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ホ・オポノポノを例に 問題の内転換
ホ・オポノポノをご存知でしょうか?
ハワイの伝統的な癒し、問題解決法を簡略にアレンジしたと言われるメソッドです。
一昔前、スピリチュアル界では大変話題になり、書籍の出版、セミナーの開催など各地で行われ、基本の四つの言葉を唱えることが流行ったことがありました。
今ではブームも去ったかのように見えますが、このメソッドの効果は今でも十分にあると私自身は考えています。
とはいえ、私はマルセイユタロットが専門であり、ホ・オポノポノを深く学んだわけではないので、いい加減なことは言えませんが、実際の経験と、タロットの浄化システム・理(ことわり)のようなものを見てきても、同じようなところが、ホ・オポノポノにはあると考えられますので、まったくの思いつきで言っているのではありません。
タロットとホ・オポノポノには、見た目、共通点はありません。
しかしながら、浄化システムの本質では、先述した通り、似ていると言え、実は、およそ浄化に関するメソッドには、共通する仕組みのようなものがあると考えられ、そのために、まったく異なるツールやメソッドにおいても、本質的には共通するのだと推測できます。
これは癒しや浄化だけではなく、どんなことにも言え、例えば、西洋的なもので言いますと、タロット、カバラー、占星術、数秘など、別の体系同士であっても、やはり共通したものがあると考えられ、そこを理解すると、ただ表現の違いでしかないということに気づきます。
ということは、裏を返せば、宇宙全体には、本質的には同じ構造・システムがあると言え、それが民族や時代、方法によって表し方が異なっているだけなのだと思うことができます。
ですから、大きな意味では、どの方法をやっても効果はあり、本質・大元にに辿り着ける可能性はあると言えますし、そもそも私たち自身が本質と同じであることも、こうした理由から当然だと言えるのではないかと思います。
マルセイユタロットに流れる思想、グノーシスでは、端的に言えば、人は神であるということを伝えるものですが、このことは、さきほど述べた宇宙の本質と私たちの本質は同じであることを言っていると考えられます。
さて、私が今、またホ・オポノポノについて語っているのは、今の不安に満ちた社会状況に、ホ・オポノポノがとても効果的ではないかと思えたからです。
ただ、マルセイユタロットもそうなのですが、問題の解消を期待して、メソッド(タロットだと展開とリーディング)を行っても、あまり意味はないように感じます。いえ、それなりの意味はあるとは思いますが、本当のメソッド(の効果)にはならないおそれがあります。
ホ・オポノポノでも、問題の原因は外にあるのではなく、内(潜在意識)のインナーチャイルド、もしくは人類の集合的な問題意識(データ・パターン)にあると言われ、実際現れている外の問題は、その投影や、インナーチャイルドからの警告や叫び(訴え)であるとみなします。
この原理から言えば、外側の問題の解消を願って、ある言葉を唱えたり、方法を施したりしても、逆効果というか空しいところがあり、むしろ、解消を願うのではなく、淡々と、ひたすら内なるデータの浄化に努めるというほうがいいわけです。
つまりは、外のことをコントロールしようとしても無駄で、いわば、映画のスクリーン(写し出されている物語や人物)に向かって、「こうなってくれ」「ああしてほしい」と願っているようなものなので、それをしても肩透かし、素通りみたいになるわけです。
とはいっても、外側(現実)に起きている問題のインパクトは強烈で、不安で苦しく、恐れがあり、悩ましいものです。しかし、それこそが罠みたいなもので、リアリティが強烈だからこそ、それは内なる訴えとしても強烈だと見て、方向性を逆に見なければならないわけです。
これは、私自身も囚われることが多く、なかなか本当に内に向かうということは、言うは易し行うは難しなのですが、それでも、本当の平安は内にあるということが、体験によって少しずつ理解てきてくるようになると思います。
これも段階・過程のようなもので、内なる浄化が進めば、外なる刺激に惑わされる度合いが減少し、その本当のメッセージ性に気づくようになってくると考えられます。(これにはカルマ的のものとあると推測されます)
なかなかこの幻想(とはいえ、ある意味、実体でもあります)システムは強固で、生まれながらずっとそのように過ごしてきたわけですから、簡単に転換することはできないのが普通でしょう。
しかし、問題が起きる度、外から内への転換、マルセイユタロットで言えば、「吊るし」の逆さま状態に気づいていくことが増え、常識認知システムか崩壊しはじめ、本当の安心・平和へと自らを誘い、同時に、人類全体の流れもそれに向かうよう寄与していくでしょう。
マルセイユタロットの「運命の輪」にも、内なる声を聴くという象徴がありますが、それによって、外の運命ではなく、内なる運命が回り、変化すると言えます。
ホ・オポノポノは、方法としては、とても簡単です。
ただ、「ありがとう」「ごめんなさい」「許して下さい」「愛しています」と唱える(心の中でもよい)だけです。
詳しくは、ホ・オポノポノ関連書籍や、サイトをご覧いただければよいかと思います。
今こそ、必要なことではないかと思いましたので、ご紹介させていただきました。
もちろん、マルセイユタロットでも、すでに述べたように、同じような働きが本質的にはあると考えられますので、タロットを使って自身を浄化していくのもありです。
そうした方法は、タロット使っていると自然に降りてきますが(自分自身に合った方法とかカードが出ます)、タロットの場合は、カードの象徴性を知ったほうが効果的なので、それは自習されるか、誰かに学ばれることをお勧めします。
とにかく、大切なのは、問題をそのまま問題としてとらえよう、解決しようとすればするほど、問題は大きくなるか、いったん収まっても、形を変えて再び現れたりするということです。
ですから、問題の方向性を内側に転換して、問題自体を、むしろ手放す(赦す)ような態度で向き合えば、問題の本質に気づき、解決とか変容に向かうと思います。
それはなかなか難しい道かもしれませんが、結局、それが近道になる人が多いような気がします。
問題やピンチは、別の方向からすれば、本当にチャンス(「運命の輪」の転換、回転)なのです。
特別リーディング期間 開始します。
私のタロットの生徒さんのグループとか、メルマガ(受講者用)などではお話していることですが、今回の新型コロナウィルスのことに限らず、社会全体に及ぶような、何か大きな問題については、個人レベルで考えるものと、全体レベルで見ていくものがあります。
そして、個人・全体、それぞれにおいても、いろいろな階層、種類、色のようなものがあり、それもマルセイユタロットのシステムを使えば、把握することが可能になりますが、とにもかくにも、問題を検討したり、解決したりするには、ただひとつのところを見ればよいというものではないことは、共通して言えることではないかと思います。
さて、そうした多様な階層の中に、人の心理レベルの問題もあります。
理由については長くなるのでは省きますが、今の状況も、実は一人ひとりの心の中の問題、あるいは問題を思っているその人の状態と、巨大で社会的・世界的な問題が関係していると見ることができるのです。
逆に言いますと、一人ひとりの問題の浄化とかクリアーになっていけば、全体的な問題も軽くなっていく、浄化されていくと考えることができます。
そして、これは、相談者と相談を受ける側、タロットで言いますと、クライアントとタロットリーダーの関係において、問題を抱えている人は相談者・クライアントとなるわけですが、相談を受ける側、タロットリーダー側の、無意識的な問題(意識的な問題もあります)をも浄化していくことにつながっているのです。
よって、相談を受ける側が、相談をしてくる人によって癒されるという事態も、別の視点(別の世界観)ではありえるわけです。
ということで、これからしばらくの間、私は皆さんがタロットリーディングを受けやすいようにしたいと思いました。
具体的には、料金をかなり安くしまして(さすがに無料ボランティアではできないので、すみません・・・)、直接の対面方式では、いろいろと今の時期、やりづらいでしょうから、オンライン(zoom)を使って、自宅にて安心して受けていただく形で提供いたします。
料金は、通常、一万円のリーディングですが、同じ内容で3千円にいたします。(時間は60分までにします)
もちろん、今までもzoomによるリーディングはしていたのですが、今回は、料金を大幅に値下げしての、新たな形のものです。
繰り返しますが、先述した通り、多くの人の心が軽くなれば(浄化したり、統合できたり、癒されたり、気づきがあったり)すれば、社会や全体の問題も軽くなっていくと想定しているから、こういう形式で行うものです。
方法についてご説明しますと、お申し込み受付後、ご自分の問い(タロットへの質問)の内容を書いてメールで送っていただき、リーディングの日時を調整決定いたします。
送っていただきましたご質問内容をもとに、当方がタロット展開したものを、リーディング当日、zoomをしながら一緒にみてもらい、リーディングと解説をいたします。
全国どこからでも、ネット環境があればスマホでも可能です。zoomは簡単に使え、無料で使えるアプリですので、リーディング料金以外はかかりません。
できるだけたくさんの人に受けていただきたいと思いますので、時間もフレキシブルに考えます。
しばらくは特別リーディング期間として続けますので、ご興味のある方は、このサイトの「お問合せ・お申込み」からお願いいたします。
悩み、苦しみの救いの段階・ルート
苦しい時、悩んでいる時、人はまず自分で考えます。
しかし、たいていの人は耐えきれず、身内や親しい人、友人など身近な人に相談するでしょう。
また専門的なことは、まさにその道のプロに相談したり、対処してもらったりします。
しかし、それでもどうしようもない時、または、現実的にはどうにもならないと自分が思ってしまった時、最後には神や仏様に祈る、文字通り、神頼みをするかもしれません。
これは信じている宗教とか信仰に関わらず、日本人ならば、自然にやってしまうところがあるのではないでしょうか。
さて、こうやって見てきますと、人は、自分の危機において、自分頼み、他人頼み、最後は、神や仏のような、超越したものに頼ってしまうという流れ、段階があるように思います。
もちろん、一律に皆がそうなるというわけではありませんし、段階においても、途中で、神がかりな人とか、人間離れした能力者に頼る、最近ではAIやネットの情報に頼る(笑)というのもあるかもしれません。
それでも、多くの人は自分の問題を自分だけで収めてしまえるほど強くもないですし、逆に言えば、自分だけに抱え込まないからこそ、救いがあるのだと考えることができます。
自己責任という言葉が暴力的に唱えられるところもありますが、人間、何でもかでも一人できるものではなく、まれに強い人もいますが、一人では弱い存在でもあります。
注意しなければいけないのは、問題や悩み、困難状況に対する精神的な負担への思い、実際の対応能力には、個人差と言いますか、個性があるということです。
まったく同じ条件の悩みであっても、Aさんにとっては、まあ、ちょっと大変だな思う程度かもしれませんが、Bさんにとっては、死ぬほどつらいことなのかもしれないのです。
それをもって、Bさんは情けない、自己責任だから自分で何とかしろ、というのは酷だと思います。
もちろん、明らかに甘えすぎであるとか、嘘をついているなどのことがあれば問題ですが、まじめにやっているのに、つらい、苦しいというのは、平均を取ったり、皆と比べたりするのではなく、その人個人の苦しさとして受け止めてあげたほうが、その人にとっても救いとなるでしょう。
特に人の相談をするような人は、当然わかってはいることでも、この「相手の立場になって考える、共感する」ということが意外にできない人もいます。つまりは自分とか、イメージ上の常識集団の感覚で見てしまうのです。
さて、話を戻しますが、やはり、先ほどの、「悩みや苦しみをどのように解決や処理していくのかの段階」で言いますと、自分だけですべて完結できる、解決できると思い込むのは危険だとわかります。
それができる軽度の問題・悩みならいいのですが、悩むということは、もう自分ひとりのレベルや経験・知識では難しいということもあります。
よって、次の段階には、他人に相談することになります。
そして、一人ひとりが、まさに「一人」で苦しまないないよう、相談できる仕組み、システム、社会の雰囲気が重要であるとも言えます。
自分の次は他人へ相談するという流れがあるのですから、この「他人」の部分を、社会的にもっと拡大したり、充実したりすればよいのです。
人類の集合知と言いますか、誰れもが相談でき、相談を受けて、一人一人の悩みを解決する雰囲気の醸成、困ったことをお互いで解決し合う社会的常識を作り上げるわけです。
専門家が必要な時は、それにつなげるルートや仕組みも充実させます。いわば、共助・公助の部分を厚くしていくことと言えるでしょう。
マルセイユタロットで言えば、誰もが「節制」の天使になると例えてもよいです。
しかしながら、これでも、最後は神頼みという段階もあるかもしれません。
ここで、実際に神様がおられるとか、神様の力が発動させれるとかということを議論したり、言ったりするのではありません。
神様や仏様に頼る、祈るという、別の救いの段階、悩みや問題の軽減ルートがあってもよいと語っているわけです。
その仕組み・理由を説明しましょう。実は、このことは結構、秘儀に近いことで、タロットの霊的技術にも関係します。
私たちは神仏など、超越的なものに祈る時、神社とか仏閣などに行きます。そこに行けない時は、自宅の神棚、仏壇などに祈ることもあるかもしれません。
こういうものがない人でも、手を合わせて神仏に祈ったり、心の中で、何か言葉・マントラなどを唱える方もいるでしょう。
いずれにしても、その瞬間、日常ではない感覚になっているはずです。その非日常感が、自分と神仏などの超越的存在とをつなげるのです。
そういう意味では、非日常的空間にいるほうが、超越的なものと感応しやすい可能性があります。少なくとも、祭壇などがあったほうが、雰囲気が出やすいわけです。
そして、実は、神仏は、外にいる(在る)のではなく、自分の中にいる(在る)のだということです。
つまり、祭壇や社などは、仕掛けというか舞台演出のようなものだと思えばよいでしょう。
そういう仕掛けがあるからこそ、自分の中の、祈りに呼応した神仏的なものが現れるのです。(現れやすくなる)
神に祈って、実は自分に祈っているようなものです。
とはいえ、人は弱い存在だとも言いました。
ところが、反面、神性や仏性もあるのです。それが普段、日々の事象に悩む弱き人間としての部分がほとんどを占めてしまうので、なかなか表出して来ないわけです。
そのために、日常と切り離す、非日常的な仕掛け、舞台演出がいるのです。
こうして祈ることで、自分の強さが出て、私たち自身が奇蹟のようなことを起こす可能性を秘めています。
自分→他人→神仏(超越存在)と来て、最終的には→自分となって、結局自分に戻るのです。
人は救ってほしいと思った時に救われているというのは、このようなシステムがあるからと考えられます。
世の中はうまくてきています。
まずは自分として悩み考え、他人に救いを求め、ひとつの救いがなされると、他者を救いたくなるようになり、それでも難しい時は、神仏を頼りますが、その過程で、自分の中にある神や仏と出会うようになるわけです。
神仏に祈る時は、結構、大変な時でしょう。中には、祈ったところでどうにもならないことを自覚しながらも、仕方なく祈るという場合もあるかと思います。
そう、神仏に頼る段階では、結果は不明確で予想もつかず、そうそう奇跡が起こるわけではないのは承知のうえです。
だからこそ、一種の諦観と言いますか、悟りのような気分もやがて生まれてくるのだと思います。
その時、悩みはあっても、消えている感覚を持つ人もいるでしょう。それが奇蹟なのかもしれません。
この世は確かに悩み、苦しみの多い世界です。(そう思えない人もたくさんいて、それはそれでいいことです)
ですが、同時に、助けや救いも多いのです。自分を救いたければ、他人が救えるような社会に、皆で少しでもしていくことだと思います。
また霊的には神仏が救いをもたらし、それが結局は自分だったと気づくことがあるでしょう。
弱さ、強さを旋回しながら、私たちは、霊・魂の中心を磨き、存在として高めているのだと感じます。
そして、マルセイユタロットには、こうしたことを覚知させる智慧が隠されているのです。
タロットの組み合わせを入れ替える
タロットの展開法、いわゆるスプレッドというものは、いくらでもあります。
もちろん、伝統的・代表的で、広く知られている基本のようなものもあるのですが、今この時でも、自分のオリジナルなものを発明している人もいるかもしれず、しかも、タロットの種類によっても違うものがありますから、それこそ、無数にあると言えるでしょう。
展開法にとても重要な意味を置く人と、ほとんど重要視していない人が、タロット使いの人の種類として存在します。
私の立場・考えで言いますと、ある展開法にはこれでなければならないという強い思い入れや展開法のルールを順守する姿勢があるのですが、一方、展開法・スプレッドは、実はなんでもいいという思いも同時にあります。
タロットは一種のゲーム(お遊びとかの意味ではありません)として考える部分があり、ゲームにはルールが必ずあります。
そのゲームのルールを途中で変えることはタブーと言えます。ただ、ゲームをしている者たちの間で了解が取れれば、途中変更もありですが、しかし、ゲーム自体を成立させているルールの変更は問題です。
スポーツで言えば、例えば、サッカーをしていたのに、これからはバスケのルールにしますね、では、まったく違うスポーツになります。
これが、サッカーで最初は11人制でしていたけれども、人数が集まらないので(やる人が減るので)、5人までというルールで、ゴールとフィールドも狭めたものに変えましょうか?というのは、双方のチームが了解ならば可能ですし、サッカーという本質のゲームも変わっていません。
タロットの展開法の適用も、つまりは、そういうことです。
そして、タロットでのセッション、リーディングの目的が、クライアントの問題解決やアドバイス、癒し、気づきに導くことにあるのなら、それができる(目的が達成できる)ものであれば、タロットの展開法など何でもいいということになります。
さて、前置きが長くなりましたが、私は、展開法は結構、オリジナルや自由でやるのが好きなところがあります。(セッション・リーディングでは、ある決まった展開システムとルールのもとで、厳格にやることが多いですが)
そんなもののひとつには、カードを数枚引いて、すべてを自分(または問い)の象徴と見て(まあ、タロットとはそういうものですが)、いろいろとその出たカードを並び替えてみるという方法があります。
この方法を行う場合、一枚だけだと、正逆の位置くらいしか入れ替えができませんから、まずは最低、二枚のカードは引かねばなりません。
ですが、二枚では情報量として少ないと言えますから、やはり3枚を基本として、慣れれば5枚くらい増やして行けばよいでしょう。
正逆は取らず、正立だけで見ます。(すなわち、いい悪いを含めて、あるいはそれらを超えて、そのカードそのものの象徴総体として意味を取るということ)
シンプルに見たい時は3枚、もう少し深く見たい時は5枚という感じでしょうか。
本当はテーマを掲げずに、ただ引くだけでいいのですが、テーマをあえて最初に設けてやっても構いません。
では、ちょっと例示してみたいと思います。
今、皆さんの関心としては、新型コロナウィルスのことがあると思いますから、それをテーマにして5枚引いてみましょう。
引くカードは大アルカナ22枚の中からとします。
では、私が引いてみます。
はい、出たカードは、マルセイユ版の私が使う名前の言い方で述べますと、数の小さい順から、1「手品師」、3「女帝」、14「節制」、18「月」、20「審判」でした。
今は数の順で挙げましたが、これらは実際にはバラバラに引いて出て来たもので、それを並べ替えをして観察します。
マルセイユタロットをお持ちの方は、自分でもやってみてください。
並び替えは、引いたカードを裏向きにしてシャッフルして整列させてもいいですし、自分の感覚で、表向きのまま、なんとなく並び替えてもいいです。
図像を見ないように裏向きにシャッフルしてやったほうが面白いかもしれませんが、あえて図像を見ながらのほうでも気づきがあります。
今回の例としは、「新型コロナウィルス問題」としてのテーマ(問い・大テーマ)がありましたが、カードを引いたあと並び替えをする時に、もっと具体的テーマ(小テーマ)に絞って、さらに小テーマごとに、入れ替えて見ることも可能です。
「ウィルス問題」を大テーマとして、「今後どうなるのか?」という小テーマで並べ替え(シャッフルして出す)てもよいですし、「今自分にできることは?」でもよいでしょう。ほかにも、「自分はこの問題をどのように見たらよいのだろうか?」というもので、やってみるのもありです。
事例は、皆さんが気にしているテーマにしましたが、もちろん、自分特有のテーマ、問題(問い)にしても使えます。
そして、先述しましたように、テーマも問いも決めずに、ただタロットを数枚引いて、いくつかのパターンに並び替えて見ることで、自分に気づきが起こることはよくあります。
並び方も横一例にきれいにする方法もあれば、ある図形になぞらえたり、ランダムに、自分の置きたいところに置いたりするというのでもよいです。
何回かやっていると、不思議なもので、数枚のカードのそのカードたちにおける組み合わせは(枚数にもよりますが)たくさんあるにも関わらず、なぜか、「これだ!」「この展開(並び)だ!」と思う、唯一のものがわかるようになります。
たぶん、その並びこそが、あなたに対して、あるいはテーマにとって、今タロットが告げたいことなのでしょう。
出た(選ばれた)タロット自体に強い意味があると考えられるうえに、さらに、並び替え、組み合わせにおいても、確かなメッセージ性やインパクトを残すのなら、それはやはり特別な意味があると考えるのが、タロットでは妥当かと思います。
自己リーディングでは客観的になれずに、難しいところがあるのですが、この方法だと、意外にタロットを俯瞰して見ることができ、普通に問いを思って、自分でタロットをある展開法によって引いてリーディングするより、読みやすいかもしれません。
実はリーディングの練習にもなりますので、興味のある方は、ぜひ一度、やってみてください。
占いへの受動と能動
タロットのリーディングは、たとえ同じ展開や引き方をしても、様々な階層・レベルに読むことができます。
それが象徴の働きというものです。
これは、方向性によっては、読む側、タロットを見る側の意識に左右されると言えます。
つまり、それは、私たち自身に、多様な階層・レベルの意識存在があるからだと見ることも可能です。
これはまさにタロットで示されている人の可能性・向上性の部分や、反対に人の悪魔性とか堕落性も認められるわけで、私たちは、どの意識(存在・生き物)になってタロットを見るかによって、タロット自体が姿を変えてくれるのだと言うこともできます。
さて、そんな多様な意識、見方のひとつに、受動的に見るか、能動的に見るかという違いがあります。
受動的に見るというのは、ただタロットの意味や感じたものをそのまま受け取る、あてはめるというもので、能動的に見るのは、タロットから意識的、あるいは意図的に、ある目的のために行動指針や精神、変革の方向性、解決策をアイデアする、創造するというようなものです。
前者は占いの観点に多く、後者はセラピーとか問題解決的な読み方でよくある見方かもしれません。
私が講座で教え、勧めているのは、後者なのですが、しかし、前者が必ずしも悪いわけではありません。
人の心理と言いますか、人情には、この先どうなるかを見たい、自分ではわからないことを、目に見えないことをただ教えてほしいというものがあるからで、そのような依存心はいわば誰でもあるものです。よく言えば、危機回避能力のひとつかもしれません。
依存ではなくても、情報がたくさんあるに越したことはない(これも必ずしも、そういうわけではないと思いますが)という考えもあり、自分ではわからない情報なら、とにかく手段を選ばず、知りたいという人もいるでしょう。
そもそも、情報がなければ動きようがない、対策のしようがないということもあるのです。
それで、さきほど、タロットの受動的な見方・読み方として、代表は占いであるようなことを言いましたが、その占いにおいても、活用で考えれば、受動的に取るか、能動的に情報として入れるかの違いがあると言えましょう。
占いを能動的に見る場合、ただ占い師とかネットや書物の占いを、そのまま受け入れ、吉凶、運命的に見てしまうようなことです。
これも別に悪いわけではなく、先述したように、知らないこと(単独では知りようのないこと)を純粋に知りたいという人の思い、何かの不安や危機状況を、少しでも和らげるため、占いに頼りたい・・・という人の心理があり、それで落ち着いたり、ほっとできたりすればよいわけです。
ですが、これには危険性もあります。
もし、占いが悪い結果とか、悪い方向性を示していれば、ただ占いを受け取るだけの形の人では、余計不安になることもありますし、前にも書いたように、ネガティブな情報が自分の中に刻印されて、それを実現させてしまうというメカニズムが働き、占いを当てようと自分自身が演じることもあるわけです。(ポジティブなものより、ネガティブなもののほうがインパクトが強く、潜在的に残存しがち、信じてしまいがちなところが、普通の人にはあるからです)
また、受動的な見方ばかりでは、運命論に支配されやすく、周囲からの影響も、悪い意味で受けやすくなります。言ってみれば、人のいいなり、洗脳されやすい体質になるわけです。自我を失いやすいとも言えるでしょう。
自我・エゴをなくしましょうという、スピリチュアル系の人もいますが、それも段階、個人の状況によります。
いきなり自我をなくそうとし過ぎると、簡単に洗脳されやすい、人に操られやすい状態になってしまいますので、まずしっかりとした自我を持つことが自己成長の意味でも重要になります。
そうしないと、マルセイユタロットの「悪魔」のカードに象徴されるように、強烈なカリスマ・個性を持つ人によって支配されたり、魅了されたりして、自分を失うことになります。(「悪魔」のカードの、ひもでつながれた人々になる)
以上のようなことで、占いを利用するのでも、能動的にしたほうが、結局は自分のためになる気がします。
能動的な活用は、占いをあくまで“一情報(ひとつの情報)”とみなし、自分の問題やテーマを分析・解決したり、目標達成を目指したりするための支援情報・過程とするということです。
この場合は、〇〇運はどうか?などの、漠然としたものを、占い師に見て(診て)もらったり、自分で見たりするのではなく、もっと目的を絞り、何をどうしたいのかを具体的に絞り、それを「お題」「問い」として、見る、見てもらうのがよいのです。それが能動的な占いへの活動、活用というものです。
最初から絞りにくいかもしれませんが、自分が注目したもの、フォーカスしたものに、周囲、いや、もっといえば世界そのものが合わせてくるようなことになると言われますから、何かをしたいのであれば、その何かを具体的に、細やかに、リアリティもって意識すること、イメージすることが、よく言われるように、やはり重要なのだと思います。
漠然としたものには、漠然とした効果しかないのです。
タロットリーディング、タロット占いにおいて、その質問をはっきりさせたほうがよいと言われるのも、この理由が、ひとつにはあるからです。(しかし、高度なタロットリーディングになってきますと、質問はかえって具体的過ぎないほうがよい場合もあります)
タロット好きな人には、占い好きな人も少なくないでしょう。
占いの受動、能動の違いは、別の言い方をすれば、占いを頼るすべてとか、支配する情報としてしまうのか、あくまで情報の一部とするかの違いであり、占いを王様にするのか、自分自身を王にするかの違いでもあります。(マルセイユタロットの「王冠」の象徴に注目してください)
どの道、占いをやるのなら(やってもらうのなら)、受動的な態度ではなく、能動的に活用したほうがよいです。受動的な見方は、遊び的、当たるかどうかを競うものなどとしてエンターテイメント的なものと割り切ると、それはそれで楽しめます。
結局、自分の人生をよくするのも悪くするものも、その多くは、自分の意識と行動次第なのでしょう。
占いやタロットをうまく活用できるかどうかも、まさに、あなた次第なのです。(ただし、その活用方法自体の情報・知識は必要かもしれませんが)