この世、現実が否定されるのであれば、当然その中で生きるのもつらくなり、幸福や満足度、充実感を味わうことは少なく、難しくなるでしょう。

現実が肯定できれば、何よりも、自分の存在も肯定でき、この中で精いっぱい生きること、表現することもいとわず、それが楽しくもなるはずです。

最初にマルセイユタロットでは、現実をもっとも象徴するのは「皇帝」のカードだと言いました。ならば、「皇帝」を自分のものにすれば、現実はもっとしっかりとしたものとして、自分の中に立ち上がり、「皇帝」による肯定が行われるでしょう。

言い換えれば、自分を認め、自分自身を治める自立でもあります。

現実否定は、奥底には自己否定と心理的には関わっている部分もあり、自分を認め、確立することで自分が「皇帝」となり、現実を治める存在として自信が持てるようになって、現実(自分を取り巻くもの)は肯定されてきます。

自分が否定されると、その自分のいる現実の世界も否定され、居場所がいなくなり、現実は空虚なものとなります。それでは、現実が充実することはなかなか困難です。

自己批判、自己否定だけではなく、反対方向の、他人批判、他人否定も、現実否定につながり、つまりは現実肯定から遠ざかりますから、幸せ感も少なくなります。

現実肯定には、実際的なモノやお金の充実、自分の地位や名誉の向上などで、肯定感を増すことが考えられますが、それはある意味、危険であり、常に他人や量での比較に悩まされる代償も伴います(際限がない)。

しかし、それが一時的には効果的な人もいるので、方法論としては、人によってはありかもしれません。

心理的には、先にも述べたように、自己肯定感が持てるように自己の内面をクリアーにしていくことが求められますが、自分(の内的)方向以外にも、外方向に、少しずつ、愛するものを増やしていくということも考えられます。言い換えれば、自分がその存在を肯定できるものを増やすということでもあります。

愛の低次には、「好き」という感情のものもありますから、好きなものを増やすという方法でもよいですし、もっと狭めたやり方で、嫌いなものは多くても、ひとつでもよいので、とことんあるものを好きになるということを極めていくのも方法だと思います。

また、嫌いなものをフラットな感覚(好きでも嫌いでもない)に戻すということも一方法でしょう。

とにかく、「このために生きている」というモノ・対象・人、何かを見つけると、少なくとも、現実はそれがある世界ですから、肯定感が出ます。

それでも、もともと現実は否定されるような思想、考えを持ってしまう人はいます。

原理グノーシスなどでは、そういう、根本的な現実否定の思想と言えます。

そこで、これは私自身がそうなのですが、あるレベルの現実を肯定することは無理でも、この現実の中にある、ほかの現実を見出すという意識を持てば、あながち、この世界も捨てたものではないという肯定感が出ます。

この現実世界に隠された本当の現実世界を発見する目を持つとでもいいましょうか。(こうなると、一般に思う通常の現実は現実ではなく、むしろ幻想であるという考えになってきます) ゲームのクエストような感覚にも近いです。

現実を否定しながらも現実を肯定する、いや、新たな現実を見出す、創造すると言ったほうが正しいかもしれません。

いずれにしても、実際の人生を幸せにするためには、現実の肯定感というのは、とても大切なのではないかと思います。

それが純粋に持てる人は、世の中の状況や環境がどうあれ、いつも希望を持ち、明るく活き活きとして、そのために、実は現実のほうがそれに引き寄せられ(作り変えられ)、幸せな状態(環境も)になりやすいという仕組みもあるように思います。

言ってみれば、世界はよいもの良い方向に進んでいると素直に信じるような人と、そが実現する現実との関係です。

ですが、人にもいろいろなタイプがいて、性格も違います。

ひねくれ者や、天邪鬼な者、自分や現実がなかなか素直に肯定できない者、地球の長い支配的な歴史・状況の様相にどうしても合わない者もいると思います。私なども、こちらの部類が多分に性質としてあります。(苦笑)

それも役割と言いますか、選んだ個性であり、必ずしも悪いものではないでしょう。

それでも、現実にいる理由、肯定感が少しはあったほうが、自身の生きる意味も肯定されるはずです。

あなた自身が否定しても、親が、子供が、友人が、動植物が、自然が、地球が、果ては宇宙や神が、とにかく何者かがあなたを肯定しているのです。

なぜならあなたが現実(と人々が思っているこの世界)に存在するからです。


新たな「手品師」の誕生に向けて

マルセイユタロット、アルカナナンバー1、私たちは「手品師」と呼んでいるカードがあります。

ちなみに、ウェイト版などのほかのタロット種では、同じ数のアルカナは「魔術師」と呼ばれ、そのほうが一般的です。

しかし、マルセイユタロットの図柄を見てもらえばわかるように、このカードは大道芸を披露している人の絵であり、彼はテーブルの上で手品道具を見せ、やはり手品をしていると想定するのが、素直な見方だと思います。

ですから、「手品師」、もしくは「奇術師」、あるいは広い意味で「大道芸人」と呼ぶのがふさわしいと個人的には思います。

さて、これからの時代、この「手品師」をモチーフにした時代が新たに始まるのではないかと予想しています。

実は、タロットカードに時代を象徴させることもでき、それは逆に考えれば、タロットに時代の進展も描かれていると見ることができるのです。

そういうと、ナンバーごとに時代が進むのでは?と予想する人もおられるでしょう。確かに、それも一理あるのですが、ことはそう単純なものではないのです。

これは宇宙の進化の構造を考えないと見えてこないところがありますが、それだけに、宇宙の進化・発展のプロセスがおぼろげながらでもつかめてくると、その時、改めてマルセイユタロットを見直すと、タロットがすでにそのシステムを描ていること、タロットのシステムと宇宙のシステムがシンクロするように作られていることに気がつきます。

それはまた、自分の理解や気づき、解放が現れれば現れるほど、タロットは宇宙の秘密を開示させていくようなものになっています。

最初は、そうしたこと(タロットの象徴システムの基本知識)を誰かにに教わる必要はあるとしても、やがて、自分でいろいろと気がついてくるようになります。だからこそ、タロットは智慧の宝庫あらゆるものの象徴図と言われる所以になります。

話を「手品師」に戻します。

「手品師」について、書物やスクールでマルセイユタロットを学んだ人においては、主な意味に「仕事」として覚えられた人も少なくないと思います。

実際それは言えることで、しかも、アルカナナンバーが1であることで、現実的に暮らしていくための基本の「最初、始まり、第一の理」として、人との関わり、仕事を持って報酬を得て生活していく象徴として「手品師」をとらえてきたこともあるでしょう。

私たちの社会・暮らしを見ても、その意味では、ほとんどの人が「手品師」であり、それを経験していると言えます。まあ中には、「愚者」のように、仕事や定住性を持たず、フリーに生きている人もいますが。

そうすると、「手品師」になるということは、現実生活の基本をマスターする、経験するみたいな、ちょっと固い意味と言いますか、とても堅実な感じがしてきます。

しかし、最初にも述べたように、この「手品師」は大道芸人で手品をしているわけです。たとえそれが彼の仕事であっても、大道芸人は、今でいうサラリーマンではないでしょう。

中世から近世の頃のヨーロッパの風習・民俗性をもとに描かれているマルセイユタロットです。その頃の大道芸人と言えど、今でも芸を披露して生活する人がそうであるように、(特に収入的に)安定した確実性のある仕事とみなされていたわけではないでしょう。

ならば、この「手品師」の意味は、忠実に絵柄を見ると、今でいう雇用者、普通に勤務して仕事する人を象徴しているとは言い難いことになります。

もし、そのまま大道芸人の意味を中心に据えるとどうなるでしょうか?

すると、興味深いことに、これからの時代の基本みたいなものが、もしかすると見えてくるかもしれないのです。

突飛な話に聞こえるかもしれませんが、これからは、皆さんが大道芸人化すると考えるのです。

例えば、すでにユーチュバーなどが一般化してきまして、誰もが動画で発信することが容易になり、まるでそれは「YouTube」という舞台(大道)で、芸を披露する芸人たちのように見えます。

この芸もいろいろです。

料理を作る人もいれば、歌やダンスをしたり、釣りしたりする人もいる、難しいことを簡単に解説する人もいる、怖い話や陰謀論を話す人もいる、自分の趣味や得意分野を皆に見せる人もいる・・・とにかく皆さん、なにがしかの「芸」を見せているわけです。

これには、YouTubeからの広告収入が入るという「仕事」の面もありますが、それだけのために、これだけの人がYouTubeで芸を披露しているわけではないでしょう。つまりお金や生活のためだけではないのです。

今、Zoomなどのオンライン会話・会議システムが一般化しつつあります。そのことで、これまでより、例えば人に何かを教えたり、伝えたりする講師的な仕事をしてみようと思い立つ人もかなり増えている状態です。

今までは「講師」というと、ちょっと堅苦しく、何か遠い存在であり、教えるための設備や準備もなかなか大変だと思われてきました。

ところが、コロナウィルスのことがきっかけでオンラインでのコミュニケーションが普通になり、案外、簡単に自宅からでも、全国、世界の人にモノごとを伝えられるということがわかってきました。

前にも書いたように、リアル(実際)でのものと、オンラインでのものが相対化してきたわけです。

今はまだ、経済的な意味で生活のための労働があり、また「手品師」の意味は、経済的・人間関係的生活の基盤の確保ということが大きいかもしれません。

しかし、もし新たな時代に、これまでのような、とにかく経済ベースで仕事を選び、働かなくてはならないという状況が変化した時、人はその時存在するツールを利用して、ほとんどの人が何らかの発信をしていくのではないかと予想します。

言ってみれば、皆が大道芸人(パフォーマー)になるような社会です。

それで報酬をもらう人もいるかもしれませんが、報酬・生活のためだけに芸を披露するわけではないので、そこに大きな自由性があります。

本当の意味で「愚者」と向き合う「手品師」であり、「手品師」と関係性の深いカードと言われる(マルセイユタロットを学んでいる人にはわかります)「恋人」とも結びついてきます。

これは「手品師」のレベルや次元が上昇したものと言えますし、本来の「手品師」に回帰した状態と言えるかもしれません。

タロットは時代をそのまま反映させ、それぞれのカードの意味さえ変えていくようです。

「手品師」が1の数を持っていることは、すでに述べました。

まさに新たな始まりがある時、「手品師」はそれにふさわい新しい「手品」を習得し、披露するのです。

今から、昔風の「手品師」を脱して、新たな時代の「手品師」になるため、準備したり、実践したりしていくのも面白いと思います。

それには。まず自分自身を「愚者」のように思い、軽やかに次に渡り歩いていく気持ちも大事です。「愚者」を逆向きにしてしまうとわかるように、悪い意味でこだわりを持ちすぎると、いつまでも動けない状態・人物になってしまいます。

それと、仕事とか報酬(お金・経済)を強く意識し過ぎないことも大事です。

芸を披露して報酬を得るのはすばらしいことですし、それが仕事だといえるかもしれませんが、すべてをお金に換算する価値観のもとではそうであっても、誰かに喜んでもらえること、また自分自身が楽しめること、という内的なエネルギーとして見ると、必ずしもお金にごたわらなくてよいと思います。

労働報酬や経済的基盤のための芸だとしてしまうと、いくら誰もが簡単に自分のものを出せる環境になったとしても、人に見てもらうため、人から選ばれるためには、競争意識が働き、最初はよくても、次第に厳しい「売れる」芸人のための生き残り、熾烈なレース社会に入っていくことになります。

それは旧来の、仕事は厳しくて当たり前、苦労して当然、勝ち組になるために頑張る・・・みたいな意識に囚われます。(「仕事」をなめてかかれとか、楽がとにかくよいと言っているわけではありません)

旧来意識をはずし、もっと愚者的になり、自分がただ大道芸人として発信することだけでも、思ってもみなかった人とのつながり、展開が現れるかもしれません。それがこれからの財産になる可能性もあります。

あくまで仕事として、報酬を目指す(芸)人はそれはそれでまたひとつの道です。そこは簡単ではないと思いますし、才能の問題や、相応の努力は、今しばらくは社会や全体が変わらないと、続くと思います。

それでも、新たな時代に向け、仕事や報酬の意味だけにとらわれない「手品師」になっていくのも、もしかすると、あなたの可能性をもっと開いていくかもしれませんので、気軽にチャレンジしてみるのもよいと思います。


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