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タロットの読み方 4つの観点
このブログは、ひとつの読み物として見ていただいている方もいらっしゃると思いますが、「タロット」とか「マルセイユタロット」で検索されて、タロットの読み方とか意味を知る参考にしたいと思って、たどりつく方もおられるようです。
今日は、そういう後者の方のための記事になっているかもしれません。
紹介するのは、一枚の大アルカナを、四つの観点から読んでみましょうというものです。
やり方は、私のほうで、大アルカナを三枚引かせていただきます。(下の画像参照、もし画像が消えていたら、左、真ん中、右という位置で見てください)
そしてその一枚ずつについて、4つの観点から、意味やメッセージをシンプルに出してみるという方式を取ります。
せっかくですから、読者参加型としまして、上記画像で、三つの裏向きのカードがありますので、直感でどれか一枚選んでください。テーマ(問いの内容)は、ご自分で設定していただいてもいいですし、特に具体的になくてもいいです。
その後、下記の、選んだカードの項目を読んでいただければ結構です。
詳細な解説でありませんので(あとで説明しますが、紙上(ブログ上で)リーディングをすることが今回の目的ではありません)、深刻にならず、楽な気持ちで選び、読んでみてください。自分が選んだカード(三枚のうち一枚)が、何のカードだったのか(表)は、最後で言います。
まあ、タロットを少しでも知っている人ならば、内容から、たぶん推測できると思いますが。(苦笑)
●(向かって)左のカードを選んだ方
1の観点 焦り過ぎ、またはちょっと自信過剰のところもあるかも。
2の観点 自信をもつこと。積極的になり、とにかくやってみる。
3の観点 昇進や成功の可能性あり、物事か早く動き出しそう。
4の観点 悩むより、チャレンジすること自体に意味があるのでは?
●真ん中のカードを選んだ方
1の観点 執着、完了していないもの、ネガティブな思いがありそう。
2の観点 変化をおそれない、断ち切る、手放す、無駄を省く。
3の観点 関係は終了、先行きに不安、試練ののちによい変化。
4の観点 本当に大切なものは何か なぜそれを手放せないのか?
●(向かって)右のカードを選んだ方
1の観点 考えすぎ、発想や生活が平板、計画性の欠如。
2の観点 何かを作る、生み出す、ワクワクする企画を立てる。
3の観点 結婚や恋愛の期待、仕事やポジションの発展。
4の観点 貢献したり、補佐できたりすることは何か?
さて、いかがでしたでしょうか。
カードの回答(それぞれどのカードであったか)を発表しますと、左は「戦車」、真ん中は「(名前のない)13」、右は「女帝」でした。
もちろん、意味としては、上にあげた意外のものもたくさん出てきます。ここで書いたものは、非常に易しい読みというか、カードの典型的な意味に近いものです。(それぞれのカードで検索すれば、すぐ出てきそうな意味のようなもの)
では、4つの観点とは何か?です。
1はカードに問題性を見た場合の見方、2はカードから創造性や問題解決的な方策を得る見方、3は占いとして(どうなるか?的な)の見方、4はカードの象徴性、カードそのものになって自分を振り返るような(リビジョン的)見方です。
ここでは4つの観点を示しましたが、ほかの観点も当然あります。
このように、一枚のカードでも、観点、見方を変えれば、読みが違ってくるのです。これは別にカードを読むことだけに限らず、私たちのモノの見方、考え方でも言えることです。
例えば、いつもネガティブなこと、問題性ばかりを見つけようと思っていますと、何を見ても、何が起こっても問題ばかり目につきますし、その反対に、ポジティブや、どうすればいいかのような解決的思考(志向でもある)で見ていれば、そうした人生と生き方に(人から見てというより、自分が感じ、自分が思う自分の人生としては確実にそう)なってくるわけです。
ということは、タロットカードから出す意味やメッセージには、正解はないということになります。
どの視点て見ているのかということや、そこから出されるアイデアや発想、通常思考の転換、感情や心の捉え直し・潜在的なものの発見など、むしろそのプロセスとして、カードリーディングは重視・活用されると言っていいでしょう。
つまり、簡単に言えば、ひとつの答えや正解を出すこと(だけ)が、タロットリーディングの使命ではないということです。しかもその正解とは、結局人間が決めるもので、本当の意味では正解はないのです。
こう言ってしまうと、タロットをする意味とか意欲さえ失われる方も、中にはいらっしゃるかもしれません。
それは、タロットの本当の醍醐味を味わっていない、わかっていないからそうなるのです。また、「人生とは、正解(正しさ)や客観的成功を求めていくもの」と思い込んでいる人の場合もそうです。
究極的には正解はないというのは確かにそうなのですが、一方で世界観を厳密にすれば、その世界においての正解・不正解はありえます。ここもまた、タロットによって、検証することができます。
まずは、タロットを、カードの「手品師」の扱う手品道具のように見て、いろいろなことが考えられる楽しいツールのように思い、タロットを扱っていくことが第一歩です。だから「手品師」は「1」という数を持ちます。
そのうち、正解がないことが正解という面白さに目覚め、「皆が正しい、誰も間違いがない」という次元に行き着こうとする喜びの世界も見えてくるでしょう。
締めくくりと希望、隠者の光。
タロットカードは一部、数・数字を持っていますので、数の技法(数秘術)とシンクロさせたり、関係させたりすることはよくあります。
ただ、このブログでも何度か書いてきましたが、タロットはあくまで絵・図像が主体で、数は付随されたものに過ぎません。もちろん、無意味に数を与えられているわけでもないので、数と無関係でもないというところが、かえってややこしいことにはなっているのですが。
誤解しやすい点で言いますと、やはり数秘術は、1から9(そして0を入れた10のこともありますが)を中心とした数で考察していくのに対し、タロットは一桁の数の象徴性というより、システムやセット、組としての数のほうが重要になっているということですね。
つまりは、ひとつずつの数の意味合いより、組・セット、一連のシステムとしての構成数に注意を払うことのほうが、タロットにおいては大切になっているということです。
それでも、数を知ることは、タロットを理解するうえで、無駄どころか、有益なところはあると思います。たぶん数について学べば学ぶほど、タロットのおける数との整合性も自分の中で取れてくるでしょう。
逆にいうと、浅い段階で無理矢理、タロットの数と、数秘術的な数とを融合させようとすると、矛盾が出てきて、自分の中でますます混乱を来すことになるでしょう。
とはいえ、数には、直観で知る智慧もあるので、非常に優れた直感性を持つ方ならば、学ばなくても、理解できる(どの分野ででの数の使われ方の意味とその違い、根源的共通部分を理解する)人はいると思います。
ところで、今日は数の話をしておりますが、これまで言ってきたこととは離れて、今からの話は、どちらかと言えば、感覚的に見るようなものになります。
そこに、確かな論理性とか、根拠はないので(あるといえばあるのですが、長くなりますので割愛します)、気軽な気持ちで読んでいただければと思います。
年末にもなってきますと、今年一年を締めくくりたいとか、来年はどんな年になるのかとか、年の意味を知りたくなるものです。最初は全体(日本とか世界とか大きな括り)での意味を思いますが、やはり、関心の中心は、自分にとっての年の意味になってきますよね。
こういう時には、占いの世界では、いわゆる命占と呼ばれる、主に生年月日をデータのもとにした占いで、一年の傾向を見ることがあります。占星術などはその典型ですね。
では、タロットでそのようなことができるのだろうか?と問われれば、厳密な命占的な意味では難しいですが、おおよその流れとか傾向はタロットでもできないわけではありません。
その方法は、本当にたくさんあるのですが、一番シンプルなものは、その年の象徴(来年だったら2019年として)一枚引いて読むというものがあります。
一年は12か月ありますから、3か4の単位で見ていくことが便利で、つまり3か月スパンとか、4か月スパンでカードを引くことができます。そうすると、三枚引きだったら、その一枚を4か月と見ることができますし、四枚引きだったら、まさに春夏秋冬でありませんが、三か月、四半期ごとの一枚と見てもいいわけです。
あと、数秘的計算から見るのもあって、見たい年と自分の生まれ月日を全部一桁ごとに足して、ある数字を導き出し、その数を持つタロットが、その年を表すみたいな技法があります。(イヤーカード)
これとは別に、個人的なオリジナルなやり方ですが、2018年だったら、下一桁の18と関連させて、全体の傾向が大アルカナでの18の数の「月」のカードにあり、個人としては、生まれ月と日をばらして足して一桁にしたものと、途中の二桁の数(22の枚数と比べた、22を引いて出る数)のふたつの数、つまり合計で三つの数と、その数を持つタロット(大アルカナ)を関連させて三枚で読むのも、意外に当たっていることが多くて(これは感覚的なもので、論理的根拠はありませんが)、面白いと感じています。(個人的な数ふたつは当然いつも同じになるのですが、三枚を関連させていくことによって、毎年違った読みになり、興味深いものとなるのです)
もちろん、数とは関係なく、今年、2018年は私にとってどんな年だったか?とか、 今年は何を学ぶことが必要だったか?みたいにテーマを決めて普通に展開してみるのもよいでしょう。これは一年の締めくくり的な感じで行う時ですね。
年を見るには、シンプルな展開のほうがよいので、あまり枚数を多くしたり、複雑にしたりせず、数枚で読んだほうが理解しやすいかもしれません。
ただ詳細に知りたい人は、いつもやっているような展開法でやってもよいです。
今年一年、まだすっきりしない、積み残しのような課題がある、心がもやもやしていて年を越せないという人もいらっしゃるかもしれません。12月には、そのような方のご相談が増える傾向も確かにあります。
やはり、人は一年の区切りをもって、新年に臨みたいという気持ちが、これだけ年と月の認識が標準化されてしまうと、12月と1月とではまったく意識も質も違うので、改まりたければ、浄化しておきたい、すっきりさせておきたいと思うのは当然、心理的にも働くと思います。
物理的に大掃除するのと同じということです。
まあ、思い込みだけではなく、暦にも意味があり、やはり太陽と地球の動きを中心として、年末には冬至がありますから、そうした天体の動きと呼応する部分は、人にもあるわけで、冬至といえば、古来より、重要視されてきた時のポイントであり、太陽の復活再生の象徴性をもって(今は世界中がイエス・キリストと同化していますが)知られています。
とすると、私たち全体もそうですが、個人個人にとっても、冬至の時期を切り替えとして、また一年の概念としては、大晦日から元旦という切り替えの時で、締めくくりやそぎ落とし、浄化、掃除を行いたい衝動、そして、気持ちも環境も改まって、フレッシュな自分が蘇り、再生した新たな自分としてスタートしたいという思いも出てきます。そうしたほうが、自然の流れにも叶っているわけです。
ということで、タロットを使って、いろいろとすっきりと整理して、次に向かうのもありでしょう。自分でできない場合は、タロットリーダーとか占い師に見てもらうのもよいですよ。(宣伝しておきますが、私も一応プロのタロットリーダーです。(笑))
でも、完全にすっきりできなくてもOKです。積み残しがあってもいいのです。あるポイントで劇的に変化する場合もあれば、少しずつ、ゆっくりと変わっていくパターンもあるからです。
完璧を目指すと、余計つらくなります。少しでも、癒されたり、前向きになったり、希望が出てきたりすればOKです。
この時期は寒くなっていく季節ですが、イルミネーションが街にきらめいていたり、クリスマスの雰囲気で温かい感じになったいたりと、人や雰囲気のほうは逆に温かさ、ぬくもりを感じやすい時でもあります。象徴的に言えば、天使や観音が舞う(活躍する)時期と言っていいかもしれません。
苦境にあったり、たまたま一人で、強く孤独を感じたりする人もいるかもしれませんが、あなたのところにもプレゼントはあり、見えなくても、温かさ、救いを感じようとすれば、感じやすい時なのです。
一見、人によっては影を強く感じるこの時期かもしれませんが、影が強くなるということは、裏を返せば、それだけ光も強いのです。影ではなく、光のほうを見てみましょう。
例えば、マルセイユタロットの「隠者」は、その名の通り、普段隠れた存在ですが、その手にはランタン・光明があり、見ようとすれば、見ることも可能な時があります。
それはいわば、自分の内にもあるものですし、そんな風に見えなくても、かつてのよい思い出として見てもいいのです。探せば、必ずあなたの中に光明はあるものです。
もう一つ言えば、あなたが愛した人もあなたの中にいるのです。
暴言、罵声、恐怖を与える大声の注意
トラウマは、厳密な心理用語として考えると、強烈なものとして、普通の人にはないものと思われがちですが、その解釈を緩くし、要するに無意識に今に影響を及ぼしている潜在データ(プログラム・印象)として考えると、誰にも程度の差こそあれ、あるのだと思います。
小さい頃の何でもない親や兄弟・姉妹のやりとり、昔見たテレビのドラマとか事件報道、学校でのささいな出来事、職場でのちょっとした失敗、悪い意味で注目されたことなど・・・それは自分では大したことない、忘れてしまったということでも、意外に今の自分の心に影を落としている場合もあるのです。
そうした中で、私が最近思うのは、言葉の暴力も、十分トラウマになっていることがあるのではないかということです。
もちろん、直接的に、虐待した親とか、いじめをした者からひどい言葉を受けたというのは当然のようにあるかもしれませんが、ここで言っているのは、そういうことだけではなく、普通にちょっと大声で怒鳴られたとか、イラついた人にどやされたとか、また直接ではなくても、暴言を言い合ってけんかしている人を見たとか、何かの(理不尽な)クレームなどで、ひどい言葉で、係員やコールセンターの人に放っているのを聞いたとか、そういう間接的なシーン・場面からのものでも、実は結構影響しているものなのではないかと推測しているわけです。
注意してみると、大声とか、叱られる時の声、そしてまさに暴言で罵声のような言葉を、自分に向けられる場合以外であっても、何か聞いた時は、人はビクッと身をすくめてしまいますし、恐怖を感じる人も多いと思います。
体が反応しているのですから、それは心にも影響していると見てもおかしくはないでしょう。
そんなのをいちいち気にしていたら生きていけないというは、まあ、その通りかもしれません。世の中にはいろいろな人もいますし、怒られて一人前になるものだと、社会人なら言う人も少なくありません。
ただ、何といいますか、もうそんな言葉(のひどさと大きさ)で恐怖させたり、注意を促したりする方法は、教育としても当然よいとは言えず、人としての関係の取り方としても、古過ぎるのではないかと思うわけです。
確かに、大声を出したり、強い言葉を言ったりしないと、危険な時もありますし、まだ判断力のつかない子ども時分では、やむをえない時もあるとは思います。
それにしても、使う言葉自体は注意しないといけないのではないかと考えます。
「世の中は甘いものではない」とか、「厳しい言葉を受けて成長していくものだ」という考えは、いまだ多くあります。時には、言葉だけではなく、手や足が出てしまい、本当の暴力をふるっている人さえ、少なくありません。
人は甘い環境にいたり、優しくし過ぎたりすると、つけあがる、さぼる、向上心を失うなどと言う人がいます。
物事には陰陽あり、そして強弱のような相反する力・エネルギーがあって、弛緩ばかりの状態はあり得ず、強く鍛えていく(鍛えられる)シーンも、自然の流れ・摂理としてはあると思います。
しかし、ここで言いたいのは、怒鳴ったり、暴言を吐いたり、暴力をふるったりして、他人をコントロールする方法は、あまりにも低いレベルであることに、もう全員が気づいてもいいでしょうということですし、人類としての成長、意識の向上としても、このことはとても重要なのではないかと思われるのです。
甘くすれば堕落する、逆に言えば、厳しくしないと成長しない、しっかりしないというのは、私たちがそう思い込んでいるレベルにまだあるからです。
かなりの昔は、そうしないと人も成長できない時代があったかもしれません。しかし、人の認識・智慧が向上すれば、優しさによって堕落することはなくなります。それは本当の意味で、皆が自立・自律できているからです。
見張りや注意をしておかないと、泥棒される、殺されるような世界では、自衛のために自他ともに厳しくしておかないと困りますし、自分や大切な人に危害が及ぶ場合があります。
そうなると、環境が先か、人が先かの問題はあるでしょうが、これは結論から言えば、人(の内面)が先でしょう。それがすべてを決めていると言ってもいいくらいです。
しかし、バランス(現実と理想、精神と実際)も重要なので、人の内面が中心といっても、その認識に至る前は、環境が人に影響を与えていくことにも着目しなければなりません。
何でも「話せばわかる」「話し合えば理解してもらえるはず」と言う人もいますが、そもそもコミュニケーションが成立しないレベルであったり、イデオロギー・思想・価値の対立によって、真の(解決に向けた)話し合いは、最初から忌避されている、ないに等しい状態になっていたりしていることもあります。話し合う前に、すでに問題があるのです。
マルセイユタロットでは、人間の世界と、それ以上の世界も示唆します。それによりますと、人が本当の意味で成長するには、物質だけではなく、精神や魂の成長段階も伴って、進んでいくわけですが、試練と救済は交互にやってきながら、次第に優しき世界へと絵柄も変化していっています。
つまりは、人は霊的に成長すると、本当に優しき世界が現出してくるようになることが描かれているわけです。
ただ、自分自身の認識(力)を上げていくためには、自分に対しては厳しいところもあります。(と言っても、自分をいじめたり、苦痛を与えたりするというのではなく、自身に光を当てると影も出てくるので、そうした統合・浄化作業においては、向き合うつらいこともあるということです)
それはそうと、元に戻りますと、とにかく、まずは言葉だけでも、優しいもの、美しいもの、愛をもつものに、なるべく変えて行き、どうしても大声や暴言を吐きたくなった時は、目の前に人がいれば、面と向かうのではなく、違う方向に向けたり、誰もいない場所で、あとで吐いたりするほうがましと言えましょう。
見えなくても、破壊の波動のようなものが、自分の暴言・(怖がらせる悪い言葉での)大声から出ていて、それが相手の体だけではなく、目に見えない部分と、心の中にまで浸透してしまうのだと想像すると、言葉には注意深くなれるでしょう。
そして、そのようなものがトラウマになっていることもあり、もちろん、トラウマにさせてしまっている場合もあるわけです。それは反転して、相手に対してきつい言葉を吐く自分というものが生まれてしまうこともあります。
こうした悪循環により、社会は怖い言葉であふれ、余計に皆さん、不安と恐怖の世界(社会)に、この地球をしてしまうのです。
苦しく、厳しい社会は、私たちが総意で、そうさせてしまっているところがあります。
思想とか主張ではなく、人の認識レベルの向上のためとして、自分と他人に優しい言葉を使っていくことから始めるだけでも、ずいぶんと変わっていくのではないかと思います。
また暴言を聞いてしまった時は、思った以上に傷がついている(大人でも)ことがありますから、自分を労わってあげ、またハートナーや友人、家族など、話をちゃんと聞いてくれる人に、怖かったということを話して、受けとめてもらうことで、癒され、トラウマになることは少なくなると思います。
ただ、中には、優しさに甘えたり、つけこんだりする人もいるので、時と場合により、厳しい言葉、はっきりとした拒否の態度を取る必要性はあります。
これもそういうレベルの人がまだまだいるから、仕方のないことで、先述したように、成長過程のバランスとして、話せばわかるとか、優しく接すればすべてよしというわけにもいかないところはあります。
つまり自分の平安や領域を脅かしたり、ルールを無視したり、危害を加えたりする人から自分を守ることであり、これは自分にまずは優しくするということと同意なのです。
「吊るし」、そして人とのつながり
12月になり、いわば激動の今年も最後の月となりました。
とにかく災害が多かった印象がありますし、個人的にも、前にも書きましたが、内面的に特に大変な年と言えました。
日本だけではなく、世界、いや宇宙全体としても、何か大きな流れや転換に入ったことが、これまでより、多くの人に実感されてきているのではないでしょうか。
相談を受ける人の内容にも、一見、現実的な内容ではありますが、結局のところ、自分をどう生きるか、自分らしくとは何か、自分を表現する喜びを出すことができるかのようなことであり、つまるところ、宇宙や魂と共鳴、調和できる本当の自分の姿を求めているような気がいたします。
また、そうした学びや気づきが起こるように、その人にふさわしい事件も起きてくるように感じられます。
とかく、こうした内外ともに動揺が大きい時、当然、人の心もいろいろと乱れ、情報も錯綜し、よいものもあれば、洗脳に近い、自分を乱すものもありで、複雑な状況を呈します。
というより、そのように自分の中で感じられてくると言ったほうがいいでしょうか。
つまりは、中(内)が落ち着かなくなると、外も騒がしくなるようなことで、その逆もしかりです。
今、本当に宇宙規模で、大きな転換を迎えようとしているのなら、個人としても連動して、転換期になってくるのは当然と言えるのですが、だからこそ、逆に、慌てず騒がすという姿勢も大切になってくると思います。
というのも、このところ、(人や状況に対して)タロットを引くと(あるいは相談者当人が引くと)、マルセイユタロットでいう「吊るし」、あるいは「斎王」「隠者」のようなカードが出ることが多いからなのです。
これらのカードは、「吊るし」が一番顕著ですが、じたばたせず、様子見している象徴が描かれているカード(たち)です。見守る感じが強いのです。
もし、さらに「月」のカードが出た場合、引いた人の感情的・情緒的な動揺も感じられるので、逆に「月」のカードが、「落ち着け」と言っているとも考えられます。
要は、今は(年末のあわただしさがありますし)、騒がしくとも、内面をしっかり落ち着かせよう、客観的に見ていこうというメッセージなのです。
「吊るし」は、逆さま状態で正立という特殊なカードなので、ただ様子見しているだけではなく、逆転の発想や、今までとは違う観点で見てみるということが勧められるカードです。
無理矢理、(気持ちが落ち着かない、バタついている、動きたいという衝動などを)抑圧しようとしていると、それはガスのようにたまり、これまでの容器では閉じ込めておくことができなくなり(それゆえ、容器を拡大させるための変容を促す試練が始まることもあります)、爆発を起こしてしまいます。
具体的には、混乱がますます激しくなったり、人に悪い意味で踊らされて、たくさんのお金と時間(エネルギー)を無駄にしたり、本心ではない言葉とか態度で、誰かを傷つけてしまったり、反対に自分自身を傷つける行動に出たりします。
ですから、いくら静かに落ち着くほうがよいと言っても、適度な行動、情報の入手、遊びなどはやっておいたほうがいいですし、どうしても動きたい、やりたいと思ったことはやってみて、それがガス抜きになったり、実際に体験することで、現実に自分にとって無駄なのかそうでないのか、確認することもできますので、場合によりけりなのです。
ただ、心が不安定な時は、単独判断というのは危険を伴ったり、ブレていたりすることが多いので、できれば、ほかの人に相談したり、何かする時でも、友人や知人と一緒にやってみたりするというのがよいでしょう。
つまりは、思い込みやバイアスが、自分にかかり過ぎている嫌いがあるので、直感とかハートの感じとか言っても、クリアーではないものを拾っている(感度やセンサーが乱れているため)恐れもあるわけです。あせっている時につかまされるものは、たいていよくないものです。
まずは、静かに落ち着ける環境や状況に自分がなることが重要です。(場合によっては、成果や結果を出すことよりも、先に治療や浄化、癒しが必要)
また、思い込み過ぎるというのは、ひとつしか答えがないとか、これしか方法がないとなっている状態で、体と精神が固くなっていることでもあります。
カードの「吊るし」の人物は、ああ見えて、とてもリラックスしており、むしろ宙に浮くほど軽い状態なのです。見ようによっては、曲芸しているようにも思え、それだけの柔軟性を持っているわけです。
ということで、まじめにやろうとし過ぎず、時には遊んでしまうこと(心を柔らかくする、考えすぎる思考をはずしてしまう)、体が硬ければ、ほぐしてもらうようなことをしてみるなど、柔軟になるよう、体と心、両面で行うとよい場合があります。
人によっては、心を落ち着かせるのに、瞑想がふさわしい人もいますが、逆に、瞑想が向かない人とか、瞑想すると妄想が出過ぎて、余計ややこしくなる人もいますので、リラックスできて、なるべく普段の行き詰まった思考とは別の状態になる環境や作業をあえて選択する(行う)ことで、行動による瞑想の効果と似たような状態を作り出すことが可能になります。
自分がどういう状態で、どうすればよいかは、こういう時、タロットは役に立つものです。もし、タロット仲間がいれば、仲間がリーダーの立場になって、自分がカードを引くと、より客観性が出て、それこそ、「吊るし」として自分を観察することができやすくなります。
グループを作っていると(最近はSNSで簡単にネットを利用したグループが作成できます)、例えば、「こういうカードが出たけど、みんなはどう思う?」とすぐ聞くことができ、レスも早いものが期待できますので便利でしょう。タロットリーディングの勉強にもなりますよね。
最近は、私は受講生ともLINEを通して、そうした簡単な質問に、ちょっとした「吊るし」的見方を提供しようとしています。
タロットを一人でもんもんとやっていても、楽しくないですので、ブログを書いてみるのもよし、SNSをやってみるのもよし、仲間でお茶会するのもよしで、結局、人とのつながり、同じような志や気持ちを持つ者同士でつながっていくと、タロットをはじめ、今後の人生でも、楽しく、生きやすくなるのではないかと思います。
私はこれを趣縁ということで、かつて推奨していたことがありますが、これからの激動時代、ますます必要な気がしています。
「吊るし」は絵では一人で、まるで孤独のようですが、実は柱(その他)に秘密があり、それは彼とつながる人たちをも暗示することになっているのです。霊的には太陽の国とも表現されるところ(に向かう人たち)と関係していると言えましょう。
成長を実感できる世界
スピリチュアルな世界では、人は実は完全性をもともと持っているという説があります。
しかし、現実においては、人により、能力や資質の違いもありますし、生まれ持った環境にも、平等ではないのが普通です。
言ってみれば、一代限りの人生で見ると、理不尽極まりないところもあるわけです。まさに生まれながらにしてラッキーやアンラッキーがあるようなものです。
そこで、考え出されたのが、輪廻転生など、生まれ変わりによる(超)長期的な人生への視点です。
人生がこの一代限りの自分ではなく、以前にも生まれているし、将来(未来)にもまた新しい、まったく違った人生を歩むことになるのだと設定したほうが、不公平感はなくなります。
さらにここに因果応報的な、カルマ法則を入れていきますと、いいことも悪いことも、さらに長大な周期からの観点で平等になってくると言えましょう。
ただ、このシステムが本当かどうか、ただの概念として人が生み出しているものなのか、そこは普通はわからないと思います。
また、単純な、同じ人間の魂が、記憶をなくして、また輪廻転生するという説では、いろいろとつじつまの合わない点も多く、もっと集合的な意識、あるいは生きた人(生き物)全体のデータが集まる場所のようなものを仮定しないと、システムにおいて破綻するようなことが、ただの人間レベルの知恵でもわかりますから、仮に輪廻転生システムが実際にあったとしても、(神や宇宙の設定しているものは)もっと複雑なものなのだと考えられます。
さて、今日は、輪廻転生のことが主題ではありません。ただ、輪廻転生的なことでよく話される、魂(霊性)の成長という意味では、ふれておいたほうがよい話題かもしれなかったので、最初に書いてみたまでです。
では、今日の主題は何かといえば、さきほど、少し出ましたが、「(魂)の成長」についてです。(今回は、魂意外の成長のことも含むのですが)
マルセイユタロットでは、現実社会で生きる人間が、物質的観点のみで自分や他人を見続けていると、それが縛りとなって、本当の意味での成長を妨げていることを示唆し、その解放を絵の物語として表しているのですが、やはり、その土台となる思想に、本来、人は完全性を持つというものがあります。
しかしながら、完全性がありながら、なぜ、このような現実での悩み、苦しみ、問題に直面し、しかも、すぐにその解決や消失をなすことができない状態で生きているのか?という素朴な疑問も出できます。
それには、スピリチュアリストの方々は、ほぼ皆一様に、成長や経験のためだと述べておられます。
先述した輪廻転生説を入れれば、さらにこれに、長期的平等(公平化)という効果もあるのでしょう。
とは言えです。わざわざ苦労して、制限のある不完全性の幻想社会(それがスピリチュアル的には、私たちのいう現実となりますが)に生きようとするのか、完全に納得できないところもある人もいらっしゃるでしょう。
そう、ここでまた「完全に」という言葉が出たように、その理由がわからないのは、まさに完全性を忘却した状態になっているからなのかもしれません。(元も子もない話ですが・・・苦笑)
これに対して、私もいろいろと考えてきたところがあります。そして、これまた、様々な説を思いついたこともあります。
それで最近、少し面白い気づきがありましたので、それを皆様にお話ししたいと思います。
それは、今回は「成長が主題」と言いましたように、成長に関わることであり、簡単にいえば、成長を実感するために完全性の忘却がある(現実にいる理由)ということになります。(これだけ聞くと、当たり前のような話ですが、まあこの後の話も読んでください)
成長を自分で実感する、自覚するというのは、意外に難しいものです。
自分より優れたり、技量が上であったりする人から見れば、その人が前より成長していることは客観的にわかるのですが、自分自身では、たとえば目に見えるメーター(目盛り)のようなものや、力量の違いが以前の自分と明らかに違うことがわかる(確認できる)実際性が必要です。
つまりは、差が確認できるものがいるわけです。
これは5感で感じられる世界ならば(言い換えれば物質的なものが中心な世界なら)、その差も味わいやすい、感じやすい、確認しやすいのです。
何もない、差がない世界では、違いの確認のしようがなく、不完全か完全なのかさえも、実はよくわからなくなってしまいます。
なるほど、スピリチュアルな世界、古代神秘的な伝承では、人は完全性を持つと語られますが、もしかすると、その完全性のレベルというのも、次元や階層の違いがあるのかもしれません。
真に完全なこと(状態)は、誰にも、また何にもわからない(わかるとすれば、究極の神のようなもの)かもしれないのです。(神という存在も、その完全性を自分で確認することができない、あるいは完全であることを知っている完全性があったとしても、何も変化のない、固定のままと同じ感じなのかもしれません)
あと、成長の入れ子構造(ホロン構造)というシステムを仮に宇宙的レベルで想定すると、私たちの一人ひとりの現実世界での成長が、もっと大きな次元やレベルにおいても成長していくようリンクされており、たとえこの地球の現実世界が、成長の実験場であっても、私たちが切り捨てられたり、ただのモルモットとしての扱いになったりしないということです。(そうしようとしている勢力があるかもしれませんが)
それは、先述した入れ子構造的なシステムを想定すれば、一人が全体と響き合い、関係するようにできているからです。
あなたや私の成長は、もしかすると、微々たるものかもしれません。ことによっては、「自分など成長どころか、下降している、生きている価値すらない」と悲嘆している人もおられるかもしれません。
しかし、あなたが悲しめば、全体としてもネガティブな方面に傾いたり、成長のストップがなされたりするかもしれず、反対に、あなたが喜び、幸せになり、成長していくことができれば、全体としてもそうなっていくリンクや関係性があるのだと思えれば、落ち込んでばかりもいられないかもしれません。
また、あなたが何もできない、価値がないと思っていても、誰かに、あるいは何かに、モノでも動物でも植物でも、援助したり、優しくしたりできることがあれば、それはされた側からすると、とても価値ある存在に見えるはずです。
ほんのわずかでも、たとえば感謝ができれば、感謝される側(受容側、あなたは感謝をした能動側)、能動と受動の循環の動きが発生し、その影響はバタフライ効果のように、他にいい影響を与えていることもあると考えられます。
皮肉なことに(おそらく意図的に)、この現実世界は、差がものすごくわかりやすい世界にもなっています。
だからこそ、成長が実感しやすい世界でもあるのです。
成長の実感こそが、完全性が私たちにもともとあっても、この(限定された)現実世界での不完全性から成長していく意識と力が芽生え、別の次元での完全性を完成させるためのエネルギーのようなものとして、寄与できるよう設定されているのではないかと考えられます。
もし多次元なる宇宙があれば、私たちは、完全性をもった状態から、わざわざ過酷な環境を選び、完全性を忘れながら生きるように決めたのかもしれません。
それは、さきほども述べたように、成長しているという感覚・実感を伴うことで、エネルギーの拡大を呼び、それが、まだ完全性に至る途上である存在の糧になったり、完全だと思っていたものの不完全性の自覚を生み出したりして、共鳴し、全体として、ますますの、それこそ成長をなすためのシステムであるかもしれないのです。
悩みや迷いにある人も、何とか人から助けを得たり、自分でひらめきを得たりして解決していき(あるいは問題が気にならないレベルへと変容し)、やがて成長した変化を実感することにより、それがきっと、自分以外の存在にも役立つことになるのだと思います。
完全と不完全はまさにゲームのようなもので、不完全性を思うのは、完全性を知っているからこそのもので、完全という円や球の中で、回りながら、楽しんでいる状態とも言えます。
欠乏を思うことは、悪いことのように言われますが、最初は欠乏や不足、それも他人との比較から始まるものです。
それが第一レベルの完全と不完全ゲームみたいなものです。そのレベルが次第に上がっていくことで、欠乏や不足感、不満の性質もまた変わっていくのでしょう。(言い換えれ時、満足という意味と性質も変化していく)
もちろん、不足を追いかければ、どこまで行ってもゴールはないと言われますが、段々(すでに完全であると)わかりつつ、あえて追いかけるような、それこそゲーム状態を楽しむようになるのではないかと思います。
マルセイユタロットの「運命の輪」で言いますと、三つの動物を同時に楽しむような感覚です。
一見、輪の中は、ラットレースにも見えますが(そして、そういう示唆として見ることもありますが)、ある種の完全性のための発電装置のように見ると、自分も皆さんも、別の意味で、宇宙のために頑張っているのだと見えてくることもあります。(笑)
とにかく、成長を実感できる次元にいることは、苦しいことも多いですが、ある意味、幸せでもあると言えましょう。