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「吊るし」から見る非日常性

マルセイユタロットに、「吊るし」というカードがあります。

ほかのタロットでは、吊るされ人とか、吊るされた男などと呼ばれているカードです。(大アルカナ12番のカード)

名前の呼び方からわかるように、ほかのタロットでは、このアルカナナンバー12のカードは、「吊るされている」という受動的姿勢、あるいは犠牲的なニュアンスで意味付けされていることが多いです。

しかしマルセイユタロットでは、「吊るし」として、あえてこの姿勢を自らと取っているという能動的なものを見ます。(マルセイユタロットでも、名前を「吊るされ人」として一般的名称で覚えるケースもあります。「吊るし」と呼ぶのは、あくまで私たちの考えです)

と言っても、「吊るし」に描写されている人物自体は動いておらず、足にはひもがあり、手は縛られているのかどうかわかりませんが、後手にあって、自由に出しているわけではありませんから、この姿勢そのものからは能動的なものを感じ取ることは難しいです。

つまりは、自分がやっているにしろ、誰かにやらされているにしろ、この「吊るし」では、何か動かない状態、籠ったような状態、不自由にも見える状態にあるのは確かと言えましょう。

タロットは、私たちの意識や行動の元型を示すという考えがあり、その見地に立てば、こういうカードが存在していることは、私たちの内と外(意識と行動)に、「吊るし」になる状態がある(必要とされる)と見ることができ、それはいかなる時なのかという考察ができます。

「吊るし」の人物の姿勢の大きな特徴は、動かない(停止している)ことと、逆さまであるということです。

逆さまについては逆になることですから、まさに反転したり、これまでとはまるで違った視点を持つことを意味します。

けれども、今日は、動かない、停止のほうをメインに言及します。

私たちが動かない時とはどういう時かと言えば、ひとつには、まさに固まってしまって身動きが取れない状態があります。

これは、外的(環境的・物理的)に八方塞がりのように、なかなか活路が見いだせない時か、精神的(気持ち的)にもどう対処していいかわからない、もしくはショックがあったり、落ち込んだり、鬱になったりして、動けない状態と考えられます。

要するに、大変弱っている、困っている状態です。(苦笑)

ところが、マルセイユタロットの「吊るし」の人物は、余裕とも思える表情をしており、あまり苦しそうではない感じに見えます。

ということは、身動き取れないピンチに陥った時こそ、慌てず騒がず、よい意味での諦観、観察精神のような客観性が求められると言え、動けば動くほど、事態はますます悪くなるという教訓を見ることができます。(「吊るし」カードの構図特徴から言えば、実は、全部塞がれているわけではないので、突破口、打開策は必ずあると主張しているようにも見えます)

あと、動かない時というのは、日常とは異質な状況になっていることも考えられます。

私たちはの日常(意識)では、常に動いているのが普通です。思考も感情も、あれこれと動き、ついでに行動も何かしなければ・・・という意識になっており、無意識であっても、何かどこかしらは動いているものです。

まあ、生命の維持には、心臓も各器官も動いていなければならないわけで、それを言えば、すべてが停止することなど現実ではありえないのですが・・・そこまでの話ではなく、普通の日常の活動、生活においての動きということです。

日常が動きの状態と仮定すれば、逆に非日常は動きのない状態と言うことができます。

タロットでは、この非日常感を重要視します。リーディングの意識の時もそうですし、自己の内部や霊的に成長していく過程においても、日常とは別の世界や感覚が大切になってきます。

吊るしはナンバー12ですが、下一桁として同じ2を持つ大アルカナは、「斎王」(一般的に女教皇と呼ばれるカード)です。

この「斎王」は、現実世界においての巫女的な女性、そうした意識になる状態を示唆します。

タロットではなくても、皆さん、巫女的な女性と普通の日常的・俗世間にいる女性とでは、特に精神世界において(実生活でも)違うことはわかるでしょう。

それはもともとの能力・気質の違いもありますが、巫女になるための状況(儀式)を経験することで、一般的・俗的にあった女性が変容していく場合もあるのです。

言わば、内的に変わるためには外的な環境も重要なことがあるのです。

それが日常とは隔絶された環境であったり、エネルギー・周波数の違う場所であったりするわけで、また、さきほど述べたように日常が動きの世界であるのなら、非日常(内や霊に呼応・感応する世界)は動きのない世界と言えますから、自らを停止させるための状態も(巫女になることや、霊性と接触するための環境のために)あるのです。

よって、「吊るし」は、日常から非日常へ、言い換えれば、現実・通常意識から霊的な意識へと変化させるためのセッティングを行ってると考えることができるのです。

具体的なその方法は、メジャーなところでは、瞑想ということもあるかもしれませんし、もちろんほかの方法もあり得ます。

ただ総じて言えるのは、動かない状態、静かな状態であるということです。「斎王」においても、その絵柄ではヴェールが描かれ、ほかの場所から隔絶された、動きのない、静寂な環境にいることがわかります。

「吊るし」も「斎王」も、現実的(物理的)な意味では自由があまりありません。むしろ不自由な環境と言えます。

実際の僧侶・尼僧、修道士・修道女など、神や仏に仕え、修業的なことをしている人は、あえて不自由な環境で生活し、日常・世間とは隔離された隠遁的な場所で暮らしています。それはやはり、俗世間と自由過ぎる場所では、霊的なものとの接触と、そうした窮地に至ることが難しくなるからだと言えます。

演出でやっているのではなく、伝統的にも、目的達成の効果が、そのほうがあるからされているのだと思います。

私たちは普通、修行僧ではありませんから、そこまでする必要はないですが、それでも、日常の動きある世界にそのままどっぷり浸かり、流される生活をし続けていると、内的にも霊的にも成長が遅れてしまうことがあります。

とは言え、窮屈や不自由にしろというのではありません。

普段の動きのある世界での自分というのは、他人や周囲に気遣い、余分な力もかなり入っていて、身体的にも精神的にもガチガチになっていることが多いのです。

ですから、動きのない世界に入るということは、その逆に、むしろ脱力やリラックスした状態とも言え、日常的な情報を遮断し、外部センサーを動かし過ぎるのを止め、刺激を少なくして、その反応も低減していくことが望まれます。だからこそ、「吊るし」の人物は、手や足が自由に動いていると刺激を受けてしまうので、そうならないように、あのような状態にしているのだとも考えられます。

精進潔斎においても、「籠る」ということがありますが、これも、ひとつには、(外部の俗的な)刺激を遮断するような効果を期待してのものだと言えます

昔から、聖と俗は違う世界としてとらえてられており、その区別がきちんとされていないと、なかなか本当の意味で統合的な境地には進まないのだと思います。現代は、これが混沌としているので、意識的にも聖と俗を区分けする時間と空間を作る必要があるのかもしれません。

なお、「吊るし」と籠りの関係については、こうした聖なる状態を作る意味以外にもいくつかあり、現代的病理や問題現象の観点からすると、いわゆる「引きこもり」についても考察することができます。

それにつきましは、また機会を改めて書ければと思います。


タロット活動の現実化

ちょっとスピリチュアル的な話が記事で続いたように思いますので、このあたりで現実的な話もしてみたいと思います。

私のところに学びに来られる人は、どちらかと言えば、自分のためにタロットを使う目的(自己の成長、探求、開発、発展、統合などの意味)の方が多いです。

それは、私自身がそのような意図でタロットを教えているからというのもあります。

ただ、実は、自分のためにタロットを使う目的であったとしても、他人に対してタロットを使うこともできるのです。(その方法を個人的には推奨しています)

ましてや、最初から、人のためにタロットで役に立ちたい、具体的にはタロットリーダーとなって活躍したい、また、それでもって仕事にもしたいという人は、他者志向が強いわけです。

こういう人のためにも、もちろん講座は開かれています。

それで、タロットを仕事にしたいという人には、初期には、ふたつのタイプがいらっしゃいます。

ひとつは、タロットを学ぶ目的自体もあまりはっきりしないまま、学習していくうちに、目的と意識が次第に定まり、タロットを使って人の役に立ちたい、タロットリーディングを仕事にしたいと思うようになるタイプ。

もうひとつは、最初からタロットを仕事にするために学びに来るというタイプです。このような人は、タロットの現実的な仕事(場)として、「占い師」になりたいという人が結構あり、また、すでに占いをしているものの、タロットはまだあまりよく知らないので、占いの技術のひとつとして学びに来るという方がいます。

私自身は占い技術を教えるのをメインにしていませんので、後者のタイプの人は今は少ないと言えますが、教える内容と技術によって、結果的には占いにも活用できますので、それは本人の活かし方次第にもなります。

まあ、タロット占いの技術習得を目的にしている場合は、占い師として活躍している(実績のある)先生とか、占いに特化したものを教えられている先生に学ぶほうがよいかもしれません。

ただし、何事もそうですが、先生というのは、必ずしも現場で優れた人がよいというわけではありません。スポーツがよい例ですが、名選手は名コーチや名監督になれるとは限らないのと同じです。それは教えるテクニックというのは、現場の技術とまた別だからです。

とはいえ、やはり、現場経験はそれなりにあるほうが、説得力や、リアルな感覚が違ってきます。

さて、なにはともあれ、タロットを学習し、プロとしてタロットリーディングをしていこうとなった時、ビジネス的に成立するかどうかは多くの人が経験しているように、難しいところはるあるでしょう。いや、これも難しいという人もいれば、そんなことは簡単だよ、という人もあって、実際は様々です。

もし、一般的な意味での「成功」で見れば、どうしてもそれを実現している人は、少ない数とならざるを得ないでしょう。

ところで、タロットで成功している人を見れば、ある程度のタイプが見えてきます。

●カリスマ性のある人

●行動力・実践力がすごい人

●もともと資本(資源)がある人

●別の分野で有名か、成功している人

●新しいコンセプトやメソッドを開発した人

こんな感じでしょうか。

まず、カリスマ性や個性が際立ち、いわばエッジが立っていて、本人も自覚していたり、演出したりしていて、多くの人を引き付ける魅力な人(これはプラスイメージとは限りません)になっている場合です。

また、カリスマ性という意味では、人物の魅力だけではなく、タロットリーディング・占いの能力が異次元的レベルにある人(特に占いが抜群に当たるとか、現実的解決策をズバリと指摘してくれて、それが見事に正解だったというような場合)は、神秘性も加わって、人気が出るでしょう。

あとは、やはり、企画力と、それを実現させていく行動力・実践力が、すごくある人も成功する可能性が高いです。

こういう人はチャレンジ精神と好奇心も旺盛で、成功するために努力も惜しまない人です。何より、自分自身も好きで、人や社会との関わりもまた好きな人というところも大きいでしょう。このような方は、自分で組織や団体を作ったり、自分なりのメソッドや技術を開発したりして、それによるビジネスを手掛けることもあります。

それから、自分は最初はそれほど成功する気はなくても、資金が豊富にあったり、人からプロデュースされたりして、祭り上げられて、いつの間にか成功してしまう人もいるでしょう。

これはいわゆる運が良かったり、自分自身は感じていなくても、他人から見れば、それなりの魅力や能力がある人だったりするからということもあります。巫女的な能力を持つ女性などに、こういうケースがあります。

ほかに、他分野ですでに有名だったり、成功したりしていて、その人がタロットもやってみた・・という人が人気が出ることもありますし、タロットとはおよそ関係ないと思われる異質な分野・経歴を持つ人が、タロットをやることで注目され、成功していくこともあります。

こう書いてくると「私は成功するのは無理・・・」と思ってしまう方もいるかもしれません。

そうですね、もし思いと現実がある程度一致するという考えを入れるならば、成功は無理と思う人は、厳しい言い方になりますが、やはり現実的にも無理なのだと思います。(苦笑)

成功したければ、タロットであれ、何であれ、それを信じる心と方法(行動も含む)が大事でしょう。タロットにもある四大元素で言えば、が重要で、もちろん、ほかの風、水、土の要素もいるということです。

それでも、タロットと仕事の意味では、あきらめるのはまだ早いです。

今までは一般的な意味での成功、厳密に言えば、大きな経済的成功を手にする観点から見た場合でした。

では、成功のイメージを一般的な意味ではなく、別のものにすればどうでしょうか?

言い換えれば、あなたが思う、タロットでできそうな成功(あなた自身が可能だと思う)イメージはどんなものかということです。

それと、一般的な意味での成功(大成功みたいなもの)を比べると、いかがですか?

そこに乖離があればあるほど、あなたの成功は実現しないでしょう。

自分ができると思う成功と、一般的な成功とが、かけ離れているのは、そこに大きな溝があるからです。

ビジネス的には、そこを埋める情報と実践が必要となるのですが、ここでは、違うやり方を述べます。

まず、一般的な成功(大成功)イメージを切り離します。それと同時に、自分の思う描く成功とか活動状態との比較を止めます。

次に、成功イメージをもう少し現実的なものにレベルを下げ、言ってみれば、あなたがほかの仕事で、アルバイトとか定職で稼いでいた金額レベルと同等か、少し上くらいのものをイメージします。

つまり、手が届きそうな成功イメージをするわけです。

次に、稼ぐ手段を複数化します。(実現していなくても、まずはアイデアから)

例えば、電話占いとか、占いの館で稼ぐもの、自分の発信で稼ぐもの(自らお客様を呼び込むもの)、他人や別のものとのコラボ、共同作業で稼ぐもの、タロットを教えて稼ぐもの、場合によってはタロット以外での仕事で稼ぐもの、自分以外の者(家族など)の収入、その他補助されるお金なども考慮します。

こうしてタロットによる、あるいはタロット活動するためのお金、収入、稼ぎを複数化していくことで、独立、ビジネス、仕事としての可能性を増加させるわけです。

人は、「できるというイメージ」がリアリティを持てば持つほど、現実化も促進されてきます。

タロットによる稼ぎ、タロット関連による収入、タロットをしていくためのお金が、現実的に、最初は少額でも、複数からのルートで集まれば、自分が可能だと最初に思った成功イメージに近づくことを実感してきて、本当に自分はタロットを仕事としてやっていけるという確信に変わってきます。

ここまで来ると、おそらくあなたは、タロットを仕事として続けていくことができるはずです。

そうすれば、最初に設定した成功イメージのレベルを上げることも可能になり、もっと上の成功も現実味を帯びてくるでしょう。

もちろん、達成したレベルに留まり、安定したものを構築・維持することでもよいです。その判断・選択は自分次第です。

タロットに関心のある人は、スピリチュアルや精神世界への比重が高いため、物質的なもの、端的に言えばお金への関心が薄いです。これは私にも言えることですが・・・(苦笑)

そこで、仕事やビジネスにタロットを活かすとなれば、矛盾とか、違和感を覚える人も少なくありません。

と言っても、現状の貨幣経済システムがありますから、サービスとお金、もっと言えば、あなたの精神とお金をリンクさせないと、まさに物質・現実としてのお金を手にすることは難しくなります。

言い換えれば、(経済的なものとして現実化するためには)あなたの気持ちがお金に向かうことを許し、身に着けた知識や技術、提供しているサービスをお金に換えることをする必要があるのです。

心を浄化したり、スピリチュアルなことを探求したりするのと、次元や表現が違いますので(本質的にはつながるところもありますが)、これの切り替え(物質の波動に下げる、お金と心をリンクさせること、お金に無関心であったり、亡者のごとく囚われたり、運任せや博打のようなことをするのではない正しいリンク性)が重要となります。

タロットを仕事・ビジネスにすることの現実的な意味では、お金とは無関係ではいられません。

物質やお金と向き合うことも、また成長の糧になるものです。(そこからの超越のためにも必要だと考えられます)


自分を出す時代 光と影

スピリチュアルの世界では、これからは統合や霊的な時代になっていくと言われています。

そのことは、このブログでも、特にここ最近、よく書いているところです。

しかし、その前には、それぞれ、個としての確立も求められることも指摘しておりました。言い換えれば、いきなり、全体が統合されるのではなく、一人ひとりが自分としての個性を成り立たせて、成熟させたうえで、そうなると考えられるわけです。

ビジネス的なサービスの面でも、どんどん個人に対応したもの、皆さんの個性に合ったものが提供されてくる傾向にあります。

同時にそのマイナス面として、理不尽とも言える個人の要求をするクレーマーとか、わがままとも言える個人的対応を当然とするようなふるまいをする人も増加してきているように思います。

求めるほうも求められるほうも、より個性化(心理学用語のものではない、単に個人化するという意味で)の時代になっているとも言えます。

個人を進めていくと、全体との確執もまた現れてきます。

その全体というものが、何を指すのかが難しいところですが、「大勢の意見」とか、「一般的な常識」とか言われるようなものになるのかもしれません。ただ、そうなると、心理学的にはスーパーエゴ(超自我)となって、自我の確立に対峙してくる存在にもなります。

そのようなことは、以前は、個人の中(の成長の過程で)起きていたものが、スピリチュアル的に見れば、それがひとつの(時代の)流れのように、全体としても起きていると言えるのかもしれません。

ところで、マルセイユタロットの中でも登場しますが、「巨大な人間像」として、アダム・カドモーン(カドモン)という存在があります。

アダム・カドモーンについては書くと長くなるのと、象徴性において、思想的に意見が異なるケースが多いので、深くは言及しませんが、あえて単純に言えば、ひとつに集合したモデルとしての意識人間体のようなものと例えることができるでしょう。

私たちが(理想的に)イメージする人類全体統合人間像みたいなものと言えます。

このアダム・カドモーンに私たちは今なろうと、全体の流れがそういう方向性に来ており、しかしながら、そのためには、一人ひとりが自分がこの巨大人間のどの部分になるのがもっともよいのかを見極めている状況とも言えます。

ちょっとスピリチュアルな物言いになっているので、よくわからないかもしれません。

何が言いたいのか言いますと、おそらく、今もそうですが、これからもしばらくは、自分らしさが追及されてくる世界になり、悪く言えば、より目立ったもの勝ちみたいなことのようにも見えるでしょうが、それも大きな視点で言えば、進化の方向性でもあるということです。

そして、誰しもが、自分自身を表現していくことに対し、もっと自然なことになっていくでしょう。

だから今、自分を押し殺している(抑圧している)人、他人や周囲の目線、自分で勝手に作っている「全体」とか「みんな」とか「親」とかの言葉(実在というより、自分で思い込んだり、イメージしたりしている仮の存在)に、それこそ忖度(笑)してしまっているような人も、そこから解放する衝動、自分を出したい欲求というものが増幅してくると考えられます。

当然、その過程では葛藤や対立も表面化してきますが、それでも、以前は抑え込まれていたり、我慢や妥協で何とか穏便に済ませようとしたりしていたものが、そうも行かなくなって、問題の本質と向き合い、対処することが加速されるように思います。

このことは、マルセイユタロットの数でいえば、5と1に関係すると考えられます。

ところが、自分を表現していく、個性としての自分を出していくということが、多くの人で行われるようになると、先述したように、個々の間の人間同士で対立も起きますし、中にはわがままな欲求をすること、人に自分の思いを押し付けることが自分の表現だと勘違いしてくる人も増えるでしょう。すでに世の中はそうなっているとも言えます。

だからこそ、ここがもっとも重要と言えるのですが、もし、あなた(自分)の表現が、周囲の多くの人を傷つけたり、不幸にさせたり、怒りを持たれたりするようなことになるのなら、それはたいてい、単なる自分勝手な個人的欲求を爆発させているに過ぎないことを認識しなくてはなりません。まるで、駄々をこねる子供の表現と同じです。

もちろん、自分の表現が、必ずしも他人に、全部とか、スムースに受け入れられるわけではありません。

しかし、自分の個性的な表れが、他人にとっても好ましいこと、受け入れられることであるのが理想で、お互いに好ましく自分を表現し合えることが増える状態が個性の成熟度を示すとも考えられます。

そのためには、まずは自分を抑圧し過ぎず、自分としての意見を述べたり、表現をしたりすることは大切で、そうすると自分は楽になってくるはずです。

逆説的になりますが、相手の個性を認めるには、最初の段階として、自分の個性を出す、自分自身を認めることが重要になります。

他人に気遣い、自分を殺していては、他人の個性だけを無条件に受け入れることになり、それは一方的なことなのです。これは別のわがまま(自分を認めず、必要以上に抑圧し、自分を殺すというわがまま)であることを理解すべきです。

その次には、自分のわがままになり過ぎていないか、単に利己的欲求の充足と個性の表現を誤解していないかをチェックし、自分を出すなら相手も出すことを許すことができるかの段階になって行くでしょう。

自分から発信していくツールが、現在、山のように出てきた理由は、当然、機器とソフト面の発達もありますが、霊的に言えば、統合のための個の確立を促進するための流れと見ることができます。

とは言え、何事もマイナス面はあるものです。

個の発信が誰でもできるような時代になってきて、それらの弊害も多く出ているのも否めません。

ですが、すでに述べたように、ある種の意図が宇宙的にはあると見ると、もし、あなたが自己の表現や自分からの発信にためらっているのなら、勇気をもってやってみたほうが、全体の流れには合っていることになります。

そして、反対に、別に今あるたくさんのツールで自己表現、自己発信することが、あなたの「個性」ではないというのなら、それもまたひとつの「個性」であり、その選択も流れには合っていることになります。

要するに、自分らしくあればいいということです。(自分らしくある時は、自分が苦しい状態ではないはずです、もし自分らしくしているつもりでも、苦しくつらいのなら、どこか間違っていることになります、ただし、成長の過程ではつらさ・苦しさは当然あるものですから、ずっと楽であることはないと言えます)

一番まずいのは、ただ惰性的、衝動的、低次の欲求充足のためだけに自覚なく生き(自覚ある場合は、特殊ではありますが、有意義なこともあります)、みんなの意見とか、常識とか、大勢に迎合し、自分の意見を持たずに他人を攻撃したり、自分を抑圧したりすることです。

自分の選択においても、感情と理性、低次と高次、その葛藤は普通にありますが、どちらがよいというのではなく、その葛藤、悩みから何を学び、得るのかという、いわば自分を超えた第三の視点から見てみることだと思います。

マルセイユタロットで言えば、「恋人」カードと「神の家」の接点を見るような感じでしょうか。

皆さん、一人ひとりの成熟した個性の確立、そこから来る祝福を願っております。


人生、生きるとは何かのタイプ論

スピリチュアルや精神世界の話のテーマに、私たちの人生(生きること)の意味とは何かというものがあります。

まあ、これは哲学的命題とも言えますし、昔から、人類が抱いてきた根本的な質問と言ってもよいでしょう。

マルセイユタロットでも、これはテーマとなるものです。(マルセイユタロットの場合、現実で生きる人生だけはない部分も扱います)

そして、これまで多くの方が様々な見地から意見を述べて来られました。

スピリチュアル系統の意見でも、もちろん、いろいろとあるのですが、大きく分けて、修行系と楽しみ・幸せ系というものがあると言えます。

また、別の分け方をすれば、「人生には意味ある」系と「人生には意味がない」系(笑)のタイプ(考え方)があると言いましょうか、そういうものもある気がします。

まず、修行系と楽しみ・幸せ系ですが、どちらも成長や発展を基軸にしているのですが、修行系は、人生は楽しみばかりではなく、つらいことや苦しいこともたくさんあり、それらの経験を通して、鍛えられ、成長していくという感じのニュアンスになります。

つまりは、人生劇場=修行場になっているという考えです。だいたいにおいて、輪廻転生説を取りますし、仏教的なカルマの概念も内包することが多いです。

一方、楽しみ・幸せ系も、基本、輪廻転生説を持ち、自分が成長していくというのも似たところではあるのですが、特に今生の人生は苦しいことを経験して成長するのではなく、楽しむため、幸せを感じるために生まれてきているのであり、そのため、楽しみと幸せこそが人生の最大のテーマで、修行のように人生はとらえないとし、修行(苦行的な意味で)の人生にしないこと、そのこと自体が大きな気づきにもなっています。

とは言え、どちらも極端になり過ぎると問題で、修行系は苦しみこそが成長の糧というように思っているところがあるので、わざわざくしなくてもいい苦労をしてしまうこと、本当の意味ではない自己犠牲を払って(自分の成長のために自己犠牲を払わねばならないというある種のエゴイズム)、自分自身を生きるということがなくなることがあります。

楽しみ・幸せ系が偏ってしまうと、楽ばかりを求めるようになり、しなくてはならない努力を放棄したり、欲望が肥大したり、無責任な状態になったりします。また、どこか上から目線で、自分はもう修行は終わったとか、楽を選べる成長を果たしていると、自分宗教の教祖になったり、妙なカリスマ性を持ったりして人を洗脳することがあります。

結局、どれが正しいかはわからないですし、思い込みの世界といえばそれまでなので、どう生きようが、自分の思い・信念次第であり、法律に違反したり、人に迷惑がかかっていたりしなければ、他人がとやかく言うものでもないと思います。

また、どちらも知性と感性をバランスよく働かせれば、それぞれの目的にかなった効率的な生き方ができると考えられます。

修行系は情報をうまく扱えば、苦しいことをせずに済む場合がありますし、楽しみ・幸せ系は、逆に一般の情報に振り回され、自分の感性を信じていない(大切にしてない)ところがあります。(その逆も、それぞれにありますが)

ただ、両方の極端なケースを見たように、結局、エゴイズムが過ぎると、どちらの信念によっても不調和になりそうな気がします。

自他のバランスといいいますか、自分の人生は自分のものではありますが、人生の舞台、つまり世界は他人によっても創られていますので、自分だけのことを考えていても、うまく行かないのは当然だと思います。(もちろん、自分がいること、自分を生きることが基本ではありますが)

あと、最初に挙げたように、人生には意味があるという立場と、意味なんてないという考えの分け方がありますが、これについては、以前も書いたように思いますので、興味のある人はそちらを参照してください。また改めて書くかもしれませんが。

それで、今日言いたいことは実は別にあります。これまでは長い前振りみたいなものてす。(笑)

先述した分け方で、楽しみ・幸せ系スピリチュアルでは、今、主流にあるように思います。それは今までが修行系の考えが多かったのですから、その反動でもあるでしょう。

しかし、ここで修行系とは少し違う意味での、苦行を欲する人たちもいることを指摘しておきたいです。

何と言いますか、皮肉な言い方になりますが、苦しいことを経験するのが楽しみで幸せの人もいるという、ふたつの融合みたいな傾向の人たちです。

そういう人は、自分の成長や発展のためというより、楽しみ・幸せ系のように、まさに自己の喜びのために苦行を選んでいるわけです。

ゲームで言いますと、ノーマルモードや初期状態のゲームではつまらなくなり、ハンディ・障害、隠しごとが複雑にあるほうが面白くなるタイプのゲーマーです。

従って、一見、修行系のように見えますが、魂は困難なこと、難しいシチュエーションを人生に望んでおり、他人が「あなたはもっと楽に生きられる」とか、「幸せから逃げている」というような言い方(特にスピリチュアルや心理系のような人から指摘)をされると、場違い感や反抗的な気持ちが出てしまうのです。(図星だから反発することもあるので、注意は必要です)

しかし厄介なことに、自分の通常意識や感情では、もっと楽で幸せな(一般的な意味での)人生を生きたいと思っている場合が多く、自分の魂部分の求めとは矛盾していることがあるので、葛藤が出ることもあります。

これと似ているもので、根本的に異なるケースでは、心理的な話になりますが、つらい人生を歩んでいることに、自分の個性とアイデンティティを求めている人がいます。

苦しい人生が楽になってしまうと、私ではなくなる、私が今まで苦労してきたことが無駄になると思っていて、これは不幸自慢などをしてしまう人に多いですね。

ハンディのあるゲームを楽しむタイプは、これ(苦しい人生に自分の個性・存在感を見出しているタイプ)とは違うのです。

一般的な意味の幸せを、万人が求めているわけではないということが重要です。それが、この個性ある世界、現実と言えましょう。

ですが、誰しも、魂次元では喜びを求めているという意味では同じなのかもしれません。

すると、修行であれ、楽しみであれ、人生は魂の喜びによって選択されていると見ることもできます。

けれども、これもやはり、ひとつの考えから出ていることなので、人生とは何かについては、つまるところ、その答えは一人ひとりの心の中にあると言えましょう。

すると、あなた(自分)らしく生きるのが、あなた(自分)の人生に一番沿うことになるのです。


タロットと時系列。過去・現在・未来

タロットリーディングにおきましても、時系列で読むことは普通にあります。

そもそも、たいていのタロットスプレッド(展開法、並べ方)でも、過去・現在・未来を象徴する場所、位置というのはあるものです。

今回は、タロットリーディングにおいての時系列をテーマにしながら、過去・現在・未来というものについて、取り上げたいと思います。

さて、面白いことに、マルセイユタロットで時間をもっとも象徴するカードに「運命の輪」があるのですが、このカードの絵柄(図像)自体に、三匹の動物が描かれ、まるで時系列としての過去・現在・未来を表しているようにも見えます。

実際、これらの動物をそのように解釈する考え方もあります。

これは、あくまで寓意的な表現ですが、もし、この「運命の輪」の輪の部分をアナログ時計ように見立てると、これに乗っかっている三匹の動物は時計の針みたいになり、どんどん時間が進みつつも、その実、変わらない(動く針と動かない針)時間、時というものがあるようにも感じさせます。

それはさておき、私たちが「時間」を、まさに流れているもの、動いているものと感覚するためには、過去・現在・未来という三つのパートを設定しておかないといけません。

そういう括りがあるからこそ、昨日・今日・明日のように、時間が流れているように見ることができるのです。

ということは、この三つは、現実という時空を意識させるための仕組みであることがわかります。(ただし、もっと言うと、それら動く時間を見ている「もうひとりの自分の視点」があるため、全部で四つの観点が必要です)

つまり、逆から言いますと、時間観念的には、過去・現在・未来を強く意識すればするほど、現実という時空への存在(感)も強まると言えます。

この点は、リーディングの時系列においても非常に重要なことです。

なぜならば、タロットリーディングでは、現実意識を超える次元やフィールドを扱うこともあるからです。

ですから、時間的な、過去→現在→未来の流れ(現実意識)とは異なる方向性、超越した状態というものも、タロットリーディングでは出てくることになります。

それは端的に言えば、現実時間を超える認識と空間(別の次元場のようなもの)であり、具体的に言えば、通常意識時間での過去や未来に該当すると同時に、「現在」にすべて集約されたある一点とも言えます。

タロット占いでは、時系列的には現在と未来、中でも未来がどうなるのかに関心と比重が高くなっています。もし過去を読むことがあっても、それは過去を示すタロットが当たっているかどうかにあり、当たっていれば、占い師が示す未来のことも信用できるという手はずになるわけです。

しかし、占いとは異なるタロットリーディングというものでは、むしろ過去が重視されることがありますし、それは当たっている・いないの観点では見ることに、あまり意味を見出しません。

心理的に言えば、タロットが表す過去のパートは、心の中にある記憶やデータのようなものであり、当たりはずれで言えば、本人の意識次第では、全部当たっていますし、また全部はずれとも言えます。

それは客観的というより主観の世界であるので、事実というより、本人(クライアント)の思いのほうが大事なのです。

従って過去に何があったのかということよりも、過去のどんな思いを蓄積しているか、どのようにその時(今においても)感じ、それについて当人はどんな認識(評価)をしていた(している)のかということが重要となります。(たたじ客観性がいらないわけではなく、客観性によって過去の思いの修正も可能です)

時間観念的には、過去の起こったことそのものは変えられなくても、思いは変えることができますので、イメージや思いの世界(この場合は過去)では、時間の流れは通常とは異なるものになります。

過去であっても、リーディングしているのは「今」「現在」ですから、過去の思い・見方が変われば、現在に影響するのはわかると思います。ということは、過去は現在でもあるのです。

このことは、未来においても同様です。

未来は、通常の時系列の流れではまだ来ていませんから、まさに「未だ来ていない」未来です。

しかし、やはりこれもイメージや思いの世界では、すでに来ているのです。あなたがイメージできる、思えるということは、イメージの世界においては実現しているわけなのてすから、今想像している未来があれば、それは「現在」なのです。

そうなると、過去も未来も同じで、記憶やイメージの中にあり、それらは今現在に思い出したり、想像したりできるので、今にすべてがあると言っていいのかもしれません。

しかし、未来が思い通りにならないのは、物理的干渉と言いますか、次元の場の違いがあるからです。

ただ、先述したように、通常の現実感覚としての時系列が、過去→現在→未来という流れで固定したものでしたから、これが、はずれていれば(方向性が異なっていれば)、ある意味、現実の時間を少しは超越することになると思えます。

言い換えれば、過去・現在・未来の時間枠から出ることで、逆に、過去・現在・未来のある枠の世界に影響を及ぼすことができる可能性があるということです。

これも「運命の輪」で説明するとわかるのですが、今のあなたは、ある種(ひとつ)の「運命の輪」にいます。

これが今あなたが思っている過去・現在・未来であり、あなたの「現実」です。

しかし、別の「運命の輪」に移行すると、あなたの「運命の輪」も別の種類のものに変わり、そこでは、今までの過去・現在・未来とは異なる認識のあなたの世界があります。(と言っても、通常の物理・肉体次元にいる限り、時間には縛られますが)

過去と未来は、現在に集約されると言う話もしました。

従って、あなたの「運命の輪」の乗り換えが行われれば、あなたの今の現実、あえて占い的な言い方をすると「運命」が変わるのです。

乗り換えには、「運命の輪」の、どの動物視点が重要なのか、たぶん皆さんにもわかると思います。

そして、「運命の輪」に生き物はいますが、同時に、輪そのものがマシーンであり、システマチックに動いていることも意味が深いです。

霊的な観点で言いますと、私たちは物質・肉体次元での感覚に囚われ過ぎていて、ここからの解放や脱却を目指す必要があると言われます。(ただし、物質次元を強化する全体的な流れもあったので、悪いことではありませんでしたが)

ここでも書いたように、過去・現在・未来という三つの見方とその直線的な流れに自分が無意識的になっていればいるほど、現実感覚も強くなりますから、霊的な覚醒には、そうした時間観念から離れるタイミング・機会を持つことがよいと考えられるわけです。

タロットリーディングの本質も、個人の問題・課題を癒し、見方を変化・成長させていくことにありますが、結局、時間観念的には、現実意識の時間に揺らぎを起こさせるというものでもあるのです。

それがイメージや想像、内的な世界との接触にもつながり、さらには霊的な世界(神性へ)の喚起にもなります。

とはいえ、現実時間感覚が希薄な世界に突入すると、文字通り、現実逃避にもなりますから、注意が必要です。よい現実逃避を目指すべきで、それは現実をきちんと認識したうえで(生活・通常を安定させたうえで)、別の世界や見方を経験していくことでもあるのです。

従って、現実超越の過程では、必ず現実(肉体や経済、物質的、時間制限的なもの)と向き合うことが起こるものと予想されるのです。

スピリチュアルを志向する人において、問題が意外に現実次元で起きるのには、こうした意味がひとつにはあると考えられます。

だからと言って、あなたのスピリチュアルな目覚めの方向性は、止めてしまうのも問題なのです。

このあたりも、「運命の輪」の中の二匹の動物で示されることでもあります。

結局、「運命の輪」の話のようになりましたが(笑)、何かの参考になれば幸いです。


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