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質問の受動と能動、自他の救済

タロットにおける質問について、今までも何度か書いておりますが、ここで、今の時期に特に重要だと考えられますので、タロットへの質問をネタにしながらも、人生における質問・問いについても言及したいと思います。

私の中で、タロット占いとタロットリーディングの違いを決定的にもたらせているのは、「質問」と「それに答えるタロットの読み方」にあると考えています。

占いは、一言で言えば、「どうなる?」「(これ・あれ、あの人は)どうなの?」みたいな質問と、それに答える方法でしょう。

そして、リーディングは、「どうすればよいか?」「どう考えればよいか?」というような問いと、それへの回答と言えるかもしれません。

言わば、状況推移(予測)や運勢の流れのようなものを見て、それを基準に選択を示すみたいなものが(タロット)占いで、タロットリーディングは、過去から続く要因を探り、未来の予想も立てますが、今、どうすればよいかを「創造」していくものと考えられます。

ですから、占いはどうしても運命論的にならざるを得ませんが、リーディングはストーリーを創るという点もありますので、自分が運命を創る、変えるみたいな観点になって行きます。(たとえ大元の運命のようなものがあっても、その範囲での自由意志や選択、創造があると見ます)

タロットカードをどう読むのかは、もちろん、カードの意味を知ることが大事ですが、その意味をどう解釈するのか応用するのかにもよりす。

それが、実は質問によって左右されることが、意外に知られていません。

「どうなる?」という質問をすれば、当然、「こうなる」というような答えになりますし、「どうすればよいか?」という質問ならば、「こうして行こう」「このように考えよう」というように、能動的・創造的になれます。

これは、人生における私たちの態度にも関わってきます。

受動的にただ、運命に翻弄されるかのように、何か問題やピンチが起きた時に、「どうしよう」「どうなるんだろう・・・」と思う(自問自答する)より、「これは(深くは)何の意味があるのだろう?」「どんなことを私に学ばせようとしているのか?」「どうすればこれを乗り越えていくことができるのだろう?」と問うほうが、波をコントロールして、創造的に生きていくことにつながるのは明確です。

ただし、私も弱い人間ですので、「うわー、どうなるんだろう・・・」と先を心配したり、不安になったり、未来の推移・予測をただ見たい、知りたいと思ったりする感情はあります。むしろ、人よりそれは強いかもしれません。(苦笑)

ですから、必ずしも、受け身の質問が悪いわけではなく、それは当たり前の人としての気持ちだと認めることも大切です。

その意味(人間的欲求や感情に応えるため)では、時には占いをしてもよいかと思います。

しかし、未来予測なんてものは確実でもないですし、皆さんももう薄々わかってはいると思いますが、未来の選択肢、ゲーム・アニメ的表現で言えば「世界線」がたくさんあり、ぞの世界をどう選ぶか(創るか)は、ある程度(と言うより、かなり)自由があるということです。

過去・現在・未来と時間は流れますが、本質的には時間はなく、すべてが今にあると言われます。

そうすると、今をどう思うか、どう行動するかで、未来も(過去も)、今現在のここに集約的に「運命の輪」があると言え、その輪を回すことができるのは、ほかならぬ自分自身でもあるのです。

「運命の輪」をどう回すのかによって、まさに世界線、これからが(過去の認識も)変わるのです。

今の混乱にある世界の中で、悲惨で望みのない、あるいは前のまま何も変わらない状態に戻ることをひたすら思っても、それは受け身に、ありもしない、でも自分が強く不安として願うと実存してくる「運命」に身を任す、犠牲することと同じだと言えます。

過去・現在・未来という時間の流れを反転するか、今に集約されていると見てください。

不安や恐れは、これまでのパターン・型が「過去→現在→未来」と続くと思っているから、出てくる「根拠」なのです。

その根拠は通常の時間軸の流れにありますが、反転したり、今に集約したりすれば、根拠は揺らぎます。

いい意味で、どうなるかわからない、のです。そんなところなので、占いをしてみても始まりません。

だからこそ、どうするのか、どう意味を考えるのか、自分にテーマが与えられていると見てみましょう。

できることは限らていても、あなたが通常の時間軸に囚われた根拠から導く不安や恐れ、迷いから自分を解放し、未来へ向けた新たな希望、生き方、世界へのよい意味での変貌を創造(想像)していくことで、今この時から、あなたと世界の、まさに「世界線」は変わっていくのです。

一人一人は救済者になれるのです。あなた自身を救えば、それは他人を救うことと同じになります。

そのためには、最初の「どうなる?」という質問から次第に抜けて、どうすればよいか、どう考えればよいか、何を教えてくれているのだろう、何を学ぶのだろう、ここからどう希望とよい変化を見い出せていけるだろう・・・というような質問に進歩させましょう。

これができなくても、「どうすれば自分を助けられるだろう?」でもいいのです。

もっと極端に、「どうすれば助けてもらえるのだろう?」でもいいかもしれません。

一見、依存的ではありますが、つまりこれでも、助けをただ待つ姿勢(得体の知れない運命に任せること)から、助けを求める、協力し合う、解決策が見つかる、他人も助けられる、みたいな、能動的に自力を動かし、他力と合体し、新たなものが生まれる流れになる可能性があるのです。


講座・セミナー受講の選択・心構え

自己啓発とか成功を目指す的な講座に出る人は、その講師の人、先輩方から「こんな風にすばらしい私になれるんです」とか、「こんなすばらしい世界があなたを待っています」など、聞かされることもあるかと思います。

自己啓発系・成功系だけではなく、たとえば、私の業界とも言えるタロット関連の講座でも、「タロットができて、自分も他人も変わります」とか、「以前の私(講師・受講生)はこうでしたが、今は講座を受けて、経済的にも精神的にもすごく充実してます」みたいな触れ込みを見る人もいるでしょう。

当然の話ながら、何のために自分がセミナーや講座を受けるのかを考えれば、受ける自分が今よりも向上したい、よくなりたい、知識や技術をさらに身に着けたいという思いからなので、講座を提供する側も、どんなメリットが、この講座を受けるとあるのかを明確にしたほうがよいわけです。

もし数値で効果やメリットを表すことができるものならば、そうしたほうが明確で、成果保証みたいなことも提供側からつけることも可能になります。

例えば、コンサル講座的なものであれば、あなたの売り上げ何パーセント上げますとか、月収〇〇万にしてみせます!みたいなものです。

けれども、全員が全員、講座のキャッチコピーみたいな効果や成果が得られるとは限りません。どんな講座やセミナーも、参加者に100%の効果・保証を約束できるものはないでしょう。

それだけ、人には個性があるからで、言ってみれば、完全なる普遍的な法則はないと言えます。

ただ、それでも物理法則とか、どんな人にも適用される普遍的なものはこの世にはあることはあります。しかしながら、いわゆる教える系での、全員が必ず同じになるような完全法則はないと言えるでしょう。

これは結局、教える内容よりも、教えられる人の気持ちやメンタルに左右されるからだと言えます。

行動ももちろん、目的達成や効果が出る出ないに関しての大きな要因ではありますが、結局、行動を規定しているのも、その多くは個人のメンタルや精神性にあると思えますから、つまるところ、個人個人の心によって、ほぼほぼどんな法則も変わってしまうところがあるわけです。

ここに教える系の講座やセミナーの難しさがあります。

それから、誤解している人もいると思いますが、教える講師や、そのセミナーの卒業生たちが、全員言われているような効果を出したり、目的を完全達成していたりするわけではないということです。もちろん教えられている内容には自信や効果は、それなりにあるからやっていることで、効果がないというのではありません。

ここで言っているのは、人間性とか、そういう面も含めて、トータル的に成長しているかどうかはわからないということです。(技術と人間性は別のところもあります)

わかっている人はいいのですが、セミナーとか講座は、ある目的とかある技術を教えているだけであり、すべてがうまくい行くとか、総合的に人間性が向上するという教育をしているのは(あるにはありますが)少ないのですから、特定の分野については上がっても(よくなっても)、全体・すべてがうまく行くようになるとは限らないのは当然です。

よい講師はそのことはきちんと伝えていると思いますが、悪徳なセミナー・講師の人は、「この講座のこれさえ学べばすべての問題は解決し、あなたはあらゆる望みが叶えられ、幸せになれる」と豪語しているところもあります。こういうものは、洗脳に近い形式を取っているところもありますので、注意が必要です。

ですから、セミナー・講座を受ける側も、自分は何のためにそれを受けるのかを今一度明確にするとよいです。

経済問題を改善するためとか、仕事のある技術を学ぶためとか、この職業に就くためのある資格を取るためとか、人間関係をよくするためとか、生き方とか創造性についてアイデアを得たいとか、第二の人生のための趣味や生き甲斐を持ちたいとか・・・まったくの無目的、漠然とするより、少しでも何のために受講するのかの目的を自覚させておくことです。

実際には、受講する講座が必ずしも、当初の目的に適う(叶う)ものではないかもしれませんが、目的をはっきりしておけば、自分にとって重要な部分とそうでない部分もわかりますし、最悪、途中キャンセルして学び直すこともできます。

逆に、目的が受講中に変わって(その目的よりもっと大きなものとか大事なものが見つかるなどして)、新たな自分を発見することもあるかもしれません。どちらにしても、やはり目的を意識していたほうがいいわけです。

あなたが選ぶ講座やセミナーの講師の方は、その(教えられている)道ではすばらしいと思いますが、講師も人間ですから、完璧ではありません。

講師に尊敬はあっても、幻想を抱きすぎたり、その方に何とかしてもらおうと、依存性を持ちすぎたりするのは危険です。

自己成長どころか、マルセイユタロットで言うところの「悪魔」につながれた人物のように、成長が止まってしまうおそれもありますし、次々とその方の別の講座を受講するようになり、気がつけば、大金を失っているという事態もあります。

ここでも自分をしっかり持つことが大切で、誘われるがままに次の段階の講座や、その組織や講師がやる別セミナーを受けることには注意し、何の目的でそれを受けるのか、どういう自分になりたいために、それを受講するのかということを自己に問いかけ、精査することがいります。

よい講師の人は、おそらく、依存性が高くなっている人には、注意を促してくれて、自分が受けたいと言っても、「あなたはその段階にまだいませんよ」とか、やんわり断るか、時期を待つように指示してくれるでしょう。

講師から自分は避けられていると思って悩んでいる人は、講師や講座自体にあまり傾倒し過ぎて、自分自身や本来の目的を見失い、依存が高くなっていないか、自分で振り返ってみるとよいでしょう。講師の人はそれに気づいていて、あえてあなたから距離を取っていることもあるのです。

逆のパターンとして、何も行動しなかったり、講師から言われたことをやらずに、文句ばかり言っていたりする人、「効果が出ません、内容が悪いのでは・・・」と批判するような人(ただし、正当な要求とか批評はよいもので、それが言える雰囲気も大事です)も、講師から見ると、困った人になるますから、避けられているところもあるかもしれません。

カリスマ的で、強い自分を持ち、絶対の効果を謳っているような講師とかセミナー、そういう人・講座こそ、それだけ強烈な輝きを発しているので、魅かれてあこがれて入る人も少なくなく、受講生の中に、依存や虜になってしまう人もいます。

漫画・アニメの言葉で恐縮ですが、ブリーチ(BLEACH)という作品で悪役ではあるのですが、なかなかの言葉を吐く人物がおり、この者が、「あこがれは理解からもっとも遠い感情だよ」と言い放つ場面があります。そういうことなのです。(しかしあこがれが必ずしも悪いものではなく、それがあるからこそ、向上したり、努力ができたり、モチベーションを保ったりすることもできます)

それでも、すごい講師の人は、やはりその分、技術や知識もすごいので、望む結果をあなたにもたらす確率も高まることでしょう。人気になるのも、それだけの理由があるのです。(ご本人の努力、意識の高さも常人を超えているはずです)

ちなみに・・・私はまったくそのようなタイプの講師ではありません。(苦笑)

講師として、日々、向上はもちろん思っておりますが、私自身が完璧な人間どころか、どちらかというと体力も精神も弱い部類の人間で、不安神経症とかパニックとかうつとかも起こした人物です。

形式的には、私がタロットを教えるという形にはなりますが、精神・本質としては、むしろタロット自体が教えているという感覚です。

もっと言えば、マルセイユタロットにある智慧とか精神とか、示唆する神性(完全性)が教えているのであり、そはれ受講される皆さんの中にあるものです。

私は人としては自己浄化も自尊もままならない、物質的にも精神的にもまだまだ弱い人間ですが、マルセイユタロットの象徴性を借りて、自分と受講性とのあいだに宿る神性の力によって、気づきと自己の成長の道、象徴的にいえば光をもたらすことをしています。

タロットを習ったからと言って、すぐに経済やメンタルが豊かになるわけではなく、引き寄せや願望が叶うテクニックを教えているのでもありません。

何度もいうように、私自身にカリスマ性や特別な力はありません。普通の人より、むしろ脆弱性を持つ人間です。

そんな私だからこそ、下から目線ではないですが、人の気持ちがわかるところもあります。意識高い系や成功系の人たちのように、ひたすら自分を磨き、弱音や愚痴は吐かず、使う言葉、行動に注意して、すばらしい生活と人間であろうとするタイプてにもなれませんし、そのようなことを押し付ける気持ちもありません。

例えば、今の世の中の状態でも、ピンチはチャンスだ!と切り替えられるような強さはなく、やはりこの先の不安とか、いろいろと人としての当たり前の気持ちが出てきます。

それでも、マルセイユタロットの(教えの)おかげで、こんな私でも、気持ちを少しでも安定させたり、人様に、タロット通して成長していくこと伝えることが、なんとかできるのです。

言ってみれば、私は、自分自身が光となって輝き導くタイプではなく、皆さま自身にある光源を在りかを、一緒になって探して、灯をともす作業を地道にしていくというようなタイプです。まるで地味な作業員みたいな者かもしれません。(笑)

「そのことについては・・・えーと、ちょっと待ってください・・・(とマルセイユタロットを出して調べ)・・・こんな風に考えてみてはいかがですか?こういうやり方もありますね」

と皆さんを、指導と言うより、示唆をマルセイユタロットを通して提供していくような感じです。こんな講座で、講師なのです。(苦笑)

それでも私は思うのです。あなた自身の中に、そして私の中にも、すばらしいものがあります。

これからの世の中、確かに今はネガティブなものの想像も多いかもしれませんが、マルセイユタロットを通してあなたの中にある完全性を少しずつ開花していくことにより、ネガもポジもない状況へと導いていくことになると思います。

世の中が変わるのではなく、あなた自身が変わるのです。いや変わってきたからこそ、世の中に変化が大きく出て来たのです。

すごいものを確実にあなたにお見せするような能力は私にはありませんが、一作業員として、一緒にあなたとともに、この世とあなたの自身に光を復活させたいと思っています、それがあなたの強さ、ひいては私の強さにもなっていくのです。


「13」と「節制」のセット、再び。

今日もふと思ったことを書こうとした時、「ああ、これは前に書いたな」と思い出すことがありました。ただし、きちんとデータベース化していませんので、いつのどの記事だったのかはわかりません。

というわけで、今回の話も前に書いたものと似たような話にはなるのかもしれませんが、でもたぶん、以前のとは、また違うニュアンスになっていると思いますので、読んでいただければと思います。

今日のテーマは「13」と「節制」です。

大アルカナナンバーでは、13と14の続き番号になります。

私はカモワン流から入った者ですので、カモワン流のメソッドや考え方を受け継いでいるところが多いです。その中で、カップルカードとか、ペアカードという概念があります。

「13」と「節制」も、一種のそのカップルカードということになります。意味的には、救われる者・救う者という組性です。

以前は、確か、自分の身に起こったことを例にして、苦しい時でも必ず救いがセットになっているというような話をしたような記憶があります。

そう、今もって見ても、やはり、この「13」と「節制」の組み合わせ(の意義)は、この世の中と言いますか、宇宙の仕組みとして働いていると私には思えます。

「節制」における人物は天使の姿をしていますから、メルヘン調に言えば、つらい時でも、救いの天使はいるよということです。

その天使は、現実の人もあれば、事柄(援助・相談とか組織とかお金とか)のこともあります。つまりは心の救いもあれば、モノ・形による救いもあるわけです。

また天上的と言いますか、目に見えない領域や超越的な存在からの救いもあるかもしれませんし、地上的・現実的な救いも当然あります。

さらに言えば、この「節制」の天使は自分自身でもあるのです。

マルセイユタロットにおいては、すべてのカードは自分の内にあるものと考えることができ、そのことからしても、「節制」はあなた自身の中に存在しているのです。

当然、大変な試練を迎えている状態と言える「13」も、自分であると言え、すると、「13」と「節制」のペアは、「自分を助ける(天は自らを助くる者を助く)」という意味になりますし、「13」側から見ると、自分を天使にするための試練に挑戦していると考えることもできます。

自分を天使にするというのは象徴的言い方ですが、それは、愛を目覚めさせる、愛のレベルを上げると換言してもよいかもしれません。

自分自身が救えれば、同じ状態に遭って困っている他の人を、今度は自分が助けることができ、すなわち自らの天使的立場への上昇と言えます。

天使に羽がついているのも、救済視点として、より上の俯瞰する高次の視野が持てること、(イデア・理想・神・霊・魂・浄化的天国世界)と地(地上・物質・現実・肉体・欲望的世界)の間に、自由に位置させることができる意味があると想像されます。

「13」を経験すると、少なくとも、ひとつの(見えない)羽が、あなたには生えてくるのです。

それから、この組み合わせ(「13」と「節制」)には、ほかの見方もできます。

「13」は、恐れと不安を示し、「節制」は愛と癒しを表すと考えますと、恐れ・不安の出る状態を経験し、それを乗り越えると、愛ある状態が訪れるということになるわけです。

これも逆に言うと、「節制」という愛や助け合い、救い、シェア、治療を象徴するような世界、あるいは精神になっていくには、「13」という不安や恐れ・危機を体験する試練が必要であると見ることもできます。

もちろん、そういう、「13」的なものがなくても、人は愛に目覚め、救いをもたらすことはできます。

しかし、もっと大きな範囲や高いレベル、深く確実な変容を遂げなくてはならない時、また多くの人に自覚をもたらすため、あるいは個人としても、本気で変容に向かう気持ちと行動を起こすには、時には「試練」という形が求められるのかもしれません。

「13」は怖く、つらく、苦しい状態でしょう。カードの絵を見ても、恐ろしいですし、骨状の人物が盲目のように大鎌をふるって、必死で作業をしている様がうかがえます。先行きが見えないのか、あるい見えているからこそ、何かを変えようとしているのか、見方はそれぞれです。

ですが、この状態の先には、自身が、あるいは世界が変容した「節制」が待っているのです。それはまるで、さなぎから蝶(天使の羽を見てください)へと変わっていく様子にも似ています。

不安や恐れから逃げていては、「13」は逆位置になり、その鎌は襲いかかってくるかのように見えてきます。

本来、鎌は農作物の収穫に使う道具です。ですから、人を殺めたり、傷つけたりするものではないのです。

収穫した作物はどうしますか? それは穀物とか野菜として私たちの食べ物、栄養になるわけですよね。生きる糧と言ってもよいです。

「13」の鎌は、そぎ落とす意味もありますが、このように、もともとは私たちに恩恵をもたらすための道具であるわけです。

それが、位置を逆(逆さ)にすれば、怖い道具・凶器にもなってしまいます。不安や恐れが強く、尻込みし、あるいはパニックになったり、逃避し続けたりすると、結局、その鎌は自分か他人かに悪い意味で振り下ろしていることになります。

これをきちんと正しい位置に戻すと、鎌は余分なものはそぎ落とし、必要なものを収穫していく、自分に恩恵をもたらし、前進を助ける補助杖ともなっていくのです。

ただ、一人で立ち向かうのは大変で、難しい時もあります。

そこに、「節制」がまた登場するのです。

不安や恐れに対して、無理からに克服しようとしても、かえって危険ですし、苦しいことになります。

まずは、外や内からやって来る恐れや不安、それが自分にあるのを認めることが大切です。怖いことは怖い、苦しいこと苦しい、これを素直に自分に認め、感じている自分を赦します。

次に、それを抑えようとするよりも、不安の原因や元になっているものに対して、怖くても、ちゃんと向き合う、調べるということも必要です。

調べていくうちに、意外に自分の思っていた不安とか恐れが、まったく別の要因・原因から来ていたということもあり得ます。

さらに、最悪の事態を想定してみて、そこまで行くと、もう「生きているだけでとOK」とか、プライドや他者の評価とか、そういうものが消えてしまい、最後には「まあ、なんとかなる」とか「案外、最悪と言ってもこんなもんか」と楽になることもあります。

また、自己責任論で凝り固まるのではなく、積極的に「節制」、この場合は、他者とか組織とか行政とか、ほかの支援・協力・シェアも思うことです。自分で何とかしようとし過ぎると、かえってつらくなります。

「あの人ではこれはできない」「この人に、これは頼れない・・・」

こういうふうに、できないことを自分や他者に挙げていくのではなく、

「この人でもこれならできるだろう」「あの人だったら、何とかこれくらいなら助けてくれるかも・・・」

というプラス、助け合いの視点で、わずかでもできることを想像していくほうが心の安定にはよいです。

何もできないと思っていた自分や他人が、案外、思ったより役に立つ、できることはあるものです。

「13」と「節制」は、助けられる者・助ける者の組み合わせだと言いました。

一人でつらい時、困難な時は、誰かの助けを求めればよく、結局、現実世界において、一人では生きていけなく設定されているようなものですから、いかに助け合うか、智慧や力を出し合うか、それぞれが愛と理性をもって行動していくかによって、「節制」が実際に救済力(仏教的には観音力)を持つかどうかが決まってくるように思います。

大丈夫です。

私はタロットの示唆から見ても、俯瞰的に見て、人類はよい方向に向かっていると言いますか、必ずそのように、実はプログラムされているのだと感じます。

たとえ一見悪い状況のように思えても、それは進化や成長の視点から見て、らせん状ではありますが、上昇していっていると見ることができます。

今は「13」かもしれませんが、「13」には必ず「節制」がついています。

個人でも全体でも、「13」がやって来ているのなら、それは「節制」に近づいている証です。「13」の一番のキーワードは「変容」と言えますから、変容中の私たちに待つのは、新しいレベルの「節制」的世界(観)なのです。

それは、今までよりもっと「天」に近い位置となることを思えば、未来は明るいと思うことができるでしょう。

「節制」の天使の持つふたつの壺は、科学と自然の調和、精神と物質の同意(位)性が進むことも暗示していると思います。


こんな時に恋愛問題でも

社会的・世界的大きな問題がある中で、それとは別の個人的問題・悩みも人にはあるでしょう。

このところ、大きな問題と個人的な問題が奥底ではリンクしている話、霊的統合的視点では関連が見えてくる話をしましたが、今日は真逆のようなことも言っておきたいと思います、

いや、大小の問題の関連性について、否定したり、今まで書いていたことは違いますよと言ったりするわけではありません。

悩みや問題の捉え方は様々であって、その向き合い方次第では、楽になったり、逆にますます苦しくなったりするのですよ、ということが言いたいのです。

ですから、大きな問題を自分の問題に置き換えてみたほうが楽になる人もいれば、外の問題と自分の問題はまったく別と、切り離して思ったほうがよい場合もあるわけです。

要するに、問題の対処の仕方は、自分が楽になるのであれば、いかようにでもあるということです。

しかしそれは、反対から言えば、対処の方法を間違えると、悪化することもあれば、抜け出しにくいこともあるのです。

さて、例えば、今、恋愛の問題で悩んでいる人もいらっしゃるでしょう。

世間が世界的ともいえる大きな話題で心配している時に、自分はあの人とうまく行くか、あの人の気持ちがわからない、あの人が好きだけど、どうしたらいいのかわからない・・・などなど、恋の悩みに苦しんでいるという状態にある方がいます。

そういう人はもしかすると、こんな状況なので、自分のこと、ましてや恋愛のことなどで悩んでいてもいいのだろうか・・・なんか申し訳ない気持ちになる・・・とか、自己嫌悪にますます陥るとか、そう思う方もおられるかもしれません。

また、世間が騒がしく不安になっているところにもってきて、自分もそれに対する不安はあるけれど、恋愛の心配も大きくて、余計、前よりも恋愛の悩みがひどくなってきた・・・となっている人も考えられます。

ここで言いたいのは、悩みは人それぞれであり、悩みにいいも悪いも、優劣もないということです。

それに、周囲のほかの心配事のために、今の悩み事が拡大したかのように感じることもありますが、それは自然なことなのです。

私たちは幸か不幸か、一人一人違う世界観・価値観、それに経験・個性を持って生きています。

誰一人として、まったく同じ人はいないのてす。ですから、悩みごとも千差万別で、一人一人必ず違うはずです。

恋の悩みをバカにする人もいるかもしれませんが、それは悩みの問題が違うだけで、バカにする人だって、経済的なことや仕事のこと、ほかの人間関係、あるいは病気や肉体的なことで悩んだ経験はあるはずです。

あえてカルマ説みたいなことで言いますと、皆、一人ひとり、カルマに応じて、悩みごとは違っていて当たり前なのです。

誰かの恋の悩みは、ほかの人の仕事の悩みと同レベルか、それ以上の苦しみということもあります。

結局、悩んでいる事柄は違っても、人にとって悩みがあれば、それは苦しく、大変であるということなのです。問題は悩みのテーマ(事柄・内容)ではなく、悩み葛藤するという、その「性質」にあります。

ですから、あなたが恋愛問題で苦しんでいるのは、立派な苦しみ、大変さの質であり証です。

それはやはり、苦しみではあるけれど、人としては価値あるものなのです。

誰かを好きになって、それを簡単に忘れられたら、苦労はありません。

感情のコントロールとか、切り替えとか、手放しとか、対処方法にはいろいろと人は言いますが、それはある意味、他人事だから言えるのです。

ドロドロのぬかるみの沼にはまるがごとく、思わないようにしても思ってしまう、気にしないようにしても気にしてしまう、そういうの恋愛問題です。

マルセイユタロットでは、「恋人」カードで恋愛が象徴されます。このカードはとても恋の仕組みや意味合いを巧みに図像で表しており、この図の象徴性がわかってくると、恋愛の深い意味を知ることができます。

誰もが実は恋愛(人に対してとは限りません)をするのですが、人同士の強い恋愛体験をする人は、もしかすると全員ではないかもしれません。恋愛に興味のない人もいますし、興味はあっても強烈なものがない人もいるでしょう。

もしあなたが、すごく恋愛モードで悩み、そういう体験をしているのなら、それはそれで意味あることだと考えられます。

あなたは恋愛をする運命にあり、そしてその運命は、いわゆる運命的という言い方の種類のものではなく、あなたを本質的に成長させるために起こっている意味での運命的なものと言えます。いわば使命みたいなものです。

忘れられない人がいるのなら、それはその意味がやはり(感情的なものだけではなく、深い意味で)あるということかもしれません。

無理に忘れよう、新しい恋に行こうとするよりも、大切に思っていた人、あなたが好きであった人を心に抱いて、愛している、愛していたこと、あなたが相手に向けていたその尊い「気持ち」を大事にしてほしく思います。

それを少しずつ、自分に向けてみてください。どんな形であれ、愛がそこにはあるのです。

あなたの悩みは尊いのです。それは他人がとやかく評価するものではありません。あなたのために起こり、あなたのためにやがて糧になっていくものです。

世の中が不安定になったり、不安な状況になってきたりすると、パートナーを求めたくなりますし、今パートナーがいる人は、もっと思いやりや愛をもって、パートナーと接していくようになるでしょう。

人と人つのつながり、ふれあい、これらがいつの時代も必要で、不安な時こそ拠り所になる人がわかり、そのつきあい方、関係性、向き合い方の中に、愛を基軸に見ていく方向性が現れ、変化していきます。

自分を素直に見てみましょう。そしてその目をもって、パートナーや愛する人、好きな人を思ってみましょう。

温かいものがまさにハートにあふれてくるのがわかるでしょう。もしくは、自分か普段思っていたより、相手に愛情を感じなくなるかしもしれません。

変な意地をはらず、かっこをつけず、あなたが必要であること、共にいてほしいこと、物理的に一緒にいられなくても、好きであり、心は共にあること、寄り添っていること、たとえそれが言えなくても、自分が認めることで何かが変わると思います。

つまりは恋愛を通して、あなた自身や人の本質に、皆立ち戻っていこうとしているのです。

時代もそういう方向に流れていると思えます。

そのために、あなた自身が、やはり恋をする必要があります。それはうぬぼれではない、自分自身への恋のことなのです。


「節制」の象徴する社会へ

マルセイユタロットには、数の連鎖と言いますか、サイクルのようなものがあります。

すでにかなりの人に知られているのは、7のサイクルや10のサイクルです。

諸説・いろいろな見方はあると思いますが、大アルカナは3と7が基本で、小アルカナは4と10のシステムにあると私は見ています。

この、特に大アルカナのシステムで、7というのを基本にしますと、7のひとまりがひとつの完成形ととらえることができます。

7と言えば、身近なところでは、一週間とか、そのもとになっている七惑星とか、霊的なところでは、チャクラの数にもなっています。

ラッキーセブンという名前で、幸運の数にもなっていますよね。

このことから、7がいかに重要な数であるかがわかります。

さて、大アルカナを見た場合、数を持たない「愚者」は別として、最初の数「1」を持つカードは「手品師」(通常タロット名称では「魔術師」)です。

そして7を持つ数は「戦車」です。この「戦車」からさらに7つ進めば(進むは六つですが)、「節制」というカードになります。

マルセイユタロットの「手品師」は、その名の通り、手品を見せて商売していると言える大道芸人です。ここから「仕事」を意味するカードでもあります。

私たちの今の時代、雇用されて働く人が多いですが、独立して起業する人、ビジネスを起こし、会社や営利団体を経営していく人もいます。そういう人にまた雇用されていく人も出ます。

マルセイユタロットで言えば、経営者は「皇帝」段階かもしれませんし、いわゆる成功を収めていくと、まさに「戦車」となったと例えることもできるでしょう。

こうしてみると、「手品師」から「戦車」にかけては、現代的な(過去から続くとも言える)仕事やビジネスの段階と見ることもできます。

しかし、さきほど、さらなる7段階に進むと、「節制」が出てくる話をしました。

今の資本主義経済・金融システムに慣らされた私たちには、あまり想像できないかもしれませんが、「節制」的な仕事・働き方・雇用・ビジネス・社会の表現があるのかもしれません。

「節制」は、天使がふたつの壺の水を混ぜ合わせている姿が描かれています。

そこで、助け合いとか、シェアとかの意味合いが出ます。そもそも天使なので、救済・治療・援助・融資的な意味合いがあります。

今、あえて言いませんが、日本はもとより世界的に、あることで、大きな不安や障害、衝撃が来ています。

皆さんの間では、自分の仕事はどうなるのか、経済はどうなるのか、行先にとても不安や心配を感じていらっしゃる方が多いと思います。

さきほど述べました、マルセイユタロットの示唆からしますと、もしかすると、「手品師」から「戦車」という従来型の仕事やビジネス・経済の形を、私たちは卒業する段階が来ているのかもしれません。

そして、これからは、「節制」的業務形態と言いますか、社会になるように促されている気がします。

これはあくまで仮想ですが、「節制」的なことで見ますと、「節制」の天使が壺の水を混ぜ合わせているように、資本主義的なことと社会主義的なことが混淆し、半分全体や社会で支え、半分自由主義みたいなことができてくるのではないかと思います。

例えば、ベーシックインカム的なことで、まず生存不安を払拭し、物質と精神の基本的安心を獲得したうえで、自由に仕事を選んだり、起業・経営したりできるようにします。

すると、ベーシックに収入はあるのですから、経営側の支払うお金も、雇用側のもらうお金も、それほど多くなくてもOKとなります。その分雇用時間も少なくて済み、企業間の競争は減り、職業選択の自由、掛け持ちとかもでき、肉体的・精神的負担も少なくできるでしょう。

ひとつの会社とか組織、個人が利益・儲けを独占していくような形ではなく、ひとつのひとつの規模はスモールにはなりますが、全体としては皆で支え合う形になってきます。

できれは、土地の売買も禁止し、土地がお金を生むようにならず、共有財産としたほうがよいと思います。

そうなると住居も完全に個の邸宅として自由にするのではなく、移動・引っ越しはOKですが、マンションや団地的なものを基本としたほうが、災害などで破壊されても、すぐ入居できるので生活は困らないと思いますし、家に対する個人の負担が巨大になったり、災害による何重もの負債になったりすることから逃れることができます。

ただ、それでは無個性な家ばかりになるので、余暇やレクリエーション、癒しや元気のために、独自のセカンドハウスとか、宿泊施設としての旅館・ホテルとか、こうしたものは比較的自由に建築できるとするとします。

普段はマンション的な家住まいながらも(家族数によって部屋の割り当て・大きさは決まっているものとします)、休みや余暇では(これも皆が土日とか決まった曜日に集中しないような働き方になっているのて、フレキシブルです)、共有的なセカンドハウス、宿泊先の旅館・ホテルなどの個性的な売りのところで、おのおの過ごすというものならば、無個性な家ばかりとはならないでしょう。

今述べたような社会は、あくまで夢想の範囲かもしれませんが、助け合い、シェアしていく、節制を基本とした社会、働き方に向けて、これからの時代、変化していく道があるのではないかと思っているところです。

社会主義が失敗したところには、結局、自由を制限する権利者(一党独裁など)の支配になるところと、同じ時間働いても同じ給料になるということから来るサボタージュ、社会や人の意識の硬直化が問題と言えました。

これはつまるところ、人の意識の低さにあります。自分さえよければよいという意識が、支配やサボり、独占、硬直を生むのです。

ですから、仮ではあっても自由を実現していくには、過酷とも言える自由資本主義経済、金融システムでなければならない時代が長く続いてきたわけで、それは私たち一人一人の意識がまだ新しい社会になるためまで成長していないということもあったかと思うのです。

今の世界的問題をきっかけに、一人一人の意識が高められ、成長が促され、もはや「戦車」を超えて、「節制」に行かねばならない時代になってきていることを、多くの人が認識すれば、社会・世界はよい意味で大きく変わると思います。

多くの人がもっと安心で、幸せになれる社会になっていけるはずなのです。

実現不可能と思うのではなく、少しでも実現可能だとイメージや方法論で現実に落とし込んでいくこと、つまりはリアリティを理想に多くの人が近づけることで、本当になっていくのです。


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