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2020年の数秘とタロット的象徴
タロットには数があります。
構成的には、大アルカナが22枚、小アルカナが56枚あり、このうち、大アルカナと小アルカナの数カード(数札)には、ナンバーともいえる数があてがわれています。
これらの数にはもちろん意味があります。
ところで、数と言えば数秘術が思い浮かびますが、数秘術というのはその名の通り、数を基本概念といいますか、象徴の元としています。
数秘的には、いわば、数=神であり、数は神の現れ、表現であるとみなすことができるわけです。
ただ、タロットには数もありますが、基本は絵柄です。
数そのものを象徴とする数秘(術)と、数より絵柄が象徴の根源であるタロットとは、その数の扱い、解釈に違いがあるのも当然のところがあります。
タロットの場合、先述したように、数とは無関係ではありませんが、それはあくまで象徴としての絵柄・図柄とリンクさせたものであり、根本は似ているところはあっても、数の象徴の範囲や次元が異なっているのだと考えたほうがよいです。
けれども、矛盾するようですが、範囲や次元は異なっても、やはり、数としては共通のところがあるのも、数秘とタロットとの関係では言えると思います。
このあたりがわからないと、そのまま数秘で学習した意味をタロットにあてはめたり、逆に、タロットの絵柄の象徴性を、数にあてがったりして、混乱してしまうことになります。
何度もいいますが、数秘的解釈の数の意味と、タロットに使われている(配当させられている)数は違っていながら、奥底では共通しているということなのです。
さて、それを踏まえながらも、今日はあえてと言いますか、わざと単純に、数とタロットを見てみたいと思います。一種のお遊び、ゲームだとみなしていただければよいです。
今日、数的に見るのは、「年」です。
今年は西暦では2020年で、ここに「2020」という数が出ます。
まず、見た目で2と0が並ぶのがわかります。出ている一桁としての数は「2」で、二桁では「20」、3桁では「202」が見え、4桁ではそのまま「2020」ですね。
数秘術では単数化、数字根といって、二桁以上の数を一桁に戻す方法があり、これは数をばらして足すことによって、単数化するものです。
すると、「2020」では、2+0+2+0=4となり、「4」という数が出ます。
さきほど、見た目から抽出した二桁「20」、3桁「202」も、同様に単数化すると、それぞれ「2」、「4」となります。まあ、当たり前みたいなことですが、結局「4」という数が「2020」からは現れますし、その半分である「2」も基本の数としてあるのがわかります。
すると、今年は「2」であり、「4」の年だと、単数的、数の象徴的には言えるかもしれません。
さらに二桁という数で見ると「20」がふたつ並んでいるように見え、20×20の400とかも現れるかもしれませんが、タロット的に見ますと、大アルカナ「審判」の数が、ふたつ並ぶことになります。いわば、ダブル「審判」です。
さきほど、2と4も出たので、タロットの大アルカナに置き換えると、「斎王」(一般的には女教皇)と「皇帝」になります。
まあ、「0」という数もありますので、これをタロットであえて示せば、「愚者」となるかもしれません。ちなみに、「2020」の「0」をないものとすれば、二桁的に「22」という数も出て、これもタロットでは「愚者」を示す数といわれているものです。どの道、「愚者」は出るわけです。
ということで、「2020」をいろいろと数的に分解して、タロットの大アルカナにしてみると、「愚者」「斎王」「皇帝」「審判」ということになります。
ちなみに、日本の和暦的には、令和2年ですから、「斎王」となりますね。(ということは、数の「2」、タロットでの「斎王」が、洋と和の暦で共通していることになります)
これらのカードを、マルセイユタロットで並べてみましょう。
大アルカナの数の順で並べると「愚者」「斎王」「皇帝」「審判」となります。(愚者は本当は数を持ちませんので、ほかの三枚のカードのどの間でも、さらには外にでも位置することができます)
さらに、この4枚をいろいろと並び替えすると、今年の意味が、もしかするとタロットで象徴されるかもしれません。
例えば・・・「審判」「愚者」「斎王」「皇帝」
こうすると、密集するところから逃れて、家に籠る状況の年のようにも見えてきます。「皇帝」が現実での対応や、政治のトップの人の号令みたいな意味にも見えてきますよね。
カードの正逆を取ると、より問題性も露わになり、さらに興味深いことになるかもしれません。
ちなみに・・・「今年のメッセージ」としてカード(正立のみで)を展開してみると、「皇帝」「愚者」「審判」「斎王」となりました。
奇しくも、西暦と和歴での共通する「2」の数を持つ「斎王」が最後に来る展開となり、「審判」が本来のタロット的な象徴の意味である「(真の)復活」「覚醒」的な感じに見えるようになっています。(それを受け入れる「斎王」という図)
「皇帝」はおそらく、これまでの次元、システムの象徴なのでしょうね。
タロットは数だけではなく、絵柄があるのが大きな特徴であり、物語としても見やすく、個別のレベルから世界や宇宙的レベルまでを象徴することができますから、あなた個人の今年の意味を、この4枚のカードを並べて(シャッフルして引くのもよい)考察するのも面白いでしょう。
マルセイユタロットを持っている人はやってみてください。
タロット的に結婚について考える。
前回の記事では、危機にあると、人はつながりを求める傾向にあるという話をしました。
人とのつながりで濃密なものには、恋愛や結婚というものがあります。
恋愛と結婚ではまた違いますが、今日は主に「結婚」をテーマにしたいと思います。
もしかすると、このような社会状況にあっては、意外と結婚する人が多くなったり、つきあっている人たちが結婚に向けて加速させるかもしれませんね。
しかし、今は例のモノの影響で、人と会わない、会えないという状態がノーマルになっていますので、逆に、結婚を考えている人でも、先延ばししたり、再考したりする方もあるかもしれません。
今年結婚式を計画していた人も、取りやめや、落ち着くまで延期、または挙行しても披露宴などを行わない形式にすることもあると聞きます。
そうなると、結婚そのものを考え直すカップルもいるかもしれませんし、反対に、式や入籍を待つことにより、ともに支え合う信頼関係が増すこともあるかもしれません。
そういう意味では、今年、結婚を意識しているカップルは、シビアに(純粋に)ふたりの関係性が問われることになります。
本当によい絆、信頼関係があるカップルは深い愛で結ばれるでしょうし、条件や勢いだけで結びついているカップルは、自分の本当の気持ちに気づいて、別れるようなこともあり得そうです。
ただ、世の中は、社会の変化とともに、次第に人々の価値観も変わって行き、いわゆる結婚観とか結婚の形も、これまでにも変化が見られつつあったように思います。
今年のはインパクトによっては、結婚観はさらに大きく変わる可能性もあるでしょう。
ところで、タロットではカード種に関わらず、「結婚」を示唆するカードはたくさんあると思います。しかしそれはカードの読み方によって、いろいろと変わってくることもあります。
つまり、あなた(カードを扱う人やタロットに相談する人)の「結婚の見方・思い方」によって、結婚を表すタロットカードも変わるということです。
そうなりますと、例えば、マルセイユタロットの場合、22枚の大アルカナ全部でも「結婚」が表せることになります。
「世界」のカードのような結婚を望むのか、「法皇」のカードのような結婚をしたいのか、見る人次第です。
ということは、カードはあなたの結婚観を示すというこにもなりますし、それがわかれば、カードによってこだわっていたスタイルや思いから解放された新たな結婚観へと変貌を遂げることも可能になります。
マルセイユタロットで、一般的には「結婚」より「恋愛」を表すと考えられる「恋人」カードにおいても、「結婚」を考察することは可能です。
ただ「恋人」カードから見る「結婚」というものは、恋愛にも通じる本質のようなものだと言えるでしょう。
それは結局、ある存在とのつながり、結合であり、反対に離別することへの恐れでもあり、それでいて離別と結合が同等であると意識てきる次元への回帰(想起)とも言えるのです。
妙な哲学的表現になってしまいましたが、今書いた「ある存在」とは、すでに予想がついている人もいらっしゃると思いますが、それは「自分」であり、自分の中に存在するものです。
しかし、現実次元においては、そのもう一人の自分というものがなかなかわからず、愛する人、恋人、パートナー、結婚相手として現れるように見えます。また、そういう相手側も、もう一人の欠けていると思われる(失っている)自分自身を見出そうとします。
それゆえに、恋人、パートナー、結婚相手は、同質に近いと思える人(似た者同士)か、逆に、かなり異質性を感じる相手となることが多いのです。
現実世界では個性(エゴ・自我・自分と他人の違いを自覚する自分)の世界ですから、常につながりの欠如、不足、どこか何か、誰かを失っている感覚がつきまといます。
これは実は、この世を生きる原動力(不足を補おうとする衝動)にもなって、カオスな世界をエネルギーと行動で満たそうとするわけですが、やはり空虚さは否めないところがあります。
そこで、補える片割れとして、友人やパートナー、形式的には結婚相手を求めることにもなってきます。
現実を超えた世界では、自分一人でも完全性、つまりは神的な存在と言っていいのですが、それであるために、不足感はないと言えましょう。
しかし現実世界では不足感があり、先述したように、そのために相手を求めます。
もし自分自身で完全であったということに気づけば、相手はいらなくなります。いや、相手は自分で、自分は相手でもあることになって、自他は結合すると言い換えたほうがいいかもしれません。
このようなことに思いが馳せれば、今の相手も過去の相手も、また片割れと出会っていないと孤独を感じている人でも、何かしらの示唆を得られると思います。
この考えに立てば、何も異性同士とか、ただ一人の相手とか、二人は恋愛状態でないといけないということはなく、あらゆる関係性に自分が忘れていたもう一人の自分を見ることができ、相手はいつも運命の人であり、魂の伴侶ということになります。
しかしながら、現実世界の中は個性の(濃淡のある)世界でもあるので、強くひかれあう者同士、逆に、つながりがあっても嫌ってしまうような人は、何かしらの濃い反映が隠されていると見てよいかもしれません。
今の現実世界では、結婚は法的な契約となっており、事実婚とか内縁の者でなければ、普通は籍を入れて一緒に暮らします。
ただ、次元やレベルに変化が現れれば、そうした法的な契約結婚の形式も変わってくることが考えられます。ですから、すでに形とか法律にこだわらない、実質的な結婚をしている方もたくさんおられると思います。
また結婚の関係性での意味も、深くは人それぞれだと言えますから多様性があり、子供をつくって家族生活を経験することが自分の課題とか完全性を補うことであればそうするでしょうし、夫婦二人だけの課題を持つ人もいれば、同居せず、別居に生活していく選択のカップルもあるでしょう。
それはカップルどちらにとっても、完全性への次元上昇のための選択と言えます。(「恋人」カード的な選択)
今後、もしかするとオンラインだけで話すだけのパートナーとか結婚相手というのも生まれるかもしれません。
結婚(の形)は時代や社会、人々の意識の反映であるとも言え、あなたがどういう結婚の形を望むのか(独身であっても、イメージとか意識の中では結婚の形を取っている人もいます)は、それは本当に意識のあり方次第と言ってよいでしょう。
あと、結婚には責任(結婚だけとは限りませんが)が伴いますので、それを果たさない場合は、結婚による成長や完全性回帰も難しくなります。
たとえパートナーを変えても、自分が責任を果たさない態度なら、相手も責任を果たさない人を引き寄せることになるでしょう。(この責任は厳しい意味だけではなく、愛を持つという柔らかな責任も意味します)
まさに相手は鏡でありがらも、異質性を持ち、それはすでに述べたように、お互いによって完全性を映し出しているのです。
危機。つながり。愛。
東日本大震災の時もそうでしたが、世の中が危機に陥ったり、世情が不安な状況になってきたりしますと、人はつながりを求めるようになるようです。
つながりの中でも、やはり一番大きいものは、「人と人」とのつながりでしょう。
ほかにも、ペットなどの動物、育てている植物、周囲の自然・・・という感じで、つまりは生きていると感じるものにつながりを求めることもあるかもしれません。
もっと大きなものになると、大地、空、海、地球、宇宙・・・と広がっていくこともあり得ます。
つまり、私たちは、結局のところ、「生命」「いのち」を感じさせるもの、あるいは、それらを育むもの、守るものなどとのつながりを、危機によって回復する(思い出す)ことになるわけです。
普段、ほとんど意識しなかったことが、図らずも、危機や異常事態と思える状況によって、意識されるようになるのです。
これを逆に考えれば、私たちがほかの生命との「つながり」や「生かされている」ことを忘却し、自分一人で生きていけると傲慢になっているような時に、その思いを反省させられるかのように、危機が訪れると言えます。
まさに、これも、マルセイユタロットで言えば、「13」と「節制」のセットのことなのかもしれません。または「吊るし」と「世界」という関係にも置き換えられるでしょう。
さて、今は世界中の人が異常事態を認識している時です。
そうなりますと、先述したように、人は生命的なつながりを、より求めるようになっているはずですし、今後もそれはしばらく続くと考えられます。
しかし、一方で、注意したいのは、人工的・機械的ともいえるつながりも、バーチャル的に登場しているということです。
インターネットや通信技術の飛躍的進歩によって、膨大なデータが瞬時に世界中に流れるようになり、動画も当たり前に見られるようになりました。機器を通して見た動画や画像の世界は、次第に現実と変わらなくなってきています。
人とのコミュニケーションも、ネットを通じて実際に会わなくても、距離があっても、簡単に可能になりました。
最近は、Zoomなどの通信アプリで、皆さんもほかの人と自宅で居ながらにして会話することも多くなっているのではないでしょうか。それは確かに便利で、私自身もその恩恵にあずかっています。
一方で、よく考えますと、会話している相手は現実の人ではありますが、映し出されている映像は機器を通してもので、バーチャルな世界とも言えます。
会話している人が実際に会ったことがある人ならば、映し出されるものに違和感はないかもしれません。たとえ初対面の人でも、きっとこういう人だろうと、実感をもって私たちは映像を見ます。
会わない予定の人であっても、現実に会えば、映像の通りの人であることは、常識的にわかるからです。
けれども、リアル・実際で会うことが少なくなり、それが本当にまれで、めったにないような世界になってしまった場合、どうでしょうか?
果たして、あなたが見ている目の前の機械に映し出されている人は、本当にその人自身なのでしょうか?
昔、出会い系などで、顔写真を加工していたり、別の写真を掲載したりして、実際に会うと別人だったという話を聞いたことがあります。今でもそれはあるかもしれません。
この場合は、文章のやり取りや姿を見ないままの会話が続いていて、想像の世界で人物をイメージしていたわけです。
相手に実際に会うまでは、自分のイメージの中にその人(の姿)は存在していたと言えます。それは架空のもので、現実ではありません。
けれども、会うという設定がまったくない関係の中では、本当の姿を確認することができないままになります。それが常態化した世界では、リアルな自分・相手というのは、意味を持つのかどうかさえあやあやになってきます。
直接会うことがないのなら、いかようにでも、姿も性格も変えて、ごまかすことは可能です。
映画マトリックスのようなSF的に言えば、実在の自分はどこかのカプセルの中に固定されたままで、バーチャル空間が一般化されていて、そのバーチャル空間で見せる「自分」というものがアバター(化身)的に作られ、人々はアバターとしての自分(相手)が自分(相手)自身であると錯覚したまま、生活していくような話です。
これはバーチャル空間そのものが現実になっているようなもので、それならば、自分の理想とする姿・性格に変えて一生を過ごせばよいということになり、おそらく、人は似た者同士(理想の姿、理想の性格みたいなもの)になってしまう(悪く言えば金太郎飴みたいな存在になる)のではないかと想像されます。
これはいわば、バーチャルな天国なのかもしれません。(笑)
ならば、それも変な意味で理想社会であり、それを目指すというものも研究者で現れないとも限りません。
自分の望む自分が、全員実現できる世界ならば、それは誰にとってもよい話ではないかと思う人もいるでしょう。
そういった世界は、今は現実的ではありませんが、もし実現可能だとしても、おそらく、ほとんどの人は、本能的に「それは何かおかしい」と思うのではないでしょうか。
私はそのおかしいと感じるセンスが、とても大事だと思います。
しかしながら、一方で、皆の理想が実現するバーチャルな(文明や科学の進歩という言い方をすることもできます)世界が可能なら、それもありなのかもしれない・・・という、どこか幻惑されるような、タロットの悪魔から誘われるような(笑)、魅力もどこかにあります。
今日は何か結論や主張を述べたいわけではありません。
ただ、今起こっていることには、ひとつには、いのちや生命のつながり回復や、私たちそれぞれがバラバラに一人の力で生きている(自分がすべての)存在ではないことを思い出すためであると見ることもできますし、逆に、つなかりを求める気持ちが利用されるような形で、バーチャルな世界が加速し、人類の理想をバーチャル的に実現するような世界に向かっていく流れを考えることもできるということなのです。
これも、単純な良し悪し、善悪では測れません。
危機により、平時ではおよそ、つきあいや結婚の対象にならない人と関係が進むこともあり得るでしょう。
そのおかげで、普通では生じなかった関係性が深くなったり、知らなかった世界(相手)をよい意味で知ることができたりするという、新たな愛に目覚めることもある一方で、普通ならあり得ない人とつきあってしまったせいで、ひどい目に遭った、不安を紛らすためなら誰でもよかった、ただ結婚がしたかっただけ・・・と自分を大切にしないままに他人との関係を安易に持ってしまった後悔も起こるかもしれません。
ただし、後者の場合でも、自らが自分自身への愛を知るという意味では、大きいことである可能性もあります。
いずれにしても、いのち、生命、人とのつながりがなにがしかに刺激され、私たちは愛を学ぶことになるのだと思います。
マルセイユタロットとふたつの思想型
タロットの学習は、それ自体がタロット以外の学びにつながっていると、つくづく思います。
例えば、小アルカナを貫く基本コンセプトともいえる「4組(四大元素)」も、自分にとっての四つの分野の過不足、調整、統合などを示唆し、ただ単に四分野のバランスを取るという意味だけではなく、自分にとっての個性、言い換えれば得意な分野・方法をも見ることがてきます。
それによって、自分という存在が、いかにただの一部分(ひとつの方向性)からしか見ていなかったことがわかり、最初は愕然とすることもあります。
しかし、さらに進めば、自分から他者、つまり自他構造やその関係性まで派生し、最終的には大アルカナの「世界」のカードが示すように、世界、いや宇宙全体も同じ構造や関係性をもっていて、自分というものがまさに世界そのもの、いわば小宇宙であることに思いが至るようになります。
このことから考えても、タロットは占いの道具で作られたのではなく(表向きはトランプのような遊技道具だとしても)、私たち自身が個人としても、全体としても気づき、成長し、全体と個を統合して、人類全体を進化させる目的で作られたのではないかということが想像できるのです。
このことは、マルセイユタロットのいろいろなことからも証明というか推測できるもので、マルセイユタロットを知れば知るほど、実感できてきます。
いつも思うのは、何者がマルセイユタロットに関わったのだろう、製作者や完成させた者はどんな存在だったのだろう、ということです。
これについては、歴史(特に裏歴史のようなもの)を丹念にたどっていけば、だいたいのところは想像がつくところなのですが、具体的に誰とか、どういう組織だったのかというものを突き止めようとすると、それは逆にわからないようになっている感じがします。
ただ、少なくとも、マルセイユタロットが実際に世の中に登場し、広く出回るようになった時代のことを思えば、17~18世紀を中心としたヨーロッパに完成の時期を見ることはできるでしょう。
ということは、その頃に何かがあったということも逆に考えられのです。
もちろん、カードが生産がしやすい状況が発達してきた(整ってきた)という社会的条件もあったでしょうが、裏向きの理由として、私たち人類に必要でるあからと、この時期に完成させた存在と言いますか、勢力、意図があったのではないかと想像されます。
いつの世も、実際の形とか表現とかは、時代ごと、表現者ごとに違うのは当たり前です。
しかし、その奥底に流れる本質、本当に伝えたいこと、見せたいこと(わかってほしいこと)は、同じだと言えます。
自分の意見を伝えたいと大昔の人が思えば、普通に声を出すか、自然の木や石で何かを表現したかもしれません。やがて本ができれば本に書くということもあります。
今の時代はネットとか通信機器が発達していますから、そういったツール・方法を使って伝えるでしょう。
また、もしかすると、テレパシーのようなもので伝える文化とか方法もあったのかもしれません。(もしくはそういうことがわかってくる未来とか)
さらに言えば、世の中の状態、自分が置かれた状況によっても表現が変わるでしょう。
戦争時代に、戦争反対を訴える人がそのまま主張・表現しても、その国で逮捕されたり、制限されたりするのが普通だったでしょうし、今でも宗教や思想が自由な国はそれほど多くなく、認められていないことを述べたり、信じたりするのは命の危険もあります。
マルセイユタロットというものが、紙でできた図像であるのも、そういうものを作る工業的技術(と言っても家内制手工業に近いものだったでしょうが)がやっと整ってきたというのもあるのでしょうし、何かの理由(この理由も大体は推測されていますが)で、本当の主張を本などで書くことができず、カード図像に暗号のように隠したという説もあります。(個人的にはこれを採用しています)
つまり、マルセイユタロットとしての表現は、それに関わる人の、その時代と条件・状況に合った伝達方法として選択されたということです。
それぞれの時代・条件によっては、同じ主張であっても、違うやり方・方法が取られていたことは容易に想像がつきます。
外(表)に出ている表現や形だけで判断していると、本質が見えないことがあります。
本質を見ていけば、つながりもわかり、ある種の主張や思想の流れが連綿と続いているのが浮かび上がってきます。
それは、地域や国、時代とは関係なく、おそらく人類史としてずっと続いてきたものではないかと思われます。
結局、ふたつの対になるような思想の対立とその統合という歴史のように思います。それが、洋の東西、時代や国を超え、人々の中に元型的なものとして、ずっと流れてきているように感じます。
つまるところ、それもまた宇宙の構造・パターンなのかもしれません。
対立や葛藤の形は、その時その時によって形や表現を変えていきます。また、社会や国だけではなく、個人の中にも世相を通したり、個人的な課題(問題)として起こってきたりもします。
しかし、これもまた同じふたつの型の対立が、形や規模を変えて現れているに過ぎないと言えます。
今、世の中に起こっている大きな問題も、実はこのふたつの型の対立への気づき、そしてその統合のために起きていると見ることが可能です。
その時の対立を統合して乗り越えていくことができると、次の対立はまた起きるにしても、バージョンが異なりますので、これまでの対立による苦しみの世界からは抜け出します。
統合についても、本当は単純な構造だと思いますが、実際に統合される(する)には、分野の違いと言いますか、その時々と起きている問題の種別によっても違ってきます。
科学的なことが統合の助け・力になることもあれば、心の浄化によってそれが起きることもあります。それらは、別々の要素ではあっても、全体としては統合の力(視点)になっていると言えます。
ですから、最初に戻りますが、タロット学習においてもそうであり、感性や感覚を磨いたり、直感から得たりしたものだけが良いとは限らず、論理やシステムから考察したりすることも学習の向上、ひいては自身の統合に寄与することもあるのです。(その逆も当然あります)
対立は統合、つまり進化や発展、次元上昇の礎とも言えますから、自分の中においても、嫌いなものとか、受け入れがたいもの、単純に自分の思いや意見とは異にするもの(人)のことも、大切になってくるのです。
重要なのは、ただ対立に巻き込まれ、感情的になったり、理屈をこねて、自分(ある考え)を絶対化したり、相手(別の意見)を幻想化して持ち上げ過ぎたりしないことです。
これとあれでは何がどう違うのか、対立している要点を俯瞰できる立ち位置を見つけることでしょう。
対立すること(問題が起きること)で、どこに自分を連れて行こうとしているのか? 私(この時代・この状況)に何を学ばせようとしているのか?こういう視点です。
もう少し、非常に重要なことを言いますと、マルセイユタロットの「月」に秘められた内容と言えますが、対立はある種(存在)のエネルギーになっているのです。
だから、ずっと対立・葛藤・争いをしていては、それらのエネルギーの供給源になるだけです。(ただし、それはいいとか悪いとかの次元で見るものではなく、必要とされることでもあると考えられます)
ということで、対立の深みに長くとどまるのは危険でもあるのです。ありていに言えば、覚醒が求められるということです。
マルセイユタロットはそのためのシンボル図、意識に作用するものだと言えるでしょう。
しかしながら、占いの使い方をしていては、対立と統合のシンボル図としての作用はなかなか発動が難しいかもしれません。(占い活用でもできないことはないとは思いますが)
占いを超えた、それなりのタロットへの見方、使い方を学ぶ必要は、やはりあるのです。
最近、占いをされる方も言われてますが、占いに来られる方(お客様)の質問とか悩みも変わってきている言います。(悩みは同じでも、知りたい答えが違ってきている)
すでに現場でも、占いではない占い(言い方は変ですが)にバージョンが変化してきているのでしょう。
ですから、占い師を目指す人であっても、タロットの読み方の視点を変えていく必要性は、特にこれからの時代、特にあると言えるのです。
天使のカードたち
マルセイユタロットの大アルカナで見た場合、天使、あるいは天使的な象徴絵図を持つカードは次のカードたちです。
「恋人」「節制」「審判」「世界」
たった4枚しかないと言えますし、逆に4枚もあるという感じもします。
もっとも、天使的な絵がないカードでも、天使を象徴させると考えられるカードはあります。が、ここでは、絵として明らかに天使的なものが描かれているカードのことを言っています。
天使の象徴にはいろいろな解釈があると思います。
四大元素的に考えることもできますし、一般的な印象で、救いや癒しということもあるでしょう。
象徴は核になるもの(本質やエネルギーのようなもの)は同じでも、多重・多層に意味を見出すことができ、それゆえ、具体性や個人個人(個別)においては、違う言葉や意味になることは普通です。(この部分はさらっと書いておりますが、タロットの解釈を理解するうえで最重要なことです)
ですから、一口に「天使」と言っても、人それぞれのとらえかた、意味合いが出てきます。
もし、あなたが、宗教的、あるいはスピリチュアル的に「天使」の存在を信じていれば、カードにおける天使の象徴も、実在性を帯びると言いますか、かなりほかの人よりリアリティあるものとして認識されるでしょう。
リアリティがあるということは、それだけ本当に(現実的に)力を持つということです。
従って、天使が信じられる人にとっては、天使のカードは大きな効果やパワーを実際に持つようになるのです。
このことは、天使に限らず、タロットにおる象徴が、その人にとってリアリティがあればあるほど意味を持ってきますし、現実にその力を発現させやすくなります。
これは別の見方をすれば、タロットリーダーが、タロットの絵図の象徴を、クライアントの実際性・リアリティ性にどれだけシンクロさせたり、結び付けたりすることができるかにもよってくると言えます。
さて、天使の象徴カードに戻ります。
これら天使カードの4枚は、厳密に言えば天使ではないものも含まれますが、一応天使的なものとして今は考えます。
それでも、一枚一枚、どれも同じ姿の天使は描かれていません。そもそもマルセイユタロットにおいては、細かな意味で、まったく同じ象徴の絵図は存在しません。似ていても、どれも微妙に違えて描かれています。
この法則からしても、天使はわざと別々の絵図になっていることがわかります。
ということは、それぞれ別の意味や役割があるのだと取ることができます。また、それでいて、当然ながら、全体としては、やはり「天使」なのです。
ここから考えて、もしかすると、マルセイユタロットの天使カードは、個別の一枚ずつの意味を見出しながらも、4枚セットというひとまとりで見る必要もあるのではないかということです。
すると、天使のカードたちの解釈も、また面白いものになるのです。