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カードによる選択基準
悩んでいる時に、指針や線引きとなるもの(考え方)にはいろいろとあると思いますが、タロット的にも実はたくさんあります。
言ってみれば、全部のカードにルールや意味があって、その基準によって選んだり、分けたりすることも決まってくるくらいです。
であれば、迷った時に、カードを引けば、そのカードの基準でやればよいのだということがわかります。
ここが、タロットが選択に使える理由のひとつとなります。
ただ、この方法の場合、あまり、カード(の枚数)を引き過ぎるより、シンプルに一枚とか、数枚に留めておくほうが、かえってわかりやすいです。
もちろん、タロットによる選択や決め事の方法は様々にあり、たくさん引いたほうがいいこともあります。また選択肢ごとにタロットを引くやり方もありますし、それはそれで、面白い方法となります。
ところで、そういう、タロットのルールや意味合いにおいて、物事の選択基準とすることで言えば、例えば、「戦車」とか「力」のカードに関係する(と思われる)基準があります。
新型コロナウィルスの問題がある今の状況などは、まさに当てはまるかもしれません。
それは、自分ができることとできないことを分ける、いわば、力のコントロール範囲を見極めるというこです。
自分では力が及ばない、コントロールできないことと、自分ができることを明確に見極め、自分のできないことに注力しても無駄ですから、自分が確実にできることに集中するというものです。
新型コロナウィルスのワクチン開発や、国全体しての防疫システムの構築、はたまたウィルスそのものを撲滅することは、あなたが医者や関係者でなければ、普通の人、一人の力と範囲では無理でしょう。そのことに心配や関心はあっても、実際にはどうすることもできません。
そして、自分の今の状況と力で、できることは何か、肝心なのはこちらであり、これを疎かにしないということですし、できるのはそれしかないという割り切りと冷静さを保つことにもなります。
いろいろと大きなこと、自分ができないことに悩んでいても、疲れてしまうだけですし、自分がコントロールできないことにエネルギーを注いでも、非効率、実効がないわけです。
このようにタロットカードからの導かれる選択基準によって、物事や自分の行動について、決めることができるのです。
社会情勢のマイナス・プラスと見出される意味
2/2に、新型コロナウィルスの記事を書きました。
占い的に見れば、それほど悲惨にはならないと思えるタロットの展開ではありましたが、注意書きしたように、それは対策・対処によって変わってくることも示唆されていたことも付け加えていました。
現状、どうも懸念されていた方向に進み、いよいよ、二次感染、三次・四次感染と思われる人たちも現れ始め、広くウィルスが拡散されているニュアンスが濃厚となってきました。しかし、これはほとんどの人が、世界の情勢、日本政府・行政の対応を見ていれば、予想できたことではないかと思います。
感染者が発見されてきたのも、中国武漢などの渡航関係者、濃厚接触者以外に検査の範囲が拡大してきたからと言え、つまりは、すでにウィルスはかなり前から広まっていて、一般向けに、ただ検査や調査がされていなかっただけということになります。
検査キットの製造問題、不安やバニックを避ける意味合いなどあっての措置だったとは思いますが、正確な情報とその公開、迅速な決断が逆にパニックを抑止すると考えられますから、隠蔽とか下手な忖度、気遣いは、かえって悪手となりかねないと思います。
こうなりますと、私たちも、ウィルス問題が次の段階、フェーズに入ったと認識し、それなりの対応と精神が求められてきます。
ウィルスの拡大と感染の危険ということそのものも、大きな不安と問題ではありますが、日常の活動が抑制され、全体的に引きこもり傾向になってしまうのも、いろいろな意味で問題だと言えます。
しかし、2/2の記事でも書いたように、このようなマイナス面にも、必ず、それに見合うプラス面があると推測することができます。
まず、当然ながらウィルスへの対抗策が医学的にも進まざるを得なくなりますから、医学の進歩、ウィルスと防疫に関する実践的な知識と経験も増え、今後に必ず役立つはずです。仮に、まことしやかにささやかれる生物兵器や人工ウィルス説だとしても、それに対する善なる力の増大・対策も出てくると思います。
また、日本では、熱があっても仕事に出るなど、あまりにも奴隷のような働き方が普通に行われていて、このような労働と環境の常識観念が大きく変化して、覆っていく可能性があるでしょう。私の公務員時代でも、熱が39度もあるのに出勤して、残業までして頑張っていた方がおられました。いくら仕事とは言え、こうなってしまう日本人の心、労働環境・仕組みは非常識ではないでしょうか。
すでに進みつつあった在宅ワーク・テレワークということも、これを機に、最初はやむを得ずの形からであっても、やってみれば案外うまくできてしまい、今後、当たり前になっていくことも予想されます。
あと、生活においても、引きこもりは、悪いことばかりではありません。
仕事が在宅ワークになり、外での活動が控えられるようになると、家での時間が増えることになるでしょう。
ということは、それだけ家族とか自己に向かう人も増えるわけです。ここで家族との関係を見直したり、温め直し、絆を深めたりすることもあるでしょうし、自分自身と向き合い、自己研鑽や自己学習に集中することもできるでしょう。
中には、精神的な学び、霊的なことへの関心に向かう人もいるかもしれません。
そして、一度内に向かった目で、再び外を見れば、これまで普通に思ってきたこと、常識だと疑いもしなかったこと、ただ惰性で毎日流していた日々のことを、違った目で見られるようになるはずです。
マルセイユタロットに流れる教義で言えば、グノーシス(自己の神性の認識)に目覚めるきっかけとなるかしもれません。
これまでは、自分を世界(環境)に合わすことができず、ただ無理にでも合わせる生き方をしてきたかもしれません。またお金とか他人の評価ばかりを気にして、それが自分の価値の重要なものとして思い込まされてきたこともあるでしょう。
しかし、ひとたび、自分の内なるものに向かえば、おかしいのは、常識と思っていた「みんなの」世界のほうで、自分本来は何もおかしくはなく、むしろ、違和感を持っていなかった自分のほうが変であったことに気づくでしょう。
2/2の記事でも少しふれましたが、すでに、皆さんも、このことには気づきはじめていると思います。
人が人として尊重されない世界、これが今の現実(実はずっと続いていた世界観、世界のルール)でもあるのです。
別に陰謀論に加担したり、世界が悪い!とひねくれたり、するのではありません。
言いたいのは、人として本当の自分、人間(いのち・調和)というものを大切にしていくことを主としていくのであれば、こんな今の世界のシステムにはならないだろうということです。
だからと言って、過激な社会運動をしましょうというのでもありません。
一人ひとり、本来の自分に戻る機会が、このような危機的なことで、実はやってきているのだということです。
日本の場合、本当はあの東日本大震災と原発事故の際に、大きく転換する必要がありました。
その可能性はかなりあったと思いますし、それだけの犠牲があった危機と事件でした。
その犠牲を、私たちは、再び、真に思い起こす必要があります。新型コロナウィルスで犠牲になる人を少なくするためにもです。
犠牲による変革は、古くからの宗教的な型です。
昨年、新海誠氏のアニメ映画「天気の子」が公開されましたが、新海氏の意図かどうかはわかりませんが、犠牲によって望むことや変革を期待する精神構造からの転換、一人一人の自らの気づきによる次元の上昇・ステージへの移行が示されていたように感じました。
あれも、長期の尋常ではない雨降りという、“異常な事態”を設定にしていたものです。
今回の新型コロナウィルスのことも、霊的にはやはり、何かの示唆であるように思います。
ちなみに、コロナという名前はウィルスの形が王冠とか太陽のコロナみたいなものなので名づけられたと言われますが、太陽は自己の本質を示すとされ、ひとつの時代とバージョンの象徴でもあります。(太陽系という、ひとつの世界の象徴にもなる)
マルセイユタロットでは「太陽」のカードは、アルカナナンバー19であり、奇しくも、今回の新型コロナウィルスは、2019年から発生流行したということで、COVID-19という名前になり、19の数が当てられています。これは常識的には単なる偶然でしょうが、見えない世界、霊的な示唆としては、何か意味があるのかもしれません。
しばらく事態が落ち着くまでは、大変だとは思いますが、だからこそ、内に向かう時間で、皆さん、何か重要なことを思い出していただければと思いますし、社会がよい意味で変わっていくきっかけになってほしいものです。
「斎王」と「法皇」の学び
今日は学びをテーマにして、マルセイユタロットの「斎王」(一般名「女教皇」)と「法皇」(同「教皇」)について述べたいと思います。
マルセイユタロットにおいて、「学び」の象徴や意味は、究極的には自己の内面におけるものと言えますが、その内面も単に心理的なものを指すのではなく、自己にある、神性的なものを思い出すための学びといったほうがいいかもしれません。
つまりは、トータルな自己の統合や回復という意味です。
しかし、よく考えれば、内なるものと言っても、外のものとの違いは、実は、突き詰めてしまえば同じものと言え、例えば、物理学的に見ても、量子のような小さな世界で統一して見れば、内も外もないのがわかるでしょう。
心理的な意味においても、内なるものが外に投影されることもあり、スピリチュアル的には、ただひとつの世界を(二面から)見ているだけと表現できますし、また、内と私たちが普段思っているものこそ外的世界で、逆に言えば、外的世界が内なるものなのかもしれないのです。
おそらく、「斎王」と「法皇」の違いも、そうした、あるひとつの二面性、内と外が違うようで同じことを二枚で表しているように思えます。
そして、ふたつのカードは、「女帝」や「皇帝」に比べ、精神的・宗教的なカードに見えます。
ここから、やはり、二枚は内面的なことに関わるカードであることはわかるでしょう。
しかし、「斎王」は確かに、内に秘めている感じが強いですが、「法皇」のほうは、弟子や聴衆と思しき人たちの前で、何かを言っているように見え、その姿は活動的であり、外に関心があるようにも感じます。
それでも「法皇」は、一般的には教皇などと呼ばれ、キリスト教の教皇様を彷彿させますから、たとえ教皇様そのものではなくても、カード人物の姿・形からして、何か宗教的な権威者であろうことは想像できます。
とすると、「皇帝」とは別の役割であることも推測できます。そうやって論理的にカードを見れば、「女帝」と「皇帝」に対して、「斎王」と「法皇」という別の役割の人たち(ペア)がいることも理解でき、当然、意味や象徴性も異なってくるわけです。
さて、ここで「学び」をテーマにして考えてみましょう。
「斎王」と「法皇」は、ともに精神や内面、あるいは外向きであっても、宗教的な人物の姿から、実際的なことや政治的なことよりも、やはり精神的・教育的・理想的なことに関わっていることがイメージできます。
学びは、実際的なことの学びも当然ありすが、学んでいる最中そのものは、実際的ではありません。わかりやすく言えば、学びと実践は(次元や場面が)異なるということです。
もちろん、実際に物事をやりながら学ぶというスタイルはあります。しかし、それ(行動)を学びだと思う意識がなければ、学びにはなり得ません。
つまり、学びは精神や心、意識にあるのです。
内面や精神的なものをイメージさせる「斎王」と「法皇」は、このことをもっとも強調しているのだと思います。
ただ、「斎王」と「法皇」では、女性と男性の違いもありますし、「斎王」は一人だけであるのに対し、「法皇」のカードでは、複数のほかの人物たちが描かれています。
ここから、学びの方法が違うことがわかります。
単純に言えば、「斎王」は本も持っていますので、独学・自習であり、時間的には予習・復習も入りますが、「法皇」は、聴く側の人物に自分があてはまる場合は、法皇から教えられる者(生徒)たちとなり、時間的には現在の学習そのものになります。
さらには、自分が「法皇」であれば、自らが教える側、先生・講師になるわけです。一方の「斎王」は、その気になれば人に教えることはできるのかもしれませんが、絵柄だけからすれば、教える段階にはない、あるいは他人に教える役割ではないのかもしれません。
「斎王」は、女性の宗教的な権威者のように見えますから、ある意味、高い位(レベル)の巫女的な女性と言えます。
巫女自身がたとえ知らなくても、その文字自体が示すように、まさに、人の間に立ちながら、上(天上)と下(地上)をつなぐ女性なのですから、言わば、神を降ろすことができる者で、すると、その知識は、人間でありながら神そのものと言えます。
ということは、「斎王」は学ぶ必要があるのか?という疑問にもなってきます。これは、女性性における「理解」の本質の鍵を握る秘密であり、女性の皆さんは、「斎王」に注目することは、とても有意義だと思います。
古代では、なぜ巫女的な人が活躍したり、重視されたりしたのかの答えにもなってきます。
一方の「法皇」は、話す(教える)ことで実は自らの知識・学びも向上させているように見えます。
このことは、人に教えることをしている方にはよくわかることだと思います。人にものを教えることは、自分の今までの理解だけでは難しく、人に伝えるための工夫、技術、さらなる物事への理解度が必要となります。これは言い換えれば、一般化とか普遍化の技術です。
「斎王」が自分だけの理解で済むのに対し、「法皇」は他人への説明、他人に理解させることが必要になります。「法皇」の力は、男性性に関係します。
たとえ、高度で深いことを知っていても、それをほかの人にうまく教えたり、伝えたりすることができるかは別です。
神様も、普通の人間に、正確に神様の知っていることを伝えるのは苦労されるでしょう。(笑)
このように見てくると、学びの根本は精神や意識にあるのですが、自分だけの範囲で学びと理解を留めておくか、他人にまで範囲を広げ、シェアしたり、さらなる刺激を受けたりして学びの質を高めるかによっては、「斎王」か「法皇」かの違いも出てくると言えましょう。
どちらかの優劣の問題ではなく、まさに自分にとって「学び」をどうするかによります。また、現実問題としての、時期や方法、自分の段階・レベルにもよります。
ですから、あなたは今、「斎王」になる必要がある場合もあれば、「法皇」でなければならないこともあるわけです。
また、自分の希望や思いとは別に、実際では、強制的に「斎王」や「法皇」にならなければならない環境・状況が起きます。
「学びは意識である」と言いました。
従って、あなたが意識的に「斎王」になる、「法皇」になることをすれば、まさに、「学び」は、そのスタイル・性質によって、あなたのものとすることができるのです。
タロットに向いている人とは?
以前にも何度か書いたことがありますが、「自分にタロットが向いているか?」と質問される方がいます。
この質問は、学ぶ段階によっても、言葉は同じものが出るのですが、中身が違っていることがあります。
まだタロットを学んでいない時は、純粋な不安と言いますか、自分がきちんと学習していけるだろうか?とか、もし、一緒に学ぶ人たちがいれば、その人たちについていけるだろうか?(落ちこぼれないだろうか・・・)など、タロットに限らず、誰しもが、何かを新しく始めたり、学んだりする時に感じる心配から発するものが多いです。
次に学びに入って、中盤あたりになってきますと、自分の理解や技術について、あせりやいらだち、自己否定みたいな感情が出てくる人がいます。
せっかく思い切ってタロットを学習する世界に飛び込んではみたものの、たとえばリーディングの技術とか、タロットへの理解とか、低いレベルのままでいることに愕然とするとか、どうしても他人と比べてしまって、自分はその人に比べて学習理解度、活用度が劣っているとか、感じてしまう段階です。
教える側から見ていると、それほど本人が思うより悪いものではなく、むしろ、かなり理解も進み、技術も上がっているのに、自分で自分を否定しているような、ちょっと自分に厳しくし過ぎのところもあるように感じます。
これは、理解が上がったからこそ、理想の状態というのも次第に具体化してきて、それに届かない自分と差も明確になり、最初の頃とは別のあせり、落ち込みのようなものが出ると考えられます。
また、初めのうちは、わからないことがわからない(笑)という状態で、そもそも質問する段階でなかったり、質問内容も具体的でなかったりします。
ということは、自分の理解や学習状況の把握があやふやであるということです。
しかし、学習が進むと、それなりに自分の状態もわかるようになり、タロットの理解度も進展します。すると、逆に、できていないところが目立つようになるのです。(これは人の性格や性質にもよります)
まあ、まじめな人ほど、自分を追い込んだり、ネガティブなところを発見しやすかったりするわけですね。
逆に言いますと、いい加減な人や、あまりタロット学習に熱が入らない人は、自分の状態もあやふやなままですから、できていないところもそれほど気にならないわけです。
まれに、超ポジティブな人もいますので、そういう人は、いいところだけ、プラスなところだけ見ようとするので、向いている・いないなど考えず、いつも楽観的、前向きと言えます。(これが必ずしもいいとは言えませんが、結局は人それぞれです)
このように考えますと、学習中盤での「自分はタロットに向いているのか?」という質問・疑問は、実は学習して知識や技術の理解が上がったからこそのもので、裏返せば、それだけタロットに対して真剣であること、もっとタロットに関して向上させたいという思いがあることになります。
私は、いまだに、実は、タロットに向いていないのではないかと、自問自答、いや、自虐に近いでしょうか(苦笑)、悩むことがあります。
ですが、私の場合は、すでに何人もの生徒さんを教えておりますし、先生自体がタロットに向いていないなどと悩んでいては、それこそ生徒さんに失礼ですから、切り替えもしております。
後先になりましたが、学習と実践がさらに進んできて、タロットを人に教えるようになっても、先述したように、自分はタロットに向いていないのではないかと思うことはあるのです。
これはまた、言葉は同じでも、中盤の時との内容とは違う悩みだと言えましょう。
私の場合で言いますと、使命とか、仕事とか、そういう観点からのものになります。果たして、私は、タロットを皆さんに教えるような人物なのだろうか? そこまでタロットを理解していると言えるのか? 使命や天職として言い切れるのか?みたいな感じです。
こうなると、向き・不向きというより、タロットと自分の人生みたいな、ちょっと大げさな印象にはなりますが、自分のライフワーク的なテーマとして、タロットが選択されるのかどうかという問いでもあると言えます。
このように、学習やタロットとつきあっていく様々な段階において、いつも「自分はタロットを扱っていいのか、タロットをしていていいのか、タロットに向いているのか・・・」のような質問・疑問は生じます。
しかし、安心してください。
どの段階、シチュエーションでも、これだけは言えます。
それは、「あなたがタロットが好きならば、それだけでタロットに向いている」ということです。
理解や技術の問題は、人と比べたり、理想と現実のギャップが大きかったり、単純に修練や努力が足りなかったり、はたまた、壁にぶつかり、足踏みしていたりするだけです。
それよりも、もっとも大事なのは、自分(あなた)は、タロットが好きかどうか、この一言に尽きると私は思います。
「好きこそものの上手なれ」ということわざがあります。タロットに関しても、まさにその通りだと言えます。
上手になるかは、人それぞれの進み方があり、早いか遅いかの違いは確かにあるでしょうが、好きでずっとタロットをやっていれば、必ず、上達し、タロットからも愛され、タロットを理解する道や縁がいろいろとあなたに運ばれて来ます。
それはマルセイユタロットでも象徴されています。
例えば、「恋人」カード、これにはいろいろな象徴・意味がありますが、ひとつには、惚れるものという意味もあり、いわゆる好いた・惚れたを考えることもできます。人に対してだけではなく、モノとか趣味みたいなこともあり得ます。
そして、この「恋人」カードと同じ絵柄構造を持つ「審判」は、さらに大きな愛のようなもの、覚醒といえる、目覚め・気づき、レベルの上昇が示唆されます。
この二枚を並べると、好きなもの、何かを好きになって熱中していくことで、それがやがて愛に変わり、自分の中にあった神性的なものが目覚めると例えることができます。
タロットで言えば、タロットが好きで、タロットの活動をしているうちに、今度はタロットから愛され、自分の中にある高次の愛が芽生える(思い出す)というものでしょうか。
人で言えば、人を好きになることで、その人から愛されなくても、自分の中に存在していた「愛」というものを知り、その尊さで自分を肯定し、自己を再生することができるみたいな話です。
人の場合は、相手から愛されるかどうかは相手次第ですが、タロットの場合は、私の考えでは、自分がそのタロットが好きならば、間違いなく、そのタロットからあなたは愛されると思います。
タロットの場合は、あなたが好きで愛しさえすれば、誰でも相思相愛になれるのです。
もちろん、好きなことと、技術・知識の向上は別かもしれません。
ですが、好きでないと続けられませんし、タロット愛があるのとないのとでは、いくら技術や才能があっても、やってもらっている人には何か冷たい印象になりますし、タロットも力を貸してくれない気がします。
やはり、自分を嫌う相手、無関心である相手を好きにはなりにくいもので、タロットも同じく、自分を好きでいてくれる人には何かしらの好意を返してくれるものです。
タロットは人間的ですし、魔術的にはタロットの精霊と呼ばれる存在がいて、彼ら(彼女ら)と仲良くなる必要があるのです。
魔術的でなくても、タロットとの関係がきちんとできているかどうかが、実は、タロット活動においては、ものすごく重要なのです。
あなたがタロット(厳密にはタロットの種類にもよりますが)が好きなら、大丈夫、あなたはタロットに向いていますし、タロットからも選ばれているのです。
一枚引きのある技法
タロットの活用法は、ここでもいろいろと述べています。
タロットの使い方は、自分に使うか、他人に使うかで、まず分けていくことができます。
それから、目的にもよります。占いで使うか、セラピーに使うか、問題解決に使うか、自己啓発、自己認識や成長に使うかなどです。(これもタロットの構成そのものによって、実は分けていくことができます)
そのような様々な使い分けがあるのですが、今日はその中でも、技法としてはもっともシンプルと言える、一枚引きによって自分を観察する方法について、書きます。
一枚引きというのは、タロットをシャッフルして、一枚だけカードを引くというやり方(展開法)です。なお、基本的に正逆はとらないほうがよく、一枚そのものを象徴として見ます。
その名の通り、一枚だけカードを引くので、一番少ない枚数の展開法になります。それだけに情報量が少ないので、これをもとにしたリーディング、特に問題解決的な読みをするには難しいものとなります。
反面、シンプルゆえに、自分に当てはめたり、心理的・環境的投影・反映として見たりするには適しています。
この一枚引きを、ある時間的スパンを決めて実行していきます。
具体的には、一日単位、週単位、月単位、年単位というのが(時間的スパン・間隔)として挙げられるでしょう。
一日単位の場合は、毎日引くことになりますし、それぞれ週一、月一、年一みたいな形で引くわけです。
この時、使うタロットのパートは、大アルカナだけのほうがよいでしょう。ここで述べている「タロット」とは、マルセイユタロットのことを指しますから、ほかの種類のタロットの場合は、小アルカナを入れたほうが効果的なこともあります。
マルセイユタロットでは、特に小アルカナの数カードの絵柄が記号的なものになっており、そこから何かを事柄をイメージしたり、当てはめたりするのは少し難しいこともあるので、絵が具体的になっている大アルカナを使うほうがこの場合はよいのです。
それで、引いたタロットをどう解釈するかです。
時間的スパンを年単位からすべて活用する場合は、大きな時間スパンのものを自分における大テーマとし、次第に時間スパンが細かくなるにつれ、そのテーマが細分化(具体化)されると考えます。
例えば、年が「星」、今月は「運命の輪」、今週は「女帝」、今日は「手品師」が出たとすると、月(何月とかのその該当月)については、「星」と「運命の輪」を併せて考え(「星」にするには「運命の輪」を動かす、あるいは動く)、週については、それに「女帝」(計画やアイデアを週ごとに決めて行く)が加わり、さらに今日となれば、「手品師」も追加していく(例えば仕事の面でそれを実行する)となり、ちょうど、大アルカナから小アルカナへと移行するような感じで、具体性を持っていくように読みます。
ただし、これでは一枚引きなのに、結局、四枚引き(笑)みたいになってしまいますので、シンプルさを追求したい場合は、それぞれのスパンを切り離して、別々に読んでもOKですし、他の時間スパンは引かず、ただ毎日引いていくというパターンのほうがよいかもしれません。
毎日引くやり方の場合は、統計的な手法も使い、そのひと月が終わる時に集計し、どんなカードが一番出たのかとか、逆に出なかったカードを確認する、女性のカードが多いとか、一人の人物のカードがよく出たとか、上の立場を示すような感じのものが目立つとか、傾向を読み解きます。
不思議なもので、同じカードがその月はよく出たり、ある一定の期間が過ぎると出なくなったりします。
こうして傾向を見れば、自分の心の動きと環境がシンクロして、カードに出ていることがわかり、いろいろと整理できます。
このようなやり方を取る一枚引きでは、カードの意味を読もうとしたり、なんとかカードを解釈しようとやっきになったりするのではなく、カードが自分に問いかけているというように、タロット側から自分へ向けてのベクトルで見つめることが重要になります。
自分からカードへのベクトル(方向性)が強すぎると、単なるリーディングや占いの練習になって、飽きてしまいます。また同じパターンしか読めないので、あまり技術的な進歩もありません。
それよりも、カードが何かを語り掛けていると見て、その問いに答えよう、応えようとしたほうが面白いですし、結局、自己分析にもつながりやすいです。
と言っても、この方法でも、飽きてきたり、同じような質問しか浮かばなかったりすることもあり得ますから、そういう時は、カードの絵柄を細かく見て、メインの人物だけではないところからの問いかけを想像するなどしていくと、同じカードからでも別の見方や質問が出てきます。
また、直感や感覚も大切にして、およそカードの普通の意味とは異なる内容が浮かんできたとしても、それを受け入れます。つまりは、自分の感じていることをカードに託して、もう一度、自分が捉えなおす(自覚する)ことが重要なのです。
私はあの人に対して怒っていたんだとか、ああ、あの行為はあれに忖度していたなとか、意外にあれは楽しかったかも・・・みたいな、抑圧したり、取り繕ったりしていた気持ちが、カードを見ることで表出することがあるわけです。
人間、押し込めた心は、やがて溜まって爆発することがありますし、自分の気持ちに嘘をついたり、気が付かなかったりしていくと、結局、他人や世間の情報に流される人生とか、自己否定から不幸な状況を招き寄せる結果となりがちです。
いわば、心のクリーニングと言いますか、発散や自覚をして、そこからの自己尊重につなげていくのです。
マルセイユタロット、特に大アルカナは、人の心の元型(皆が思うパターン)を象徴すると言われます。
ですから、特に22枚の大アルカナのカードを引くことで、自分の意識や心の何かが現れたり、投影させたりすることができ、まさに、心の鏡として扱うことが可能です。
毎日、気持ちや心は変わっていきますし、毒のような、ネガティブなものもあれば、明るく楽しい気分のものもあります。その感情に気づくことで、ネガティブなものは浄化され、ポジティブなものは強化、あるいはバランス化されます。
一年、これを続ければ、相当あなたは自分の心の扱いの達人になっているのではないでしょうか。それはまるで、荒ぶるライオンをコントロールする「力」の女性のような存在です。
毎日できなくても、先述したように週単位とかでも、やってみる価値はあると思います。
話は戻りますが、年、月、週、日の、四つの柱ごとに一枚引きをすることで、毎日複数のカードの連繋を見ることになります。もちろん、同じカードが出る場合もありますので、その時は、さらにそのカード(におけるテーマ)が強調されていると見てよいかもしれません。
カードたちを関連させていく、ひとつのコツとして、カードの(絵柄)中にカードを入れていくような読み方があります。
さきほどの例でいえば、年テーマが「星」、月テーマが「運命の輪」、週テーマが「女帝」、日テーマが「手品師」なので、「星」の壺に「運命の輪」と「女帝」を入れて、流してできてくる泉のもとに「手品師」がいて、その「手品師」の机に水があふれている・・・というようなイメージを持てば、なんとなくでも、複数のカードのつながりを読むことができるでしょう。
もちろん、カードの細かな図形象徴の関連において、その知識がある人は、はっきりとした具体的テなーマを読むことも可能です。(これはきちんと学習しないとできません)
ともかくも、カードは、まさに、扱いによってはあなたの分身となるのです。
言ってみれば、万能ツールともいえるものですから、うまく活用しましょう。