ブログ

様々な「待つ」ことの意味

マルセイユタロットには、「待つ」ことを示唆するカードたちも少なくありません。

そもそもタロットの象徴自体、大きく分けて二元的なエネルギーの表現をしており、その二元をしっかり把握し、その中でバランスを取る現実感覚とともに、二元を統合して大元に回帰する、いわば空とか無(しかし光であり有の可能性のすべてである)の境地に到達することも示唆しています。

つまりは、現実への認識をうまく調整しながら、この世と経験を楽しむか、現実を超越して、自分自身が天国を創造する(宗教的にいえば 神の国に帰る)かということになります。

本当に私自身、長年マルセイユタロットをやってきて思うのは、「愚者」というカードがあるように、自分の自由性を尊重しているということであり、タロットは自分の選択によって、いかようにでも道を示してくれるという面白さです。

タロットの精霊の形ともいわれる「愚者」と、その「愚者」に寄り添う犬、その犬がいろいろな種類で現れ、私たちが「愚者」になる時、犬は姿を臨機応変に変えるみたいな感じですね。

話を戻しますが、タロットには、進め、変革、GOみたいなことを示すカードと、先にも述べたように、待つ、様子見、保守、ストップみたいなカードのふたつの表現や象徴があるわけです。

後者の代表で言いますと、「吊るし」です。このカードが出るということは、イケイケゴーゴー(笑)みたいなことでは決してないと思ったほうがいいでしょう。(ただし、例外はありますが、それはややこしくなるので、今回は説明しません)

さて、一般的に「待つ」ことで迷うのは、それが受動的か能動的かでも異なるからです。

だいたいにおいて、「つ」と言えば受動的なものですが、これにも、待たされる、待たされているという状態の時と、自分からあえて待っているという状態の時があります。

これが、受動的か能動的かの違いと言えましょう。

そう、受動的と思える「待つ」姿勢にも、よくよく考えると、その中に、さらに受動的なものと能動的なものとに分かれるわけです。(ここにも二元の働きが見て取れます)

能動的な「待つ」の場合は、あまり迷いや悩みはありません。あるとすれば、待つ姿勢を解除するタイミング、ゴーサインを、どう見落とさないかというくらいです。

とは言え、そのタイミングはかなり大事なので、慎重かつ大胆に見る必要があります。「吊るし」と「運命の輪」、「戦車」などが重なれば、このようなことも表すと見ていいかもしれません。

問題は、待たされる「待つ」です。

これもタイミングが重要とはなってきますが、自分から選択できないので、判断や次の行動が難しいわけです。

自分からはわからないのですから、ひとつには、自分が何とかしようとする気持ちをあえて捨てるというのもありです。

言い換えれば、相手や自然に任せることを自分が許し、支持するということです。まさに「吊るし」のように、手も足も出さずに待っているような感じです。

イライラしたり、早く動きが出てくれとあせったりすればするほど、そうできない状況と比較して、心は苦しくなるばかりです。

だから、もういっそのこと、いい意味でのあきらめをして、天や自然のタイミング教えてくれるという感じでいると、心は楽になります。

また劇的な変化を望むのではなく、一見、膠着状態、出口が見えないとあせり、苦しいかもしれませんが、その状況を悲嘆せず、一定期間の膠着状態を経験する必要があると切り替え(もがいても変わらないモードに今は入っていると考え)、やれることだけを淡々としていくというのもあります。

もちろん、今何とかしないと死ぬとか、本当に危機で追いつめられるという状況になれば別ですが、しかし、それも、そのような絶体絶命の大変な状況になっているという「お知らせ」であり、「タイミング」であると言え、ここは動かざるを得ない、変えざるを得ない、本当にあきらめるようなことに、事態は待機モードから変わっているわけです。

ここで、悪い意味での能動的な「待ち」についても言及しておきます。

それは、やるべきことがあるのに、できないことの理由を自分が作り、それで「待つ」という状態にしている場合です。

何が能動的なのかと言えば、動かない理由、待つ理由を作って、能動的に「待っている」ことです。言ってみれば、動かないことに能動的(笑)だというわけです。

私自身にもよくありますが(苦笑)、人は不思議なもので、やりたくない、面倒だと思うようなことに対して、何かと理由を作って、それに取り掛かかれない(着手・完遂することに向かわない)ようにします。

それはそれは見事で、自分どころか、他人に対してさえも、論理的で正当だと思えるような理由を創造してしまいます。

本当は感情的なものなのですが、そこに論理性(屁理屈ですが)をつける能力は、意外にどの人にもあり、相反しているとよく言われる論理(思考)と感情でも、蜜月関係(笑)になれば最強であることを、ここに見ることができます。

まあ、平たく言えば「言い訳づくり」で、それは職人芸の域にあるみたいなものです。

さらにこれがひどくなると、自分の中での言い訳がパワーと権力を持ち、カードで言えば「正義」となり、また「悪魔」とも結びつき、自分の行為を正当化して、誰の声も聞こえなくします。

ライトスピリチュアルや心理系の誤解では、「心の声」とか「ありのままの自分」という錯覚さえ起こすことがあるので、注意です。

そうなる前に、「待つ」ことの状態をもう一度振り返り、それが本当に苦しいことなのか、つらいことなのかを確認してみましょう。

待つ、何もしないということが一見楽なようでいても、それが自分にとっては本当は心苦しく、つらいことである、気になって仕方ないことであるのなら、自分の心や成長したいという気持ちに嘘をついているのかもしれません。

そのつらさは、動きたいのに、変わりたい(元に戻りたい)のに、状況・環境的にそうできないというつらさとはまた別です。

このままではダメだとわかっているのに、動かない、ずっと待っているほうが楽だからと、何かと理由をつけてそうしている、でもそれは本当は苦しい・・・というのならば、どこかで一歩踏み出し、厳しくても本心に即した行動に向かうほうが、結果的にはつらさは消えていくことになります。

やるつらさ、何もしないでいるつらさは、同じ(つらさの)ようでいて、まったく質は違うのです。

マルセイユタロットでは、ナンバーの前後や、ある並びの絵図が、ひとつのカードの問題性を解決したり、癒したりする場合があります。

「吊るし」の場合でも、詳しくは言いませんが、「法皇」や」太陽」とも関係し、そこからしますと、父性的なほかの力や段階が働いて「吊るし」の救済があると考えられます。

よって、自分一人で膠着し、出口が見つからない待機モードになってしまった人には、その問題を整理し、上の段階や別の見方から助言をしてくれる者(あるいは考え)の存在が打開の可能性を持ちます。

止まっている理由、止まりたい理由は、抵抗・ブロックでもあり、実は自分にとって大切なこと、大事にしていることでもあるのです。それを切り捨てられたり、否定されたりすると、余計にかたくなになってしまうおそれもあります。

誰かに相談する場合は、これらをきちんと見てくれたうえで、「吊るしモード」を解くことに、勇気をもたらしてくれる人がよいです。

また「吊るし」が長引いている人自身においても、よき方向に変わりたいことを心の中で宣言し、その支援を天や神(これは内的な高次の自分というように考えてもよいです)に本気に頼めば(祈れば)、事態はそれに見合うものに変化してくるでしょう。

それに見合うというのは、人によっては、まだ「吊るし」として「準備」、浄化・調整としての期間が必要な場合もあり、必ずしも、自他が物理的に、今、変化する必要があるわけではないからです。もちろん、必要な人には、そういうことが「神の家」として起こることもあるでしょう。

いずれにしても、自分を貶めないことです。言い訳モードの待機でも、人は安心安全でいたい気持ちがあるのが当然ですから、それも責められることではありません。

自分のことを尊重していけば、動かない理由をつけて自分を守っていることが、逆に自分を貶めていることにも気がつく時がやってきます。言い訳している自分を責めても、自己尊重とは逆のことをしているわけですから、本当の気づきは訪れにくくなります。

このあたりは、タロットを学んでいると、きっとわかってくるでしょう。


現実の肯定

マルセイユタロットの大アルカナで、現実的なことをもっとも象徴するのは、おそらく「皇帝」かもしれません。

もちろん、ほかのカードでも言えますし、そもそも、22枚(細かく言えば78枚)による完全性の象徴だと取ると、あらゆることは22枚に分かれ、表現されることになります。

ですからその意味においては、「現実」についても、言わば、「月」の現実もあれば、「13」の現実もあるのです。

と書いてみて、ちょっと面白いので、その続きを書きます。

さきほど「月」の現実と言いましたが、皆さんはこの表現で何を思い浮かべるでしょうか? 月のような現実をイメージすれば、はかない現実、淡い幻のような現実、夢としての現実・・・こんな印象が出るかもしれません。

とすると、それは現実と言うより、幻想に近いものとなりますが(苦笑)、人によっては、他人が幻想だと思うものでも、その人にとっては現実と認識しているかもしれないのです。

ある人にとっては、とても現実的な重要事項であっても、他の方から見れば、夢・幻、幻想を追っているようなことは意外にあるものです。

たとえば、最近の話題では、自粛中にパチンコに行ってしまうような人と、それを見ている一般人という構図にもあてはまるかもしれません。

パチンコに行く人にとっては、それは現実であり、彼らの現実においては大切なことだと本人は思っているわけですが、他の人には幻か夢を見ている人のように映るわけです。

というように、現実ひとつ取っても、22枚で検証すると、いろいろな見方ができます。

今日の話題はそれではありません。(前置き長くてすみません(笑))

だしゃれ(苦笑)ではないですが、「皇帝」と「肯定」、そして「現実」(の生活)のお話です。

私たちが、現実の生活をしていく中で、イキイキとして、楽しく暮らしている人と、いつも悩んだり、辛かったりの気分で過ごしている人との二種類があると思います。

いや、多くの人は、そのはざまに位置するのかもしれませんが、まあ、言ってみれば、明るくポジティブに生きる傾向の人と、物事を深刻にとらえ、ネガティブ気味に生きる傾向の人と、大分されるところはあるのではないかと思うわけです。

それは、実際に自分の状況が現実的によいとか、順調であるとか、恵まれているとか、先天的・後天的環境要因に左右されることがあるのも確かです。

しかし、やはり持って生まれた性格と言いますか、思考・感情のスタイルによるところのほうが大きい気もします。

そういう性質の違いのほかに、もうひとつ、現実をどれくらい肯定できるかによって、運や生き方、ひいては人生の楽しさも変わってくるのではないかと思います。

逆に言えば、現実を否定すればするほど、現実の神から見放されるかのごとく、自分が追い込まれ、苦しい状況になっていくところもあると考えられます。

これは、実は当たり前のような話で、この世、現実が否定されるのであれば、当然その中で生きるのもつらくなり、幸福や満足度、充実感を味わうことは少なく、難しくなるでしょう。

現実が肯定できれば、何よりも、自分の存在も肯定でき、この中で精いっぱい生きること、表現することもいとわず、それが楽しくもなるはずです。

最初にマルセイユタロットでは、現実をもっとも象徴するのは「皇帝」のカードだと言いました。ならば、「皇帝」を自分のものにすれば、現実はもっとしっかりとしたものとして、自分の中に立ち上がり、「皇帝」による肯定が行われるでしょう。

言い換えれば、自分を認め、自分自身を治める自立でもあります。

現実否定は、奥底には自己否定と心理的には関わっている部分もあり、自分を認め、確立することで自分が「皇帝」となり、現実を治める存在として自信が持てるようになって、現実(自分を取り巻くもの)は肯定されてきます。

自分が否定されると、その自分のいる現実の世界も否定され、居場所がいなくなり、現実は空虚なものとなります。それでは、現実が充実することはなかなか困難です。

自己批判、自己否定だけではなく、反対方向の、他人批判、他人否定も、現実否定につながり、つまりは現実肯定から遠ざかりますから、幸せ感も少なくなります。

現実肯定には、実際的なモノやお金の充実、自分の地位や名誉の向上などで、肯定感を増すことが考えられますが、それはある意味、危険であり、常に他人や量での比較に悩まされる代償も伴います(際限がない)。

しかし、それが一時的には効果的な人もいるので、方法論としては、人によってはありかもしれません。

心理的には、先にも述べたように、自己肯定感が持てるように自己の内面をクリアーにしていくことが求められますが、自分(の内的)方向以外にも、外方向に、少しずつ、愛するものを増やしていくということも考えられます。言い換えれば、自分がその存在を肯定できるものを増やすということでもあります。

愛の低次には、「好き」という感情のものもありますから、好きなものを増やすという方法でもよいですし、もっと狭めたやり方で、嫌いなものは多くても、ひとつでもよいので、とことんあるものを好きになるということを極めていくのも方法だと思います。

また、嫌いなものをフラットな感覚(好きでも嫌いでもない)に戻すということも一方法でしょう。

とにかく、「このために生きている」というモノ・対象・人、何かを見つけると、少なくとも、現実はそれがある世界ですから、肯定感が出ます。

それでも、もともと現実は否定されるような思想、考えを持ってしまう人はいます。

原理グノーシスなどでは、そういう、根本的な現実否定の思想と言えます。

そこで、これは私自身がそうなのですが、あるレベルの現実を肯定することは無理でも、この現実の中にある、ほかの現実を見出すという意識を持てば、あながち、この世界も捨てたものではないという肯定感が出ます。

この現実世界に隠された本当の現実世界を発見する目を持つとでもいいましょうか。(こうなると、一般に思う通常の現実は現実ではなく、むしろ幻想であるという考えになってきます) ゲームのクエストような感覚にも近いです。

現実を否定しながらも現実を肯定する、いや、新たな現実を見出す、創造すると言ったほうが正しいかもしれません。

いずれにしても、実際の人生を幸せにするためには、現実の肯定感というのは、とても大切なのではないかと思います。

それが純粋に持てる人は、世の中の状況や環境がどうあれ、いつも希望を持ち、明るく活き活きとして、そのために、実は現実のほうがそれに引き寄せられ(作り変えられ)、幸せな状態(環境も)になりやすいという仕組みもあるように思います。

言ってみれば、世界はよいもの良い方向に進んでいると素直に信じるような人と、そが実現する現実との関係です。

ですが、人にもいろいろなタイプがいて、性格も違います。

ひねくれ者や、天邪鬼な者、自分や現実がなかなか素直に肯定できない者、地球の長い支配的な歴史・状況の様相にどうしても合わない者もいると思います。私なども、こちらの部類が多分に性質としてあります。(苦笑)

それも役割と言いますか、選んだ個性であり、必ずしも悪いものではないでしょう。

それでも、現実にいる理由、肯定感が少しはあったほうが、自身の生きる意味も肯定されるはずです。

あなた自身が否定しても、親が、子供が、友人が、動植物が、自然が、地球が、果ては宇宙や神が、とにかく何者かがあなたを肯定しているのです。

なぜならあなたが現実(と人々が思っているこの世界)に存在するからです。


新たな「手品師」の誕生に向けて

マルセイユタロット、アルカナナンバー1、私たちは「手品師」と呼んでいるカードがあります。

ちなみに、ウェイト版などのほかのタロット種では、同じ数のアルカナは「魔術師」と呼ばれ、そのほうが一般的です。

しかし、マルセイユタロットの図柄を見てもらえばわかるように、このカードは大道芸を披露している人の絵であり、彼はテーブルの上で手品道具を見せ、やはり手品をしていると想定するのが、素直な見方だと思います。

ですから、「手品師」、もしくは「奇術師」、あるいは広い意味で「大道芸人」と呼ぶのがふさわしいと個人的には思います。

さて、これからの時代、この「手品師」をモチーフにした時代が新たに始まるのではないかと予想しています。

実は、タロットカードに時代を象徴させることもでき、それは逆に考えれば、タロットに時代の進展も描かれていると見ることができるのです。

そういうと、ナンバーごとに時代が進むのでは?と予想する人もおられるでしょう。確かに、それも一理あるのですが、ことはそう単純なものではないのです。

これは宇宙の進化の構造を考えないと見えてこないところがありますが、それだけに、宇宙の進化・発展のプロセスがおぼろげながらでもつかめてくると、その時、改めてマルセイユタロットを見直すと、タロットがすでにそのシステムを描ていること、タロットのシステムと宇宙のシステムがシンクロするように作られていることに気がつきます。

それはまた、自分の理解や気づき、解放が現れれば現れるほど、タロットは宇宙の秘密を開示させていくようなものになっています。

最初は、そうしたこと(タロットの象徴システムの基本知識)を誰かにに教わる必要はあるとしても、やがて、自分でいろいろと気がついてくるようになります。だからこそ、タロットは智慧の宝庫あらゆるものの象徴図と言われる所以になります。

話を「手品師」に戻します。

「手品師」について、書物やスクールでマルセイユタロットを学んだ人においては、主な意味に「仕事」として覚えられた人も少なくないと思います。

実際それは言えることで、しかも、アルカナナンバーが1であることで、現実的に暮らしていくための基本の「最初、始まり、第一の理」として、人との関わり、仕事を持って報酬を得て生活していく象徴として「手品師」をとらえてきたこともあるでしょう。

私たちの社会・暮らしを見ても、その意味では、ほとんどの人が「手品師」であり、それを経験していると言えます。まあ中には、「愚者」のように、仕事や定住性を持たず、フリーに生きている人もいますが。

そうすると、「手品師」になるということは、現実生活の基本をマスターする、経験するみたいな、ちょっと固い意味と言いますか、とても堅実な感じがしてきます。

しかし、最初にも述べたように、この「手品師」は大道芸人で手品をしているわけです。たとえそれが彼の仕事であっても、大道芸人は、今でいうサラリーマンではないでしょう。

中世から近世の頃のヨーロッパの風習・民俗性をもとに描かれているマルセイユタロットです。その頃の大道芸人と言えど、今でも芸を披露して生活する人がそうであるように、(特に収入的に)安定した確実性のある仕事とみなされていたわけではないでしょう。

ならば、この「手品師」の意味は、忠実に絵柄を見ると、今でいう雇用者、普通に勤務して仕事する人を象徴しているとは言い難いことになります。

もし、そのまま大道芸人の意味を中心に据えるとどうなるでしょうか?

すると、興味深いことに、これからの時代の基本みたいなものが、もしかすると見えてくるかもしれないのです。

突飛な話に聞こえるかもしれませんが、これからは、皆さんが大道芸人化すると考えるのです。

例えば、すでにユーチュバーなどが一般化してきまして、誰もが動画で発信することが容易になり、まるでそれは「YouTube」という舞台(大道)で、芸を披露する芸人たちのように見えます。

この芸もいろいろです。

料理を作る人もいれば、歌やダンスをしたり、釣りしたりする人もいる、難しいことを簡単に解説する人もいる、怖い話や陰謀論を話す人もいる、自分の趣味や得意分野を皆に見せる人もいる・・・とにかく皆さん、なにがしかの「芸」を見せているわけです。

これには、YouTubeからの広告収入が入るという「仕事」の面もありますが、それだけのために、これだけの人がYouTubeで芸を披露しているわけではないでしょう。つまりお金や生活のためだけではないのです。

今、Zoomなどのオンライン会話・会議システムが一般化しつつあります。そのことで、これまでより、例えば人に何かを教えたり、伝えたりする講師的な仕事をしてみようと思い立つ人もかなり増えている状態です。

今までは「講師」というと、ちょっと堅苦しく、何か遠い存在であり、教えるための設備や準備もなかなか大変だと思われてきました。

ところが、コロナウィルスのことがきっかけでオンラインでのコミュニケーションが普通になり、案外、簡単に自宅からでも、全国、世界の人にモノごとを伝えられるということがわかってきました。

前にも書いたように、リアル(実際)でのものと、オンラインでのものが相対化してきたわけです。

今はまだ、経済的な意味で生活のための労働があり、また「手品師」の意味は、経済的・人間関係的生活の基盤の確保ということが大きいかもしれません。

しかし、もし新たな時代に、これまでのような、とにかく経済ベースで仕事を選び、働かなくてはならないという状況が変化した時、人はその時存在するツールを利用して、ほとんどの人が何らかの発信をしていくのではないかと予想します。

言ってみれば、皆が大道芸人(パフォーマー)になるような社会です。

それで報酬をもらう人もいるかもしれませんが、報酬・生活のためだけに芸を披露するわけではないので、そこに大きな自由性があります。

本当の意味で「愚者」と向き合う「手品師」であり、「手品師」と関係性の深いカードと言われる(マルセイユタロットを学んでいる人にはわかります)「恋人」とも結びついてきます。

これは「手品師」のレベルや次元が上昇したものと言えますし、本来の「手品師」に回帰した状態と言えるかもしれません。

タロットは時代をそのまま反映させ、それぞれのカードの意味さえ変えていくようです。

「手品師」が1の数を持っていることは、すでに述べました。

まさに新たな始まりがある時、「手品師」はそれにふさわい新しい「手品」を習得し、披露するのです。

今から、昔風の「手品師」を脱して、新たな時代の「手品師」になるため、準備したり、実践したりしていくのも面白いと思います。

それには。まず自分自身を「愚者」のように思い、軽やかに次に渡り歩いていく気持ちも大事です。「愚者」を逆向きにしてしまうとわかるように、悪い意味でこだわりを持ちすぎると、いつまでも動けない状態・人物になってしまいます。

それと、仕事とか報酬(お金・経済)を強く意識し過ぎないことも大事です。

芸を披露して報酬を得るのはすばらしいことですし、それが仕事だといえるかもしれませんが、すべてをお金に換算する価値観のもとではそうであっても、誰かに喜んでもらえること、また自分自身が楽しめること、という内的なエネルギーとして見ると、必ずしもお金にごたわらなくてよいと思います。

労働報酬や経済的基盤のための芸だとしてしまうと、いくら誰もが簡単に自分のものを出せる環境になったとしても、人に見てもらうため、人から選ばれるためには、競争意識が働き、最初はよくても、次第に厳しい「売れる」芸人のための生き残り、熾烈なレース社会に入っていくことになります。

それは旧来の、仕事は厳しくて当たり前、苦労して当然、勝ち組になるために頑張る・・・みたいな意識に囚われます。(「仕事」をなめてかかれとか、楽がとにかくよいと言っているわけではありません)

旧来意識をはずし、もっと愚者的になり、自分がただ大道芸人として発信することだけでも、思ってもみなかった人とのつながり、展開が現れるかもしれません。それがこれからの財産になる可能性もあります。

あくまで仕事として、報酬を目指す(芸)人はそれはそれでまたひとつの道です。そこは簡単ではないと思いますし、才能の問題や、相応の努力は、今しばらくは社会や全体が変わらないと、続くと思います。

それでも、新たな時代に向け、仕事や報酬の意味だけにとらわれない「手品師」になっていくのも、もしかすると、あなたの可能性をもっと開いていくかもしれませんので、気軽にチャレンジしてみるのもよいと思います。


厳しい世界と優しい世界

皆さんの中で、自分は心が弱いと自覚している方がおられると思います。

かくいう私も、断然(苦笑)弱いほうだと思います。そんな私だからこそよくわかるのですが、「弱き」ほうへ向かう時、しゃれではありませんが、それは「弱気」になっているからだと言えます。

そこには心理的には自己防衛のようなものが働いていることも見えてきます。逆を言えば、そのため、強く成長するための課題が与えられているのだと考え直すこともできます。

ただ...この現実の世界は、あまりにも厳しいところがあるという思いも出ます。

スピリチュアル的なことで言いますと、もっと皆が幸せや楽を感じられる、生きやすい世界(星や次元)があるのではないかと、まるでそこが心のふるさとであるかのように、想起されることがあります。

そんなものは逃避だと言えばそれまでですが、もっと優しき世界、幸せな世界が、現実を超えたところで存在しているのではないかという憧憬のような感覚です。

確かにそんなことを思い過ぎると、現実逃避になり、それこそ、引きこもりや無気力な生活をしてしまいがちになります。

マルセイユタロットの教義にもあると考えられる「グノーシス」にも、実は、そんな理想のどこか、天国や桃源郷のような神の世界と、現実のシビアで、生きるのに必死な世界との対比を見て、後者は悪魔によって作り出された偽物の世界であり、本当の世界は前者で、私たちの魂が本来あるべき故郷、住むべき場所だと、神話的に象徴されているところがあります。

従って、グノーシス思想を原理主義的にとらえてしまうと、現実逃避の考え方にもなりやすいところがあるので、ある面、危険なのです。

心の弱い人の中には、現実というものが、普通の人以上に厳しくとらえてしまうところがあり、たとえ自分はよくても、他人や外の世界まで気遣い、悲嘆にくれてしまう面があります。その気持ちは私にはよくわかります。

しかし、ここであえて、スピリチュアルやグノーシス思想を逆手に取るような感じで、別の見方を導入してみましょう。

それは、「霊的な問いかけ」という意味では普通にあるような言える形式ですが、「何のためにこれを経験しているのか?」とか「何のためにそれがあるのか?」みたいな深い意味を見るやり方です。

これらの答えは、言ってみれば、すべて「学び」のためとしてしまえばそれまでなのですが、学びというと、何か修行めいた苦しみを生み出しかねませんので、単に学びのためという答えだけではなく、さらに「では、何のために学びをするのか?」と、何度か質問を繰り返していくことに、救いが見えてくる気がします。

今、個人的に思うのは、心弱き人がシビアなこの現実次元に生きているのは、個別の意味もそれぞれあるとは思いますが、スピリチュアル的に考えれば、宇宙全体の(進化・深化)のためと言えるかもしれません。

個我と全体というのは対比されるものですが、さらにそれさえも循環するものであるのが宇宙の仕組みのようにも思います。

私たちには、個我としての自立を、あるレベルにおいて完全に確立しなければ、全体へと復帰(還元)できない宿命やシステムのようなものがあると見られます。(そして全体はまた個別へと分かれていく道の繰り返し)

それはいわば、宇宙全体の呼吸のようなふたつのサイクル・動きと言えるかもしれません。

個別(一人一人)においても、その大きな動きは凝縮された形で表現され、つまりは、一人一人の自立が促される問題・課題が常に起きてくることになります。

心弱き人には、特に自立心より依存心が先行します。それは保護と挑戦、いわば陰陽、能動と受動、保守と革新みたいな二元表現の偏りでもあります。

一見、責任を強く感じるくらいのまじめさを持っていても、その実、完璧でないと、あるいは、安心と思えるサポートがされていないとできない、責任が持てないという心の構造になっている人がいます。

極端に言えば、チャレンジや改革に対する逃げであり、責任からの逃避、言い訳みたいなものです。

もちろん、チャレンジばかりがいいわけではありませんが、何事も、挑戦し、改革しないことには、現状を変えていくことはできません。

チャレンジして、自信を深めていくことができれば、すなわち、自立した自分がどんどん確立していくことになります。なぜなら、自立すること(真の意味で)と責任を持つことは同意義のところがあるからです。

ですから、自立ためにはチャレンジしていくことは不可欠と言えます。

おそらく、スピリチュアル的に言えば、人は誰しも完全性を持ち、心弱き人も強き人も、本当はいないのだと思います。

ある環境や条件、次元下のもとで、そうした性格や特徴を持つよう、付与されてきたものであり、表現方法のひとつだと考えられます。言い換えれば役割です。

もし自分が心弱き人だと思う場合は、それはそういう役割を自分が受け持っていると考え、弱さからくる逃げではなく、少しずつでもチャレンジし、責任と自信が持てるようにし、自立を促していくことにあり、結局それは全体としての寄与になるのです。一人一人の使命と言ってもいいかもしれません。

この現実世界では、例えば経済的自立などとして、自立の形(目に見える形・結果)が明確ですが、本当はエネルギーのようなものが大事で、自分はもう大丈夫!みたいなゆるぎない心的エネルギーが、宇宙にとっては重要なのではないかと推測します。ただ、現実次元においては、形も大切だということでしょう。

グノーシス的に言うならば、心弱き人が持つ理想の心優しき世界・天国に帰るためには、自分の役割を思い出し、それを果たしていくことがその道になるのではないかということです。

あなたは心弱き人ではなく、そうした役割を持ってここに来た、いわば挑戦者、チャレンジャーなのです。あえてシビアな(と感じるセンサーを持って)この世界に降りてきたのでしょう。

理想世界と現実世界が反転した関係にあるとすれば、弱い人ほど強い人になります。(笑)

この現実世界では、今より上のレベルでの平和や安楽の実現のためには、難しいことにチャレンジする仕組みになっています。これはマルセイユタロットでは「悪魔」と「神の家」の選択対比でも例えられます。

苦労しなければ、努力しなければ手に入らないと言っているのではありません。それぞれにおいて、自立を意識し、それに伴う責任を持つ道の選択をしていくチャレンジが重要だと言っているのです。特に心弱き人については、です。(でも、無理をするのではなく、少しずつでいいのです)

この世界は厳しいだけではありません。表裏一体、必ずバランスが働いています。ですから、サポートや支援、救い、癒しもセットで存在します。

厳しいと思っても、見渡せば同時に、あなたにとって優しい世界・人、物事は確かに存在しています。それは天上と地上という垂直な関係(神と人、祈りの関係)だけではなく、平行世界、同じ世界(人と人、実際の関係)の中にも厳しさとや優しさがあります。

つまるところ、それはすべて宇宙の愛の表現であると言えるのではないでしょうか。

厳しき世界の中の優しき戦士さん、あなたは宮廷(コート)カードの小姓(ペイジ)かもしれませんが、実は騎士(ナイト)でもあるのです。あの16人はあなた全員であり、それぞれの世界においての選択する(表現する)人間像でもあるのです。


モノと心の整理、浄化の関係

今、多くの皆さんの中では、これまで日常だったものが非日常化し、逆に非日常のことが日常化したため、前の記事でも書きましたが、物事の相対化、いわば、ひとつのことがふたつの関係性で成り立ち、ふたつは異質でありながら同質であると見ることのできる視点の獲得が起こってきています。

もし前の生活に戻りたいと強く思ったり、やたらとあせって、今後は、自分が勝者、優位に立ちたいと激しく思ったりすると、優劣みたいな感覚が残っていますので、つまりは均衡ではなく、どちらかに偏っていることになり、それでは第三の位置(新たな創造とも言えます)がわからないままになるでしょう。

ともかく、バランス的に多角的、あるいは両方の視点を持つことか、今の時期大切かと思います。

さて、それと関係する話になるのですが、今回は持つことと持たないことをテーマにしつつ、内と外をシンプルにしていく方向性を述べたいと思います。

ステイホームということで、外出や直接の人付き合いを自粛し、家での時間が多くなってきますと、やたらと無駄なものがあったことに気づいてきた人もいらっしゃるはずです。

現に、これはある面では困ったことではあるのですが、時間ができて部屋の中を見渡すと、余計なものが目立つようになり、整理して処分する人が増えたため、ゴミが増大したという話も聞きます。まあ、することがないから、この際、部屋・モノの整理整頓でもしようかと思い立つ人も多いということでしょうか。

こういう部屋のモノだけではなく、テレワークを実施する会社も増えたことで、今まで理想やアイデアの中にはあっても、実際にはしていなかったテレワークを本当に経験することで、毎日勤務していたことは何だったんだとか、家にいてもほとんど仕事が回るじゃないかと、仕事のやり方の無駄に気づいた人もたくさんいたと思います。

雇用者・社員だけではなく、そもそもの経営者陣自体がそれに気づいたということもあるかもしれません。

これも通勤するという方法とテレワークの形式の相対化とも言えなくはありません。(どちらがいい悪いではなく、ともに単なる労働形式の違いと真に認識すること)

こうして、モノや労働という目に見える分野において、無駄なものに気づいて、それがそぎ落とされ、新たな価値観が生まれる(正しくは気づく)ことになります。

これはこれまで、いかに余計なモノといいいますか、しなくてもいいことをしていた(やらされていた)、持たなくてもいいものを持たされていたということでもあります。

おそらくそれは、半田広宣さんの提唱されているヌーソロジー的には、マクロとミクロの三次元的空間感覚に支配されていることからも起きているものだと想像されます。(ヌーソロジーとマルセイユタロットのシステム・教義は非常に近いものがあると私は考えています)

私たちは、普通、自分を中心にして周囲に膨大な空間がマクロ的に広がっていると認識(感覚)していますが、それはあくまで、そういう認識に落ち込むレベルや次元に自分が閉じ込められいるからであり、本当は次元認識を上げて行けば、例えばミクロとマクロの感覚も相対化され、もうひとつの空間ともいうべきものが立ち現われ、空間認識が変わることで、私たちの感覚、思考自体も変化することが起きると言われます。

余談ですが、これは思考だけでなく体感としても言えます。師匠に習い、特別な教えの中で、個人が体感から入って本質的な法則を知るのが従来の神秘的実践修行であり、アイデア・論理から入って、誰もが普遍的に体感していくのがヌーソロジーみたいなところがあるように思っています。

私たちが大きな空間の中のちっぽけな存在であると思っているので、自分自身を大きくするには、物質的には空間を埋めるほどのモノや、気持ち(感情)的には、心の隙間を埋めつくす、他人からの賞賛や承認、許可、単純ににぎわいがほしいと思ってしまうのだと考えられます。

もうひとつの空間とでもいうべきものが現れ、認識できるようになると、自分の中にすべてがあるという感覚となり、モノや心がエネルギーとして表現されているようなことがわかってきて、物理的・目に見える普通の世界の認識が反転し、モノや他人の声で満たして優位に立つ、あるいは自分の欠損を補うという発想(感覚)は、ミクロ・マクロの相対化に応じて減っていくと思われます。

あと、別の見方として(まったく上記と関係ない話ではなく、むしろ関連性は濃いのですが)、モノと心を同じように見ていくというものがあります。

部屋の中がきれいになったのに、何か心が落ち着かないという経験はないでしょうか?

もちろん、たいていは、部屋が整理され、きれいになれば、心もすっきりするということは多いです。

このことからも、モノと心、モノを見ている自分の気持ちと、モノ自体から発せられるものが自分かの気持ちを動かしている(反応している)という両方のことが見て取れますが、要するに、モノの状態によって自分の気持ちも変わり、逆に自分の気持ちによってモノの状態も変わるということです。

きれいにしようと思った時から、モノはすでに動き始めているようなものです。

しかし、モノはきれいになったのに心がそうではないということもあるのはどうしてでしょうか? これはやはり、厳密な(本当の)意味ではモノはきれいになっていない、そこにあると考えたほうが、なんだか論理的のようにも思います。

スピリチュアルな言い方をすれば、エネルギーがまだ残ってるとでも言いましょうか。

例えば、失恋して、すべて思い出の品は処分したはずなのに、まだ心は晴れない・・・というのも、感覚としては同じようなものでしょう。

そうすると、この「自分の心に残っているもの」こそが本当の重さ(モノ)であり、それを何とかしないと、見えているモノを処分しても、半分は居残ったままなのかもしれません。

とは言え、モノを処分すれば心がすっきりすることがあるのも確かですから、やはり、モノと心というふたつの次元が存在し、それらがリンクして、完全に均衡が取れている時は、モノと心の世界も同調しますが、不均衡な時は、見えないところで、認識のズレが生じていて、まさに「心残り」という感覚が現れるのではないかと思います。

おそらく、見えない世界、もうひとつの空間がわかるようになれば、そこに人やモノがまだいる・在ることが気づくようになるでしょう。霊的にはエーテル空間にいるような存在たちです。

それらは自分のエーテル(生命エネルギー)を通して投影されているようなところもありますから、自分の心がきれいになれば、それらも変化し、消えていくことになるでしょう。(消えるのではなく、おそらく別のものに変わる)

このあたりは、実は異世界系やエネルギー系を扱うアニメーションなどでは、よく表現されていることです。

何が言いたいのかと言いますと、結局、自分の人生もそうですが、世の中全体をよくするためには、見えるものだけてはない、私たちの心の中も重要であり、その掃除とでも申しますか、浄化が必要であるということです。

モノの無駄がわかってきた今、シンプルな生活でも十分であり、むしろそのほうが自然であったことに気づいてきても、心の中が重たいままでは、また活動再開となってくると、モノや他人の声で埋めようとすることに戻ってしまう恐れがあるわけです。

さらに、これからは人類全体としての集合カルマのようなものを浄化していくことが急速に起き、それが個人としては、自分の重たい心、悪い意味でこだわり過ぎている、無意識層のデータ・束縛心のクリアリング課題として生じてくると思われます。

以前よりも今のほうが、むしろセラピーを受けたほうがよい人もいるかもしれません。

言葉としては癒すということになるのでしょうが、癒すためには、囚われていた思いを手放していける処方・方法がいるということです。ただの対処療法では中毒を起こすことがあります。

わかりやすく言えば、ドラッグ(快楽)に頼るかのような一時的な癒しです。セラピーであっても、それは起こりうることがあります。セラピーによって脳内の快楽物質で出て、快楽を感じ、そのため、またセラピーを受けたくなるという悪循環です。

またいずれセラピーによる中毒症状については書くこともあるかもしれませんが、これは提供する側も、受ける側も注意する必要があります。

いずれにしても、モノの整理もいいですが、心の整理も、この際、積極的に取り組むと、これからの時代、自分自身が生きやすくなるのではないかと思います。


Top