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「斎王」と「法皇」の学び

今日は学びをテーマにして、マルセイユタロットの「斎王」(一般名「女教皇」)と「法皇」(同「教皇」)について述べたいと思います。

マルセイユタロットにおいて、「学び」の象徴や意味は、究極的には自己の内面におけるものと言えますが、その内面も単に心理的なものを指すのではなく、自己にある、神性的なものを思い出すための学びといったほうがいいかもしれません。

つまりは、トータルな自己の統合や回復という意味です。

しかし、よく考えれば、内なるものと言っても、外のものとの違いは、実は、突き詰めてしまえば同じものと言え、例えば、物理学的に見ても、量子のような小さな世界で統一して見れば、内も外もないのがわかるでしょう。

心理的な意味においても、内なるものが外に投影されることもあり、スピリチュアル的には、ただひとつの世界を(二面から)見ているだけと表現できますし、また、内と私たちが普段思っているものこそ外的世界で、逆に言えば、外的世界が内なるものなのかもしれないのです。

おそらく、「斎王」と「法皇」の違いも、そうした、あるひとつの二面性内と外が違うようで同じことを二枚で表しているように思えます。

そして、ふたつのカードは、「女帝」や「皇帝」に比べ、精神的・宗教的なカードに見えます。

ここから、やはり、二枚は内面的なことに関わるカードであることはわかるでしょう。

しかし、「斎王」は確かに、内に秘めている感じが強いですが、「法皇」のほうは、弟子や聴衆と思しき人たちの前で、何かを言っているように見え、その姿は活動的であり、外に関心があるようにも感じます。

それでも「法皇」は、一般的には教皇などと呼ばれ、キリスト教の教皇様を彷彿させますから、たとえ教皇様そのものではなくても、カード人物の姿・形からして、何か宗教的な権威者であろうことは想像できます。

とすると、「皇帝」とは別の役割であることも推測できます。そうやって論理的にカードを見れば、「女帝」と「皇帝」に対して、「斎王」と「法皇」という別の役割の人たち(ペア)がいることも理解でき、当然、意味や象徴性も異なってくるわけです。

さて、ここで「学び」をテーマにして考えてみましょう。

「斎王」と「法皇」は、ともに精神や内面、あるいは外向きであっても、宗教的な人物の姿から、実際的なことや政治的なことよりも、やはり精神的・教育的・理想的なことに関わっていることがイメージできます。

学びは、実際的なことの学びも当然ありすが、学んでいる最中そのものは、実際的ではありません。わかりやすく言えば、学びと実践は(次元や場面が)異なるということです。

もちろん、実際に物事をやりながら学ぶというスタイルはあります。しかし、それ(行動)を学びだと思う意識がなければ、学びにはなり得ません。

つまり、学びは精神や心、意識にあるのです。

内面や精神的なものをイメージさせる「斎王」と「法皇」は、このことをもっとも強調しているのだと思います。

ただ、「斎王」と「法皇」では、女性と男性の違いもありますし、「斎王」は一人だけであるのに対し、「法皇」のカードでは、複数のほかの人物たちが描かれています。

ここから、学びの方法が違うことがわかります。

単純に言えば、「斎王」は本も持っていますので、独学・自習であり、時間的には予習・復習も入りますが、「法皇」は、聴く側の人物に自分があてはまる場合は、法皇から教えられる者(生徒)たちとなり、時間的には現在の学習そのものになります。

さらには、自分が「法皇」であれば、自らが教える側、先生・講師になるわけです。一方の「斎王」は、その気になれば人に教えることはできるのかもしれませんが、絵柄だけからすれば、教える段階にはない、あるいは他人に教える役割ではないのかもしれません。

「斎王」は、女性の宗教的な権威者のように見えますから、ある意味、高い位(レベル)の巫女的な女性と言えます。

巫女自身がたとえ知らなくても、その文字自体が示すように、まさに、人の間に立ちながら、上(天上)と下(地上)をつなぐ女性なのですから、言わば、神を降ろすことができる者で、すると、その知識は、人間でありながら神そのものと言えます。

ということは、「斎王」は学ぶ必要があるのか?という疑問にもなってきます。これは、女性性における「理解」の本質の鍵を握る秘密であり、女性の皆さんは、「斎王」に注目することは、とても有意義だと思います。

古代では、なぜ巫女的な人が活躍したり、重視されたりしたのかの答えにもなってきます。

一方の「法皇」は、話す(教える)ことで実は自らの知識・学びも向上させているように見えます。

このことは、人に教えることをしている方にはよくわかることだと思います。人にものを教えることは、自分の今までの理解だけでは難しく、人に伝えるための工夫、技術、さらなる物事への理解度が必要となります。これは言い換えれば、一般化とか普遍化の技術です。

「斎王」が自分だけの理解で済むのに対し、「法皇」は他人への説明、他人に理解させることが必要になります。「法皇」の力は、男性性に関係します。

たとえ、高度で深いことを知っていても、それをほかの人にうまく教えたり、伝えたりすることができるかは別です。

神様も、普通の人間に、正確に神様の知っていることを伝えるのは苦労されるでしょう。(笑)

このように見てくると、学びの根本は精神や意識にあるのですが、自分だけの範囲で学びと理解を留めておくか、他人にまで範囲を広げ、シェアしたり、さらなる刺激を受けたりして学びの質を高めるかによっては、「斎王」か「法皇」かの違いも出てくると言えましょう。

どちらかの優劣の問題ではなく、まさに自分にとって「学び」をどうするかによります。また、現実問題としての、時期や方法、自分の段階・レベルにもよります。

ですから、あなたは今、「斎王」になる必要がある場合もあれば、「法皇」でなければならないこともあるわけです。

また、自分の希望や思いとは別に、実際では、強制的に「斎王」や「法皇」にならなければならない環境・状況が起きます。

「学びは意識である」と言いました。

従って、あなたが意識的に「斎王」になる、「法皇」になることをすれば、まさに、「学び」は、そのスタイル・性質によって、あなたのものとすることができるのです。


タロットに向いている人とは?

以前にも何度か書いたことがありますが、「自分にタロットが向いているか?」と質問される方がいます。

この質問は、学ぶ段階によっても、言葉は同じものが出るのですが、中身が違っていることがあります。

まだタロットを学んでいない時は、純粋な不安と言いますか、自分がきちんと学習していけるだろうか?とか、もし、一緒に学ぶ人たちがいれば、その人たちについていけるだろうか?(落ちこぼれないだろうか・・・)など、タロットに限らず、誰しもが、何かを新しく始めたり、学んだりする時に感じる心配から発するものが多いです。

次に学びに入って、中盤あたりになってきますと、自分の理解や技術について、あせりやいらだち、自己否定みたいな感情が出てくる人がいます。

せっかく思い切ってタロットを学習する世界に飛び込んではみたものの、たとえばリーディングの技術とか、タロットへの理解とか、低いレベルのままでいることに愕然とするとか、どうしても他人と比べてしまって、自分はその人に比べて学習理解度、活用度が劣っているとか、感じてしまう段階です。

教える側から見ていると、それほど本人が思うより悪いものではなく、むしろ、かなり理解も進み、技術も上がっているのに、自分で自分を否定しているような、ちょっと自分に厳しくし過ぎのところもあるように感じます。

これは、理解が上がったからこそ、理想の状態というのも次第に具体化してきて、それに届かない自分と差も明確になり、最初の頃とは別のあせり、落ち込みのようなものが出ると考えられます。

また、初めのうちは、わからないことがわからない(笑)という状態で、そもそも質問する段階でなかったり、質問内容も具体的でなかったりします。

ということは、自分の理解や学習状況の把握があやふやであるということです。

しかし、学習が進むと、それなりに自分の状態もわかるようになり、タロットの理解度も進展します。すると、逆に、できていないところが目立つようになるのです。(これは人の性格や性質にもよります)

まあ、まじめな人ほど、自分を追い込んだり、ネガティブなところを発見しやすかったりするわけですね。

逆に言いますと、いい加減な人や、あまりタロット学習に熱が入らない人は、自分の状態もあやふやなままですから、できていないところもそれほど気にならないわけです。

まれに、超ポジティブな人もいますので、そういう人は、いいところだけ、プラスなところだけ見ようとするので、向いている・いないなど考えず、いつも楽観的、前向きと言えます。(これが必ずしもいいとは言えませんが、結局は人それぞれです)

このように考えますと、学習中盤での「自分はタロットに向いているのか?」という質問・疑問は、実は学習して知識や技術の理解が上がったからこそのもので、裏返せば、それだけタロットに対して真剣であること、もっとタロットに関して向上させたいという思いがあることになります。

私は、いまだに、実は、タロットに向いていないのではないかと、自問自答、いや、自虐に近いでしょうか(苦笑)、悩むことがあります。

ですが、私の場合は、すでに何人もの生徒さんを教えておりますし、先生自体がタロットに向いていないなどと悩んでいては、それこそ生徒さんに失礼ですから、切り替えもしております。

後先になりましたが、学習と実践がさらに進んできて、タロットを人に教えるようになっても、先述したように、自分はタロットに向いていないのではないかと思うことはあるのです。

これはまた、言葉は同じでも、中盤の時との内容とは違う悩みだと言えましょう。

私の場合で言いますと、使命とか、仕事とか、そういう観点からのものになります。果たして、私は、タロットを皆さんに教えるような人物なのだろうか? そこまでタロットを理解していると言えるのか? 使命や天職として言い切れるのか?みたいな感じです。

こうなると、向き・不向きというより、タロットと自分の人生みたいな、ちょっと大げさな印象にはなりますが、自分のライフワーク的なテーマとして、タロットが選択されるのかどうかという問いでもあると言えます。

このように、学習やタロットとつきあっていく様々な段階において、いつも「自分はタロットを扱っていいのか、タロットをしていていいのか、タロットに向いているのか・・・」のような質問・疑問は生じます。

しかし、安心してください。

どの段階、シチュエーションでも、これだけは言えます。

それは、「あなたがタロットが好きならば、それだけでタロットに向いている」ということです。

理解や技術の問題は、人と比べたり、理想と現実のギャップが大きかったり、単純に修練や努力が足りなかったり、はたまた、壁にぶつかり、足踏みしていたりするだけです。

それよりも、もっとも大事なのは、自分(あなた)は、タロットが好きかどうか、この一言に尽きると私は思います。

「好きこそものの上手なれ」ということわざがあります。タロットに関しても、まさにその通りだと言えます。

上手になるかは、人それぞれの進み方があり、早いか遅いかの違いは確かにあるでしょうが、好きでずっとタロットをやっていれば、必ず、上達し、タロットからも愛され、タロットを理解する道や縁がいろいろとあなたに運ばれて来ます。

それはマルセイユタロットでも象徴されています。

例えば、「恋人」カード、これにはいろいろな象徴・意味がありますが、ひとつには、惚れるものという意味もあり、いわゆる好いた・惚れたを考えることもできます。人に対してだけではなく、モノとか趣味みたいなこともあり得ます。

そして、この「恋人」カードと同じ絵柄構造を持つ「審判」は、さらに大きな愛のようなもの、覚醒といえる、目覚め・気づき、レベルの上昇が示唆されます。

この二枚を並べると、好きなもの、何かを好きになって熱中していくことで、それがやがて愛に変わり、自分の中にあった神性的なものが目覚めると例えることができます。

タロットで言えば、タロットが好きで、タロットの活動をしているうちに、今度はタロットから愛され、自分の中にある高次の愛が芽生える(思い出す)というものでしょうか。

人で言えば、人を好きになることで、その人から愛されなくても、自分の中に存在していた「愛」というものを知り、その尊さで自分を肯定し、自己を再生することができるみたいな話です。

人の場合は、相手から愛されるかどうかは相手次第ですが、タロットの場合は、私の考えでは、自分がそのタロットが好きならば、間違いなく、そのタロットからあなたは愛されると思います。

タロットの場合は、あなたが好きで愛しさえすれば、誰でも相思相愛になれるのです。

もちろん、好きなことと、技術・知識の向上は別かもしれません。

ですが、好きでないと続けられませんし、タロット愛があるのとないのとでは、いくら技術や才能があっても、やってもらっている人には何か冷たい印象になりますし、タロットも力を貸してくれない気がします。

やはり、自分を嫌う相手、無関心である相手を好きにはなりにくいもので、タロットも同じく、自分を好きでいてくれる人には何かしらの好意を返してくれるものです。

タロットは人間的ですし、魔術的にはタロットの精霊と呼ばれる存在がいて、彼ら(彼女ら)と仲良くなる必要があるのです。

魔術的でなくても、タロットとの関係がきちんとできているかどうかが、実は、タロット活動においては、ものすごく重要なのです。

あなたがタロット(厳密にはタロットの種類にもよりますが)が好きなら、大丈夫、あなたはタロットに向いていますし、タロットからも選ばれているのです。


一枚引きのある技法

タロットの活用法は、ここでもいろいろと述べています。

タロットの使い方は、自分に使うか、他人に使うかで、まず分けていくことができます。

それから、目的にもよります。占いで使うか、セラピーに使うか、問題解決に使うか、自己啓発、自己認識や成長に使うかなどです。(これもタロットの構成そのものによって、実は分けていくことができます)

そのような様々な使い分けがあるのですが、今日はその中でも、技法としてはもっともシンプルと言える、一枚引きによって自分を観察する方法について、書きます。

一枚引きというのは、タロットをシャッフルして、一枚だけカードを引くというやり方(展開法)です。なお、基本的に正逆はとらないほうがよく、一枚そのものを象徴として見ます。

その名の通り、一枚だけカードを引くので、一番少ない枚数の展開法になります。それだけに情報量が少ないので、これをもとにしたリーディング、特に問題解決的な読みをするには難しいものとなります。

反面、シンプルゆえに、自分に当てはめたり、心理的・環境的投影・反映として見たりするには適しています。

この一枚引きを、ある時間的スパンを決めて実行していきます。

具体的には、一日単位、週単位、月単位、年単位というのが(時間的スパン・間隔)として挙げられるでしょう。

一日単位の場合は、毎日引くことになりますし、それぞれ週一、月一、年一みたいな形で引くわけです。

この時、使うタロットのパートは、大アルカナだけのほうがよいでしょう。ここで述べている「タロット」とは、マルセイユタロットのことを指しますから、ほかの種類のタロットの場合は、小アルカナを入れたほうが効果的なこともあります。

マルセイユタロットでは、特に小アルカナの数カードの絵柄が記号的なものになっており、そこから何かを事柄をイメージしたり、当てはめたりするのは少し難しいこともあるので、絵が具体的になっている大アルカナを使うほうがこの場合はよいのです。

それで、引いたタロットをどう解釈するかです。

時間的スパンを年単位からすべて活用する場合は、大きな時間スパンのものを自分における大テーマとし、次第に時間スパンが細かくなるにつれ、そのテーマが細分化(具体化)されると考えます。

例えば、年が「星」、今月は「運命の輪」、今週は「女帝」、今日は「手品師」が出たとすると、月(何月とかのその該当月)については、「星」と「運命の輪」を併せて考え(「星」にするには「運命の輪」を動かす、あるいは動く)、週については、それに「女帝」(計画やアイデアを週ごとに決めて行く)が加わり、さらに今日となれば、「手品師」も追加していく(例えば仕事の面でそれを実行する)となり、ちょうど、大アルカナから小アルカナへと移行するような感じで、具体性を持っていくように読みます。

ただし、これでは一枚引きなのに、結局、四枚引き(笑)みたいになってしまいますので、シンプルさを追求したい場合は、それぞれのスパンを切り離して、別々に読んでもOKですし、他の時間スパンは引かず、ただ毎日引いていくというパターンのほうがよいかもしれません。

毎日引くやり方の場合は、統計的な手法も使い、そのひと月が終わる時に集計し、どんなカードが一番出たのかとか、逆に出なかったカードを確認する、女性のカードが多いとか、一人の人物のカードがよく出たとか、上の立場を示すような感じのものが目立つとか、傾向を読み解きます。

不思議なもので、同じカードがその月はよく出たり、ある一定の期間が過ぎると出なくなったりします。

こうして傾向を見れば、自分の心の動きと環境がシンクロして、カードに出ていることがわかり、いろいろと整理できます。

このようなやり方を取る一枚引きでは、カードの意味を読もうとしたり、なんとかカードを解釈しようとやっきになったりするのではなく、カードが自分に問いかけているというように、タロット側から自分へ向けてのベクトルで見つめることが重要になります。

自分からカードへのベクトル(方向性)が強すぎると、単なるリーディングや占いの練習になって、飽きてしまいます。また同じパターンしか読めないので、あまり技術的な進歩もありません。

それよりも、カードが何かを語り掛けていると見て、その問いに答えよう、応えようとしたほうが面白いですし、結局、自己分析にもつながりやすいです。

と言っても、この方法でも、飽きてきたり、同じような質問しか浮かばなかったりすることもあり得ますから、そういう時は、カードの絵柄を細かく見て、メインの人物だけではないところからの問いかけを想像するなどしていくと、同じカードからでも別の見方や質問が出てきます。

また、直感や感覚も大切にして、およそカードの普通の意味とは異なる内容が浮かんできたとしても、それを受け入れます。つまりは、自分の感じていることをカードに託して、もう一度、自分が捉えなおす(自覚する)ことが重要なのです。

私はあの人に対して怒っていたんだとか、ああ、あの行為はあれに忖度していたなとか、意外にあれは楽しかったかも・・・みたいな、抑圧したり、取り繕ったりしていた気持ちが、カードを見ることで表出することがあるわけです。

人間、押し込めた心は、やがて溜まって爆発することがありますし、自分の気持ちに嘘をついたり、気が付かなかったりしていくと、結局、他人や世間の情報に流される人生とか、自己否定から不幸な状況を招き寄せる結果となりがちです。

いわば、心のクリーニングと言いますか、発散や自覚をして、そこからの自己尊重につなげていくのです。

マルセイユタロット、特に大アルカナは、人の心の元型(皆が思うパターン)を象徴すると言われます。

ですから、特に22枚の大アルカナのカードを引くことで、自分の意識や心の何かが現れたり、投影させたりすることができ、まさに、心の鏡として扱うことが可能です。

毎日、気持ちや心は変わっていきますし、毒のような、ネガティブなものもあれば、明るく楽しい気分のものもあります。その感情に気づくことで、ネガティブなものは浄化され、ポジティブなものは強化、あるいはバランス化されます。

一年、これを続ければ、相当あなたは自分の心の扱いの達人になっているのではないでしょうか。それはまるで、荒ぶるライオンをコントロールする「力」の女性のような存在です。

毎日できなくても、先述したように週単位とかでも、やってみる価値はあると思います。

話は戻りますが、年、月、週、日の、四つの柱ごとに一枚引きをすることで、毎日複数のカードの連繋を見ることになります。もちろん、同じカードが出る場合もありますので、その時は、さらにそのカード(におけるテーマ)が強調されていると見てよいかもしれません。

カードたちを関連させていく、ひとつのコツとして、カードの(絵柄)中にカードを入れていくような読み方があります。

さきほどの例でいえば、年テーマが「星」、月テーマが「運命の輪」、週テーマが「女帝」、日テーマが「手品師」なので、「星」の壺に「運命の輪」と「女帝」を入れて、流してできてくる泉のもとに「手品師」がいて、その「手品師」の机に水があふれている・・・というようなイメージを持てば、なんとなくでも、複数のカードのつながりを読むことができるでしょう。

もちろん、カードの細かな図形象徴の関連において、その知識がある人は、はっきりとした具体的テなーマを読むことも可能です。(これはきちんと学習しないとできません)

ともかくも、カードは、まさに、扱いによってはあなたの分身となるのです。

言ってみれば、万能ツールともいえるものですから、うまく活用しましょう。


この世界 ループやバーチャルの話

人生、迷いと決断の連続と言えます。

たぶん終わってみれば(つまり死ぬと)、どちらでもよかった、何でもよかった、経験こそすべて・・・みたいな感想になるのではないかと想像します。

とはいえ、逆に終わりだからこそ、後悔もあって、ああすればよかった、あちらを選べばもっと違った人生になっていたのでは・・・と思うこともあるかもしれません。

映画やゲームの世界では、なになにルートとか、こちらの世界線・あちらの世界線、選択肢A,Bなどと言われて、複数のシナリオが用意されているものがあります。

私たちの人生も、ルートの違う、いわば平行世界のような、選択によって世界そのもの、人生そのものか大きく変わることが実際にあるのかもしれません。

一方で、これもよく創作ではありますが、ループ現象的に、どのルートを通っても、結局同じ結果になってしまうというパターンもあります。アニメではよく見かける設定ですが、これはどの作品を見ても怖いものです。

もしかすると、私たちは同じ時間・世界を、それこそ数千、数万の、恐ろしくたくさんの回数を刻み、永遠とも言える輪の中にはまっているのではないかと想像すると、恐怖があります。

例えば、輪廻転生(説)も、同じ人生ではないとはいえ、ある意味、ループで、巨視的に見たら、同じような時間を過ごしているようにも思えます。

実は私自身、既視感(デジャヴュ)を瞬間的に体験したことがあり、映画マトリックスの黒猫のシーンではないですが、確かに、ほんのわずかな時間の間に、まったく同じシーンを複数経験した感覚があったのです。それはビデオの巻き戻しと同じような感じでした。

こうなると、ループ説以上に、この世界がバーチャルリアリティであることにも実感が出てきます。

ループに説は、ネガティブなことばかりではなく、もし、天国のような自己陶酔の世界に自分がいれば、そこに永遠にループしていれば、幸せしかないことになります。(笑) ただ、これはこれで、ある意味、怖い話です。(こういう設定も、よく漫画やアニメの悪役が使う術でありますが)

そんな話は、非現実的で、他愛もない漫画やアニメ、映画の創作話か、と思うかもしれません。

しかし、この話をしているのは、結構、重要なことだと個人的には思っています。

それは、マルセイユタロットで言えば、「吊るし」に関係するもので、私たちの認識は、果たして正しいのかどうかという問題提起にもなります。

例えば、パソコンを扱っていて、パソコンの調子が悪く、うまく動かない場合は、パソコンの内部に問題(ソフトとかOSとか)と考えます。

でも、もしかすると、パソコンではなく、パソコンを使用している人間の脳とか、身体とかの異常で、そう見えている・感じているだけかもしれません。

さらには、パソコンも扱っている人間もすべて含む「自分認識している世界」自体が、機械のバグのように、瞬間的におかしくなっていると見れば、パソコンや人の問題ではなく、世界そのものの問題と言えます。

どれが本当のなのかは、よく考えるとわからなくなってきます。

私たちはループの中にいるのか、違うループ(輪)をいくつも渡り歩いているのか、逆に輪などなく、自分か誰かが世界を作っていて、その経験を映画のように味わっているのか、人生、世界、経験とは何かを想像すると、それはひとつの考えに限定できないと言えます。

とすると、考えの数だけ、人生やパターンはあるのではないでしょうか。

最初に、どの選択をしても同じとなる(とわかる)場合と、やはり、ひとひとつには意味があり、別ルートへと、選択の度に移動している(選択する人生が確かにある)と見る場合があると言いました。

どちらが正しいかも言えず、ただ見方・考え方でどちらでもあるのでしょう。

ガチガチの運命論のように、人生は大方、最初から決まっているという人と、いや、運命は自由に変えられるという人がいます。これも、考え方次第で、結論は出ないでしょう。

ただプログラミング説になってきますと、大元のプログラムと、ゲーム演者そのものが変えられる範囲のプログラム(いわばキャラが自己プログラミングできる範囲)とがあるように思われ、大元は変えられないにしても、自己プログラミングは、ある程度、レベルや難易度によって書き換えの許容範囲が変わってくるのではないかとイメージします。

ですから、個人において、悟るような人も出る(大元のプログラムに戻る)でしょうし、欲望のままに自堕落に生きてしまう人もいるのでしょう。

限界突破と言いますか、ある条件の規定値に達すると、制限がはずれ、次の範囲・レベルへと上昇するのかもしれません。それが学びとか、成長とか言われているように思います。

ですが、これでは、あくまで大元に操られるキャラクターゲームでしかありません。私たちはどこまで行っても単なるキャラなのか、実は大元なのか(大元になることができるのか)、ここが問題でもあります。たぶんどちらでもあるのだと思います。

これも「吊るし」と、そして「世界」のカードとの関係性で表せそうです。そして時間的にも有限と無限、つまり死と誕生の有限性と、それと対になる永遠性(完全・無限性)です。

ゲーム版世界の移行はループと言えますし、ゲームの大元に帰るのは、マトリックスやバーチャル世界からの脱出でもあるでしょう。

ループとバーチャルも対やセットで考えると、私たちは、いろいろな世界を経験し、ループしていくことで、既視感を認識し、ついにはそのループからの解脱に気づくことになるのではないかと思います。

それには、ひとつのレベルの世界から次のレベルの世界に移る時の感覚、つまりは次元上昇のようなものが非常に重要なファクターになるものと思われます。

次へ移っても、ループ説では、ループしていることには変わりないのですが、別の輪への移行が、たとえループ・繰り返しであっても、脱出・解脱のきっかけとなるのではないかということです。

ものすごく低い例え話で言えば、ゲームに熱中している子供が、ゲームをクリアーする瞬間、我に返る、あるいは母親からの「ごはん、できたわよ」とか「勉強しなさい」という声に気づく、みたいな感じです。(笑)

今日はわけのわからない話だったかもしれませんが、こんなことも、マルセイユタロットを見ていると、浮かんでくるので、面白いと思います。


新型コロナウィルスに関連して

私はあまり他人のブログとか見ないのでわからないのですが、どうなんでしょう、最近の巷の話題と言えば、やはり中国で発生した新型肺炎・コロナウィルス感染症の話でしょう。

ところが、ぱっと見たところ、あまりこのことについては、ふれないブロガーの方が多いように見えます。それどころか、中には、自分の商品やセミナーなどの告知に大変忙しい人や、現実無視かのような、「楽しく行きましょうー!」(笑)みたいなものも散見されます。

まあ、これらとは別に、陰謀論的な話で書いているものも見かけますが・・・(苦笑)

実際、現状では不安な方も多いと思いますが、医療の専門家でもない者が、うかつに書けないのも確かです。

でもメンタル的なことを書いている人はもともと多いのですから、こういう時こそ、何かメンタル面で落ち着く方法など書いていただけたらなあと思うのです。

私はタロティストなので、タロット関連で何か書くことにします。

タロットと聞くと、皆さんは、今後の状況を占ってほしいと、一般の人は思うかもしれません。

私自身は、このブログで書いているように、タロット占いはほとんどしませんし、そもそもタロット占いを教えている者でもないのです。ですが、占いを否定しているわけではなく、タロットの技術のひとつとしてはアリだと考えています。

こういう時に占うことには、マイナス点とプラス点があります。マイナス点は、状況判断だけの占いをしても何も解決しないということです。

また、もし悪いものが出てしまうと、ますます不安になり、心理的反応から、かえって悪い結果を引き寄せることもあります。

つまり、占いの予想を設計図にして、自分自身が、その過程と結果を起こしているわけです。タロットの場合は、絵柄があるので、特に強烈なカードの絵柄だと、心に刻印されてしまいがちで、自らがカードによる示唆の現実を引き起こしてしまうことは往々にしてあります。

逆によいことは、プラスや明るい予想が出た時は、安心感が出ることで、また、人によっては、たとえ占いで悪い結果であったとしても、薄々わかっていたことならば、通常知り得ない情報から、自分の感じていたことが知り得たことで、納得感が増して見切りがつき、次の行動が早くなることもあります。

それに、運気的な占いでは、いわゆる運気の流れ、情勢というものがわかりますから、波に乗るべきか、控えるべきかなどのタイミンク的なものもわかりやすいです。

それで、それを踏まえたうえで、今回の新型肺炎について、今後の日本での傾向と対策をテーマにカード占ってみたところ、悲惨なことにはならないだろうことがうかがえましたので、まずは、異常な不安を覚えている人は、気持ちを落ち着かせていただけたらと思います。

と言っても、このまま何もしないわけにはいかず、対策のやり方によっては、流行の拡大も懸念される暗示はありました。

対策の鍵は、意外に身近なところや基本にあり、誰もが思う当たり前のことをしっかり徹底してできるかということ、もうひとつは、政府や組織の体制の組み直し、末端まで指揮・情報の開示、徹底だということです。

おそらく、思ったより早く、治療法などの対策は出るのではないかと予想されますし、そうでなくとも若い世代の活躍や、新しい方法が考え出されて拡散が収まっていくようにも思います。ただ、先述しましたが、そういうのを期待して、ただ楽観するだけではだめだと思います。

「正負の法則」のディマティーニ氏によれば、すべてのことは、よいことと悪いことは等分で、完全にバランスが取れていると言います。

今回のことはかなりネガティブな世界的な事件ですが、それに見合うほどの、よいことも発生しているのです。

さて、スピリチュアルの世界では、自らの(真に)思うことが叶う世界だと言われます。(引き寄せの法則)

とすれば、極端なことを言えば、この新型コロナウィルス感染症のない世界、感染しない自分というものを完全に思うことができれば、それは実現されることになります。パラレルワールド風に言えば、この感染症のない世界、あっても問題のない世界に移行した自分ということです。

しかし、これは、その段階まで悟っている人、心がクリアーになって、完全な信じ込みや確信がある人にできる技です。

そういう人は、もはや普段から、日常的な、あるいは一般の人が抱く不安と、それによって生まれる(引き寄せる)実現の世界を超越する「心のシステム」が確立している人だと言えます。

多くの人に発信している、影響を持つカリスマ的なスピリチュアリスト、成功者のような人は、これができている人が(完全ではなくても、自信をもってやっている人が)多いと想像されます。

ですが、その段階に至っていない普通の人、もしくは、そうした心の傾向ではない人(不安の高い人、心配性の人など)は、発信者のやり方そのものでは難しい場合があるのです。

スポーツ選手に例えればわかると思います。

名選手がコーチや監督をしても、必ずしもうまく行かないのは、名選手自身では常識であり、メンタル・魂的にも生まれた時からの傾向で、普通にその名選手が思ってやってきたことというのが、一般的な選手にとっては非常識であり、理解を超えているところがあるわけです。

よって、レベルや段階、もしくは、その人個人に合った方法が必要なのです。この現実世界は個性の世界(一人ひとり違う世界)とも言えますから、共通する概念や大枠的な方向はあっても、細かな方法・具体策は、一人一人異なることが普通です。

ということで、スピリチュアルや精神世界に関心のある人の中ては、今回の感染症の件でも、自分の心の状態が大事だと信じ込み(それは間違いではないのですが)、感染症のない世界をイメージしたり、まったく情報を遮断して、なかったことにしてしまったりする方法、または、「楽観的に思えば、現実も楽観的なことで終わる」として、無為無策に、のんきに構える方法を取る・・・みいなことをしていても、逆に不安がどんどん増幅してしまったり、正しい情報が得られず、いざという時に慌てたりしてしまうことになります。

要するに、自分はどうすれば本当に安心(安心はできないでしょうが、落ち着いたり、冷静になれるかということ)できるかを考え、行動するということです。

それは情報を遮断することでもないでしょうし、デマを信じることでもないでしょう。他人のやり方が自分に合うとは限らず、一般論はあっても、個別での状況も違います。

自分の心が安心したり、明るい気持ち、少なくとも、悲観や悲嘆にくれたりしないようにするため、心を無理矢理、理想の現実にするよりも、事実を見て、情報を入れ(正しく知り)、準備と行動をしていくことで、心が落ち着くケースがあるのです。(パニックの行動とは違うので、注意が必要です)

そして、多くの人が今後の予想イメージで整理がついたり、希望が持てたりすることによって、ますます心は明るさと落ち着きを回復してきます。

だいたい、今の不安な状態を招いているのも、中国政府の初期の情報遮断・隠蔽、WHOや日本の政府、その他行政など、本来すべきことが、変な忖度、楽観、情報の誤った分析と準備不足・対応による結果であるわけで、今現在は、人々の先々のイメージに、ネガティブなことしか想像できなくなっており、それがさらに現実を悪くする世界に移行させようとしています。

重要なのは、今後の希望や収束イメージが持てる、計画性・先見性、それに伴う実際の行動です。(マルセイユタロット、「女帝」と「皇帝」)

陰謀論ではありませんが、さすがに、今回の件では、皆さんも、日本はもとより、世界がおかしいことに気がついてきたでしょう。

一言で言えば、人が人であることが軽視されていて、もっとも大切にされているものが、国や政治、世界を動かしている者たちの間で、なぜか人ではなく、別にあることです。

霊性の堕落でもあり、欠落でもあり、逆に言えば、私たちに、真に大切なものは何か、失われていた心や魂、霊性を取り戻させるきっかけになるかもしれません。

心が現実を引き寄せるのなら、その心が安心し、落ち着き、明るくなるための、現実の行動、情報収集、訴え、運動も、時には必要でしょう。

ただ祈っていれば(祈りはよいものですが)、自分の事態が変わる可能性は現実的に低く、自分の心を変えるための「働きかけ」のほうが、先に求められることがあるのです。

おそらく、これも、「共生」と「真の自立」ということが、深くには、テーマとしてあると思います。

共生や助け合いと、自立は相反するようですが、高いレベルでは調和されるものです。一人一人が自立し、そして共生できる社会が望まれます。

マルセイユタロットでは、自立は「戦車」が表し、高次では、「神の家」が象徴します。そして共生的なものとしては、ふたつの壺を持つ女性的なカード、「節制」と「」で強調されるでしょう。(実際に、これらのカードは出ていました)

試練ではありますが、やはり、大きな流れとしては、私たち人類の転換が始まっているのだと感じます。


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