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「運命の輪」の切り替え
タロットの展開では、過去・現在・未来を示すパートのカードを引くテクニックがよく用いられます。(有名なものではスリーカード)
このうち、一般的な関心として、また占いごととして、未来の部分に人は注目する人が多いでしょう。
そして、次に現在。
これは、今のことですから、現在に関心があるというより、現状はタロットで示すとどうなのか?という、いわば、自分の今を客観視するような部分と言えます。
これはこれで、やってみると、やはり重要だ思えるでしょう。
では、過去はいかがでしょうか?
過去はすでに終わったことであり、普通、今から変えられるわけではありませんから、そもそも、この過去パートのカードを出す意味、リーディングする意味があるのかと疑問を持つ人も少ないかもしれません。
ただ、ここも、現在と同じく、今までの経過を冷静に確認するためには、意味のある部分といえます。
そして、今日は、また別の意味で、この過去(そして未来)の部分と関係する話となります。
マルセイユタロットの「運命の輪」によりますと、「運命は切り替えられる」と言います。
(私がタロットカードの具体名をあげて語る時、知識として学び、受け継いだ象徴的部分と、実際にカードからのインスピレーションや、ある種のカードの人格的存在とのコミュニケーションによって得ている部分のものがあり、従って書籍とか、普通に言われていることとは異なる内容も含まれます)
ちょうど、それは、列車のポイント切り替えのような感じで、今走っているレールから別のレールに乗り換えることができるような印象です。
「運命の輪」は、まさにその名前の通り、運命が回転しているさまを一説には表し、そして、その輪の回転は、個人間で違うだけではなく、同じ人の中にも、次々と入れ替わる(切り替わる)「運命の輪」があると考えられます。
ここに、もし運命というのものがひとつだけだと思ってしまったり、変える(変えられる)といっても、ある特別な場合だけと思い込んだりしてしまうと、運命の切り替えは簡単にはいかなくなってしまいます。
そうした人は、昔風の列車の切り替えポイントで例えると、かなり重たい切り替え装置になっているということになります。
実は、「運命の輪」は(によれば)、それこそ「輪」はいくらでもあり、その分、様々な回転による無数の運命が展開されているというのです。
それに気がつかないと、輪の中の動物のようにグルグル同じところを回り続けることになります。
「運命の輪」には、輪から逃れているスフィンクス状の異質な動物がおり、つまりは、このスフィンクスの境地がカギであるのです。
簡単に言えば、自分がスフィンクスとなって、嫌な状態や望んでいない今の運命の回転を切り替えていくということです。
「これではない(この運命の輪の回転を望んではいない)」と、新たに選択(ポイントの切り替えを)していくような感覚ですね。
この方法は、訓練すればするほど、現実に影響を及ぼす可能性は高くなると思います。
スピリチュア的には、一種の波動転換儀式みたいなものです。(ただ、感覚次元の相違を実感していく必要はあると思います、単に儀式をするだけでは効果は半減するでしょう、つまり切り替わる前と後の違いを感覚として意識できるかということです)
そして、このことはこれから先の現在と未来だけではなく、過去にも及ぶのです。
「運命の輪」には、三つの動物がおり、その三つは、時の神(女神)を表現したものとも想定できます。つまるところ、それは過去・現在・未来意識による時間の流れ、運命としての感覚です。
それらが輪を通じて一体化しているものとも言えます。そう、過去も現在も未来も(一方向の直線としてではなく円環として)つながっているのです。
今、運命の切り替えを行ったあなたは、自分が変えた運命の輪を通して、過去の運命の輪も移行させており、過去の事実的な記憶としては変わっていないかもしれませんが、影響は現在→未来→過去というように向かっていると考えられるのです。
心理的には過去の重さの軽減、あるいは浄化、実際のものとしては、トラウマとか過去の失敗の思いがなくなったとか、現在と未来が、過去から応援されているように感じられる(使命の発見)とか、成功や達成の加速感がこれまでと違うという感じが出てくるでしょう。
そう、「運命の輪」的には、切り替えが行われると同時に、過去・現在・未来すべての輪も乗り換えられているのです。
自転車でたとえると、自転車の前輪を変えると(今から未来への切り替え)、後輪(過去)もそれに合わせて変えざるを得ず、従って過去も前輪にひっばられるかのように変質しているのだということです。
あるいは、こうも言えます。自転車そのものを乗り換えたので、今までの過去も新しい自転車にふさわしいものに変化していくのだと。
アニメでは、「輪るピングドラム」という作品がありますが、この作品描かれている内容のひとつは、運命を変える(乗り換える)内的な力のことが描かれています。(その他にも、深いテーマが象徴的にたくさん隠されている興味深い作品です)
私たちは普通、時系列が一方向しかないという強い現実感覚を持っていますので、過去が変わるというのはまったく理解不能だと思います。
しかし、過去というものは、いや、今や未来においても、その本質は事実やデータではなく、いかに自分が思うか、記憶するかのことによります。
同じことが起こっても、そこにいた人全員、微妙に違う記憶を持ち、さらに信念や感情まで入ると、事実というものは記憶(または印象)でしかないことがわかります。
だから過去は、歴史でさえ、たくさん改変されているのです。
あなたが学生時代学習した歴史の授業での常識さえ、新しい発見(それはたとえ過去のことであっても、今や未来に見つかることなのです!)や、多くの人が納得する説が出れば、変わってしまうものです。
ましてや個人の過去の記憶など、いかようにでも今から変わっていくことができると言えます。
今までの記憶はすべて自分の中にありつつも、実際の生活や意識のうえでは、個人がその都度選択したり、幻想としての世界を見させられているに過ぎないのかもしれません。
たとえ、過去はもう終わって、変えられないという常識でもってしても、今とこれからの「運命の輪」を、ポイント切り替えしていく儀式を続けていれば、自分の望む「運命の輪」(回転)に入ることは、しやすくなるのではないかと思います。
まずは、自分が望まない「運命の輪」が回っていることを意識・顕在化することから始め、希望する現実の回転・輪にシフトしていくように、自分(の意識)を切り替えるトレーニングが必要かと思います。
なお、「運命の輪」は同調し合うこともありますから、いいと思う人や場所で過ごすと、その影響が自分にも同調し、悪いと思う場所と人についても同じですので、自力だけではなく、他力による「運命の輪」の変換・切り替えもあると思って、やっていくとよいでしょう。
受講者用のメルマガでは、「運命の輪」のカードをもとにした、具体的な運命切り替えテクニックをお伝えしたいと思います。
こうしたことも、カードと対話していると、カード側から教えられることがあるのです。
まさに、タロットカードは生き物であることを実感しますね。
自尊と他尊のバランス
他者を尊重することと、自分を尊重することは、とても大事なバランス(ポイント)だと感じます。
よく人の役に立ちたいと思う人、そしてそれを仕事にしたいという人で、他者への尊重は大きいのに、逆に自分を卑下してしまっている人を見かけます。つまりは自尊の問題です。
私もどちらかといえば、後者の部類(自尊のバランスが悪い、低いほう)なので、その状況や気持ちはよくわかります。
ただ、これもそのタイプの人には耳の痛い話ですが、他者を尊重しているようで、実は、自我が強く、その欲求を抑えていたり、逆に自分を卑下することで、自分自身の真の力の発揮や、責任から逃げているところもあるのです。
マルセイユタロットでいうと、きちんと「正義」の判断が下された場合、自分のほうに天秤が傾くような感じで、結局のところ、自分かわいさ、プライドを守りたい、依存心、みたいなところが奥底にはあると考えられます。
と言っても、ここでまた自分を責めても仕方ありません。その責めること自体、意外かもしれませんが、自分を守っていることと同じな場合があるのです。
例えば、自分が悪いと思うことで、「どうせ自分は・・・」みたいに思い、できないことの理由を、対外的に作りあげてしまうわけで、結果的には逃避や、問題を放置したりすることと同意になります。
これは「運命の輪」と「正義」が(悪い意味で)合体したかのような、仮の責任所在を自分に帰すことで、堂々巡りを起こしてしまい(潜在的に起こしてしまい)、その回転の中で、自分が逃避し続けるという、実は高等テクニックです。(笑)
ここで必要なのは(象徴的なカードは)、「力「と「悪魔」です。「節制」としての交換バランスも必要かもしれません。
※マルセイユタロットは単体の象徴性もすばらしいのですが、このように、カードを組み合わせることで、問題の解決やヒントを生み出すことに大きな視点と効果があるのです。
もともと、自尊が低い人は自我が弱いようで、実は強いと、さきほど言いました。自我(エゴ)が強いというのは、「悪魔」のカードと関係します。
ただ、こういう人は善人であることが多く、またそれだけにナーバスで、人の目を気にしたり、人の気持ちに敏感だったりします。
従って、強い自我が、自分のほうにベクトルが向かってしまい、ますます強固な殻に入って意固地になることもあります。カードで言えば、「吊るし」(の問題)状態です。
ここで、もともと「悪魔」との結びつきが強い「自我」そのものを、「悪魔」(の認識)によって解放させ、外に向けて、自我を出すということで、バランスが回復してきます。
それには、「力」のカードに象徴されるように、自分で制限していたフォース(力)を少しずつ、自分のものとして取り戻すことです。
もう少し具体的に言えば、自分がよくないと思っていること、悪いと判断しているもの、毛嫌いしたり、それはちょっと無理と思っていたりするものに、あえて少しずつやってみる(その前には、本当に悪いものなのかどうか疑ってみる)ということがあげられます。
いわば、自分の影やダークとしての自我の部分をちょっとでもいいので、表現してみる、認めることから始めるわけです。
ほかには、自分をいつも以上に、ことあるごとに褒めたり、自分がやっているサービスにお金などの価値でもっと受け取ったり、自分が少しでも得意なもの(それは善悪とか、社会的価値での良し悪し、役に立つ立たないの基準で見ずに)を伸ばしてみたり、没頭したりするということでも、力(フォース)と自我を外に解放していくことができます。
またタロットを学習して、タロットリーダーになり、思い切って料金をいただいて、人にサービスをし、相手に喜んでもらって、自分の価値をお金と言葉で受け取るというのも、自尊バランスを回復させる手立てのひとつとなります。
人にあなたのエネルギーを無償的に与え続けて、(その)人から評価されることを望んでいては、いつかあなたのエネルギー枯渇します。
枯渇すると、当然疲弊し、ヘロヘロになってきますので、体力や経済的な問題、運気の問題にも影響してきます。
人はそんなあなたを見て(感じて)、魅力的には映らず、関心を失ったり、去ってしまったりする場合もあるでしょう。
それを引き留めようと、またエネルギーを出し続けようとするので、かえって、自他ともにダメな方向に進んでしまいます。これは恋愛などで、尽くしすぎる人などに多い現象ですし、セラピストで起業された人などにも、少なくないことです。
エネルギーも、宇宙的なものとつながる境地まで達していると(マルセイユタロットでは「星」や「世界」で象徴)、それは枯渇することがないので、むしろ、多くの人が癒され、エネルギーを受け取り、好循環で、出した人にも戻ってきます。
ここまで来ると、物質的なものと精神的なもののエネルギーの枠がはずれていますので、それぞれの交換(変換)も可能となり、物質的豊かさとしても享受することが可能になるでしょう。
ただ、自尊と他尊のバランスが未熟であり、特に自尊が低い状態でいますと、逆に自我が自分の内側の方向性で強まって、固い殻に入ったかのようになって、エネルギー循環から隔絶された世界になってしまいます。
むしろ、波動レベルを下げて解放的にし、大衆的エネルギーによって、殻を破ってもらうことも考えないといけません。
それは、つまり、自我・エゴとしての自分が、よい意味で外向きに強まることであり、「悪魔」の力(対人的魅力)が出て、自然に皆さんが注目することになり、殻から出てきてほしいとせっついて(笑)来るようになるからです。
そうして、殻は破られます。
他者のことを尊重できるなら、同じ性質は、神性として、あなたの中にもあります。誰より、他者を認める力があるのなら、あなた自身の力を認められない(発見できない)わけがありません。
そして、自分を認めると同時に、今まで本当に自分は他者を見ていたのだろうか、他者を尊重していたのだろうかと、もう一度振り返ってみる必要があります。
もしかすると、あなたの他者への尊重は、純粋なものではなかったかもしれませんし、別の部分を見ようとしていた可能性もあります。
それはやはり、自分の尊重が本当の意味ではまだまだてあったこともあるでしょう。
ひとつの気づきがあったとしても、その後も、そのバランスは拡大と成長をもって、さらに大きなものとなっていくはずです。
ゆえに、これで完璧という段階はなく、いつも内には完全性を持ちつつも、新たな気づき(覚醒)をもって(それは問題という形で事前に起こる)、人間として成長し続けるものだと思います。
その重要な要素に、自尊と他尊のバランス・統合があるのだと考えられるわけです。
心の安定の技術 タロットの両面性
人間、いい時もあれば、悪い時もあります。
心理的・霊的(スピリチュアル的)観点になってきますと、人生にいいも悪いもないという、高次での客観的な見方(いわば神や宇宙目線)が出てきて、結局、その波(人生の上げ下げ)をサーファー(波乗り)のように楽しむような感覚になってくると言います。(これが、いわば、マルセイユタロットの「運命の輪」の心境と言いますか、カードの象徴している極意のひとつだと考えられます)
しかし、なかなかそうした境地にたどり着くのも、訓練したり、何か強烈な試練を乗り越えてきたりしないと届かないこともあり、簡単なものではないのかもしれません。
もう少し、レベルを下げた、バランスの取り方というか、中立に戻すと言いますか、日々起こる現象に囚われ過ぎないで、平静を保つような方法があればよいですよね。
ところで、私は自慢ではないですが(苦笑)、とてもナーバスなところを持っています。人一倍、ストレスや変化の耐性に弱い気質をもともと持っていて、ちょっとしたことでも動揺したり、体の不調があれば、それを気にし過ぎて、余計に気持ちのほうから体を悪くしてしまうという悪循環に陥ることもあります。
ですから、公務員時代は、うつ病や不安神経症を併発してしまい、休職せざるを得ない時が続きました。
公務員になる前とあとでも、ほかの仕事(正社員)やアルバイトをしたこともありますが、やはり、どこで何をやっても、体と心が必要以上に痛み、楽な状態で働けることがほとんどありませんでした。(よく言われるようなコミュニケーションの問題とは違い、これには、ナーバス以外のスピリチュアリティ観点による、別の理由もあるのですが、それはまたほかの時にお話しします)
そんな中で、マルセイユタロットに出会い、だいぶん、自分を落ち着かせる技術や考え方を学んで、今では、前よりかは、かなりましになり、人様の前で講義ができるようにもなっています。(ただ人前で話しをするのは、緊張型でナーバスなところがあるのに、それ自体はあまり嫌ではなかったという、変わった利点があったことも功を奏しています)
それでも体力を使いすぎたり、反対に精神的に疲労し過ぎたりした時は、油断すると、心身のバランスを崩そうという状態がやってきて、大変なことはあります。
こういう極めて弱い私の気質の中で、タロットと出会ってよかったことのひとつは、自分がタロット(マルセイユタロット)がとても好きであることに気づいたという点です。
逆から言えば、自分の好きなものとしてマルセイユタロットが見つかったことになります。
それまで、タロットのタの字の関心もなかった私が、自分が心身の弱さや生きにくさを感じていたおかげで、マルセイユタロットという(打ち込める)ものに出会えたというのも、皮肉なような、ある意味、バランスの取れた話だと思います。
人は、自分が興味が持てるもの、好きなものに出会うこと(好きなものはモノや知識だけではなく、人なども入ります)ができれば、そうですね、タロット的に言うならば、四大元素の火、すなわち、情熱やモチベーション、高次の意味では、心や魂に着火するかのようなエネルギーの炉が稼働します。
この炉心から生まれるエネルギーが、人の気力を高め、行動に移せますし、ビジョンとしてイメージを作る力ともなります。ありていに言えば、夢と希望が出てくるわけです。時には、熱中し、打ち込んでいる自分と周囲への尊重(その時間の充実が、自分と人生の賛歌になること)にもつながります。
タロットと出会えてよかったことのもうひとつは、やはり物事の見方が多様て多層になったこと、タロットを通して、一面からではなく、必ず両面から見るようになったことです。
これは、書いてしまえば、簡単なことのように思いますが、実はなかなか普通は行わないことなのです。
冒頭のところで、高い境地から物事を常に見るようになるのには、簡単なことではなく、もっとレベルの低い(簡単な)やり方があれば・・・と書きました。
タロットを使う目的も、高い境地が常に自分がいられるにするという目的がひとつにはあるのですが、それに至る前段階の方法として、先述したような、タロットを通して両面を見る(考える)というやり方があります。
特に、普通にネガティブだと思われるていること、そう自分が感じてしまうことに対してが有効です。
例えば、「悪魔」というカードは、名前だけや絵の印象では、文字通り、悪魔的な悪いことを意味するのでは?と思いがちですが、それが、いわゆる一面的で普通の(常識的な)見方です。
しかし、「悪魔」にもポジティブなことはないだろうか?と、あえて考えてみるのです。
「悪魔」のカードが表す「良いこと」とは?みたいなことです。
さすがに一人で考えていてはわからないこともあるので、本を読むなり、講義を受けたりして、「悪魔」のカードの象徴性を、知識として得て、そこから、自分なりにまた考察していくのです。
なぜなら、カードの象徴性の、ネガティブな面は、一般的に皆が思う普遍的なネガティブさを象徴しているのと同時に、個人・個別においてのネガティブさも表しているからです。
「悪魔」のカードで言えば、あなた自身が個人的に持っている「悪魔」に対する悪いイメージや意味と、あなたの思いとは別に、人々が一般的に思う「悪魔」からイメージする悪いことという両方があるのです。
そしてここが重要なところですが、あなたの抱く「悪魔」のイメージと、一般のそれとでは、形や意味は違っていても、奥底ではつながっているということです。
あなたにとっての「悪魔」は、意外にも父親や母親、職場の上司なことあるわけで、しかしそれはあくまで個人的なことで、ほかの人の両親が全員悪魔なんてことはないわけです。一般的には、「悪魔」とは、騙したり誘惑したりする存在とか、支配する人、あるいは悪徳そのものみたいなイメージです
しかし、個人的な「悪魔」が、普遍的な「悪魔」とはまったく実際は別物であるのに、本当は象徴の次元ではつながっているのです。
ならば、「悪魔」の象徴そのものをもっと理解し、ネガとポジ、両方を中立的に見ることができれば、あなたが抱いていた特定の人や物事に対する「悪魔」の印象は、浄化されていくことになります。
こうなってくると、少なくとも心理面を通して見方は変わり、現実的にも効果が及ぶのがわかるでしょう。
こうしたことのためにも、まずは、カードの常識的な一面を見るだけではなく、裏の面や意味をとらえ、そらのどちらも受け入れるという見方をしていくと、次第に、高い境地から物事を見る視点が養われてきます。
究極的なことを言えば、一面だけの認識が、あなたを苦しめている原因のひとつでもあるので、見えていない、認識していないもうひとつの側をタロットから呼び起こすことが求められるのです。
これ(両面性での認識)が安定してくると、現実の現象そのものに飲まれ(囚われ)過ぎることが少なくなり、たとえナーバスで影響を受けやすいという人でも、前よりかは、意識を別の次元に飛ばすようなことができて、苦しさや大変さの質が変わってきます。
ただそれは現実として悩みとか苦しいことがまったくなくなるというのではなく、それを感じる、感覚と意識が別になってくるということで、これまでの世界観の選択から逃れていく方向になるのだと言っておきましょう。
私たちの中にある「女帝」と「皇帝」
マルセイユタロットには、ペアや組み合わせとなるカードによって、ひとつの意味や概念を想起させるものがあります。
つきつめれば、この世界の一元と二元の原理とも関係します。
そうしたペアとなるカードの中で、今日は、「女帝」と「皇帝」をとりあげたいと思います。
「女帝」と「皇帝」は、実はその数(3と4)にも象徴性が隠されていますが、それは省略し、「女帝」と「皇帝」で表される意味でのペア性について今回は特に注目します。
そもそも、この二枚は、名前自体が、女帝と皇帝なので、いわば王宮のカップル、夫婦として考えることができます。タロットには、宮廷(コート)カードというグループがありますが、そこに出てくる女王と王に当たると言ってもいいでしょう。
ですから、ペアであることは非常に明白なわけで、お互いに助け合い、共同で物事に当たることで、完成するようになっているわけです。
一般的に女性と男性では、気質も肉体も表現も正反対であるように、「女帝」と「皇帝」では、共同で何かを成し遂げるにしても、それぞれの役割や性質が異なると言えましょう。
おおざっぱな枠組(意味合い)で言うと、「女帝」が創造・企画をし、「皇帝」がその「女帝」のプランを実行に移したり、現実化したりする組み合わせになります。
性別では、それぞれ前者が「女帝」としての女性、後者が男性としての「皇帝」でありますが、あくまで性質と象徴の話であり、実際の性別でそう決まっているというわけではなく、女性でも皇帝的な人、男性でも女帝的な人はいますし、二人が同じ性であっても、その性質が女帝的・皇帝的と分かれて演じられる(役割をする)場合も普通にあります。
ただ、どちらも同じタイプだった場合、企画やアイデアはたくさん出ても、なかなか腰を動かさないペアになったり、逆に、動くことはできるけれどもノープランだったり、ガチガチの現実的でマンネリの行動ばかり・・・というペアになることがあります。
そう、カップルと言っても、何も恋愛や夫婦間のことだけではなく、一般の人間関係や仕事上の関係性での性質の違い、得意分野として見ることもできるのです。
大切なのは、自分の得意なタイプ・気質を知っておくことであり、何かを行う時、自分とは違う性質の相手を選ぶと、うまく行く(目的が達成される)ことが多いわけです。
と言っても、実は、人には得意な傾向はあるものの、それ以外の性質がまったくないというわけではありません。
マルセイユタロットで言えば、すべてのカードの性質は、私たち一人ひとりの中に存在すると考えており、ただ、何らかの条件で自分の強く出る性質とか、得意な傾向の気質があるということなのです。
例えば、こういうことが考えられます。
育ってきた家庭(家族)環境で、父母はいても、兄弟姉妹間とかで、いつも皇帝的役割を担ってきたとか、女帝的にならざるを得なかったとか、学校や社会においてのチーム・グループで、誰も皇帝的役割をしたがらなかったので、それを自分がやっていく中で、そういう性質が癖になったとか、得意になったというパターンがあります。
そうすると、本当は違う役割のほうが本来の自分らしいということもあり得ます。それに後年気づいて、驚き、生き生きとする場合もあります。
ということは、思い込みもいけないわけで、自分は企画なんて無理と思っていても、やってみれば案外、面白いプランを思いつくことができる可能性があり、逆に、自分はマネージメントしたり、企画を現実化するために、いろいろと動いたり交渉したりするのは苦手と思っていても、それは単に経験不足というだけのことかもしれないのです。
では、今度は、「女帝」・「皇帝」について、また違った視点で見てみます。
「女帝」は創造すること、生み出すことに喜びを感じ、「皇帝」は、それを現実に形にしたり、結果を出すことに達成感を得ます。
言い換えると、「女帝」がイメージや想像の世界と関係し(生み出すには、アイデアが必要なため)、「皇帝」はまさに現実と深く結びついていることになります。
ということは、今、現実がつまらない、苦しい、味気ないという人は、何かを生み出していないと考えることも可能です。
つまり、自分が現実世界に対して、何も役に立ってない、空虚な存在のようになっているのです。
これには、自分の創造性が抑圧されている環境にいたり、本当にやりたいことがやれていなかったり、ただ毎日同じことの繰り返しで、まるで機械のように無機質になっていたりする状態が考えられるでしょう。
まさに自分が押し殺されたかのようになっているわけです。
しかし、いきなり自分が役立っていると感じることを発見するのは、毎日の生活の中で難しいかもしれません。それができれば苦労はないからです。
ここは逆転の発想ではないですが、役立つ自分という思いを一時的に切り離し、とにかく、創造すること、生み出すことだけにフォーカスします。
それが役に立つかどうかは考えないということです。
「女帝」と「皇帝」でいえば、この二枚はペアではあるものの、癒着的に見ず、「女帝」のほうだけに自分を置き換えてみるというのに近いでしょう。(「皇帝」と関係させると、実際に役立っているかどうかという視点での検証が入るため)
生み出すことも難しく考える必要はありません。
簡単なモノや料理を作ったり、絵を描いたり、旅行のプランニング(実際に行かなくてもよい)をしたり、ショートな曲や物語を作ってみたり、お金を増やすことをしたり、動物や植物を育ててみたりする(最初の状態より育っていくことが創造とつながる)ことでいいのです。
また自分の持っている情報を人に教えたり、書いたりして知らせるのもいいでしょう。(それが伝わって、ある人に役立つかもしれないからです)
そうして創造の力を少しずつ呼び起こし、次第に、本当に大きな創造、創作へと結びつき、生き生きとした魂の回復がなされ、実際に社会や人に役立つことができるようになるかもしれません。
「女帝」として、自分を生きていることを実感することで、「皇帝」という現実をよりよく生きることができるのです。
注意すべきは、創造性の意欲がまったく起こらない時、それは体力と精神を消耗しているおそれがあり、タロットでいえば、「吊るし」のように、何もしない休養期間を設ける必要があります。(ちなみに、「吊るし」の数は12ですが、ばらして足すと3になり、「女帝」の数にもなります)
逆を言えば、私たちの創造力を奪うには、奴隷のように働かせたり、変えることのできないシステムのように思わせたりして、とにかく精神や体力を失わせることです。余計なことに、力を消耗させていくことも同じです。
さてさて、この今の世の中、私たちの創造性を高める社会になっているのか、逆に失わせるものになっているのか、皆さん自身、考えてみてください。
選択を「手品師」と「恋人」で見る
人生は選択の連続と言ってもいいものです。
毎日、何を着るか、何を食べるかに始まり、どう仕事を片付けようか、どう人と相手しようか、何をして楽しもうか、何を学ぼうか・・・それこそ山のように選択事項はあります。
ただ、毎回毎回それを意識のうえに上らせていたら、たまったものではありませんので、たいてい、ささいなこと・ルーチンなことは、無意識のうちに(無意識に近く)自動選択するようになります。(深く考えずに選ぶ)
しかし、それでも、選択にとても悩むシーンは出ます。それはたいてい、どちらかを選らねばならないと思っているような、二者択一的な場面です。
ところで、マルセイユタロットの大アルカナで、「選択」を象徴するカードといえば、真っ先に、「恋人」が挙げられるかもしれません。
本当はいつもほかの記事でも述べているように、あるテーマそれ自体に、カードそれぞれで象徴させることができるので、「選択」ひとつとっても、もちろん、「恋人」カードだけで表せるものではありません。それでも、テーマに関係性の深いカードというものは出ます。
選択では、「恋人」がまずそうなのですが、ほかにも、今回は「手品師」も取り上げてみます。そして、この両者を見る(比べる)ことで、選択に関わる重要なこと(段階)もわかってきます。
では、最初に「手品師」の絵柄を見てみます。
「手品師」は、テーブルの上に、その名の通り、手品道具を並べて、ある手品をして、大道芸人として観客を楽しませています。
彼の手の持ち物やテーブルの手品道具は、タロットの全体構成で言うと、小アルカナと関係し、彼自体が大アルカナになろうとしている表現だと述べることもできます。
それはともかく、小アルカナと大アルカナの関係は、一言でいえば、現実性と超越性の違いともいえ、簡単に言えば、現実のフィールドを中心として見るか、心や精神、霊的フィールドまで含むかの認識レベルの差です。(いろいろな考え方があるので、これはあくまで見方のひとつです)
となれば、「手品師」は小アルカナの世界を扱おうとしていると見ることができ、それは選択の意味においては、現実フィールドで重要視したり、価値を持たれたりする基準によって選ぶ意味になります。
講座の中では詳細な説明をしていますが、「手品師」のテーブルと彼が持つものには、いろいろな象徴性があり、それらひとつひとつには、現実における選択肢の本質を表していると考えることができます。
さて元に戻りますと、私たちが悩むシーンでは、どちらかを選ばなければならない状況でのことが多いと言いました。それは、結局、現実生活における良し悪しを、なかなかその条件と選択の時点では甲乙つけがたく、判断できないことになっているからと考えられます。
詳しく要素を見れば、お金などの経済的効率・損得、自分の気持ちが満足するかどうか、やりがいや見返り(人からの評価、達成感・貢献感など自己満足も含む)があるかどうか、自己の学びや成長・拡大につながるか、確実性がある(目的のための成果や効果がある)のはどちらか、などで条件が拮抗しあい、迷っているわけです。
どちらかを選択した場合の未来が読めない、わからない、予想が今の時点ではつかないからというのもあるでしょう。
そして、今書いたこれらの現実的諸条件(悩んでいる要素)が、「手品師」で言えば、テーブルの上の小道具であったり、持ち物であったりするのです。
一方、「恋人」カードを見ます。
「恋人」では、手品師のように、道具・モノではなく、人が3人いて、真ん中の人が、両端の女性のどちらを選ぼうか迷っているようにも、すでに心が決まっているかのようにも見える描かれ方をしています。
そして、人間たちだけではなく、上空には、天使あるいはキューピッドのような、人間ではない異次元の存在も現れています。
「手品師」では、一人でモノを選択しようとしていたのですが、「恋人」になると、モノではなく、人そのものの選択が入り、それは逆に、人から教えられたり、示唆されたりして、選択を支援されているようにも見えます。
さらには、「恋人」カードに天使が現れたことで、通常の次元、現実や常識の選択レベルを超えた何かが、この実際の世界にも関与するのだということ、常識を超越した選択の方法や見方があるのではないかということが、わずかですが、示されてきたとも言えるでしょう。
つまり、私たちは、選択に迷い、悩むことで、次第にステップアップし、肉体・現実次元だけではない自分や世界に気づいていくことになるのです。
それは目に見えない部分も含む、統合的・霊的成長と言えましょう。もし霊的なことというのがうさんくさい、なじまないというのであれば、心理的成長と言い換えてもよいです。
心の中は目に見えない次元でありますから、そうしたものまで開いて(受け入れて)自分を見ていくことで、選択の見方・仕方も変わってくるのです。
「手品師」のところでも述べたように、「手品師」レベルの選択は、現実での常識的な損得とか、一般感情レベルの満足、具体的(他人から見ての)評価が得られる条件のもとでの視点(選択基準)でした。
「手品師」が大道芸人であるだけに、人からの評価は、自分の人気、ひいては食い扶持にも影響しますし、対人的に敏感で重要なものになるのもやむを得ないところがあるでしょう。(生活の基盤のため、快楽や喜びのための選択基準)
しかし、他人の目線や常識的価値観ばかりで自己の選択を行っていると、本当の自分を抑圧する選択の方法が習慣になり、自分自身の成長が止まってしまうおそれもあります。
そこで、他人との相談、コミュニケーションを取りつつ、自分と人の違いを認識し、自らが真に望むものの選択を見極めていくようにします。
ここで大事なのは、自分自身を発見したいからと言って、殻に閉じこもっていては(孤独ばかりを選択してしまっては)、結局、自分の個性がわからなくなってしまうので、他人と関わることで、他人に依存したり、流されたりせず、自他の違いを認識しつつ、自分をきちんと持つという過程が望まれるということです。
それが「恋人」カードの三人の話し合いのようにも見えます。
そうした中で、やがて、選択の条件やレベルというものが、現実世界で言われている「よいものを選ぶ」という観点だけが正しいのではないとわかってくる時があります。
自分の心は本当はどう言ってるのか? なぜこの選択で迷っているのか? ふたつの選択のどちらでもない選択というのもあるのではないか? そのこだわっているものに、本当の価値が自分にあるのか? ・・・
カードで言えば、新たな視点は、「恋人」の天使目線で生じてくるとも言えます。いわばそれは内的な声とも言えますし、神性的な発動による気づきの選択でもあり、また、魂の求め(ここにはギリシア的にいう「ダイモーン」のような、善性と悪性の両方の神的悪魔的存在からの介入、誘惑も含みます)によるものもあります。
これらのことから、迷って決められない時は、正解を求めようとしないのが正解という、面白い考えをしてみるとよいでしょう。
どちらかに決められないのは、まさに決められないものだからであり、あなたの視点を今の価値と条件から、はずすか(違う視点と条件で見てみる)、もう、どちらもやってみる、あるいはどちらも選ばないという両極端のような発想の転換を図るか、さきほど述べたように、大変に迷う段階で、すでにその選択肢のどれかを選ぶという意味での正解はないのだと認識し、こだわりを捨てたほうが楽になるでしょう。
神・天使的な目線に立てば、現実界での結果よりも、すべてのプロセスに意味があり、おそらく、どちらの、どの選択肢を選ぼうとも、そこに優劣はないと見えるはずです。優劣があると考えるのは、現実視点での条件・価値で判断しているからに過ぎません。
「手品師」で言えば、テーブルにあれだけ色々と道具が用意されているのが現実世界です。その道具をどう選び、どんな手品をするのか、それはあなた次第で、神目線では、手品そのものの評価より、たとえどんな道具であっても、手品をしたこと自体が評価されるのではないでしょうか。
また、あまたの手品(道具)を選んでやってみる、そして観客からそれなりの(いい・悪いの)評価を得るというも、現実世界に生きる人生の面白さとも言え、選択で悩むということは、それだけワンダーランドな(道具がたくさん用意されている楽しい)世界(に生きていること)でもあると考えられます。
ということは、悩むことは贅沢で豊かなことなのです。