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タロットとイメージ力
タロットは絵でできているカードなので、イメージと深く関係してきます。
タロットはこのブログでも書いてきているように、様々な使い方があり、その多くの中のひとつが、イメージ力をあげるためのトレーニングツールとして活用できることです。
しかも、ほとんど意識しなくても、タロットを使い自己や他人をリーディングしていくようになると、自然にイメージの力は上がっていく仕組みになっているように思います。
その理由は簡単です。
タロットを読むということは、実際の相談ごとの情景を思い浮かべて、それがタロットの絵として共通しているものがあるか、関係性があるかどうかを、イメージとタロットとの絵柄とで検索するようなことをしているからです。
つまりは、イメージを意識的に使うことが、一連のリーディング作業に課せられているのです。
もちろん、カードがなくても、人はいつもシーンや光景を思い浮かべることはしていると思いますが、タロットリーディング自体が、特にイメージを喚起するような流れになっているので、イメージする力が高まるわけです。
また、最初は何も思い浮かばないという人でも、カードの絵柄、特にマルセイユタロットは、あえて芸術性や刺激のあるような絵にしていないことで、むしろ人間誰しもが持っている意識の元型のような形を描ているので、不思議とイメージが段々としやすくなってくるのです。
ところが、このイメージの力というものは、実は創造の力とも結びついており、特定のカードで言えば、「女帝」や「力」、さらには「13」や「悪魔」などとも関係してきます。
言ってみれば、現実化する前の元のエネルギーのようなニュアンスがあります。
「引き寄せの法則」「思考は現実化する」などの本、あるいは説などで知られているように、人の想念・思い、つまりは想像力は、日本語として音が同じの「創造」につながり、いわば“想像した通りの創造”が行われると考えられています。(これには、条件や制約がついて回るとは言えますが)
ということは、必ずしも、いいことばかりが創造されるわけではなく、まさにイメージしたことが起こる(あるいは、起こる源泉になると考える)というのなら、ネガティブなことも生じるおそれもあるわけです。
タロットリーディングの際、例えば、さきほど挙げました「女帝」カードの問題性として、創造の過剰さというものがあります。
これは創造にための想像が、悪い意味で過剰(ネガティブイメージのし過ぎ)になっていると言う事態を示します。
女帝(の象徴性において)は本来、創造的な性質を持ち、まだ現実にないものをイメージの世界でクリエイトすることができます。
しかし、これがよいことの想像だったのならいいのてすが、いわゆる取り越し苦労のような、まだ起こってもないことを先々に心配してしまい、その不安で自分を悪くさせている場合があります。
しかも、ネガティブなイメージや思いは、もともと強い力を持つことが多い(この理由は後述します)うえに、タロットを使うような人になってきますと、最初にも述べたように、イメージ力が向上してきますから、人によってはネガティブイメージのクリエイト力が上がってしまい、現実にまでそれを引き起こすケースがあります。
簡単に言えば、ネガティブ想像の現実化です。
ですから、イメージ力が上がることは、いいことばかりではないのです。(何事もよい面と悪い面のセットにはなっています)
さきほど、「人によっては」と書いたように、イメージ力が上がっても、ネガティブの創造性が増す人と、ポジティブの創造性が強くなる人など、個人によって異なってきます。
一般的に、自立性が少ない人、他人の影響を被りやすい人は、イメージ力が向上しても、ネガティブさや、人の想念など、他人の影響によって自分のイメージが作られることが多いため、その力の影響力が、かえってマイナスに作用することがあります。
また、人類の集合的意識のようなものに、かなりのネガティブさが溜まっていると想像されるため、今の地球の人類は、どうしてもネガティブに流されたり、その力に飲まれたりして、本来ポジと等しいネガであるものが、幻想的(仮想現実的)に、ネガが上回るような世界になっているところがあり、そういうことからも、イメージ力の増強がネガティブ想像(創造)強化につながる場合があるわけです。
そして、霊的な向上など、スピリチュアルな成長・発展を遂げたいという思いの人が、イメージ力を上げていくと、イメージ空間とも呼べる、ある種の次元との接触が強くなってきて、自分の未浄化の部分(データ)を掘り起こすことが起き、次々と障壁・障害のようなものが実際に出てくることがあります。
長い目で見れば、それはよいことでもあると言えるのですが、障害が出る現実となると、苦労や大変さもあるのは事実です。
というようなことで、タロットとイメージの力は密接に結びついてはいるものの、その使い方には気をつけるところも必要で、結局、自分の体・心・魂を調和させていくことをしないと、せっかくのイメージの力も乱用させたり、自己を破滅させたりすることになりかねないわけです。
ですが、もちろんよいこともたくさんあり、イメージだからこそ、自由に世界を創造することが可能で、現実で押し込められた自分、必要のないルールで縛られた自分の世界を解放させることができます。
またつかみとごろのなかったものを、絵や像として、とらえることができるようになります。
これらは現実をコントロールすることと、大きく関係してきます。
「人はイメージできないことは実際にもできない」と言われますから、逆に言いますと、イメージの力が強まることは、生きるうえでのパワーやフォースを得ることと等しくなるのです。
師匠と弟子
皆さんは師と呼べる人がいますか?
学びや芸事となると、やはり先生や師匠に指導してもらわないと、なかなか独学では難しいところがあります。タロットも、一種の芸事とも言えますから、独学でもできないことはありませんが、師匠に習ったほうが、習得は早いのではないかと思います。
しかし、どの分野にしろ、まったく新しいことを始める人、創始者的な人物ともなれば、師はおらず、独自で開発した、到達したという方もおられます。
とはいえ、たとえそういう人であっても、生み出すことには、何らかの参考となるもの、最初に例としたものなどはあるはずです。つまりは先人の築いたものを下地に、新しいものが創造されているわけです。
ですから、師というのは、大きな括りで言えば、ひとりの人物とか、実際に指導してもらえる人だけを指すのではなく、自らが参考とした人、モデルになった人、自分の(技術・教えの)型や完成を得るために参照してきた書籍、人の言葉なども、言ってみれば自分の「師」であるわけです。
ところで、人間的な直接のつながりを持つ弟子と師匠の関係において、そこにはお互い人間であるだけに、情というものがはさまれたり、生まれたりします。
指導には情を入れてはいけないという説もありますが、考えてもみてください。
機械的にただ教え、学ぶだけの形式では、味気ないことに気が付くでしょう。そこに感情のやり取りも入るからこそ、教えにも幅や面白さがあ出るのです。
けれども、やはり情が入り過ぎるのもいけません。師匠と弟子、どちらか一方において、情が過剰であることは案外多く、両方入り過ぎる場合もあります。
弟子側が過剰であると、師匠に依存的になり、自分の親との関係を投影してしまうことがよくあります。
反対に、師匠側が入れ込み過ぎると、極端に弟子に干渉することになり、過大な期待や細かすぎる指導をしたり、逆に冷たく突き放して「技を盗め」みたいな態度になったりします。
これは師匠の子どものような対象を投影し、いわば、過干渉の親や、放置する親みたいになってしまうわけです。
そして、弟子・師匠がともに情が入り過ぎると、共依存の関係になりがちです。
ということで、私からお勧めするのは、すでに書きましたように、師匠の概念・範疇をもっと拡大し、一人の師匠とか、人間だけが師匠ということに限定せず、ほかの人や、すでに今は存在しない先人、人が書いた書物などを別の師として、自分の架空設定としておいておくとよいのではないかと思います。
このことは、実際に複数の師匠を持てと言っているのではありません。現実に二人からの指導を受けていますと、それは混乱することが多いので、逆効果のこともあります。
自分の人としての師匠の言葉・方法などを、自分なりに検証し、客観的に見つめるためにも、自分における別の「ご意見番」みたいな存在を作っておくとよいと言っているわけです。それが、お互いに情的なものが過剰にならないたの工夫でもあります。
あと、前にも書いたことがありますが、分野ごとの師匠を持つとよいです。
タロットで言えば、小アルカナ4組の象徴でもある、4つの分野で見ていくのもありです。
今回はあえて省きますが、例えばお金や経済的なことでの師となる人、自分の趣味の分野での師匠など、それぞれ別で持つわけです。
中にはメンター的な人物となりますと、すべての分野(いわば人生)のトータルな師という立場の人もいるかもしれませんが、それはそれで、5番目(4つの分野)の、全体を統括してくれる師匠という人で、なかなかそういう方は見つかりにくいですが、もしいらっしゃれば、とてもためになるでしょう。
この先生と知り合いたいとか、この人のセミナーなどを受けて「自分の師」としたいと思ってる人物がいても、なかなか経済的なことや、時間的なこと、距離的なことなどで、知り合う機会、参加する機会が得られないままという方もいるかもしれません。
そういう場合は、直接関わりがないとしても、その人が発信しているものにふれて、その人自身というより、その人が表現しいるもの、述べていること、その内容自体を心の師とすることで、先述した架空設定の師匠に、自分の中ではなってくれるようになります。
結局、究極的には、他人も自分のようなもので、師も弟子も、立場を超越して、学びたいと思う自分の中に存在していると言えます。
あなたにとっては、実際の師も、心の中の師も、実はあなた自身でもあると言えます。
現実の世界なので、実際の「人間」のほうが、やはり影響力は高いと考えられますが、架空の師であっても、自分に何らかの形で影響を及ぼし、自分にとって学べることができる存在だとも言えます。自分が自分を導き、教えているのです。
ただ、それは漫然としていては、架空の師から学ぶことはできません。
自らが真剣に学ぶ態度と行動を示し、知識と経験を積み重ねていくことで、自らの中の架空の師も成長し、あなたに適切な助言や気づきをインスピレーションのような形を通して与えてくれます。
今や、学びの環境は、かつてないほどに整っていると言えます。直接の人でもよいですし、架空の師の設定でもよいので、学びと成長を志すと、それに呼応した人物が現実にも、心の中にも現れることでしょう。
それは誰かの師という立場の人であっても同じで、自分の弟子ですら、別分野では(同じ分野の何かでも)自分の師となることがあるのです。
そして、あなた自身も何かの師であり、今はそう思えなくても、必ず、そうした瞬間がやってきます。もとはと言えば、神性(完全性)を有する私たちなのですから、弟子・師匠というのも、一種の舞台装置のようなものなのです。
その舞台には、また縁が働いており、あなたの劇場に登場する人物が究極のシナリオによって作られていて、それを楽しむ本質的な自分がいるものと思われます。
その意味でいえば、出会いはすべて師であり、弟子なのだということになるでしょう。
二元統合とは何か。
マルセイユタロットは、ある種のエネルギーや、この世界(宇宙の)法則のようなものを描いているとも言えます。
その点では、東洋での象徴体系も同じといえ、洋の東西で本質的なものを表す何らかの方法が伝えられてきたのだ考えられます。
そして、西洋も東洋も、大元から次の段階に進む(見方を変えれば下降する、次元を落とすという言い方にもなります)時、二元に分かれたかのような状態になっていくのだと想像できます。
それが、東洋的に言えば陰陽原理みたいなもので、そこからさらに陰陽が無数に枝分かれしていき、現実の色濃い世界が表現されているのだと見えます。(このあたりは、バーチャルリアリティーの世界を表現するのと同じと考えられます)
このことは、マルセイユタロットにも描かれていることであり、大アルカナの数でいえば、数が小さくなっていく方向性(分離や具体の方向性、つまり私たちの実感している現実の世界になっていく方向)と言えましょう。(ただし、小アルカナは逆方向)
逆に言えば、二元分離をどんどん統合していくように向かって行けば、自ずから大元、太極、一なる始源へと回帰していくことになります。
では、ふたつに分かれたものを「統合していく」というのは、実際にどういうことなのかという疑問が出てくるかしもれません。
この二元原理は、現実世界でも、様々な比喩や例えになっており、象徴として考えると、いくらでも二元原理の表現は見て取れると言ってもよいものです。
例えば、天体では太陽と月、性では男性と女性、行動性では、能動性と受容性、色では白と黒みたいな感じです。
この場合、統合とは、ふたつが一緒になったり、ひとまとめになった時に現れる状態ということができます。
太陽と月が一緒になる(見えている)ことは時々ありますが、そういう同時に出るというのではなく、太陽の時間と月の時間があると見て、結局、それは一日のことだとなります。(昼と夜とで一日という言い方もできます)
女性と男性が統合されれば、両性具有になりますが、心は別としても、現実の性機能では両性具有になることは不可能なことです。
しかし、結婚という形で共同で生活をし、セックスによって一時的な両性具有となり、子どもという新たな生命を生み出すことが可能になります。(皮肉なもので、セックスという言葉は分離を表しますが・・・)
能動と受容のような、運動性・行動性の場合、例えば、あなたが誰かと会話している時、あなたが話していて、相手が聴いている状態なら、あなたとその人はやはり二元(話し手・聞き手の能動・受容の二元)になっていると言え、この時には会話(コミュニケーション)が成立しているわけです。
それから、あなたがお茶を飲もうと、ポットから茶葉の入った急須にお湯を注ぎ、その急須からコップに向かってお茶をいれて口から飲む時、ポットのボタンを押す(それが反動で戻ること)こと、お湯やお茶が容器に入ること、それを飲むことなど、一連の動作に、すべて押し引き・出し入れがあり、そういうことも二元にになっているうえに、それが完結している(セットとしての繰り返しがあって完結する)と言えるのです。
つまり、二元が統合される時は、新たな何かが生み出されたり、ある行為が完結したりするのです。端的に言えば、創造する力です。
ということは、私たちは、すでに些細なことも含めて、この現実世界で無数の統合を果たしながら生きていることになります。
スピリチュアル的に言えば、二元の統合は、神になる、あるいは神そのものの行いだと言えます。神を完全や完結という言い方にしても同じでしょう。
今見てきたように、私たちは無意識に、生活の中で二元統合を果たし、あるものを生成(創造)しています。それなのに、神どころか、迷い、悩み、苦しむ状態が多いのも「現実」です。
これはどうしてなのでしょうか?
おそらく、行為が無意識的過ぎるのと、物質的な観点に縛られて、見えないものや心の領域、魂レベルでは統合が果たされていないからなのではないかと推測されます。
技の世界でも、心技体などと言われるように、単に技だけ向上させても、それは形だけのものに過ぎないというわけてす。
物質、心(精神)、魂(霊)、西洋的にいうのなら、マテリアル(ホディ)、メンタル(サイコ)、ソウル(スピリット)など、それぞれの次元・分野において、統合がなされていないと(霊・魂・ソウルとかのレベルでは、すでに統合は果たされているかもしれませんが)、真の意味では「統合」とは言えないのかもしれません。
男女統合において、セックスを例にしましたが、確かに形(行為)だけでも子どもはできるでしょう。しかしながら、心の合一が伴わないそれは、果たして本当のセックスといえるのかということです。そういう状況で生まれてくる子どもに注がれる愛情や環境も、バラバラな男女(親の)状態だったのなら、あまりよいものとならないおそれが高くなります。
このようなことからもわかるように、「(二元)統合」は、別の観点(表現)で言うならば、「愛」であり、数で言うと「ゼロ」(ゼロの概念を置かない場合は根源的な1)であり、従って、重さもゼロ、すなわち、それは物理的には「光」と言えるのではないかと考えられます。
愛と光がよく似たような言葉の意味として使われるのも、そういう理由からではないでしょうか。
統合は、対立するふたつのものを認識(区別)するところから始まります。ここが実は混乱のもとと言いますか、誤解されているところであり、統合とは、すべて一緒にするという意味とは以て非なるものであり、ふたつのものの明確な区別が最初は必要とされるのです。
両方か混在して混沌としたままでは、統合という発想が起きないのが普通です。
昼と夜で例えると、一日(24時間、地球のひとつの自転)として統合するためには、昼の時間と夜の時間の違いがはっりと分けて見ることができていないと無理です。昼が一日、夜が一日だと同じにしてしまうと、自転している地球への認識(それが、この場合の統合観点)は出ません。
一日としての二元分離が不明確であれば、いわば、夜明けと日没の不透明な状態が、ずっと続いているようなものです。
よって、統合は、まずは二つの対立に気づく、認識するところから始まり、その違いを踏まえたうえで、そのどちらもがどちらでもないという感覚になる視点を持つようになってはじめて、統合されたと言えるでしょう。
さきほどの一日の例でいえば、地球の自転という発想が現れることで、太陽の光が当たっているほうと、会っていない裏側という見方ができて、こうして、昼と夜は違うけれども、それは単なる見方の違いで、実は地球としての自転が生み出しているものなのだとなるわけです。(言い換えれば平面の地上ではなく、球としての地球そのものの認識が生まれるということ)
長々と書いてきましたが、何が言いたかったのかと申しますと、二元統合の本質と、二元統合は形だけのものや、一緒くたに混ぜてしまうこと、単純に合わせることを言うのではないことが、まずあります。
次に、統合の機会はどこ(どのレベル)にでもあり、それを意識的にする(意識化する)ことで、本当の統合経験が増し、自己の愛も拡大していく(統合と愛は等しいものであることは先述しました)ということになります。
学びの本の探し方
私の講座を受講された方には、以後も継続的な学びをしていただくために、様々なアフターフォローを提供しています。
その中のひとつに、受講者用メルマガというものがあります。
このメルマガは、まさにタロットを学習した者だからこそわかる内容のもので、特別な知識と気づき、学習方法などを記載しております。
そして、そのメルマガでは、時折、本や動画などをご紹介し、課題として取り上げ、皆さんなりに学んでいただく企画もしております。(一冊の本並みの解説書を、取り組んでいただいた方にはお送りしております)
こうした時にも思うのは、課題とする題材を選ぶ難しさです。
よく、タロットの学びに当たっても、生徒さんから、「読むといい本を紹介してください」と言われますが、これは、紹介するほうとしては、案外、難しいことなのです。
いや、世の中に、タロットの本はたくさんあり、選択には困らないと思われるかもしれません。
しかし、占いとしての本は確かに多く存在するのですが、私の伝えたいこと、学んでいただきたいことは、占いに使われる意味でのタロットではないのです。
占いではないタロットの本は、実は非常に少ないです。ですから、むしろ、タロットそのものの本よりも、スピリチュアルや自己啓発、心理関係の本などのほうが、当を得ていたり、学習として効果的な場合もあったりするのです。
時には、映画とかアニメ、ネットで配信されているフリーの動画などのほうが、示唆に富むこともあります。
こうした学びのための題材選びは、あまりマニアック過ぎないことが大事で、それでいて、ライト(軽薄)ではないもの、つまりは新たな視点や知識として、学びとなるものが必要とされます。いわば、普遍的でいながら、それぞれ学習者個人個人に対応する気づきも与えられるようなものがいいのです。
全員に共通するような学びがありつつ、個性(個人)的にも有用である、という一見矛盾した条件があるため、選別は難しいわけです。
さて、タロットに限らず、何かスピリチュアルなことに関心があり、そうしたもの(スピリチュアルや霊的な向上)について学びたい、あるいは何か自己啓発して自分を成長させていきたいと思っている人は、やはり人から学ぶか、そうした関係の書籍に当たって学習するでしょう。
まあ、最近は、ネット教材も無料で探せばいくらでもある時代ですから、ネットの文章や動画で学ぶという方法もあります。
とはいえ、まだまだ本・書籍の重要性は大きいかと思います。
いずれにしても問題は、本や動画など、自分の学びのための教材はどう探せばいいのかということです。
今は、気になる言葉や対象について検索すれば、関連本のタイトルや一部内容とか、紹介している人のブログとか、簡単に探せる時代ですので、当然、ネット検索を使うということはありです。
それに、自分が学ぶ分野の、先輩や先生が紹介してくれる本を読んてみるのも、王道といえば王道です。
現在は電子本が普及してきたとはいえ、まだ実際の本もたくさん出版されていますし、リアルの大きな書店に行けば、手に取って見ることもできます。
例えば、スピリチュアルなコーナーに行って、気になるタイトルがあれば、それをパラパラとめくってみると、自分の学びたい、知りたいことの一部が書いている本に出会うというようなことがあります。
これは、リアルな書店は、紙の本であるがゆえに、タイトルや本の雰囲気そのものが一望できることと、質感も伴っているので、ネットで検索して眺めるのとでは、また違う感覚があり、自分の心(顕在・潜在の意識)が引き寄せるかのような仕組みが、より働きやすいのだと想像できます。
ですから、実際に本屋に行くというのも、探求する本、自分に必要な本に出会うためには、よい行為だと考えられます。
あと、目的を変に絞り過ぎないということも、意外とポイントです。
また、ついでに・・・とか、気になってしまった・・・いう感覚も受け入れるとよいです。
例えば、ある(決めている)本を買いに行こうと足を運んでみると、そばにあった別の本が妙に気になり、手にして中を見ると、予想以上に面白そうだ・・・と思ったら、ちょっとお金はかかるかもしれませんが、思い切って最初に買いたいと思った本と一緒に購入してみることで、新たな知識を得たり、道が開かれたりすることもあります。
私自身の経験でも、こうした目的外の本のほうが、その後のために、案外、役に立ったということはよくあります。
いつもはこのコーナーに行くけれども、ちょっと隣や裏に回ってみようとか、そういうことからでも、新しい本と出会う可能性はあります。その時は買わなかったとしても、メモをしていて、あとで検索して調べて、よければネット購入するという方法もあります。
ほかに、仕事の出張や旅行の際に、訪れた地方や別の都市の本屋に立ち寄ってみるというのも、いい本と出会う可能性があります。
おそらく、いつもと、気持ち、土地の雰囲気も違うので、普段、気づかなかったり、無視していたりする本でも、別の地域の場合だと、意識が異なっているので、見つかりやすくなっている(心にひっかかりやすい状態になっている)のだと推測されます。
それから、学びのためには、乱読と集中というふたつのパターンが、その時々によって、効果的になります。
乱読は、ご存じのように、とにかくなんでも気になったものは片っ端から読んでみるというやり方です。
積読になっても構いません。とりあえずストックしておき、読めるものから読んでいきます。最近は場所を取らない電子本の購入、紙の本を電子化することもできますから、データにしてとりあえず置いておくというのもいいでしょう。
乱読は、とにかく広く浅く知識をつけたり、刺激をいろいろな方向から当てて、自分を磨く(学びをする)という効果があります。また、自分が何を欲しているのか、どうしたいのか、どういう方向に関心があるのかというのも、最初はわかっていないことが多いいので、乱読して、ぴったり、しっくりする分野を見つけるという目的もあります。
一方、集中法は、特定分野の本、同系統の本、あるいは同じ著者の本を集中して読んでいく方法です。
これは深く専門的に知識を得たい場合にはよく、好きな人の思想や考え方を、とことん学びたいという時にも向いています。一人を追いかけることで、その人になりきりつつ、また自分流の道を発見することもできます。
同じ分野でも、いろいろなアプローチ・見方があったり、多くの著者がいたりしますので、集中型といえど、乱読に近い形を取ることもあります。
それでも、一時、ある特定のものにどっぷり浸かってみるという経験も必要で、一通りのことが過ぎれば、自然に次の関心に向かうことができます。逆に言えば、人によっては、中途半端に済ませていると、なかなか先に進めない、足踏み状態が長く続いてしまうということがあります。
知識というものは、入れることを目的としまってはダメです。それは単なるエゴの知識自慢に陥りますし、逆に自分を偏狭なる世界に閉じ込めます。
本を読むにしても、必ず一冊全部読まなくてはならないとか、頭に入れてしまわないといけないとか、縛りをかけなくてもよいでしょう。(あえてルールを決めることで、学びを進める方法もありますが)
さきほども言ったように、知識を入れることが目的ではなく、その知識を使って、さらなる気づきや覚醒、成長を促していくのが本当の目的です。
知識を使うことは、何も入れた知識を肯定的に扱うことだけではありません。むしろ、アンチテーゼや、反対側の意見を自分に出させることもあり得ます。そこで葛藤になるわけですが、その葛藤がまた、統合や自分の進化に寄与していくことになるのです。
思考や知識を嫌う人もいますが、ハートのセンサーを磨いたり、本当の自己の中にある叡智を覚醒させていったりするためには、まずは知識を土台(踏み台)にしていく方法もあるのです。入れた知識、学んだ知識を、最終的には捨てるようなことになっても、捨てるためにはまず拾って確かめておく必要があります。
最後に、本などの学びによる選択は、個人ペース、個人ベースであることを言っておきます。
それは、自分の本棚が、誰か他人とまったく同じ本で埋められている、置かれているというようなことはあり得ないということからもわかると思います。
人には、自分なりの価値観や学びの方法があるのです。
人から紹介されることや、ネットで評判だからというきっかけはあってもいいですし、それから始まることも多いですが、学びの内容、方法は、人と違って当たり前だと意識しておくと、回り道をしているような気分でいても、あせらず、すべては自分のよき成長のために起こっていること、選んでいることだと理解できるようになるでしょう。
そうして、まさに、その時の自分にふさわしい本や知識と出会うことになるのです。
初心と思い出話
人間、慣れてきたり、上の立場に立ったりすると、初心を忘れ、ちょっと独りよがりや、傲慢になることがあります。
特に先生と呼ばれるような状況になりますと、自分は謙虚にいようと思っていても、知らず知らず、上から目線になり、学びの気持ちが薄れていくこともあります。
私もタロットを教え、指導することをしていますが、そういうことにならないよう、自分が下になることを意識しています。
自分が下になるようなことと言えば、いろいろと方法はあると思いますが、やはり、自らが学ぶ立場になること、そういう機会を作ることです。
もちろん、何かの先生や指導者になっても、その専門分野においてさえ、まだまだ学びは続ていくものです。
これで完成と思った時点で、技も知識も成長を止めてしまうことにもなりかねません。(段階別に完成を意識することは悪いことではありませんが)
しかし、専門以外のことで、新たに学びの徒、生徒になることのほうが、初心の気持ちに戻る機会が実際にありますから、有意義でもあるでしょう。
ということで、趣味でも何でもいいので、新たに別分野の初心の生徒になってみるのが、下の立場の気持ちになるひとつの方法です。
また、たとえ専門のことであっても、今までとは別の、ほかのアプローチで技術なり知識なりが研鑽できないかと試行錯誤してみたり、専門分野において実践活動するものがあれば、それを実際にやっていったりすることを絶やさないことも重要かと思います。
例えば、タロットでいえば、タロットの指導者であっても、タロットリーディングを、先生的な立場で行うのではなく、一介の名もなきタロットリーダーであるかのようにして、タロットをほかの人に役立てるようなことをします。
また、セラピストやヒーラーなら、自分自身が、ほかの(友人とか知人ではない)人の施術を受けてみるというのもありでしょう。
たとえその結果(受けた内容)がよくなかったとしても、自分の気持ちを新たにするという意味では、得られるものは小さくはないはずです。
ほかに、初心を思い出すため、その時、活動や学びをしていた頃の場所やイベントなどに足を運んでみるというのもいいかもしれません。
私の場合、メールや出張にてのタロットリーディング、タロット占いが実践活動としての最初でしたが、たくさんの人を一気にリーディングしたという初めての経験では、イベントでのものがありました。
それは、今も各地のホールなどでよくやっています、スピリチュアル関係のイベント、マーケットみたいなものです。
申込者にテーブル仕様のブースが割り当てられ、たくさんの出店者たちの人とともに、お客様をお出迎えします。フリーマーケット会場をイメージしていただければ、雰囲気はつかめると思います。
私は地元の神戸のイベントで、同じタロットの学びをしていた友人と一緒にブースを借りて出ました。
友人は、頭を剃っていましたので(修行者ではなく、友人の単なるスタイルです)、あえて着物を着ることで、お坊さんやえらい東洋占術関係の人に見えました。(笑)
で、私のほうはと言えば、これまた、わざとスーツを着て、まるで銀行員のようなスタイル(笑)で出たわけです。
同じブースに一人は着物姿のお師匠さん・お坊さん風、もう一人はお堅い公務員か銀行員みたいな雰囲気で、なぜか二人とも、同じタロットをしているというおかしな組み合わせでした。(苦笑)
これが良かったのか、両方ともお客さんは結構来られました。
面白いことに、友人のほうには、男性客がほとんど、私のほうはほぼ女性客でした。こういうイベントは、女性がほとんどなので、むしろ数少ない男性を集める友人はさすがと言ったところです。やはり恰好が男性をひきつけたのでしょう。
余談として、この時、友人のほうに来られた男性のお客様の一人が、何度か個別にリーディングしてほしいと、友人に依頼があったとのことです。恰好だけではなく、中身と技術も信頼されたのだと思います。
私も占いの館に出た経験があるのでわかりますが、男性はあまり、占いとかスピリチュアル関係には関心がないことが多いですが、一度信用する人を見つけると、口コミはあまりしませんが、すごいリピーターになってくれることがあります。人によっては、中小企業の会社の社長さんなんかが、一年契約で見てくれ、と依頼することもあるほどです。
一方、女性は気軽に占いには来られますし、口コミも流していただけますが、意外とあっさりされているところもあるように思います。
それはさておき、こうして初イベントは、一応の成功を収め、それから何度かイベントには出ました。
リーディング内容はつたないものだったと思いますが、何よりも、たくさんの人の悩みや問題をリーディングし、喜ばれた経験はインパクト大で、タロットを以後もやっていこうというモチベーションになったのは確かです。
タロットの生徒さんにも、学びは続けていても、他人へのリーディングは勇気がないとか、自信がないと言って、やりたい気持ちはあっても、長いこと躊躇される方がいます。
しかし、どこまで行っても完璧と言う感覚を得られることはありません。
というのは、理想は、その都度、自分のレベルに応じて変わっていくからです。つまり、技量が上がっても、また次の理想が出てきてしまうので、「これで完璧だ」という気持ちは現れにくいのです。
であるならば、基礎技術・知識が得られた時点で、実践をスタートしていくほうが、慣れにもなって、自信をつける意味でもよいわけです。
もちろん、うまく行かない時はあるでしょう。それでも、何事もやってみないと始まらないのです。
今日は初心をテーマにしていますが、逆に、初心を早く脱するためには、実践をする、自分から行動を起こす、勇気をもって飛び込んでみることも大切だということです。
わかったと思うことと、実際にやるということとは違います。この世の中は実の世界です。わざわざここに来ているのは、たとえ自分でなくても、何(何者)かが望んでいるからでしょう。
ということは、実の世界を経験することが、ひとつの重要課題なのだと推測できます。結果ではなく、ただ経験をしたがっている何かがあるのだと感じます。
それが、もしかすると、カルマの解消や霊的な自己成長につながっているかもしれないのです。
